Sunday, January 31, 2010

A言語のメカニズム 20、慣用、援用、使用頻度

 人間の知覚において、心理学の実験では最大限5秒しか驚異の感情は持続しないというデータも出されている。このデータを信頼あるものとするなら、人間はそれ以上の驚異の感情は持続出来ない、というより寧ろ既知のものとして全てを過去へ追いやるようなア・プリオリな能力をもって直に現実に接していることとなる。その既知事実認知性は言語的思考と密接であろうと思われる。もし本論の主張のように何らかの慣用的言辞における記憶的限界が七つ以上の事項を本能的に避けているのなら、我々はそうすることで、もっと複雑な別の事項に向けて全エネルギーを注ぎ込んでいる、という風にも捉えることが可能である。つまり日常的ルティン・ワークを簡略化することで、例えばその際に取り交わされる会話そのものの、意志伝達意欲を充足させるような内容をこそ綿密にする為に技と言語自体はやさしいものにしている、というわけである。もし言語自体の約束事が必要以上に援用し難いものであったなら、その言語を通したコミュニケーションを避けるようになり、そのような事実は本末転倒であるから、必然的に言語自体は援用、慣用しやすいものでなければならないのである。
 そのような慣用と援用のし易さ自体は言語自体の意味、それは多分にイデー的なものを許容するわけであるが、それとその言語がコミュニケーションという行為において機能する際の様相的意味合いとは齟齬を持つ、という真理を表わしもいる。事実イデーとはフッサールの言葉を借りれば<あるべしein Seinsollen>であり、それは対象においては<あるein Sein>と両立し得るものであり、リアルなおものでもあるがイデア的なものである(「論・研」1、252ページより)のにもかかわらず、それは多義性としての認識においてのみ、そういい得るのであって、必ずしもその二つが絡まりあっているというわけではないことは、次の一一節ではっきりする。

 われわれは更に次の相違に注意したい。説明的関連はすべて演繹的であるが、しかしすべての演繹的関連が説明的であるとは限らない。根拠はすべて前提<プレミッセン>であるが、しかしすべての前提が根拠であるとは限らない。確かにすべての演繹は必然的である、すなわち法則に従っている。しかし結論が諸法則(推論法則)に従って帰結するということは、それらが諸法則から帰結し、それら諸法則に精確な意味で《基づいている》ということではない。勿論通常は各前提までも、特に一般的前提は、そこから引き出される《帰結》に対する《根拠》と呼ばれている_しかしこれは十分注意すべき多義性である。

 この論述でフッサールが少なくとも結論が必ずしも諸法則に基づいているわけではないから、偶然性を認めており、偶然性が必然性と手を携えながらも我々が単にそこにどっちの真実を重視するかによってその都度変更されるような出来事の多義性をも指し示しており、このようなアンヴィヴァレンツは極めて興味深い。
 それと直接関係があるかどうかはわからないが、モロッコでは商品には値札をつけない、のが慣習である、という。というのもそれらは常に客との交渉次第で決まってゆくのだそうである。こういった経済は自由主義経済の市場原理に慣れっこになっている成員には違和感があるものの、ちょっと冷静になって考えれば、商品を巡って客と店主が双方の利益を追求してゆくのが経済である、という理念からすれば所謂相対主義的で、ある意味合理的でさえある。勿論そういうことが日本やアメリカでは成立し得ないということがわかっていたとしてもである。つまり経済がその意味を個人に帰するならモロッコ式は合理的であり、社会に帰すれば日本やアメリカでの通常のやり方が正しくなる。
 しかし意味は個人的なものでもあるのである。(我々自身の経済はすでに概念主義へと移行しているのである。)つまりフッサールの言うように個的結果、個的現象、実際的イデーとの齟齬が現実である、と認識する時我々はフッサールのいう説明的関連と演繹的関連の双方をある意味、言語の在り方(様相)として理解することも可能である。説明的関連がパロールなりコミュニケーションの際の顕現、シニフィアンである。それに対し、演繹的関連は言語自体の意味するところ、発話者や記述者の伝え方と独立して認知し得るシニフィエの世界である。<(フッサールの言語論_「真意と偽装の心理学」に掲載)を後日更新予定。その時参照されたし。)カントばかりではなく、フッサールもまた極めて有能な言語論者であった。しかも真理探究や間主観性といった自己対他者(他我)の論理に巧みに言語論的真意を偽装し、沈黙ならぬ隠蔽を実践し、寧ろそうすることで言語の本質を際立たせた張本人である。
 その意味でフッサールにはデジタル的な方法論はそぐわなかったのである。デジタル的伝達方法においてはフッサール的諧謔は伝わり難い。今でも運転手たちに運用される時刻表を作成しているプロフェッショナルたちは、コンピューターを使用せずに手書きで書いている、という。彼等のアナログのこだわりには基本的なところで、すべてを機械任せにすることがかえって誤りを導くという思想性に裏打ちされているのではあるまいか?
 だから先述の七つ以上の事項の記憶を差し控えることで運用される使用頻度の大きい行為性に直結した概念の定着は、どんなに複雑なシステムになっていっても、どこか基本的には原始的、という言葉は相応しくない、もっと理念的なものには手を入れずに済ますということ、複雑さ自体が単純な論理によって土台は構成されている、ということが時刻表のオリジナルの制作姿勢によく表れている。
 さて使用頻度の大きい語彙が慣用、援用の際に曰く二つから七つに必然的に限定されてゆく、ということは記憶のシステム自体の事情、すなわち一遍にいろいろのことを記憶することは出来ない、もし出来るとしたらそのぜいぜいが最大七つ位までの基本要素を組み合わせて記憶すること、が人間の生来の能力ということとなる。
 レヴィナスは生の経済と言った。(「実存と実存者」より)これは生の時間が限られていることを如実に言い表してもいるが、実際生のエネルギーもポテンシャルも限度はあり、だからこそその限定されたものの中で我々は有効にア・プリオリに付与された資源であるところの身体、とりわけ思考に関しては脳、大脳を中心に活用しているわけである。そこでフッサールが「論・研」でも言っている思惟経済転移という行為が必然的な日常的事項になってくるのである。カーナビを使って最短距離で最短時間で目的地に着けるようにすること、渋滞を避けスムーズに走行出来る道路の選択は、我々が日々思考する際に経験していることなのである。思惟はその中でも一層際立った思考の実験場である。どのような複雑の事象に遭遇してもそれを出来るだけ単純な論理で解析して理解しようと欲するその裏には我々自身が思惟する中で有限な自己の経済で無限さえも把握しようという生の本質を窺い知ることが出来る。最短距離での目的地への到着は、すべての現実、困難にも適用される。出来るだけロスを少なくしながら解決することは、生の至上命題であるのだ。
 言語の限界が世界の限界である、とウィトゲンシュタインが言うような意味では言語は資源であり、その言語の経済こそが慣用と援用の豊かさを保障する。ある人の言語的な能力は、すなわち言語の経済(ボキャブラリー)でもあるが、それだけではない。幾ら経済的に豊かな人間がいても財産の使い方を知らない人間が多いように、言語的資源も同様であろう。ボキャブラリー自体の言語的資源の稀少な人間でも知的存在者の名に相応しい慣用と援用の技術はあり得る。組み合わせ方である。使用頻度の大きい言語同士を組み合わせることで、少ないボキャブラリーを克服することは可能であろう。寧ろそれが出来る人間が早晩ボキャブラリー自体も増加させてゆけるのであり、組み合わせ方を知らない人間が幾らボキャブラリーを記憶してもその慣用、援用の秩序自体が支離滅裂であれば、ボキャブラリーの豊富さはかえってコミュニケーション自体を墓穴へといざなう。
 パソコンのデータ保存の容量にも限度があるように、ボキャブラリー自体にも限度がある。幾ら知性を誇る人間たりともその容量的能力には限度がある。だからこそ、慣用の際の状況的使用テクニック、予想外の状況においてある言辞を施すユーモアとアイロニーがその人間の文化コード的豊かさを立証するのである。あるいはフッサールの言う「学問の人間学的統一」の名において我々が実践するコミュニケーション自体のモティヴェーション(動機付けとフッサールが呼んでいるところの)の在り方の理念性、創造性を証明するのである。言語の伝達に払われる表情や全ての所作と言語自体が組み合わされて発するメッセージは無限のヴァリエーションがある。
 最小のエネルギー・ロスをもって最大の効果をあげることをコミュニケーションの至上命題にし、かつそれを実践し得る人間を人は有能な人間、知的な人間と呼ぶ。思考はそのために日夜脳内で繰り広げられる回路の機能芸術である。入力と出力で生理学的ホルモン・バランスを取る人間は知的ではあるが極めて生存戦略的哺乳類でもあるのである。
 かのデズモンド・モリスの言うように、仮に人間が果実食をする森林の住人であることから、広く居住環境を拡大する中で、捕食、肉食の習慣を身につける過程で共同体を構成してゆき、その必要性と共に大脳を巨大化させ、ということはその段階で言語行為を成立させるべく、というか遺伝子レヴェルでの大幅な進化が必然的に起こり、やがて言語的思考を常とする、それなしには基本的に同一種内では生存不可能な種となっていった、ということであろう。そこに捕食と食事がその目的において乖離してゆく(モリス説)<かつては果実食をそれが営める環境《すぐに採取出来てすぐに食べることが出来た生活》に即して森林内を放浪していた人間が次第に捕食、肉食を身につける過程で、定住、男女による捕食、子育てという分業が成立してゆく。>ことが、社会性、つまり分業のシステム(男女のだけでなく、男同士でも専門分業化、女の名でも男の不在時における地域コミュニティーはあったかも知れない。男の社会的位置に応じた階層性もあったかも知れない。)が生じていったということも極めて説得力がある。しかし本論でも主張するように次第に言語行為の目的化が発展し、共同体内での機能維持と目的性への従属から言語自体が開放されていった時、再び人間間にはある種の出世欲や内的攻撃性(嫉妬とかの)も生じ、やがてそれは他者に対する欲望となって、偽装や演技(おべっか、嘘)が常套化し、言語行為は別次元の手段と化してゆく。それを転落と捉えるか、必然的と捉えるかは分かれるところであろうが、そこから現代へと通じる言語行為にまつわる諸問題が厳然と存在していることだけは確かである。
 七つ以下であると仮定したその構造的シンプルさを規定概念としながらも、それを巧みに組み合わせることで、言い回し、諺とかも成立していったであろうけど、その過程で今度は段々そういった表現が使用頻度を増すに従って常套化してゆく。概念の定着が文化コードでも最下層に位置する日常的慣用の使用頻度最大という不動の地位を獲得する(一般化)と、今度はそれを打破する知性、言わば思考の革命がやがてもたらされる。その中で一際優れた個人は支配者にもなれたかも知れない。しかしそれとは別個に言語が共同体内での潤滑油としての会話、対話自体の目的性に従事するようになると、次第に伝達内容の濃さ、その伝達意義が問われるようになっていったであろう。そこでは常套的概念の組み合わせという社交辞令性から、徐々に離脱した個人の会話、対話を通した個性も確立していったであろう。だがそれだけではなく、創造的組み合わせを巧みに出来る個人の社会的成功とその利害にありつけない個人(仮に本当は創造性があったとしても、成功にはありつけないそちらの方が多数であったことは間違いない。)の中から抵抗の、反体制の天才も登場する。(まるでイエス・キリストのような)思考の革命は革命を起こした優れた個人の特権的概念による支配に対する従属からの解放というもう一つの思考の革命をも絶えず起こしたであろう。創造的常套概念の組み合わせとは、言ってみれば伝達様相重視主義である。伝達内容よりも如何に効果的に、説得力を持って伝達目的を達せられるかという局面が重視されるようになる。それは個人のレヴェルでも公共的レヴェルでも査定されていたことだろう。その査定がある時は革命へと繋がっていったとも言えよう。
 常套的概念の定着と、その使用の奨励は特権的常套概念使用による権力者による庶民への管理欲求によってもたらされる、言わば社会通念に対する懐疑の所有を一般庶民が持つことの極端な支配者による警戒である。しかし概念使用を強制しても、もっと説得力ある豊かな概念の組み合わせは、また庶民の中からもたらされる。最初は誰かによって作られた特権的常套概念、社会通念的お仕着せからの開放は政治的混乱をその都度招いたことであろう。しかしそれが人類の言語行為による思考革命の歴史であったのであろう。
 大脳は変化を弁別するから名詞から動詞へと切り替わるのではなく、切り替えるような行為を身体が要求し、実践するからこそ、その変化をすかさず見逃さないのである。その実践された変化を大脳が弁別するのである。パロールやエクリチュールはそれ自体が言辞表示行為として大脳機能を活性化する。大脳はただ身体的要求にその都度従ってそれを指令しながら、パロールやエクリチュールの行為によってもたらされる変化(その変化自体も半分は大脳が、他の機関からの要求に従って指令しているのだが)に自身でも手答えを認識するのだ。
 纏めよう。常套的概念使用は慣用化するが、時に新鮮さを求める成員たちは、共同体内での特権階級でない際立った個人の非常套的概念の援用をするようになり、やがてそれが特権階級を脅かしだし、その個人に同意する人間が多数いれば革命は履行されたであろう。しかし夢破れた個人も、それを指示する群衆も多かったであろうことも容易に察せられる。大脳はその都度新奇な概念の組み合わせに自己固有の意味(価値観)を重ね合わせる形で査定し、いいものは直ぐに取り入れ、余計なものは排除するという作用を延々やってきている、というわけなのである。

Monday, January 25, 2010

C翻弄論 7 言語ゲームということ

 ここで一旦ゲーム性の考察から離れて言語について考えてみよう。
 つい先日オリンピックのある競技の試合の前にある番組のパネラーが外国の優秀な選手がエラーしてくれるといいのに、というようなことを言ったら、その返答で別のゲストの元選手が「彼も実力はあるものの、オリンピックでは一度もメダルを取ったことがないから、喉から手が出るほど欲しいんですよ。」と言っていた。もしこの時「~さん、巧いこと言いますね、喉から手が出るほどなんて。」というようなことを誰かが言ったとしたら、その人は日本語をよく知らない人であろう。それが日本語を学び初めてその面白さが理解し始めてきた外国人なら許せる発言であっても日本人であるなら、それは少々的外れな人間である。そういう返答以外にもこういうものも考えられよう。「喉から手が出るなんて実に日本語って面白い的確な表現を持った言語ですよね。」しかしこれは明らかに言語学や方言の研究テーマの番組でのコーナーででもない限り、少なくともスポーツ報道の番組での発言であるならかなり不適切な言辞である、と言えよう。言語とはその発言が時と場所を弁えたものであることが要求されるそういう性質のものである。
 というのも言語というものとは本論で脆弱な「個」性について触れているような意味では、全ての民族にとって、それ自体は強固なる「個」による創意工夫の創造ではない。総意としてのコードであるに過ぎない。いや、「過ぎない」か「そうであるべきか」と言えば「そうであるべき」ものである。サピアも指摘しているように言語活動はある言語において聴覚的なワーキング・メモリーが音韻規則に沿ってその語彙の付与する意味(指示内容、対象指示)と記述(哲学において言われる記述ではなく、言語を書き留めること)される際の文字の視覚的イメージ(視覚的ワーキング・メモリー)が相互に連合され、ジョイントされることで言語活動、あるいは構文論的に理解されることを基礎としているが、それはウィトゲンシュタインが名付けた「言語ゲーム」以外のもう一つのゲームでとも言える。
 ある出来事は言語的な認識、つまりある出来事を過去の出来事として陳述したり、報告したり、想起したりすることで出来事としての性格を持つに至る。例えばヴィデオ・カメラである行為や現象を写し、それをテレビで放映することでどんな些細な場面でもその時点でニュースとなる。だからニュースはニュースとしての価値があるからニュースとなるのではなく、寧ろそれが報道され映像が放映されるからこそニュースとなるのである。そのことを報道関係者は熟知している筈である。出来事は恣意的に作られるのだ。どんなに大きな出来事があったとしても、それが映像で映し出され放映されなければ大したニュースではなかったのである。つまり報道する側が何を放映し、何を放映しないかという恣意的な判断がなされ、それがどういう形での報道であれ(インターネットだけの報道であれ、会社内だけのネットを通した報道であれ)、それは報道の内容以上に報道される対象としてあるどんなに些細な出来事であれ、そういう風に選択された事実こそがニュースとなるのである。報道とはだから報道する側からの報道意志表明そのものであり、発語内行為として報道スタンスそのものの宣言によってニュースとなり得るのである。
 メディアの流す報道によって認知度が上がるのは何も政治家のような職業だけではない。出来事もまた報道されて茶の間の一般大衆に認知されることでニュースとなり、それはその放映され、報道された出来事の重大さとは無関係である。しかし我々は報道されるからそれが重要である、とついそのように思い勝ちである。
 ある認知度の高い政治家の発言をつい正しいと信頼してしまうように、ある画商が売れ筋の画家の絵がそうではない無名の新人の絵よりも商売上重視することとは、とりも直さず、絵をコレクションする人々がそういうコレクターの収集意欲をそそる有名な画家の絵を欲しがるという事実に根差している。画商という職業の人間はコレクターの画家に対する認知度を通した信頼性(クレディビリティー)に依拠しているのと同様、我々はそういう認知度の高い政治家を信頼する、という面はかなり明確に一般民間人の間では定着している。そして選挙があればそういう認知度に対する信頼性から誘引された動機でその候補に投票するのである。
 それは選挙で政治家に一票を入れる行為だけではなく普段何気なしに会話する時に使用する語彙の選択基準も、そういう語彙をある場面においてある文脈において使用することが社会的な容認度とそれに付帯する意思疎通の手段として有効であるという信頼性に依拠しているのだ。それはまさに言語行為における一番重要な行為選択である。(ハイデッガーの言う「適所性」もこれと関係がある。)
 ある慣用句は現在通用する共時的「ラング」に適うのなら、我々はそれを使用しても適切だと判断する。それは先述の「喉から手が出るなんて巧いこと言いますね。」という発言が不適切であるから、そう思っていたとしても言わないでおこう、今度言語学に関心のある人間にだけそっと告げようと思いその場では差し控えるという判断を下す根拠である。それが意思疎通の場を弁えるということ、つまりTPОなのだ。
 例えば慣用句を使用する時はその場に相応しいものを選択するものだし、仮に文学に通じた人間ばかりが出演する教育、教養番組において専門的な雅表現を使用することを常としている文学研究家がワイドショーにゲスト出演した時にはそういった雅表現を語ることを控えようと心掛けるであろう。なぜなら文学に通じている人ばかりが、その番組の視聴者ではない筈だからである。また矢鱈と時代に阿って今現在流行している慣用句を敢えて使用することもそれが有効であるか、寧ろ忌避すべきであるかというようなTPОも当然その慣用句を使用するということに関して考えられる。
 その意味ではある発言において語彙や慣用句を選択することとは、明らかに社会的な自己スタンス表明をも決する状況判断における慣習依拠的であると同時に迂闊に不適切であることは差し控えるべき社会的立場やそれに相応しい態度や存在感をアピールする自己表明性へと直結した社会信頼上、重要な行為選択である。
 だから当然のことながら昔のようにテレビで一々国会中継は放映されなかった時代には平気で専門用語だけで済ましていた政治家も今日ではかなり視聴者への理解を考慮に入れて語彙、慣用句選択を行っている。そういった配慮が自己政治的手腕を同党の仲間にも党の上役にも視聴者(有権者一般やその家族にも)にアピールすることとなる。それがテレビ時代の学者、政治家、作家あらゆる出演する職業の人々の時代的な慣習性への加担なのである。
 今度は言語が慣習とか常識とどのようにかかわりがあるかという観点から考察してみようと思う。いや慣習という言葉がやや形式的であるなら習慣としてもよい。その方が文化コード的通時的なニュアンスよりも共時的なニュアンスが明確になる気がするからである。慣習である場合と習慣である場合とでは恐らく知覚刺激の面からも身体生理学的な観点からも全く異なった反応と学習的な記憶性があるであろう。常識もまた民族文化的な観点からと(当然それは言語的文化ともかかわりが深い。)比較的近い過去からの習慣化した事項から得られた常識的な観点からとでは相違は生じよう。慣習性において我々は一般常識を重んじよう。それは限りなく共同体の歴史的な認識を考慮して限りなく普遍的であるだろうという常識目測的な思惟に依拠したものである。それに対して習慣的なそれは多少文化コード的な慣習性には背くものであっても現代社会が要求するニーズから自然とそういう行為を無意識の内に選択してしまう、つまり思惟とはあまり関係のない判断が主となる。「流行」というものは政治のような堅い分野でも基本的に侵食されるものである。
 我々の日常から考察してみても習慣から慣習へと転化されてゆくものと、逆に慣習から習慣へと定着するものとがあるように思われる。
 例えばコンビニエンス・ストアは夜勤者の存在が作り出したものでもあるが、逆にそれが出来てから夜に買い物をすることは何ら常識外れな行為ではなくなってきたし、また夜勤者は安全性から男性が多いことは多いが女性が全くいないということもなくなってきた。それは昼の方が安全であるとも言い切れない世情も手伝っているのかも知れない。コンビニの発明が夜勤者の生活を憩いのあるものにして、夜勤という現実に対して男女共に差別意識を撤廃させた。これなどは明らかに習慣が慣習へと格上げされたものである。
 慣習とは概して民族共同体内においては通時的である場合が多かったので、民族性に伴う常識的見解とも無縁ではない。しかしそれを多少破壊する動きもある。電車内で携帯電話をマナーモードにすることは公衆道徳上(かつてはエチケットと言ったが、現在ではマナーと言う。)の常識とされているが、実質上それを忘れることもまた急速に習慣化されてきている。だがこれとて緊急の場合においてどうしても携帯電話を切ることが出来ないという特殊事情を考慮してヴァイブレーターを使用した着信音制御型が定着すると、今度は電車内においても携帯電話コーナーとかが設置されてそこで携帯電話会話したり、あるいは電車の構造そのものが一人一人の乗客に対してゆとりあるスペースを確保出来るように改善されたり、そもそも習慣的に朝のラッシュアワーを避けるということが全成員によって心掛けられ、ゆとりあるダイヤ改正が行われ、それでも多少は混む朝のラッシュアワー時以外は電車がすいていることの方が多くなったら(出勤時間が一律でないことの方がもっと自然となっていったら)、自然と携帯電話をマナーモードに切り替えてくれというアナウンスも消滅し、電車内にて小声で携帯電話会話することが慣習化されるかも知れない。またそうなったらそうなったで、小声で話してもそれなりに大きく通話対象にも充分声が聞き取れる機能の電話が開発されるかも知れない。
 そのように習慣が定着すると慣習化しようという動きが社会全体から生じてきてやがてそのことを疑う者もいなくなる。
 政治家K泉前首相は派閥調停型政治を終焉に追い込んだ張本人であるが、これに対してもK泉独裁政治以外の何物でもない、という風に判断しいているタイプの人にとって大統領制ではない日本では自己決裁型のリーダーに懸念を抱くという心理がある。これは顕著な日本式政治構造に対する慣習的な受容性が生み出したものだろう。そういうタイプの人にとって慣習から習慣を生じさせるのが自然であるという考えがある。あのような形で首相が権力を十二分に行使すること自体に慣れていなかった国民も現首相もその次の首相も自己決裁型で権力(これまでの首相が官僚指導型で一切の決裁を自己に帰してこられなかった、ということに国民は慣れっこになっていた)を行使するようになって(勿論そのことで良い政治が実現しての話しであるが)初めて我々が首相とはそういうものである、という慣習的な認知を得るのであろう。尤もあの時代以降全く想像もつかない方向へと現実の政治は歩んできてしまった。それでも尚今みたいなタイプではない政治こそ理想という考えも存続し続けるであろう。最初拒否していた人がいったん受け入れると二度と意見を変えないということもあれば、最初賛成していた人が、その考えが定着すると今度は不満に思えてくるという現実もある。
 慣習性が逆に習慣を生み出すということの例としては、コンビニが便利であるから習慣的に夜中に買い物をすることが別に非常識ではなくなった、とか国会中継が面白いのでつい他局でやっているドラマよりもこちらの方を見ようという決心もまたK泉劇場以降の我々の習慣となったものの典型であるかも知れない。事実国会中継はドラマの視聴率よりも平均したらある時期から少しは上となったかも知れない。この二つの例は習慣化されたから慣習にして、慣習化されたからこそ習慣にしても構わないという常識の転換の顕著な例である。
 人間は合理的な判断をする時習慣も参考にするし、慣習も参考にする。また常識も参考にする。ごく瞬時になされる判断(行為選択)は一々因果論的に認識している暇がないから、あるいは考え過ぎていたらいつまでたっても何も出来ないということを我々が知っているから習慣的な行動のコードに身を委ねていることが多いように思われるが、これは限りなく思惟から遠い現実である。しかし少なくとも思惟にのみ依拠したような決心の構造は既に見てきたようにいざという時だけである。それ以外の時間をあまり思惟に感けていたら行為選択性自体に大半の時間を費やしてしまうこととなり、実行することが出来なくなる。こういった問題からは明らかに人生そのものさえもがある種のゲームであるかも知れないという考えを生じさせる。人生がゲームであるなら、言語行為はその中でもとりわけ他者に対して自己を確認することを相互に了解しているような意思疎通になり、発話行為自体はゲームの中での重要な局面であるかも知れない。
 統語的秩序そのものは一回一回の会話で当座の判断が使用されたり、一律でなかったなら、あるいは語彙をその都度机を「つくえ」と言ったり、別の時には「えくつ」と言ったり、またある時は「くつえ」と言ったり、あるいはもっとその時の気分であらゆる音素を全て恣意的に選択して発話していたら、我々は何も他者に意志を伝えることは出来ない。つまり統語的、語彙使用慣例、音素的な同定性などがア・プリオリに一つに収斂されているからこそ、我々はその都度の会話において無限な一回性の陳述が逆に可能となるのである。哲学者の信原幸弘の言葉を借りるなら、一回性の状況性と真理条件性こそが一個一個の芸術作品に宿っているような「全体論的性格を有する」のであり、一回一回の会話や陳述内容や真理条件はチェスや将棋や囲碁の勝負のように独自性を有していることとなるのだ。信原は心的出来事が非法則的であることを一回一回の行為選択に纏わる我々の命題的態度を支配する合理性が全体論的性格を持つことに起因させている。(簡単に言えば先述したが、人間は一生を通じて一瞬、一時たりとも同一の時間を過ごすことは出来ない。タイムマシーンでも使って何度も同じ瞬間を反復でもしない限り。人間の身体も日々成長し、変化し、老化するので、どんな似た状況であり、どんな同一の心的様相であってもそれは以前のそれとは異なった条件下である。また一生を通じて係わる人間<他者>の顔触れも常に変化する。それに応じて自己にとっての社会環境も変化するし、同一の状況下に一生の全時間は一瞬たりとも起きはしない。そのことを考えるだけでも人間の心的出来事はその人間の一回毎に異なった行為と経験の蓄積量と記憶内容(忘却内容)によって支えられている、ということが了解されよう。それを似た状況であるとか同一の真理条件であるとか関連付けるのが人間の思考する際の傾性とも言えるのだ。_ ところで人間は義務的なものには何とか合理的な理由を付与しがちである。そうやって義務として行為選択を正当化する。しかしそういう場合えてして真意が別のところにあることを直視することを避けているということが多いのではないか?その証拠に人間は自己真意に対しては合理的理由を見出そうとはしない。贔屓の政治家や好きなタイプの異性に対して何故そうであるのかということを説明出来る人間はいない。そこには理由は要らないからだ。そればかりか人生で最も大切であると思われることに対して我々は一々理由を見出そうとさえしない。またもし仮に行為選択において止むに止まれ決行しなければいけないような時に、そこに義務的な理由を見出し自己を説得させて遂行したら後悔する。最終的にはその行為が自己真意に沿うもでない限り我々は最後に決心をさせる事柄に合理的な理由などを無視して自由に選択する権利を残したいと思うのが自然である。拒否することは確かにストレスフルであるが、拒否する自由と権利もまた残したいというのが我々の真意である。だから我々は性格や決心のパターンを支えるものに遺伝子的な根拠を求めることを拒否したいと願うようになるのではなかろうか?そのことについては結論、魅力論で詳述する。)
 今友人と話す例えばK泉元首相についての世間話はこの前話したK泉元首相の話とはまた違う内容であるし、似たような内容であっても厳密には同じではない。グリーンバーグも指摘している(「人類言語学」より)この種の一回性の無限連鎖こそ、全ての状況性をカテゴライズしてゆこうとする人間の思考的な傾向性を生む。実はこの一回性からの逸脱欲求が認識の根拠であると思われるのだが、この一回性自体の認識こそウィトゲンシュタインの名付けた「言語ゲーム」というものの本質的な性格かも知れない。
 言語行為はこの心的出来事の非法則性にその都度拠っている。あるいはウリクトの言うように言語とは行為に似ている。というより言語は一個の行為以外の何物でもない。発語内行為というオースティン以来の概念がそのことを物語っている。それは信原流に言えば言語行為とは全体論的性格の故に一期一会的なゲームなのだ。
 だからこそそのゲームには規則が必要であるし、それに逆らう人間は一人もいない。どんな国家反逆者でも自国語を使用する。構文論的な規則、語彙と概念の同定規則、文法上の規則、それら一切は習慣論的なコードであると同時に文化慣習的なコードでもある。更に言語を話す時にはその発話者の感情的なスタンスを表明することが<手段的に>求められている。(いや本来はそちらの方が先行していたのだ。前言語状態なる赤ん坊はまず表情から意思疎通を図ろうとする。言語習得した後我々は表情を手段へと降格させるだけの話なのだ。我々は言語行為を意味論的な位相へと依拠させ過ぎているのだ。)
 挨拶が習慣であり、手段的行為であるのはそれが社会機能維持の基本的な人間関係円滑化へと差し向けられているからである。習慣論的な挨拶が文化コードであったり、もっと種固有の生存戦略であったりすることの基本的な様相は我々が言語行為の際に示さずにはおれない表情である。朝の挨拶が健康であり、今日も一日一緒に職場で過ごそうという意志表明であることは自宅勤務がパソコン使用で可能となった現代でも変わりはないであろう。デズモンド・モリスは女性の乳房が性的な信号の役割を果たしてきたという風に捉えたが、同じ章<育児>において赤ん坊が微笑むのは母親に対して援助を求める最低限の信号である、と捉えている。というのもチンパンジーの赤ん坊は母親の体毛に掴んで縋るという極自然に赤ん坊が採る行為が生存のために母親に縋る方法としてコード化されているが、人間にはそのような体毛はないので、その代わりに表情で意志を示すようにコード化されている、と捉えている。この考え方は極めて魅力的である。要するに微笑みの表情が母親の愛情を納得させる記号として機能しているということである。挨拶もまた社会機能維持のための記号である。挨拶の仕方を知らない赤ん坊がこのような表情自体を記号として機能させるのは前言語状態に彼らがあるからに他ならない。
 このような本能的なコードがまず我々にはある。表情を作り意思疎通の前提を示すという行為が人類の曙から現代まで持ち越されてきた普遍的な例である。そして民族文化的なコードがその次に我々が採用してきた社会機能維持のためのコードである。これは本能的なコードを理性論的に正当化するために我々が考案したものも当然含まれる。そして現今の現実に対応した習慣という名のコードがある。これら一切は脆弱な「個」と群集心理と密接ではなかろうか?ここでまた振り出しに戻った。これらは最早日本人固有の問題ではない。結論から言えば群集心理とは集団への帰属と一体化した意識であり、心理である。そして種としての人間の本能的なコードとか文化慣習的なコードとか、言語行為、そしてそれら一切をオブラートで包む付帯言語的行為(首を縦横に振ったりして正否を示したり、お辞儀したり、ウィンクしたり、命令の際に指や顎を使うような仕種の一切)における慣用性(これもまた構文論的、語彙選択的な決まり事のようなものが明確に存在する。)とはでは一体、群集心理とどのような関係にあるのであろうか?(群集心理は集団同化意識以前の無意識レヴェルでの「合わせる」行為である。)
 あらゆる付帯言語行為的慣用性とはごく原初的な群集心理の名残として現代にまで持ち越されたのではないだろうか?我々は今まで群集心理をどちらかと言うと否定的に扱って来た。しかし実際それは肯定するも否定するもないような種類の問題だったのではないか?

Wednesday, January 20, 2010

B名詞と動詞 10、過去形という決断あるいは妥協

 ここで極めて重要なある局面に達する。というのも過去形はどのようなものとして捉えられるのか、ということである。現在形において捉えられる名詞、動詞や過去形において捉えられる名詞や動詞はどのような関係にあるのだろうか?まず基本的に名詞は現在形であろうと過去形であろうと不変であることを基本としている。しかし固有名詞の場合はいささか異なる。故人に対する言及においてはその人が生きていたことや死んでもその思い出や業績や思想、作品は残るとかといった観点からの言及となり、その他あの世界貿易センタービルとかもそうであろう。しかし一般名詞においてはその扱いは現在形と過去形ではほぼ同じで、不変的というよりも日常的な意味で一般的であろう。それに対して動詞は際めて異なってくる。動詞は現在形では殆ど決意表明、あのオースティン流に言えば行為遂行的な発言以外は殆ど使用されない。実況中継や感嘆的言辞においてのみ登場するくらいである。過去形はそういった意味では動詞という位置から俯瞰すると妥協的な意味合いを帯びている。というのも動詞が現在形において示す現前化作用、再現性が、動詞が過去形になると活用形が変化することで我々に示唆するところとは明らかに明示性において再現的事実陳述においてそれを過去の出来事に収斂させる意味合いがある。それは動的な模様を静的な事実認定へと封じ込める役割がある。「動く」から「動いた」は「(動く・こと)があった。」ということである。それは「かつては東京にも陸軍の基地があった」とかの叙述が示す固有名詞の特定状況という意味での過去形と現在形の相違とは本質的に異なる。それは個別的ではないのだ。あくまでどのような動きにおいても、名詞のように「かつてはあった」ものや「今現にある」ものや「今もあるかも知れない」ものといった不確実な存在志向性とは異なった確実な志向性である。つまり動的現実の過去への帰属志向性である。それは事実としての歴史的確定なのだ。
 過去形は動詞においては現在形が示す動的現実の現在進行形的な状況認識とは異なった再現前化と再生の意図を帰属させること(現在形においては帰属ではなく、今現在の状況的な推移、変化の事実に解放されている。)に重きが置かれている。つまりそれらはあくまで過去の叙述(「かつてそうであった。」)なのである。だからこそ逆に位置、存在を示す現在形及び現在進行形の叙述、陳述が感嘆的な二つのタイプ<独り言においてはどちらかと言うと「止めた。」や「終わった。」が多いと思われるが他者を目の前にした場合は現在形と過去形の両方が考えられる。あるいは他者を目の前にしても決断的言辞「俺は行く。」、「今行く。」、「今すぐ止めるよ。」とかの意志遂行的明示型言辞と「あっ、今そこにゴキブリがいる。」(「いた。」と直後的に過去形を使うことが多いけれど、これは「もう終わったよ。」という言辞と同様の事後報告的言辞であるが、他者に共有現在知覚体験事実確認の同意を求める場合はすぐにその現在形になる。)とか「ほら、あそこに人がいるよ。」というような共有体験確認同意請求型言辞との二通りが大半を占める、と思われる。>の言辞に概ね収斂されるのである。
 過去形を使用することで我々が為すこととは生の持続の確認であり、観察者としての生の惰性(非創造的創造)の相互容認である。「動いた」ということは「<動く>という・ことがかつてあったが今はない。それを私は見たかその事実の所在を聞いたかした。今はその特定の<動く>こと自体が記憶として(経験的、事実認定的いずれにせよ)想起可能な地点に来ている。」ということが心的様相として浮上した陳述なのである。そしてそれは自己が主体的な行為者として世界にかかわろうが、ただ単なる観察者としてその場に居合わせようが、共に生を生きてきていて、今もここにこうして生を営んでいるという言明なのである。それは主体的であるかどうかというよりも惰性的でもある静的行為をも動的(アクティヴ)行為と並置させようという生の権利問題に触れるものである。「何も動くばかりが行為ではない。」という主張が過去形の事実陳述には潜んでいるのだ。
 人間はこういった過去形を多用することで自らの記憶を活性化している。あるいは他者に意識の持続と記憶の確かさを証明してもいる。記憶収納機能(責任に通じる能力)を滞りなく機能させることを無意識に実践している。話者は過去事実陳述によって記憶を活性化するが、それは同時に聴者には想像力を活性化させることを強いる。つまり話者と聴者の立場の違いは自己と他者の壁も意識させるのだ。というのも対話において片や記憶を蘇らせ、片や指示された陳述の様相を想像することを強いられるという心的様相性の差異が自己と他者の記憶内容の相違と同時に経験内容の相違をも確認させることとなるからである(だが同時にある過去事実の認定を通して相互の意識的持続を共有することを欲する)。
 コミュニケーションにおいては自己が他者に言い分を聞いて貰う代わりにこちらもまた他者の言い分を聞いてあげる、という原則の下に成立している。だから一方の想起の下にそれが客観的な事実でなく、話者固有の経験的事実であり、しかもそれが他者にあまり関係ないことであるなら、その事実報告は多大の想像力を聴者に強いることとなり、ストレスを生じさせやすい。よって話者が聴者へと強いるストレス軽減の為に(こちらが一方の経験を聞きに行く講演会でもない限り)話者の想起による事後報告が客観的周知の事実であるか聴者をも含む関係のある事項であるかが随時求められる。そこで過去事実陳述が重要な話題の素材となるのだ。想起して想像して貰い、逆に想起させて想像してあげるという連鎖が円滑な意志伝達を促進するのだ。そうでなくて行為遂行的言辞ばかりであるなら、我々はそういう話者に対して「勝手にやれば。」と言うこととなろう。自己言及的である場合は現在時制となりやすい。「今こう考えているのだ。」と言う告白になる。しかしたとえ自己の経験的事実であってさえ過去は行為遂行的ではない。事後報告的(オースティン的に言えば事実確認的)である。そこで我々は自己言及の抑制効果をも兼ねて過去事実しかも客観的周知事実や自己と他者共有事実の過去経験叙述に終始するように必然的になるのである。過去を振り返り自己言及を控え、つまり我々は過去形を使用することで相互の告白を抑制し、回避し、客観的な事実確認という相貌の下で自我や欲求叙述を最初からコミュにケーションの俎板に乗せないように心掛けるのである。真意告白はある対話上の飽和点に達した時に限定すべきなのだ。よって日常の対話とはあくまで我々にとっては過去形を通した自我表出の抑制という相互の妥協的な措置によって一般的には成立しているのである。

Friday, January 15, 2010

A言語のメカニズム 19、諸言語の事情

 本論でデリダの業績を認めつつも彼独自の差延作用が思い描くところの差異が、記憶のシステムにおいては甚だ不明瞭であり、というより差異という概念だけだと極めて多くの差異、言ってみれば無限に拡張される反復を連想させる。(ドゥ・ルーズ的差異と反復にもクロスする。)しかし変化というと諸々の差であるよりは一つの4拍子の楽曲において一箇所か二箇所ワルツが挿入されるようなニュアンスであるから、少なくとも二つから多くとも七つ以内の構成要素による弁別機能が大脳に記憶庫に収納出来る能力判断であるのではないか、と思われる(そのことは詳しく後述する。)ところから本論は変化という概念を採用するものである。動詞、形容詞と名詞、そして助詞、前置詞、副詞のこの統辞に関する構成要素が少なくとも二つか三つに分離出来るようなミニマルな分析から多くとも七つの構成要素以上の複雑さ、反復を避けるような統合性において、文章だけではなく、あらゆる事象の認識さえもが、この範疇でなされることが、記憶収納には不可欠な行為である、という認識で本論は進められる。
 さてここで一つ重要な認識を確保しておく必要性がある。法則については幾つかの言辞を持ったのであるが、法則性とはデリダが言うように(「幾何学の起源」序説より)科学が普遍的真理を有しているものとしての認識であることやカントの言う空間の非系列性としての性格、空間の同時的存在といったもの(「純粋理性批判」(中)より)を考慮に入れれば、我々は法則というものを空間の全領域に遍く偏在し、何処かで相互に連関し合いながら、それでいてヘーゲル(「精神現象学」より)や西田(「場所的論理と宗教的世界観」より)的に言えば一対他、他対一という二律背反的な真理を有しながら排他的、個別閉鎖的でもある矛盾体として我々は認識せざるを得ないわけである。そこで定義出来ることは、法則とは無時間的な存在であり、変化しない絶対真理であるということである。と言うよりそうであるべきであり、そうでなかったら法則ではなかっただけの話である。しかし法則の理解というものは我々自身の個別的な主体によって認識されたりすることによってなされるわけだから、各自個別的な意味を通して変化あるものとして記憶されることが履行される。法則的理解は時間を要し、そこから無時間化された真理を読み取るという仕組みである。
 しかし法則とは必ずしも理解に多大の時間を要するものばかりではなく、それらはミニマルな要素としてはいわく単純な論理の積み重ねに過ぎない。しかし大きな積み重ねは一個一個の真理ともまた別種のニュアンスと意味を生じる場合もある。そこに物理学的真理に近いある種の単純であることと複雑であることが背中合わせとなっており、それでいて離反し合うようなアンヴィヴァレンツが歴然と存在する。これらが所謂真理の非常套的な側面である。法則の一見「当然」の如く思われていて実際はその「当然」を裏切ることも多い相矛盾した姿である。
 そういう局面から言えば言語は法則でもない。その援用されること、慣用されることで示される実用主義的、現実機能的側面でのメカニズムにおいてのみ物理法則的秩序に従い、法則的であるに過ぎない。だから実践されるメカニズムとしては極めて法則的メカニズムに忠実で、数学的アルゴリズムとも相同であるのに、援用される辞書項目自体は諸々の言語間には恣意性以外のいかなる共通した法則性は見出されず、いわく気紛れであり、いわく個別閉鎖的であり、矛盾に満ちた形態である。それは一個の芸術作品に見られる主観的要素の濃厚なレゾン・デ・トルを持っている、という風にも言えよう。
 ただこれだけは法則的真実であるところのものは変化(あるいは非変化)によって言語行為に記憶されるべきものとそうではなく忘却されるべきものという差をつけている、ということ、それからそれらがミニマルな要素間における単純な組み合わせを基本としている(どんなに難解な論文であっても基本的には)ということであり、それは各言語間における個別具体的事情(語彙の音韻的性格とか語源とか)とは無縁に執り行なわれる。それは援用、慣用、機能の問題である。それでは中国語、フランス語、ロシア語、イヌイット諸語、ハングル等を例証しながらそういった真理を探求してゆこう。
 まず先述のどんなに少なくとも二つ以上の差異による区別から変化を構成し、更にどんなに多くても七つ以下にその多様性を抑えているという真理を証明すべく色々な言語の色々な要素に関する法則性を例証しよう。(これは心理学者ジョージ・ミラーが証明した有名な定理である。)まず中国語(プートンファ、全中国に通じる言わば公用語)において人称を表わす語彙、これは六つである。
 かつて筆者はプロの翻訳家や英語教師の集うサークルに在籍していたことがあるのだが、そこで英語教師の一人が友人のアメリカ在住の日本人が「我々が~」という物言いをした時に後で親しいアメリカ人から「我々という言葉は相手に対して、その人も含めて言うように取られる場合もあるから気をつけて使用した方がよい。」と諭されたという事実を語っていたが、確かに我々という言辞は難しい、ことに個人主義の徹底したアメリカでは使い方を考えねばならないものなのかも知れない。しかし中国語プートンファに関する限り大丈夫である。なぜなら中国語では我々がその状況次第で概念規定上二つに分類されているからである。私とあなたで構成される我々、聴者を含まない形での我々(私と彼)という二つの我々が、あなたと彼のあなた方と並置されている。

 一人の人間が慣用している言語の中では、地方による言語の違いの大きい中国語の恐らくどこの方言でさえもがほぼ、この六つの人称弁別しか存在すまい。言語活動において困らない程度に幾ら複雑でも七つ以上の弁別性を日常からは出来るだけ回避することは、かのフランス語でもまた大いに実践されている。フランス語の数の数え方は一見難しいように見えるが、要するに十進法を避けている無意識のやり方が独特なものだから、どこかの知事さんを問題発言へと導いたわけである。下図に列挙してみよう。
 左から右へゆくに連れて数は増える。更に上段から下段でと進む秩序は例えば、左端で言えば、1-11-10(上段は1-10)、中断は(11-20)、下段は(10-100)という具合である。ここで問題となるのは、下段の数え方である。さしもの知事さんもこの数え方に違和感を覚えたのであろう。しかしよく見ると、1~20までは18通りの数え方という多さであるが、これは日常最も使用頻度の高い数ゆえ致し方ないにしても、10~100の間の10の位の数え方は100を混ぜても7通りしかない。ゼロは別格としても仮に100を度外視すればやはり7通りしかないことになる。ここでも頻度の大きい慣用語には二つから七つの間の差異に留める、という法則性に従っている。

 結局のところ、10~100の間の数詞(10の位)は全て10、20、30、40、50、60(100を除く、100は10の位ではないから。)だけで表わされている。70以上が、60+10、4×20、4×20+10という構造となっているわけである。

 更に英語は名詞(代名詞を含む。)、動詞、形容詞、副詞、前置詞、冠詞(定、不定)、接続詞の七つ、日本語は名詞、動詞、形容詞、形容動詞、副詞、助詞、接続詞の七つ、これも全て二つから七つの間に収まるし、ロシア語の格は英語等と較べるとちょっと多い。英語では主格、目的格、補語である。しかしロシア語では主格、生格、与格、対格、造格、前置格とちょっと英語より多いが、それでも六つに収まっている。
 つまり重要なことは殆んどのケースにおいて、どの言語でも慣用頻度の大きいものは皆二つから七つの差異において収まる分類によって成立している、ということである。
 
 すると言語に詳しい向きが、ではあのエスキモー語はどうなるのか、雪に関する名詞は日本語の「何々雪」という形容表現でではなく、全て我々が「雨」、「雪」、「雹」、「霧」、「霞」、「霙」という分類に相当する概念弁別である為に、そう多いと問題が生じる筈なのに、ちゃんともっと多いではないか、という指摘が聞こえてきそうであるが、それは彼らの生活において、漁業に携わる漁師とかの職業の人々が魚の種類を沢山列挙出来るように、彼らもまた慣用的規則とは異なって、名詞では例外的に七つを超える分類を有するということであろう。しかし、ひょっとすると、最も慣用頻度の多いものはその多数の中でも七つ以下に納まるのではないか、すべての名詞が果たして頻度別重要性において、対等であるかどうか、となるとそうでなないのではないか?読者諸氏のご造詣にお縋りするしかないので、詳細なデータをお教え願いたい。

Sunday, January 10, 2010

C 翻弄論 7、ゲームの定義

 株の売買はある意味でギャンブル性の強いゲームであるとも言える。しかしそれは純粋なギャンブルでもないし、ゲームでもない。というのは競馬や競輪とは純粋に未知な勝負の結果予測に裏打ちされた可能性論的な確率のゲームであるのに対して、株の売買はそれによって利潤を追求する「スリルを味わうものではない、冷静に判断するもの」であるべきであるからである。尤も中には適度の観客スリルから極度に逸脱して最早遊びや紳士のたしなみではなく、それだけで飯を食っていこうというような人たちもいて彼らにとっては競馬でさえギャンブルではなくなるだろうけれど。
 ウィトゲンシュタインの「哲学探究」の中でゲームの定義を彼は、ゲームの多様性として捉えその多様性にもかかわらず一つの語彙「ゲーム」で言い表わされる現実から言語慣用性と共同体内における語彙使用の成員間の同意という現実を見据えているが、彼はその語彙の使用を裏付けるものを家族的類縁性と呼んだ。だが私は「ゲーム」という語彙の本質規定とは、ビジネスでもなく、ギャンブルでもない(ギャンブルの中にもゲーム性はあるが、ゲームそのものにはギャンブルは概念的には含まれまい。ただギャンブル的傾向のゲームもあるというだけである。)、と言って利潤追求のためのものでもない、純粋に楽しみのためのものである、と考える。
 実は言語活動にも目的行為論的な合理的判断として何か情報を得るため、何かを請願するための道具であるばかりか、純粋に対話を楽しむような日常的な言語行為(友人との会話とかによってなされる無目的なビジネス外の言語行為)にはそのようなゲーム性は十分にある。尤もウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」と呼んだことはそれとはまた異なった意味があったのであるが。
 ところが我々は日常においてゲーム、ギャンブル、ビジネスの三つをしばしば混同しがちである。そのどれにおいても熱中すると境がなくなる。
 安定した株保有をモットーとして綿密なプランで練る投資家と常に一発勝負に賭ける投機的なデイトレーダーとは自ずとギャンブル性には相違が生じ、当然後者の方がよりギャンブル性は勝っている。尤も彼らは通常その二極のどちらかではなく、両方の要素を兼ね備えている。どんなに慎重な投資家でもいざとなったら大博打を打つことは稀ではないし、逆にデイトレーダーたちでさえ慎重に市場の動向を見極めるという意味においては前者と相違ない。また競馬や競輪といったギャンブルは当初は紳士のたしなみとしての要素が強かったであろうが、いつの間にか真剣勝負となって綿密なデータ収集と予測、確率論を応用した生死を賭けたゼロサムゲームと化してゆく。例えば賭け麻雀もその種に入り得るし、カジノでのポーカーもその種のものである。たとえギャンブルに限らずチェスであれ何であれそれを賭けの対象としたら、それは純粋なゲームではなく、既に私見によるゲームの定義を逸脱しているから、それらはただ単にゲーム性を手段としているだけであり、目的はギャンブルであるから純粋なゲームではない、ということになる。利潤や見返りを求めてやるものはビジネスであり、ギャンブル(ビジネスと違って本来的にスリルが求められる。)である。故にプロ棋士等ゲーム・プレイヤーのゲームはビジネスである。
 例えばそれを言語に応用してみよう。ウィトゲンシュタインが言った「言語ゲーム」は先述にように私見によるゲームの定義とは異なり、ビジネスやギャンブルや字義通りのゲーム全ても含む行為における言語思考に纏わる彼独自の確定的定義不能な概念である。彼の言う家族的類縁性とは、その語彙を使用する共同体の成員全員の同意が必要である。それは寧ろソシュールの言う「ラング」に近い。
 例えば言語がビジネスで用いられればクライアントとの会話は利潤追求のための方策としてなされていることを対話において双方は認識している。それは相互の利益とサーヴィスの享受を目的とした手段である(食うために金を稼ぐという真意はビジネスの前提だ)。
 しかし短歌や俳句の歌会や句会や詩の朗読会、詩のボクシングといったものは芝居や狂言、能や歌舞伎がプロの役者たちによる舞台芸術の鑑賞であるのに対して、自己参加を目的としている。講演会、落語の高座、講談、漫才等もそれらは総じて自己参加ではない。あくまで観客として聴衆としての受容であるに過ぎない。しかし言語行為自体が目的であるという意味では文学作品に接するのと同じでそれらもまた言語は手段であるというわけでもない。ここで纏めると自己参加型の目的性の言語行為と受容認識型の目的性の言語行為とがあるということである。後で詳しく述べるが敬語使用とは既に論じた挨拶同様手段性の言語行為であり、ビジネス会話、それはプレゼン、株主総会、重役会議、営業活動における宣伝会話等の全ては手段的なビジネスという目的に奉仕する手段的な会話である(尤もこれとて目的性と手段性が重複した言語行為もかなりの頻度で存在しはするが)。ともあれ、目的性の言語行為においては何かの為にそれを聞いたり、参加したりするわけではない。文学を愛する人が何かのための目的で文字を愛することはない。そういう人は純粋に文学を愛する人間ではない。落語や漫才はそれ自体が面白いからこそ聴きに行く。それらは総じて言語を介在したゲームである、と捉えることも私見による定義からは可能である。我々は政治家の発言がテレビの国会中継で見聞くことが可能だが、これらは実際上、政治的行為(立法行為その他の)に奉仕するための手段であるが、しばしば政治家の発言自体が面白くてそれを見聞く。それは純粋な手段でも目的でもない両者複合型である。それを見ることが面白いということは劇場における鑑賞でもあり、しかもそれをなす演技者は我々によって選出されているのだ。そういう意味でスリルのレヴェルが迫真的である。切実である。我々の生活に直結したスリルである。生活に直結し得るのにもかかわらず見ていて面白いと来ている。
 もしどこの株も持たずに新聞で毎日、株価相場をチェックして楽しむだけなら純粋なゲームであると言えよう。しかしそこにはスリルがない。知的に面白いということとそれが実際上の利益に直結するかということとは別次元の楽しみであり、切実さである。小説家が今度こそ直木賞が受賞し得るかと候補に上がった人間が出版者からの電話を待つことと、趣味で発表した小説の感想を聞く日曜小説家との開きがここにはある。パソコンを駆使して実際にデイトレーディングするなら、そこで展開する株式様相は切実さと楽しみとスリルの度合いがまるっきり違う。それはビジネスにかかわる人間の心理である。
 要はビジネスにもギャンブルにもゲーム性は付帯するのであり、それは全体の中での一つの要素である、ということだ。政治を我々のように有権者として外側から参加することは、競馬を見る行為であり、内側から政治家として参加することは競馬の旗手として生活するということである。そこには程度の差こそあれ、切実性も娯楽性やゲーム性もスリル性もある、ということなのだ。
 敢えてゲームを定義するなら先述にように、それ自体が目的であること、それ自体が没頭する価値を持つもの、あるいは専念する価値のあるものであろう。そしてその結果は報酬的な意味がどうであれ、一旦その道に踏み入ったなら仮にそう容易に金銭に変わらないという厳しい現実があろうとも止めるわけにはゆかないものであり、その都度試行錯誤すべき価値のあるものなのだ。これが単に生活するためのサヴァイヴァル的な意味での手段なら成果が報酬に繋がらなくては意味がないということも言える。しかし人間はビジネスであれ生活の手段であれ、ただ単に生活するための生活費を捻出するためだけに全ての行為をなすほど機械的な存在ではないのである。その意味ではビジネスもまたゲームになり得るし、スポーツもそうであろう。要するにビジネスには手段的な側面と目的的な側面があるということである。スポーツもまた身体の健康の為、社会的な人間関係構築や社交性促進の為という手段性もあるが、これは一般人のための定義である。それ自体に人生を賭けているのなら、どのような分野でも目的となり得るし、ビジネスもまたその行為すること自体は飯を食う為だけではない。ビジネスの定義は仕事であるから、生活する為の手段であろう。しかし例えばビジネスにも付き物の本質的なゲーム性がそれで、例えば報酬を得る手段だけではないし、娯楽でもないからプロ棋士たちはゲームを楽しんでいないかと言えば、それは違う。勿論趣味でそれをやるような心のゆとりは彼らにはないだろう。その意味では日曜画家とプロの画家でも同様のことが言えよう。ではそれで食べているプロの棋士や画家は、その行為自体が生活的な報酬如何に直接響くから、全くゲームではない、と言えば決してそんなことはない。それは目的でもあり、ただの趣味でそれらをやる人間よりも数段高位のゲーム性とギャンブル性とスポーツ性とアート性と科学性等が要求されるし、それらは必要条件的に要求されずとも必然的に付帯し得るのである。
 だからプロのスポーツ選手はビジネスとしてスポーツをしているからそれは真剣に勝負で食っているので楽しんでいないかと言えばそれは違う。彼らはアマチュア以上に楽しい(ゲーム的な意味合いでも)のだ。要するにプロ並びにそれに類する選手たちはアマチュアの選手よりもゲーム性、スポーツ性におけるスリルや楽しさをより熟知しているが、同時にアマチュアよりもよりそのスリルを客観的に対処し得る能力、言ってみれば高等な技術を実践する時に味わう恐怖心や失敗した時に直に立ち直れる狼狽心の克服の仕方を熟知しているのである。同時に彼らにとってスポーツそれ自体が目的であり、どこからどこまでがゲームで、どこからどこまでがビジネスという風には類別し得ない。要するにそれらは異なったレヴェルの異なった位相の認識なのである。そういう意味ではビジネスにもゲームにもスポーツにもアートにもギャンブルにも科学性というものはあるし、科学にもビジネスにもアートにもギャンブルにもスポーツにもゲーム性はある。あるいはスポーツにもビジネスにもゲームにも科学にもギャンブルにもアート性はある。ビジネスにもアートにもスポーツにもゲームにも科学にもギャンブル性はあるし、このようにいくらでも挙げられよう。端的に言って例えばスポーツマン精神は何もスポーツにのみ固有のものではあるまい、そういう意味において全ては重複的な認識である。しかもそれぞれのジャンルで考えられる例えばスポーツ性やゲーム性やアート性や科学性やギャンブル性やビジネス性は重複する部分もあるが、異なった独自な面もある。そういうところでは哲学や心理学が必要とする数学や自然科学、論理学、倫理学はそれぞれの多様な分野と多様な認識方法によって少しずつ微妙にずれ込んでいる、ということと似たような状況であるとも言えるのだ。
 政治家の国会の質疑もまたその論戦自体で彼らの給与的な面での生活を直撃するし、そればかりか次の選挙で当選しないかも知れない。では彼らは楽しくないかと言えばただ政治の動向をメディアで追う一般人や政治評論家や政治学者以上に楽しい筈なのである。どんな苦境にあっても政治家は政治家以外にはなり得ない。だからこそ与党が危機的状況から脱して色々の面での自己政治信条に沿った動向が構築されて安定状態にあると、歌舞伎の十八番のような意味での見栄を切るような演出性を整えることの出来る心の余裕が出てくる。K泉前首相はそういう意味で名首相であった、と言えるであろう。これからのいかなる首相にもそのような演出は常に求められている。

Wednesday, January 6, 2010

B動詞と名詞 10、<言語と思念>

 言語が思念上で重要な意味を持つのは、想起→想像→知覚といった転換的連鎖において、とりわけ知覚対象を意味づける、あるいは想起や想像において思念上で映像を心的に現出させる時に、その思念上の映像にナレーションを付けるような時であろう。「なあーんだ。猫だったのか!」とか「あああの時の人だった!」とかしばしばこのような時我々は独り言を言う。
 思念の全てが言語的であるとは言えまい。しかし思念をただ映像的に想起させている訳ではなく、その映像を記憶でファイルさせ、それを検索しているものは「昨日」、「夜」、「飲み屋」、「電話での会話」、「寝る時に読んだ本」とかであろう。これらは自己行為の記憶収納に纏わる概念的位置づけである。まず映像が想起され、その後後付け的に言語が持ち出される時でさえ、「飲み屋」からは<マスターとの会話>、<その時のマスターとの感情的な遣り取り>あるいは「昨日の散歩」からは<その時に考えたこと>とか<その時すれ違った女性>とか<その時目にした紅葉>とかであろう。つまり連想上では思念は言語化されている、というより言語が飛び交う。言語に結び付けて思念してしまいがちなのが我々なのだ。映像と言語の連関は想起、想像、反省、知覚の全てに付帯する。
 言語と映像を関連付ける時に、それをより有効かつ円滑に執り行うものとは、過去の自己行動、自己行為の記憶とその時の感情であり、全てこれらは事後的に名詞化されている。その時の目的、その時の感情etc。「鬱陶しい飲み会」、「楽しい旅行」、「惰性的な世間話」、「心躍るデート」etc。
 言語獲得以前にも明るいもの、暗いもの、白いもの、黒いものというような知覚上での対象及び現象の性格、性質に関する弁別的思念は存在したであろう。しかしそれらは言語獲得以前には他者と意志疎通することが出来なかった。それらは全て表情だけでなされていた。言語が音声で発せられるようになったことが表情での細かい弁別性を退化させた、とも言えるかも知れない。表情が語彙の数だけあれば何も言語が音声に頼ることはない。しかし歴史はそのようには人間を誘導しなかった。表情による弁別だけが言語活動であったなら偽装感情はし難かったであろう。楽しくないのに楽しい振りをすることは音声だけで意味を伝達することよりもより弁別性を頻繁に志向しなければならないので、ストレスが最大限に達するであろう。音声と表情の二元性において対話する言語活動が成立していたことが偽装的感情の襞を木目細かくしていったとは言えよう。
 ともあれ言語は意志疎通の渇望が生じさせたが、それが音声であったのは偶然的な出来事の集積であったであろう。(偶然をパースもモノーもクリプキもテーマとして論じている。)
ところで根本的なこととして意識というものは哲学では解明せられない。またその必要もない。何故ならそれは知覚行為と知覚内容の選択(そこに言語がかかわっていると思われるが)そして無意識の意志(生理的、不随意的)によるものが大半なのだから関心、集中、忘我といったもの以外の大半を総括して意識と問うこと自体が極めて対象把握認識において曖昧である。問題とすべきは関心、集中、忘我、知覚内容の選択、そしてそういった密度あるポテンシャルエネルギーのあるもの以外の潜在的な記憶事項(映像、音声共に)が何らかの拍子で蘇る際に閃く言語的思念である。
 思念には前言語的、生理的欲求(カント的に言えば他律的)に忠実なものも多く含まれる。よって意識的には動物的な感覚によるものが多く含まれる。しかし同時に言語獲得後の全ての存在者たちはこの欲求、意識をも言語的に即座に意味づける。これは殆ど条件反射的な心的メカニズムである、と言えよう。
 思念が現在に依拠した意識であるなら我々はそれを生理的な条件、無条件反射のメカニズムの範疇で捉えることが順当であろうが、例えば用を足して横断歩道を渡り、ベンチに腰掛けると過去の記憶映像が想起されよう。するとそこでは例えば通学路の山道の映像とその時に自己の身体が知覚した感覚(視聴覚的、触覚的<気候的のものだけではなくその時の成長過程における身体の変化や精神の変化に伴う心理的な感覚、感受性>)に対する記憶想起とその時の思念想起、その時の感情想起、その時の言語的な思考想起(これは思念想起に殆ど重なっていると思われる。)といったものが立ち現れる。感情想起においてはそれが印象的であればあるほどフラッシュバックする可能性があるが、それはネガティヴなものである場合に特に多いと考えられる。しかしそういったその時の意識記憶さえもが意識の在り方を想起する際に言語的に思念する。「辛かった。」とか「焦った。」とか「胸が一杯になった。」とかである。言語は想起し映像を心的に再生している最中に既に入り込む。
 茂木健一郎が指摘している(「脳と仮想」新潮社刊)ように我々は皆意識していないものもまた記憶している。例えば「あの時頭の中は受験の日だったので数学の問題ばかりだったが、実際あの時今から考えると凄く緊張していた。体中で硬直した神経組織が異様にコルチゾールを放出させていた。」とかある一定の時間がたつと認識出来る。しかしそれはその時にはあまり、というか大概殆ど意識されてはいない。つまりその時には意識されていないこともある一定の時間が経過すると手に取るように理解出来るということは無意識が意識に変わる瞬間が確かに存在する、ということである。というのもその試験会場へ向かう通学路での思念が事後的に出た数学の試験の結果となって、たまたま受験に合格すれば、通学路での思念と試験の時の思念とが因果的に結び付き、更にその日家に帰ったら急に強張った筋肉や神経組織が中々普段よりも寝つけなくて、次の日にやっと眠れた後に覚醒すると異様に虚脱感が実感されて、初めて緊張が解けたと実感され得るのと同じである。
 この一連のプロセスを考えて見よう。例えばこの受験する者は数学の試験の出来不出来で人生の進路が左右される、ということの認知(未来予測)によって極度に試験の日程、その時に出される問題の内容の予想に関心を集中させている。それはある意味では極度の意識状態へ無意識の内に滑り込むような必然的なプロセスがある。極度に意識的であることが無意識にある特定の未来へと「構え」を構成し、その「構え」が特定の緊張状態を形成する。その「緊張」とは何なのだろう。それは過剰なる未来の「ある特定の来るべき日程に関する不安と期待が入り混じる感情が顕在化し、日常の平静感を喪失させることから来る鎮静化の為にひたすら思念(試験会場へ向かうまで数学の問題として出題が予想される内容に意識を集中させることを通して)へ集中させることで対処しようと無意識に試みる」心的な様相を言うのであろう。
 だがこのプロセスもやがて新たなる局面に突入する。それは試験問題が提出されるのだ。試験問題に直面するに至ってそれまでの緊張は来るべき不安と期待から現に今提出された諸問題への対処という局面に突入するのだ。現に今かかわっている諸問題への対処は冷静さを必要とするような心的メカニズムが発生する。問題をどの様な順序で解き、どの様な時間でどのような内容で構成するか、という計画的な思念が集中的に繰り出される。そして順調に滑り出した回答もやがてクライマックスに突入するに至って最大限の努力でもって欠落した箇所の修正へと意識は向かう。そこには各々の瞬間毎に熟慮よりも即断を要求しなければならない為の捨象、つまり熟慮の断念が求められる。やがて試験は終了時刻が来て終了する。当分の間はその試験に書いた回答の様相を反芻する。しかしある時期に来ると最早取り返しはつかないのだから、反芻を断念する。そして一週間が過ぎた。後合格発表まで一ヶ月、そこから徐々に試験のことは忘れられ平静心を取り戻す。しかしやがて試験の合否通知が来る段になってその日程の近づくに連れて再び試験前のあの緊張が繰り返されるのだ。
 しかし重要なことは試験を受ける者にとってそれがどんな試験であろうとも、その試験の日程も試験で出される設問も皆偶然的なものでしかない、という事態である。偶然であることが世界の基本であることはそれぞれ別の角度からパース、モノー、クリプキ等が語ってきたことである。だがしばしば、というよりも丸ごと人生の全てはこの偶然によって成立しているということは自明である。何時生まれてくるか、何時死ぬかを含めて全ての出来事は偶然的な要素によって成立基盤そのものが構成されており、その偶然に支配される、ということ、ここで言えば試験の日程や設問内容といったものは全て偶然に支配された必然的に重大なことである。だから受験生にとって過去の試験受験事実は「信じる」べき厳然たる事実である。しかもその偶然が人生の幾分かの分岐的な角度を決定する。受かればどうなる、落ちればどうなる、という事態は固有のものとして待ち構えている。しかし一旦受験すれば試験設問内容や合否事実は必然的となる。厳然たる事実としていずれの場合にも人生を規定する。そして試験設問内容は試験を受け終わった時点で理解し得るものと化し、合否通知もまたその試験での出来栄えに即応して理解し得るものとなる。偶然の必然化こそが事実認定の事後的な認識を既成事実化する。だから日常的などのような認知もどのような知覚内容や様相もまた偶然的であるが、事後的に捉えれば全ての偶然は理解し得る対象として必然化する。未来は偶然な形でしかやって来ないが、どのような未来であれ、必然化され形成事実化される運命にある。それは必ずやって来るからその意味では信じられる(そうする当人にその未来において生がある限り)が、同時に事後的にはどのような悲惨な出来事、超幸運な出来事さえも事後的には必ず理解出来るような事実認定対象と化するわけである。以上のようなことから下図のような概念的相関性が得られる。

「信じる」こと→過去の厳然的事実認定、存在直観→全体把握→名詞的思念

「理解する」こと→過去の事実における内容把握、メカニズム追認→体験→動詞的思念

過去事実想起→直後は体験的に「理解する」が時間経過と共に「信じる」ことを通して「理解する」ことが通常となる。「そういうことがあった。」という全体的な認識が先行するようになるのだ。このプロセスこそ偶然の必然化である。

当然のことながら名詞的思念は記憶の合理化を旨とするので、他律的であるが、それは全体把握であるからどのように動的たろうと静的たろうとそれらは一切が非変化として捉えられる。非変化は不動対象把握的であるからそれらを現在においてさえ過去事実化する。それに対して動詞的思念は体験的であるので自律的である。そして過去事実に依拠する限り記憶の再現を旨とする。そこでこれらは静的なものでさえ動的に考える。変化の位相において全てを追認する。だからそれらは過去に言及していてさえ現在化されている。

Sunday, January 3, 2010

A言語のメカニズム 18、学習

 生物学における重要な概念である選択圧という考え方は、一体物理学、少なくともシュレーディンガー、ウィルキンズ、ケンドルー等の尽力によって生物物理学が定着する以前の全ての物理学の基礎たる古典物理学の認識方法によって説明可能なのであろうか?個々の現象自体は確かに物理法則によって立証されるとしても、その元となる生命体の種、個体すべてがそれに従うところの主体的行動、発生学的選択とかを物理学で説明可能であるか否かは物理学本体の事情もさることながら、人類の科学の命運をも左右するかも知れない。すべての学問が必然的帰着するところの哲学的問いが物理学の分野で求められているであろう。生命が必然であるか、偶然であるか(私は繰り返すが偶然と見ている。そうでなければ、何度か起こった地球環境の激変でその度毎に全く異なった種が絶滅し、その後暫くして全く以前には見られなかったその時一回限りに出現しかもたらさない種の進化がもたらされた、そういう現実を説明不可能となってしまう。一度くらいある絶滅した同じ種がもう一回別の時期に出現して反復登場してもよさそうなものである。)という問いも必然的に重要となろう。
 確かに全ての生命体が何らかの形で選択圧に対応し、それをばねに進化を遂げるということ、その陰に多くの種の系統が絶滅の憂き目に会うこと自体は必然であろう。しかし、何らかの地球上でのカタストロフィックな事態の際にどのような戦略で生存を図る系統が生き残れるのかということは極めて統一された法則を見出すのが困難で、殆んどそういった事態と種との関係毎の偶然的要因が大きいのではあるまいか?(実際はそういう法則も存在しているのに我々が発見出来ずにいるだけかも知れないが。)すると何処から何処までが必然で、何処から何処までが偶然であるのか、ということの問いが重要になってくるかも知れない。人間の進化史上の問題、ここで取り扱っている言語行為発生、進化の謎も同様である。この章以下では言語を巡る疾患、そして地球に存在する言語のいろいろの形態、そのことが表わしている哲学的問いを考えてみたい。その際には学習理論とか発達心理学とかの概念も重要となってくるであろう。まず子供の学習と大人の判断について考えてみよう。

 他者信頼の欠如は確かに自己防衛を助長する。真意を隠蔽し偽装することで、最大限自己の損失を食い止めようとする自己防衛がしかし頂点に達すると、その行き過ぎに比して他者の無垢を認知するようになる。自己防衛の度合いに対して他者の自己に対する信頼の欠如は想像以下(思い過し)であるかも知れないという再認識が、自己防衛を解除する。その際、偽装性や攻撃準備性のために放出される脳波、ホルモン、蛋白質を抑制する作用が発動され、やがてその抑制系が自己防衛によって促進された躁状態を抑鬱状態へと転換させようとするし、事実そのように転換される。スイッチの入れ替えである。
 嬉しい気持ち、楽しい気持ちは突如のカタストロフィックな知らせで吹き飛ぶ。そういう感情の入れ替え、前状態の解除と心理状態の突然の変化は大脳を刺激する。この際の大脳への刺激が記憶をクリアにする。その変化の際の状況が忘れられずに記憶を常に現在進行形のように再生させ続けるばかりか、過去の記憶に関する追憶もより鮮明にする。しかも以前には忘れかけていたようなエピソード記憶さえもがありありと蘇る。それまで覚えていたことを忘れることと引き換えではない。それらも、そうでなかったものまでも対等に並置されるのである。
 このような鮮明なる記憶のシステムはカタストロフィックな局面では確かに上記のような例で成立するであろう。しかしそういう極度の心境の変化ばかりではない。認識の変化もが記憶を整理し直したり、引き出しから取り出したり、その変化の際の情景をありありと凍結させて、保存させたり(何時でもその時のことを思い出させるように)要するに、それらはカタストロフィックな感情の変化同様大脳を刺激する形で記憶をも刺激することを常とするのである。しかし言語認識においては情景は忘れても言語による構造つまり文章だけはいつまでも忘れないという風になる。勿論それは日々言語行為は反復されているから、余程の印象的な人物と事物に伴った言語行為ででもない限り、言語例、文章や物言いだけがエピソードと分離して記憶されるという事態も想定されるわけである。
 デリダは記憶を差異で認識したが、本論では寧ろ変化を機軸にしたい。なぜなら変化はある傾向の遺伝子の発現、ある傾向のホルモンや蛋白質の放出や流出の制御システムが知覚や意志的発動に伴って、明らかに転換させるように別種の行為の(その決断の)スイッチングを指令する。その指令者は大脳であり、それによって引き出される遺伝子である。スイッチングの切り替えは抑制系の援助なしにはなし得ない。抑制系の援助を更に抑制するものは前状態での主役の遺伝子、ホルモン、蛋白質であろう。それら一切が全く反転した状況というものも当然考えられる。嬉しい~悲しい、と悲しい~楽しい、とかの場合である。
 名詞と動詞が交互に登場する言語統辞ではこの可変性が大脳を刺激する。例えば本論で述べてきた例の文章例では前者の方が記憶に残り、後者は記憶しにくいとしたら、そこでは明らかに変化に富んだ構造(遠近感、立体感、現実感)とそうでない構造(平板さ、抽象性)との差異が歴然としていよう。変化が交互に進行するシステムでは進行するに従って引き込まれる追体験性が聴者の記憶の層を刺激する。(螺旋状のねじがよく食い込んでいくのと同じ原理である。)要するに理解し易さが聞くことによる利益を認識させ、話者に共感を獲得し、相互のコミュニケーションの意義を確認出来るのである。コミュニケーションはその際に進化し、深化する。
 この理解し易さは決して概念の多様とか、概念の示す多義性とかでもない。寧ろ単純でいて、聞き取り易く、明確であることが求められる。それは概念が意味に転化する段階の現実である。ある種の形式的な公務関係の文章の理解し難さは、明らかにこの側面が欠如している。子供が言語を理解し、習得する際のメカニズムを考えてみたい。子供は公的文書的な手続きをより一層好まない。理解し易さ、気取り易く、親しみが持てるそういうものだけを好奇の対象として選択する傾向がある。子供は概念性が極めて希薄で、個的意味の世界にのみ生きているという側面が強いからである。

 子供が人見知りする心的状況は良心の欠如が示される。人見知りするか、しないかは親しみのある対象であるか否かという観点が重要な基準となるように思われる。そしてそれはア・プリオリに決定されている。そもそも親しみの持てる対象にしか好奇を示さないし、またそういう人物としかコミュニケーションを取ろうとさえしないものである。
 これが大人であるとこうなる。先述の復習である。他者に対する信頼の欠如は、明らかにその他者に対する面識を持ってすぐに示される友好的態度に対する疑惑に依拠することが多い(調子のいい奴だ、と思う。)が、発話行為では真意を隠蔽してゆこうと決め込む偽装決意の履行可能性は他者信頼の欠如と懐疑に比例する。しかし偽装途中で他者への自己の偽装に対する無垢な信頼を発見した瞬間が、すなわち良心の呼び戻しの瞬間であり(こういう瞬間は偽装が滞りなく進行していることを認識し得た瞬間に訪れることが多い。)、ここから徐々に移行段階へと突入する。まず確認である。本当にこの人間はさっきの印象通りに他意はなく信用出来るのか、という問いはもう一度念には念を入れて無垢で信用し易い人間かどうかを査定する。(しかし必ずしも無垢であることだけが即信用出来るかどうかの判断にも結びつかないところに大人社会の難しいところがあるが、)この段階ではまだ真に偽装は解除されてはおらず続行されている。しかし畳み掛ける自己の側からの偽装による確認によって無垢が判明した段階をもって偽装解除の決意がなされる。だから遡ればこの人間(自己にとっての他者)が無垢であると感じた瞬間(ひょっとしたら、と思った瞬間)が一番記憶に残るであろう。「あいつもそんなに悪いやつでもなかったな。」と。
 この自己の言語行為において、他者を無垢かどうか確認する段階までは明らかに形式的言辞に終止する。しかしそれが解除されると今度は完全に真意を示し始める。具体的言辞の開始される瞬間である。その際には「さっきあんなことを言ったけど本当はこう思うんだよ。」とかの言辞もなされるかも知れない。
 子供は確認の段階、つまり偽装解除を躊躇し、逡巡する段階が省略される場合が多い。というより省略されないようなものにはいつまでたっても心を開かない。心を開けるものはア・プリオリに決定されており、その者に対しては省略も前提されている。故に良心というものも希薄である。(良心とは他者良心の発見から自己の他者への偽装解除への移行段階における思考秩序のことなのである。)ことに幼児の場合は。少なくとも小学校に入学するくらいになるまでは良心を醸成させるような躊躇や逡巡は両親の教育次第であり、両親の躾とは無縁に自己の判断でそういう意識を生じさせるには更に4~5年くらいを要すると思われる。
 言語を習得するメカニズムはだから親しみのあるものからそうでないものにおける距離感の習得ということが出来る。親しみの持てるものとは両親を機軸にした人間関係であり、近所であり、よく目にする事物である。そういった語彙はすぐに習得される。しかし自己にとって、よく目にしない事物や人物もまた社会にとっては重要である、ということの認識の醸成過程こそが言語習得のモティヴェーションの側からの、つまり好奇からの促進過程である。(そうやって少しづつ大人社会の仲間入りしてゆく。)その過程で、意味の領域から概念の領域へと語彙の習得選択基準が徐々に拡大されるてゆくのである。そこに個的なものと公共的なものとの区別や段階を習得する過程が重なってゆく。良心とはそういう認識獲得過程によって必然的に生じてゆくのである。
 しかし意外に無垢な人間であるという認知を得る瞬間の大人の心理は、実際は子供の頃を思い出している場合も多い。「あの頃はそんなに疑り深くなかった。」という反省が生じるのだ。しかも、それは自己演出の、演技の、偽装の滞りなさが自己嫌悪体として産むことが多いのである。
 この反省はなかなか子供には難しい、と思われる。子供はまだそれほど警戒心はない。よほどのトラウマになっているような幼児体験がない限り、信用出来るか出来ないかという理性的判断よりも、親しみが持てるか否かという条件反射的判断が機軸なのである
 ここで本章の論理を纏めておこう。
 我々はしかし大人の中にも極めて子供と共通する部分を、逆に子供の中にも大人と共通する部分をしばしば発見することが多いであろうし、嫉妬という感情は大人社会での子供にありがちな自己中心の狭い世界を機軸とした自己本位の意味の世界(自分勝手な世界認識)と無縁ではないし、子供の嫉妬は子供の中に見出される大人社会の縮図と捉えることも可能であろう。だから我我々はそういう現実を大いに踏まえて現実の社会に展開されるコミュニケーションの本質を見極めてゆかねばならない。





<子供の学習過程>

最も生活に密着した日常的人物事物の語彙習得
<親しみが持てるもの、自己中心の世界観>
個的意味の世界



自己の周囲のものから始め、徐々に自己領域を
拡大し、やがて自己と他者、自己固有の意味の
世界から他者の世界、非日常的人物、事物の
存在の認知をするようになる。




個的意味を凌駕した公共的意味、つまり概念の
世界の人物、事物の認識を得、それに伴って
そういう語彙を習得する。しかし語彙習得その
ものが逆に公共的意味、概念の存在の認識を獲
得させることも多い。

この二つの概念図式は必ずしも二項対立的な位置関係にあるわけではない。なぜなら上の子供のこの図式が大人社会でも人見知り的な懐疑と信頼欠如を呼び込み、偽装を成立させるからである。かつまた子供もまたこの下の大人の図式を模倣しようとしながら、徐々に自我的意識と社会的責務の双方を同時に獲得してゆくことになるからである。個的意味から公共的意味の概念獲得的拡張は他者理解と社会認識、及びプライヴァシーとパブリシティーの二面性の学習を示しているが、大人もまたややもすると、二面性を忘れがちで、自己の保身と権力志向性がプライヴァシーをパブリシティーに置換してしまう。社会を見回してみていかにその種の例が溢れかえっているか既に賢明なる読者諸氏の方が余程ご承知のことと思う。

<大人の他者理解に存する段階的移行過程>

他者への信頼性の欠如による自己偽装の決意
真意隠蔽の常套的判断



自己偽装の徹底化による他者による自己
への盲目の信頼が醸成する自己偽装の行き過
ぎに対する反省、やがて他者の人のよさ、無
垢の発見、しかしもう一度本当にそうか確認



確認後真に信用出来る他者という認識を得たのちに
偽装解除、真意表明、相互信頼のコミュニケーション
の成立