Thursday, October 29, 2009

D言語、行為、選択/11、意味と概念の連結と<仮託>

 コミュニケーションは他者性による自己実現であり、つまり他者を通して自己の姿を知ることであり、自己の中の他者性(他者にとっての自己の存在理由)の相互の確認である。(そうすることで、自己にとっての他者の意味もはっきりしてくる。)そしてコミュニケーションは自己が他者をそのコミュニケーション・パートナーとして選択することと、他者がそうすることの一致であり、同意でもある。だからあるコミュニケーション・パートナーを選択することとは、必然的にそのコミュニケーションの性格や内容を選択することでもあるのである。画家にとっての画家同士、画商、コレクター、批評家との対話には自ずとその性格も内容も異なってくる。被告にとっての弁護士、検事、裁判官とか、テレビ・ディレクターにとってのプロデューサー、スポンサー、出演者、視聴者とか、官房長官にとっての首相、大臣たち、マスコミ関係者たち、党執行部とかも皆そうである。
 「コミュニケーションの意味」とはどのようなものでも、何らかのかたちで、「概念から意味への探索の旅」であり、概念が事物や対象に対する知識をもって成立するものであるなら、「コミュニケーションの意味」とはその概念の平明さと一律的な価値の打破(そのために[相互の<意味の表出>]がなされる。)、自己と他者との意味上の同意(重複領域の確認)へのプロセスである。実際的でありながらコミュニケーション初期はその内容が抽象的なのはあくまでコミュニケーション時の相互の意味から<仮託>された概念のもたらす常套性ゆえであり、その常套性からの離脱、脱却が具体性と現実性への獲得となるのである。だからフッサールやウィトゲンシュタインが到達した地点から我々はコミュニケーションを捉えさえすればよいのである。フッサールが捉えた規範、基礎付け、本質直観、動機付け、といった初期概念(それらはまさに今我々が語っている概念である。)から間主観性、他我、異なるものといった概念もウィトゲンシュタインの独我論(中期)、規則、慣習(後期)といった概念も皆言語活動を誘発したり(F)、発せられた(W)こと自体に内在する前提条件であり、現象でもあった。フッサールのア・プリオリはあくまで現象であったし、そこに至るまでの道のりにはデカルト、ロック、ヒューム、カントらがいたし、ウィトゲンシュタインには他にパース、ジェームスらがいたし、二人には共通してベンサム、ミル親子、ダーウィン、スペンサーらも大きく関与している。そこに西田幾多郎の一元的統一論が西欧近代哲学史的批評学として絡んでくる。西田は主客、自己と他者、自己の身体と自然、善行為と愛が一致すべき地点に哲学的位置を求めた。フッサールが内在と超越と二元的に捉えながらも何処かで現象学的に、形相学的に還元し余分な学や規範概念(神をも含む。)を遮断することで、しかも独自の本質直観を通して全体的統一を図ったことと西田は何処かでリンクする。
 <仮託>の自覚は他者性の非免疫に対する相互の配慮なのだし、<仮託>の返上こそが信頼の構築であり、<仮託>を通してしかその喜捨はなされ得ないわけだから、初期段階からの<仮託>のないコミュニケーションの選択とは信頼構築の可能性に対する放棄でもあるのである。しかも<仮託>はとりわけ信頼の回復には常に役に立ち、再出発の契機ともなるから、我々はそこに立ち帰ることを常に潔しともするのだ。概念はその一元性と不変性において、言語共同体を運営してゆくのに大きく貢献する。意味は個的に多様であり、そこには論理を逸脱する部分を見出せる。しかし論理的部分も同時に失ってはいず、意味の論理、非論理の両義的存在様態が概念の論理的一元性を希求さしむるのだ。概念という一元的論理が意味の不可解を理解するための方策として常に求められることが、一見すべての概念を意味に先行するア・プリオリな論理と化すわけだが、概念の論理的一元性はあくまで全ての意味の最大公約数としてある不動点に落ち着いただけのことであり、意味より概念の方をこそ変更してゆくべき代物なのだ。しかし概念の方からの意味への呪縛がしばしば我々を本末転倒的な原則論主義へと転落させる。だから我々が行為を選択することにおいて、行為の意味を失い概念化した時、我々は行為に対して主観を持てない、責任を放棄すると言うに等しいのである。行為は主体的な責任ある、意味を伴ったものとして追認されるべきものとして認識すべきなのであって、行為をしている最中は行為の認識を出来ないからと言って、一切を責任転嫁することは許されない。行為の選択(主体的な責任あるものとして)はすでに行為する段には内的レヴェルで執り行われているのである。しかもその責任とは行為が概念に沿ったものでもあるような、意味から概念への接近、概念に沿わない意味は意味ではないという意味から、ある行為を遂行することが言語による説明責任(アカウンタビリティー)を有すことが出来るようなものでなければならないのだ。
 あなたが「赤い林檎」について語ろうとする時、あなたが見た赤い林檎を私や他の人は知らない。見たこともないそのあなたが見た赤い林檎を赤い林檎として理解するのは「赤い林檎」という概念によってであって、そこに私は私なりの「赤い林檎」をイメージし、他の人は他の人なりにイメージし、それはあなたが見た赤いりんごとも微妙に異なった全く別個の赤い林檎でありながら、それはどれも紛れもなく同じ赤い林檎なのである。赤い林檎の概念が我々の会話、対話の一切を結びつける。その概念はさまざまの意味の多様な広がりを予感させるものであるが、それらは全く一個の概念によって創出されたさまざまの赤い林檎であるよりは、「赤い林檎」と発言することにより、各個の異なった赤い林檎たちを一個の集合へと結びつける、その場限りではあるにせよ、我々をその言葉、赤い林檎によって結びつけるための場となるのだ。「赤い林檎」はだから、そのように発せられることにより初めて各個の異なった赤い林檎を結びつけるということとなる。コミュニケーションが成立するのは各個が発信者の言った「赤い林檎」を連想し始めた時からである。最初にあなたが言った「赤い林檎」という謂いが私の脳裏に一個の具体的な赤い林檎像を現出させる。それを私はあなたが言った「赤い林檎」という概念へと近づける。その時私はあなたが言った「赤い林檎」という概念と赤い林檎の意味を結びつけて、その「赤い林檎」を含むあなたの言辞を理解しようとするし、それがコミュニケーションの原型となるのだ。
 あなたが「赤い林檎」と発するとき、その赤い林檎を我々は勝手に想像して赤い林檎をイメージするが、我々はその時あなたがいう赤い林檎、見て触って食べたその赤い林檎をあなたが今我々の眼前に持ってきでもしない限り我々はそれを確かめようもないのだから、我々があなたの我々に伝えたい当の赤い林檎を我々自身の勝手な(それはそれぞれ皆正しい。なぜならあなたが「赤い林檎」と概念規定しているのだから。だからあなたは何も「赤い林檎」でなしに、「赤っぽいオレンジ色の林檎」とでも表現していても良かったのだ。)想像でイメージして補っているわけである。我々はだから一見あなたの発した「赤い林檎」というその語彙に特殊な力を感じてしまうのだが、実際はそうではなく、あなたが見て触って食べた林檎をたまたまあなたが選んだ「赤い林檎」という語彙表現,形容語彙を通して伝えようと発する(音声で)あなたが選択したその当の行為が我々に各異なった自分なりの赤い林檎のイメージを抱かしめるのである。だから私がイメージする「赤い林檎」があなたが皆に伝えたいイメージと著しく異なっている場合(それを確認しようはないが)、あなたの選んだ語彙や表現、音声の発し方すべてが絡んだあなたの伝え方が適切でなかっただけのことである。概念規定することとは、だからあらゆる連想を許す場を与えることに等しいのだから、あなたが見て触って食べた個別で唯一の赤い林檎は皆の前で、「赤い林檎」と発せられたその瞬間からある一個の概念として、その場の共有財産となるわけである。だが「赤い林檎」と言う表現が適切であることより、そこから無限の連想を生じさしめることの方が重要であるなら、最初の赤い林檎の正体如何とは大した問題ではない場合もある。もし最初の赤い林檎自体が一番重要であるなら、その形容の仕方、語彙選択、伝え方(発声方法や語調とかの)も細心の注意を払わねばならない。曖昧なまま語彙選択すると、明確なイメージ像現出の目的とは異なったコミュニケーションの形態となる。前者は話の契機を摑むことを目的としており、後者は真実の伝達を目的としている。
 意味の限定をもたらす後者は一見、意味の曖昧な概念規定よりも意味的多様性を少なくしかもたらさないようだが、事実は逆で、意味は寧ろ暈すことの方がよりイメージを限定し(前者)そこにあるものが一般論、概念規定的常套性のみになるのである。
 我々はだからこう定義しよう。意味の多様の理解は概念の限定によって寧ろ促進され、意味の多様はある限定された概念規定をする発話という行為によって作られる(連想の多様を促進するのには意味が限定されている必要がある)、と。だから「林檎」よりも「赤い林檎」の方がより豊かな連想を育むし、「捥ぎたての赤い林檎」の方が更にイメージ像創出に貢献するのである。

C翻弄論 7事実化

 ウィトゲンシュタインの言った像、映像はそれを認識することで事実となる。たが像とは全て過去の行為の痕跡である。記述すること、発話することの全てが像(本、新聞、メール、テレビの映像その他)に記録されている。しかしそれを像として認識し、痕跡を現在に再生させて有用なものにしながら把握すること自体は現在の行為であり、それ自体もまた一つの目的である。
 ここで気を付けなければならないのは、本が出版された時、新聞が店頭に並んで、配達された時は既にそこに書かれている文字は過去の痕跡である。そしてその時それを書いた人間はそれを書いた時とは全く異なった別個の行為を目的として今現在どこかにいる。もう既に全く違うことを考えているということである。しかしそれでもそれを今読めばそれが今現在のこととなる、少なくともそれを読んだ者にとっては。自体存在的な理性に照らして言えばそれくらいの長期的スパンでなかったならそれを書いた人間の思想はそうは変わるまいという前提に立っている。それは本ではある程度当たっているが、新聞では当て嵌まらない。新聞を読む者はそれを個人の発言とは受け取らない。事実報告と見做す。映像でも事情は同じだ。しかし生中継でない限りそれは過去映像である。過去映像だからこそ、何度も反復可能なのだ。それらは恣意的に作られた記事であり、映像である。
 映像が現代においてこれだけ隆盛を極めていることの最も大きな理由は、マスメディアにおいてリアルタイム状況と出来事の進行が映像の中継で、あるいは過去出来事においても現在進行形の如き様相で全てを一瞬に伝えることが出来るからである。それは活字にしたものを事後的に時間をかけて読むという行為からは決して得られない特質があるのだ。映像はその意味では文字だけの情報による理解し難い部分のミステリアス性を一瞬で氷解させてくれる。文字がどんなに早く印刷されて、早く送信(メール類一切)されても、それはあくまで行為(記述すること)が過去化された痕跡としての体裁であることには変わりない。(チャットは除く。)そこで中継は大いに通信の時間短縮性において意味を持つ。だからリアルタイム映像でことの成り行きを知っている者にとって、それが事後的にニュースとなって伝えられても(それは国会中継であってもスポーツやオリンピック中継であってもワイドショーであっても)自分も半ば参加していた出来事がどのようにニュースとなって報じられるかという好奇心からそれを見るということとなるのだ。そこで実際のニュースソースに立ち会っていた人間(中継を見ていた人間のこと)は、ニュースが独自の切り口で編集されている、全体のほんの一部だけが切り取られているということに覚醒するのである。そういう感想は実際の出来事をニュースでしか知ることのない人間には持たれないものである。尤もリアルタイムではないもののメールの有用性はあくまで他者のプライヴェイトな時間を干渉することを回避させる(メールはかなりあとになってから知らせてもよい内容を選んで伝える。だからと言って近い内にということであり、一ヶ月に一回しかメールチェックするような非常識な人間は相手にはしていないが)意味合いがあるとは思われるので、リアルタイムは映像の中継に、それ以外はメールにという風に、役割分但させているのが現代の通信事情というものであろう。

Tuesday, October 27, 2009

B名詞と動詞 4、記憶想起における願望による歪曲と生理的欲求に歪曲される想起内容や真意の所在

Ⅴ‐語ることが目的な言辞(あるいは文章)と語ることが未来の目的へと向けられた言辞(あるいは文章)

 語ることそのものが目的であるような言辞やその文章は明らかに自己と他者の関係が密となり真意内容を全部語らずともその真意や意図が相互に汲み取れるような形態(他者信頼の充実がある。)でのコミュニケーションで示される筈である。これに対して語ったことそのものが後日の真の目的性へと奉仕するような言辞とその文章はあくまでその為の手段であるようなコミュニケーションで示されよう。ここでは真意表出が至上命題であるし、概念化作用としての他者理解が要となる。そこではその理解と仕方そのものの自己と他者の合致が求められ、他者‐自己連関の社会認識を堅持しようと欲する姿勢に裏打ちされている。
しかし今ここで理解ということの本質をしかと見極めておかなければならないであろう。
というのも理解ということが目的性を意志伝達に与えるからである。目的性が意志伝達自体であるということは真意が容易に汲み取れる関係において成立するし、敢えて真意を推し量る必要のある意志伝達は後日しかと意志伝達を取るか否かを相互に探り合うことが目的となり、その目的へと向けられた手段(相互の意志<今後意志伝達をするべきかどうかという>の探り合いの為の)となる。理解はそういった真意の汲み取りそのものである。
 今後意志伝達する意味が相互にあるのかどうかを模索する真意と真意のぶつかり合いである。この場合理解は努力によって引き出される。一個は文法的理解である。そしてもう一個は内容的理解である。相互の真意を既に探り合う必要のない関係での意志伝達においては文法的理解<内容的理解が通常である。また逆に真意を探り合う必要のある親しさの度合いが希少な関係においては文法的理解>内容的理解が通常となる。これは勿論先行する意志伝達における理解における性質であり、両方とも小さい方もやがて大きい方に追い付くのである。前者は意志伝達自体が最初から目的となり、後者はまず意志伝達が手段となる。しかしそれもやがて意志伝達拒否させなければ目的となってゆく。文法的理解よりも内容的理解が大きい場合は率直さが主たる要素となり、文法的理解の方が大きい場合は形式的同意が主たる要素となる。しかし記憶すべきであるか否かはこの二つの理解が自己にとっての重要度に比例する。
 というのも人は通常文法的に理解しても共感し得ぬものは記憶しないし、また逆に文法的に理解し得ないようなものでも言わんと欲する真意を汲み取り共感するものは記憶する。勿論逆に反感を持つものは通常記憶しない。その話者が殊更重要な事項、つまり自己の天敵とかであるような場合以外は。
 しかしそれ以上に重要なのは、文法的理解先行型においても内容的理解先行型においても同様なこととして、伝えようとする意志の表出が陳述を構成しているという一事である。そしてそれは表情、語調によって伴われており、叙述する事項に関する感情的意味合いもまた表情、語調によって表現されるし、伝達意志によって指示された内容は大きくこれに左右される。どんなに重要な事項さえも素っ気無い口調や無表情で言ったら、その重要性は容易に右の耳から左の耳へと通り過ぎよう。
 これに対して文法は内容を盛る容器である。これは論理的に意志が伝達されることを目的とした形式である。故に意味作用的(シニフィア的)である。

 以下のことを綜合して考えてみると言語活動においてある陳述が示すことは文章自体が目的語化したものも相当数あり、その文章自体の目的語化はあくまでその文章を成立させる前後関係において意味を持ち、それは同じ語彙を使用しても語順の配置によって大きくその文章のメッセージを変える。あるいは能受動の関係を転換するだけで同じ事実陳述が大きくその様相を変える。(陳述自体のスタンスもその陳述された内容も)また言辞の様相も大きくその意味を変える。言辞一つでその文を発話したり記述したりする当の本人のメッセージ受信者に対する態度や位置が明確に変わってくる。まず語順の配置転換によって変わってくる文章のメッセージ的な意味について考えてみよう。しかしその際出来るだけ内容的には挑発的なものを避け、日常的に平易のものにしようと思う。(そうでなければ陳述すること自体の大きさに気を取られ、語順によってその意味を変えること自体に意識が向かわないからである。)まず日本語で、次いで英語で同じ意味の文章を考えてみよう。

私は東京へ仕事で行った(んですよ)。(基本形1)

私は仕事で東京へ行った(んですよ)。(変形1)

私は行った(んですよ)東京へ、仕事で。(変形2、A)

私は行った(んですよ)、東京へ仕事で。(変形2、B)

私は東京へ行った(んですよ)、仕事で。(変形3)

私は行った(んですよ)、仕事で東京へ。(変形4、A)

私は行ったんですよ仕事で、東京へ。(変形4、B)

私は仕事で行った(んですよ)、東京へ。(変形5)

この文章群は全てまず「私は」から始まるものであり、それだけに関してまず考えてみようと思う。(変形5)は明らかに他ならぬ仕事で行ったということ、つまり遊びで行ったのではないということの強調が感じられる。つまりそれはこの陳述以前にそういった観光とか休日とか旅の会話があったであろうような痕跡が伺える。それに対して(変形2、B)は「行った」ということの強調である。(変形4、A)は「他ならぬこの私が」行ったということの強調であり、もっとそれを強調すれば「私が」ということとなる。しかし仕事で行ったということと、私が行ったということの両方を強調する場合(変形4、B)となる。(変形3)は東京へ行ったということ、大阪でも名古屋でもなく行く先は東京であったことに関する強調である。あるいは「東京へ」と「行ったこと」と両方強調したものが(変形2、A)で、(基本形1及び変形1)は語順そのものからではなく東京へ行ったことについては一般的には基本形、また仕事で行ったことについては一般的には変形1が該当するものの、ストレスをどこに置くかどうかによって大きくその主張は変わり得るし、また上記した全てにそれは当て嵌まる。しかし一般的にその語順から察せられることに関してはこの語順にはこの事項の内容強調であるということが明白であり、それは発話によってもそうであるし、ストレスを記述出来ないエクリチュールの場合はこの秩序で読者が理解するということは順当なことである。またそれぞれ強調したいことのみを残して後のものを省略することも可能である。例えば(変形5)は「仕事で行ったんですよ、東京へ。」あるいは[仕事で、東京へ]あるいはもっと「仕事で」あるいは「仕事」ということとなる。それは前後関係において先にかわされた会話内容による。もっと例を挙げるなら(変形4B)は「私は行ったんですよ、東京へ。」あるいは「私は行ったんですよ、仕事で。」ともなるし、後で出てくるが倒置法で「行ったのは私ですよ。」となるともっと「私が」が強調されることとなる。あるいは「私ですよ。」がもっと短い伝達で、これは「行ったのは誰ですか?」という質問を受けてのものであり、「私」が最短のものであり、これは「行ったのは誰?」という、どちらも三人以上の会話で成立し得る。(変形3)は「私は東京へ行ったんですよ。」あるいは「東京へ行ったんですよ。」ともなり、最短では「東京ですよ、行ったのは。」か「東京ですよ。」あるいは「東京」となる。これも最初から順に「大阪に行ったんでしょう?」(前二者)、「行ったのは大阪でしたよね?」(その次二者)、「行ったのはどこだっけ?」(最後二者)が質問として該当すると思われる。勿論全ての文から「私は」を省略出来ることは言うまでもない。

 次に倒置法をも含めた多くのこの事実内容の文章から引き出される語順のものを見てゆこう。
(変形5)において示された「仕事で」を強調したい場合は自然に「仕事で」を初頭に持って来れば良いのだ。それには次のような形が考えられる。

仕事で私は東京へ行った(んですよ)。(基本形2)

仕事で東京へ行ったんですよ、私は。(変形1´)

仕事で私は行ったんですよ、東京へ。(変形2´)

仕事で行ったんですよ、私は東京へ。(変形3´)

仕事で行った(んですよ)、東京へ私は。(変形4´)

仕事で東京へ私は行った(んですよ)。(変形5´)


(変形1´及び2´)は補足的な言辞である。「私は」や「東京へ」は予め会話に出てきた事項であるから一度は省略しようと思ったけれども誤解を招かないように補足したような言辞である。それよりはより(変形3´)は「東京まで(恐らく遠い地方から)仕事で行ったというニュアンスが強く、また(変形4´)は他ならぬこの「私が」行ったという事実が強調されている。その次に東京まで行ったことが強調されているのが(変形5´)であろう。(しかしこれは少々不自然な文であるが)そして同じように東京へ行ったことが強調されているのが(変形1´)であるが、この場合のみこの「東京へ」にストレスを置くことは無理がないし、不自然でもない。あるいは(基本形2)も同じように東京へ行ったことが強調されている。しかしこの場合既に東京という事項は話題に上っていた公算は強く、その為に補足的な印象を与える。
 ストレスの強調ということは語順と無関係にあり得るも、(変形5´)を「私は」の部分や「行った」にストレスを置くことは可能性としてはないではないが、かなり不自然な言辞であり、やはり基本的には除外すべき対象となろう。それは言い間違いに近い。特におかしく感じられるのがこれであるが、他の全てもやはりそういう風にある途中で出てくる部位にストレスを置くよりは「私は」や「東京へ」等を文頭へ持っていく方が自然であり、ストレスをわざわざ置かなくても(変形1´及び3´)は「私は」ということが強調されている。この場合は却って「私は」のストレス布置はおかしい。しかしもっと私を強調しようとすれば「私は」を前の文章から位置は変えず、句点を打つ場所だけを変え「私は」だけを孤立させるとより効果的となる。(下図参照)あるいはより「東京へ」を強調したい場合は(変形2´)が既にかなり強調されているが、下に示すように別の可能性として(変形3´)も考えられる。


仕事で行ったんですよ私は、東京へ。(変形3´B)<「東京へ」を強調>

仕事で行ったんですよ東京へ、私は。(変形4´B)<「私は」を強調>


「行った(ですよ)。」あるいは「東京へ」を文頭に持ってゆく場合について最後に考えてみよう。「行った(ですよ)。」の場合は「行く筈がない」あるいは「行ける筈がない」という観念を前提した会話上の言辞である。また「東京へ」を文頭に持ってゆくと、東京以外の場所へ行ったと思われているか、あるいは東京へは行けはしない(かった)であろうと他者が思うに違いないということを想定している言辞である。他者推測の否定を意味した逆肯定の言辞である。この種の受け答えはあくまで前後関係において意味を生じ、これだけを取り出しても中々伝わらないということもないが、決して順当ではないし、また多少の不自然さは拭い切れまい。まず「行った(んですよ)。」そして「東京へ」を文頭に持ってきた言辞例を下図に示そう。

行ったんですよ、私は東京へ仕事で。(基本形3)

行ったんですよ、仕事で東京へ、私は。(変形1´´)

行ったんですよ、私は仕事で東京へ。(変形2´´)

行ったんですよ(、)東京へ、仕事で私は。(変形3´´)

行ったんですよ(、)東京へ、私は仕事で。(変形4´´)

行ったんですよ、仕事で私は東京へ。(変形5´´)

東京へ私は仕事で行った(んですよ)。(基本形4)

東京へ仕事で私は行った(んですよ)。(変形1´´´)

東京へ仕事で行ったんですよ、私は。(変形2´´´)

東京へ行ったんですよ、仕事で私は。(変形3´´´)

東京へ私は行った(んですよ)、仕事で。(変形4´´´)

東京へ行った(んですよ)、私は仕事で。(変形5´´´)

 前者の「行った」を文頭に持ってくる場合は行く行為、事実に比重がかかるのは当然のことであるが、反語的なニュアンスが濃厚である。また「東京へ」を文頭に持ってくることは、何か東京のことに関して話題が既に出されていて、補足的にあるいはたたみかけるような反復効果として東京のことを持ち出す、連鎖、連動的な言辞の場合に多いと思われる。そうでなければ東京に行くことが話者同士で珍しいと思われる場合だけである。
 まず「行った」を語頭に持ってくる文では殆どそのことを言いたいだけで、後は全て省略出来るといっても決して極端ではない。ただその次にどれを特に強調したいかということだけが語順を決する。その点では「東京へ」もまた東京へ行ったことだけを強調しているが、「東京へ」は仕事と同格であるが(仕事に関して話しが進行しているか、あるいは東京自体が話題に上っているかによってどちらを文頭に持っていくかが決まるのである。)、「行った」は仕事であれ、遊びであれ、行ったことがあるかどうかが問題であり、それを文頭に持ってくることはより特定指示的、強調的である。
 はっきりさせておかなければならないのは、このような幾つかの異なった文頭を持つ文章であれ、いずれも同一の前提と主要叙述があるということであり、前者は主語、後者は動詞である。名詞である東京と仕事は会話中でも書記中でもその発話、記述最重要事項としてその都度選択されるに過ぎない。それを下図に示そう。

主語(私)=前提       



内容<動詞>(行った)<住んだ、滞在した他>=叙述前提


↓          ↓


目的語(東京へ) 補語(仕事で)

 目的語と補語は発話や記述、つまり陳述においては同格であり、また叙述前提の上で成立する関心領域的な主要事項である。
 この前提を踏まえて、陳述を成立させる会話、書記状況から、既に「行った」という過去事実が基本にあり陳述自体が過去形によって表現される内容だと前提されている場合、殊更「行く」という動詞の報告意志が強烈に立ち現れることはない。つまりその場合、これから行くということの上に成立しているのではないのだから、他の報告事項の重要性に順位をつけると、上から、
 
私、仕事、東京(基本形3)
仕事=私、東京(変形1´´)
私、仕事=東京(変形2´´)
東京、仕事=私(変形3´´)
東京、私=仕事(変形4´´)
仕事=東京、私(変形5´´)

という風になる。
また「東京へ」が報告事実として前提されている場合の他の報告事項の重要性に順位をつけると、

私=仕事、行った(基本形4)
仕事、私=行った(変形1´´´)
仕事=行った、私(変形2´´´)
仕事、行った=私(変形3´´´)
私、行った=仕事(変形4´´´)
行った、私=仕事(変形5´´´)

という風になる。(変形3´´´)では既に行ったことが話題に上っており、その行った場所の特定に文の関心集中化が行われており、よって「行った」とその行為主体者の「私」が同格になるのである。
 言語は存在論的には品詞自体に独自の役割があるが、その組み合わせ、つまり語順、語調の入れ替えによって相対的に品詞の存在意義の優劣をその都度変化させる。「行った」を文頭に持ってくる遣り方は明らかににエピソード叙述に関しては副詞句的なメッセージ性を用いている。というのもここで示される動詞は付帯的な体裁であり、完全に文全体を目的報告的なメッセージという伝達様相にしているからである。
 今ここに挙げた例はあくまでただ単なる事後的な報告文である。しかしこの東京への仕事での訪問に対してある感情、ある心理的な印象を叙述した内容文について暫く考えてみよう。

<基本的な概念構成=東京への仕事での訪問→楽しい経験という印象、感情的な位置づけ>
仕事で行った東京は楽しかった。(変異形1)

仕事での東京行きは楽しかった。(変異形2)

仕事で行った東京だが楽しかった。(変異形3)

仕事での東京行きだ(った)が楽しかった。(変異形4)

仕事での東京行き(だった)にもかかわらず楽しかった。
(変異形5)

東京での仕事は楽しかった。(変異形‐省略1)

東京の仕事は楽しかった。(変異形‐省略2)

先ず(変異形1及び2)は順当な表現であり、特に内容的には変わったところはない。敢えて指摘するなら前者が「仕事で行った東京」が内容的には「仕事で行った東京での生活、あるいは滞在中の出来事」ということであり、後者は「仕事で行った東京の訪問全体を振り返った印象<事実>」ということである。(主語節の叙述内容)
それに対して(変異形3及び4)は、意味的には通常仕事での訪問とは楽しくないものである、という言外の考えが示されている。そして行く前は楽しくないと思ったのだが、いざ行ってみると予想外に楽しかったということが全体的な意味内容である。(変異形5)は意味内容的には前二者と同じであるが、「かかわらず」という副詞によってより以上の意外性の強調となっている。また(変異形‐省略1、2)は色々な場所で仕事をしたけれど、とりわけ東京での仕事は楽しかったという特定状況への言及であると察せられ、同時にそれ以外での場所での仕事に関する話題も既に上っていることも推測される。
 一つの陳述は、その陳述が言辞的な様相性に依拠しながら、それが自己充足的な叙述である場合(述懐的、詠嘆的陳述)<この場合には原則としては文章としての体裁が明示されており、論理的充足が前提となる。しかし親しい者同士では省略した言辞は充分考えられるから顕現されたもののみを取り出しても意味はない。要は対話においてどのようにその言辞が対話者たちに作用するかが問われるのである。>と、その陳述が別の話題へと転化することへと奉仕したり、あるいは今後の意志伝達の為の糧として作用させたり(誘導的陳述)という、つまり自己目的的な陳述と手段的な陳述とがあり得る。そのような観点から今度は考察してみよう。ある「語られた言葉」は文章という体裁で考察することも可能であるが、根源的な意味では伝達意志表示としての言辞であるから、文章以前の言葉として考察することも必要であろう。そういった考察態度から本章表題の示す分析スタンスにおいて、その分類が意味するところを考えながら、同時に今まで取り上げた例分はどのように位置づけられるか見てみよう。
 
 一般に名詞化された形容詞は述懐的、詠嘆的である。それに対して動詞化された形容詞は誘導的である。目的的(語ること自体が目的であるという)な陳述に奉仕するような述懐性が「名詞化された形容詞」の心的様相には内在するのに対し、手段的な陳述に奉仕するような誘導性(他の話題や後日の話者同士の友好的、非友好的とにかかわらず接触機会になされる会話内容に奉仕するような)が「動詞化された(つまり諦観とは反対の未来志向的で変更可能性に満ちた)形容詞」の心的様相には内在していると思われるからである。しかし勿論ことは形容詞のみではない。本質的には名詞であろうと動詞であろうと陳述全体に対して叙述要素であるということに関しては同一条件下にある。副詞はちょっとそこのところが違う。副詞は形容詞と質的には似ているが、補助的であるので、形容詞に付帯する時には形容詞の性質に依拠しやすい。しかし単独に使用される時には(つまり動詞を修飾する場合のみ)動詞にのみ奉仕する。ここに副詞のニュアンス指示性がある。
 ところでまだ取り上げていなかった品詞が二つある。格助詞(英語ではほぼ前置詞に当たる。)と接続詞である。接続詞から先にゆくと、これは繋辞をする役割に他ならない。そしてこれから述べる手段的陳述においては、この繋辞が最も重要な役割である。誘導的であるところの手段的陳述は繋辞的なものでもあるのだ。その一番顕著な例は疑問文である。あるいは依頼文もこれに相当する。(疑問文は広く言えばこれも依頼文の一部である。というのも疑問文は自己が発する疑問に答えて欲しいという請願であるし、依頼であるからである。)というのも疑問文は全てある別の陳述、つまり他者の意見、発言を得る為になされるものだから、繋辞的である。格助詞、前置詞に関しては次章に譲ることにして、まずこの繋辞と、それに対して存在する判断的、結論的な目的的陳述との関係、性質的な差異について考えてみよう。
 つまり手段的陳述は<機能的>であるのに対して、目的的陳述は、<対象志向的>である。目的的陳述の一番顕著な例は命令形である。尤もこれはある状況において階級的序列や命令意図を示すための手段となる。あるいは請願でも生存危機や自己防衛の為になされるような自己に対する不当な行為の中断を緊急に請願する場合の陳述が挙げられる。(これだけは一般の請願とは事情が違う。)次のような例を挙げよう。
「さっさと仕事を終わらせろ!」
「やめてくれ!」
それに対して述懐的(過去に対して)及び詠嘆的(現在に対して)である目的的陳述は次のようなものが考えられる。
「いい人だったなあ。」<一般に亡くなった人に対して>(述懐的)
「うわー、綺麗な花だなあ。」(詠嘆的)
「やっと終わった。」
また名詞化された形容としては
「凄い、(凄く)高い山だなあ。」
とかが挙げられる。それに対して、
「いい人だったねえ。」
「うわー、綺麗な花だねえ。」
「やっと終わったね。」
「凄い、(凄く)高い山だねえ。」
などは全て心的様相的には手段的陳述となる。というのもそこには他者(対話手)へと同意を求めているからである。(英語では付加疑問文となる。)だからこれは目的的陳述の体裁を取ってはいるものの性格的には依頼とも共通した他者への請願、共感して欲しいという願望が含有されているから手段的であるのである。(「なあ」という言辞は男子では女子の「ねえ」と同じ役割を果たす場合があり、その場合は手段的であろう。しかし独り言を他者にもそれとなく聞かせるような場合、それは目的的である。自己に対する対話が他者との対話中になされるということ<他者の同意を求めずに>はよくあることである。それは意思表示とも受け取れる。また女子が「なあ」より「ねえ」を多く使用するということは女性の共感誘導的な性的特徴を表している気がする。)
では勧誘はどちらに属するのであろうか?
 勧誘は依頼と詠嘆の中間のものである。というのも他者に何かを勧誘するということは他者に自己の欲求を同調させるべく素地として「ねえ」詠嘆と共存した同意請願意図(心的様相的に共有することを確認したい)が仄見えるからである。
「あーあ、疲れた。ちょっと一休みしようよ。(しない?)」
も同様(目的的陳述と目的的陳述の中間、つまり勧誘)である。それに対して
「あーあ、疲れた。ちょっと一休みしよう。(かな。)」(「止めた。」と同じである。)
は逆に手段的陳述である。この陳述の持つ言辞性は恐らく我々の中にある「同意して貰えなくても自己の決断は揺るぎないぞ」という誇示の意識が備わっている。周囲にその言辞を聞く人間がいようといまいと休む積もりなのだから、周囲に人間がいたらいたで、「まだ休んじゃ駄目だよ。」と言わせないように敢えて聞かせようという意識である。その意味でこれは独り言以外の場で言われる時には厳密には詠嘆ではない。「あーあ、疲れた。」と言うだけなら、それは詠嘆的であり、目的的な言辞であろう。

 さて品詞の分析もいよいよ大詰めになってきた。最後に残されたのは助詞の世界である。これは英語では前置詞である。しかし前置詞には色々の種類があるが特に分類はないが、日本語では英語の前置詞のいくつかは格助詞、いくつかはただの助詞である。
 格助詞は主語の叙述を円滑にするばかりか、動詞の持つ方向性や場所、時間的な状況性を示唆する。動詞が目的語、目的節(名詞及び名詞句)に対して動作がなされていることの言及であるような意味で自動詞の動作自体の向けられた方向性に関する叙述を副詞、副詞句的に指示す。尤も日本語には主語に付帯するまさに膠着語ウラル・アルタイ語系言語としての面目躍如たる「は」、「が」、「や」、「と」(後者二つは英語では接続詞。)といったものがあるが、前者二つは英語にはない。このことは別論文で述べようと思う。
 また通常の助詞(英語では前置詞)は「まで」、「から」、「より」は場所移動の比較において二地点、二つの事物を関係付ける。

 今まで主に対話の前提について考えてきたが、全く触れてこなかった問題は音韻的側面からのアプローチである。それには理由がある。音韻論そのものは極めて音響学的な学問である。しかし言語にはその音韻を発生させる基盤としての口蓋とかの身体生理学的な機能というものがあるけれど、それを物理的に発生させるものの追求はその専門家に道を譲ることとしよう。だがそういった学究でさえ最も見落としてはならないこととは、言語とは音を弁別するということである。あるいはもっと言えば弁別しているように他者に理解させようとすることである。となると例えば病気になった患者が何を言っているかは、それがかなり発声にも影響を与えるようなものである場合、親族だけが何を言おうとしているかを判別出来るというような現実、あるいはまだ言葉をやっと少し覚えたての幼児が何を言おうとしているかは母親だけは直に了解出来るというような部分から我々は言語を考えてゆかねばならないということを意味する。まだ日本語を習いたての外国人が何とか語彙と語彙を繋ぎ合わせて意志伝達しようと試みることを我々は何とか理解出来ることも多い。それはその外国人のメッセージを何とか聞き取りたいと願うから理解出来るという側面もあるのだ。それと同じことである。最も大切なこととは語彙と語彙、つまり音と音を弁別して個々の意味へと対応させ、それをある一定の統語的な秩序に当て嵌めるということこそが偉大なる言語学者たち全てが主張してきたように最も大切な事実である。そういう意味で本論では語調とストレス、そして抑揚、音節(シラブル)に限って考えてゆこうと思う。ただ日本語と英語ではかなりの違いがある。そこで英語は別論文で扱うが、その音節化の最も基本的なこととは何なのかということにだけ絞って個々の事項を考えてみようと思う。
 音節の歴史は恐らく人間が発話する語彙を通した意味内容の形成という観点から伝達意志とも大いに関係があるであろう。また抑揚の歴史は欲求(生理的にも心理的にも)に大いに関係があるであろう。あるいはストレスもまた意志とも欲求とも大いに関係があるであろう。そういう観点から考えてみよう。
 例えば個々の語彙そのものはある意味<その意味には叙述機能的(動詞、形容詞、副詞→動作、様相)や叙述指示的(名詞→事物、事象、現象)の二つがある>が、ある恣意的な事情(言語共同体毎に異なる。)で弁別された音韻を通して顕現されるし、またそのような顕現を意志して初めて言語活動に加担しているという意図を相互に汲み取り発話行為は対話となる。その意味では弁別とは聞き取り難い発声法の人でも、それが弁別されておれば何とか伝達だけは成就するものである。そして音韻に関しては意味的な対応であるが、統語は本論でも触れてきたように語順としてその強調したい事項の配置に関係があり、その語順としての配置性が伝達内容と感情様相の伝達意志を相互理解規範の俎板に載せる。統語とはだから、あくまである恣意的対応に基づいてなされるレキシコンからの任意な語彙選択をやはりもう一つの規範である特定の各言語固有の統語性に則って話者がそれを信頼していることを明示する表情と態度で利用されるのだ。ここに意志伝達における共同体通用言語への相互信頼という運命共同体的な思念が成員間での暗黙の同意となるのである。

 最後に日本語の「です」、「ます」について考えてみようと思う。目的的であるか手段的であるかと言えば、この二つは特有の省略を持っている。「です」に関しては「 これは~です。」となると英語だとThis is ~となるように思われるが、実際英語ではこのような言い方は殆ど見られない。Here is~ということの方が多いと思われるが、実際日本語の「これは~です。」はそれとも微妙に違う。恐らくこれは英語に直すとI believe this is~へと対応するものと思われる。あるいはその都度の語調によって段階的にI suppose~やI thinkとかになり得る。「ます」もその語調によってI’m supposed to~やI’m going to~やI willとか未来意志やIt becomes~ やIt makes~(英語ではこちらの方が多い。)になり得る。日本語においては語調を強めてそれらを言えばIt’s just~やI absolutely think~となる。これらは所謂敬語というのとも少し異なる。「思われます」が客観的言辞である。敬語だと「存じます」となる。語調を弱めて「です」、「ます」を言えば英語では寧ろyou knowに近くなる。こういったことに関しては別論文で取り扱おうと思う。ところでこの「です」、「ます」は文章自体が目的語(格)となっている最も顕著な例である。そしてそういうことを常習的に使用する日本語は心的様相としては全部言い切らないで多少の含みを残して表現することを潔しとする文化的体質が反映されている。それは雅的に会話自体を目的的にすることを一方で尊びながらも同時に常に未来への契機として手段的にこの対話関係を聴者との間で継続してゆこうという意志を表明した言辞であると言えよう。だからこれは美徳的には手段的に一つの陳述を持とうとしながらも(文章自体を目的語(格)にする)、このように最後に付け加える仕方で表明することを日常的にする意図からは明らかに目的的、つまり友好関係維持表明型の言辞である。日本語は性善説にたった言語である。
 では英語はそうではないかと言えば、ある程度そうではないと言える。しかしこれはかなり哲学的であり文化人類学的な命題なので、改めて別論文で取り扱おうと思っている。

A言語のメカニズム 11、言語に対する問いの誕生、社会的偽装

 個々の具体例に入る前にまず言語行為を考察する行為自体の歴史について触れておかねばなるまい。哲学において言語行為、あるいは言語そのものは古代より最重要な事項の一つであったが、秩序ある社会を形成するために法律、道徳的倫理等の概念に対する追究がことに急務として求められてきた(その間には宗教的論争や宗派ごとの攻防があったこととも関係しているが、筆者は歴史家ではないので、古代、中世、近代という区分につきものの歴史学的認識には触れない。)ことが、言語行為自体の考察よりも社会的行為の実践における付随的言語行為という側面にのみ依拠した論究が大半を占めてきたように思われる。デカルト、ヒューム、カントといった先達がその哲学を推進する過程で不可避的に言語の問題に突入せざるを得ない、というのが我々に時代に課せられた課題であるにもかかわらず、フッサール、リッケルトあたりの哲学者に至るまで、言語行為自体は全て暗示的なものに留まっていた、ということも事実である。それをある程度打破したのがウィトゲンシュタインであり、カルナップであったと言うことは出来るだろう。それ以後哲学(主に英米系を中心とした)ではエイヤー、ライル、オースティン、ストローソン、ダメット、チザム、デヴィッドソン、フォーダー、クリプキ、マッギンといった言語行為についての多くの論究者たちが登場したことと、更にフランスを中心とした実存主義以降のラカン、メルロ・ポンティー、レヴィナス、ドゥルーズ、フーコー、デリダといった哲学者たちが構造主義(ソシュール、ヤコブソン、レヴィ・ストロース等の言語学者、人類学者たちをそう呼んだ。)以降の思想界においてポスト世代と呼ばれたことと相まってじきに言語行為自体の検証が世界的波となって、精神分析や心理学といった分野、あるいは遺伝子工学や分子生物学、大脳神経学、行動生理学においても認知言語学や発達心理学的視野とオーヴァーラップしながら発展してきた、という経緯がある。今日言語自体に触れることはようやく一々の前提条件を申し述べることなく可能となっている。
 本論では行動生理学的視点(社会学的、人類学的認識が要求される)ではあるが、言語心理学的視点とオーヴァーラップするかたちで大脳における認知作用と言語学的構造力学とも交えながら考察してゆきたい。その中でもまず言語の問題にいかに哲学者が頭を悩ませてきたかを、具体的例を挙げながら考えて行ってみよう。
 私が先に示した段階的図式(手段→目的→手段)は実際の人類史的真実とも思われるが一個人の、ヒトとしての一個体における個体発生は系統発生を繰り返す、というヘッケル流の謂いを借りてもいいが、そういう個体の歴史、個人の歴史においても相同であり得ると思われる。ことに哲学者がその一生を通じて自らに思想的形態を構築してゆく過程そのものが極めてこの段階的秩序を踏襲している、と思われる。もっとも最初のサヴァイヴァル・サインとしての段階は一足飛びに第二段階に突入していることは言うまでもないが、それ以降の第二段階、第三段階、そしてその後の言語行為再認の段階(まさに我々は今それを実践しているわけだが)においては極めて忠実に彼らは反復しているのである。
 さて我々が他人、つまり日頃親しく交流していない気心の知れない人、初対面の人などから「好きな音楽は何ですか?」というような質問を受けたとしよう。例えば新入社員の合コンとかの場でだとしよう。その時今をときめく若者にも人気のある誰もが知るミュージシャンの名前でないものが好きな場合、一般的に新入社員なら「あまり今ヒットしているものでないちょっとマニアックなものが好きです。」とか「変り種が好きです、カルト的な奴が。」とかいきなり固有名詞を使用せずにそういうお茶を濁した言い方を最初はしよう。そのあとで「じゃあ具体的なアーティストの名前は?」と聞かれると、その質問者の顔色を伺い変った返答をして「それは変ってますね。」とか言いそうもないタイプの人であれば、初めてその時に固有名詞をあげつらうことが多いだろう。真意をいきなり漏らすのは勇気がいるし、とりわけ親しくない初対面の人に対してはそういう予防線を張ることはある意味では当然の行為である。つまり我々はそのような公衆の面前での偽装的振る舞いを知らず知らずに遂行しているのである。本当はそういうことは一切気にする必要もないのかも知れないが、皆が知っているミュージシャンの名前以外は、質問してくる世代の知っていそうもないものならいきなり固有名詞を言わず、寧ろもしそれを言ったとしても「~と言うミュージシャンですけどご存知でしょうか?」とかを付け加えて返答しよう。これらは明らかに我々が日々行っている真意の隠蔽である。
 あるいはこういうことがあるとする。凄く太ったそれこそ座っている椅子が隠れてしまうくらいの肥満な人が飲食店に訪れたとしよう。彼(女)がいくつもメニューを一人で食べるために(普通の人なら一つのメニューで充分な量なのに)注文したとしよう。その人の将来の健康のことを考えるなら「お客さんそんなにいっぺんにご注文なさらない方がいいですよ。」と忠告した方がいいかも知れない。しかし一元の客に対してそういう忠告などまずしないものである。(よく行く行き付けの店で客もマスターも相互に親しい仲ならいざ知らず)この場合店のマスターはただ資本主義の消費者の消費の自由を優先し、個人的見解の表出を抑え、所謂心中では「こんな大食をしていてはろくなことはない。」という真意を隠蔽しているのである。商品を売る立場の人間はポルノや煙草、酒等の成人向けのものに関する未成年に購入に対する規制以外はどういうものを誰が買おうと誰も咎めだてはしないものである。実はその人が買い物依存症で、その人の経済的内情を知る知人かかかりつけのサイコセラピストとかの人がその人の衝動買いを抑える為に常にその人に付いていでもしない限りそういう行為を止める手立ては売る立場の人間にはない。
 つまり社会はそういう多くの偽装性によって消費行為自体に歯止めをかける術をなくす方向に向けられているのである。昔の中世の社会では恐らく階級的差も明確であったろうし、職業も今の時代のようにそう容易には選択出来なかったであろう。だから必然的にある売買の現場に見知らぬ顔が出向くと誰しもが訝しい顔で出迎え、あるイニシエーションが公衆の面前で繰り広げられたであろう。「お前何処から来たのだ?」と言うような。
 勿論現代でも何らかの然るべき資格のない人には容易に売買が出来ないような業界の現場も多数ある。しかしそれでも基本的にはどのような人がどのような買い物をしたとしても別にそのこと自体では咎めだてられはしない、そういう自由な時代である。しかし現代の多くの犯罪がその自由さにあることも否めない。「遊ぶ金欲しさにやった。」という犯人の供述はよく見られる。つまり借金をして犯罪を犯す人間はその借金を容易に出来るシステム自体が産み出したものでもあるのであって、幾らサラリーローンを規制したところで、土竜たたきゲームのようなものであって、自由消費社会という現実が当然の前提である限り、またいつの間にか法の抜け穴を目掛けて復活する、というのが真理であろう。

Saturday, October 24, 2009

D言語、行為、選択/10、ラング、共同体、コミュニケーション

 だからこうも言えよう。我々が個人の意味的受け取り方とは別個に概念(ソシュールのいうラングに近い。)を共同体内において有するのは、概念の統一性によって意味的分裂の間隙を最小限度に食い止めることである、と。それは概念という常套性の前で、個人間の分裂を最小限度の範囲ですますこと、これこそ大きな齟齬を回避する集団の知恵である。だから意味にまつわるような個性を発揮できる社会や共同体とは概念の分裂の少ないより安定した社会である。
個性とは個人的差異である。差異は前章でも述べた通り、同一であることを持って成立する。全く同一の要素を持たないもの同士を差異とは表現しない。それは無関係である。すると意味は多様である。私が今の今まで目にした林檎や林檎の色はあなたが今までに見たそれらと明らかに違う。しかし林檎は林檎だし、林檎の赤は林檎の赤である。それらは異なった特有のもの同士を繋げるある最大公約数である。私が目にしてきた林檎は多少傷んだものだったかも知れないし、またどれも奇形だったかも知れない。しかし同じ林檎の種に属するもので、明らかにあなたが目にした林檎の赤い色とも異なっているにもかかわらず、やはりそれらは特有であると同時に世間で赤いと言っている概念の赤いと同じ傾向を有するのである。意味は固有だが、概念は一般的なのである。概念は意味の最大公約数であり、一般的基準なのである。だからある男女の愛は固有で、特有であるが、他のすべての男女が愛を営むという意味において一般的である、とも言えるということである。概念が一般的なものとして意味の固有性を支えていない限り、我々はそれを通してある固有の男女の愛を表現しようがない。斎藤慶典も言っているように言語における実際上の事物や現象に対する表示は不在のものに対する想像力を伴った再現前化であるとすると、我々は言語を通して実際に目にできないものも表現できるし、私が言う「赤い林檎」はあなたがそれを聴いて想像する赤い林檎とは食い違っていても、やはり同じ「赤い林檎」という固有の林檎に対する明示という意味において、普遍的な概念なのである。そして「赤い林檎」から想像するものは概念としては我々が同一の言語共同体においてコミュニケーションを営んでいる限り同一だが、意味は受け取るコミュニケーションの一員は各個異なっていて固有である。その固有性は共通する概念の使用を伴って初めてコミュニケーションを生じさせることが出来る。意味の固有性とある概念を通した連想の固有性は同一の背景を持ち、その背景の違いがコミュニケーション自体のレゾン・デ・トルともなっている。そしてコミュニケーションとは積極的モティヴェーションを持って臨む時よりも、消極的モティヴェーション、つまり他者理解を100%望むような選択を持つことなく、寧ろ理解し合える部分がほんの少しだけでも見出せればそれでよい、という諦観と消極性的選択がスムーズな対話を産出する。自己保存欲動の緩衝領域に対する相互の尊重がそれをもたらすのである。
 関東人にとっての心太とは、辛子醤油につけて食し、青海苔や白胡麻、紫蘇などをかけて食すものだが、関西人にとっては餡蜜につけて食すものである。あるいは天麩羅は関東人にとってはメリケン粉にまぶして揚げた野菜のものを言うが、関西、南国人にとってはそれと、魚のすりみを揚げた関東で言う薩摩揚げのことも指す。概念は各成員が抱く固有の、地域的、一族的な意味の広範囲による最大公約数のことであり、それに合わせて意味が派生するのではない。例えば私は未だに見たことも食べたこともない有名な食べ物もある。だけどその概念は知っている。しかしその意味は知らないのである。私が言う意味はその概念がたまたま指し示す固有の状態、在り方、知覚体験に根差した知識のことである。猫を見たことがない幼児が大人の会話からたまたま猫という語彙を学習したとしても、それは猫の概念上の使用を知っているだけで、猫の意味はわからない。もっとも語彙は目にしたものから覚えてゆく傾向があるから、名詞、それも動物の名前などは幼児は恐らく見たものから順に覚えてゆくのであろう。(中学生くらいになると、抽象的概念、理想とかそれこそ概念とかの語彙も覚えるようになり、そうなると見たことのないものまで語彙で表現できるようになる。)だから意味は概念から先に覚えて言ったものほど、希薄となり、まず知覚体験が先行するものは豊穣な意味を有するようになる。しかし我々は言ったこともない外国について会話し、見たこともないものを平気で話題にする。そこからコミュニケーションの在り方は抽象的になってゆく。抽象的概念世界の言語(例えば本論を始め学術書一般はそうである。)と実際の知覚体験に根差した言語との相違がコミュニケーションにある信用度、信頼度、または親密度を生じさせるのだ。
 我々は言語活動において概念を必要不可欠のスキームとして利用しているが、本来自分自身の体験記憶であり、自己にとって固有の痕跡として意味を位置付けているのにもかかわらず、それを概念に奉仕させてもいる。というのもコミュニケーションにおいて我々は対他者性を第一のこととして望みもするからである。概念は本来は各自固有の意味を保有することはできない。にもかかわらず概念を理解するための方策として、敢えて我々は意味を位置づけようとさえする。こういったことから我々は新たなる局面に差し掛かることとなる。そこで我々は概念に対して意味に奉仕させようとするこの行為を、意味の概念への<仮託>と呼ぼう。
 我々はコミュニケーションという対他者性と<自己_他者>連関に身体と身体行為を加担している。身体行為としての言語活動は黙した表情であれ、発話であれ、エクリチュールであれ、すべてを一貫した何らかの伝達、何らかの意思表示、何らかの表現として身体行為の選択機能として身体を手段としながら、言語自体の能力を契機としながら、音声や客体的な表現媒介として顔を使い、あるときはメールの画面の体裁を通して他者へコンタクトをとるのであるが、その伝達形式と様相の選択には細心の注意を払いながらコミュニケーション・スキルを通してコミュニケーション自体の在り方を模索しながらそれ自体の能力を目的ともしながら対話し、自己の中に他者を、他者の中に自己を見出すのだ。
コミュニケーションは親密度の増加に従って、意味の概念への<仮託>という前提条件を取り払う。<仮託>が最小限度の形式になった時、意味は自己と他者の共有財産へと転化する。自己の意味と他者の意味は相互に連関し合い、新たな、例えば赤い林檎なら赤い林檎の相互の意味を生じ、更に赤いこと、林檎というものの敷衍された意味が一人歩きする。<仮託>は自己と他者の壁を取り敢えず設定する消極的コミュニケーションのスタートラインであり、寧ろその設定はじきに取り払ってゆくことを目的としているのである。<仮託>を設けることはコミュニケーションにおける他者への最低限の配慮であり、最低限の緩衝領域の保持の相互の暗黙の了解である。消極的スタートは繰り返すが、モティヴェーションの惰性ではない。あくまで我々が我々相互の関係を知るために設ける未来へ向けられた能動的選択なのである。それは積極的選択に潜む受動性に対する認識が生み出した免疫システムの持つ理念でもある。
 しかししばしばビジネス・コミュニケーションでは<仮託>はより強固な前提となり、意味の抑制、隠蔽はビジネス・マナーの表示のためのクロノメーターとなる。意味は信頼度の獲得を待って初めて示し得るものであり、それを通過しない内での意味表示は概念提示の持つ無難なコミュニケーション共有制を一気に崩壊させる危険性もある。
 フッサールは「論理学研究」で論理的枠組み、定立、規範、所謂基礎付けに主たるエネルギーを費やしているが、徐々にその主題を論理を通して、論理性そのものの限界(カントにはそういう面はない。ただ唯一神学的、宗教信仰的意見にのみそこから逸脱する部分が確認されるのみである。)を見据えだす。論理の限界は言語では概念から逸脱するもの、ここで言うところの、意味である。意味の豊穣とは具体的であると同時に、唯一的、根源的である。ビジネスは第一章でも言ったように、その存在自体が真意であり、その行為自体が生の実情を物語っている。コミュニケーションが他者性によってそのレゾン・ド・トルを保有しているとしたら概念の前提的一致は伝達意思による言語機能上の無意識の実践である面が大きく、言語自体は言語によって伝達される意味内容(シニフィエ)の社会機能実効性による慣習的生活維持に目的があり、親密度による対話自体の目的性を寧ろハレとして特殊化するケである。よって実効性から脱実効性へと至る過程は概念の実効的支配からの意味の開放と、ケからハレへと移行する深層意識の様相変換であり、我々をそこに大きく関与させるものとは、明らかに他者の真意の自己の側からの接近であると同時に、自己の真意の他者真意への重ね合わせである。というよりコミュニケーションそのものが自己と他者の意味の突き合わせ、つまり概念から出発して固有の意味への追体験、概念のとりこぼした具体的現実的多様と複雑さの再発見であるわけである。(原点回帰)
 意味とは事物、対象に対する自己の保有する関心(無関心なものは無意味なものである。)、とどのつまりは個人に対する存在の仕方なのだから、個人にとっては事物、対象への感情と言えよう。例えば結婚とは物理的に言えば配偶者との同居であるが、それは形式的な社会秩序でしかなく、たとえセックスが介入してもそこには結婚の概念しか見出せまい。しかし結婚とは本来は配偶者への愛の誓いであり信頼であり、配偶者へのただならぬ関心であり、感情である。結婚生活を営むこととは、社会倫理的(モラル)にも、責務としても、宗教学的倫理においても、それが言語共同体の範疇でなされる限り(国際結婚でも同じである。)言語的な行為の選択である。結婚も友情も、敵(必要なこともある。)との闘争でも皆すべて言語活動であり、他者の選択であり、他者との言語行為の選択である。だから他者と言語行為を通したコミュニケーションの時間を共有することとはとりもなおさず、その他者と共にある時間を共有する意思表示でもあるわけである。(愛は究極的言語行為である。)

C翻弄論 7<以下省略>ゲーム、ギャンブル、スポーツ、ビジネス、アート、科学、宗教

 マスメディアによる例えばある政治家の政策論的傾向によって指示される人間性(行動によって表示されるもの)、あるいは政治的指導力の像は長く狩猟業務へと赴くオスが性欲抑制システムとしてメスと隔離生活を維持し、それを解除する為にメスの巨大な乳房を目にすることで性的繁殖行動を誘引するというメスの側の対オス進化が現代において同様な形で効果を発揮しているのだ、と捉えることも可能である。所謂政治家のパフォーマンスとはある意味では初期人類のメスの巨大化した乳房の効用にも等しい。それはビジネス上の雑事に忙殺されている外部社会環境の全体像に対して覚知的には抑制されているシステム解除の役割としてマスメディアの形成するイメージ、「実像」が機能しいているのだ、と捉えることが出来る。覚醒されること自体はよって悪いことではない。そこからが問題なのだ。どこからどこまでが実像で、どこからどこまでがマスメディアのドグマであるかどうかを見極めようという意識を介在させることが求められているのである。
 マスメディアの形成するイメージの受け取り方は刺激に対する反応であってはならないであろう。そこで選択という意志決定の行為選択がなされてゆく。これはメス(初期人類)と同様の事態である。ここに理性論の出番が来るのだ。忙しいとつい刺激に対する反応へと行動規範を安易に設定しがちである。そこから脱するにはどうしたらよいか?マスメディアの構成するイメージを性的信号性認識において誘引材料として意識的になり、無意識の行動を抑制するということでしかないだろう。
 刺激に対する反応でしかないような選択意志を理性論的に鍛えなおすことにおいて我々は言語的思考というものをもう一度認識しておく必要があるのだ。パブロフの犬状態からの自覚的な離脱がここで求められる。性的信号と同種のレヴェルの贔屓感情を醸しだすある種の映像イメージのカリスマ統治型政治へ批判的眼差しを向けることからまず始めなければならないであろう。その為には何を考慮に入れればよいのであろうか?
 ここで言語活動(言語行為ではない)の本質として共通理解への希求=場の成立ということが考えられる。言語活動とは言語行為のみならずビジネス、ギャンブル、アート、科学、ゲーム、スポーツ等全てのコミュニケーションを必要とする行為における人間学的な相貌の下で考えられた自己対他者、あるいは共同体の中の自己、自己の中の他者や共同体、自己と他者の融合、あるいは論理的な相関性である。それはある意味ではフロイト的な「自我」を産出する根拠でもあるし、西田が「当為」と名付けるものとも深く係わってくる。
 選挙も株の売買もギャンブルも言語行為も生活に直結している行為であるが、ただ手段なのではない。生の時間に手段的な時間はない。どんな瞬間でもそれは目的的な時間である。家庭は職場の目的であり、職場は家庭の目的であり、家族は友人や仕事仲間の目的であり、友人も仕事仲間も家族の目的である。それぞれは手段としても作用しながらもそれ自体が目的である。稼ぐだけの職業だと割り切っていてさえそこに楽しみやゲーム性、ギャンブル性、アート性、科学性を持ち込まなければ長くは続けられないであろう。全ての瞬間の人生で経験し得る時間は目的的であり、目的的行為のための場である。そしてそれはその都度独自のゲーム性を持っている。それこそが私が言う原初的な群集心理の名残である。
 言語行為において我々がそれとなく一々意識するでもなく交わす挨拶やお辞儀や返答や質問といったものは文化コード的な慣習性にも関係があるが、感情表出という一面もある。行為遂行的な表出とも言える。(その最も有効かつ原初的なものはお辞儀しようが、挨拶しようが、話しかけようがその時に他者へ示す表情であろう。ダーウィンの論文も有名である。「人および動物の表情について」)意思表示することはそれが大袈裟な宣言でなくても日々我々は何気なく実践している。そういった行為を内的に必然化しているからこそ我々は些細なことでも行為選択という決断をしているのだ。例えばそういった行為選択を必然化するような合理的な説明は無意識のレヴェルでは皆人間は理解している。しかしそれを即座に説明するのは多少時間が掛かる。それを説明しなければいけない場面が日常であるからこそ思惟に赴くことが必要となるのである。人間は最終的には先述したように全てを合理的に理解したくはない、例えば愛情や友情というものを合理的に説明したくはない。そこで非合理的な説明不能な要素を常に幾分かは残しておきたいものである。がそれでも尚全てを非合理的に認識しながら生きることが刹那的であるという考えも決して捨てはしない。そこでやはり何らかの根拠も必要である。そこで西田が言う法則という概念が必要になってくる。(「思索と体験」より)それはそれ以外でやるよりはそうやってやる方がより効果的に思われるし、それをやらないよりはやる方が理に叶っているという考えから従う経験則のようなものである。最も有用なる綜合的判断とも言えよう。我々は実は日々これを知らず知らずの内に利用しているのである。行為選択という価値規範として意識的に考えるものの大半は無意識に実践しているのだ。
 西田は知識(認識と言い換えてもよい。)と芸術、個々の言語行為などによる全体論的性格の調和を宗教に求めている。彼にとって宗教はただ単に信仰的な形式主義や儀礼性のものではない。恐らく彼にとって宗教とは生きてゆくための価値規範である。そういった価値規範は生活上の信条とか行為選択においては我々によって日々実践されている。しかし生きていくこと、つまり総体的な全生活を支える価値規範となると、我々はそうおいそれとは規定出来ない。あるいはもっと言えば避けたいと願う。そこで彼にとって宗教心を考えるということは神の存在そのものを知ることというよりは我に神を見るということである。それは生きる上での最高規範の獲得、真実のイデオロギー(政治的なものでは決してない。)の獲得を意味するのだ。選挙も株の売買もギャンブルもゲームも科学もアートも言語行為も、熱中するということ自体に宗教的ニュアンスを見出すのはそれほど困難なことではないであろう。デイトレーダーも各種格闘技家もアスリートたちも営業マンも皆この熱中という人生の目的的な時間の中で自己の熱中出来る対象に対して神を見るであろう。
 例えばある馬に対して馬券を買って競馬を観戦することは、テニスの試合でどちらかの選手サイドに立って応援しながら観るのと同じで、より熱中出来る。より興奮して観ることが出来る。興奮を味わうこととは心地よいことなのだ。ギャンブル性とは観客にとってはこういうところで表出する。我々はそれが金銭目的であれ、そうでないにせよどちらかが勝ち、どちらかが負けるということにおいて取り分けパートナーを必要とするゲームではスリルとサスペンスを求めているのだ。興奮を味わいたいのだ。酒を飲む時に一人で飲むのもいいがたまには友人や仕事仲間と飲むのもいいと思うのも言語行為で興奮して酒を飲むということが心地よい刺激となるからである。合理的に考えればあらゆるゲームやギャンブルはどちらかが負けるのだからやらない方がいいということとなる。それは可能性として考えれば敢えて好き好んで騙されることでもあるのだから。しかし心地よく騙されることを時として人間は欲するのである。どちらかが勝ち喜びどちらかが負けるのを解かっていてそれでも金銭を賭けるのがギャンブルである。金銭を賭けなければギャンブルとはあれほど興奮し、スリルを味わうことはないに違いない。スリルを味わう瞬間のエクスタシー獲得のために我々は時としてそのような不合理な行為選択をするのである。西田の言う宗教とはそういう非合理的な行為選択の可能性、合理的理由という根拠でのみ人生の目的性を規定させたくはない、という心理を形象化させたものである。
 人間は興奮すると心地よい気持ちになるが、興奮を味わいたいのは、それを抑制するよりは解放した方がよいと生理的にも合理的にも(生理的な欲求と合理的判断は両立する。というより生理的欲求を正当化する為に合理的理由が産出される。)そう判断して我々は何かをするのだ。絵を描くことに熱中することは画家にとってはスポーツであり、ゲームである。演奏家にとって楽器を奏でることはギャンブルでありスリルなのだ。詩人が言葉を紡ぎ出すことは彼の脳裏においては科学であり論理であり非論理の発見であり、宗教であり、ビジネスでもあるのだ。
 何かに熱中するとバソプレシンやオキシトシンが交互に脳内に放出される。興奮は高まり静まるから快感なのである。絶頂があり、やがて次の行為のために収束してゆくからこそその興奮には意味があるのである。興奮が鎮まる時には非常なる快感をもって迎えられる、そういう面があるからアスリートたちは、芸術家は、株式投機家は自己の向かうべき対象へと熱中するのである。
 そのように考えるなら、サピアの言うように「思考を表わす言語とは思考のある臨界点を表示しているに過ぎない」のだとしたら、行為を通して思考と意志の所在を知る我々はまさにいかに論理的たろうと、言語的思考や認識たろうと、それを支える連合等の一切のものは非言語的、非論理的、非倫理的な生理的な身体判断の如くのものである。ギャンブルの興奮は論理性には置き換えられないのであるが、ここでバタイユの言う<暴力性と美と価値が表裏一体であるようなデーモン>を見出すことが出来る。ワイルドを「罪の人」と言ったのは西田であるが彼は明らかにワイルドにも宗教を見出している。
 身体の側からするとその種の敢えて興奮するようなことを求めるデーモン的な傾向性そのものは、それ自体が目的でもあるが、そのことを糧に生に活力を与えるための手段としても考えられよう。全ての生の時間が目的なら全ての瞬間はそのための手段でもあるのだ。ただ単なる手段でないだけで、目的は同時に手段でもあり得る。
 しかしその行為の最中には目的であるどのような行為も没我的に熱中されるか志向的な意識を持たれるかであるが、事後的には次の出来事の側から見れば因果論的に原因とも目的遂行のための手段ともなり得る。つまり過去出来事の過去化による因果論的対象化である。
 しかし排泄行為が滞りなくなされることは身体的な健康という観点からはそれを確認出来る唯一のバロメーターである。排泄行為は目的的な時間という意味では充実しているが、ただ単に人間は生理的欲求を満たした時に味わうのと同様に、何か論理的に込み入ったものを解き解した時に快感を得るということもある。そういう経験を自ら求める。それは生理的欲求の充実とは全く異なった次元での快感である。でもそれはある意味では覚悟のいる体験であるからまず簡単な問いから解いてゆこうと思う。でも次第にその挑戦するレヴェルを向上させ、やがて極めつけであると思われる問題へと取り組む。それが解決し、理解し得た時にはえもいわれぬ快感に浸ることが出来ると人間は感じる。このような時の充実感や爽快感が西田をして当為を得たとか言わしめ、フッサールをして充実化(空虚化の対概念として)とか言わしめたのだ。
 人間は必要最低限の生理的欲求を満たすことが出来ないのならやはり問題があるが、人間はただ単に生理的欲求に感けていては決して楽しくはない。と言って始終困難と苦痛に身を窶すことも出来ない。
 人間とは本来存在者として自己を認識することの出来る可能性としての存在である。そこで実際に行為選択は大半が思惟と熟慮の結末として齎されるものではない。
 思惟と熟慮といった反省的な行為は寧ろ行為選択して何らかの結果が出されてから後になされるものではない。
 事後的に、<積極的に「こうした方がよい。」と思ったからこうしたのだ。>と言えるような行為選択はまさに思惟と熟慮と未来に対する可能性論を理性的に推論に推論を重ねた末になされることも瞬時になされることもあるであろうが、こうすれば悪い結果を齎すと思われる場合、自己正当化する悪意ある場合以外大概回避されるであろう。よって全行為を反省論的に検証してみると「こうすればよいからやった。」と思ってなす行為は、回避さるべき行為(それをすれば過失になる。)よりも数倍存在するであろうと思われるが、更にそれよりもっと多い「しても間違いはない、悪い結果を齎す心配はないからなす行為」(そう考えて思惟と熟慮の末にする行為ではなく瞬時に無意識にそう判断して、する行為)には取り囲まれているであろう。思惟と熟慮の後に「した方がいい。」と思われる行為とは、ある程度それを試みた場合そう容易く達成出来るものではない、ある程度かかなりのレヴェルで困難が付き纏う、だからまさに為そうとする前に躊躇と逡巡を多少、いや、ある場合にはかなり喚起する行為であると思われるからである。 
 だから一瞬にして「しても間違いはない、やった方がよい。」と思われる行為とは、だから理想の高い結果を齎すこともない代わりに、それをしようとして仮に失敗しても酷く落胆することもない(高い目標実現欲求を持ち挑戦して失敗すると落胆も大きい)か、あるいは容易に達成出来、かつそのことで有益であると思われるし、決して悪い結果をも齎すことはないと思われるような行為へと向かう一瞬のもので決心というまでもないもっと咄嗟の判断であろうと思われる。
 選挙もギャンブルも株の売買も会話も、それをしている時にはどんな政治家が当選するかとかどの馬が勝利するかとか、今持っている株がどのような上がり下がりをするかとか、あるいは今話している相手が次にはどんな話を返答してくるかとかといった関心に意識が集中しており、その意味では時間論的に言えば熱中という心理である。没我である。それは結果が未知数であるからこそ持つことの出来るスリルである。公共の利益、万馬券、利潤、情報交換といった個々の結果が出るまでのこのスリルを味わうためにのみこれらは実践されるのではないかというような見方さえ可能である。それらは行われること自体に目的性があるかの如くである。しかしそれらに一定の結果が示されればことは一変する。当否、利益、利潤の有無、情報獲得の有無。それらが一切の集中を打ち破り、それまで持っていた事の成り行きを見守る関心、意識の持続は一気に崩壊し、それらの時間が過去化され、それらの時間に持っていた心的な思惟内容は全て脆くも崩れ去り、関心を抱いていた以前の状態の全てが現在の結果を齎すこととなる原因となり、今の結果が良いものである限りでそれまでの時間の意識は手段という風に、現在の心的様相においては見做され、そうでなければそれらは不毛な取らぬ狸の皮算用であったことを知るだけである。
 メディアは追い撃ちをかける。ある期待された結果(それは予め民意の如く巧みにメディアの報道によって反復される。たった一回の失言があったとしよう。それは何回も繰り返し報道されることで一回しか発言していないことでも何回も発言している、あるいは日頃からそういう発言をしているような錯覚を我々に抱かせる。)が、ほれ見たことかとでも言わんばかりに必然的であるかのように報じられる。しかしその期待を裏切るとメディアはこぞって誰か国民的ヒーローが死去したかの如く通夜の席に列席したかのようにゲスト出演者やコメンテーターの意見を報じる。予定調和的なメディア戦略である。実はそういった期待通りであるとか期待はずれであるとかがあたかも民意であるかのように操作されているが、それはただ単にマスメディア自体が内部から捏造した世論にしか過ぎないのだ。
 「しても間違いはない。やった方がいい」行為はマスメディアに対する大衆の信頼に付け込んだマスメディアの捏造した世論によって巧みに誘導される。「そんなに重要な問題なのですか?連日メディアで取り上げるほどのことですか?それは視聴率と支持率を見越したマスメディアと政府与党の連動した策略ではないのですか?もっと重要な課題は山積しているのではないのですか?」という潜在的な意見は実は過半数の国民の民意であろうと思われるが、それは公には公表されないし、そうする民放もないし、公営放送とて同様である。
 事実は過去のものとなると過去化され、公のものとして教訓化され、行為自体の過去例として我々全成員にとっての歴史構成要因として位置付けられる。それは過去例として万人の記憶の書庫収納に一役買い、検索記録として位置付けられる。その影で多くの忘れられるべきではないのに忘れられる過去事実を隠蔽したまま。第一章で善行の意志決定のプロセスについて触れたが、現代の意志決定はメディアの猛威がメディアについてゆけない者に世論を強制し、共通関心事項としてその事例を知らない者を爪弾きにするような雰囲気を醸し出させる。それを取り上げることは政治家から経営者に至るまで共通した踏み絵の如く作用する。それは社会全体の共通認識となるのである。ある候補者を投票することはまさにこの踏み絵的な作用であり、それをしない成員は白い目で見られる、と勝手に多くの成員が想像し、そういう事態を回避するように踏み絵を踏まない成員にだけはならないように四面楚歌状態を得ないように憂慮すべきそういう事態を未然に回避するために「しても間違いはない。やった方がいい。」行為を率先して行動する。「いじめ」に合わないようにする意味でも。
 カントにとって神の存在は肯定するべきものでも否定するべきものでもなかった。にもかかわらず表立って神を否定することを積極的に回避したのがカントのそういうレヴェルでの基本的スタンスであった。時代的な意味合いもあったであろう。それはある意味では彼の哲学的な認識にとって重要なエポケー(この語彙自体を彼は使用してない。)としての対象であった。最高存在者と呼ばれるものに対しては不可知論的認識によって否定する性急さと傲慢さを嗜める。フッサールが意識自体をエポケーにすることの基礎にはカントがいる。自由意志というものの所在に対する認識もまたその不可知論的認識とエポケーとして捉えるべき対象とは何かということへの問いが促している。何を知り得ないかを知ることで何を知り得るかを知ることが出来るということである。しかし何を知り得ないかはやはり何を知り得るかからしか知り得ないのではなかろうか?それなしにいきなり何を知り得ないかという設問は提出されようがない。ここまでなら知り得るということをまず提出しなければならない。何かを問うということは、常に何ごとか過去の事例を手引きとして現在へと至る我々全体のいる位置を確認しながら、その位置をある種の結果として捉え、その結果へと至らしめることとなった原因や、今ある結果を出来事として捉えるなら、その出来事を出来事たらしめた行為を手段として、つまり現状を目的とした行為論的な認識で、我々のこれまで採ってきた態度や行為を現在ある結果(=出来事)という目的に照応させて考えるということである。
 ここで一つの結論が出た。それは、行為はそれ自体が目的であるが、それが何らかの成果や憂慮すべき事態を帰結させたと捉えられるなら、その行為がなされたことを現在を生きる我々(我々は既に過去とはまた異なった別の行為をしている最中であるが)に、過去の行為を現在の行為を目的とした手段として捉える、ということである。よって過去例における記録とは現在を未来へと橋渡しする為の便として過去行為を手段化することであり、記録と想起とは脳に記録されたものの検索行為であり、検索方法(どういう風に検索するかということ)によって導き出される過去事例における様相は異なってくるという事態を前提した現在とその状況の為の手段となる。

Thursday, October 22, 2009

B名詞と動詞 7、 名詞と動詞を中心とした様相的変化認識と理解及び記憶の構造における言語学的、大脳生理学的、行動遺伝学的考察によるアプローチⅣ‐無関心事項としての対象と名詞化、動詞化された二つの形容詞

Ⅳ‐無関心事項としての対象と名詞化、動詞化された二つの形容詞

 我々は通常自己とあまりかかわりのないものを興味も持たないし、往々にして自己の洞察力のなさを棚に上げて、本当はもっと深く追求した方が役にたつと知っていながら、経験的事実にのみ依拠してそれ以上知ろうとしない、しかも最初に躓いた場合、ネガティヴな思い出があるものには二度と振り返ろうとしない傾向もある。本当は実は最初の経験というものは些細なものに過ぎず、例えば楽器を最初から巧く弾きこなすほどの天才ではないということを知ると趣味であってもそれなりに巧く弾ければ結構楽しめるのにそれさえも諦めてしまうということも多い。無関心であるというのは、しかしこちらから何か働きかけることのないものであるが、逆にこちらは関心がないのに、向こうは関心を持ってこちらへ働きかけてくるかも知れない。それは他者、友人である場合もあれば、恋人や将来の結婚相手かも知れないが、ネガティヴなものとしては病気かも知れないし、天災かも知れない。昨今のインド洋における地震の後の大津波は多くの死傷者を出したことで記憶に新しいがインド象は一頭の死者も出さなかったという。それは彼等が低周波の音を遠く離れた同一種内他個体と連絡を取り合うことが出来、しかも大津波が作る低周波(象の発する低周波同様人間には感知出来ない周波数であるが)によって人間が視覚によって大津波を何とか知覚し得るよりもずっと早く感知し得たことが未然に同一種を集めて大挙して退去し得たということの起因だったと言う。天災の場合我々はその脅威に立ち向かわなければならないが、往々にしてそれらは普段は余ほどの専門家でない限りなかなか察知し得ないものであり、その意味では西田の言う自己とかかわり合いのない意識に実在しない無関係物であり、無関心事項である。またそういった最悪の状況を未然に防ぐことだけで日常の生活を満たすわけにもいかない。そういった予防措置はあくまで常に最悪の被害を防ぐことだけしか出来はせず、無傷で全ての犠牲を出さないようにすることなどコスト的にも日常的な労力から言っても不可能である。故に地震対策においても最低限に留めおきたいとは言うものの死傷者数は換算する。
 ここでちょっと進化的な適応というものの理想的在り方というものについて考えてみよう。
 死をもって完成する生はその只中においては即自的に常に未完であり、死を迎えるその瞬間まで未来へと開かれている。これはサルトルが「存在と無」で考えたテーゼでもあるが、そういう生が仮に何らかの偶発的な不慮の死において突如中断したとしても、それは予定調和的に仕組まれたものではないにしろ、幾許かのそういう不慮の生の中断もあり得るという可能性においてどのような種においても例外なく生を営んでいるのだ、ということを生物と自然によって育まれる世界は教えてくれる。
 ある生物あるいは生命体が自然の秩序に従い生を営む限り我々人間を含む全ての生命体は皆自然の構成要素である、と言える。しかしそれらは皆独自の立場を持ち、それぞれが生存の為に何らかの他の生命体を自己種の利己的な目的の為に利用し、そういった犠牲を払って自己種の存続を確固たるものにしている。そういう意味では各種毎に異なったその種固有の世界観があり、主観が存在し、世界とは言わばそういった全ての生命体としての種とそれを取り巻く物質界の物質毎の性質や作用といったものとが絡み合って一つの総合的な姿を構成している、と捉えることが出来る。その意味では全ての立場からの主観の綜合が世界だ、と言ってよい。進化は、だからそういった世界の中で各生命体や物質がそれ自体の立場からの主観を持ちながら、それが他の主観とぶつかり合い、そのぶつかり合いがまた新たな主観の様相を生じせしめそこから関係的なメカニズムが発生しそのサイクルの中から自然と構築されてゆくのであり、そこには生成と消滅が繰り返されるもそういった反復自体が自然にある綜合的に見られる特徴を構築しているのである。勿論その種毎の進化過程では勝者と言われる者もそうでない者も含まれるが、では一体勝者とは何なのかという視点に立ち戻ると一概に絶滅したもののみを敗者と決め付けることさえ出来ないかも知れないのである。なぜなら絶滅した種のある絶滅に追い遣られるような形質や行動、あるいは性質、性格的傾向性が、その種の絶滅の後に別に生成される新種の自然選択に貢献しているとも思われるからである。絶滅があって始めて新種が登場するというようなことがあり得るのなら、我々は絶滅がある個体の死同様今までの観点からとは全く別個の「実験場」という観点から自然を認識するなら必然的にある条件に沿わない自然選択的な形質、行動、性質、性格的傾向性といったものがそういった絶滅をもたらしはするが、それと別個の新種の誕生を促しもするという再生のドラマの中で育まれる自然の進化というものも考えてみることが出来るよう思われる。自然は待たない。しかし自然選択において自然もまた学習するという観点から我々は生命の歴史を考えてみよう。そうした中で我々の心中に巣食う考えが言語を性格づけもするのである。勿論個体毎の世界観や主観の綜合たる自然の学習は一面的ではない。しかし例えば隕石の衝突によるものと考えられる恐竜の絶滅が哺乳類に活躍の場を与えたような意味では自然は同じ歴史を二度と繰り返さないのであるから、無意味な反復もまた避けているように思われる。(勿論それはその場その時の自然条件が固有であるという事実から引き起こされるのであろうが)「自然が思惟する」ということは、自然が人間のような心を持っているのではなく、寧ろ人間の心もまた自然の一部にしか過ぎないということを物語っているのだ。「自然が思惟する」こととは一面では自然の中での一切小さなことには干渉しない、ということでもある。
 自然選択というものは自然全体から見ればいかにも歪で不合理に思われるような偏向したものさえもしばしば作り、自然はそれを糺すようなことは一切しない。自然は待ちもしないが、特定の自然選択に対して、それが不合理であると判定して、その成り行きに干渉するようなこともしない。コンラート・ローレンツは自著「攻撃」の中で興味深い例を挙げてこのことを説明する。

 雌によって行われる性的淘汰(著者注、筆者は以後も淘汰ではなく選択と言う積もりである。)も、ライバル闘争と丁度同じ役割を果たしていることが多い。雄が多彩な羽毛とか奇妙な形態などで極端な装いをしている場合にであうと、この雄たちはもはや戦わず、相手を選んで決めるのは雌の方ではなかろうか、雄はこの決定に対して異議を申し立てる「法的手段」はないのであるまいか、という疑いを当然かけたくなる。たとえばゴクラクチョウ、エリマキシギ、セイランの例がそうだ。セイランの雌は、雄のみごとな斑紋のついた大きな翼に反応する。求愛のとき、雄はそれを自分が言い寄った雌の目の前で広げて見せるのだ。その翼は非常に大きいから、雄はほとんど飛べないくらいである。しかも翼が大きければ大きいほど雌は激しく興奮する。一羽の雄が一定期間に生ずる子孫の数は、その翼の長さに正比例する。それが極端に発達していることが、別の点で持主に不利になる場合がある。たとえば彼ほど求愛の器官が気違いじみて発達していない競争相手よりも、遥かに早く捕食者に食われてしまう。それでも彼はふつうと同じか、それ以上の数の子孫を残すのだ、だから翼が巨大になる素質は、種を保つという働きと完全に一致しているのである。かりにセイランの雌が、雄の翼にある小さな赤い斑点に反応するのであっても、いっこうにさしつかえないように思われる。この斑点ならば、翼をたたむと隠れて見えなくなるだろうし、飛ぶ能力も保護色もそこなうことがないだろう。だがセイランの進化は、すでに袋小路に迷い込んでしまったのだ。というのも、この雄たちは翼の大きさを競い合うことになった、言いかえると、この種はもう決して理にかなった解決策を見つけることはできないだろうし、この無意味な競争を今後も続けて「しまう」だろうからだ。
 ここで初めて、わたしは系統発生学上の事件にであったわけである。たしかに、偉大な設計者が行う盲目的な試行錯誤が、その結果ときどき目的にぴったりかなうとは言いかねる設計をすることがあっても、それは驚くにあたらない。もとより自明なことだが、動物や植物の世界には、目的にかなうものと並んで、淘汰が選び出して捨てねばならぬほど目的からはずれてはいないというものも無数にある。だがここでは、それとはまったく別のことが問題になっているのだ。合目的性をきびしく見張っている番人が、「大目に見て」二流の構造をパスさせてくれているばかりではない。(著者注、最良のものを選ぶような自然選択とは時間がかかる。)それどころか、ここで破滅に至る袋小路に迷い込んでしまったのは、淘汰それ自身なのだ。淘汰は、同種の仲間たちの競争が、種外の環境と関係なしに単独に行う場合は、つねにそのようなことをするのである。(「攻撃」中、第三章、悪の役割から、上巻、67~69ページより)
 
 ここで問題となっているセイランの翼の大きさに関する雄の側の同性間の競争(競争意識もあるであろうし、それと同時的な選択圧の形成もあるが)は裏を返せば雌の側からの雄の選定基準の激化、雄にとっての苛酷さが考えられよう。なぜそのように雌の雄の選定基準における競争が激化したのかということに関しては何らかの自然条件(セイランの生存に対する)とか、セイランの雄の雌に対する不信(雄の行状が喚起したのであろうが、これもまた自然条件が関係しているかも知れない。)とかもあったのかも知れない。しかしこれ以上は専門家の研究に任せておくこととして、そういった外部から見たら少々歪な自然選択と思われるものに対して、仮にセイランの「雄の翼の巨大化」を促す自然選択が種自体の生存に関してマイナスに作用しているとしても、それ以上のメリットがその雌による雄の翼をめぐる選定基準の存在から喚起される事実にあるのなら、そういった一見歪な自然選択もそう容易にはなくなりはしないであろうし、自然はそういった一々に関しては一向に無頓着のままである(ここで有神論自体への懐疑が我々に投げかけられる可能性もある)。
 カントが「判断力批判」で崇高ということについて自然を前にした人間の実像から分析したのも、こういった自然の細かな現象に関して日頃より抱いていた感慨から齎されたのかも知れない。
 我々は日頃あまり自己とかかわりのないと一見思われるあらゆる外界の出来事に対して、それがいつ何時自己個体や自己の家族に何らかの災難として振りかかるかも知れないような可能性がゼロではないと知ってはいても、尚そのようなことを考えなくてはならない契機が訪れるまでは静観するしかない、というより他の仕事や多くのすべき日常的な忙しさの中に埋没することで、寧ろ積極的にいざという時の為に、そのいざという時にことはなるべく考えないようにして、無駄な不安と心配に注がれるエネルギーを浪費することなく蓄積しておいた方がよいと認識してさえいる(このことはまさに自然の一部でもある我々の心が「自然が一々に干渉しはしない」ことを身をもって体現しているかのようである)。このような考えが生存戦略的なメリットという点では理にかなっているという一事をもって全ての対象へ関心を集中させることも出来はしないという認知も手伝って、その場その時に必要な事項にのみ関心を集中させるように、それとは無関係の事項に関しては意識を集中させることを積極的に差し控えているのである。
 ここで初めて我々は対象を叙述し、それが主語となっても目的語になっても修飾することが心的に対象に対してどのような質の関心と感情を持っているかという対象に関する欲望のバロメーターとして形容詞の存在理由が俄かに問題となってくるのである。
 形容詞は関心事項に関しては共感と反感という二つの志向性を有し、そのプラス、マイナスの両方の作用を心的に保有した時に得られる感情である場合と、そうではなく無関心事項に関してもその感情(無関心であるという)である場合に語彙選択される。形容詞の語彙選択は様相的には、ある対象(あるいは出来事)に関する共感、反感という関心(フッサール流に言えば存在充実であり、充実綜合である。)とそうではない無関心(フッサール流に言えば存在幻滅であり、幻滅綜合である。)の両方において、ある感情の質にそれぞれ対応する一つ一つの形容詞の語彙をその都度選択することである。
 形容詞はあるゆる品詞の中で最もその語彙選択の基準に関して対象に対する感情の入り込む余地の大きいものである。感情依拠的語彙選択の順は次のようになる。

名詞 < 動詞及び副詞 < 形容詞

 動物に感情があるかという判定は論理的にはどのように考えたらよいのであろうか?最も有効な考え方とは次のようなものではなかろうか?
 まず一つは先程もローレンツの叙述から引用したセイランも例でもよいし、雄の孔雀でもよいし、ライオンの鬣でもよい。彼等動物たちが何らかの形で翼や角あるいは毛といったもので雄が雌を惹き付ける時、その選択基準が何らかの形であり、それは貫禄である場合もあるし、凛々しい武功でもある。そこには強さや威光といったものに対する価値観、どちらかが別のどちらかよりも優れているということに関する判定基準があり、それを色々の知覚によって確認出来るデータによって彼等が心的に判断しているという事実が考えられるが、少なくともそういった個体識別が可能であるという事実は、その個体をある程度の形容詞的な認識(我々が考えるような遣り方に当て嵌めると)を持っていることから、感情を有していると判断してよい、ということである。一方は鬣が大きいが老化現象が見られるということと、他方は若くつややかではあるが、鬣の威圧するような量には今ひとつ欠けるというような場合、その二つの個体のどちらを選択するかとなると、ライオンの場合既にハーレムを築いている雄に対して後からやってきた部外の雄がそのハーレム支配者に挑みかかる、ということが常習化しているからそれ程雌にとっては大した意味がないであろう。しかしそういった判定基準を有している種においては、きっと何らかの判定基準があるのかも知れないが、今のライオンのケースのように優劣を判定し難い場合もあるであろうから、そういった場合はきっと個的な主観を採用していると思われる。するとそこには形容詞的な判断、大きいとか小さいとか、あるいは若いとか年老いているとかの知覚判断的な判定は当然あるであろう。するとそこには、それが、我々の様な言語による語彙判断ではないだけで、感情論的な判定基準としてそういった状態性の理解というものはあることとなろう。それは我々人間においても同様な心的な心理であり、感情である。そういった個々のケースを語彙に置換し得る能力として我々が社会生活を営む為に採用しているだけで、赤い林檎がおいしそうだ、という感情はあくまでそれを言語で表現し得ることとは関係なく先験的に備わってもいる。その「おいしそうな赤さ」という知覚判断、それは当然のことながら嗅覚とも関係があるであろうが、そういう判定が形容詞の語彙選択の基礎として当然のことながら考えられる。勿論「おいしそうな赤さ」という基準は各個人で異なるようにどのような動物においてもそのような個体毎の判定基準の差異はあろう。あまり赤い林檎を見たことのない人間の持つ「おいしい赤さ」よりも、そういった林檎をよく見て育った人間の「おいしい赤さ」はより厳しい判定基準を持っているであろう。そういった差異は全ての形容的識別をし得る種に介在するに違いない。

 さて我々は形容詞が対象に対する感情によって語彙選択される感情的様相→感情様相表意語彙選択という言わば各感情様相に対応する語彙学習の結果なされる言語的思念について考えてきた。では一体この感情というものは何によって支えられているのであろうか?
 それはまさしく欲求であると言えるであろう。欲求はどこから引き出されるかと言えば紛れも無く身体である。身体から生ずる欲求が感情を引き起こすということは身体そのものがこの世界に属し(世界と対峙するという意識を我々に持たせることが自我の役割であるが)、世界に属しながら、ただじっとしているわけにはゆかず、絶えず世界に働きかけることが身体を世界に所属することが維持されるように努めることに他ならず、そういった行動とその行動の意志を構築することが生である、という認識を我々に覚醒させるものが、我々が抱く現在の常に未来へと可能性の存在として開かれている(生きている限り)、そういう自己の完成へと向けられた志向性、つまり常に現在においては未完成なものとして生きていることの実感である。
 経験論者の言うように経験的現象こそが現実的存在(カントの表現であるが実在と同義と考えてよいであろう。)とするが、それは当たっていないであろう。にもかかわらず我々自身にとっては、世界とは現在の知覚及びその集中をも含めた経験(記憶によって収納されている過去の経験とその想起をも含めた、つまり記憶としての経験を持ち、記憶をしながら行動する我々の行為)の総体である。そしてその総体の中で我々がその時々で抱く感情は形容詞によって表現される。我々がその形容詞を選択する(思念上においても発話、記述上においても)ことは形容される感情的様相(対象へと向けられた、ここで言う感情とは事物、現象、事象の全てである。)、つまり関心と無関心という両極を持つ関心度のバロメーターが不断に作動していることの証拠である。では次に我々が無関心なものに注ぐ知覚や記憶のそうではない集中されたそれとの対比において示される記憶と知覚と関心の関係と、それによって形容詞においては名詞化されたものと、そうではなく動詞化されたものとがやはり関心と無関心の両極の如くバロメーターとして作動している現実に関して考えてみよう。

 まず副詞について考えてみると、これは主に動詞や形容詞を修飾しているわけだから、副詞は動詞や形容詞自体の強調や限定をその役割として担っており、その限りで感情的ではある。しかし形容詞のような意味では決して感情的ではない。というのも形容詞自体がその形容する対象への直接的感情である(それは関心と無関心、あるいは快、不快といった感情表出における)し、その感情表出の為になされる語彙選択の結果現出するのに対して、あくまで文章の文脈上の強調や限定においてのみ感情的なのであり、言わば間接的な感情表出であり、それは寧ろ発話者や記述者が聴者や読者を説得することに貢献しており、その限りで自己主張性は皆無で寧ろ奉仕的である。それに比べれば明らかに形容詞は直接的感情を対象性質、性格を判定し、それを直接表示しているのだから、あくまで一次的直接選択である。(副詞は動詞や形容詞に付随しており、二次的付帯選択である。)
 今度は動く物体とそうではなく静止している物体を知覚する際の相違に関して考えてみよう。静止している物体も実はどんなものであっても少しずつ変化をきたしており、全く動じない変化のない物体、対象は現実にはあり得ないにもかかわらず絶えずひっきりなしに動く対象と、そうではない対象の知覚的な行為において自ずと相違が生じる。
 絶えず動く物体(それは断続的、周期的でその瞬間だけでもよい、つまりすぐにその動きが止まっても良いが)は必ず形容される時には事後的である。それが今ゆっくりと動きつつある時には、目まぐるしいというような形容さえ思い付かず、即座にそう表現して陳述することさえ不可能であることの方が多いだろう(観察)。目まぐるしく変化する物体を形容する時は、一時その物体への注視を中断している場合が多い筈であろう。それに対して既に動きを止めているものに関してはそれを注視しながら、その対象に関して言述することは容易いことであろう。つまり動き自体は一瞬の体験(眼球を移動させるような意味での生理的な変化を要求する)であるから、その形容はあくまで対話手の方に向き直って語ったりという、つまり一時の体験の中断によって齎されることが多いのに対して、静止物体についての注視体験は体験しながら同時に(実は実人生においては、その静止物への注視もまた動きのあるものへの一回性同様のその時固有のそれなのだが、そのことに関してその時には気付かないのだ。)形容して語ることが可能なので、それは共有体験のリアルタイムでの確認を伴う。前者は共有体験の事後報告である。「今の見た?」、「うん、見た、見た。」というわけである。それに対して「あの山すごく大きく見えるね。」、「そうだよね。此処から見ると意外と大きいし、高いよね。」というわけである。
 形容詞がある動きのある物体、対象物を指す時は「ほら、あれ、あれ!」というような形容になる筈である。しかしそれが事後的な確認や報告となると「今の凄かったよね。」となる。形容詞には名詞化されたものがあるが、それは山のようなそれ自体の動きが知覚され得ないものに多く用いられる。山の一部である木々のざわめきや動きはそれ自体では動きであるものの、山という総体自体は微動だにしない。そこで我々は無常の中で変化しないものに関しては自己や自己と他者を含む共同体の力ではどうしようもないという意味である種の諦観を持つ。カントが「判断力批判」で叙述した崇高なるものへの感情とその知覚を通した判断とは明らかにこの諦観に属する。動きのなさの確認は脳神経的にも諦観を促進するであろう。それはどちらかと言うと、過去から大きな時間の流れが現在を支配している感情である。しかしそれに対して形容詞でも動詞的なもの、動詞化されたものも多く存在する。自己や自己と他者という共同体の力によってそのものが変化を蒙る可能性があり、自己や自己を取り巻く自己中心の世界のかかわり自体が世界自体を変化させる、そういう相関性において認識される場合、我々はその関係の変化や関係を持つこと自体を形容する時動詞的になるし、その形容詞は動詞化される。だから同じ大きいということでも、背が高い人となると山自体よりは動詞化されるし、また態度自体が大きいあるいはでかいということとなると、もっと動詞化される。その態度のでかさは何とかしたい、ということなのだから、未来への意志が感じられ、それは明らかに感情論的にも動詞化されている。
 この場合、先述の名詞化された形容(それは過去データから換算される概念化作用の確認である。)と違って過去はどうあれ、現在と今後(未来)への自己とその形容された事物や対象への自己(あるいは私とあなたを含むようなものも含んだ自己)のかかわり合いという未来絵図、意志確認であり、動詞化されている。しかもそういう形容をすること自体が話者にも聴者にも脳神経を刺激させ、未来への意志形成と既に芽生えつつある意志確認をなす。
 今度はそういった感情の差異、諦観と未来への意志、あるいは、関心と無関心、快と不快ということをまず社会学的に、続いて生理学的に捉えてみよう。
 先程までの同じ「大きい」という形容が、全く二つに異なった感情様相において示されることは一面では字面では同じでも全く異なった感情からの帰結(語彙選択)が大いにあり得ることも示している。一つの語彙が示す感情は一つではない。一つの感情を示すのも一つの語彙ではない。「態度がでかいなあ。」という言葉が指示すことは受容拒否である。不快、軽蔑、嫌悪の情とかがこの一つの「でかい」で示されている。だからこれは受容拒否という未来への意志表明である。しかしこの同じ「でかい」も雄大なる自然を目の前にすると途端に異なってくる。「こうやって近くでつくづく眺めるとでかい山だよねえ。」と言えば、それはそれ(でかい山)が過去から現在に至る迄ずっと変わらずにそうであったし、これから(未来)もそうであるということを称讃し、積極的に肯定しているのである。
 同じ語彙形容であっても異なった感情様相による語彙選択なのである(あるいは語彙そのものへの意味付与と言ってもよい)。前者は受容拒否、後者は自然の崇高さへの尊敬心に満ち溢れているのである。尊敬心は心的にはそこまでは自己の能力では行き着くことが出来ないという諦観に通じる。それに対して受容拒否的な不快、軽蔑、嫌悪の表現に供せられる形容においては未来の主体的な自己意志が漲っている。そこでこういった受容拒否や、あるいはもっとポジティヴな肯定(ポジティヴな肯定は、それを否定する側の選択や論理、感情を拒否するという側面が強い。)等は明らかに未来の自己行動を積極的に断定出来る、感情論的にも意志論的にも未来意志的な決断、あらゆる決断という決断には皆それを蔑ろにする輩に対する積極的な批判が介在しているのであるが、それが示されている。それに対して諦観には大いなる関心と同時にどこか、無関心をも決め込むような趣もある。だから拒否というのは意外と積極的な関心でもあるのに対し、逆に諦観はどこか自己責任にはかかわりのない無関心(無責任)という趣はある。というのもそれ程偉大で自己能力を遥かに上回るような絶大な威光には逆らえないのだし、敵わないのだから、そういう対象は凄いと認めはするものの、観光で訪れた大きな山や恐らくこれからもそう簡単には覆されないであろうように絶大なる権力や時代の趨勢とかは総じて一部積極的に関心を払う部分もありはするものの、一方では消極的に認知しつつ自己の自由は別の場所へ求めるというような意志も含有されているのである。だから畏敬の念とか崇高さ、威光や絶大なる権威に対しては、それ自体と共にそれに仕方なく、遣るかたなく付従う者や彼等の心理はほとほと呆れ果てるという感情様相も充分あるのであり、関心と対極の無関心ではないものの、極めてアイロニカルな諦観、非日常的であり、それを拒否したい願望、でもだからと言って、そうそう簡単に拒否して無下に出来はしないという苦渋性も充分兼ね備えているのである。
 我々はそれがどんなに素晴らしいものであっても例えば現在ヒットしているポップスよりは昔自分が若かりし頃に聴いたお気に入りのポップスを好むというような傾向というものは確かにある。それは新しいポップスに対する無関心というよりは、中年をとおに過ぎたこの年になってまで今風を追い求めること自体のエネルギー・ロスを避けたいという一事であり、そういった保守性は、それが悪質な権威に対して阿ることとなり、新しいいい意味での優れたものの出現を否定したり(一応の関心と一応の認知さえしておればよいという)阻まない限りで容認されるであろうし、少なくとも新しい価値あるものを否定して真っ向からその活躍の場を阻まない限りで容認される自由(積極的に受容しないということは否定することと同じではない。)というものはあるし、それは静観して事を見守る(積極的に推進したり、賛同したりすることではないものの)限り、許された行為である。勿論それはあるゆる社会奉仕活動やデモ、平和運動、被害者救済のキャンペーンというような活動に関しても、それを拒否したり邪魔したりしない限りで、積極的に参加することを差し控えることそれ自体は非難すべきことではない。
 人間には不快なものを避けたいと思う一方、それに対しては結構積極的に関心を注ぐという側面がある。寧ろ心地よい快に対しては、それが容易に入手し得るものであるなら無関心をさえ決め込むところがある。それに対して特別の快に対して人間はやはり特別の超関心を持つ。しかしこれは最早関心の領域ではなく(というのは関心というのはあくまで現在の自己能力の可能性としては不可能である、つまりそのように我々が未来への希望として自己の介入し得る余地があるからこそ、自己参画の名において関心を持つのである。)熱中の域であり、妄信の萌芽である。また若い頃聴いた音楽が好きだという傾向性は古い経験から得たものについ一々深く考えることなく、付従うということは、それまでそれに対して自己が投入してきたエネルギー、つまり投資してきた関心量に比例して殆ど無条件反射的に受容するということがあり得るのである。このことはドーキンス等も動物行動において証明している。70代や80代の人間に現在において更に40年後にやっと手に入るような価値や財産を期待させることの方に無理がある。価値や関心あるいは未来への意志行動に直結し得ることとはおしなべて、それが自己の生のある限りでの実現可能性の範疇である、ということである。
 まただからこそ観光で訪れた地域が、どんなに気に入ったとしても、それが即、ではそこに引っ越すということがどれだけのメリットがその人間にあるかということに関しては甚だ疑問である。たった一回訪れたからいいのであって、また高く聳え立つ山も美しいのであって、そこに住むとなると肯定的に賞賛ばかりはしてはいられない、自然の脅威とも日常的に接していなければならないであろう。そういった地域で居住するにはそれ相当の決心とそれに見合った生活力を要求されるであろう。そういった地域に居住することが慣れているような経験の持主でなければならない。それはそういった自然の豊富な地域に居住することに慣れた人間が大都会で暮らすことにおいても同様な事態であろう。
 今までのことを綜合して下図のような事態は想定出来る。



無関心


不快事項=関心
___________

適度の快事項=無関心


関心
_____________________________________
特快事項≡関心が最早熱中に成り代わり、更に妄信と非懐疑として常套化する。


特別の快とはとりもなおさず共感であり、不快事項はその対極故に反感となって現出する。それは不快であるという一事で印象的な為に反措定的な意味においてどのような個人にとっても関心は惹く。しかしそれは反感であるから否定すべき対象である。否定すべき対象を関心事項にする時に人は、それがより多くの他者においては大きな共感を共有を得ている場合が多い(逆により多くの他者が否定するのに自分だけが肯定するものがある場合でも、同じである。それは依怙地となることにおいて同様である)。もしそうでなく他者もまた反感とまで行かなくても、余り多くの関心を誰もが持ちはしないような対象には適度の快を感じる事項同様徐々に埒外に追い遣られやがて無関心事項となるであろう。反感の持続はだからより多くの他者の大きな関心によって維持される。このことから見ても人間が社会的な動物であることは明白である。
 関心が形容詞を語彙選択させるモティヴェーションであることは、これではっきりした。
 そして自己の影響の及ぶ対象の性格が未来志向的形容詞の動詞化作用である。それは肯定的な場合も勿論多い。例えば親しい友人であり、誰に会わせても恥ずかしくないような誇りをその友人に抱いている場合、通常人間はその友人に関しては他者に自慢したりするし、そういった行為は明らかに尊敬心であるから名詞化された形容詞のようであるが、実はそうではなく、それは自己も対等の友人関係であり、それなりのその友人に対する自負があるからこそ、対等に交際出来るのだから、それは自己の影響が及ぶ範囲であり、従ってそれは動詞化された形容詞である。「あいつ(彼、彼女)はいい奴なんだよ。」という謂いには明らかに未来においても自己の選択として、その友人との友好関係を維持したいという意志が内包されている。これは形容詞の使用様相においても一際関心事項である。その次にやはり思想的に否定的に捉える友人とか、敵対する人間への関係においては、自己のバソプレシンが放出されるような報酬欲求が、敵対者を意識し、自己正当化領域を維持せんと欲し、我々はこれを関心事項にする。どちらともつかない、しかもそれほど印象にない他者は必然的に最も無関心な領域に記憶においても関心においても追い遣られやがて記憶からも姿を消す。悪い人間ではないのだが、とりたてて素晴らしい所も皆無な人間においてはその種の無意識的な判定から忘却選択がなされるのである。
 芸術家は他者や社会が目に留めるような事物をモティーフにしたり、あるいは自己の芸術スタイルにしたりする。しかしその根底には自己にとっても関心を惹くモティーフや考え得る最良のスタイルでなければ決して作品等仕上げられるものではない。芸術とは神経生理学的なアルゴリズムの顕現、あるいは具現化作用である。それが物質によってなされるのなら美術となり、記号によってなされるのなら文学とかコピー、あるいは音や空気の振動であるなら音楽となる。その行為の結果が作品である。その作品は公共的な価値を帯びる。しかしそういった公共的な価値物を作者に形成させるものは自我の欲求であり、故に作品とは自我の表出欲求の対象化である。
 創造された観念(哲学、文学)も物質や形態(芸術<美術>、舞踊、舞踏)も音声(音楽)も、ある人間一般がその平均値的な範囲で(個人差は勿論あるであろうけれど)受け取り方において心地良かったり、多少の挑発を受け取ったりという発信と受信のシステムにおいて機能しているコミュニケーションである。そこには概念化された統一的な意味に加担して作る側も鑑賞する側も参加しているという事実が厳然とある。それは無関心の対象という側面、つまりどのような人間でも同じような反応を示すであろう部分を想定して創造され、鑑賞する側もそれを知っているのだ。関心領域とは明らかに個的な意味の世界において浮上するし、そこからその関心を共有するという意識が共同体内で他者との間で成立するか否かが共通理解を生じせしめる。しかし無関心領域とは形容すべき言辞がどのような個人においてもそう変わらないであろうようなものとして恒常的に日常に存在する。個的な意味の世界では形容はどのようなものであれただの言葉でしかなく、空虚である。しかしそれを他者にその個的意味を示そうとすると途端に統一化された意味や概念を武器にしながら、他者の理解を頼りに自己‐他者の連関の中で共通性を探り出そうとする。理解はだからあくまで統一された形容、統一された常套的な事物に対する反応への自己の側からの加担である。自己内の個的意味における了解さえ、他者であればこれこれこのように判断し、かつそれは自己においても納得するという自己と他者の隙間を埋めるような共通した理解システムを前提としている。カントが「判・批」で示した「他者も自己と同じようにこのことに関してはこのように反応するであろう」ような判断に基づいて理解そのものが成立している。自己内では確かに形容し得ないものをも形容しようとしながら、形容はそのような形で成立し得るであろうという判断によって個的意味→概念化された形容という順序を辿り、何らかの自己と自己以外の他者との共通性において個的意味を削ぎ落とし、共通意味へと転換させている。

A言語のメカニズム 10、「生活」と「人生」、言語活動の段階的推移

 学者の世界ではある専門用語に依拠した非専門家に対する軽蔑、その専門家以外のどのような優秀な人々も排他し、専門家同士にのみ付帯する利害を死守しようとする歪曲したギルド意識は、それ以外の多くの世界で見られる。芸能界や放送業界ではたとえ夜中であろうと、仕事に入る前は「おはようございます。」なのだそうであるが、これなどもその典型例であろう。芸術家のコミュニティーによく見受けられるある種の反体制的倫理観の有無を巡っての踏み絵的仲間意識。風俗業界での極度に他者のプライヴァシーに一切口出しするべきではない、という歪曲的個人主義や共産主義。あるいは金融界やビジネス界における日本式「本音と建前」的使い分け主義や、偽善を承知で不文律化した常套的社会モラル。伝統芸能や国技の世界でのタニマチ的後援会を中心とした他では絶対見られない閉鎖社会。殆んど既得権益者のためだけの利権集団化した政治家の世界。出版企業界における公称と実情との本音と建前的使い分けのご都合主義。放送業界自体を手玉にとる一連の特殊広告業界の政財界との癒着など、枚挙に暇がない。こういった真意を包み隠し、偽装化されたコードにおいてその洗練さで職業的プライドと業界的仲間意識を構築している閉鎖的社会機能維持の責務感は、複雑化した社会機構とスピードアップされた業務処理システム自体がもたらしたものであるが、それよりも言語における意味の喪失と、常套的概念の必要以上の肥大化がもたらした側面の方が大きい、と思われる。言語活動自体に創造性がなければ、そこで執り行なわれる行為自体も形骸化しようというものである。ある規格化された概念以上の使用を認めないという考え方が全ての世界を閉鎖社会へと押し上げる。化学の世界で物理学用語を使うことが憚られた時代も長かったが、世界の自然科学の趨勢を見ればこのような御仕着せが甚だ時代遅れのものであることは明らかである。アートの世界でデザインを見下す感情は多く見受けられるが、デザインが20世紀以降にもたらした多くの業績を見れば、それらは哲学が科学と一体化したかつての栄華から科学の一人歩きによって哲学自体のアイデンティティーを追求しだしたここ2世紀間位の動きにも似て、アートの世界の自己同一的レゾン・デ・トルの一つの現れでしかない。つまりこういった歪曲化した閉鎖社会の仲間内での暗黙の秩序死守性は、ある種のイニシエーションを新人に対して課すわけだが、これはとどのつまりかつてのマフィアの常套的なイニシエーションにも似ている。留守番電話がヤクザ社会によって一般にも普及したり、ヴィデオがアダルト・ヴィデオによって一般化したりということは、ジャズや当時の映画を含むエンターテインメント業界が本場アメリカではカジノや飲食店、売春組織の総元締めたる当時のマフィアたちのビジネス手腕によって世界に普及したことなどを見ても何ら珍しいことではない。実際我々は仕事の息抜きにクラブへ出かけたり、ショーを見たり、酒を飲んだりといったことを古代より延々と繰り返してきた。もし学術書や専門書しか読まず、人と一切の社交をたち、酒さえ飲まない学者や芸術家がいたとしたら、その人たちは現実社会の様相を無視した閉鎖社会的住人の一人に過ぎまい。
 我々は知らず知らず内に一見反省がなく淡々と流れてゆく時間の中で閉鎖社会の恩恵にどっぷりと漬かり、いざそのことに気付いてみてもなかなか容易にはそこからは抜け出せないということを知っている。しかもそれはある種心地よいものでさえあるのだから。だからサヴァイヴァルサインとしての言語機能よりも「生活」を死守するための文化コードとしての意味を離れた概念的な常套性の肥大化した言語行為こそ、我々は最も警戒すべき隣人として自覚しなければならない。非常事態での責務を伴わないある種閉鎖的でいて、閉鎖していくベクトルになかなか気付けない、倫理観、世界観、人生観たちこそ密やかな潜在的洗脳力をもって我々の生活を侵食し、人生に反省する余裕を与えずに済まそうとするのである。偽装することを当然としたこの種の閉鎖社会的公序良俗は、しかし一切の偽装を排除することでナチュラルさを取り戻せるか、と言ったらそうもいかないわけである。
 車がなく、電話がなく、パソコンのない社会が既に不可能なように真意表明がサヴァイヴァルサインから離脱した言語においては価値的に偽装の合間に垣間見られるようなモラルでしかなくなっていることを招聘しているものの正体は、偽装と言って人聞きが悪ければ演技といってもよいのである。最低限の演技の出来ない人物がいたとしたら、その人は周囲の全ての人々から社会的落伍者、性格破綻者としての烙印を押されることだろう。場合によってはどこかの施設に収容されかねない。
 「人生」を左右するような大事は日々の「生活」的死守に較べれば遙かに少なく、人の一生において二度か三度、少ない人はせいぜい一回くらいなものである。その点日常的レヴェルの細々とした事実の積み重ね、生活スタイルの文化的コード、日々何ということなく交際する(ただ会話するだけの)友人から我々は何と多くの影響を被っていることだろう。言葉遣いや、言い回しの癖すらもが日頃親しくしている友人から影響を与えられる、(与え合うということもあるが、一方的な場合<つまり片方が極端な場合>もあろう。)その友人がどこか魅力的であったり、気が置けないということが大きく左右して、ついつい引きずられる、といういことは多分にあり得るのだ。
 つまりこういうことが言える。我々は自己以外の大多数が実際上それ以前なら慣用的にあり得なかったような言い回しや特殊語彙を使用するようになると、それに対する抗体による免疫拒否反応は次第に薄れ、それどこころかそういう言い方が自然なものとして定着してゆく、ということは決して珍しいことではない、ただの友人からの影響さえ被る我々である、他の大多数の言語行為において言い回しや語彙が実践され、そのことに対する懐疑さえもが、大多数から消滅してゆくと、そのことに関する限り、そのことに対する言及は、言語学や文法学や国語学の専門の大家ででもない限り、大抵そのことを疑問に感じることは、どうしても受け入れられないというもの(その内容は個人毎に異なっている。)を除き、注意事項からは消去されてゆく、という事態が往々にしてある、ということである。それは言語というものの慣用的性格、使用頻度による一般化的なコードである、ということと関係がある。とりわけ持って回った言い方で、それが仮に正しいとされるものでも、あるいは文法的にも正しくても言い難かったり、あるいは学術的に正しくても生活レヴェルでの使用頻度から次第に現実味がなくなっていったりしたものは、すべからく脱落傾向に瀕している(魚を「さかな」と言うことに比べ、「うお」と言うことは余程少ない。)と言える。
 なぜなのだろうか?はっきりとした理由は今断じることは出来ないが、それは言語行為がその時代、その時代における大多数の民衆によって育まれるものであるから、そのユーザーたる民衆の支持を得ないものは脱落し、幾ら為政者やその為政者に忠実な学者が奨励しても定着しないものは定着しないということがある、というわけである。これは文法的に矛盾する事態においても例外ではない、ということである。その証拠に、例えば「凄く暑い日だった。」が文法的には正しいが「凄い暑い日だった。」という物言いには会話上では(筆記上ではなく)何ら支障がないことからもよくわかる。「行かれる」と言うべきところを「行ける」と言うのも既に自然に感じられている。

 さて文法とか文章自体の構造よりも語順(日本語場合顕著)、アクセント(英語の場合顕著)による明示行為としての言語が問題となってくる。
「昨日私は銀行へ行った。」
の場合、何か嫌疑を掛けられアリバイとして発言しているとしたら「銀行」の部分が強調されるし、他の誰かではなく、他ならぬ自分が行ったということの強調なら
「私が昨日銀行へ行ったんです。」
となる。
 また昨日行ったことを強調するなら「昨日」が最初に来て更にその部分が強調される(語順だけでなく、同じ語順で全部を言ったとしてもストレスをそこに当てる)。強調の部分が一番大切な伝達事項であることは英語でも全く同様である。日本語だと私にストレスがかからるなら、助詞が、「が」になり、日本語でも英語でも方向とか場所の自己の行動との関係を強調するなら前者はこの場合「へ」の助詞、英語だと「to」の前置詞が強調されることとなる。このように文章自体を筆記すると同じ一つの言辞がその様相をがらりと変えることとなるような文脈上の事情と伝達意志の事情とによって差異を生じさせるもう一つの恣意性(本来の恣意性とは意味と意味との間の、あるいは概念と概念との間の差異が、音韻的差異においてのみ言い表されることを言うが)とも言えよう。
 エッセイの読者にとってある一つの文章はエッセイの全体を読まずにそれ一つを取り出してみても不明確な言辞であるのに対して、明確な意味づけがされている。前後の文脈上の展開過程で示される一言辞には方向性や志向性を明確に位置づける作用を持って存在している。小説においても同様である。小説は作家の自我の表出作用であるとも捉えられるが、小説のように文体そのものが大きな要素である場合、一個の文章は前後の文脈なしには何の意味も持たない場合は極めて多い。そういう意味では小説の文章は文脈的展開と作家の示す傾向性や志向性に沿った意図的布置を伴った恣意的な存在である、と言えよう。散文の持つ性質によるところも大きいが、文章というものがそれ一個の独立した在り方としては極めて曖昧なものでしかない、つまりいろいろの文章の組み合わせが意味を生じさせる、だから一個の文章はその意味に奉仕する一個の方向指示器であるか、概念指標的サインであるかとなろう。
 ちょっと話がそれるが、哲学の世界に経験論と合理論という考え方があり、まるで振り子現象のようにその二つが攻防を積み重ねてきたことはよく知られている。そういった二つの考え方は、ある現象を分析してゆく際に全く異なった物の見方が存在することを表わしているが、例えば遺伝子工学、遺伝学、分子生物学、心理学の世界でさんざん議論が戦わされてきた遺伝的(本能とも言えるが、そう言い切ってしまうと、個人差が隠れてしまう気がする。)ア・プリオリか、環境的(学習)ア・ポステリオリかといった議論において割りと多くの学者たちが自説を主張するために対する学説の主張を裏付けるような要素のある事例や真理に目をつぶり自説に有利なもののみを重要視する傾向が学者の世界にはある。それは一流の文学者や芸術家にもあてはまる。そういった現実を目にする時、我々は学問や芸術の世界においても政治が絡んでいるということを思い知らされる。何かの主張は、別の何かの主張に対する受け答えであり、その受け答えは前者に対するエールである場合もあれば、それを批判し、こき下ろすものの場合もある。それらが自説や自分の文学観や芸術観とかの主張と「生活」上の体勢保守の欲求が一体化していることは間違いのない事実である。すると言語はこの時、自説や自己の世界観を表現するための手段となる。他者との会話、対話がサヴァイヴァルサインを離れて文化的コードに沿った営みとなり、社会成員としての自覚醸成の一端ともなったパロールの歴史においてその会話、対話自体が目的化された、サロン性は実際上はあくまで建前で、真意の部分では論述することは科学や文化を語るという社会的責務としての題目とは裏腹に自己の「生活」死守と経済的な地位獲得と安泰を願う、そのために論敵をやり込め自己にとって都合よい状況を構築する為の方便にしか過ぎなくなる。ここに論理上の決戦において、文化コードの実践という側面から再びパロール(大学や企業での講義やプレゼン等の)もエクリチュール(学術書、論文、事業計画書等の)も手段、それは現代においては、古代のサヴァイヴァルサインと何ら変るところのない必須の、決死の行為となる。
 しかし学者の論文が極一部の有識者と呼ばれる人々にとってのみ有用な価値しか持たないものであるからと言って、では一般読者を多く獲得するような当代の人気文学者のエッセイのようなもののみが社会に有益であり、そのような専門的な論文など何の役にも立たないか、と言えばそれも違う。やはり専門である、ということは一般的理解の享受という意味では程遠いが、そういうものの中からは将来今を生きる我々が気付くことの出来ない価値を有していると再認される(大概がその時初めての世間的評価である場合が多いが)可能性があるのである。一般的にデザインは当代の人気を獲得出来ないものはアートに較べてまず前提条件をクリアしているとは言い難い。というのも多くのファンを獲得出来なければメディア(それが公衆の目にとまる媒介としての)の使命を全う出来ないからである。しかしアートでは一点性が問題となり(たとえ版画のようなものであっても、所謂印刷物とは違いそれ自体で自立した作品物であるから)それを購入するファンは、自分が目利きであり、そう大多数の人々にとって人気のあるものではなく、あくまで芸術的価値が理解出来る人からのみ理解されるものであることが、コレクターの収集意欲を駆り立てるものとなる。大多数の人々にとって共感されるものは、それがどんなに大多数であっても時代の変遷と共に別の人気物に取って代わられる可能性は大きく、そういうものの収集はコレクターの使命感を充足することは出来ない。学問にしてもそこら辺は同じ事情があると思われる。それが発表された時代には、ある真理を熟知した一部の理解者にのみ理解された仕事が、後代においては多くの理解者を獲得することとなる、ということはビジネスや政治のような社会機能の制御という業務を除いて一般的真理である。それでいてそういった真実未来へ向けての遺産となり得るものは極々小数である、と言えよう。大多数はそういう使命感にのみ依拠した独りよがりなものである、と言えばやや極論過ぎるであろうか?この問題はこれくらいにして次の問題へと進めよう。
 言語活動がサヴァイヴァルサインであり、非常時信号であることから文化的営みへと転化され、そういった行為の反復自体が生の時間の不可避的な日常と化すと、今度はその利用の仕方が、責務的、業務的な成功の如何を決し、やがて真意を隠蔽し、程よい公務的、公衆面前的、他者理解享受的なイノセントな偽装性に裏打ちされた会話や対話のみが理解され、社会的認知を得るというパロールやエクリチュールが所謂再び古代以前のかたちとは異なったもう一つのサヴァイヴァル戦略となってくるという現実は軽視することが出来ない。事実人間とは自己にとって困難な事項を最重要項目に挙げる傾向がある。それはそういう難題を克服することで、社会的認知を得、自己の「生活」を成り立たせたいという目論見があるからでもあるのだ。
 例えば外国に長期滞在したり、仕事の関係で訪問する機会の多い人々にインタビューしたりする人気番組があるが、そこに登場するゲストは二通りの意見に分かれる。その番組では英語が対象であるが、「英語習得にとって一番大切なことはヒアリングである。」という意見と「英語学習にとって一番大切なことはスピーキングである。」という意見とである。前者の意見を言う人々は、自己表現としてスピーキングはそう苦労することなく克服出来たのに、いざそれでコミュニティーの活動に参加出来ても、他者の言うことが巧く聞き取れずに苦労した経験があるに違いない。それに対し、後者の意見を言う人々は折角他者の言うことは聞き取れても、自己の立場や存在をアピールすることが出来ずに、色々積極的にコミュニティーの活動に参加出来ずに損をした経験があるに違いない。自己の長所にのみプライドを持ち、その短所には目をつぶり、隠蔽しようとする器量の持ち主を除いて、一般的に自己にとって困難な行為を最重要事項として認識し、それを公言することは社会実践と言語行為においては極自然な現実であろう。もっとも自己の弱点を他者や公衆に悟られまいとする無意識の欲求が、本当はヒアリングが最も得意で、スピーキングがもっとも苦手なのに「やっぱりヒアリングが一番重要な能力ですね。」と言う場合も大いに考えられるが。この意識は羞恥偽装であり、やはりサヴァイヴァル的な行為である。(別論文「真意と偽装の心理学」特に(偽装心理について)を後日掲載するので
参照されたし。)
 取り敢えずここで一つの結論が示されたと思う。それは言語活動が共同体形成期におけるサヴァイヴァルサインである時点では真意性というものは殆んどない。というのもそれが偽装であったならその個体の信用をなくし、その者は決して共同体内の当然的な享受権利たるさまざまの特典にあずかることが出来ないからだ。しかし一端その権利を手に入れた個体の中からはかなり早い時期に偽装して、同一種他個体に対し、欺くという行為を人知れずに実践していたのではないか、とも思われる。その事実がやがて共同体機能が言語的統一に伴って形成され、パロールやエクルチュール(どちらが先かは難しいが、ほぼ同時期であったとも考えられる。ただその目的性はかなり最初から分離していたのではないか?)での意志伝達行為が手段から目的へと移行していった過程で、文化的コードとなっていったわけだが、実際上は真意性はこの時点ではかなり明確になっていたであろう。なぜなら個体が別個体、つまりある社会成員は他者を裏切ること、嘘をつき陥れること、あるいはそこまで行かなくても自己の利益の享受にとっての邪魔者として遠ざけられるようなさまざまの偽装によってエゴイズムはかなりな程度で浸透していたのではないか、と思われるからである。真意表明、表出はあくまでそれを希求する願望が産み出した概念であり、それは偽装や隠蔽、策略的陰謀が渦巻いている人間関係において初めて成立する概念であるからである。しかしそれでも尚文化的コードとして、それこそカントの権利問題としての自由や純粋理性として当然前提される行為であると、我々は長い間言語を人間という一存在者固有のコミュニケーション手段として受け取り、その事実が我々をして言語行為を手段から目的へと押し上げてきた。しかしその行為の中からも当然の如く好意的、良心的な言語行為ばかりが育まれてきたのではないことは人間の歴史を見てみれば一目瞭然であろう。つまり偽装や陰謀というほどのネガティヴアクションまでゆかなくても、自己という個体、その家族の「生活」死守のための偽装、演技は常に社会的認知の方策として不可欠であり、そういった形式的公務実践という義務履行的言語行為が実際上は大半を占め、またその事実が他者との心の触れ合いとかのオアシスを社会成員は希求してゆくわけである。言語が手段に転落しても尚そこにコミュニケーションを実質的行為として温存させる為に我々はそれ自体の目的性を付与せずにはおれない
              

言語行為が純粋にサヴァイヴァルサインであるための一手段である段階
              
              ↓ 

言語行為が言語共同体の成員秩序となり徐々に文化的コードとなり、目的化してゆく段階

              ↓

目的化という建前的前提は定着したが、その個体ごとの自己「生活」死守のための方策として、言語行為の再手段化という転落状況

私たちは今この三つの段階での言語行為の歴史的推移を確認できた。このことから我々自身が言語行為から読み取れるその本質を個々の具体例を取り上げて考察し、言語構造自体がそのこととどういう相関性を有しているか、を洞察してゆこう。

Monday, October 19, 2009

D言語、行為、選択/9、選択の歴史と再認

 ある行為を選択することとはあらゆるそれ以外の行為を断念することでもある。それは人間が生まれてから死ぬまで不断に繰り返されてきている行為である。身体生理学的に言えば例えば、我々人間は<幼弱時には、大脳皮質の視覚領など、運動に直接関係のない部位からも脊髄へ軸策がおりているが、成熟するにつれてこのような軸策は消滅していき、脊髄へは、直接運動に関係した運動領とその周辺のみになる。また、大脳視覚領では、脳梁をへて対側の大脳視覚領へ投射する軸策のうち、Ⅱ層、Ⅲ層(大脳皮質は六層構造を示す、表面からⅠ層、Ⅱ層…….Ⅵ層である)に存在する細胞以外からのものは消滅してしまうことが知られている。>(「脳の可塑性と記憶」塚原仲晃著、紀伊国屋書店刊より)あるいは免疫システムに計り知れない大きな役割を果たすことで知られる<「胸腺」のもう一つの重要な特徴は、胸腺自身がかなり正確な「生物時計」であることである。「胸腺」は、十代の前半に最も大きく、以後経時的に小さくなってゆく。細胞の密度から見ると、すでに生後まもなくから脂肪が入り込んできて、40代ではすでに半分、60代では4分の1に縮小する。80代になるとほとんどが脂肪に置き換えられて、「胸腺」そのものは痕跡程度になってしまう。何が「胸腺」をみごとな「生物時計」にしているかも、いまだに不明である。(「免疫の意味論」多田富雄著、青土社刊より)つまり我々は皆身体上の仕組みから生きてゆくその過程で、あらゆる可能性を切り捨てて、選択に選択を積み重ねて生きてきているのである。それは選択して、あらゆる中からその可能性だけを活かして生きてゆくということなのだ。では、どうせ殆んどを棄ててしまうのなら、最初から一つの可能性だけが与えられておればよいではないか、と思うかも知れないが、実際はそのあらゆる可能性から敢えて一つを選択するという行為に意味がある、ということなのである。つまり決断、それは身体生理のような付随意運動も、我々自身の日々の決断も一環として流れる摂理である。そして、最低限のルールだけは守ろう、最低の数値的リスクだけは避けよう、という日々の消極的決断が集積されて、やがて大きな可能性への飛躍がなされることにもなるのである。そもそも生きるとは選ばれること以外のあらゆる可能性を棄ててゆくことに等しいのであるから、その可能性の中からさらに絞ってゆくことは行為で意志を表明してゆくことである。そして選択拒否というような最悪のシナリオだけは避けることで、最良の選択を摑んでゆくこと、これが生ということなのだ。だから選択の拒否は生の拒否なのだ。選択を恐れることは未来へ踏み込むことの躊躇なのだ。しかし我々は躊躇する。躊躇がしかし、最悪のシナリオだけは避けるべしという観点に変わった時に、我々はその中から自らの意志を掴み取ることになるのである。だから安易な積極性よりは、消極的なリスク回避の姿勢にこそ、生きてゆくという行為の実は極めて大きな生存戦略上のメリットがあるのである。
 躊躇の末にたどり着く最悪のシナリオだけは何としても回避すること、これはあらゆるケースにあてはまる真実である。積極的選択を極初期から行っている者が多くの場合失敗しているケースを我々はマラソンのレースに見ることが出来る。最初からトップを狙う者はやがて後続の集団に追い抜かれることが多い。人間はなかなかその真意が、自分でもわからない。だから最悪の選択肢だけは回避することから徐々に積極的な選択肢を浮上させるのだ。躊躇しない選択行為の連続はやがて不安を増大させる。「もっと考えた方がよかったのではないか?」という潜在意識を生じさせる。しかしもし最初からあらかた何を選択した方が良いかはっきりしている場合でも一応逡巡を示してから選択に踏み切った方が、仮に逡巡が所詮わかりきった確認であってさえ、その慎重さに自信を持つことが出来る。「これからもこうやって慎重に選択してゆこう。」そう思えるのだ。だから人間社会に保険があるように、人生に、人生の選択に保険を持つことは大切である。しかし、こう言う人もあるだろう。選択を躊躇していたがために他者に先を越されてしまった、ということもあるではないか。それは勿論ある。しかし、ここぞという時に躊躇しないためにも、普段あまり決する必要性のない時には極力躊躇しておいた方が、いざという時のエネルギーを確保しておけることになりはしまいか?最悪だけは回避する消極的選択の集積はいざと言う時のエネルギーを貯金するための最良の方策である。しかし人に先を越されたといって後悔するような一大決心などそう容易には我々の身に降りかかるものではない。少なくとも大きな選択を初期段階で果たしている場合には。その大きな選択、つまり決断とは最悪のシナリオだけは絶対回避する、ということと、大きな選択(それは大いに積極的なものである。)を迷わずに何回かするために、小さな選択は一々躊躇しておいた方がよい、ということである。
 大きなミスを回避するために小さなミスを恐れない、大きな幸を得るために小さな不幸を恐れない、ということである。だから真意はここぞ、という表明すべき時のために出来るだけ表明せずに、軽い罪のない技巧的偽装を常に心がけておくべきである、とは言えることである。我々が過去の先人のテクストから学ぶこととは、人生のすべての瞬間において選択する意志なしには、過去の何人たりとも人生を送ることなど出来なかった、という真実を知るために先人の選択(あるテクストの次にこういうテクストを書き残した、という事実は既に大いなる選択である。)を顧みることから、私たちの生の実像を反省しつつ見据える、ということにテクスト読解が等しいということを再認することなのである。

Sunday, October 18, 2009

C翻弄論 7、<権力と非権力の分化及び性的抑制メカニズム(理性)の進化とその一時的解除>序

 初期人類は狩猟に単身で出掛け、メスと邂逅する時間と機会はその間閉ざされる。しかも長期単身赴任する期間中性欲は抑制される必要性があったであろう。そうでないと狩猟に専念出来ないからである。そこでいったん仕事を終え帰宅すると一気に性欲抑制を解除させ一時的にオスとして機能しないと子孫を繁栄さえることが出来ない。そういったことのための性欲増進機能としてメスの乳房が巨大化した、ということ、つまり性信号説がデズモンド・モリスの説である。(「裸のサル」)例えばそのことを彼はチンパンジーの乳房の合理性、つまりチンパンジーの乳首の方がより赤ん坊の立場にたてば容易に乳を吸える(チンパンジーの乳房は人間のように巨大に膨張していないし、乳首は吸い易い形に、つまり人間の哺乳瓶のような形状をしている。)のに、人間の乳房は赤ん坊のためにのみ考えると明らかに巨大過ぎて赤ん坊を窒息させることにすらつながりかねない、にもかかわらずそういった難点を克服して尚赤ん坊は乳を吸う。これはモリスによれば配偶者たるオスを性的に誘引させること以外の生物学的機能としては考えられないということとなる。この考え方は極めて魅力的であるが、赤ん坊にとって巨大な膨張を来たした形状の乳房を邪魔なものと規定しているところが多少私には物足りない。ここではドーキンスの「騙されていると知りつつも惹かれてゆくような心理」が関係しているのではないか?(結論、魅力論で詳述。後日掲載)なるほど赤ん坊にとってはモリスの言うように機能的にはチンパンジーの乳首の方が優れているかも知れない。しかし乳首が巨大な膨張物の頂点に君臨する様自体は赤ん坊に対してより親近感を与えるという風には考えられないであろうか?けれどもモリスの言うような意味での性的な信号機能という考え方は意外とフロイト的な分析を肯定すれば説得力があるかも知れない。あの口唇期とか肛門期とかの時期的な分類はフロイトの十八番であるが、これはある意味では赤ん坊が幼児期に抱く親近感とは実は大人が持つ性的な欲求の無意識の前状態における発現と捉えることも不可能ではないからである。これは無意識というものをやがては発現される能力は有するが、実際まだ発現前状態である個体において別の親和力的な親近感として現出する、という考えを認める限りで限りなく魅力的である。
(尤も、「人間は顔面頭蓋の縮小ともに、手を的確に使用できるようになって、人類の口裂は狭くなり、やがて、唇、頬が形成された。このことは母親の乳を吸うのに具合よく、まさに哺乳類の名に値するといえよう。一方、体幹が直立するにつれ、母親は子を胸に抱くようになり、乳頭は腹壁よりも胸壁へ移動したものと信ぜられる。このような哺乳活動により、母子の結びつきはいっそう緊密となり、社会の最小単位の形成に寄与するところが大となった。」と、人類学者の香原志勢は述べている<「人類生物学」より>が、この考えによると母親と子の密着の度合いを深める為の選択圧として乳頭の形が頬のない状態では咥え難くなり、その生存本能的な抵抗として、頬の筋肉が強化され、手の発達と同時的に口が小さくなり、その代わりいったん口に入れた食べ物が口から漏れ難くする為に唇が進化した、という競争原理に則った選択圧による愛情欲求促進性という考え方が採用される可能性も十分にあるが。)
 しかしこの説にはまた全く別の角度から反論するかの如き説もある。それはクレーグの実験である。このことはコンラート・ローレンツによって彼の著作「攻撃」で触れられている。ちょっと長いが重要なので引用してみたい。
「次のようなまちがった教義がある。動物も人間もその行動の大半は反応であるけれども、それが生来の要素を含みさえすれば、つねに学習によって変化しうるものだというのだ。このまちがった教義はそもそも、それ自体としては正しい民主主義の諸原理についての誤解のうちに、抜きがたく深く根ざしているのである。これらの民主的原理にとっては、人間が生まれたときからやはりそれほど平等でもないとか、皆が同じような「正当な」やり方で理想的な国民になる見込みがあるわけではないとか、いわば「性に合わない」のだ。(中略)何十年もの間、行動の要素といえば反応や「反射」だけが、おもだった心理学者たちの注意を集めてきたのだった。これに対して動物の行動の「自発性」のほうはいっさい、生気説の立場をとる、いわばやや神がかった自然観察者の専門領域ということになっていたのだった。
 狭い意味での行動学の分野で、この自発性の現象を科学研究の対象にした人といえば、まず第一にウォレス・クレーグの名がある。彼の前にもすでにウィリアム・マクドウーガルが、いわゆる行動主義者と呼ばれるアメリカの心理学者の一派の旗印だったデカルトの、「動物は作用しない、作用されるだけだ」というスローガンに向かって、それよりもはるかに正しい「健康な動物は能動的に活動しているものだ」という彼の闘争宣言を投げつけていた。だがその彼自身、ほかならぬこの自発性を、得体の知れない神秘的な生命力というものの結果と考えていたのだった。それだから、自発的な行動様式が周到に反復するさまを綿密に観察するとか、行動を解き放つ刺激の限界値を連続的に測定するというようなことは思い浮か及ばなかった。これはのちに、彼の弟子のクレーグがなしとげたのである。
 クレーグは雄のジュズカケバトを使って、次のような一連の実験を試みた。ジュズカケバトの雄から雌を遠ざける時間を、段階を追って順に長くしていき、各段階ごとに、雄の求愛行動を引き起こすにたりる対象を、実験的に調べたのである。同種の雌がいなくなった数日後に、雄のジュズカケバトは、これまで見向きもしなかった一羽の白いイエバトの雌に求愛するようになった。それから二、三日すると、はく製の雌ばとの前でおじぎをしたり、クウクウないてみせたりするようになり、さらにのちには、丸めた布切れを相手にし、独房に入れられてから数週間後には、ついに自分がはいっている箱型のかごの、何もないすみへ向かって求愛行動を起こすまでになった。(中略)生物学の立場から見直すと、これらの観察結果は、(中略)ある本能的な行動様式をかなりの期間にわたって停止しておくと、この場合は求愛の行為だが、その本能的な行動様式を引き起す刺激の限界値が下がる、ということである。
(中略)ある行動を解き放つ刺激の限界値が下がって、特殊な場合にはいわばその限界値がゼロに達することがある。それはつまり、事情によってはその本能的運動が、これというはっきりした刺激もないのに「突発する」ことがありうるということだ。
(中略 行動を解き放つ刺激もかなり長い期間にわたって断つと、現われるはずの本能運動が「せきとめ」られる結果、さきほどのように反応しやすくなる。そればかりではない。その結果ははるかに深刻な経過をたどり、生物体全体を巻き添えにしてゆく。原則として、本能運動から今のようなやり方で沈静の可能性を取り上げてしまうと、それが真の本能運動であれば必ず、動物は全体として不安に陥り、その本能運動を解き放つ刺激を探し求めるようになるという特質をもっている。この探すという行動は、もっとも単純な場合には、あちこちと走り、飛び、あるいは泳ぎまわることだが、もっとも複雑な場合になると、学習と理解の行動様式をことごとく包括していることがあり、これをウオレス・クレーグは欲求行動と名付けている。(上、86ページより)
(中略)チョウチョウウオは同種の仲間がいないと、代りとして自分にもっとも近縁の種を相手に選んだことを思い出していただきたい。これはちょうど同じく、青いモンガラカワハギも似た状況にあると、いちばん近縁のモンガラカワハギばかりでなく、自分とはまったく別種の魚を、ただ自分と同じ青い体色をしているというだけで攻撃したことを思い出していただきたい。シクリッド科の魚についてはここで、まさに手に汗を握るほどおもしろいかれらの家族生活のことを、もっとくわしくお話ししなくてはなるまい。かれらは捕われの身であると、自然の生活条件のもとでならなわばりを接する隣の敵に対して消散するはずの攻撃欲が「せきとめられ」る結果、つがいの相手を殺すに至るのはごくふつうのことなのだ。(上、86~87ページより)
(中略)これを防ぐ手だてはごくかんたんだ。「身代り」つまり同種の魚を一匹その水槽に残しておくか、情深くやろうとするのなら、あらかじめ二つがいが住まえるほどたっぷりした広さの水槽を用意して、それを仕切りガラスで二等分し、それぞれへ一つがいずつ住まわせるのだ。こうするとそれぞれが同性の隣人に対して健全な腹をたてるようになる。見ているとほとんどきまって雌は相手の雌に、雄は雄に向かって突進し、夫妻のどちらも自分の相手に当たり散らすことなど思いもよらないのである。まるで作り話のようだが、わたしたちがシクリッド類の飼育槽をそのように防壁で仕切っておいたところ、雄が自分の妻に対して手荒なことを始めるので、ははあモがはえて仕切りガラスが曇ってきたなと気付くことがしばしばあった。そこで「隣室」を隔てる仕切り壁を元通りきれいに磨いてやると、たちまち隣人との間に怒り狂う、だがもちろん無害なけんかが始まり、ふたつのなわばりの中の「もや」はふたたび晴れあがるのだった。(上、88ページより)
(中略)そのグループのメンバーが互いに相手を良く知っており、理解し、愛していればいるほど、攻撃欲をせき止めるのはいっそう危険なことなのだ。わたしは自分の体験から請け合うことができるが、そのような状況のもとでは、攻撃や種内の行動を解き放つあらゆる刺激は、その臨界値が極度に低下せずにはいない。こうなると、たとえば親しい友人たちのせき払いとか鼻をかむといったささいな振舞いに対して、いわば泥酔した乱暴者が一発ほおを打ちとばすのと同じような反応をもって報いることにもなるのだ。人を極度に責めさいなまずにはいないこうした現象が、一定の心理学的法則をもつとわかれば、たしかに友人殺しは避けられるにしても、しかし責苦を和らげる足しにはまったくならない。結局、分別のある人がとる最後の手段は、だまって小屋(探検天幕、イグルー)から抜け出し、あまり高価ではないができるだけはなばなしい音を立てて飛び散るものをこわすことだ。これは少々きき目があり、行動心理学の用語では転位運動とか新定立運動と呼ばれる現象で、ティンバーゲンはこれを再定立運動といっている。(中略)自然界では攻撃が害を及ぼすのを防ぐために、この方策が非常にしばしば利用されている。ところが無分別な人間は、友人の命を奪うのだ。(後略)(上、89~90ページより)」
 ここでローレンツが示した事例はこと人間界においては彼が言うように心理学や精神分析から考察した方がよさそうなケースである。あるいは競争の原理として、プラグマティズムや経済学の理論から考察すれば、より綿密なデータが案出されるかも知れない。
 人間でも夫婦があまり他の近隣住人とか家庭外の人間関係を個々に持たずに、閉鎖的に二人だけの世界に閉じ篭っていると、最初はおしどり夫婦で通っていた夫婦が離婚へと至るということは、よく言われる熟年離婚とかのケースからも尤もな結果ではなかろうか?夫婦でも他人であり、相互のプライヴァシーは守られて然るべきであるし、またそのような個々が別個の社会と係わる意識が、引いては相互に内在する社会の中での競争原理にもいい意味で火をつけ、その中で自己の存在意義を発見してゆくことが出来る。
 人間には集団に加担すること、とりわけ共同体内での自己の位置というものに意識を集中させ、社会的な自己の存在意義を見出すことを本文とする欲求(集合意識、あるいは集団同化意識と呼ぼう。)と、それに逆らう一人で行動したい欲求(孤独確保意識と呼ぼう。)が相反するもの同士、矛盾を矛盾のままに同居している。これらはしかし実は同じ意識の表裏の関係にある。というのも前者は明らかに仲間はずれを嫌う傾向である。そして後者は一人ぼっちになりたいという心的な傾向である。実はこれらは相反するようでいて、互いが互いを必要としている振り子現象的な心理である。(結論、魅力論も参照されたし。後日掲載)
 人間は四六時中集団でいると、孤独が欲しくなる。しかし同時に四六時中一人で行動していると社会から疎外された気分になる。この二つの心理は相補的に、ある一定のバランス(それは個々人で異なった数値の割合であろうが)で我々の生活のリズムを構成しているのだ。この二つのある種の個的な臨界値的、不動点的な均衡状態こそ、我々の個々の生活の信念、信条を形成する要因となっている。
 それに対して男女の異性間の関係はこれらともまた一味異なっている。それに関しては本章の10節先の吉本、サピアそしてブーバー、柳田、フロイト、バタイユで詳しく述べるが、要するに我々の異性間の関係というものは一面ではエソロジー(動物行動学)的な種族保存本能によって形成される欲求であるが、同時に社会的な人間学的存在意識からは、それはジェンダーロール的なステレオタイプに忠実たろうと、それを打破して全く新しい性の在り方を模索しようが、とどのつまり理性論的な家族認識、異性間交友認識でしかない、ということである。
 正式の結婚という制度は婚外婚的常習性によって形成されたモラル認識であり、そういった意味でカント的な道徳律が意味を生じてくるのは、近代以降の結婚観、家族観以降のことであり(吉本隆明も「共同幻想論」中の罪責論においてそのような見解を示している。)、それ以前の中世、古代においては人類にとっての家族意識そのものも近代以降とは異なった考え方であったであろうし、また婚外婚的現実に対する見方も全く異なっていたであろう。寧ろそれを非倫理的であり、不倫という風に解釈しだしたのは、近代合理主義の考え方の定着以降であるように思われる。それ以前には婚外婚に対しては寛容である社会と、そうではない社会の二分されていたのではないか?あるいはもっと遡って、キリスト教、イスラム教文化圏形成以前にはもっと秘史的なものとして婚外婚は暗黙の内に了解されていたと考えられる。例えばユダヤ教においてはキリスト教的なモラル以前の戒律は示されているが、モーゼの十戒にしても姦淫に対する戒めを近代以降の結婚の合理的な契約論的なシステムとは異なった、所謂神に対する絶対服従という観念が仄見える。(しかしユダヤ教経典にはこれさえ守ればあとは何をしてもよいという主張もあると指摘する人もいる。「ユダヤ人」マックス・ディモント著、朝日選書)
 例えば猟奇的殺人者でさえ、姦淫している者に対して厳罰を与えるのだ、という使命感からそのような行為に及んだとしたら、それは近代以降の法的モラルからはただの殺人鬼でしかないが、紀元前的な常識からすれば、それほど疎まれるべきものではなかったかも知れない。それは純粋なる個人主義者として、その殺人対象が、神から与えられた契約の一部だけの遂行であるから、最終的には神への謀反であるが、社会的には現代よりは寛容な目で見られるようなケースもあったかも知れない。
 しかし少なくとも男女の性的な関係において、古代においては姦淫という現実も既にあったとは考えられるが、それは宗教倫理確立以前的な、言語共同体の原初的な集団論理においては個々の契約性というものよりも、集団の中での地位に従属した力関係の方により比重がかかっていた、という風には推測される。勿論それはライオンのプライドに侵入してくる外部の雄ライオンのような力関係のような野生とは異なっていたであろう。もっと社会的生活力とか、家族養成力といったものから来る血縁共同体内での常識のようなことがあったであろう。しかしそれよりも更に前段階としては、まさにライオンのプライドへ侵入する雄ライオンの如き野性的力関係はあったかも知れない。その段階においては寧ろ言語共同体形成過渡期であるために、どのようなタイプの異性関係が婚姻システムの形成において望ましいものなのか、という試行錯誤が繰り返られていた、とは考えられないであろうか?
 しかしここで最も考慮に入れて置かなければならないのは、そういった男女間の時間以外の、それは現代でも全く同様の事情であるが、仕事(生存確保のための)の間における男性同士の競争、家庭を守る女性間の連帯といった性的な分離においては、性欲抑制機能の発達という生物学的現実も大いにあったであろうと考えられる。勿論それ以前に生物学的には性的繁殖能力の期間限定的なシステムから恒常的に可能な状態への移行という現実が進化論的にも考えられる。そしてその次に考えられるのは、番婚以外の者による略奪婚の横行という現実であろう。そしてその次に考えられる移行過程とは集団による仕事の連帯と、それに伴う男女の責任分担、社会性の強化であろう。人間の言語能力はその過程においてその都度必要とされるトップ・プライオリティーに忠実に進化してきたという風に考えられる。
 暫く言語について考えてみよう。ローレンツの示唆していることからも明白なように、男女が対になって番行動だけによって何もかも巧くゆくような意味では、人間の脳は巨大化し過ぎたのだ。そして我々の祖先たちは、やがて有り余る能力発現可能性に従属しながら、遠僻地へも仕事で出掛け、家庭と家庭外の社会を峻別し得るようになる。それは恐らくまた同一地域における集団の密集化を防ぐ手だてでもあったのだ。子供が産まれ、そういう家庭が周囲に血縁的共同体として派生し続けると必然的に空間的に他者と接して他者領域を脅かす可能性も大きくなる、そこで集団社会を維持してゆくためにも、男女の体力差を考慮した分業システム、そして男性は狩猟その他(貿易もあったであろう。)の用事で、24時間中大半の時間を男性同士で過ごすこととなる。それは一面では他者との衝突回避の知恵でもあったと考えられる。何故なら仕事という同一目的で誰かと共にすることで、他者を敵として認識する暇がなくなるからである。
 こういった他者攻撃緩和型とも言える男社会的な意味での意思疎通に要求される言語とはどのようなものがミニマルに考えられるであろうか?それは恐らく最も必要とされる意思疎通の内容としては仕事に関する対話であろう。その男同士がかなりの人数になるにはそれを統率するリーダーの出現が要求されるから、それ以前にはまず2、3人の血縁者(兄弟、従兄弟その他)による行動が考えられる。しかし言語はまず二人の対話から発生したとしよう。3人で行動したとしても、一人は他の二人を指示するといったことが基本として考えられる。あるいは二人が同時に一人に対して指示するという事態である。言語がもう少し発達すれば、三人称が発話されだすのだが、それ以前的な段階では、基本として考えられるのは、提案、命令、促進、勧誘の言辞である。それは仕事に関して「早くしよう。」とか「早めに切り上げよう。」といった内容から、報告文的なものとしては一者が二者に対して「~は大きかった。」とか「~は肢が早かった。」とかいうような所謂獲物に関する情報伝達である。
 そこで基本となり得るのは、名詞+動詞(「あつ、兎がいる。」、「獣が来た。」というようなもの)、あるいは名詞+形容詞(「あそこの兎は<逃げ足が>早かった。」、「あの兎は大きい。」のような過去形による時事確認的なもの及び現在形形容等が大半であったとであろう。)、そして動詞+副詞(「早くしろ。」とか「もっと力入れろ。」のようなケース)である。
 その次として考えられる段階は、事実確認的な意味合いでの名詞+動詞+名詞(あるいは形容詞+名詞)であろう。例えば「俺は<早い(肢の)、あるいは大きい>兎を見た。」というような内容である。これは不在の現前化作用であり、表象性が極めて濃厚になる。この段階では三人称もまた定着していたとのではないか、と考えられる
 そして最後の段階になって初めて狩猟時以外での現在形による名詞+形容詞が来る。詠嘆表現である。
「この兎は大きいな。」、「この兎美味しいな。」あるいは過去形による「美味しかった。」であろう。
 人間の同一種内攻撃欲求が、社会システムの理性の名において正当化されてゆく過程において、徐々に生存競争の方向性は権力志向性へと転化され、ソフィストケートな手段によって他者を攻撃すること(権力者が部下を更迭するとか、資本家が法的手段に訴えて他者を社会的に制裁する。今日の世界では先進国ほど非資本家までが率先して、そのような自己防御姿勢を示す。)が常套化されてきている。それは古代から中世、近代と時代が変遷するも、その本質においては変わりない。かつて戦争であった同一種内攻撃欲求が、戦後の世界秩序においては建前的に国連という機関の憲章の名において、オリンピック時にのみ、国威発揚するべく仕向けられているものの、未だ武器供与的な現実は常習化されている。人間の攻撃欲は集団同化意識内においては、異性間での性的欲求を抑制する機能を発揮させるも、いったん職場を離れると、そこから先は自己の自由時間であり、その一つの向かう先が異性であり、その異性間交渉はある意味では種的攻撃を集団から個人へと対象を転化させた形である、と捉えると、婚姻として今日通用する行為は皆、孤独確保意識という本論において名付けた欲求のある特殊な変形であるとも考えられる。性的欲求性をいったん抑制させた後の解除システムの途上においては人間の異性間交渉は理性論的に意味づけ作用を希求するような内的必然性を帯びることとなるので、あくまで個人間の対幻想(10節先の吉本、サピア、そしてブーバー、柳田、フロイト、バタイユにて詳細に論述。後日掲載)の位相において孤独確保意識の中での純粋自己一者からの一時的解除を意味する。要するに社会に出る前に一時対になって孤独を確保する寂しさを紛らわすということだ。
 集団内においては、社会的地位確保、権力保持欲求となって立ち現れた攻撃欲は、個人レヴェルでは異性間による性的葛藤へと転化される。その二重の攻撃的本能の発現作用を人間学的に正当化するシステムとして理性が近代以降叫ばれてきたのだ。しかし実際本能抑制論的に言えば、狩猟時の雄の単身赴任行動期間中の同性間共同作業において既に自覚論的な意味での前状態として理性は方策としては顕現されていた、と考えても間違いではないだろう。その典型例の一つが「友情」である。
 そういう進化プロセスにおいて言語が果たすべき役割は甚大なものがあったと考えてもよいであろう。言語は前記のような形で初期段階は狩猟行動その他の仕事分担性や、行動誘引性として、あるいは最低限の情報収集性において、より二人称的な様相から発展、分化し、先述の品詞配列が徐々に決定され、その後に第二段階において、初めて詠嘆的表現が常套化するという考えは社会システムの安定その他の要因から考えるに、自然ではないだろうか?この段になると無意識的にではあるが、理性は遂行されている。寧ろ理性が近代において敢えて叫ばれたという事実にはそれ以前の中世においては長い暗黒的な非理性的時代が続いたということ、そして略奪横行の現実において攻撃欲が権力と非権力の分化過程において、凄まじく顕現された、と言うことが出来よう。その意味では理性という名には未来へ希望を託した哲学者たちの姿勢が伺える。
 つまりある意味では古代の一時期において、言語共同体の安定化の途上では平穏な時代も長く続き、ただその際に詠嘆その他の言語思考性による発展、分化、進化プロセスにおいて、より複雑化した感情表現や対社会欲求的概念の多様化に伴って、人類は再び混迷の時代へと突入したのではなかろうか?
 その意味ではエソロジスト(動物行動学者)たちが、例えば先述引用のローレンツらが、挙って動物行動を真剣に考察し始めた背景には人間の行動が歴史的に考察可能となった有史以来の反省意識の中から、動物行動と人間の相反する部分と、共通する部分の峻別をすることが嫌が上でも求められ始めたということをも意味する。そこまで行くには勿論ダーウィンの進化論が一回創造説への懐疑を徹底して論証する必要があったのである。ダーウィンによる創造説の否定という現実には教会権力が文化コードとして社会的常識化していった時代の批判であり、虚妄性への覚醒促進の意味があった。その後ニーチェやフロイトが登場して、多様な角度から神への疑念が、特に宗教権力的暗黙の世間知に対してなされたのだった。
 人類の言語活動がどのような形で進化してきたのか、ということを考える時我々は、本論で述べてきた性的抑制メカニズムにおいて社会的責任を自覚しつつあった初期人類が、その自覚課程において倫理的な語彙、動詞(「慰める」、「労わる」、「励ます」、「慮る」)といったものから、名詞(「愛」、「恋」、「憐憫」、「激励」、「配慮」、「反省」、「慈悲」、「懊悩」、「苦慮」、「苦悩」)といったもの<抽象名詞あるいはそれに類するもの>、あるいは形容詞においても(「憔悴した」、「諦めた」、「寂しい」、「悲しい」、「安堵した」、「苦しい」)というようなものも初期段階以降徐々に形成され始め、それらは同一品詞間においても異品詞間においても、相互に結び付いたり、離れたりしながら発展していったのであろう。こういった感情表現(倫理性への起源としての)は実際上、「空」や「川」や「食料」といった概念同様今日の我々からすれば重要であると思われるが、これらは概して表情による明示性から最初は始まり、三人称表現の形成と共に必要上、恣意的に事後的に語彙形成された、と考えた方がより自然であるとも言えよう。
 人類の男女が、ただ彼らだけの世界に閉じ篭ることなく、相互に他者と人間関係を持つということは、相互のプライヴァシー確保の観点からも意味あることである。そして言語は、対幻想的な対話性において、別の対話対象を一人以上持つことで、三人称的な話題を相互に(伴侶に対しても、友人に対しても)提供することが出来、そこから陳述様相が複雑化するというわけである。言語活動において、共同体内での人間関係の複雑化、多様化のプロセスにおいて、三人称並びに、客観的事実確認言辞の発展が齎されるわけである。言語活動が社会性と密接に結び付いているということは明白である。
 吉本隆明の述べている対幻想とは概ね、母子、父子、兄弟、姉弟、夫婦といった家族単位のものであるが、対幻想を全ての人間関係へと応用すれば、対幻想の数の多い人間ほど多様な人間関係と多様な他者観、多様な自己表出性を持っていることとなる。私という人間を例に挙げても、私がAという人物に対して示す私と、Bという人間に対して示す私とでは全く同じではないであろうし、そこで語られる真意をまた同じではない。私がAに対して心を許している部分と、Bという人間に対して心を許している部分とでは性質が異なっているからである。社会に人間が生きている以上、家族、家族を通した知人、職場、同業者間、地域住民、趣味の集いといった異なった性質における人間関係には質的にも相違があるし、そういった異なった自己像を表出させるために夫婦と言えどもプライヴァシーは必要であろう。あるいは親友同士でもそうである。異なった人間関係において育まれる自己像と他者像、他者人間観や自己表出性は個々別個のものであるからこそ、相互に意義を見出せる。そういった多層性のない生活では一者に対して全てを求めるから、ある種の強迫観念を他者に与え、鬱陶しい思いを相互が共有してしまう。フラストレーションの解消は他者に対して一部において接するということ、一部だけ真意を覗かせ合うという前提において、円滑に意思疎通が果たせるという側面がある。それを越権すると、プロクセミックス理論(エドワード・ホールの提唱した理論。同一種においてエソロジー的に言えば、空間の共有性と個体ごとに侵犯してはならない領域の双方が存在し、個体間による協調や種内繁栄も、そういった秩序に従ってなされ得るという考え。)をここで採用してもいいが、要するに他者に対して最低限の自己防衛本能を適用してしまう結果に陥らざるを得ない。
 いかに夫婦や親友と言えどもプライヴァシーを侵害しない範囲でのみ共有し合える時間と空間というものがあるのだ。
 他人に対しては社会において競争意識が、人間に内在する同一種内対他個体の攻撃欲を解消させ、男女間においては性欲的な攻撃欲を解消させるのだ。この二つが連動して、初めて男女間において固有の、対他者において固有の対幻想性が保持し得るのだ。そしてその対幻想の質的相違が我々にそれぞれの人間関係の意義を認識させるのだ。
 異性間の交友が皆無であると、同性間において異性に求めるものまで求めてしまう。友人間でも、家族がいないと、家族外の人間関係に家族に対して求めるものを求めてしまう、という弊害が、無意識の内に齎される場合がある。あるいは家族外の交際の一切ない人間は家族内で家族外の人間に対して求めるものまで求めてしまう。恋人同士だけの狭い世界に閉じ篭ってしまうと、相互のプライヴァシーが侵害され、同伴者に対して、別の他者に対して求めるものまで求めてしまう。そういう閉鎖的な意思疎通においては一方的なエゴが他者に押し付けられてしまう。それが最も極端な形となったものがストーカーである。
 
 クレーグ説では、それまでメスと一緒にいる機会の多かったオスをメスから隔離していったことから引き出されたのである。だからこそどんなものでもメスの代用とするようになったのであろう。そこで示されたのは動物間において示されるフラストレーションである。
 ところが人間(初期人類)はもっと長期間メスと隔離しなければならなかった。狩猟その他の行為を怠ることは共同体加担意識からは許されざる行為であったであろうから、性的抑制は必然的に求められることとなる。それでいて人間は長期間隔離しても尚番でいることを止めない動物であったということでもある。いったん離れ離れになってしまうと特殊な例外を除いて概ね二度と番わない動物と人間の差がここにある。人間には多層的な人間関係を同時に維持し得るような知性が備わったのである。その人間関係における単純なものから複雑なものへの移行段階そのものを理性と名付けてよいのかまだ私にも解からない。ともあれ人間は身体が大型化し狩猟に時間をかける必要性が生じた。ここで彼は性的な発情ということに関しては長期抑制恒常性を身に付けたのだ。(概ね同性間の友情とかいうものはここから発生したのであろう。)繰り返すが、そういう狩猟時に発情していては仕事にならないからである。そこで彼は選択圧に応じて自らの抑制機能を発達させた。それは結果論的には理性の萌芽でもあったのだ。しかしいったん家庭に戻れば子孫も繁殖させねばならない。そこで一気に性的抑制システムの解除が必要とされ、その為に性的信号として乳房が巨大化したのではなかろうか、というものが、私が補足するモリス説である。
 長期に渡るメス不在を経験するオスは、尚家庭においてさえメス不在であるような抑制状態を維持していたのでは、オスは繁殖に成功出来ない。(人間が一年中発情出来るのもこのためではなかったろうか?つまり性的欲求抑制機能という長期単身赴任性がある限定された時期にのみ生殖機能を開示させることが不利なように自然選択が作用したのだ。)そこでメスは小さかった乳房をオスの性行為を誘引させるくらいまで性的対象として求めるようになっていったのだ。それは性的誘引作用としての記号でもあったわけである。

Saturday, October 17, 2009

B名詞と動詞 7、 名詞と動詞を中心とした様相的変化認識と理解及び記憶の構造における言語学的、大脳生理学的、行動遺伝学的考察によるアプローチ

Ⅲ‐<動詞>と『感情表出抑制』を<目的語のみを報告させる省略>で遂行させる常套性(西田のリッケルト解釈が示唆するものとの合一において)

 さていよいよ動詞と名詞に関する洞察へと赴いていこう。まず結論的に言って陳述において名詞は目的語か主語において表示されるということである。そして我々は人類が言語による意志伝達においては名詞と固有名詞とは異なったものであった、と思われるのである。固有名詞はまず個体に対して我々共同体(同一種個体同士の寄り合い)で発達し、名詞はそれよりずっと後であり、しかも最初は生存に最低限度必要なものに限られていたということである。しかし徐々に名詞の数は恐らく動詞の行為性や動作性の複雑化に伴って必然的に増加し、細分化規定性を生じていったのであろう、と思われる。
 コミュニケーションは徐々に意志伝達上の必要性、報告義務に伴う責務性とそこから離脱した個人間の友好的な意志伝達性、感情表出が伴っていったということである。その過程ではより感情表出の必要性の大きい場合と、そうではない抑制し合う場合とが分岐し、コミュニケーション自体の在り方に多様な表現可能性を付与していったと思われる。
動詞は生涯を開発エンジニアとして過ごし、晩年には技術翻訳も行い、俳句を作り発表し、その俳句を言語学的に捉え、言語論を書いた西村佳寿夫(1925~1991)<筆者の父>によると「主語とか目的語の有する十全な規定の内から部分集合をつくる、そのつり方である。」と言う。そして全体規定としてはフッサールも使用した哲学概念、「基体があり、その中の作用として主語と目的語を繋ぐものこそを動詞である。」と捉えていた。
 基体は身体存在的にも我々が我々自身を明確に規定し得る行為性の可能性を支える意識やストローソン的な視点から言えば自己存在を明示し得る能力ということとなり、カテゴリー的な主体としてカント的にも発達心理学的にも認識出来る。
 フッサール的に捉えれば知覚充実は思惟、反省幻滅を喚起し、逆に思惟、反省充実は知覚幻滅を来たす。そして知覚充実が関心によって喚起されることは間違いなく、関心は経験やそれによって醸成された知識、価値観といったものによって支えられ生じる。知覚充実は記憶を促進し、充実された知覚内容は、その記憶される時の経験判断によって一部概念化され、一部エピソード性として情景的に、視覚映像的に記憶像として収納される。そのデータファイルの検索こそが想起である。追憶を履行することである。
 想起は記憶の引き出しであり、記憶作用は記憶されたものによって構成され、それを引き出しつつ全体的に価値判断するような関心自体の様相によってその記憶される内容とその意味合いを変える。同じ海を見てもサーファーと漁師と気象予報士と海洋生物学者では全く異なった記憶内容と意味合いを生じさせるであろう。関心は主要な意識の対象であり、その都度の生理的状況性(おなかがすく、とか便意をもよおすとかの)に関わりなく長期持続することの出来る生の目的性や意義をそこから派生されるような心的様態である。
 関心が意志伝達を動機付ける。関心からではなく、致し方なく自己よりも上位の他者に接する時さえも、我々は意志伝達にはその他者に自己のスタンスを真意からにせよ、偽装にせよ、明示することを目的にコミュニケーションを行う。それは自己防衛でもあり、同時に自己主張でもあるような、フロイト的に言えば「自己保存欲動によって無意識に選択された行動」である。意志伝達という行為をそのようにまず捉えてから文章構造論へと移行する必要がある。
 結論的に言えば全ての文章は主語+動詞+目的語(構造論的に認識するのと、英語をモデルとして考えればそのような語順になる。日本語では主語+目的語+動詞になる場合が殆どであるが、その間に助詞が挿入されるが、これは言語ニュアンス的、意志伝達性への配慮に関した事項と考えられるので、本論においては思考除外する。後日またその部分での考察は必要であろう。)であり、それ以外の主語+動詞+補語や主語+動詞という形は全て主語+動詞+目的語の変形であり、しかもそれは目的語の省略ではなく、文章それ自体が目的語そのものであり、その目的語に対する主語と動詞の省略と捉える。これがまず大きな本論の骨子である。

 そういったことを論証する前に多少もっと一般的なことから考えてみよう。
 大学とは一般的に一般教養的レヴェルの知識や見識、常識を学習するところであるのに対し、大学院とはもっと掘り下げた研究領域、大学が客観的な事実確認の場であるなら、主観的、微視的に深化された部位に対する知見の洞察の場である。それは我々が日常で何か発言したり、友人との会話で発したりする一言に似ている。大学的教養が一般的で常識的に役に立つ幅広い見識であるとすると、それは我々が日常的に抱いている経験的知識と言語能力(端的に言えばその人の語彙選択能力のことであり、語彙の豊富な人間は意志伝達に際して感情表現において多くの選択肢を持つことになるから当然の如く、微妙なニュアンスも表現出来、深い洞察も可能となる。)によって構成された思惟や反省の内容をも決定してゆく思想全般、もっと言えば記憶と学習とその経験的な条件反射をも生む人格である。思想として構成されている人格はその意味で言わば「語り得る意味」の世界である。するとそこから我々は語彙や各論的意味を引き出し、語彙選択し、経験的知識によって他者を査定(信頼出来るか、あるいはその人の学識や能力、性格的相性<自己にとっての>を一瞬で判断する。)してコミュニケーションに望む。だから試験の際には面接において面接官には出来るだけ好印象を与えようと苦慮するのである。
 コミュニケーションにおいてなされる会話では伝達内容やそれに伴う語彙がその都度選択され、それをどのような形で伝達すべきかは、その伝えるべき他者への査定によって、親しさ、社会的な自己との関係とかの所謂会話を成立させる上での戦略の基盤となり得るものに応じて選択されるのである。選択された伝達内容を他者へ語るのは、自己内部に意志伝達の行為意志がなければ成り立たない。フッサールが動機付けと語ったものもこれである。しかし会話上ではある陳述内容が、それ自体では主語、動詞、目的語とかの言述的な自立構造を有していても、その言述自体が対象化される。このこともフッサールは「論理学研究」4(249~250ページより)で述べている。「名辞によって表現される対象」、と彼は言っている。願望、質問、命令はそれ自体言述によってなされる自立した作用であるが、それはその発現自体が過去のものとなると、次になされる会話内容においては過去データという一要素になるのである。ある発言をコミュニケーションのパートナー同士のどちらかが言えば、それはその発言自体、発言をどちらかが発したという行為事実自体が対象化されるということをフッサールはここで述べているのである。そして彼はこの事実を諸作用の充実する直観と言って分析している。
 「いろいろな文法的形態とそれらの表意によって表現されているのは、願望そのもの、命令そのものなどではなく、それら諸作用の直観、すなわち充実する直観である。言表文と願望文を同位におくべきではなく、事態と願望を同位におくべきである。」ここで言われているのは、ある言述の内容が如何に真意に満ちたものであり、また如何に直裁であったとしても、その語られた内容そのものが重要であるばかりか、それ以上に<そういう内容を、今この時点でこういう風に他者(意志伝達の相手)へ向けて発するという行為を選択していることをあなた(意志伝達の相手としての)に表明している私と、それを当然の如く受け入れているあなた>のつくる状況的なことへの直観、つまりこの状況的な意味理解である。だからこそさっき言ったこと、今言ったことは、全て過去のデータとなり、会話している者同士の共有財産になり、「それは違うよ。」というように次の陳述を促進するのである。
 フッサールは哲学者としては、そういった複雑な意志伝達上の綾を言語を中心とした論理の追究に関しては「論研」期に特に集中して行い、寧ろその後「イデーン」期においては、そういった言語的遣り取りそのもの、つまりコミュニケーションを成立させる基盤としての動機付け(モティヴェーション)を重要視し、主軸に論的展開を行った。そこでは自己_他者の相関性が論的対象として認識されている。しかも筆者の研究領域とする偽装心理学的な視点も既に提出している。それは次の箇所である。
 「(前文脈、省略)ここで特に注意すべき点は、そのような形式で表明される主観的な判断の場合にも、事象的な反論がなされえないということである。確かにそれら主観的判断も真か偽かのいずれかであるが、しかしここでは真理と誠実性が一致する。ところが《客観的なもの》についての(すなわち自分自身のことを語る主観とその諸体験にはかかわりのない)諸言表の場合には、事象についての疑問は[言表の]意味に関係し、そして誠実性についての疑問は<本来の正常な意味作用をもたぬ、見せかけの言表の可能性>と関連している。[そのような言表の場合には]全く何も判断されず、言表の意味は錯誤志向(ドイツ語略)と関連して表象されるのである。」(「論研」4、251~252ページより)
 つまりこういった言表における真意表明性でないものとは、要するに自己の主観に相容れないような言述は、それだけで真理と誠実性の一致がないわけだから、偽装となるのだ。だからもし仮に間違った事実を報告してさえ、それを真理であると信じて疑わない限りで、真意表明性においては全うされており、「あの時言ったことは間違っていた。」と言いさえすれば、信頼関係においてその言述をした人間は何ら人格的にも(職業的には多少その学識と能力を説明責任上、信頼失墜することはあり得るが。)信用を失うことはない。嘘をついているのではないのだから。
 さてフッサールがこのように誠実性といった概念を提出したのが「論研」期最終章近くであることが、象徴的に以後の哲学的推移を髣髴させる。というのもこれ以後彼は論究的には言語自体ではなく、言語的コミュニケーションを成立させる基盤としての大脳神経学的な究明に通じる生理学的判断作用へと向かうからである。
 だがフッサール現象学にはもう一つ極めて特徴的なこととして、イデアの存在を明確に認めていることである。その意味では後代の哲学者がそれを排除してゆく努力の基盤を提出したとも言える。だが我々はこういうことも言える。どのような時代の古典でも我々の時代において必要とされるような真理を言い当てている。そしてそのテクストが我々の時代に相容れないもののみを度外視して、必要な部分のみを我々は咀嚼してゆけばよいのではなかろうか?(サルトルがフッサールに対して批判しつつ咀嚼しているその姿勢に我々は学ぶことが出来る。)現に我々は他者の言った発言の中で、あるいは自己が発した発言の中で今現在に必要な要素や性質のみを抽出して次の会話、その引用される会話からすれば未来の会話に活かしているではないか。これは先述した過去のデータの対象化にも通じる。フッサールは兎に角、イデア論の為の方法論的な論的展開に極めてカント的手法を多く取り上げている。だから恐らくこういった部分から場所的論理で有名な西田幾多郎は「認識論における純論理派の主張について」ではフッサールと対比的に取り上げた西南学派のリッケルトの方により明晰さに関して軍配を上げている。(筆者はまだリッケルトを読んでいないので、そのことに関しては後日の課題としたい。)西田のリッケルトに纏わる謂いをいくつか断片的に引用してみよう。この引用は本章の論点にも密接にかかわると思われる。

「純理論派はその議論の出立点として認識の可能なることを仮定している。認識といえば無論、客観的知識の意味である、客観的でない、真でない認識というのは自家撞着である。それで、何らかの意味において客観的知識即ち真理というものが可能でなければならぬ。しかし此処に客観的知識というのは決して経験界以外の実在界の認識という意味ではない。かくの如き認識を仮定するのは非常なる独断である。ただ何らかの意味において個人の意識以上に何人も一致すべき一般的、必然的知識がなければならぬというにすぎぬ。こういう仮定がなければ認識論の問題がない、即ち認識論というものが無くなるのである。この考はリッケルトの『認識の対象』(ドイツ語省略)において明にこれを認めることができるが、純理論派一般の出立点であると思う。」(12~13ページより)①
(前略)「リッケルトは次のように言っている。「疑うということは問うということである。問うということはこの断定が真か、反対の断定が真かということである。いずれにしても一が真でなければならぬということを仮定しているのである。」(ドイツ語省略)(13~14ページより)(後略)②
「(前略)さて苟しくも客観的即ち一般的知識というものがあるとすれば、そはこれを知るところの個人的主観を超越したものでなけれならぬ。真理はこれを知る知的作用と関係ないものである、誰が何を考えても同一のものでなければならぬ。否人が考えると考えるとに関せずそれ自身において不変のものでなければならぬ。重力の法則は始めてニュートンが考えたものであるが、ニュートンの思惟作用と重力の法則という思想とは全く別個である、重力の法則はニュートン以後にもこれを考えたかも知れぬ。こういう考はリッケルト及びフッサールの極力主張する所である。それであるから個人的主観の事実から一般的真理の規範を立てることはできぬ、誤った思惟も正しい思惟も共に同一の事実である、「かくある」ということから「かくあらねばならぬ」という規範を立てることはできぬ。真理の基礎は真理其物の性質に求めるの外ない。(15ページより)」③
「(前略)リッケルトが1909年の『カント研究』雑誌の掲げた「認識論の二途」(ドイツ語略)という論文によれば、この対象を求める途は二つあるといっている。一つは事実上の知的作用を分析し、真といわれる知識の対象を明にして、これによって超越的対象に達するのである。これを先験的心理学(ドイツ語省略)という。もう一つは知的作用を顧みず、先ず直に超越的対象を論ずるのである、これを先験的論理学という。リッケルトが『認識の対象』において取ったのは前者であるが、氏の考えでは、前者の出立点は心理現象である。心理現象からはどうしても超越的対象へは達することはできぬ。前者の方も勿論欠くべからざる研究ではあるが、むしろ後者の方を主とした方がよいというのである。
 それでは知的作用の外に認識対象を研究すべき事実があるであろうか。リッケルトはかくの如き事実として文章Satzをとるのである。文章にも知的作用のように真ということがある。かくいえば、真に文章は我々の思惟作用其者が真であるのではない、思惟されたものが真であるのである、即ち思想Gedankeが真であるのである。(18~19ページより)」④
「『認識の対象』の方においてはリッケルトもなお先験的心理学の方法を取ったのであるから、右の対象を現わすのに当為Sollenという語を用いているが、当為という語は要求、規範、規則などの語に似て、なお主観的色彩を脱することができぬ。「認識の二途」において意義、価値などの語を用いて、客観的意義を明にしようとしたのは、純理論派の考としては一歩を進めたものといわねばならぬ。先験的心理学の方では我々の心内の経験たるEvidenzgefuhl 、Urteilsnotwendigkeitということを根拠としてこれから意味とか価値とかいうものの仮定に進むのであるが、この方法ではいかにして此の如き精神現象の中に超越的或者を見出し得るかを説明するのは困難である。これに反して超越的論理学の方から先ずこの対象が明になって来れば、右にいったような感情、即ち内在的標準たるものが精神現象でありながら而も超個人的意義を有し、内在的でありながらも而も超越的意義を有することを明にするのは容易である。何となれば意味とか価値とかいうものは超越的であっても、とにかく我々がこれを理解する以上は我々の知的作用の中に単に主観的状態以上の意味がなければならぬわけである。この意味を現わすものがEvidenzgefuhlという如き内在的標準である。但し此処で如何にして我々は超越的価値を知り得るかという問題が起こってくるのであるが、リッケルトはこの問題は認識論において不可解であるといっている。(後略)(20から21ページより)」⑤
「(前略)リッケルトに従えば主観と客観の対立は、三通りに分けられる。第一は自己の肉体と肉体以外の物体界との対立、第二は自己の意識と意識外の超越界との対立、第三は自己の意識とその内容との対立である。この三対立の中第一の方は認識論と何らの交渉もないが、認識の対象が超越的でなければならぬといえば、第二の対立の意味において我々の意識内容という如きものであったならば、第三の対立においてのように更にこれを内在的対象として見ることのできる即ち真の主観ということはできぬ。此の如き主観に対してならば、超越的でなくとも我々の意識内容に属せぬ実在は皆客観として対立することができるのである。(後略)(24ページより)」⑥
「(前略)認識の超越的対象というものは何らの意味においても内在的対象即ち意識内容となることのできないものでなければならぬ、苟くも我々の知覚、感情、意志と関係するものであってはならぬ。リッケルトは知覚、感情、意志の心理的作用其者も認識主観より見れば既に内在的対象であると言っている。(後略)(24~25ページより)」⑦
「純論理派を叙述するといえば、フッサールやコーヘンを充分に研究するべきはずであるが、余の知る所ではリッケルトとフッサールとは大体において同一主義の人であり、特にリッケルトが近来主張する超越的論理学において知的作用を超越する客観的価値を説くあたり、益々フッサールに近づき、フッサールよりなお一層明白にフッサールの言おうとする所を言い顕しているではないかと思われる。しかのみならずリッケルトなどはカントより出ただけ、それだけ認識論的問題を明にしているようである。(後略)(25ページより)」⑧
「(前略)規範とか当為とかいう処に基礎を置いては、到底主観的意義を脱することができないのであるから、リッケルトは「認識論の二途」において意味とか価値とかに客観性の基礎を求めるようになったのである。(29ページより)」⑨
「(前略)純粋経験の統一は当為である、規範である。規範とか当為とかいうことは意味の要求であって、即ち我々に最も直接なる何らの仮定なき経験の自発的傾向である。リッケルトが近来全く主観的認識作用を除去して単に価値より出立せねばならぬというのは、一方より見れば、一層純粋経験の立場に近づくものと見える。純粋経験の世界は価値の世界である、意味とか価値というのが経験の直接的状態であって、或主観がこれを知るという如きは後から附加した考であると思う。カントが経験的統覚に反して純粋覚を明にし、リッケルトが先験的心理学より先験的論理学に転じたのはかえって純粋経験自発の真面目に到ったものと見る事ができる。(後略)(33ページより)」⑩
「(前略)リッケルトのように論理的範疇によって経験せられぬものは経験といわれぬといえば、議論は単に名称上のこととなるのであるが、論理的判断の加わらない前に既に直観的或者があるではないか。リッケルトはこれをdas Ursprungliche,das Bekanntesteではあるが、das Vorbegrifficheとして不可解であるとしている。(中略)此者の論理的に不可解なることはいうまでもなきことであるが、論理的に不可解であるから、混沌たる雑多であってすべての意味において無意味であるとはいわれまい。我々の具体的生活は論理的にその根柢を理解することはできないかも知れぬが、意、意と相触れ、情、情と相応じ、知情意未文以前経験の具体的体系を有するものとするならば、理解以前の理解ということもあり得るのではなかろうか。(中略)いわゆる純理論派はこの点に対して余りに独断的であると思う。(34~35ページより)」⑪
「次に如何なる知識も既に論理的規範を仮定しているという議論について純粋経験からの考を述べて見よう。リッケルトなどは直接経験ということはKateogorie der Gegebenheitに当嵌まって始めて認識となるという、例えば現前の色覚は「この色がある」という判断の形となって始めて認識となるという。此の如き考は極めて深く鋭き考ではあるが、元来、経験の直接状態というものがあってKateogorie der Gegebenheitがあるのであるか、この規範があってかの状態があるのであるか。意識がなければ論理的規範が現われぬといい得るでもあろうが、後者がなくとも前者があるということは、前にもいったように、リッケルトなどでも許している。もしかく考えるならば、意識は規範以外に立つものであるということができる。「ある」というのは既に論理的規範であるというかも知れぬが、意識するということはとにかく規範的「有」の以前になければならぬ。このdas Vorbegrifficheは余の主張するように、統一的、発展的のものである、規範は意識以外に別個の根源を有するのではなく、この中に含蓄的なるものが発展につれて、顕現的となってくるのではなかろうか?例えばKateogorie der Einheitについていえば、直観は即ち統一である、而して我々がこれを体験するという時既にこの統一を破るといっている(中略)。しかしかく反省することのできない、思惟の対象とならない直接の活動的統一を反省していわゆる統一範疇が出て来るのではなかろうか。(中略)経験の発展なくして思惟の発展があり得るであろうか。勿論右の如き議論に対しては、純理論派からは、これ即ち意味と事実とを混同したものであるという反対が起こるであろう、リッケルトは白色の知覚作用は白にあらず、理解作用は真にあらずといっている。(37~38ページより)」⑫

 ここで西田が考える意識や理解とは理解以前のもの、判断や認識以前のものである。その言ってみれば即自的現前の然る後に、と言っても瞬時であるが立ち現れるのが論理的規範である。この物の見方は故に即自的ではない。対自的、客観的である。ヘーゲルにとって「意識と世界との区別は自体としてあるような区別ではない」から、その言ってみれば境界の曖昧さを克服すべきであるという姿勢から例えば自己と他者の峻別は「否定さるべきもの」という様相によって始めて認識されるのである。この否定の論理はサルトルにも多大の示唆を与えたが、西田の意識はヘーゲルやサルトルが行ったような意味では存在論的ではない。今日のように存在論が不在である時代には寧ろ自然に我々には感じられるが、ここで西田の言う意識はヘーゲルのように区別するものとして立ち現れてはいない。西田が言うリッケルトの「この色がある」(⑫参照)という判断が認識を形成するも、それ以前にも我々はその色を知覚してはいる。勿論言語を有した我々はすぐそれを「ある色」として識別するが、識別されることのない、例えば言語習得期以前の、あるいは臨界期の子供には寧ろその色が白であるとか黒であるとか以前にまずその色の現前的な性質が感知されるだろう。しかしそれは理解以前の理解であり、我々が言語で世界と社会と他者と対峙してゆくこととなる現実に対して自己固有の世界や現実に対する理解の仕方(それがある個人の固有の意味、体験性に根差した真の意味<概念化作用以前の>である。)があり、それを手掛かりに我々は林檎を林檎として、テーブルをテーブルとして、世界を世界として認識する。だから当然ある人間の林檎と別の人間の林檎とは概念化された意味では共通の事物ではあるが、その持っている意味は異なる。港に打ち寄せる波が気象予報士にとってと、漁師にとってと、観光客にとって意味が異なるような意味での相違である。
 西田のリッケルト解釈において示されているように直観によって支えられている概念化以前の意識は、あるいはこう言って差し支えなければ「個的な意味」、概念化と意味自体を個の内部で醸成する個的で「根源的な意味」はカオスである。そのカオスに形を与え(その与え方はそれぞれ異なった仕方でであるが)語られる対象にすること(意味の統一)、ヘーゲル的に言えば否定されるべきものとしての別の事物と区別されるべきものにそれ固有の意味を付与してゆく行為が言語的思考であり、意志伝達に依拠した言語概念化の作用である。少なくとも西田の謂いを信じればリッケルトが言う価値とは事物や対象を意味として捉えること自体であるように思われる。それはカオスの統一化作用そのものであり、西田が言うような先験的心理学から先験的論理学に移行させることをリッケルトが実際なし得たとするなら我々は彼の業績の中に明らかに、内観心理学の欠落を補うような意味での現今の大脳生理学、神経学の考える脳内の論理的思考、思惟の自然に向き合おうとするスタンスを読み取ることが出来るであろう。
 そこで西田がリッケルトを通して得た考えから我々はこう結論することが出来よう。「根源としての意味」はカオスであるが、それを統合することで「価値と置換し得る意味」が生じる。その「我々自身にとってア・ポステリオリな意味」は、しかし「超越的なもの」であり、それは「経験の綜合あるいは統合」という我々の当為によって現出する。そして認識とは「意味を価値と置換し得るようなものへと統合する際の判断によって生じる」。
 西田が採用する哲学的態度は仮にそれが芸術や宗教に触れていても、基本的には客観的な科学者のそれに近いと思われる。それはこの意識を客観的に捉える姿勢に起因する。
 さて西田がリッケルトから引き出して意識内容に属さぬものを皆客観と呼ぼうとするものとは明らかに名詞的な把握である。名詞はその対象が何であっても静的なものに還元される(たとえそれが動きを伴ったものであっても、その「動き」自体は出来事として事後的に報告出来るし、想起においてもそういう風に内容として認知し得る。意識それ自体は即自であるが、その内容は対自である。その意味で意識を真に主観的であるとしなければ、それ以外の自己とは無関係に存在する事物や世界の構成要素は全て客観となり得る。(⑥参照)それはヘーゲルが言う「否定されるべきもの」である。自己と峻別化されたものである。名詞はまさにそういうものとして認知されたもののことである。
 これに対して動詞はどうであろうか?動詞はあらゆる主語になり得る対象(名詞)を再現前化しようとする。それは仮に止まったものでもその止まったもの自体を発話する記述する自己の側からの関係において把握しようとする限りで志向的である。故にそれらは名詞と名詞を繋辞する志向的関係の示唆であるから、「私」が主語であれば必然的に自己の側へ引き寄せられる。客観と客観の主観化である。(「私」もまた客観である。)フッサールが「経験と判断」において言う「対象が規定をうけるのは、つまり、経験的にあたえられるのは、経験的行為においてである。」(288ページより)ということは、対象は経験によって始めてその意味を持つということである。その経験行為とは一つの文章においては明らかに動詞が示す役割である。
 勿論動詞によって繋辞される名詞であるところの目的語は主語と同等ではない。目的語はあくまで主語にとっての対象であるから、西田が言うような意味では客観的である。先程主語を客観的と言ったが、それは文章構造成立基盤においてであって、語る主体にとってはあくまで主観的な位置にある。だから主語は発話上では省略されることがあるのである。「昨日東京へ行ったんだよ。」という風に。そして目的語は動詞によって性格付けが行われ修飾され限定される。そこで我々は目的語に対する主語の志向性を理解し、主語の側からの目的語の関係を知る。しかしだからと言って陳述において常に主語が一番重要であるわけではない。
「昨日私は東京へ行った。」というのは私が行ったのは、語る本人がここにいるのだから、第三者のことを語る場合以外はあくまで私が陳述の最重要事項ではない。あくまで東京が最重要である。そういった陳述において主語よりも目的語の重要性を強調したものこそが、形式的に目的語のない文章であり、その文章は目的語を有していないのではなく、あくまで文章全体が目的語の位置を占めるのである。だから主語+動詞だけの文章とはあくまで便宜上の構造解釈であって、その文章まるごと目的語であるのだ。だから「昨日東京へ行った。」は東京が目的語である場合は、既にコミュニケーション上では何処かへ行ったこと自体が会話上で話題にのぼっているか、あるいは休暇なのか仕事なのかにはかかわらず、兎に角何らかの行為をする時間の使い方に対する会話上の話題の素地は出来ていて、その場合に成立するのである。しかしまたこういうことも考えられる。それはこの文章全体が目的語である場合である。こういうシチュエーションを考えてみよう。ある人間が自分が一度も東京へ行ったことのないことを知っている別の友人に電話している場合である。この場合その友人に向けて発話される陳述においてある人間は「東京へ行った。」こと自体を目的語にして完全な構造形にすると、「私はあなたに<東京へ行った。>ということを伝えたい。」という意識内容になる。それは報告したいという願望によって支えられた陳述であり、その感情の表明であり、<東京へ行った。>という事実が目的語なのだ。だから仮にその陳述が「昨日東京へ行った。」であったとしても、東京へ行くことがその本人にとってそれほど大した「ハレ」でない「ケ」とすれば、東京が目的語となろう。しかし今語った電話で報告したい地方に住むある人間にとっては、その陳述自体が目的語となる。
「彼は警察官だ。」という文章は「だ。」が動詞(断定)であるから補語が警察官であるが、これも目的語はある。警察官という職務についているからこの陳述の意識内容は「彼は警察官という職務についている。」である。ここで目的語は警察官という職務である。しかし「彼の職業は警察官だ。」となると警察官が補語になるだけである。しかしこれも例えば警察官の汚職が社会問題化しているような状況下で、彼が真摯な性格であることを知る人間が彼の潔白を主張し、敢えて「彼は警察官だ。」と陳述する場合、あくまで「彼が警察官という職務に付く真摯な性格の人間であるから<そんな犯罪に加担するようなことなどする筈はないから>彼を信じる」ということ(意識構造)、「私は(彼は<真に>警察官である)ということを信じる。」ということが文章全体の意識内容であるから、当然「彼は警察官だ。」はその文章全体が目的語となる。
 例えば「中山という男がいる。」とか「ピカソという芸術家がいた。」という陳述はその陳述自体の意識内容は「(中山という男がいる)ということをあなたに伝えたい。」(太字が目的語)である。また「(ピカソという芸術家がいた)ということを皆に思い出して欲しい。」である。勿論他にも色々考えられる。中山が極悪な犯罪者であるなら「こんな奴のこと思い出したくもないが、君にも罪を犯した中山の存在を伝えておかなければ。」ともなるし、見合いを勧める人間なら「私の知人で中山といういい男を知っているが、あなたに紹介したい。」ということの省略である。
 あるいは「私は東京に住んでいる。」も「私は(東京に住むこと)を選んでいる<が、それを気に入っている。とか、本当は引越ししたいということを伝えたい。あるいは君にもすぐ近くだから遊びにきて欲しい、ということを伝いたい>。」という意識構造が考えられる。「選んでいる」が背後で語られる動詞ならそれは既にどこに住んでいるかということが話題に上っているのである。それに対して<>の中の陳述が省略されている場合、真の目的語は(東京に住むことを選んでいる)になる。これらのことを図式化すると次のようになる。

中山という男がいる。→ということを‐伝えたい。(あなたに彼のことを知っていて欲しい。)
→ということを‐知っている。(あなたは彼のことを私が知らないと思っているようだが、私も知っているよ。)

伝達意欲(願望)、伝達誠意(知らない人に報告してあげる)、伝達責務(報告義務)、言わば報告欲求か誠意の伝達か社会的な使命による伝達か、いずれかの範疇に属すのが、主語+動詞+補語、あるいは主語+動詞だけの文章、目的語のないようでいて、陳述それ自体が目的語である意識構造の文章である。
[勿論( )の中の陳述はあくまで例証であるに過ぎない。他ケースもあり。]
 文章というものも述語論理的な文章である場合と、そうではなく命題論理的な文章である場合もあり、それはその場その場の陳述される文脈上のケースによって変わってくる。そういう意味では文章自体は相対的であるが、意識構造においては明確な目的語が備わっているのである。だから「東京に住んでいる。」がどのような意識構造であるかによっても、

私は(東京に住んでいる)という生活を 楽しんでいる。

                   仕方なしに享受している。

ということをあなたに知らせたい、というのも私もすぐ近所に住んでいるから。

という風になるのである。文章自体の構造にはかかわりなく、陳述される状況性に依拠して、その陳述の感情論的意味合いあるいは意志伝達様相はその都度変わる。つまり言語行為はそれ自体が既に感情的な行為であるのだから、どの様な客観性を動詞の志向的対象という目的語の意味があってさえ、そこにはその陳述がそれを伝える他者にどのように受け取って欲しいかということが、発話者の伝達対象者としての対話手(他者)への信頼度や親しさの頻度にかかわらず必ず存在する、ということがコミュニケーションの本質である。しかし少なくとも主語と動詞が省略された文章自体が目的語であるような陳述でも、内包的には確かに主語も動詞も目的語も存在する。しかし文章全体が目的語である場合、それは通常よりもそっけなく語られるか、そうでなければ通常よりも感情移入して語られる機会が多いのではなかろうか?そうではなく通常であり、極めて論理的に装われて感情(ファナティックであってもそっけなくても)が隠蔽されやすい文章構造こそ、主語+動詞+目的語の文章であろう。しかし言うまでもなく、こういった文章さえも内包的に充実したつまり述語論理であるか、そうではなく外延的であり、主語や動詞が省略された形であるかは、その発話上の語調が標準(この数値も難しいのだが。それはその対話者の平均化されたものと言えよう。)よりそっけないか、ファナティックであるかによって判断するより他はない。だから「中山という男がいる。」という陳述がもし、「中山なんて男はいなかったぞ。」というもう一人の話者の発言があったとすれば、これは「私は(中山という男がいる)ということを確信する、信じる。」ということの感情表出であることとなる。その場合はファナティックな語調になるか、冷笑的に上位者によって下位者に対してなされる<諭すような言辞>になるかのいずれかが通常である(こういった場合にどちらでもない場合は説得力を半減させるからだ)。
 西田がリッケルト解釈において「超越的でなくても我々の意識内容に属さぬ実在」と言ったものは、我々にとって一見無関係に思われる全ての客観的事物とか対象(関心ある客観的事物とか対象とは関心事項であるから既に主観的対象でもあるのだ。)である。「そっけなさ」は、自己と無関係であるものに対する無関心によって引き起こされる。次章で詳しく進化論的生物学の認識とのかかわり合いにおいて述べるが、真に無関係であるよう対象的事物などというものは少なくとも可能条件としては存在し得ないのだが、と言って全ての対象(可能性としては全ての事物は対象であり得る。)へと関心を注ぐことは不可能である。そこで「意識の生存戦略」として無関心のものに関しては、論理的に主語+動詞+目的語として陳述するほどのエネルギーを費やすことは差し控えねばならない。しかもたった一つの些細な事実報告にまで論理的筋立てで陳述することはエネルギーのロスになるだけではなく、無関心のものを論理的に陳述することは消耗故に嫌悪的感情表出ともなり兼ねない。たった一つの事実をも陳述することに感情を一々表出していてはたまらない。これが「何故文章形式上目的語を省略する必要があったのか?」という問いの答えである。あるゆる省略は目的語に限らず感情表出抑制の役割がある。
 「昨日東京へ行ったんだけど。」という言辞に対して「誰が?」と問うことは、二人で対話している場合にはスットンキョウな質問であろう。誰か第三者の話をしている限り「私が」という主語を入れる必要はない。推察するに言辞に感情を直接表出することが意志伝達の続行において、生存戦略上の「他者からの信頼獲得」というメリットにおいて支障を来たすことが多かったのであろう。そこで主語+動詞+目的語というように一々全部語ることで生じるエネルギー消耗に関する不快感情を必要性において目的語を反故にして省くことが、単純事実報告の体裁を「建前」において採ることで、感情表出を払拭することを促したと思われる(それこそが「素っ気なさ」だ)。単純事実報告は、それが感情表出を差し控える為に、敢えてそれをどう思うかという陳述(この場合主語+動詞、あるいはもう一つの目的語である。例えば「あのアイドル歌手が結婚したって。」というのは「そんなに興味がないけどあのアイドルが結婚したって言うことを一応伝えておくよ。」の省略である場合も多いし、もう一つの目的語使用とは主語+動詞+目的語+目的語である。「君に伝えようと思うあのアイドル歌手が結婚したことを僕はそう大したことと思わない。」ならばいっそ話題にしなければいいのと思われるが、会話上では沈黙の長さを埋める為にしばしばこういった会話はなされる。)を省略しているのである。それは「感情表出の抑制意図を隠蔽する」為になされる簡略化という名の体裁付けである。だから形式的に目的語のない文章はそういった諸事情から必然的に簡略化されているだけであり、必ず意識構造的にも意識内容的にも目的語を背後には有しているのである。

A言語のメカニズム 9、制度、受容、選択、サヴァイヴァルサイン

 ここで権威と制度的現実に対する受容のシステムについて考えてみよう。
 権威とか制度的現実に対してある程度の認識を所有するようになると、今度はその価値観に対する倫理的な信念の不動点を持つようになる。すると今度はそれに抗うすべての反価値的事物、人物、概念、思想を排除しようと努める。しかしそれを一々応対していては身が持たないから、対応や対峙する事自体を回避するようになる。というのも言うまでもなく、対峙し拒否することが多大のエネルギー・ロスに繋がるからである。我々は常に巧妙に反信念的事項への対峙を回避することで結果的にはそれらを拒否しながら、拒否そのものに費やされるエネルギーのロスを未然に回避しているのだ。だから我々はア・ポステリオリな受容を最も日常で多く持つが、それは結局拒否機会自体を回避している、という事情によるわけである。拒否機会は多くなればなるほど、積極的行動を差し控える時間を増し、論理的思考に費やされる時間を減じる。(論理的思考はスムーズな行動を促進されればそれだけ時間的な剰余として多くなるが、反信念的事項を拒否する時間が多くなり、積極的に行動することを多く阻止されれば、行動実現の促進のためのエネルギー<拒否回避の機会を持とうとして>を蓄積させることにかまけ自己を思惟に埋没させる余裕が減じる。)そこで我々は「君子危うきに近寄らず」という教訓に忠実に受容を最も多く持てるように工夫しながら生の時間を配分するわけである。レヴィナス的に言えば生の経済である。
 自らの判断で受容するものは権威や制度的現実と一致している場合もあれば、齟齬をきたす場合もあろう。しかしそれがある権威や制度的現実に照応させて得た納得いく価値観であれば、どのような形であろうとも(時には極度に反権威、反権力、反制度規定である場合もあり得る。)邁進してゆかざるを得ない。その際反権威的性格が強ければ強いほど(強度に比例して)拒否回避を巧妙化させる。寧ろ反権威的姿勢が少なくて済む場合は、拒否することに対して積極的に開示させる、つまり拒否真意を露呈させてもそうデメリットはない。しかし制度的現実や権威が全く自己の信念、信条と相容れぬ場合、デメリットを避ける為に拒否する必要の少ない状況を求めて逃亡することも余儀なくさせる。(ナチズム台頭時のユダヤ系民族の行動のように)言語がその際果たす役割とは一体どういう性格を持つのであろうか?次はそのことについて考えてみよう。
 言語のメカニズムは大脳のメカニズムと行動のメカニズムの両方から考察する必要がある。大脳に関する問題はある一定の知識を要するので、とりあえず後回しにして(後日掲載予定の創造と理解、参照)、まず行動のメカニズムの方から考えてみよう。
 行動に費やされるエネルギーは出来る限り拒否を少なくし、受容を多くするように心掛けることでスムーズに運び、論理的思考、思惟に費やされる時間を保有することが出来る。拒否はどうしても必要となる時にのみ履行し、日頃は出来るだけ避け、また受容も極自然にし得るような状況を日頃から設定しておくことが行動における場の第一条件である。ある行動を選択することはある言語的決定をもってなされる。言語的決定は随意的な運動とも関係があるが、無意識的な身体運動でさえ、根底には「今日は仕事頑張るぞ。」とか「今日は休日だ。ゆっくりと静養しよう。」とかの決意によって育まれる。そういった言語的決定が身体運動や思考回路のエネルギー転換を促進する。その決意を育むものは何であろうか?恐らくそれは過去の創造に費やされるエネルギーの巧妙な顕現如何によるであろう。「昨日はかなり仕事が捗った。だから今日は今までの反省も兼ねて急いでやるよりもゆっくり慎重にやり、また明日の仕事へと備えよう。」そのように、明日の行為への決意はなされる。言語は行為の決定において、絶えず過去の自己像を顕在化し、過去実績を援用し未来像の確立のために必要と思われる行為の論理的意味を検証しながら、より容易にそれを実現させる方途において語彙(主に動詞による)選択を履行させる。行動に対する決定は語彙選択によって成立している。
 数学の演算は如何に迅速にしかも合理的説明が可能なように正確な解を得るためになされるのであり、迅速かつ合理的で正確であるためにはあらゆる堂々巡りを回避し、手間を省くということが心掛けられる。それは明日の行動に対する決意における語彙選択にも、行為の決断にも両方に要する。以前に巧くゆくと思って履行してはみたものの、結果的には芳しくなかった場合、もっと別の巧妙な戦略はないか、という行為選択とそれに伴う語彙選択がなされる。前の行為選択の失敗がその行為の動詞と関わる名詞を避け、別の行為の動詞、対象たる名詞を選択さしむる。動詞のカテゴリー、名詞のカテゴリーがその都度照会され、我々はその都度最良の選択を心掛ける。以前のケースで失敗した場合は照会時間は長引き、躊躇も逡巡も増すが、最良の手間を省く行為を実現させる為には多少の選択時間の猶予は止むを得まい、と思う。動詞や名詞のカテゴリーもまた失敗によって少しづつその内容を修正されてゆく。以前には記憶の深層にしまい込んでいた動詞や名詞が失敗のケース毎に奥から引っ張り出される、というわけである。行為の選択は語彙の選択によって検証されるが、その語彙選択を促進させるものは過去の自己行動に関するデータである。それは成功例、失敗例を含んだ現実の行為の記憶と、その記憶に対するア・ポステリオリな意味づけである。意味づけは論理的な思考(手間を省けたことに関するメリットについての)と倫理的思考(あの時はああいう風にやったが、本来ならばもっと手間をかけるべきであった)という一見相反するような二つの思考が考えられるが、恐らくこれも不必要な手間自体は省くべきだが、必要な手間は積極的にかけるべきであり、それを省くとかえってあとあと手間を要するので、じっくりと施行すべきと判断するのであり(人間関係においてもそれは言える。)結局同じフィールドの思考回路による決定である、と言えよう。
 手間をかけることを避けるか否かや、わざわざ進んで手間をかけるか否かということは利己的な欲求が優先するか、利他的な欲求が優先するかの行為選択によって決まる。言語の歴史をちょっと考えてみよう。あるヒトの集団において共通の言語が発生するということは、恐らく単独行動において敵(捕食者)から逃れる方法を自分一人だけで考えなければならない、という孤独な選択がしばしば不意打ちを食らうことを招き、それを予防するために同一種同士での結束の必要性が生じ、敵の到来を他者(同一種内の)に知らせることで共同体全体の敵からの防衛を戦略として成立させながら、「敵、来る」というようなそういう非常事態にのみ使用される緊急言語サインがじきに一人歩きし、緊急時以外の平静時においても言語行為がある共同体の平静秩序が生じたのちには営まれるようになり、その瞬間から(敵)とか(来る)とかが常に一体化されることによってのみ伝達されていた言語行為のサヴァイヴァル的意味<文脈的にのみ使用されること>から、「敵」、「来る」が一個の独立した語彙となる。その語彙が緊急サインの文脈でのみ「意味」を有していたことから、意味性から離脱した会話自体が目的化された言語行為の、平静時における発生において、「敵」、「来る」という一個一個の語彙が別個で独立した事項となるに至って(つまり「語る意味」<敵が来たことを知らせるような、目的性を有した>から自立し、意味もなく語ることが多くなるにつれて)概念化される。どのような意味においてもそれぞれの概念はその文脈毎の恣意性にのみ左右されながら徐々に名詞、動詞という概念として、語彙そのものが定着されてゆく。言語行為の意味依拠的なサヴァイヴァル性が対意味独立性によって概念化された語彙が誕生する。それら語彙は単独の、この場合では緊急時のサインという特殊文脈から独立し、非常時以外の平静時における脱意味的言語行為においても何ら支障なく使用せられるに至って概念使用と、語彙の意味の恣意性が誕生していった、というわけである。寧ろ言語に付随する倫理的な問題はその瞬間から自己と他者、共同体内における自己の責任、負担、義務、成員秩序、共同体利益の授受、集団意識への加担といった現実が生じ、概念使用がその共同体の成員としての権利と義務となり、脱意味化した言語行為が、やがて成員間のコミュニケーションというかたちで、非常時に備えつつも、非常時以外の時間でも常に他者と相互に真意を確認し合う場として概念使用を通した言語行為(会話、対話)が定着してゆく。
 感情表現はこの概念使用を通した成員間の会話、対話によって徐々に定着し、そこからニュアンス表現が発達していったのであろう。可能条件表示、仮定法などもニュアンス表現と平行して発達していったのではなかろうか?というのも「かも知れない」とか「だといいね」とかの曖昧な表現は、話者が断定、明示を避けることから生じている。これは責任回避や不確定的未来事象に対する言明回避である。「敵、来る」→「敵が来た」は、本来その役割以前にそういう絶対的緊急性が産んだメッセージであったが、その見張りの役割という責任分担と責務的感情を共同体に生じさせると、今度はその責務からの開放をヒトは要求するようになる。いやいやながら引き受けざるを得なかった見張り番は成員としての義務上敵が到来しそうだという事態を一応報告するが、きちんと敵の姿を視覚的に捉えたわけでもない場合、大分長い間彼らが姿を見せていなかったので、一応非常時に備えておくべきではないか、と提言しているわけだが、必ず来るとも限らないから、「そろそろ来るかも知れないよ。」と暈し表現するわけである。サヴァイヴァル的な伝達事項とは感情表現ではない。ミニマルなサインなのだ。それに対し感情表現とは感情を伝達出来るくらいには余裕があり、平静時の文化的行為なのである。ニュアンス表現もまたそういう文化的行為、つまり暗示する、暗喩的表示、隠喩的言辞、仄めかす行為はおしなべて「ある余裕が前提とされた」平静時の感情表現であり、ニュアンス表現(感情表現)である。
 複雑な感情とは寧ろ概念の定着が呼び起こした現象である、とも言える。非常時のサインとは個人の感情であるよりも集団、共同体内での共同体運営のための意志伝達行為であり、現代社会でのルティン・ワーク的役所表現形式的社交辞令とかに近い。これらは真意伝達の行為以前の社会機能維持のためのサインでしかない。しかし個人の感情の表現はサヴァイヴァルサインのみが大半であった初期言語では表現しようのない、概念的思考能力、言ってみれば論理的思考、それに付随して不可避的に生じる倫理的命題を含有した言語体系によって誘引された行為である筈だ。言語自体がある伝達事項の受け渡しにのみ奉仕するような道具であることを離れて、一つの文化体系として自立することに伴って、個人の意識は目覚め、やがて感情表現が自己表現と化すのである。だから個人の感情とは概念の定着によって生じるというわけである。概念の定着とは語彙の意味の恣意性の常套化である。ある語彙は別の語彙との並びでのみその文脈内での固有の意味を発生させる。言語体系の自立がやがて感情自体を複雑化させる。感情の階層性も生じ、感情の質も多様化する。言語は我々の感情自体を誘引する巨大なる機構となる。
 故にこそ、その機構化した言語からの離脱を感情は試み、新たな概念を次から次へと構築しだす。感情は一旦作られ既成事実化した概念の常套性にのみ依拠することを潔しとせず、次から次へと概念を構築し、テクストもその都度新たなる概念に対するマニフェストと化し、編纂され続けるのである。最初使用されていた概念は、その内全く異なった意味を派生させ、その頃には最初の言語活動がどういうものであったか、記憶している成員もいなければ、そういう事項すら顧みられなくなってくる。言語の歴史、とりわけ人類学的視点でそれが顧みられるようになってきたのは極最近のことである。文化体系としての言語がそれ自体の歴史的重みと共に既成の秩序、とりわけ法的呪縛力を持つようになって以来、言語は文化的であるどころか、自身で文化を規制する装置となっていたのだ。大脳の思考そのものが規制的事実たる言語というもう一つの自然によって常に相互に作用し合いながら、大脳が言語を育み、言語が大脳を刺激し続けるという関係の中で我々は生の時間を過ごすのだ。
 言語的限界を知り(そのことも言語を通して自覚するのだが)そこから逸脱する幾多の事項を承知で、しかし文化とは実は言語的営みのことである、ということに思い当たると我々は言語的、言語行為的、語彙慣用的なものとして文化の本質が言語行為における概念化にある、と知る。言葉では言い表せない、と言葉で表現する以外のいかなる実践行為も知らない我々は言語外的逸脱価値すらもが実は言語的思考の賜物である、と知る。会話、対話自体の文化であり、文化的コードである。そのコード化された記号の世界で我々は世界そのものを言語的営みによって理解していることにも気付く。数学的思考は目まぐるしく変転し、流転する世界の事象すべてを大脳内において記憶すべきものを選択しながら、事象の在り方を「在り方」として整理することの中で交わされることであり、我々を我々として成立させ、取り囲むこの多様なものを「世界の事象の集合」である、と理解することである。その最短距離の視点を獲得することが演算的行為である。言語活動において語彙選択することは明らかに伝達における最短距離の選択なのである。
 数学が世界の写像における真理値希求を目的とした言語であるなら、我々の日常言語は世界の理解、それも数学的な真理値以外の数値逸脱価値的倫理値、つまり他者との交流における自己存在理由の希求を目的とした言語である、とも一面では定義出来よう。社会活動への自発的参画こそが自己の意識を生じさせる出発点であるから、この社会が言語共同体以外の何物でもないことの自覚が概念化以降のヒト社会における我々の最大の現実、最大の自然であるから、社会の一翼を担うという自覚がすなわち数値的真理値以外の倫理値希求を生の意義として我々は知らず知らずの内に持ち込むのである。
 ただ共に真理値希求を常に抱いているところが日常言語も数学言語も相同である、と言い得るのである。真理値希求とは概念の意味化である。意味そのものからもたらされたものであった筈の概念は、今度は回帰ではなく、意味を創造しだすのである。その概念によって意味を創造するのは私たちであるが、私たちはその行為の中で真理値を希求するのである。概念自体に意味はない。ただ我々が概念を通した共同体内の会話、対話において意味を編み出してゆくのだ。その時概念は意味を産出する場となる。我々は意味産出の場に絶えずたちあっている。それが生である。「生活」と「人生」がオーヴァーラップする地点である。「生活」のない「人生」はないが、同時に「人生」のない「生活」もない。
 言語活動は常に人間という種において言語共同体による社会運営という側面によって歴史を刻んできた。そして伝達する意味内容が社会運営性そのものに直結したものこそサヴァイヴァル的なもの(そのすべてではないが、だから政治のコミュニケーションは一時代のサヴァイヴァル的な命運を握っていることも確かである。)であり、伝達において誠心誠意の真意伝達が望まれる。しかし余暇の趣味とか、サヴァイヴァル戦略的な伝達事項とは直接の関係がない会話(そういうものの多い人生こそエンゲル係数的に豊かな人生とされる。)は、サヴァイヴァル性のない付加価値的な文化<都会人のステイタスとかの>、息抜き的(しかしこれはこれで大いに重要なのだが)なものであり、真意伝達と偽装性が程よく同居している。そして言語活動によって刻々変化している紛れもない現実とは、語彙もさることながら、文法的な事項すらも徐々に変化している。(日本語のら抜き言葉はすっかり定着した感もある。そもそも言語とは余計なものを省くことを常としてきているわけだから<フッサールは思惟経済的転移と「論理学研究」で述べているが、これはオッカムの剃刀的な物言いである。数学の演算が最短距離での解を解き明かす努力に似ている。フッサールの経済という語の使用仕方は彼が初めでは恐らくないだろうが、その後先述したレヴィナスによっても似た使い方がされている。フッサールからハイデッガー、レヴィナス、デリダといった系譜からそういった認識を考察することも今後の哲学の課題であろう。>どんなに専門家が俗悪な言い方と断じても、その内それを非文法的と指摘することもなくなってゆくだろう。)
 つまり言語活動の担い手であるところの言語ユーザー、庶民が言い難い言い回しは徐々に整理され、例え最初はそれが非文法的な物言いでも、そう変えたところで大した支障がない限り、単純で言い易い言い回しに変化してゆくのは極自然な成り行きである(まさにオッカムの剃刀である)。学者はだから言語の変化を権威の側の意見として批判すべきではない。どうしてもその変化が何物かへの支障とならない限り、その変化を堕落と捉えてはいけない。変ったあとの方が理があることも、歴史的には多々あるのである。
 ともあれ言語活動における精神文化的側面は、明らかに非サヴァイヴァル的言辞、ミニマルで生活必需的伝達事項以外の剰余価値的事項こそが、真意と偽装の相関性を育み、仮に真意を伝達しなくても罪とはならない(これに対して何か大火事のようなカタストロフィーが生じたとして、その場所を偽って報告し、その相手が公的機関<例えば消防署とかの>か何かの人であり、その鎮火、収束、後処理に関する重要人物であったとしたら、大罪である)。こういった差異が責務的伝達と義務的伝達と、日常会話との間には横たわっている。言語の歴史において正しい物言いや語彙であった筈なのに自然と消去したり、消えるかと思いきやなかなか消滅しないある種の公的場所では大っぴらに言うと顰蹙をすら買う表現や物言い、語彙などが厳然と存在することの矛盾は、実は矛盾ではない。というのも必要な表現というものの中には公的場所では言うことが憚られるものも多く含まれる。そういったネガティヴな概念とは論理構成上必要不可欠であり、寧ろ柔らかい、差しさわりのない表現や語彙こそが、社会秩序維持のためにその時代、その時代において都合よく時の為政者たちが体よく「差別語」とか「タブー語」として葬り去るために俄仕込みで捏造したご都合主義の偽装言語にほかならないからである。勿論そもそもがある差別意識に根差して使用されだした概念(そういうものは本論では概念とは呼ばないのであるが)を廃止し、然るべき名称で呼ぶようにしよう、ということは理解出来るが、公的場所での表現自粛くらいのものが、果てはそういう概念そのものの廃止となると、ことはそう野放しにもしていられない。ここでは具体的な例証を差し控え、今後の研究課題とすることで、取り敢えずは今はそういったネガティヴな概念自体も思考回路においては厳然と存在し(ということは表現上の可能条件として、思考上の仮定法として存在しているということなわけだが)それがたとえ否定すべき、行為としてはあるまじきものであってさえも、良識や常識、一般論とかの一切を成立させる為に敢えて必要不可欠な対概念であるとを銘記しておくこととしよう。我々はそういう想像するだにおぞましき概念をも同居させることで、あらゆる肯定的な概念や創造をすら行ってきているのである(欧米では悪魔を言い表すdevilとかもその部類に入るであろうし、インシスト・タブーなども多くの民族ではそうである)。
 このようなある創造的、肯定的な行為において、その選択には、それとは裏腹の否定的な、破壊的な行為の選択が可能性としてあり、ただ我々は常にそこに陥ることがないように心掛けているだけで、実際はそういう最悪のケースもあり得るということが選択を最良ものとしてきているわけである。さて我々は実際そういう最悪のパターンを避けながらも、最悪ではなく、寧ろ多少まずいかどうかが全てを決するということもよく知っている。先程日常会話や他者との対話が非常時におけるサインほどの重大性がなく、文化的コードであることを述べたが、このコードというものが実は曲者である。時代的なモードとか、ある文化規範的なコードは明らかに我々の生活の根底を揺るがす力がある。サヴァイヴァルな責務的なサインではないからこそ、ついそう気に留めることなく先へ進み勝ちな我々をいつしか密やかに洗脳するような潜在力を秘めたこれらの非生産的でいて自意識を醸成さえする文化観念的常套性は、そこから抜け出すのに非常の努力を要する場合さえある。ある職業集団や、ある地域集団の中にもこういった性格はあるが、言語自体に実は密やかに潜り込んでいることも多い。

Thursday, October 15, 2009

D言語、行為、選択/8、事実と権利(可能性)あるいは理想

 「かくある」と「かくあらねばならぬ」は西田にとって別個の次元の命題であった。しかし同時に西田は善を語るのに、それが実在との一致という観点からも捉えている。(「善の研究」の中の<善>181ページより)すると西田にとって「かくある」という表現は実在とは異なり、実在に対する我々の認識となり、「かくあらねばならぬ」とは善に対して我々が抱く想念ということとなる。我々自身が捉えるという実存的視点の獲得が実在や善の生な存在とは別個の次元を産出する。フッサールもまた事物としての存在と体験としての存在を分けて考えている。前者を事物世界、後者を体験世界とすると、フッサールがあくまで自己のテーマとしてこだわったのは後者であり、それが引いては現象世界となるのである。すると我々が事物やら、他者とかかわり生を生きるとは倫理的には「かくあらねばならぬ」世界であり、現実的には体験世界である。体験世界が身体生理学的であるのに対し、カントの可能条件的世界が仮想的、ヌーメナル(大脳指示的)であることは言うまでもない。カントのこの性質を斎藤慶典は実に的確に次のように表現している。

「(前略)フッサールの場合の遡及は現に成り立っている経験から出発してそれを支えているものへと溯るに対して(つまり議論は徹頭徹尾「事実問題」であるのに対して)、カントの場合、話はあくまで「権利問題」として進んでゆくのである。つまり、もしア・プリオリな綜合判断として経験が成り立つべきであるとすれば、かくかくしかじかの条件が充たされるのでなければならない、というかたちで議論が進行するのである。(後略)」(「フッサール起源への哲学」141ページより)

つまりカントは神の存在や霊魂の不死、自由を唱えながら、結局のところ、人間の大半がそれを自覚し得ない、純粋理性を発現させることなく終わる、という痛烈なるアイロニーをもってある仮想的倫理世界を構築したのである。だからカントが神を語る時、信仰心(勿論敬虔なる家庭環境にあったのだからそういう要素が皆無とは言えぬまでも)厚くそう語るというよりも、宗教的モラルからすれば極めて背信的人間の多い実像を揶揄しながら批判哲学を進行させるのである。それがキリスト教文化圏の住人ではない西田が、アイロニーがあったとしてもそれは西欧哲学史解釈や日本文化分析やそういった自己の立たされている文化的、歴史的状況とモラル(戦争その他で極端なモラル・ハザードをきたす人類、国民の姿の前で佇む一個の自己<それはサルトルにもあてはまる。>)の肖像としてテクスト創造へ向かうという孤高な姿であるのとは個人的資質も歴史的状況も異なっている。フッサールは第二次世界大戦の足音を感じ取りながら他界しているので、西田と共通した倫理観は当然持っていたけれど、カントと同じ文化圏にいたので、西田のような客観的西欧哲学認識とは違い、自身の哲学で西欧哲学史を実践してゆく、という立場からの発言である。フッサールの体験世界は明らかに戦争の足音を敏感に察知する実存論的(のちにサルトルやレヴィナスが開花させるような)ニュアンスも当然持っている。そしてカントほど、あるいは仏教的世界観を持つ西田のような宗教倫理的発言は見られない。そこに寧ろ「語りえぬものには沈黙せねばならない」というウィトゲンシュタインの言葉を髣髴させるフッサールの苦悩が読み取れる。フッサールは明らかに純粋な真理探究の道に倫理的マニフェストを封じ込める選択をしたのだ。(本論「フッサールの言語論」を参照のこと。)
 テクスト創造という行為は明らかに声高に叫ぶ街頭でのアジ演説とは別次元の行為である。行為の結晶化作用でもある。封じ込め作用でもある。それは行為の現在性が社会機能の実践としてのパロールからは一歩距離を置いた行為である。書いた時点では誰もそれを読むことは出来ないという時間的間隙の事情もある種特殊化させる。書く時点では容易になされる決断も、あるいは躊躇や逡巡に充たされた苦渋の決断の両方ともあったであろう。しかし字面では同じ活字によって並べられた印刷テクストは我々に完成された姿だけを提供してくれる。しかし我々はその中から出来得る限りで、その苦悩や懊悩、あるいは偽装せざるを得ない責務やアイロニー、世間的常識に対する謀反的意図、その他多くの感情を読み取る必要はあるだろう。そういうテクストの全体がまた一つの彼らの行為に対するその時々の選択であり、テクスト言語はだから意識、無意識にかかわらずその著者の真意が、生な形であったり、あるいは逆にダンディズムに彩られた適度の偽装的表現において結実されたよい見本なのである。つまりこう言えよう。テクストは人間固有の行為の選択がもたらした言語装置である、と。蟻にとっての蟻塚や蜂にとっての六角形の巣の穴のように、我々の意識と無意識が封じ込められた一個の文化コードとしての、恐らく人類以外の高等生命が人類と邂逅したら向こうは人類がその時生きながらえていても、絶滅していてもどういうものか不思議に思う対象かも知れない。
 「かくある」が「かくあらねばならない」を導きだすことができないことを、西田は「かくある」が「かくあらねばならない」によって導きだされていることから認識していたのである。アザラシが日に数時間、餌取り以外の時間に子供と浅い海の潜り、子の成長を見守ることは、アザラシにとっての「かくあらねばならぬ」行動であり、その行動を我々は「かくある」と捉えているだけなのであり、我々もまた「かくあらねばならない」を規範に行動する一個の動物であり、その「かくあらねばならない」には「かくあってはならない」という命題が密接にかかわっている。誰しもいつもいつも積極的な判断だけで動いているわけではない。消極的判断の積み重ねが寧ろ積極的判断よりもよく作用することも多いということを知っている。最大の利益をむさぼるよりも、最低限のリスクを常に回避してゆき、徐々に利益を集積してゆくこともまた極めて重要である。兎に角どんなに不調であっても最低の数値だけはなんとか回避する、という知恵こそが生存戦略上の重要な「かくあらねばならない」であり、それは「かくあってはいけない」だけは最低限守ることによって少しでも利益へと近づいてゆく、ということでもある。