Monday, November 30, 2009

D言語、行為、選択 15、生理学的観点から 

 ちょっと観点を変えて考えてみよう。遺伝子はあらゆる我々の生の時間での出来事を想定して、その場その場で対処出来るように判断すべく大脳に指令を与え、その大脳が遺伝子の指令を受けると今度は一人で自立し、自分自身で指令を出す。だから例えばある身体に外界から与えられる刺激に対する反応はほんの少しだけ刺激よりは遅れる。つまり外界からの刺激に対してそれを大脳に伝えその大脳が今度は我々の身体のどの部位、部分であってもそこに刺激に対する反応を感覚として与えるわけだからである。当然の如くそのようなシステム自体は遺伝子の予め作り出したものである。それは寒い、とか熱いとかあるいは痛いとかその都度色々考えられる。我々の神経細胞は充分に興奮すると、電気刺激(スパイク)を軸索に送り込み、更に神経細胞(ニューロン)に反応させる。軸索には通常何本かの側枝というものが枝のようにくっついて広がり、刺激は軸索から側枝に伝わり、更に側枝の側枝へと伝わり(毛細管現象のように)その先にある他のニューロンへと伝えられる。これはあくまで私の考えだが、そのようにある刺激が伝えられるのは、その刺激が与えらた局所に対する刺激を緩和するためかも知れない。しかし実際スパイクの速度が19世紀前半に判明した時意外にもそれまで人類が考えてきた光速よりも遥かに遅い秒速90メートル足らずであったのだ。これは空気中の音速のほぼ三分の一であり、1000分の1秒間に約3ミリ進むことを意味する。さてこの一見凄く早そうでいてそうでもないようなスピードも実際は遺伝子が、刺激に対する鈍磨的な部分を残しておかなければ我々はその感覚の凄まじい感度自体に耐えられなくなる、ということを未然に防止しているという風にも考えられる。我々の身体のこういった一見完璧のようでいて多少のルーズさをも残すような仕組みは感覚的鋭敏さ(外界からの刺激をすぐ認識出来るような戦略)と、それとは逆に感覚的な刺激自体に今度は負けないように巧妙に配慮された一種の予防装置である、とは言えまいか?つまりこういうことである。我々は言語において個人個人固有の歴史を持っている。それは言語習得の状況であるし、外的にそれぞれに異なった環境である。遺伝子はどのような環境下においてもその場その場で対応できるように想定してプログラムしてあるが、実際生という現場では何が起こるかわからない。そういう不確定性が環境のア・プリオリに対して働きかけるア・ポステリオリであり、その両者の相克こそが個体の性格やら個性を決定してゆく。だから必ずといっていいほど発現してゆくような決定的な性向と事後的に決定される性向とが重ね合わさったものが個体の性向、つまり性格とか個性とかである。それで、言語習得における各個人の特殊な状況性が生じさせる固有の意味は決定的ではあるが、やがて学校へ行き、純粋培養的な部分は少しずつ鈍磨して行き、全ての成員に共通する一般化された意味、つまり概念が日常を支配してゆくようになる。(従って芸術家の仕事はその失われた各個人の意味に対する呼び戻し作業、つまり原点とも言える価値の再発見、回帰と言える。)我々は固有の意味に浸っていてはコミュニケーションが成立しない。そこで他者と折り合いをつける形で概念を法的実効性のよすがとして利用する。ところがそれはあくまで会話とか対話とかのコミュニケーションの世界での話しである。実際の各個人の真意は各個人で異なった意味の領域に存する。そこでそれを職業としたり(小さい時から虫を追いかけるのが人一倍好きであった少年が昆虫生物学者になったりとかの)、仕事では実現しなかった場合、趣味となったりつまり生の時間において必ずと言ってよいほどどこかで発現するのである。だが知覚において我々が出会う対象をその都度、未知性におののいていては身が持たないから知覚対象を既知のものとして認識する為に概念的認識(「あっ、何だあれは?なーんだ。ただの赤い林檎じゃないか。」というように)を持つように、我々は概念を意味以外に持つというわけである。カント的に言えば概念とは悟性的なものなのである。あるいは彼の「純粋理性批判」からは弁証的推理の第三種の純粋理性の理想(Ideal)<398>に近いと思う。私は推理と言っているがこのカントの論述は明らかに知覚判断についてのものであると思う。(カントが言う第一種を「前庭」の空間と身体のバランス、同定性、第二種を未知性に関する驚きを鈍磨させる<要するに抑制作用である。>懐疑主義的な本能<「扁桃体」の作用ではなかろうか?>、そして第三種を「大脳基底核」、つまり安定化の作用における概念化と考える。しかし「おやっ、これは何だろう?」という部分は知覚させる「視床」から引き継がれた思考モデルの作用を施す「小脳」が作用と言えまいか?)
概念が魅惑的なのは、それほどの栄養価ではないかも知れないが、「兎に角あそこの店のラーメンは麺も使っている出汁もうまいし、癖になるんだよ。」というようなことと関係があるかも知れない。人類は意味などそっちのけで概念としてのテクストの魅力に取り付かれる動物であるらしい。なぜなら聖書世界やマルクス主義など我々の歴史は書かれた当初の意義などそっちのけで、聖書を始めすべてのテクストをバイブルとしながら、その概念化された安定性に依拠して、それを拠り所に権力を保持したり、人民の統制において利用したりしてきたわけだから。「宗教はアヘンである。」とキリスト教を特に批判したマルクスも彼自身のテクストが多くの理論家を夢中にさせたりした。(神を否定するメカニズムはヘーゲルが、更にマルクス以降ニーチェ、フロイト、ハイデッガー、サルトルらがそれぞれ違ったやり方で神に対する謀反を起こしたのは周知のことである。)
 話を元に戻そう。我々の身体生理上の鋭敏さと鈍感さの相克は、言わば積極的な部分と消極的な部分の組み合わせによって成立している、ということである。この絶妙なバランスこそが我々のコミュニケーションにおいて真意の表明と真意の偽装、隠蔽の双方を同時に表現させるわけである。レヴィナスは他者性の哲学者としてつとに有名だが、彼の一言(「存在の彼方に」116ページより)は秀逸である。「語りえない<語ること>さえ<語られたこと>に委ねられる。」

Friday, November 27, 2009

C翻弄論 7、脆弱な「個」への見つめ方

 脆弱な「個」は諸刃の剣である。そういう振幅は時代毎にいい面、悪い面において群集心理に寄掛って表面化してゆくであろう。
 しかし言語活動が風化することはない、と「個」がその頑なさから解放されたいと叫ぶもう一つの「個」の実像であるのだ。クリプキが言うプラス以外のクワスを選択しないで済む世間一般に通用する常識もまたクワス以外のあらゆるスラス、ツラス、ムラスといった仮想性を一方で可能性として保持しつつ我々は私の見た「赤い」と感じた「赤かった」という事実確認的陳述が共通の「赤いものであること」という幻想において、これからも意思疎通されてゆくであろう。強固に主体的な選択決定意志を持ちつつ同時に自己と他者の共通性にも常に配慮してゆかねばならない。我々は偶像を仕立て上げる誘惑を持ちながら自助努力しながら他者への労わりと励ましの心を忘れずに社会に投企し前進し続けねばならない。
 そうする中で脆弱な「個」でありながら、価値ある生の「かたち」を我々は個々に現出させ、それを再び社会へと還元すべく意思疎通を図ってゆくことであろう。そこにはありとあらゆる生の中での決心の多層性、選択可能性が待ち受けている。因果の認識も一つの糧であり、過去の目的行為の手段化、未来への素材化の過程で我々は現在生を生きつつあることが、実は常に最優先の課題であり、目的であり、この現在の行為それ自体が目的であるという認識を持ち続ければ尚、目的行為のクレオパトラの鼻となり、未来への眺望に思いを馳せる時、明るい慈愛の光に満たされるのではなかろうか?
 あらゆる否定的ニュアンスとして自虐的に語られてきた我々の民族的特質は実はいつの時代でも、どの民族でも持ち合わせていることは明白である。(文化人はスノビスティックに否定する傾向がある。)
 ドグマを取り除くことも、問い直し、そのドグマを抱いたこと自体を真摯に受けとめることも哲学の大切な行為である。我々は一見誘動されているように思われる時でも歴然と自ら主体的に選択していることに自覚的とならなければならないであろう。そうする時選択性認識というものは有効かつ強力な仕方である。

Thursday, November 26, 2009

B名詞と動詞 10、「信じる」ことと「理解する」ことの狭間で<想定内、想定外>

 その答えはこうである。全てが想定内であるなら決心や行為は意味をなさない。棋士が対局相手の次の一手を想定して打つ時、その一手に対して自分の想定内の手で打ち返してきたら、その棋士は安堵と共に失望をも味わうであろう。全て自己の一手に対して想定内では対局相手が返しては来ないというところにこそ(勿論全て想定外であったら、それはそれで勝負にはならないであろうけれど)不安や恐れや緊張と共に勝負すること自体への期待感やスリルを味わいたいという願望が存在し得るのだ。
 未来予持は本質的に可能性への信頼が創出する。想定することは可能性を理解することであり、ある特定の可能性を信じることは他の可能性を理解することはあっても信じることに直結させることを断念することであり、その想定を判断材料としては除外することである。それが決心をさせ、行為へと赴かせるのだ。だから未来予持の時に我々は想起を喚起させるのだ。それは未来における我々の行為のもたらす結果を想定することから引き起される過去データ(記憶事項)の検索行為である。(成功体験に関する記憶が行為に対する自信を齎すと脳科学では考えられている。)そしてある行為に及んでも行為しながらでも我々は常に反省や想像をする。あのマラソンの高橋尚子がマラソン走行中に時々後ろを振り返って他の走者の位置と動きを察知しようとすることも又、未来の可能性の信頼に纏わる不安(追い抜かれるのではないか?)と、意外と他の走者を引き離したことにおいて持つ安堵感(もうここまで来れば大丈夫だ。)が交差するのだ。
 だから想起の本質とは未来予持の中で過去と現在を結び付けて過去データの解釈、分析を通して決心へと至る反芻行為である。
 するとこうなる。反省の中でなされる想起はそれを糧に未来の想像を得る為に必要な検索行為なのである。そして想起は未来へと開かれた地平の中で過去を役立てる行為以外の何物でもない。「あの時はこうだったな。では今度はこうしよう。」とか「あの時はあんなに巧く行った。今度もああいう風にやろう。」とかである。
 そしてそれは未来への理解に他ならない。すると「今際の際」の人間が想起することとはあくまで断念であり、自己の生全体の定義付けをも超えた最期の「信じる」こと、つまり自己の軌跡に対する証人としての確かな自覚である。「俺は生きた。」という実感である。だがそれ以外の「信じる」は「疑う」(そうではない可能性、つまり否定の可能性を信じることである。)ことの否定、消去という決心によって成立している。「理解する」ことが左脳的論理分析と溜飲を下げることの反復であるなら、「信じる」ことは右脳的な感嘆(「やった!」、「終わった!」とかの)である。それは過去に対する断念であるよりは現在のとりわけ行為や思念への断念、成就による安堵の溜息である。そしてここで又反省が生じる。
 反省は<未来を「信じる」こと>から為される。死を前にした人間の想起は反省ではない。それはあくまでも過去を「信じる」こと<自己の人生という事実の軌跡の証人としての感慨>以外の何物でもない。死を目前とした者の過去想起は恐らく「私は(俺は、僕は)間違いなくこの世に生まれ人生を生きた。」という事実認定とそれに付帯する感嘆の思念以外の何物でもないであろう。それは「信じる」ことをさえ超えた絶対的な意識である。
 生が未来を「信じる」可能性に満ちていれば、我々は想定内(ハレ)の中での想定外(ケ)の出来事(ポジティヴ、ネガティヴ両面の)の可能性への信頼が醸成する不安と期待の混成状態(それがまさに未来予持であるのだが)が、反省と想起と想像(未来における想定し得る可能性の理解)の綯い交ぜの状態である、と「理解する」ことが出来る。
我々は未来を、それが自らの生が存続する限り必ずやって来るものである、と「信じている」が、それがどのようなものであるかの細かい事項までは、それを想定すること(想像し、こうであろうと設定すること)しか出来ない。棋士は対局相手の次の一手を予想は出来るが、あらゆる選択肢の内のどれを対局相手が指して来るかは不確実である。だがそれが必ず的中するとしたら逆に将棋を辞めたくなるかも知れない。市場や株の動向が手に取るように解って未来が的中したとしても100%的中しないからこそ実業家たちは事業を行い、勝負師(博徒、スポーツマン、格闘家etc.)たちは自らの勝負へ臨む。それは未来の様相が想像する想定の範囲内で理解出来るが、それはあくまで想定であり、確定的な事態ではない。未来は現在において常に不安と期待を生む。

A言語のメカニズム D、認知言語学と行動生理学 15表情

 言語が何らかの意志伝達意欲を充足させるための行為であるのなら、パロールにおいてはとりわけ伝達内容を他者へ伝達させたいわけだから、最小距離の演算処理方法を模索する数学的思考、システム工学的思考とも相同な、最も効果的で最も表現しやすく、最も他者が理解しやすい内容の示し方を模索する瞬時の行為と言えよう。その際にそれを伝える他者の性格、知性、階級性を考慮に入れた社会人としての配慮(社会的地位とか年齢とか)に関しては周到な用意を持って臨むというのが我々の慣用的欲求である。最小距離での演算処理技術が、他者選択、あの人にこんなことを伝えても仕方ない、訝られるか、拒否されるに決まっている、拒否遭遇など予め回避しておくのが得策だ、ということを実践している。我々は自己というものを何の疑いもなく持っている積りだが、他者、他者に対する全く異なった自己像をその都度示しているのである。まさに自己というもののシニフィエとして、自己というものの性格のシーニュとして。我々はだから他者性というものを考える時、統一されていないのに統一したがり、そうせざるを得ない自己同一的身体の保持者としてのサインを自己に送り込むのである。レヴィナスが顔にこだわったのもそこにある。顔は表情を伴うものである。真意表出表情、偽装的表情、演技的表情、偽装解除表情とか色々考えられるも、皆表出されている意味では最も大きな自己像の表現であり、顔は最も真意、偽装も含めたそういうスタンスを有効に示す表明装置である。
 古典的名作の中に登場する幾多のヒーローたち、悲運のヒロインたちの表情を読み取る為だけに我々は作品世界に接してきたと言っても過言ではない。ロミオを見つめるジュリエット、チュンサンを見つめるユジン、そういった架空の人物ばかりではない、源義経を見つめる静御前、ジョン・レノンを見つめるヨーコ・オノetc 私たちは言葉の背後に多くの表情を読み取ってきた。それは表情こそが最も雄弁な言語であり、それを示し、愛する者へのいとおしみ、敵対する者に対して憎しみの表情をあらわすことで我々はいかに多くを語ってきたか、を我々自身が知っている。表情を示すことはそれだけで最も雄弁かつ直裁かつ有効な言語行為である。ガロワが愛する女性との一件で他の男と決闘する為に生きて戻れないことを覚悟で書いた論文が、今日代数学の基礎として知られる「群論」であること、それも決闘の死後数十年たってから評価されたことはあまりにも有名である。ガロワがどのような表情であれを書いたのか、シェークスピアがどのような表情で、ああいった名作群を書いたのか、ということは作家を志した人間なら一度は想像したのではなかろうか?しかしそういった想像を可能にするのは、現実においてそういう荘厳かつ流麗な表情を見るという経験が極めて稀である、という事実である。
 フロイトの表情を見ていると、妻と妻の妹との間の不倫関係において苦悩する一人の壮年男の表情が、これがあの有名なフロイトなのか、という思いと、ちょっと見方を変えるとどこにでもいそうなうらぶれた壮年男、という両方の思いが去来する。フロイトと2年だけしか生年が変らなかったフッサールはやはりフロイト同様ユダヤ・アイデンティティーであるが、フロイトと同じくブレンターノの講義を受けていたのか、という興味と同時に、どこかフロイトとも共通する敗北意識の濃厚に漂う表情が曰く印象的ではないだろうか?これだけの業績を残して我々の時代へと橋渡ししてきたこの男たちのすがすがしくはない、この陰鬱な表情は何なのか、というとに興味を持たない人間がいたら、彼らの思想の極々一面だけをしか見ていないということさえ言い得るような表情たちである。
 ここに一同に偉大な業績を後世に残した先達たちの表情を羅列してみるととても興味深い。政治家、経済学者、画家、音楽家、詩人、俳優、物理学者、心理学者、言語学者、実業家、ギャング、ダンサー、ストリッパー、医師、社会福祉事業家、平和運動家、反戦フォーク歌手、独裁者、政治家や実業家を裏で動かした女性たちetc。どのような立場の先達であれ、そこに刻まれた皺や独自の表情は何かを訴えかけている。後輩テスラーとの確執でも有名なエヂソンの表情には、猜疑心と功名心の入り混じった裁判沙汰に明け暮れた自我意識の強烈な人間像が読み取れるし、「わだば日本のゴッホになる。」と言って上京し、幾多の「板画」と自分で称する名作を世にはなった棟方志功の表情からは逆に自意識も過剰な筈なのに、どこかふっきれた天真爛漫な幼児のようなそれを読み取れる。アインシュタインとディズニーとポール・マッカートニーにどこか似た表情を読み取るのは私だけであろうか?
 偉大な論文を残した人間が同時に殺人とかの大きな罪を犯したとしよう。(実際そういう先達も何人かいた。)その論文自体の価値はそのことで本来下がってゆくものではないし、そうであってはならない。しかしそういう運命を辿ってゆくものもある。逆にどんなに若くして世に出て、社会的地位としては立派なものを築いたとしても、凡庸で再考の価値すらないものなら即刻我々はその人間の仕事から退散すべきである。しかし逆にいつまでも幅を利かせていることも稀ではない。(そういうものは後世には残らないけれど。)言語行為が人間という厄介な存在によって育まれている以上、そういった不条理はつきものである。言語行為の論理的正当性と倫理的正当性というものは相反する場合も多い。一つの言辞はそのこと自体では何の価値も何の意味も生じさせないが、どのような場所で、どのような態度で、どのような表情で、どのような文脈で語るかによって価値も意味も大きく左右される。政治家はそういうことに関してどのような職業の人間よりも骨身に沁みて理解している筈である。今日においては人命を司る医師などにもその種の労苦はつきまとおう。表情自体を論究したものは筆者の「表情の言語哲学」(同ブロガー「表情とは何か」において掲載更新中。)の方を参照して頂きたいが、本論ではその表情が言語行為にどのような相関性を有しているかを主軸に考察してみたい。
 
 パソコンは我々の日常を大きく利便性の渦中に巻き込む道具だけではなく、最早表情を持った言語活動のための自然である。パソコンでデータ保存をするためにフロッピーを入れたままで、保存後それを取り出さずに起動させ立ち上げようとすると、パソコンはかつてフロッピーを入れて起動させるのが構造上のシステムであったために、そのシステム上の記憶が残っており、その記憶に忠実にかつてのやり方で起動させようとするものだから、現行のシステムとの選択躊躇をきたし、なかなか思うように起動してくれない。まるで、かつての恋人が、現在の恋人と一緒にいる現場に現れた時の、私たちのような気持ちになるのであろう。(今の彼女にどういう風に昔の彼女を紹介しようかとどぎまぎする。)
 メルロ・ポンティーが幻影肢のことを実例に挙げてパブロフ的な刺激に対する反応という身体システムを批判し、当時の現行のゲシュタルト心理学や連合主義を同一の誤りを持っているものとしてやはり批判した彼の哲学的深化段階はつとに有名である。今日メルロ・ポンティーの哲学は多く顧みられなくなった、とドゥルーズも憂慮していたが、メルロ・ポンティーの命題を今日的に解析してみると、パソコンの前システムの記憶と類似した事情を身体に見ることが出来る。身体記憶は大脳によるものでもあり、大脳による我々の身体の各部位への信号でもある。大脳にも表情がある、というのが本論の考えである。
 昔あった手が何らかの不慮の事故によって失った後も、そこにまだあるかの如き、例えば痒みのようなものを感じとることは、実際は大脳がその失った部位への命令を完全には止めずに、指令を出している、ということである。大脳による指令は例えば亡くなった肉親の表情とか、飼っていたペットの表情とかの海馬記憶の場合もあれば、こういった実際の自己身体への指令、命令系統的記憶もある。
 先にちょっと触れたが我々は「いつもだったらどうということもなく思い出せるのにあれ何だっけ?」と言うその時々の記憶庫に対する返答を即座に得られないことに対して、その時そういう引き出し行為の調子がいいか悪いかという状態や、つまりその内容(今日は冴えている、とか血の巡りが悪いとかの状態によって引き起こされる)だけ我々は覚醒出来るのである。例えば車の調子が悪いとボンネットを開けてエンジンの具合を見るようには、大脳の調子を見ることは出来ない。もしそういうことが出来るなら、今はなくなってしまった手とか足とかの感覚を指令出すことを止めさせることも可能かも知れない。しかし大脳の指令に従ってその感覚を知覚することに甘んじなければならない。もどかしいから、そういうことを考えるのを止めようとエポケーを決め込む。そして全然違うことを考え、別の作業に熱中しだしたら、面白いように全てを思い出せた、ということは日常よく我々が体験し得ることではなかろうか?なぜこのようなことが起こるのであろうか?
 我々が何かを思い出そうとしている時には大概眉間に皺を寄せ、静かに息を吐き、呼吸を整えて、腹に力をいれて、小さな唸り声を上げていたりしないだろうか?この時に身体上にかかるエネルギーの負担とその生理学的機能状態を考えてみよう。
 何かを思い巡らす時、とりわけ緊張している時には我々平常人の脳からはベータ波が放出される。これが心配事があったり、複雑な作業をしている時には最も高い数値となる。一般的にアルファー波よりも我々はベータ波の方が数値的には高い、とされる。しかし何かに没頭している時には今度はアルファー波の数値が高くなる。没頭している時ばかりではなく、平静心で、忘我的状態においても同様である。これは自我滅却状態とでも言えばよいのか、兎に角瞑想したり(パソコンの画面に向かっているような状態とは正反対の状態である。)心を落ち着け心身が統一されたような状態である。ところがこのどちらもそう長く続けられない。時々交換する必要がある。アルファー波持続状態とは、認知症患者の状態に近い。しかしこのベータ波が高い状態を続け、「何だっけ?あの名前は!」というような忘却状態の時、一端そのことを追求するにを止めて、別のこと(ゲームをしたり、ケータイでメールを打ったり、インターネット・サーフィンをしたりとかの)熱中することにすると、今度はベータ波が下がり、アルファー波が徐々に上がってゆく。しかしそれも何時までも長く続けると疲労感が溜まりだす。それで再びそれを中断する。するとぱっと「ああ、こうだったか。」と忘れていたものの名前が思い出される。一事中断していた記憶の回路が再び繋がったわけである。この切り替えに何か秘密がありそうである。

 その前にちょっと考えてみておく必要のある事項がある。
 人間が500万年位前に猿から分岐していった頃、最も猿たちと違っていたのは、顔で示される表情のサインだったのではないだろうか?人間には他の類人猿(霊長類のすべても含めて)とは比較にならないほどの、複雑に表情を作り出すことが出来る表情筋を持っている。その柔らかく弾力に富んだ筋肉は他個体とのコミュニケーションを頻繁にとるためにそういう風に進化したのだろうか?それとも偶然そのように筋肉が発達したおかげで我々は複雑な表情を示すことが出来るようになり、コミュニケーションを発達させたのであろうか?
 一つ言える確かなことは表情を作ること、複雑な感情を表わすことは言語的な認識、喜怒哀楽、その中でも微妙な感情的なニュアンスの違いを認識するという能力が表情を作り出す前になければ、そのような筋肉を使って他者へサインとして送るような行為そのものが成立しようがない、ということである。勿論筋肉がそのような複雑な形状を可能にする機能を備えることになったからこそ、我々はそういう複雑な表情を、能力を発揮出来る場として実践し得るわけだが、そもそもそういうサインを送ろうという意欲を持たなければ、そういう便利な筋肉を使用して表情というサインを作り出そうという行為が生じない、ということだけは確かなように思われる。モティヴェーションがまずあって、それを実践しようとする過程で、我々自身がいつの間にか顔の筋肉を使ってそれを動かす(と言ったって、我々自身のことを考えると、決して意識してそれをしているわけではないのだが)ということを身に付けた、と考えるのが自然である。それが慣用化され、長い時間をかけて殆んど無意識の所作として定着しだすと、それが出来なかった個体はコミュニケーションを巧く他個体ほど活用出来ずに、いざという時の対応や即座の共同体的サヴァイヴァル判断力において脱落してゆき、やがてそういう能力が種全体の一般的な行為として遺伝子レヴェルでも徐々に初期人類とは違った変異をきたしながらいつしか定着を見、環境や他者との相関的なかかわりにおいて、生後すぐに発現してゆくような今の姿になった、と考えられる。
 養老孟司によれば人間は3万5千年から4万年このかた骨は変っていないのだそうである。するとそこに盛られていたあらゆる臓器、とりわけ大脳もさほどその時点からは変化していない、と考えてそう間違いはあるまい。すると猿から人間が分岐して行った時点とされる500万年前から496万年の間にそういうことが徐々に起こって行った、ということなのだろう。
 大脳レヴェルでのそのような意思表示システムが発生してゆく過程で、すでに脳波のシステムも同時に発展していったと考えられるから、脳波自体の別種活動による切り替えは、言語による動詞と名詞との切り替えや、何か褒美を貰って喜び勇んでいた人間が同時に、その時誰かから肉親の死とかの悲しい知らせを聞かされて、さっきまでの嬉しい表情をさっと変えて沈んだ表情になる切り替えとどこかで関連性がある、と捉えても不自然ではない。何か長い行為のあと急に別種の別性質の行為に切り替えたその瞬間的な衝動から、今の今まで忘れていたことを思い出すという事態を日常我々は経験するわけだが、そのことは感情(と表情)の切り替えともどうも関係がありそうである。
 本論(メディアと特権階級的私物化の欲求)において、メールによって平静心を保ち、インターネット・サーフィンによってそれを掻き乱すと言ったが、それはメールあるいはワードと言ってもよいが、これらがどんなにスピーディーに行われてもそれらが自己による創造的行為であるから、平静心を保つことが出来るのだが、インターネットによる情報の享受は明らかに受身的なものである。なぜならインターネットでキャッチする情報はキャッチされる迄は如何なる性質のものであっても、未知でありその未知の情報に対する好奇こそがそれを追う、しかも如何に膨大な量の情報から的確にキャッチ出来るかを自己の能力をフルに活かしてクリックし続けるのだから、よく言われる中毒症状をきたす危険性さえ孕む全くメールやワードとは別種のパソコン作業である。恐らくその熱中時の脳波も流出ホルモンも差異が見られるのではないか?そしてこの別種の行為を時々切り替えると能率が上がるとい側面は誰しも否めまい。
 また(意味と概念、ビジネス)において同じ過去形の文章を動詞的叙述と名詞的叙述とで比較対照したが、名詞による事後報告言辞は明らかに形式的であり、動詞の時のような再現前化の配慮よりも、他者の勝手な想像へと委ねる知らん振りを決め込む作用を持っていた、と考えられる。明らかに最初に示した動詞表現の方が相手に対して状況を理解しやすく示した言辞である、と思われる。その点再現前化的配慮に欠ける後者は明らかに他者を突っ放し、客観的な言辞に徹している為に、話者の聴者に対する好意は感じられないし、またそれでよい、というあの飲食店のマスターが太った客の過剰な注文を警告せずに注文通りに差し出す態度である。この二つのスタンス、とりわけ話者のそれはそれを発話する時の脳波も、流出されるホルモンも状態的にきっと異なっているにちがいない、と思われる。しかもそれを語る時の表情、一つ前の例で言えばパソコンに向かっている時の受動的なインターネット画像、文字情報キャッチの時の表情も際立った差異があると思われる。インターネット・サーフィン中は殆んどテレビ・ゲームやゲーム・ソフト時の生理、心理、身体的、特に大脳における特有な集中型であろう。この別種の行為の切り替えによる表情の変化こそ、本論の趣旨とするところである。結論的に言えば行為、表情が切り替わる時の大脳の変化、勿論その指令を出すのが大脳であるにもかかわらず、行為自体を身体的に実践した時に大脳自体にそのことで直接もたらされる刺激が言語活動自体を司る機能と、記憶の作用とにいかに影響を与えているかは、その切り替えシステムに内在する質的転換が大きければ大きいほど大きいというものである。そしてそのことが立証されれば我々の記憶というものの実質や、言語行為の本質がおぼろげながら理解出来るように思われるのである。そしてそれは言語行為の中でも名詞と動詞の使い分けによる、やはり典型的な切り替え作業において日々小型モデルとして実践されている、ということである。

Thursday, November 19, 2009

D言語、行為、選択/14、意味と概念のメカニズム

 ただそのような選択はあくまでかなり積極的な大きな人生自体の意義を左右する決断であるが、我々は日々もっと些細な判断や決断も積み重ねている。それらは意味的(人生の転機というようなものは意味の領域である。)であるよりは概念的なものであり、意味の概念への<仮託>に依拠しており、これらは社会機能維持と共同体的慣習性に自己を委託すべく消極的なるがゆえに逆に自己の共同体内における安泰を保障しもするような行為である。この種の行為は惰性的なる側面も否めないが、かといって始終転機と言って暮らしてゆくわけにもゆかないので、我々は習慣とそこに安住したいと望む保守性も同時に持ち合わせている。<仮託>は自己保身の保守的知恵であり、我々はそこへの安住と逸脱の反復の中に、共同体、とりわけ言語共同体的行動の常套性に日常的には支配されつつも、時々そこから逸脱する自己主体的(それとて共同体機能の中から産出されたものに過ぎない。なぜなら我々は通常母国語でものを考えるのだから。)決心、自己投企的決断によって裏打ちされた行為へと赴いたりする。それは<仮託>の維持、解除、リセットということの反復であると言える。
 <仮託>に比重を置くことの多い日常は、極めて魅力的な概念を産出する。我々が食事する時、中高年なら糖分や塩分を控えめにしようとかの配慮から健康管理を意識した食習慣を持つことが多いが、それは我々が栄養学的な概念に対して、個人個人によって異なる健康食の意味を理解してこそ初めて可能となる。しかしその料理の元々の味とはその料理を生み出した民族の知恵と文化が染み付いた微妙な味加減と言うものがあって、それは文化的な概念である。それは健康管理や栄養価(そもそもの始めは寒い地方の料理はその寒さに耐えるために不可欠なある種の健康管理があったろうけど、それだけでは食習慣にまではならないのであって、やはり味加減が大切であったことだろう。)といった身体生理学的適合性とは矛盾する場合も多々あり得る。(それは生理学的配偶者としての精子と卵子の和合性と人間学的な相性が矛盾するのと同じである。)つまり概念は時として意味よりも一際我々を魅了しもするのであって、概念性にのみ依拠し、意味は後からついてくればいい、という開き直りこそが哲学であり、論理学であるわけである。だが一般的に最も我々の日常に誰でも目にするものたちには概念よりも意味が大きく作用する筈である。父親、母親、ミルク、窓、空、床、畳、膳、テーブル、コップといったものたちは概念よりも先に意味として迫ってくる。しか理想や概念といった語彙は確かにその概念から学習される場合も多い。それらをまず意味から把握する者は凄く早熟な人間である。日常的事物と違ってそれらは明らかに抽象的な概念であり、それらはまず概念把握からスタートすることも多い。それらは一方で社会的な機能や生の哲学を古来より我々が受け継いできた文化論的慣習の財産でもあるわけだから、学習の仕方も実家でより、学校で、教科書で、ということも多い。そもそも抽象的概念は社会機能の中で苦闘してきた先人による創造物であるから、<仮託>そのものの正体と取っ組み合う中で見出されたものだから、見出してゆく過程では個人的な体験性に彩られた意味の顕在も大いにあったろうが、実際上それが数多くの人類上の共有財産となると、本来の意味を失い、社会の共有制、公共性に依拠する部分が大きくなり、やがて<仮託>が幅を利かせ、権力に取り入れられ、常套的な使用され方に落ち着き、また新たな概念の出現を多くの人々によって待ち焦がれられることとなるのである。
 概念の使用、概念を通した政治的統制、権力は常に概念の多用をこととして、政治家,官僚、学者、詩人のいずれもが、それを武器として、概念間の秩序を編み出し、実際は自己の論理である筈なのに、あたかも概念そのものがその正統性を主張するかの如く我々は教育レヴェルからあらゆる概念、福祉、教育、財政とかの論理の大本には全てこの概念が横たわっているが、これを刷り込まれてきている。刷り込まれていることを自覚した時から概念から意味へ回帰する旅が始まる。概念の常套的使用頻度による普及はやがてそれを利用して宗教、革命、戦争(宗教的背景のものが多かったのは、明らかに我々が概念によって多くの宗教的秩序、それによってもたらされる生活スタイル、それを民族的な文化と呼ぶことも出来るが、寧ろ惰性的な創造性の欠如した伝統へと転落しつつある場合も多いと思われるような状態の保全性、保守本能が他者<異なった生活スタイル、つまり結婚、家族の在り方の違いを持った>との邂逅の末理解不能の地点に辿り着いた時我々や我々の祖先はそれを実施してきたのだ。)といった結果を多くもたらしてきているが、それは明らかに意味の多様性の着目を喪失した概念の共有性の虜になった人間の、概念の共有を果たし得ない他者(国家、民族共同体、宗教共同体、言語共同体)との軋轢が生んだ結果である。そもそも国家の存在は、民族の存在は、多種の言語の存在はそれらを引き起こす誘引を既に具えている。概念の使用の魅惑的なことは選挙の度に新しいスローガンや政治用語を流行らせ(あたかも新しい物のように、最近ではマニフェストという言葉がある国で流行ったが)、学者達は自分たちだけの狭い専門家集団という名のコミュニティーを作ってそういう人たちばかりではないが、概して狭い世界に閉じこもっているのである。国家やある共同体の戦争やテロといった行為の選択には明らかに言語活動における深化よりも言語活動によって概念の一律的な意味の共有化における踏み絵的な作用(他の意味には使用してはならないという)の末になされている、と言わねばならないだろう。それはある意味では概念の使用をめぐる悲劇的なる不動点に落着した、ということである。(ハインリッヒの法則を持ち出してもいいだろう。あらゆるカタストロフィーはこういうことである。)

C翻弄論 7、敬語の発生、人類歴史学的思考実験、

 敬語というものについて考えてみよう。我々が常に強烈なる「個」にのみ依拠しなければ価値的生ではないならば、挨拶同様、敬語(あるいは敬称)の持つ権威、権力容認、追従型のスタンスのその全てをも排除しなければならなくなろう。権力を容認出来ないならば敬語も敬称も使用するということは野生論的な真意表明欺瞞性の排除を目指す観点から、廃止すべきものである。しかし明らかに我々は社会で生活する上で主体的にこの種の慎みある「個」を採用してきてもいる。真意における強烈なる「個」は控え目に内奥にしまい込めというわけである。実際それが改革的、革命的攻撃性の抑制力として作用しているのであるが、我々は内奥的真意を表立って表明しないように努める。
 敬語の使用とはある意味で話者として相対する者が上位者であれば、謙りその者に対する敬意を表明することであり、それ自体で行為遂行的発言である(オースティンの提唱した概念)。しかしそれは極めて慣習的、殆ど全ての人間が生活上の知恵とさえ呼んでよい行為である。これは原初的には(言語獲得の初期から敬語が形式的に存在したとは言えない気がする。敬語はある種原初的権力の確立とそれに対する忍従が恒常化した末の人間の共同体的決断であると思われるから)最初期の行為遂行的発言(発語内行為の名残である、とも言えよう。)であり、意思疎通を円滑にするために運用される潤滑油と捉えてゆくことは至極順当な判断であろう。
 「個」は脆弱であるのが本性である。故にそれは意志、主体的理性論的選択が価値論的に権利問題として、あるいは我々自身本来的に発現可能な能力として認識されるべきものであり、事実そうであろう。あるいはこの発現可能な認識能力の故に人類は言語活動を営んできた、と考えることも可能である。そういう認識において、この潤滑油を寧ろ強固で堅牢なる「個」確立の為の意思表明、躊躇、抑制志向型で、建前主義的な全共同体成員のプライヴァシー保有の権利問題として捉えてもよいのではないか?
 というのもここで全く敬語のない社会があったとしよう。敬語はないのに権力と権威が存在するという状態を考えよう。すると権力を持つ側の人間(政治的、資本力保有いずれのケースにおいても)から、そうではない非力な立場の人間への糾弾が続出するのではないか?所謂権力の側からの切捨て御免的行為が横行するものと思われる。そこで我々の敬語の使用はこういう事態を未然に防止する為にとりわけ権力非保有の成員のプライヴァシーを護り、トラブルなく人生、生活を送る権利の付与が生じさせた方便ではなかったろうか?
 ここにおいて共同体内の挨拶や敬語に纏わる群集の原初的欲求は権威から寧ろ自己のプライヴァシーを護る意味合いがある、と考えてもよいのではないか?群集心理は全て否定すべきものではなく、肯定的に弱者的立場の成員の自己防衛策としても有効に作用するものであった、と考えたいのである。
 そういう意味において謙譲や謙遜といったものは一面では群集が抱く自己防衛本能を前提とした成員間の脆弱な「個」に対する保護主義的な欲求の表出である、と考えられないであろうか?
 言語活動そのものが脆弱な「個」の集合体である群集に一定の秩序を付与し、そのことで不安感を解消させる意味合いもメッセージ論的にはあったとも考えられる。その際に情報伝達以外にも他者の身体上の健康や心理的な状態を確認し合う労わりや敬意の表明は、ついぞ権力や権威を手中に収めることなく終わる多くの民衆の権利を保護する目的を巡るある種の方便(手段)であったと捉えることが可能であるなら、それは一体誰が考案したのだろうか?ア・プリオリに庶民全体であったのであろうか?それとも賢者であった権力者の側の知恵者だったのだろうか?それとも庶民を代表した者であったのだろうか?
 それは人類学上の歴史的な問題であるが、恐らく庶民、民衆の側にある賢者がいて、そういう人間が実力者や権力者の横暴を防いで、あるいは温和な性格であるために権力者の労と重責を慮って庶民に指導した結果であったであろうと思われる。そしてそのような形で権力の運用が滞りなく進行することで、賢者は改めて権力者(初期人類においては実力者並びにそのОB)の側から抜擢され、官僚となる。初期官僚の誕生である。
<権力者に忠実で彼らから愛される腹心である官僚が敬語を庶民に指導(啓蒙)するという形が最も敬語定着過程で自然な成り行きではないだろうか?そしてもしその発案者が庶民の側からだとすれば、その者は巧い発案であると権力者から感心され、寧ろ即刻部下として重用されたと思われるからである。ただ愚かで非力な権力者に対する崇拝者集団が同時に考え出したとは考えられない。と言って権力者自身が庶民にそれを強いるという図式も、どこか庶民の自発性を削ぐように思われる。庶民が自発的に敬意を持つように促すことが最も敬語定着において考えられることであり、かつそういう発案指導者は権力者ではないが、一般庶民よりは権力者と接する機会の多い官僚的立場の人間であったと考えるのが自然であるように思われる。そういう中間層は最初から存在したというよりは発案指導において権力者に認可された特権階級化していったと考えても矛盾はないのではなかろうか?>

Tuesday, November 17, 2009

B名詞と動詞 9、「信じる」ことと「理解する」こと

 他者の心は空気で読むしか方法はない。感じられるが観察することは出来ない。行動、振舞い(所作、表情を含む。)は観察することは出来るが感じることは出来ない。このことはストローソンが「個体と主語」でも語っている。(132ページより)
 他者信頼がある意志伝達であるなら、他者の表情を信じるべきであるが、逆に他者が偽装していると認知しているのなら信じてはならないが、他者を必要以上に不審に思うことはサルトルが<「他人」は、私が私自身を疑うのでないかぎり、疑われえないであろう。>(「存在と無」上、423ページより)と言っていることからも意志伝達の意図を無視していることとなる。意志伝達するということは少なくとも対話手として相互の意志伝達において表情による示唆を信じることを意味する。何故なら意志伝達しているのに他者の表情による示唆を信じていないと、他者への接し方において自己真意表明を拒否するよりも悪意に満ちており、そういう偽装をすることが社会的意思疎通の人格に関する信頼性を著しく傷つける(損なう)こととなるので、そういったリスクを冒してまで偽装することのメリットは、恐らく意志伝達拒否した方のデメリットよりも遥かに量的に得るものは少ないから我々は通常ビジネス以外では偽装を避けるものである。つまり偽装するくらいなら、意志伝達拒否、つまりその人と会わないことを選択する方が遥かにましなのである(尤もサルトルの謂いは他者存在自体を私が疑うということは私自身の知覚を疑うというデカルト的命題のことを言っているのだが、しかしそれもまた他者存在への基本的信頼に根差しているだろう)。
 「信じる」ことと「理解する」ことは齟齬がある。理解出来ないが信じるということはあり得るか?信じることは出来ないが理解するということはあり得るか?次のような四つのカテゴリーが考えられる。

① 信じて理解する。
② 信じて理解しない。
③ 信じないで理解する。
④ 信じないで理解しない。 

 ①と④、②と③がペアになる。

「信じる」こととは端的に言って「決心する」ことである。
<私が他人のうちにおける対象として、私にあらわれうるためには、私は他人を、主観としてのかぎりにおいてとらえるのでなければならないであろう。けれども他人が対象として私にあらわれるかぎりにおいて、他人にとっての私の対象性は、私にあらわれえないであろう。>(サルトル、「存在と無」上、430ページより)
 他者にとっての私を私が理解出来る、ということは私が他者を理解するということを前提している。よって私は他者を理解することが即ち他者を信じることを前提に成立することが証明される。しかし信じることが常に理解することではないことは上図によっても明らかである。寧ろ信じることは理解を鈍らせる。曇らせる。他者にとっての私を理解出来るということは他者が抱く私を私が許容し得るということを意味するから、当然私は他者を理解すると同時に信じることが必要となる。だが理解し得なくても信じることが出来る場合があり、それは経験に基づくことが多い。
 結論的に言って理解することを通して(積み重ねて)信じることは理性的行為である。そしてもし我々が切に教訓としてそれを必要とするとしたら、我々自身が信じることの意義を切実に認識し得た時と言えよう。論理を飛び越えて信じてしまうことは、それが好結果を得た時にのみ正しい。しかし理解することを通してにせよ結果的に信じることが出来、それが真理であるという自明性の下に認識し得たものを通底したある普遍的な傾向があることも確かである。あるものに対しては信じやすく、別のものに対してはそうでないということ、それは性格遺伝子によるものなのか?そしてそれは経験と共に変化してゆくものなのか?両方であろう。
 しかし理解を飛び越えて信じたものの中には、やがて信じることが不能になるものも多く含まれている。だからと言って理解を飛び越えて信じることの出来る全てをそのようなものとして懐疑の目を向けることが正しいとは言えない。その理解を飛び越して信じてしまうことによる成功例と失敗例の混在こそが、全体の組み換えをその都度我々が必要としていることの根拠である。行為の決断は心的メカニズムとしては「信じて理解する」か、「信じないで理解しない」かという判断が大半であろう。逆に反省、思索(思惟の連鎖)対象である心的作用とは「信じて理解しない」か、「信じないで理解するか」という判断が大半であろう。そしてこの両方の二元論を一元化するものとは、行為と反省を統一する意識である。しかし意識は行為、反省といったその時々での志向的様相によって異なっており、それを同一のもののその時々での変化であるとするものが自己意識、自我である。だから一元化する必要があるか、ないかということは西田的な一元論を求める立場を時代的、心情的に採るか否かに掛かっている。
 一元論であるか、二元論であるかどうかということは哲学そのものの本質そのものには抵触しない、というのが私の取る立場である。そして自我を意識せずに済ます最も有効な手立ては全ての他者、対象(サルトルは他者と対象を峻別したが、敢えて他者を対象の一つとして認識することも可能であろう。)という外部世界に対する観察である。(だから観察にはどこかしら独我論的な趣がある。)しかし自己を他者、対象と等価の対象として認識することは出来ない。よって対自は反省的地平のものとしてのみ有効である自己に対する背進<カント>であり、欺瞞<サルトル>である。即自こそが意志である。対自は自己をどこかしら記号化する。自我は対自によってしか観察され得ないが、哲学的領域としてはある限界がある。ここから先は精神分析の領域である。さもなくば神経学的な進化論生物物理学の領域である。ある意味で対象に意識が向かうことは自己主体の「独我の維持」以外の何物でもない。対象へと向かうということよりも対象を認めるということ、ヘーゲルやホネットが言った承認という形で他者をも含めた対象、そして自己もまたその中の一つであるということを知る為に生はなされるのだ、ということを理解する為ではなく信じる(それは容易に為され得ない)為に理性も経験も知識も総動員されるのだ。それは対象への愛に他ならない。それはまた経験的な理解であり、信仰である。
 理解を飛び越えて得られる「信じる」こととは別対象へと向けられているにもかかわらず等価であるような共通部分(それらは全体としては異なっているにもかかわらず)を同化され得るものとして、そこに真理の光を見ることは、前者と合一され得れば「信じる」ことも「理解する」ことも含有するようなものと根本的原理とも言えるような意味での「知る」、つまり個的意味と普遍的意味の合一した「知る」を認識として得るということであろう。
 人間は個的意味を遊離した普遍的意味(そんなものがあったしてだが)というものを「知る」ことは出来ない。それはあるかも知れないし、実際にはあるであろう。しかしそれはどのような存在者にとっても同様であり、その存在を理解出来るが信じることは出来ない。しかし理解出来ないが信じることが出来、かつそのことで報われることが出来るものは、恐らくどのような存在者にとっても真理であり、理解を積み重ねることによって「信じる」こと以外出来なくなったものと合一されて引き出される根源的(普遍的)真理への水先案内人である。それを人生観と呼んでもいいかも知れない。
 「信じる」こととは、それが瞬時の借り物の全体に対してであれ、長い経験的認識の末に得た真理に対してであれ、それらはおしなべて名詞的思念である。それは静止した構造理解による視覚的表象確認の事後的な意味づけ決定であり、それに対して「理解する」こととは、それがある変化の持続に対する物性的把握(やはり瞬時的たろうと経験的認識の反芻たろうと)であるから、動詞的思念である。それは動的物体機能と現象による視覚的体験会得である。
「信じる」ことは諦める(決心する)ことであり、「理解する」ことは諦めないこと、前者は考えることを辞めることであり、後者は辞めないことである。

 ところで未来志向(予持)は想起を喚起させる。
 想像とは想定される可能性への追認であり、同時に想定外のものが何かないか、ということの模索であり、想定外のものの積極的な排除である。これは待機というものの(待機は決心後にもたらされる。)本質である。短距離走者やマラソンランナーがスタート地点にスタンバイしている時の心理的な感情であり、その時の思念である。だから決心は行動の直前の想像、想起といったもの全てを断念することである。そして決心と連動して起こる行為は何の為になされる、と反省的に言い得るのか?




行為

反省
  未来の志向性 想起しながら想像する。<過去、現在、未来を繋ぐことが想起を契機として顕現される>想起に想  像も利用される
懐疑

決心<反省の断念>

行為

Monday, November 16, 2009

A言語のメカニズム C哲学者と言語 14レヴィナスとデリダ

 他者哲学において際立った内容を示したのはエマヌエル・レヴィナスである。レヴィナスの哲学においてフッサールとハイデッガーへの信奉と傾注は大きく立ちはだっているが、それ以上に彼自身の出自であるところのユダヤ性はフッサールやウィトゲンシュタインとはまた違ったかたちで表出している。恐らく彼の哲学を論じるうえで参考となる同種の典型はブーバーであり、ヤスパースであったろう。他者哲学という視点からはフッサール後期もさることながら(ウィトゲンシュタインは独我論的な視点<中期>以降の哲学は他者性そのものよりもコミュニケーション論として展開されており、その機能性に関する洞察となっている。そこが構造主義者等と相反する様相をもたらす要因となっている。)、ブーバー、ヤスパースはユダヤ的信仰の理念においてはレヴィナスの先達であった、と言えるだろう。レヴィナスは言語行為自体を動詞が持つ志向性から考察したオースティンの論理性ほどの細かい分析ではないものの、述語論理に関してはリッケルトにも劣らずに重要な概念として扱っている。またレヴィナス哲学においては「語ること」は他者性への言及と言語行為の持つ本質を理解する上で重要な事項となっている。暗喩、暗示、間接的言辞といった行為が持つ積極的側面は我々の日常において、とりわけ大人社会に属する成員にとっては明示とか拒否以上の明確な意思表示を伴っている。他者へ自発的な理解を促すこの種の意思表示は、それを受け取る側への判断力査定の側面も強く持っている。よって査定された側は査定で返すという応報を余儀なくされる場合も往々にしてあり得る。
 言語行為は身体知覚による刺激に対する反応という学習や記憶のシステムと密接な関係ともまた違う、もっと文化コード的な踏み絵とも言えるような側面も有している。他者理解が必要以上に他者領域に踏み込むことを相互に抑制し合う形でなされる時、他者配慮実践の是非が言語行為自体から体現されているかどうか、ということの踏み絵的性格を帯びている、とレヴィナス哲学は教えてくれる。この点ではレヴィナス哲学の傾注者であるデリダの歓待理論においても明確に示されているが、レヴィナス同様ユダヤとしてのアイデンティティーを持つデリダ、あるいはクリプキの共同体理論からも我々は同種の命題設定を読み取ることは可能である。
 デリダにとって記憶が差延作用と彼自身が呼ぶものによって同質性を前提しながらも、より明確に他者理解において自己との差異を認識することがキーとなっているという考え方は他者との断絶も辞さないという自己透徹のスタンスを一方では招聘する。従軍時代以降のウィトゲンシュタインがトルストイに傾注したり、その後の哲学的展開においてより独我論に接近せざるを得なかった必然性は、恐らくデリダにとっても極初期から意識に浮上していたであろうことは想像にかたくない。しかしそれにも増して印象的なのは、レヴィナスにおいて他者性が「他者、それは悲劇である。」といったアポリネール以上の切実さを持ちながらどこか信頼に満ちたものを感じさせる点では、オースティンほどの抑鬱状態にもなかったからなのかも知れない。レヴィナスにおいてはデリダ的な記憶の差異認識とかメルロ・ポンティーによる、「刺激に対する反応という単純図式(それもまた記憶によって説明可能であるが)への批判」に込められた間主観性ともまた異なった様相であるのは、信頼が醸成されるものであるよりも前提されるものである、という一事であろう。なぜならコミュニケーションを取るという事態はすでにそのこと自体で、他者信頼を呼び込んでもいるからである。その点ではレヴィナスはデリダほどのネガティヴを他者性に関しては持っていない。レヴィナス同様にハイデッガーを哲学的出発点にしているデリダが示したロゴス中心主義(ハイデッガーによる反・近代主義の理念の継承とも考えられる。)への批判の要ともなっている原エクリチュールという概念によって示されるもの(これは養老理論におけるヒトがエクリチュールを獲得した事実が遺伝子的進化をもたらしはしなかったという主張ともリンクする。)が今日的に言えば遺伝子のレシピ(マット・リドレー、リチャード・ドーキンス等はそう表現している。)に関しては、FOXP2遺伝子に相当するのに対して、ハイデッガーからの啓示を受けながらもレヴィナスは、アンチ意識によって自己哲学を展開させることよりも、受容の時間を前提した生を肯定的に捉えることで自己哲学を出発させていることから、母親が子供を可愛がる本能とも呼ぶべきものを発現させる遺伝子FOSβ等を想起させずにはおかない。

Saturday, November 14, 2009

D言語、行為、選択/13 選択という帰路

 人生は予定通りにはゆかない。予定通りにいっていたとしても、やむにやまれぬ突如予定外の不測の事態が入り込んだり、あるいはそのように予定通りに行くこと自体に疑問を呈して全然別種の行動をとったりもするのである。一流大学を出て一流の会社に勤めていた人が飲食店を出して経営したり、一流のビジネスマンの経営者が画家になったり、画家を目指していた人が役者になったり、版画家が小説を書いたりドラマに出たり、ロック歌手で鳴らした人が他国の芸術大学の音楽教授に呼ばれたり、経済学者が大臣や政治家になったり、大手証券会社の重役がホームレスになったり、そうなったおかげで妻と娘に出てゆかれて娘を探す為に娘の好きだったロック歌手になったり、人生は何があるかわからないし、何をやることになるかわからない。そこで選択とは一生のこともあるけれど、その選択を再び変更することもままあるのである。すると人生はある意味では選択変更、予定変更と躊躇と逡巡の繰り返しである、とさえ言いえる。順調に身体的健康を育んでいる人がある日突如不測の大事故に見舞われ、半身不随になったり、大脳の半分が損傷したり、それでもあらゆる身体システムの可塑性を利用して見事に日常生活に生き甲斐を見出したり、所謂そういった殆んど常に押し寄せる不測の事態に対する反応と対処が身体的にも精神的にも大きな部分を占めるのが人生である、と言える。その際最初考えた通りには何事も巧くは運ばないということを認知し、そのやり方がまずかったのではないか、と最初の選択を修正したり、方向転換したりというのが我々の人生の最も重要な行為である。そこで我々は疑問を抱き、真実とされるものに対して懐疑を抱く。また巧く行き過ぎてきることにも逆に恐怖を感じ、想像だにしなかった別の回り道や茨の道を敢えて非難覚悟で挑んだり、そういうことさえ辞さないのが人間である。躊躇と逡巡、隠蔽と偽装という二つの表面上は全く積極的で肯定的ではない、寧ろネガティヴであり、消極的なる選択ならざる選択において実際は生のメカニズムの多くが隠されている、と思われる。そしてそこには認知能力や先験的弁証的思考能力、理解能力、性悪的性向への学習が大きく関与している
 さてここで再び留意しておかなければいけない重要なことがある。それは我々が人生の岐路に立たされた転機時には、それがいかに無謀なる方向転換的な決断であろうとも実現、成功可能性のないものを選択しはしない、ということである。例えば私のように幼い頃から運動神経には殆んど自信のなかった人間は間違っても、その人がまだ若い方向転換の効く十七歳位の年齢であっても決して野球選手になろうなどとは考えもしないということである。それは例えて言えばネクタイの柄を選ぶ時自分の嫌いなタイプの柄は決して選ばないようなものである。幼い頃から手先が器用でなかった人間が突如大工職とかを目指すということは余程のモティヴェーションが通常要求されるし、何らかの大きな出会いが必要である。つまり免疫システムにおいて、自己のHLAを認識、識別できないような細胞は容赦なく切り捨てられるように、選択に如何なる逡巡も見せない、無条件なものもある、ということである。それらの選択的行動も恐らく予めDNAレヴェルから決定されているのであろう。そしてそれは一方で一概には初見で判断できない多くのプロブレムもあり、その際には多くの遺伝子、細胞、ホルモン、弁証的理解力、経験論的認知能力などが総動員されて決定しているということである。愛する人を形容する時「あそこにいる人が私の最愛の人です。」という言説は概念論的には「私の憎む、嫌いな、そう好きでもない」という数多くの選択肢を脳内で予め認識論的意味規範として備えて(この場合は迷わず愛するという形容を選んでいるわけだが)いるということは事実である。それは必要のない免疫細胞が必要不可欠の細胞と同時に用意され、それらはまさに抹殺されるためにのみ存在するように、ではそのような存在は初めから必要ないのではないか、と思われるかも知れないが、やはり全体的なシステム維持においては、手続き上必要であるように、我々はやはり選択されずに終わる数多くの一見無駄とさえ言い得るような可能性さえ用意して生きている、それが進化上の不可避的事実(私が嫌いなタイプのネクタイであっても、店には置いてなければならない。)として、それを受け入れて生きること、そういう手続きにおいてのみ行為の選択もまた意味を持つということなのである。大脳では無条件的選択も躊躇と逡巡の末の選択であろうとも等しく無数の排除される選択肢をも常に用意している、ということである。そして選択とはどんなに無謀と傍から思われようとも、選択する本人からすれば最も実現可能性のある選択である、ということである。

Thursday, November 12, 2009

C翻弄論 7、贔屓の基準におけるさまざまなレヴェルと私

 贔屓の政治家と尊敬出来る政治家とは自ずと異なった位相からの選択基準である。というのも贔屓の政治家は、「理解出来ない」ということも時としてあり得るのだ。「理解出来る」ことが贔屓であることと重なれば最もその政治家を支持するための基準としては文句ないわけであるが、時として理念的、信念的には「理解出来ない」部分があったとしても尚その政治家を贔屓にしたいという心情はある意味では論理を超えた心的様相である。それは好きな映画や好きな音楽が理屈で好きであることの理由を見出すことが不可能であることと同様である。それに対して尊敬出来る政治家とは贔屓な政治家ともまた異なっている。「理解出来る」心情とは信念的な理念性や理性論的な判断で正しいことと思われることを遂行する政治家であろう。しかしそうであるからと言ってその政治家が好きであるとは言えない。贔屓ではなくても「理解出来る」政治家はただ単に尊敬に値するに過ぎないのであって、そういう政治家に対して我々はただ尊敬するものの、支持をしようという意識には直結しないことも大いにあり得る。またそういう風に「理解し得る」対象とはそれが同時に贔屓にし得る要素を見出した時にこそ支持したいという意志を抱くようになるものである。名優であったと「理解出来ても」好きではない俳優の主演映画を観たくはないと思うのと同様である。この「理解出来る」ものの好きではないというものの対象としては学者、論文といった左脳的な判断において顕著な場合も多いと思われる。
 しかし我々はここで贔屓であることの心的様相が共同体とか組織において構成される部分から考察してみなければならない時を迎えたようである。
 贔屓感情が構成される私的な心的様相には次のようなパターンが考えられ、どのような感情もそのいずれかに属することとなるのではなかろうか?

1、共同体成員としての「私」にとっての「私」
2、「私」以外の全ての同一共同体成員間で通用する「私」(他成員にとっての「私」)<自己の性格的傾向性による判断>
3、共同体成員を意識上離れた時の「私」にとっての「私」
4、同一の組織の中の「私」
5、同一の職業、業界の中の「私」

1における心的様相において我々はオリンピックで自国選手を応援し、地域共同体において同一地域居住者同士、同郷出身者同士における共感を抱く。特にオリンピックで誰かを応援する時自国選手以外の選手を応援する場合とは大概、自国選手が敗退し、その自国選手を負かした選手(外国人の)を応援する場合と、自国選手が出場していない場合に自国選手以外の外国人選手、あるいは外国チームを贔屓感情で応援する場合のみであろう。そういう贔屓感情とは前者の場合は1における敗北ケースにおける代理感情であり、後者は個人を応援する場合のみ3の心的様相であり、外国チームの場合は自国にとって贔屓出来るという意味において1における心的様相を主軸としたものである。
 2は贔屓の政治家(同一国内のおける)、タレントへの共感感情である。客観的に他者から見た私の性格が判断する傾向性である。しかしそれは私自身から見れば他者から見たそれとも異なった実像として立ち現れているものである。その違いの部分から鑑みた判断は3に属する。2の判断の中には映画や音楽に対する嗜好も入る。また3と5は共通するものがある。3は尊敬する学者、政治的信条、道徳的信条といったものが含まれるが、5においてはそれが同一職業における「理解出来る」こと(能力)である。3は宗教的な感情や共感のようなものも含むから、そこでは同一共同体以外の人間関係が基本となっている。しかもそれはただ単なる帰属意識ではなく、同一思想における共感とか(例えば時代が異なる偉人に対する共感とかも含む。)同一意識の共有性が基本となっている。同一職業においては理解し得る部分があるが、それは理念的なものであり、贔屓的であることは少ない。4は同一共同体以外の法人、会社、同好の会等の帰属意識である。
 「好きであること」と「理解出来ること」とは違う。前者は2の判断であり、後者は3の判断である。しかしこの二つは同時に「信じること」に絡んでくる。これは信念へと直結するものである。「好きであること」を通して「信じること」へ至る場合もあるし、「理解出来ること」を通して「信じること」へ至る場合もある。しかしこの両者に明確な境界はない。両者は多分に重なっているので、その配合の加減には「好きであること」という贔屓感情が大半を占めている場合もあれば、そうではなく「理解出来ること」という判断、つまり「正しいと思うこと」が大半を占めている場合は、理性論的に<分析的に>真理と捉えられること以外の何物でもなく、これは信念であることの内でも、信条とか理念といったものとしても捉えられるものである。
 概して「好きであること」に理由を見出すことは難しい。というのもこの判断は分析的であるというような左脳的な判断ではなく、あくまで右脳的な判断であり、<先天的に>受け入れられるか、そうではない相性の問題であるからだ。 chemistry という単語で表わされる理屈とか論理ではない判断を人間は往々にして正しいものであると思いたがる。それが正しい場合もあるが、そうではない、とんでもない勘違いである場合もある。
 この両者の鬩ぎ合いに今度は経験という事項が加わって再び複雑化の様相を呈する。「好きであること」で判断して正しかった場合の多かった人間は贔屓感情で物事を判断することが間違いないと考えるし、逆に「理解出来ること」で判断して正しかった場合は贔屓感情を抑えることによって正しい判断がなされ得ると考える。しかし実際問題として、贔屓感情というものさえも、「理解出来る」ことの蓄積、つまり理性論的判断の経験的な積み重ねから構成される場合も多い。つまり綜合的判断が分析的であるような判断を恒常化させるということである。あるいは「好きであること」の絶え間のない連続がやがて「理解出来ること」を確固たるものにしてゆく場合も多い。するとこの二つの判断は常に相補的であるとも言えるわけだ。そして両方によって「信じること」へ至るものたちが、再び「好きであること」とか「理解出来ること」とかへとフィードバックするということもある。ここでは脆弱な「個」である私という存在が、理性論的に言えば「理解出来ること」を優先すべきであると判断したいのだし、逆に感性論的に言えば、それを現実離れした観念論であると言いたいのだ。だから何を基準に「信じること」を認識するかによってこの二つの判断分析概念はその配分を変数的な役割として可変性を生じさせるのである。
 だから我々は贔屓の政治家をその欠点をも含めて熱烈に支持するという行為において何の不思議さも見出すことは出来ないであろうし、逆に理性論的に判断して個人的な贔屓感情を排するべく必要性に覚醒することだって大いにあり得るわけである。そしてこの二つの感情、判断には境界はない。
 しかしギャンブルやゲーム(オリンピックやワールドカップ、日本シリーズ、大リーグ、大相撲とかのスポーツ<プロ、アマをと問わず>も含む。)、各種勝負事で敗退し、そのことについて反省する(何故敗れたのかと)ことにおいては、結果の出たことについてその結果やプロセスを再生させて、反省対象を見出すことは、<行為=目的の手段化=過去化>としての、<現在における過去目的手段化=現在の行為の遂行>という不断の連鎖が日常であるなら、未来への教訓として必要不可欠な現在における反省という思惟は<行為=未来へ向けられつつ現在自体が目的>という位相へと我々を差し向けるのである。

 ここに来て日本国民が、一人の強力なる政治的指導者に惹かれていったこと、そして200X年夏の総選挙において、その総決算的な勝利を手中に収めたK泉前首相を巡る選挙への問い、そういう風に惹かれてゆくことである政治家を支持することは決して否定すべきことではないし、それは理性論的な集積による贔屓感情であるとも言えようが、警戒しなければいけない場合もある、と結論出来るように思われる。そのように反省し、有権者の心的様相を考察し、過去の行為を現在の目的性探査のために考察し、過去反省、再認、過去に対する歴史認識的言及行為の目的性維持の為の手段として従属させることは意味あることである、ということは証明されたのではなかろうか?
 そして何か強力な魅力を発散するものについ追従してしまうということには、まるで托卵するカッコウに利用される別種の親鳥がカッコウの雛独自の誘引作用に自ら進んで欺かれているかの如きケース同様何らかの我々の中にある共時的社会における運命共同体意識とも相通じる(まさに外国人投資家さえもが、日本金融市場への不信感からLDショックで、日本企業株を売りに走る意識を構成するところの)原初的群集心理を惹起するどうしようもない我々自身の本能があるのではなかろうか?(このことは後で詳述する。)
 その狼狽を構成するもの、恋は盲目状態を構成するものは個人差もある。理性論的判断をこういう際には決まって適用しようと心掛ける判断もまた個人の性格遺伝子的な傾向性にも依拠していると言えよう。そしてそれとは逆に惹かれるものに対しては多少心許してもよいのではないか、と考える(つまり格律の中でも他律的な傾向性を発現させる)場合も同様である。そしてこのどちらを主体的選択であるかどうかを判断することは難しい。というのも政治的理念理性論的、自由意志的判断というものもあるであろうし、どんなに名優であると思われるアクターが主演の映画でもその主演アクターが好きではなかったならその映画を態々見にゆかないという判断にも通じる相性直観的判断の方こそ正しい判断であり、かつ自由意志であると言い得る場合も多々あるからである。
 結論的に言えば、私は「個」とは本来脆弱なものではないか、と思っている。例えば市場での狼狽売り等に見られる非主体的なる「個」は市場全体が脆弱な「個」を前提しているとも言い得るではないか?そしてそれは今回の外国人の日本株売りにも端的に示されているように、日本人にのみ見られるものでは決してなく、ほぼ全ての民族に見られるものである、と思う。昨今ではイスラム教徒たちがムハンマドを風刺したデンマーク人に対して怒りの矛先を大使館等に向けたものもある種の集団ヒステリーとも受け取れる。しかし我々は本来脆弱な「個」の保有者なるが故に、理性とか自由意志とかいうものを価値論的規範上のものとして見出してゆこうと常に試みるのではなかろうか?(この論文は三年前くらいに書いたが、現在でも同じ状況は多々見られるのではないか?)

Tuesday, November 10, 2009

B名詞と動詞 8-2、時間論としての名詞と動詞

 我々は名詞と動詞を使用する際の心的様相において明らかに異なった二つの、しかしそれは同時に一方が他方を必要としながら相互に連関し合いながら生を、自我を、あるいは認識を形成しているということを知ることが出来る。まず経験というものを考えてみよう。経験は記憶があり、その記憶によって過去像の全てを一括して捉える捉え方なしには成立し得ない。記憶という機能がもしなく、一つ一つの行為が全てその時初めて考えられるような行為であるなら学習ということはおろか自我ということさえも発生し得ないであろう。するとそのような状態での経験は経験としては成立し得ず、ただ本能的な反応であるか、一瞬の覚知でしかない。それがただ単に一瞬の所作ではなく、意味ある行為となるには記憶というものが必要である。記憶は過去に遡るに連れ取捨選択されて必要な事項以外は捨象されてゆくが、捨象されたもの以外の必要な事項とはとどのつまり経験事項として学習形成事項として詠嘆対象事項として記憶を自覚的に構成するものである。しかしそれらは自覚的ではない意味的には捨象された無意識的な記憶に包まれている。それをエピソード記憶と言ってもよいだろう。そしてその意味的には不明瞭な無意識記憶事項たちがファジーなりにも取捨選択され、その時あった事実の意味を構成する重要な要素として個的意味というものを記憶する各個人に固有のニュアンスを付与している。それをクオリアと呼んでもよいが、感覚質的なこと以外にものも当然その無意味なニュアンスには含まれる可能性がある。だから記憶事項は自覚的に語ることが出来る側面と言語化して語り得ない側面の両方から成立している。意味的に名指された記憶の一括的な認識は名詞的であり、それを引き出し想起し、再現前化する時、それらは動詞的である。
 カントは背進という言葉で、サルトルは欺瞞という言葉で言い表わしているが、全体というものはどのように広範囲であってもその時々に一括してこれまで蓄積してきたものという認識において全体を俯瞰する結果認識的な全体把握は名詞的(過去想起的)であり、その結果認識を無効にするような背進と欺瞞性への自覚は動詞的(未来意志的)である。前者が確定的であり、意味づけ作用的であるなら、後者は意味づけ不能性の自覚を持った意味規定性から漏れ出る、溢れ出る非確定的な試行錯誤作用的である。何らかの事実自体に付帯することとしては事実の存在感とか衝撃力とでも言ってもよいかも知れない。
 だから我々は記憶収納に際して名詞的な確定作業を行うとその次の瞬間は既に自覚的な試行錯誤という記憶事項選択(何か行動する時には過去の経験を下にああでもない、こうでもないという思念をする。その次に行動が得られる。)と学習事項発見(過去の経験から現在に引き出すべき何か一番大切なものを探り出そうとする。)を行い、試行錯誤的に知覚と行為の只中を事後的に「体験する」と言えるような生の時間を生きる。だが区切りとして睡眠したり、行為を中断したりして例えばここまで描いてきた絵の全体を俯瞰するように行為してきた軌跡を振り返る。(今現在までは過去の行為の結果はああである、こうである、と確定する、あるいは一番今現在において大切なものを認知、理解する。)この時反省がなされ、反省が終了すると、意識は名詞的、経験綜合的な心的な作用となる。こういった行為と生の時間、忘我、一如の終結は「ここまで歩んできた全体」という区切りの意識であるからどこで区切りを付けるかを設定することはその都度の主観的な思念でしかなされ得ない。集中力の持続も個人差がある。故に背進であり、欺瞞的な行為としてケとしても位置づけられるのだ。だからその結果論的な思念、つまり総括的な意識を打破するのは次の新しい行為であり、ハレである。ここで我々は思念を吹っ切り行為の只中に突入する。我々はこういった行為と中断の連鎖を小さな短い一秒、一分といった行為においても一日、一ヶ月、一年、数年・・・・・という風に長いスパンでも絶えず反復して執り行っているのである。小さなハレ、小さなケ、大きなハレ、大きなケというようなものを絶えず反復していかなければならないのは、生物学的にも常に代謝活動を行い、動的平衡を行う身体生理学的な側面からも自我論的な同一性維持においても人間存在の必然的な姿である。
 今まで述べてきたことを解かりやすくする為に陸上競技の走者を例に考えてみよう。短距離走者にとっての100メートル、200メートルとは、マラソン走者の持つ全ての距離と等価のものである。よって彼らはマラソン走者が20キロくらい走り進んだところでそれまでの20キロを振り返り、その時点での自己の保有する潜在的エネルギーや持久力、後残りの距離を走破する為に今から放出してゆくべきエネルギーを自覚するような意味での反省、未来への予持を同時に行う。それは1メートル走った時点で、20メートル走った時点で、50メートル走った時点で細かく無限分割し得るその時々で意識的に想起(今まで走ってきた)、想像(走り終える)、知覚(今走っている)といった転換が転換を施す思念(未来へと向けられた志向性、未来志向的意志)によって繰り返され、行為の只中において行為を意味づけ、激励する。
「走った」と考える時我々は過去映像的な心的様相を抱き、想起喚起的な心的様相となる。「走り」と考える時我々は事実総括的であり、結果論的、査定結果的、理解完了的である。何かを想起する時、その何かは記憶の層ではある名指しでファイルされている。それを引用しようとする時、書庫に並べた本の背表紙を見て選ぶわけだから、名詞的な思念、名詞的な認識である。しかしそれを取り出し開き中を読み出す時には動詞的な追認、覚知を行う。「動き」、「走り」は概念断言的であり、伝達内容選択済みである。伝達意志決定済みである。記憶事項検索における命名された名辞認知的である。これに対して「動いた」、「走った」は過去映像再生的であり、想起喚起的である。現在進行追従的である。短距離走者もマラソン走者も常に同時的にと言っていい位に交互にこの二つの思念を反復している。「今のこの走りをどうにかしよう、修正せねば」とか「今までここまで走った、後これくらいの距離だ、だから後残されたエネルギーのありったけを押し出そう。」とか考える。前者の例では「走り」は現在進行する行為を常に過去へと追い遣られる事実として事後的に認識している。それに対して「走った」は事後的に想起しているが、それを取り纏めて一括して「走り」全体を思念している。「走った」と動詞的に思念しながら同時にそれを一括した事実、つまり過去規定的に名詞化している。(名詞的認識)逆に前者は「走り」と名詞的に思念しながらも同時にそれを現在進行の行為を位置づけながらも今現在の走っているこの行為を考えている。(動詞的認識)この二つの思念上の総意は名詞化された動詞と動詞化された名詞という対極的な二つの事例が示すところの動詞的な思念と名詞的な思念というものが常に相互に干渉し合いながら同時的に顕在し、かつ共同しあって思念を構成している、と言うことが可能である。
 そして言うまでもないことであるが、動詞化された名詞は抽象名詞の本質的な性質である。(こういった思念が抽象名詞を産出したのであろう。)また名詞化された動詞は名詞節的な思念において名詞節に従属する構成要素なのである。

Sunday, November 8, 2009

A言語のメカニズム C哲学者と言語 13、オースティン、あるいは倫理、他者

 ところが一人の人間におけるある発言はそう容易く偶然的な事項としては片付けられないのである。我々の生は偶然的な産物かも知れないが、その生命体としての個体はある恒常性をもって存在しており、そこには一貫性を求められる、というよりそのようなものとして全ての発言を含む行為が意思的責任を伴うものとしてしか認識され得ない。(それが仮に偶然的なものであったしても)ある個人によってもたらされた、その言語行為というものは必然的に共同体機能の中で一定のルールと秩序を要求されるものなのだ。
 ある言辞がもたらされるとその個別的意味は確かに存在しはするが、その一つの言辞だけを取ってその言辞をもたらした個人の全てを判断することはやはり無謀な試みと言わねばならない。しかしだからと言って一つ一つの言辞自体は取るに足らない、どうでも良いというものでもない。言辞自体を巡る責任の問題もまた多くの哲学者たちによって論争されてきた。ある意味ではそれは法的秩序自体の必要性をも物語る命題であると言えよう。今日哲学において言語の問題を語ることはカントの時代よりは容易い。その中でもオースティンはことに言辞自体の共同体機能の問題をウィトゲンシュタイン後期哲学から命題を引き継ぎつつより深化させた一人と言うことが出来る。
 仮に我々自身の存在をも含むあらゆる生命体の誕生が必然であったとしよう。するとその歴史的経緯、つまりシアノ・バクテリアから今日の全生命体の様相へと至る道筋そのもがある意味では予定されていたことになり、そういう見方は必然的に神の存在を予告することになる。我々が今かく考え、かく行動することさえもが、必然となり(神の思し召しにより)予定されていたことになる。地球が氷河時代に突入したことをその原因性から考えれば、例えば幾つか考えられる原因の中から隕石の衝突を考えてみよう。隕石が衝突したことによってもたらされる衝撃とかその影響とかの個々の事象は、ある程度は物理的な法則的秩序によって説明可能である。そして隕石が地球に衝突すること自体も、個々の事象においては物理的法則として説明可能であろう。しかしなぜその時期に、よりによってこの地球へとそれが衝突したかということ自体をマクロ的に捉えその原因性を追究してゆくと、その果てには結局のところ最初の起源となり得る原因は偶然ということになりはしまいか?
 例えば一個の人間がある発言をすることとなる経緯を見てみると、なるほど何らかの伏線が常に存在し、その発言をもたらすこととなる経緯を生み出す状況とか、個々の事情も推測出来もしよう。しかし最終的なある起源となり得る事項に関して我々はそれすらも必然である、と言いえるであろうか?だからと言ってパブロフ的に、ある外的状況性であるところの一個の人間個体に対する刺激が誘引となって、その反応として我々がその都度受け答えている事態こそが我々の生なのだ(そういうメカニズム自体は物理法則的秩序に忠実であるとする考え方)、とそれだけを盾に取り、生を一律に捉えると、一個一個の反応とか刺激に対する「今日はそのことはあまり気にならなかった。」とか「今日はそのことがやけに気になった。」とかのその都度の気持ちの違い、その場合の前者が昨日であって、後者が明日であるということの原因まで必然的と捉えられるものであろうか、という疑問もまた生じよう。
 つまり個々の偶然による個々の反応の在り方のメカニズム自体は必然的であっても、その個々の偶然を相対的に支配する法則などは皆無であり、偶然的な気持ちの度合い(昨日はやけに外の工事の音が気になったが、今日はそれほどでもなかった、というような)と、その都度の反応の示し方そのものの時間的配置をも全て決定することを可能とするような全的な法則性の存在を希求することは神の存在を積極的に認知してゆく行為に等しいのではないか、と思われる。
 隕石が衝突してどのような様相へと地球環境自体が突入するかというような状況は、その時点での地球における環境的な状況が把握出来れば確かに必然的な展開までもが予測可能であろう。しかし衝突する隕石の位置も、またそのような事象を引き起こす宇宙のその時の状況、隕石の大きさの理由さえもが個々には説明可能であってさえ、それらを相対的に組み合わせることに存する原因性、つまりいつその大きさの隕石がそういう角度で、どのようなスピードで、地球のどこら辺に、しかもどのような環境条件での地球に衝突するのかという全的な様相の原因性までもが必然的説明を期待出来るだろうか?これはよく言われることだが、チェスのルールとチェスが行われた全試合を考えてみるとわかりやすい。
 チェスのルールはこの場合物理学的法則性そのものであろう。しかしチェスの個々の試合は極めてその都度の偶然性に支配されている。もしそれらの全試合(今迄行われた全てのチェスの試合とこれから行われる全チェスの試合<人類が絶滅するまでに行われるであろうすべての>)の試合の経過や全ての手が読めるというのなら、チェスのルールが出来た時点で全てが決定されていた、ということになる。しかしもしルールが出来た途端に後に行われる全試合の様相まで必然的に予測出来るのなら、我々はルールというものを考える必要などあるであろうか?(確かウィトゲンシュタインも似たようなことを言っている。)
 そのような疑問を念頭に入れて人間のコミュニケーションを考えてみよう。すると我々は一個の発言、それこそカントの「純・批」にもたらされたある言辞の意味さえもが、個別的な意味を超えてカントの全人生における一個の発言として、相対的に個別的意味とは別次元の意味(意義といっても良い。)として認識する必然性は、彼が既に物故者でもあることを考慮にいれれば歴史解釈としては極順当ではあるものの、先ほどの陳述とは矛盾するかも知れないが、それはあくまで結果論でしかなく、実際上は極めて偶然的な執筆中の何らかの事情(文脈上の些細な事情、例えば似たような言辞が続いたのでちょっと変更してみよう、と著者が思い立った、またそういう風に著者を決断させる著者の生理的事情もあった、とかの)によってもたらされた、と言うことも可能であろう。(人生さえもが極めて偶然的な出来事との偶然的な遭遇の偶然的な連続である、と言える。)
 しかしカントがどのような理念を念頭に入れてそのテクスト全体へと向かっていたかは、それ以前の彼自身の人生の状況を考慮に入れれば、ある程度の必然でもって理解可能である。しかし同時に書き始めた最初の計画通りに、最初の理念全くそのままのかたちで最後まで書き通せたかは、(あまりに大作であるがために)実際にカント本人に尋ねてみるしかあるまい。またもし仮に途中で変更されることがあったとしても、そのこと自体は何らテクストの価値を損ないもしまい。
 しかし同時にその一個一個の言辞にまつわる発言されたこと自体の責任は著者にある。口頭での発言なら発話者にある。そこでオースティンの発話とその発話が示した行為の関係を問う哲学が発生する理由が見出されてゆくのである。彼の行為遂行的発言は確かにある意味では詭弁的にも響こう。しかし発話自体は実は人間における身体的、社会的な全行為とはやはり独立した別個のシステムにしか過ぎない、という事実を一端受け入れると、オースティンの行為遂行的発言という概念自体が一種の倫理哲学としての様相を帯びてくることとなる。
 実際言語活動は実際の身体的行為とか、社会的行動とも必ずしも一致しているわけではない。それだけではない。言語行為をパロールとエクリチュールと言う風に構造言語学的に捉えてみてもそれらを一体のものとして捉えること自体が極めて不思議なことである、と解剖学者の養老孟司も述べている。(「唯脳論」より)
 個々の言辞自体が有している本来の意味と、それが発せられたり、記述されたりすることで一個の発言として機能する際の様相的意味合いは常にではないが、齟齬をきたす場合も充分ある、とは言える。例えば何度繰り返しても物覚えの悪い生徒へ、運転免許取得のための教習所で、教官が「あなたは本当に物覚えがいいですねえ。」と言ったとしたら、それは明らかに皮肉である。すると言辞自体が本来有している意味がこの場合、逆のことを言うことで利用され、「物覚えが悪い人ですねえ。」と言って直接的に苦慮の姿勢を見せることを避けるかたちで、建前上は配慮の姿勢を見せながらも、実際はそれを言う教官が「もうこれ以上教えても無駄かも知れない。」と内心では思っていることを暗に悟らせる、これだけきちんと教えてきたのに、この体たらくのことを嘆き、意気消沈していることを明示していることにもなる。
 この現実は養老氏が言うように人間の遺伝子レヴェルの変化は、よく言われるように、何もエクリチュールの獲得によってはもたらされず、そういうレヴェルとは無縁にパロール以外のエクリチュールがパロール獲得後に偶然的になされた、という見解も、筆者の考えではこの二つの行為(パロールとエクリチュール)が実際は別個の何の関係もない行為として偶然的に(だから筆者はどちらが先であったか、とはまだ一概に決め付けられない、と思う。)なされてきて(養老氏の言うように、それこそ視覚と聴覚が全く別個の知覚であるのに、それを統合する作用を人間が獲得したように、<ヘーゲルが「精神現象学」で塩とか砂糖の色、白とか、その形状とかさらさらした性質が全く別個の現象であるのにもかかわらず同時に存在していることを指摘しているが、この絶対的な相克ともどこかで養老氏の見解とはリンクする。>)いつしか人間は、これらをトータルに言語活動としたのであろう、ということなのである。エクリチュールは恐らくパロールの代用品としては最初は進化せず、例えば絵とかと同じものとして発達して行った。(だからアルファベットのような表音文字の発生は表意文字の発生より遅かった、と思われる。)しかし、パロールによる意志伝達行為が定着したある時点で、その行為自体をエクルチュールとして置き換えることが、今迄それとは別個の意識でなされてきた表意文字の歴史(絵的、呪術的、象徴的意味合いでのドゥローイング行為であった)とリンクさせた個体がいた、あるいはそういう風に共同体内での同意が成立していった、ということではなかろうか?
 そう考えてみると、養老氏の言う聴覚的機能であるところのパロールと視覚的機能であるところのエクリチュールが一体化して言語活動として、現在何の疑問も持たずに生活している我々の現実もより自然に捉えられないであろうか?そしてそのことはオースティンが疑問に思った言語発話行為とそこで宣言されるシニフィエたる行為が実際上履行されるのか、ということの齟齬に関しても極めてスムーズに理解出来はしないだろうか?
 養老孟司氏の言うように視覚と聴覚とが全く別個のシステムなのに、何かが動いてそれがその際に音を発するそのことを一括して一つの事象として認識すること(そのことに我々は慣れっこになっているのだが)が出来るように、我々は言語発話行為と、身体的に社会機能的に実践される行為とが全く別個の行為なのに、あたかも連動し、それどころか一致しさえするようなものとして不回避的に認識し得るなら、それはどこか小脳かどこかの観念連合(連想)の作用と関係があることを示しているのかも知れない。(あるいは連合野とかと。)
 もう一度あの段階図式(コミュニケーションの成立過程でもある、言語行為の最初期のサヴァイヴァル・サインである、同一種個体の生命的危機を相互に救済するシステム<中には陥れるシステムであった場合も考えられるが>としての言語行為が、所謂純粋手段であった時代から、その行為自体が文化コードとして自立し、目的化され、やがてその定着と同時に常套化する段階での、建前と本音の使い分けとか偽装、演技といった不誠実の横行によって再手段化への道を辿るあの段階図式)を思い出して欲しい。
 オースティンの言う行為遂行的発言は、言語行為が目的化したのち、その慣用的常套化の過程に中から徐々に再手段化してゆく段階を想起させはしないだろうか?オースティンは真意表出を当然のこととしているから、勿論真意性自体が問題となりはしなかった最初期の目的化されていきつつあった段階に、自己の命題設定を行ったわけではない。言語行為における目的化が、形骸化し、偽装や策謀、嘘や偽証が横行し始めた(それは実際上は表面化されていった時代よりもかなり遡り、初期の段階から人知れず潜在していたにちがいないが)段階と、その時の事実に依拠している。
 言語は感覚性言語中枢から運動性言語中枢へ抜けて、運動器によって外部に表出される、とは養老孟司の言葉であるが、これを額面通りに受け取れば、パロールの作用のことである。ただしここで問題なのは、言語は言語を発するように大脳が考えて、その考えた内容を即座に表出しているということ、すなわち我々は言語を通した思考作用(それを哲学では思惟と呼ぶが)を事後的に捉えることしか適わず、思惟そのものの自覚とはすなわち思惟内容そのものであり(それが今私は考えている、という意識を持たせる)それを離れて別個の思惟というものはあり得ない、ということである。言語を手段とする、という謂いにも実はどこか矛盾はある。なぜなら最初期の他個体とのコミュニケーション獲得の際の本論での仮定では、明らかに他者を自己と運命共同体意識における同一コミュニティーの成員(判りやすく言えば仲間)である、とする認識が他者をも自己同様危険から救おうというモティヴェーションであったとすると、我々はそれを一々手段であるなどと意識している暇はなかった筈である。それは「敵が来たぞ。」と知らせる行為において寧ろ他者を自己と同様の運命共同体の一員であることを自己の側から知らせるという他者同化作用(まさに行為遂行的発言<オースティン概念>である。)における目的ででもあった筈である。同様に言語行為が文化コードとして発展しつつあり、半ば古代サロン的な会話行為が目的化していった段階でも、他者と近づき、同一共同体内での結束や友好の度合いを増す目的があったのなら、その時の会話すらもやはり一個の何らかの目的の為の手段である、とは言えまいか?こういう疑問が起こって当然である。
 そのことにおいては本論では「行為遂行的発言」行為の側面が寧ろ手段的である、と捉えることで潔しとしたい。何も社会機能上の身体的実践行為だけが社会責務遂行にはならないし<語ること自体もまた行為であるから>、そのように会話とか対話と社会責務的身体実践行為のすべてを一致させようと試みること自体が手段的<社会的信頼度の醸成のためとかの>と言えるからである。不言実行とか有限実行で言えばそれは有限実行である。だから本論では,その趣旨が言語論であるばかりではなく、行動学的であるという視点からも不言非実行すらも一個の実行(発話は立派な身体的行為である。)である、と捉え前図式の段階的認識を潔しとするものである。
 しかしその問題こそがオースティンという哲学者の限界でもあるし、また彼独自のアイロニーでもあるということなのである。実際オックスフォード言語学派(日常言語学派)と呼ばれる一群の哲学者(他にライルやストローソン、後輩にダメット等がいる。)の中でもオースティンは必ずしも世で言われるところのウィトゲンシュタインの後継者ではない。この48歳で急逝したこの哲学者にとって寧ろウィトゲンシュタインの晩年に到達した境地は出発点であるよりも前提条件であり、一方の雄であるストローソンが自身の論文で頻繁にウィトゲンシュタインについて触れていることに較べると、遙かにその登場回数は少ない(少なくとも私が読んだ主要著作では一回も登場しない)。
 それに比して彼は多少なりともカントに対する言及を持っているが、カントに対する意識は恐らく彼自身にとっても予想外にも大きい。カントという哲学者は一面では極度のシニシズムによって自己哲学の仮面を偽装している節も見られる。なぜなら宗教倫理的な常套性を一方で認めつつも、そこから逸脱しようとする意識も強く、その葛藤が曰く独特のスタンスを彼に付与してもいたからである。オースティンはもっとそういう倫理的視点においては窮屈なものを感じずに済む立場にあったにも関わらず、それでいて彼もまたどこか倫理的なスタンスを棄て切れなかった。それは英国の階級制度という現実であろう。彼自身の出自を私は明確なデータを持ち合わせていない。にもかかわらず、本論でそのような文脈からの視点を導入せざるを得ないのは、行為遂行的発言という彼独自の概念において彼が示したかった命題が階級社会の責務的履行意識以外の何ものでもなかった、という一面を明らかに示しているからである。例えば彼は、「言語と行為」の第三講で、孤島での例証において、通常におけるある命令を孤島だから受容することは出来ないという言辞において明らかに階級社会的屈折した心理を反映した反応スタンスを示している。オースティンの哲学にはそういうアイロニー的側面を指摘せずに済ますわけにはゆかない部分がある。その意味でオースティンは明らかに、経験論的伝統に裏打ちされた英国哲学史における常套的視点さえも裏切るようなスタンスを保持していることは間違いない。
ウィトゲンシュタインにおいては、真理値とか世界の限界とかの集合論的認識が優位にたっており、写像関係による世界認識が工学者出身の彼に相応しいスタンスであった、と言えよう。しかしオースティンはその意味では世界とか真理とかとは無縁とまではいかなくとも、少なくとももっと日常的視点に自己哲学の命題を設定しており、サルトル的な実存主義ともその論理性やスタンスは異なってはいるものの、共通項を有する同時代性も確固として保有している。しかし何にも増して彼の哲学を際立たせているものとは、言語行為が、コミュニケーションの対象であるところの他者に対する信頼度、そしてその真意表出如何(偽装や演技によって真意を隠蔽しているかも知れないから)を自己の裁定によって判断してゆかねばならない、という不条理であろう。その意味ではオースティンは明らかに他者哲学の一つの典型を示してもいる。

Friday, November 6, 2009

D言語、行為、選択/12、弁証法

 しここで我々はある重要な考察的分岐点にさしかかった。というのも赤い林檎というものは物体であり、その描写をあなたがしても、それをあなたが食べる仕種をあなたをよく知っている人間なら尚更イメージが湧く。そうでなくてもあなたが昨日食べた林檎の話をしているのを聴く全ての人はあなたの話す表情から林檎を食べる姿をイメージできる。その際イメージは林檎そのものよりもあなたが林檎を食べる姿へと焦点を移す。しかしあなたが話す林檎のことが念頭にあるから我々は林檎のイメージもより明確に連想することは可能だ。では柳田國男が「遠野物語」で描出した民話世界はどうなるのだろう?民話は民間伝承的世界であり、我々の祖先が培ってきた事実やら事実を基にした創作の世界であり、親から子へ、子からその子へと語り伝えられてきた伝承なのだから、それを各地から拾い集めてきた当の柳田にとっても実際目にした光景ではないし、地方のお年寄りから聞いた話を自分なりのイメージ像をもって構成したものである。そこで連想されるものは、物語であり、登場する多くの道具立ても、実際東北の生活に密着した工芸品の研究家でもない限り、限りなくイメージできるものは常套的なものに限られる。例えば今村昇平の映画「楢山節考」のような映画のイメージとか、既成の創作物を手掛かりにするしか方策がなくなってくる。幕末の日本の情景を思い描くのに、司馬遼太郎の小説世界を連想するとかいったことである。名詞、つまり事物とそれらをあくまで一道具立てとして進行する物語的との連想の差は大きい。より常套性を多く含み得るのは物語の方であろう。事物なら具体的イメージはより限定された概念規定(伝達の際の形容の仕方、伝え方等)次第ではかなり具象性を帯びる。しかし民話世界となるとそのイメージ像はかなりの振幅が個人間に生じる。我々はその際個人的な経験(見聞きした)を頼りにするしかないこととなるからだ。その人間の知的文化的歴史的教養、知識の差も当然大きく作用する。このようなある種の知的な教養レヴェルの連想と修飾方法による連想とは自ずと異なった次元の問題であるし、動きのある連想(行為や事件の連想)と一事物に焦点を当てた連想も異なっている。前者は知識と想像力の問題、後者は名詞だから動詞の問題の差異が横たわっている。
 この二つの問題には明らかに弁証法的認識と知覚、及び知覚記憶の問題が含まれている。最初の方で論じた次のことを思い出してほしい。
<我々は言語的範疇における可能条件はただ単に言語の可能性であるのにもかかわらず、言語の可能性こそが現実に起こり得る可能性であり、逆に一見簡単に起こりそうなことであっても、言語によってそれが論理展開せず、立証できぬものは可能性のないものである、という論理と倫理を受け入れて、あるいは選択して生きてきているのだ、と(我々は錯視というものが多数あることを知っているが、これなども後者の典型である。)>
 言語はその表現を通して実相的イメージ像を創出することで概念から個々の抱く意味的世界へと橋渡しする。我々はある話者やある著者が、あるメール発信者が描写する概念規定行為(パロール、エクリチュール双方)、イメージ像伝達行為、において形容、修飾、話法、語調等(後者二つは話主のみ)を手掛かりにそのあらゆる描出された部分を綜合して世界像を自ら想像力を総動員し、駆使して作り出す。そこではじめて概念や伝達行為は意味になる。その際上の文章をもう一度考えてみると、我々はイメージ像を創出することを言語習得の臨界期を過ぎた時点で極自然に執り行なっていることとなる。しかし言語学習の然るべき時期さえ持てば我々は先験的に具わっているFOXP2遺伝子が発現してそこに文法(これが所謂論理的思考の発端となっていると思われる。)を通して不在の事物、事象を再現前化して(フッサール「イデーン」及び斎藤慶典「フッサール起源への哲学」参照されたし。)あらゆるシーンをそれが実際にあったことも、そうでない創作であってもあたかもそこに現前するかの如く描出しようとするのである。それは選択して生きているといっても殆んどイメージ像創出の本能的といっても良い作用である。言語の可能性が起こり得る可能性であるということは言語の持つ基本的論理構造<主語+述語>の修飾の中に潜むイメージ像限定S+V+O+OorCの文法の基本的構造(英語で例証する方が語順による混乱がなくわかりやすいのでそうする。)に沿った世界像描出の基本的方法によって我々をそれを語る人も聴く人も同じ状況下で再現前化のチャンス<場>を創出しているわけである。では意識的と無意識的(概念は集団の無意識的な同意であるとも思われる。ここからは社会心理学、言語社会学の領域である。)の差異はどこにあるのか、というと、つまり意志的伝達意欲に支えられた発話行為と本能的世界像描出との違いは意図的であるか、無意識の真意吐露の違いでしかないのではないか?というのがこれに関しては私の結論であるが、すると我々は今ここで選択が本能的であるということと、意図的であることの差異を見出すことにおいてさえ、非常なる困難を見出すこととなるのである。
 しかし捉えることは可能かも知れない。というのは付随意運動たる身体生理学的な変化、胸腺の在り方とか大脳と連結している軸策の在り方とかはDNAレヴェルの決定性、付随意な選択である。それは行動的な本能でもない。生きている限り(勿論健全なる発達を促進する行動がなければ発現しないが)、個体が当然の如くその生の過程において発する作用である。しかし意識にせよ無意識にせよ、フロイトの「夢判断」で語られているように、我々は無意識にでも言語的に思考しているのである。つまり歪曲や検閲、抑圧、翻訳、移動などにおいて明らかに言語的深層における思惟を施している。そこでは明らかに概念規定、判断を履行しているわけである。してみると我々は意識、無意識をFOXP2遺伝子の発現を気がつかぬ内に立て続けに執り行なっているわけである。それらは紛れもなく言語的選択である。つまりそれらは言語的である限り半随意運動である。ひょっとすると我々は前者の身体生理と後者の言語的概念規定と判断を何処かで連動させて生を成立させているのかも知れない。しかし少なくとも我々は意図的であることが無意識の内から選択している可能性と、無意識であるにもかかわらず意図的であるかのような選択をほどこしているわけだから、とどのつまりそれらは結果論的判断であるに過ぎまい、ということとなる。ある行為についての過去形による言辞は、例えば親友が家に泊まっていった、とかの場合明らかに泊まった事実が先行しており、親友が、の後に続く色々の選択肢はくしゃみをした、とかコーヒーを飲んだとか、色々の項目から選んで入るものの、意思的には泊まった事実をのみ示すことは予め決定されている。迷わずにスーパー入っていって切れたマヨネーズや砂糖を買うべくそれが置いてあるコーナーへ直行するようなものである。しかし表現に困っている、逡巡している場合我々は明らかに注意深く選択している。つまり泊まった事実をのみ最初から明示すべく発話する時我々は明らかに泊まる、という動詞を予め選択してから発話している。しかし親友である彼の性格を描写するように、彼について知りたい、と他者から要求された場合、その表現にとまどい、あまりにも日常的な存在である親友を他者へ紹介する為の形容行為に遂、臆するということは充分あり得ることである。この場合慎重にも慎重ならざるを得ず、我々は発話しながら語彙を選択しているのである。
 そこで本論においてことに重要と思われることは、その臆する、逡巡するということこそ何らかのエネルギーを要求される自覚的行為であるとは言えまいか、ということなのである。勿論一生そういう状態であるのは好ましくない。しかし一生ただ闇雲に思うがままに実践し得る人間など一人としていない。そもそも時として反省するということこそ、我々が実践している思惟レヴェルの最低限の逡巡であるとさえ言える。ヘーゲルは思うがままに実践する人を寧ろ他律的な人生であり、自由ではないと言っているが、それはカントも言っていることである。真の自由とはなかなかに自律たるための面倒くさい手続きが必要とされるのである。その意味では躊躇や逡巡こそ創造的行為へのシーニュとも言えるのである。我々の身体はその生理学的システムからして様々の抑制系の作用を有しており、それらが理性や様々の精神作用にも大きく影響していることはほぼ間違いあるまい、と思われる。大脳神経の抑制系タイプ2、メチル化、リーリン遺伝子、HLA抗原遺伝子(免疫系)、ソマトスタチン(成長抑制ホルモン抑制因子であるポリペプチド)血液蛋白質中の不活型他等が考えられる。柳田國男の編纂した民間伝承世界は我々自身の殆んど先験的とも言える弁証法によって見たこともない、聞いたこともないはずの民話物語を常に懐かしいものとして感じさせる。これなどはまさにユダヤ教的戒律のなかった我が国の唯一の人間の性悪的事実を子孫への語り継ぎという形で民俗戒律的作用を果たしてもいるのではないか、とも思われる。我々自身の民族的DNAが初めて聴いた話でもいつか聴いたことがあるようなデ・ジャ・ヴュを蘇らせる。それはとどのつまり我々自身が何処かで、抑制系の身体生理学的作用を発現させるべく、無意識の内に体内調節しているのではないだろうか?何かを決断する時、それはちょっとした日常の中のどんな非日常であってもよいが、我々はこれらの抑制系の力を借りて理性という名の防波堤を構築し、躊躇や逡巡を通して思惟や、もっと即断のシステムにおいても認識力や判断力を促進しているものと考えられる。
 決断は寧ろ放電であり、死である。しかし躊躇や戸惑い、逡巡や懊悩こそ、我々の生のエネルギーを充電させるべく体内秩序をたてなおすべく温存とエネルギー留保の建設的システムである。他者は「早く決めちまえよ。」というかも知れない。しかしそれは社会機能上の都合によってそう言っているに過ぎない。我々自身の都合から言えば、失敗することを恐れて逡巡するのは、棒高跳びの選手がなかなかスタートを切らずに助走の仕方をあれこれ考えるのと同じで当然の要求なのだ。だからいざと言う時、的確に即断の出来る人間とは寧ろ普段から躊躇しながら(石橋叩きながら)少しずつ歩んでゆこうとするような人間なのである。
 さて我々は柳田國男の「遠野物語」や宮本常一の「忘れられた日本人」等を読むと、前者のおどろおどろしい人間の情念やら、後者の性的放逸に対して、ある種のピューリタニストのように「非倫理的な!」、と排斥するより先に、まず「あり得そうなことだ。」と、そう考えもする。ということは荀子の性悪説を持ち出すまでもなく、我々自身を性悪的なものとして、孟子の性善説よりも幾分現実感をもって認識していることの良い証拠である。人間くさいという謂いの中には明らかに我々人間の中によくいるタイプの俗っぽい、世俗的モラルと非宗教的現世主義を実践している人間のことをさす。間違ってもカント的人間を指しはしない。しかも知覚描写、事物説明描写における対象明示性と違ったある種の物語を先験的に理解できる、それはその時代の風俗や日用工芸品等の知識がなくても容易に想像できるようなある種の弁証法があることを古来より我々の祖先は知っており、だから民話形式で事実や事実から引き出された逸話を語り継いできたのである。この性悪的常習性と弁証法的理解能力こそが神話世界の全てを支えてきた存在者の知の体系である、と言える。我々は民話世界、神話世界の描写において殆んどの個人の持つ地方的不文律の特殊性、慣習的常識の差異を考慮しても尚その総体からすれば大同小異の想像、イメージ像を描くことが出来る。「赤い林檎」はあくまで事物であり、そこからイメージされるものの差異は品種、自身の食習慣やら知覚体験が左右することが大きいから、事物に対する認識は知識(幼児体験が大きく絡んだ)が左右することが大きいということとなる。それに対して動詞や事件性が大部分の物語性は小さい道具立てでは仮にイメージ像に個人差があっても、総体的には大同小異であるという利便性があり、そこに無意識の内に目をつけていた我々の祖先が子孫に宗教的戒律の代わりに巧妙に与え刷り込んできた民族的モラルのDNAではなかろうか?このような言語共同体的行為の選択には明らかに抑制系の身体ホメオスタシスとそれと手を結んだ我々の精神作用がある。

Thursday, November 5, 2009

C翻弄論7、映画音楽の使用の仕方

 ここに興味ある現象がある。映画と音楽の関係である。戦後世界において隆盛を極めたのはアメリカ映画であろう。それは大きな流れを世界の映画史に築いた。しかしこと音楽の使用の仕方に革命を起こしたのは紛れもなく50年代後半から60年代初頭にかけて最も映画のメッセージ性を強調した(それはイタリアン・ネオ・リアリズム以降最も健著であった)ヌーヴェル・バーグであろう。ヌーヴェル・バーグに影響を受けたのはアメリカン・ニュー・シネマである。彼らは映像の切り口や編集等の手法をヌーヴェル・バーグから取り入れたことは有名であるが、実際それは彼らが最も時代精神においてメッセージ性を重んじた結果であろう。しかし手法的な意味合いで最もそれ以前とそれ以後とで大きく隔てているものは映画音楽の使用法であろう。50年代や60年代初頭までのアメリカ映画には実にロマンティックであろうが、悲惨であろうが、スリリングであろうがどのような場面でも常に低い音量でではあるが、映画音楽が流れ続けている。しかしヌーヴェル・バーグが極力音楽の効果に依拠することを避けた影響下にあるアメリカン・ニュー・シネマ以降の映画では音楽を常に流すようなロマンティックな手法は一切使用しなくなった。これは映画のテーマが社会性を追究する要素が強化されたために、ある意味では「どぎつさ」を表現するために映画からロマンティシズムを排除した結果である。戦後すぐの監督の映画、例えばビリー・ワイルダー監督は他の監督よりは意外と多く映画音楽を使用しなかった巨匠であるが、それ以後の監督に比すれば明らかに通奏低音量の映画音楽を使用している。これはある意味では映画の持つ娯楽性の定義自体の変化を反映しているものと思われる。というのも映画はダンスや舞踏、あるいは夕べの一時を過ごす娯楽という面からメッセージ性の強い社会的なイヴェントとなっていったのである。その際に要求されたこととは「もたついた理性」よりも「衝動的な感性」なのであった。この種の傾向を最も雄弁に物語るのはDVDの発明やインターネットの登場であろう。これらの発明は既にヌーヴェル・バーグという考え方の中に既に潜んでいた、という風にも考えられるのである。

Tuesday, November 3, 2009

B名詞と動詞 8-1、抽象名詞の誕生 動詞、形容詞、複合動詞あるいは形容語句から抽象名詞へ

 抽象名詞は動詞と形容詞が、主体となる行為者(自己や他者、第三者、事物)とその他者たる客体、事物、人物が、ある関係の中で育む行為や変化といった現実様相を一言で要約したものである。恐らく最初自己だけであった主語はやがて「あなた」や第三者へと拡大され、最後には人間や動物だけではなく、自然とか宇宙とかの事物、環境、真理にいたるまでを主語にして人間は言語活動において意志伝達するようになって行ったものと思われる。最初にあった主語である自己は、「私」という形で、後に言語活動において、「あなた」や「彼<女>」と並置されることとなるが、そもそも心的には言語獲得する以前から人類には理解されていた認識なのだろう、と私は思う。しかし最初に発話されたものが「私」であるのか「あなた」であるのか、というようなことは最早確かめようがない。従ってただここでは心的には主語が「自分」であるという意識が、言語獲得という集団全体の行為として定着する以前に既に人類に生じたであろうということは、言語行為全体の欲求充足的側面から考えても説得力はある、と言うに留めよう。そして言語行為が全て、その言辞、伝達内容といった全てから自己と他者の社会関係を表しているということは確かである。
 例えば「更迭」は、社会的上位者(主体)が社会的下位者(客体)に対して、その職を解く(動作)こと(行為としての現実様相)である。
 その他にも我々はあらゆる心理的な事柄を一語で表現することが出来る。
 例えば「顔が強張ること」を「顔の硬直」と言えるし、あるいはそういう「顔の硬直」をきたすような心的状態を「緊張」とか「狼狽」とか言う。それらはどちらが先に登場したのかとはなかなか断定出来ない(尤も「強張る」という動詞によって顔を形容することの方が、「硬直した顔」と言うような表現よりは先に登場したのであろうとは推察出来はするが。)し、また問う必要もないだろう。ある意味では同時出現でありつつ、それらを相互に関連付けることを可能にする認識が我々に備わっていたと考えることの方が自然である。
 感情とは、事物や事象、他者に対して抱く快、不快をも含めた実に多様な心的様相がある。その多様性はでは何処から来るのかというと、言語というものの存在があるという事実、つまり語彙使用という現実が我々の社会に抜き差しが難く存在するから、脳神経を肥大化させて、そういった感情の襞を複雑にしていった、という考え方も極めて多く存在する。確かにそういう一面もあるであろう。しかし言語活動そのものが大脳を肥大化させたりした、という事実よりも恐らく言語とはそもそも人間が心的にどうしても、その感情の細やかな複雑さを表現したいというニーズによって必然的に人間の意志が形成させた、という事実の方が大きかったのではないか、と私は思っている。(尤も発端は偶然だったろうが。)
 何故なら、ある感情を何とか他者へ伝えたいという意志は、それ相応の感情の複雑さ抜きには生じ得ようもない。そしてその複雑な思いを顕在化させたという事実(生物学的な進化であったのであろうが)が自己に対して対話する対象としての他者を認識論的に発生させたのではなかろうか?
 我々は通常ある感情を抱く時、それを他者に伝えたいと思う。しかしそれはその他者にそれを伝えれば自己の感情を理解してくれるであろうという目算、あるいは信頼的な推測なしには成立しない。そしてそういった意志伝達の可能性を信じて我々は何かを他者へ伝えようとする。そして我々はその自己の胸中に心的に巣食った思い(感情)を他者に何とか理解して貰おうと、理解しやすいような語彙や表現を探し必死になる。自己の感情の形容語句を探りそれは一語では言い表せないなら、幾つかの単純な語彙を選択し、それを並べ一つの事実を言い表そうとする。そして「巧く言葉には置き換えられないのだけれど」とか言って前置きした後に「~のような気持ち」とか「の時のような気持ち」とか言って表現する。そういう時は大抵その感情があまりにも激烈であるからそう簡単には一言では表現出来ないということを誰よりも自分が一番心得ていて他者にそれを説明しようと試みているのである。
 しかしよく考えてみると、ひょっとしたら我々人類の祖先もまた何処かそれと似た遣り方で最初は少なかった語彙の組み合わせで何とかその時の感情を言い表し、例えば恐らく最初に誕生した名詞を考えると、ある特定のカテゴリー的な対象認識の道具として名指された名辞を主体と客体の位置に使用し、「心が辛い」とか「胸がしめつけられるようだ」とか「胸がときめく」とか「慌てふためく」とか「ほっとした」と表現していたのではなかったろうか?
 ある感情が高まるにせよ、静まるにせよ、まず先験的に我々の日常に存在し、やがてその感情を表現するに適切だと思われる語彙が作られ、そういう感情を抱いた時はその都度その語彙が対応してゆくようになる。というのも「顔が強張る」とか「顔の筋肉が硬くなる」とかいう言い方しかなければ一々手間がかかり過ぎる。「顔が熱くなるような思い」とか「この胸の熱い思い」という心的様相の形容を何とか一語で言い表せは出来ないものであろうか、と恐らく人類の曙の人々は考えたのであろう。
 そしてやがて我々の祖先は先程の思いを「懊悩」とか「苦悩」あるいは「恋」とか「嫉妬」、「期待」とか「狼狽」とか「安堵」と呼ぶようになる。そうする内にやがて人類は脳内にある程度のレキシコン(辞書項目)を持つようになる。それはある感情やそういった日常の思いやそれに纏わる行為とかを一語で言い表わすことの可能な語彙を瞬時に検索出来る対応表のようなものである。だから我々が日頃行っている感情や意志やそれに伴う行為を言い表す語彙の選択は我々人類の祖先がやってきたことの反復なのかも知れない。
 心的様相としての感情内容があり、それに対応する形で形容する語彙が形成される。やがて我々はそういった感情内容を心的様相として抱いた時に即座に(まさに条件反射的に)その内容に対応し、その内容を瞬時に表現するに相応しい語彙を選択するようになる。
 だから当然殆どの抽象名詞はある感情やある意志、ある行為が共同体内で常習的に誰の目から見ても顕在化した時初めて、そういった感情、意志、行為に対応するものとして誕生していったのであろう。それは語彙というものが本質的に何らかの普遍的、日常的な出現頻度に比例してその重要さが認識されていることからも明白である。
 しかし一方で例えば心的様相たる感情内容を直接語る(一々具体的に「胸が熱くなった。」とか言いながら)のではなく、概念間の組み合わせによって言語活動即意志伝達を行うようになって行くに連れ、我々は間接的な言辞に慣れていったのである。メタ認知の発生である。そしていつしか直接的な言辞を避けるようになり、やがて真意をオブラートで包み込むことを覚え、仄めかしを常用化してゆき、その隠喩や暗喩に気付かないような個人を蔑むようになっていったのではなかろうか?こうやってまず言語活動によって社会的な階層性が誕生して行った。それは人間が肉体的な技能だけが共同体のヒーローを作り上げる条件であったことから、そうではない、知恵によって、寧ろ肉体的技能を持つ特殊能力の成員を利用するという政治的な知恵を人間が後に明確に獲得していったことの最初の予兆的な出来事であったのではなかろうか?(現代のスポーツ選手はそういった歴史的経緯を踏まえて、同時に言葉的レヴェルでもヒーローであることが求められつつ、古代的な肉体的技能のヒーロー像をも兼ね備えている。)
 当然のことながら間接的な言辞に慣れている成員は、それについてゆけない成員を間接的な仄めかしで直接揶揄する。しかしあまりにも知的過ぎてその成員は自分が揶揄されたことに気が付かない。そればかりかまた追い討ちをかけるようにそういう非知性を軽蔑的に当人の前で間接的言辞によって嘲笑する。しかしそれもまた当然のことながらその成員は気付かない。そういったことは別の知的な成員の間でも直に評判となっていったであろう。そして暗黙の内にその間接的言辞に長けた成員は知的成員の間でのヒーローとなってゆき、次第に非知的な成員の上に君臨し出す。これが案外最初の官僚の姿、あるいは最初の文民統制の姿ではなかったろうか?
 そういった時代にどれ程の階級性があったかは定かではないが、少なくとも王族とか皇族とかの由緒ある血統すらもそういった言語を通した人心の尊敬心を惹くような知性がその発端であった可能性はゼロではないものと思われる。
 そしてそういった階級性が定着すると今度は感情の襞が複雑化するということがもしあったとしたら、それは知性の顕示が常習化してゆくわけだから、あるいはそういった慣例に対して反感もつのってゆくわけだから、ストレスを社会成員に強いたということは充分考えられる。また慣例化された支配階級の言語行為は実際上言語的な概念間の組み合わせや知的遊戯化してゆく。貴族文化化である。それは洗練された文化的な思考の誕生である。 
 人間はかなり初期から絵画を描いていたと言われる。ネアンデルタレンシスは絵画や彫刻といった装飾品を制作することをしなかった、と言う。すると我々の祖先はその時点で、知的、抽象的な行為を通して自己の内的な欲求を対象化することを知っていたのだ。少なくとも絵画制作を行うことは内的な自我との真摯な対話以外の何物でもない。テクストが高度に文化コードとしての地位を獲得する歴史において絵画的なイメージの追求が初期人類によって既に実践されていることから来る精神的な蓄積からの影響は見逃せない。ミルトンの「失楽園」もプルーストの「失われし時を求めて」とかの文学作品も、どこか宗教的な文化遺産から得られた感性の土壌を感じさせるものは西欧文学では多々散見せられるが、そこには明らかに教会建築と教会壁画やら、美術文化が幼い頃から彼等が目にする生活の一部であったヨーロッパの文明と無縁ではないだろう。そういった茂木健一郎の言葉を借りれば仮想とかクオリア(意識の中に立ち上がる、数量化できない微妙な質感)といったものが人類の曙から見出されていた事実が、言語間の相関的な仮想世界が我々の思考にもたらした影響を考える時、現代の官僚の「前例のないものは認められない」という特権的な裁量意識がどこか感情表現の初期原始的様相から脱却しながら、間接性を保証する形式に縋り出す初期人類のエリートから発しているということを想起させずにはおかない。

 名詞というものは、それを使用する側から心的様相を考えると、ある結論に達した状態の結晶物であることが解かる。動詞は動きを表現する。だから動いているものは、その結果どうなってゆくのかまだ不確実である。その不確実さの中で我々は動きや変化を追うこととなる。だからそういう状態を指示する言葉を使用する時我々はその動きや変化を心的に再生して使用している。これに対して名詞は仮にすさまじく変化をきたしどうなってゆくのか解からないような動きや状態であったとしても、それを過去の出来事(つまり既に過ぎ去った、終了し、結果を見せて完了したものとして)として一刀両断に、その出来事を定義し、命名している。政変、殺人事件、大地震、株の高騰、結婚、離婚。名詞は過去のものとしてある動きも変化も全て総括して語る品詞である。
 そもそも初期人類は言語を有してはいなかった時、他個体とどのように意志伝達を図っていたのかということを考えると、恐らく我々の表情筋というものが他の類人猿よりも発達しているところを見ると、表情による挨拶程度のものだったのであろう。そして品詞として最初に登場したのは名詞であったことであろう。何かが欲しい、何かをあげる、というような物々交換とか贈答品とか、あるいはネガティヴなこととしては他個体(他の成員)の私有物を窃盗したり、略奪したりというような様々な行為連鎖の中で事物、所有物に関してまず動詞も形容詞もない内から事物のカテゴリーの極日常的なもののみに限定された名詞が発達していったのではないだろうか?勿論私有物や時には共有物(共有物は共同体が発達してゆくに従って私有物を押し退け、肥大化して行ったかも知れないが、それ以前にはやはり私有物というものは、他個体に譲りたくないものとして、自己固有の発見物としてあったのではないだろうか?)としての生活必需品だけが名詞として名指される対象となる。言語はその名詞一語をもってあとはパントマイムである。仕種による表情と連動したコミュニケーションである。例えば最も顕著な生活必需品である共有物は自然である。太陽を見て夏のぎらぎら照り付けるそれを仰ぎ見て昔の我々の祖先は鬱陶しい表情を他者に見せて、その太陽を表わす何か語彙一言で「暑い、たまらん。」ということを伝え合っていたのではなかろうか?(だから「太陽」という名詞も自然への感情表明的な形容が基本にあったとも考えられる。)
 こうやって初期意志伝達が為されてゆくに従って、同じように繰り返される動作が命名されてゆく。それは人間のすること、狩猟対象たる動物のすること、あるいは太陽や月や雲が見えたり、隠れたり、既に名指されていた山や海や川の様子を一言で表わす動詞と形容詞が極簡単な日常的なものから発生してゆく。動詞は初めて今現在、名指された事物が変化したり動いたりしてゆくその様を表現することが出来たのである。しかしそれにも増して形容詞の誕生は心的様相を表情と仕種によってのみ表現していた人類にとっては革命であったことであろう。小さいとか大きいとかは最も基本的な形容詞である。しかしそこにすら実は相対的な考え方が潜んでいる。小さい人間にとって彼(女)よりある他者が大きくても、その他者よりも大きい人間にとってはその小さい人間にとっての大きい他者は小さい。このような物理的条件を形容してさえ、我々は主観的な尺度で事物を見ているのである。するとこのような物理的な形容そのものさえ主観的であるという事実はやがて、もっと主観的なこと、心の中のこと、目には見えないけれど厳然と我々の日常に巣食っていることを表現する可能性への発見へと繋がってゆく。その時初めて人は自己の内面を他者に伝えたい、他者の内面を知りたい、という欲求を目覚めさせたと言っても良いかも知れない。動詞だけではなく形容詞が出現しなければ、きっと抽象名詞は出現しなかったであろう。動きや変化を表わす抽象名詞は勿論便利である。しかし固有名詞と動詞さえあれば何とか今日我々が使用しているような形での抽象名詞は、それほど必要はない。「変化」とか「動勢」とか「推移」とかは、形容詞や複合動詞が発展した後でゆっくり進化しても遅くはない。それらは寧ろ何らかの専門家集団の社会的な出現の後であったと思う。しかし、暑苦しいとかの形容詞は日常的な天候に左右される初期人類にとっては死活問題であったろうし、また避暑、防寒という現実にはなくてはならない伝達事項であった筈である。また体調不良を伝える必要性や、次第に社会化してゆく原始共同体にあって、我々のその社会へと対応してゆく際の、他者と交流する際の心的なストレスや異性間の感情的な様相は他者へと伝達すべきであるか否かを問わず人類にとっては重大なことであった筈である。そこでもうその時期には精神病も哲学者も人類には誕生していたと思われるが、まず内面を表わす初期の単純な動きや変化を表わすものではない複雑な様相の動詞も形容詞と共に発展し、やがてそれらを一語で表わす「恋」、「嫉妬」、「憎しみ」、「愛着」、「敬遠」といった語彙はそれなりに皆の心中に宿るものとして他者、と言っても相互の心中を語り合えるほどの親しい間柄においては使用されていたであろう。真意を伝え合う仲と、あるいはそういったことは差し控えるが公的には重要な仕事仲間(そういう他者には体調のことなら伝え合ったであろう。あるいはビジネスに関して天候のこととか同業他者のこととかも語り合ったであろう。)との間で取り交わされる両方の会話の質的な相違、使用される抽象名詞の相違は出来てきたであろう。恐らく仕事仲間との間では専門用語(名詞、動詞、形容詞)が発達し、親しい間柄、血族を機軸に近隣の住民との間では私的な語彙が発達したであろう。勿論そこで名詞、動詞、形容詞は全部同時に発達したであろう。
 抽象名詞の発展は恐らく詩人や文学者、哲学者の出現を大いに促進したであろう。官僚たちの使用する専門用語(抽象名詞を駆使する)と彼等の使用する専門用語は当然共通するものも多かったであろうが、本質的に体制的であろうとする成員と、そうではなく反体制であろうとする成員の差はかなり初期の共同体から存在していたのではないだろうか?勿論最初は反体制から出発しても後に体制へと移行した成員は多かったであろうけれど、少なくとも詩人や文学者たちは反体制から出発する者が多かったのではないだろうか?その中でもとりわけ才能のある者が官僚たちから推挙された支配階級へと上り詰める。その中には官僚をさえも凌ぐ勢いの者も大勢出現したであろう。また全ての語彙が、それは名詞であろうと動詞であろうと形容詞であろうとだが、同じ階級や限定された支配階級からのみ伝播されたとは考え難い。というのも「断念」、「怨念」、「辛抱」といった概念は、勿論知的階級が産出したという部分も中にはある(支配階級内での軋轢というものはあったであろうから)であろうが、勝者の側からよりも敗者の側から捻出された語彙である可能性の方が大きいと思われるものも多いからである。(精神的な語彙、「卑屈」、「苦悩」や「懊悩」等は支配階級の中でのストレスから発生した可能性があるけれど。あるいは「挫折」、「隷従」とかは支配階級でも隷属階級でもない中間層の発明であった可能性もある。というのも他者の敗北を客観的に見据えている感じを受けるからである。)
 勝者の側、支配者の側にはそれなりの、彼等に相応しい語彙というものは発達する可能性がある。雅な語彙「美しい」、「尊い」、「清廉」といった語彙である。しかし敗者の側から発生したのではないかと推察される語彙は「陰口」、「冷厳」、「揶揄」(これは官僚階級から生み出された可能性もあるが)、「冷酷」といった受身的な発想からの語彙が多かったのではないか?
 兎に角我々の祖先は抽象名詞の出現を持って自己の内面の吐露と他者の心を推し量るという新たなフェイズを経験したのであり、それは「この胸のはりさけそうな思い」とか「後味の悪い思い」とかの心情を一言で表わせる(例えば前者は「懊悩」、後者は「後悔」と言うように)ようになってから、人々の意志伝達が生活生存に必須のミニマルな語彙のみの会話であり、それが生活手段だけであった段階から、会話すること自体の目的性の発見という段階を持って我々は形而上的な思惟に赴くことさえ出来るようになった。というのも支配階級の悩みやストレスなどは、もっと初期段階ではあり得なかったであろうが、敗者の中にも幸福者はいたであろうし(清廉な者、高貴な者もいたであろう。)、その逆に支配者の中にも自殺者は出たであろう(中間層から見て挫折した上位層、辛抱している上位層はいたであろうから)から、そういった形而上的な存在と化した人間は初めて自己と他者という連関の中から、社会的な思考者になったのである。
 言語は自己が他者とかかわり自己の立場を他者に理解して貰いたいという欲求や、他者の真意を知りたいと願う心理のない状態からは誕生し得ない。ある感情に対してある語彙が対応するということは太陽とか川とか空といった極基本的な名詞でさえ充分過ぎるほどある。それらが初期人類にとって最も重要(今日においてさえ実はそうである。)であったから公共的云々以前の問題としてそれらが最も初期に語彙出現した可能性は絶大であろう。しかし人間はその太陽、川、空の下に思考し、早く晴れにならないか、雨が降り続けて「憂鬱」だとかの心的様相を自覚していたであろうから、その自然条件の中で右往左往する人間の心理をまず形容して、その形容を一言で言い表せる語彙が形成されたとしても不自然な考え方とは言えまい。抽象名詞の誕生は運命共同体として初期人類が同一環境に立たされた成員間の協調が生まれた頃同時にその協調が他者と自己との関係でなされているという自覚が発生することで、自己の内面の孤独を他者もまた同じように所有しているということの自覚も芽生え、その時初めて言語を持つことが社会意識を持つことであることに鮮明に重ね合わせられるようになる高次の意識や自覚を人類は持ったのではないだろうか?
 
 しかし抽象名詞の誕生はかなり人類において自我が目覚めてきてからの歴史であるであろうから、それ以前のもっと原始的な段階から考えなかればならないであろう。その意味では動名詞が出現したことが一つのエポックであったろうことは容易に想像される。というもの動名詞が単純な抽象名詞とどちらが早いかは推測の域を出ないから差し控えるとしても、勿論基本的な動詞自体よりは後であったであろうし、また動名詞以外の日常生活において必需的対象以外の複雑な固有名詞に比べればもっと前であろうし、勿論「山」や「川」(とは言っても海を見たことがない社会においては海という語彙は発達しなかったとかのことは極初期にはあったかも知れないが)よりは後であろう。あるいは海や川それ自体に固有名詞がつけられるのは世界そのものがずっと拡張された後のことであろう。
 そこで抽象名詞が出現することの基礎段階として動名詞が誕生した経緯について考察してみよう。
 動名詞は一々何かを他者へ報告することが共同体内で常習化された時に誕生したと思われる。なぜならそれは叙述において節を作ることなく動作を伝えることが出来る。勿論過去事実としての動作をである。次のような文章を考えてみよう。
 
彼が動いた。その時私は隣にいた。そしてそれを私は見た。①

これを短縮すると、
 
彼の動きを隣にいた私は見た。②

となる。この短縮はこのような単純な文章ではなくもっとそれが複雑になればなるほど便利となろう。事後報告的言辞が常習化する過程には共同体機能の進化過程が関わっているであろうが、報告は社会的上位者が下位者に命じ、それに答えて下位者が上位者へと滞りなく伝えるものである。しかしこの動名詞が与える印象は短縮されたということばかりではない。もっと本質的な相違がある。それは特に①と②の差で明らかであるが、②は①の過去事実報告が持つ叙述の再現前化作用を剥ぎ取り、最も必要な事実内容だけを伝えているということである。①の文章の方が遥かに臨場感はある。一つ一つを区切って言い表すと、一つ一つの行動が手に取るような了解される。その時間系列も明確だ。しかし上の文章は次のようにも言い換えられる。

彼が私の隣にいた。その時彼が動いたので、私はそれを見た。③

この文章では彼と私の位置関係に関しては最初ものよりも明確である。そして行為の因果関係もはっきりしているし、時間的前後関係と行為の連関的な秩序もはっきりしている。しかし①の方が彼の動きに関しては(彼が動いた事実)強調されている。逆に③では明らかに私が彼の動きに対して採った行動、見るという行為に関しては強調されている。あるいはそのような彼が動き始めるまでは彼の隣にいてもそれほど彼の挙動に関心を示してはいなかったのに、突如彼が動いたのでその動きに注目し隣に振り返った感じがよく表わされている。
 恐らく抽象名詞は基本的なものに関しては割合早くから必要に迫られて捻出されたであろうが、複雑なものになるほど叙述の際、時間短縮の意味合いから作られていったのであろう。それは端的に報告義務に付帯する必要性からのものである。
 しかもそのようにしてその複雑な行為や感情を表わす抽象名詞の存在に対する知識の有無がやがて社会階層的な差異を創出するのに一役買っていったであろうことも容易に推察される。そして単純な抽象名詞と恐らくほぼ同時的に動名詞が発達され、形而上的な内容の対話を発展させながら、その形而上性にとっては取るに足らない事項を短縮する為に用いられたのがまず動名詞であった、ということではないだろうか?つまり本当に言いたいことを強調する為に些細なことは短縮して伝えようという意識が生じだしたのである。
 「動く」があって初めて「動き」が意識される。動名詞はその文章の節が増えれば増えるほど簡略化が要求される。「動く」は動詞だから叙述の動的様相示唆的であるが、それを「動き」にすると途端に事実確認的、報告意志表明性が顕著となる。事実として叙述された例えば「彼の動き」等。その叙述においては、話者がそこにいたこととして語られていても客観的な様相を帯びる。第三者的な視点が導入される。それに対して「彼が動いた」とすればより臨場感、その彼の動きを直に目撃してその場で第三者に伝えているような様相となる。それは事後報告の再現前化作用である。恐らく動名詞は報告という行為が定着してから使用されだしたのであろう。報告には臨場感とか再現前化とかよりも事実確認的であり、また客観的明示性の方が尊ばれたということではなかろうか?あるいは動名詞はエクリチュールが発達するに従って必然的に使用頻度が増したという風にも考えられる。というのも事後報告的である場合それがある下位者が上位者へ伝達する場合は臨場感よりも客観的で明示的である方が都合がよい。また法律その他の公式文章でもその方が都合がよいということもあり得る。
 少なくとも「動き」は「動いた事実」申告のための言い方である。そのような事実描写において我々は、それを伝える者がそこにいようがいまいが、その「動いた事実」だけが重要なのである。しかし「動いた事実」は「動いた」だけだと、臨場感はあるが、「動き」のように対象化されることよりもそれを「目撃した事実」に対する表明性に、あるいは再現前化による描写に力点が置かれるから具体的ではあるが主観的、映像再生的である。その「動いた事実」に対してどのような主観を交えるかという観点から言えば、行為者(目撃者)の主観の有無に力点が置かれている。「動き」ではその事実が真理として結晶化されているから事実対象として我々はその例えば「彼の動き」の意味するところだけを考えればよい。そこにはその「彼の動き」を、目撃していたかも知れない話者(伝達者)の主観がどうであるかというようなことは敢えて話者の側から回避されている。だからもし話者がそこにいたかどうか予め伝えていたとしたら、「じゃあ、その時どんな感じがした?」とか「どんな印象だった?」というような質問が聴者から出されても不自然ではない。だが得てして会話では「彼が死んだ。」という叙述がまずあって、その後でそのことに関する話題が続行されてゆく時に初めて「彼の死は無駄ではなかったよ。」とかの言辞が登場するのであり、そうではなくていきなり「彼の死は」と言うような場合は、その話題の中心である「彼」は大分前に死んでいるか、最近であるとしてもその話題に触れる話者、聴者双方にとっても自明な現実である場合のみである。しかしエクリチュールにおいてはいきなり「彼の死は周囲の人間には大きなショックを与えた。」というような陳述が差し出されても全然不自然ではない。(特に小説の書き出し等においてなどはそうだ。)
 動名詞が登場してから報告に関する客観性は獲得された上、短縮される意味合いでもより複雑な陳述が可能となったであろう。勿論短縮されたのは日本語の場合だけではない。何故なら英語では必ずしも動作名詞がその動作を表わす動詞と同じ語彙とも限らないが、仮にそのような場合でも動名詞はmoveに対してmovingという風に言い換えが可能であるし、一々それに対して時制を調整する必要もない。move に対しての動作名詞はmovement、あるいはremoveに対しての動作名詞はremovalで、それらは皆慣用規則的であるが、そのような対応のない場合でも動名詞や不定詞としてそれを叙述することは可能である。つまり動名詞使用に纏わる利便性は言語使用者にとっては極めて大きかったのである。そういった動名詞の使用頻度は恐らく抽象名詞をも同時的に発達させたであろう。それもまた時間的な短縮であると共に動作の連動、複合動作、複合名詞(抽象名詞同士の複合)の誕生は内容的な描写において具体的形容や具体的説明を省くことが出来る。それはやはり客観性導入という視点からは欠かせない用途であろう。
 私は本章において何気なしに動名詞と呼んできたものは日本語では動詞活用形の一つである。動名詞という言い方は英語の品詞等に特有のものである。しかし通常我々は「動き」を動詞としてよりは名詞として使う。普遍文法的な視点からはこれは明らかに名詞の心的様相において使用されている。普遍文法という考え方はチョムスキー等によって彼の生成文法同様今や常識となっているが、英語においても抽象名詞の歴史はあるし、動作を表わす名詞と動名詞とがあるが、今本章で論じてきたものは英語では動名詞とも重なるが、moveの名詞化をmovementと言うようなものも含めてのことである。もっとも英語にはこのようなもの以外に動詞と名詞が同一の意味で対応しているものと、そうでないものとが動詞、名詞どちらかにあるものもあるし(change、openなどこれが最も多い。)、また全然違うものもある。また微妙に異なった意味を生じるもの(move)もある。しかし動名詞は日本語で「動く」を「動き」とするような意味でならmoveをmovingとすることは全く日本語と対応しているとしてもよいであろう。

 柳田國男が編纂した民話世界は古代から綿々と語り継がれてきた民間伝承の底力を我々に気付かせてくれた。それは今でも多くの読者を持っているが、今日のように誰でもが容易に自己の意見を発言するというようなことのなかった時代には自己という観念は民間という観念に埋没していたのではないだろうか?それは自己がなかったということではなく、自己を埋没させることが常套的な生活上の知恵であったということであろう。すると我々はこの民話世界において今日から見ると没自我的な民間性は寧ろ最大限の民間同意事項に思えてくる。支配者やそれへ阿る追随者の下すあらゆる制裁措置はやがて民間では、その犠牲となっていった犠牲者の鎮魂の情を語り伝えてゆくこと、勿論そこには支配者の愚行や支配者でありながら脱落していった人間たちも同等にモティーフとして扱いながら、それら一切を人間の原罪として語り留めるという意識があったのではないか?それが誰もが自由に投稿し、ブログを作り参加して自己の意見を発表出来る立場にはなかった時代の声だったのではないか、と余り民俗学に精通していない私は考えた。しかし民間伝承は、それ自体は書の形で残されていたわけではなかったから、一人一人語り継ぐ人の個性によって異なった様相で語り継がれたに違いない。しかしどこか一点でその内容の焦点となる教訓や物語的な見せ場を持ってそれさえ守れば各々が自由に語り継いでゆく。そのような語りの中には色々な、それこそ本論で例証してきたような言辞、陳述が盛り溢れていたことは容易に察せられる。しかし民話の成立前提たる意味が損なわれない限り、全体的な構成が極端に変更されない限り、それらは皆どのように解釈されても自由であったことを考えると、それらの民間伝承はパロールで語り継がれたものでありながら、完全には発話上の自由であるのではなく、寧ろエクリチュールの、発話される記述として捉えられねばならないであろう。語り部とはそのことを最もよく承知した専門家であった筈だ。
 それは意味論の世界での変数である。定立、前提条件さえ同一であれば、その中での変数は如何様にも振幅が持てる。だから当然柳田の解釈は彼独自の民話である。他の民俗学者によるものはまたその人のものである。そういう変数的な振幅を許す意味とは一体何なのであろうか?本論で挙げた多くの例証された文章もとどのつまりは、東京へ仕事で行った「私」の過去事実報告でしかない。それが楽しかろうと、そうではなくてもやはり厳然と同じ事実の記述である。ということは、我々は生きている瞬間にはそれがどのように事実報告自体が受け取られるか判然としない、つまり他者が自己の報告から何を読み取るのかは解からない(未来のことは不確実であるし、他者の心は超越的に不確実である。)という不安を持って各瞬間を生きている。ある陳述がある言辞によってもたらされるということは言い換えれば、同じ東京に仕事で行った事実を語る語り方やそれを言い表す文章をその都度限りない変換可能性の中から選び取っているということを一方では物語っている。それらは民間伝承のプロセスにおいて幾多の無名の個人がそれ以前の時代から語り継がれてきた物語を更に自己の子孫の世代へと語り継ごうとする時の言葉の選び方、言辞の選び方、発話される記述様式、記述機会、記述方法の選択行為が無数になされていったということに他ならないであろう。試験官(面接官)と相対して面接官の質問に答えるその仕方に内在するあるゆる選択肢から一言辞、一陳述を選び取る瞬間的な判断に人生の全ては集約されるし、充実、不充実、後悔、非後悔もそこに掛かっている。
 言語というものがそのようにして語り継がれてきたのであるなら、我々は抽象名詞を創出してきたそのプロセスで幾多の無名な語り口の妙、今のように録音、録画装置や設備があればきっと素晴らしい物語りが聞けたであろう、と想像されるそのような語り口において自由に飛翔される個々の物語の断片は幾つかの点では抹消され、幾つか点では生き残り、時代的な推移の内に選択されていったであろう。抽象名詞の成立は、だからある意味では抽象性への埋没と共に個々の語り口の妙を抹消してきたプロセスという風にも捉えられる。それは概念の成立に伴ってなされる個的意味の喪失である。
 柳田國男が示した民話編纂は故にそういう無名の声の、無名の語り口の一点に概念化された民話の意味(個々の意味の総意)の現出作用であり、個々の声の凝縮である。そして抽象名詞はそれほど登場しないけれど、その民話編纂意図において抽象名詞の存在と酷似している。抽象名詞は意味の凝縮である。それは柳田が示した民話世界の個々の物語に脈打つ構造である。抽象名詞がそのようなものであるなら、それが民間の総意で語り継がれる一貫した物語であったように成立へと至る名詞成立の旅があった筈である。そこには例えば「憎悪」という観念が成立する為に必要なあるゆる道具立てがあった、ということである。姦淫や窃盗、裏切り、放火、殺人といったことが行われたということである。しかしそれらは自分の目や耳で見聞きしたその現実感から各々の成員が総意として築き上げたものであろう。その過程では「憎悪」の余りない状態もあったであろう。しかしある時その沈黙は破られる。そしてそのことへの驚愕がそれを一言で表わす語彙を求める。そして「憎悪」はいつの間にか定着する。「愛」もまたそれがそう簡単には見出せないからこそ、それが見出された時の喜びから命名されたのであろう。古代には恐らく「倦怠」というような概念は今日のように多くは感じられなかったのかも知れない。しかし語彙として定着する以前からそういう感情は恐らくあっただろう。しかしそれを語彙化する余裕は支配階級にさえあったかどうかは定かではないが、私はそれを言語化する以上の外的な脅威や驚異が大きかったと想像する。(あるいはほんの一握りの支配者だけが感じた感情であったかも知れない。しかしそれは支配者から被支配者へは言い伝えてはいけなかったのであろう。)今日では寧ろ権力者以外の一般民間人が最も倦怠を多く経験している。それはそれほどの社会的地位がなくても死活問題ではないほど生活的なレヴェルが向上したからである。

Sunday, November 1, 2009

A言語のメカニズム C、哲学者と言語 12、カントの哲学的推移と言辞に見られる恣意性の問題

 そういう現実は多くの哲学者たちによって論究されてきた。例えばカントはある意味では無意識の言語論者であったとも考えられるが、三大批判書における最初の大著「純粋理性批判」はある意味では意気込んで、相当の野心を持って臨んだ感があるが、後の「実践理性批判」や「判断力批判」は、勿論「純・批」による恩恵もさることながら、本当はこちらの方を書きたいが為に「純・批」を書いたのではないか、とさえ思われるほど、人間カントは表出されているように思われる。「実・批」は道徳啓蒙の書だし、「判・批」は殆んど社会学的認識論の書である。こういった順序がもし逆であったとしたら、実際はどうであったであろうか?先に示した三段階は極めてこのカントの歩みを考察する上でも示唆的である。目的論的言語行為としての文化コードが必当然的(フッサール的言語)であるとしたら、「純・批」こそ極めて明確に文化コードが前提されている。
 時間や空間、自由、物自体、理性、悟性その他諸々の概念は極めてそれ以前の、具体的に言えばホッブス、ベイコン、デカルト、ライプニッツ、ロック、バークリー、ヒュームといった先達に対しての受け答えという意識も充分にあるし、哲学の殿堂に寄与しようという気概のテーマ選択である。しかし「実・批」以降の著作では徐々に自己措定概念への無条件の信奉からも離脱し、自己の確立した理念への再考と修正と別の視点からのアプローチという意識が芽生え始め、そこには手段化されつつある現実の会話、対話の在り方に疑念を持ち、すなわち哲学することを我々自身が経験するように、自己哲学の常套的在り方そのものに懐疑を向け始めるのである。勿論「純・批」自体が「プロレゴゴメナ」執筆後、大きく修正されてゆくこともそのこと自体を物語っているが、もっと後のニ批判書では「純・批」にはなかった具体的概念、社会学的概念が多く登場し、認識方法もより具体性を帯び始める。しかも「純・批」では一作にすべてが凝縮されていて散漫な印象を拭い切れない部分も、例えば自由に関しては「実・批」がより具体的で深く追求されているし、知覚その他の日常的行為については「判・批」においてより具体的で、深い洞察となっており、修正というよりも個々の事例の豊富さから言っても格段の前進である。そこでは明らかに最初の大著に対する世間的注目に対する自己の不本意と自己自身の目的意識そのものの手段化に対する懸念を表面化させたスタンスが明確に読み取れる。
 具体的に示せば、「判・批」においては他者認識が極めて明確になっていることである。これは「純・批」には不明確であり、「実・批」ではかなり追求されている。しかし「実・批」は道徳的法則を盾にして倫理性自体の究明に大半のエネルギーが注がれていることから他者に対する哲学的洞察はどこか付随的な感も拭えない。その点「判・批」においては、他者への眼差しが俄然傾注の度を極め他者と共同体倫理における自己の在り方と自我の行方に焦点が当てられている。しかもこれが後の晩年の著作の基本ともなってゆくのである。
 前節で触れた初対面の人に対する防衛的偽装はカントの言う判断力の範疇の出来事である。このような視点は「純・批」には抽象的にしか語られない。あるいはその後で触れた売買の自由もカントの時代では今ほどではなかったにせよ、かなりな程度で実現されつつあったし、そのような自己責任は哲学的問いの中にも沸々と感じられる。
 再び前節の太った客が大量に一時に注文する例で見てみよう。もし仮にマスターがその本人に対して「あまり一時に食べ過ぎない方がいいですよ。」と言ったとする。その時そのマスターは人間学的には思いやりのある正しい行為をしたことになるかも知れないが、自由経済社会の原則に照らし合わせると必ずしも正しい行為をしたとは言えない。(自由経済、消費社会に一翼を担うビジネスマンとしては失格であろう。)カントの哲学では偽装すること、偽証することは全的に許されるものではないから、たとえ相手が犯罪者であっても嘘をつくことは許されない故に、前者の態度を潔しとしたことであろう。その意味ではカントは近代の哲学の転換点に位置してはいるものの、神に対する不敬を極端に戒めるような行為の奨励を施していることになる。(「実践理性批判」)(実際ニュートンも同様の立場にいたと言える。)それに対してカントよりも24年後に生を受けたベンサムは違っていた。彼なら後者の経済社会的行為の実践を功利主義的な観点から推進したことであろう。
 しかしカントに関して興味深いのは彼は自説を後に翻すようなことは極力慎んでいたものの、実際上は「純・批」で落ちこぼれた指摘に関して「実・批」で補修し、そこで取りこぼれたことに関しては「判・批」で考察していることである。しかもそこにおいては自説を撤回することこそないものの、やはり自分では行き過ぎていたと前作への反省を込めて「実・批」ではそれ程多くは語られなかった他者に対する視線とか他者と共有し得る共通価値とかの概念を前面に出していることである。それは自己の信念に忠実にあれ、と説くカント自身が他者の目だって無視するものではないよ、と別の角度から論点を再考していることの証拠である。「実・批」では自由の概念の拡張に性急のあまり、道徳的法則における定言命法的視点に依拠し過ぎた傾向を補正し、共同体理論とも言うべき後にソシュール等によって恣意性という概念がクローズアップされるが、そういったことまでも早くも予感させることすら述べているのである。
 この種の方向転換的論理秩序構成的戦略は後世への配慮であると同時に自己哲学の常套的理解において少なくとも曲解を恐れた曰く順当な判断であったと言えよう。バランス補正的修正主義は目的であったものの手段への転落(自己理論の曲解によって実現されてしまう)への回避という意識であったことであろう。
 実はここでも哲学者が自己の作品世界たる論文を通して、ある言辞が別のある言辞と抱き合わせであるか否かという事実一つで右にも左にも解釈し得るという事態を証明しているのである。カントが「実・批」以降「判・批」のような他者性、共同体性についての論究を持たなければ、彼の自由という概念、道徳法則という概念は必要以上に切迫した息の詰まるものと解釈されていたかも知れない。ここでもまたカントを通して我々は言辞一つの在り方さえもが恣意性によって大きく左右されていることを発見し得るのである。これはもう殆んど言語行為にまつわる真理と言ってもよい。
 しかしここで矛盾しているではないか、という声が聞こえてきそうである。どのような事態があろうともある言辞の持つ意味自体は、それはそれで変らないのではないか、という疑問である。それはそうである。しかし個別的意味は大きくその言辞をもたらした哲学者の全体像から言えば他の言辞がどういうものであったか、という「相対評価」によって大きく意味を変えてゆく。哲学者の「人生」におけるその言辞の意味は、それ自体にまつわる個別的な意味を彼の全人生においては概念に変える。そこで彼の個別的言辞の意味が全人生における全言辞の中の概念と化すという事態が我々に「言辞自体の相対性からの認識の必要性」をもたらす。
 
 今日哲学における積年の経験論と合理論の論争の様相に相同のものは他の多くの分野でも垣間見られる。例えば物理学がそうである。生命的起源とその発生を巡って、この分野では生命的秩序が偶然であるか、必然であるかという設問は未だ解決を見ていないと言う。
 地球の歴史を地質学、気象学、地球物理学的見地から俯瞰してみると、氷河時代があったとされる。するとその氷河が溶けて今度は熱帯時代へと突入する。しかしまた今度は氷河時代へと逆戻りそういった振り子現象を繰り返し、やがてそのどちらとも言えない地点に落ち着いていく。不動点として定着したのが現在の気候、気象状況であるとしよう。するとその振り子現象をもたらした何らかの原因が考えられる。そのような振り子現象は前にもあったかも知れない。しかしその振り子現象自体を誘引する原因は、恐らく周期的にやってくる同一の原因などではなく、その都度の全くの偶然的要素が大きいのではないか?すると我々は我々自身をも含めたすべての生命体の存在を引き起こした原因をも偶然と捉える方がより自然ではなかろうか?もし全てが必然であるとしたら、寧ろ我々は我々自身の過去も未来も全て見通せることとなりはしまいか?しかし我々は他者の心を見通せないし、次の行動を予測も出来ない。(ある時は自己の行為さえもが予測不能である。)すべての他者の行動は予測の範囲内であってもいざそれが起きてみると、予想外の偶然的要素は大きい。他者の死も同様である。勿論自己の死も。