Sunday, March 21, 2010

C翻弄論 7、関係と偶像‐ 国家起源と言語

 ブーバーは「我と汝」において、関係について次のように分類した。
「関係の世界をつくっている領域は三つある。第一は、自然との生活。ここでは関係は言語のきざはしにまつわりついている。
 第二は、人間との生活。ここでは関係は言語の形をとる。
 第三は、精神的存在との生活。ここでは関係は言語によらず、沈黙の中にあるが、ここから言語が生まれてくる。」(127~128ページより)
 ここにはブーバーの社会観というものが濃厚に立ち込めている。ブーバーが社会観を述べる時、そこには言語との係わり合いが重要な要素として立ちはだかる。更に彼は続ける。
「(中略)これらの領域のそれぞれのあり方に応じて、おのおのの<なんじ>の中でわれわれは永遠の<なんじ>に呼びかけるのである。
 これらの領域はすべて永遠の<なんじ>の中に包まれている。しかし、永遠の<なんじ>は、このいかなる領域にも包まれることはない。
 これらすべての領域を通じて、唯一の現存者は光を放っている。
 しかし、われわれはこれらすべての領域を、この現存者から取り除いてしまうことができる。
 われわれは自然との生活から、恒常的な<物理的>世界を取り除き、人間との生活から感情的な<心理的>世界を取り去り、精神的存在との生活から、普遍妥当の世界である<思惟>の世界を除去することがきる。このようにした場合、どの領域も透徹性を失い、したがって意味がなくなってしまう。各領域は利用の対象とはなるが、不透明となってしまい、たとえ、われわれがコスモスとかエロスとか、立派な名でよんでみたとしても、やはり不透明なものになってしまうであろう。事実、一切の存在が人間にとって犠牲をささげる聖なる祭壇をもつ住み家となるときのみ、人間にとってコスモスが存在する。また、もろもろの存在が人間にとって永遠なるものの比喩となり、これとの共同体が啓示されるときのみ、人間にとってエロスが存在する。さらに、人間が精神にたいする行為と奉仕とをもって、存在の神秘に呼びかけるときのみ、ロゴスは存在するのである。
 形態が命ずる沈黙、人間の愛のこもった言語、被造物の無言の告知、これらすべては聖なる言葉の現存にいたる門である。
 しかるに、もし、<われ>と<なんじ>の完全な出会いが起るならば、これら三つの門は、真実の生命の門と一つに結ばれ、あなたはどの門からはいっていったか、もはや知ることはないであろう。」(「我と汝」より)
 このブーバーの最後の一説には明らかに時間の無化が語られている。現在が過去になり、過去が現在に蘇り、未来が現在に押し寄せ、未来が過去になるような輪廻にも似た循環は、時間の一方向の流れから一挙に多方向性へと転換され、やがて時間は無化される。
 そしてその意識の一如であるような状態は、だが第一の自然との生活において、思念を持ち、思念は思念のまま時間は過ぎてゆくこともある。しかし時としてその思念は言語化し得る。それが第二の人間との生活において顕現される。意思疎通の方途として我々は実は思念を言語化するのである。その言語化し得た思念こそ意味である。意味はしかし部分的なものである。全体的には無意味なものが我々の直観においても、思念においても支配している。言語化し得ない思念こそ全体であり、無意味な世界である。第三の精神的存在との生活とはフッサールもしきりに指摘しているような要するに前言語的状態である。これは沈黙であるが、沈黙はもう一つの言語である。言語を醸成する前言語という名の言語である。更にブーバーの論理によれば、エロスは共同体、つまり他者、「なんじ」を前提する。しかしロゴスは一人孤独に存在へと語る、神へと語る時のような思念からしか生じ得ようもない。だからこれは他者とではなく対自的な思念も含まれる。対象に対して客観的に捉え、やがてその対象と自己の距離が無化され得る時、我々は対象と一体化し得たと感得する。その時我々はロゴスが対象と自己との一体化において形を生じることを知る。
 ある意味ではそのような体験そのものは快感として覚知される。それは原体験としての人類学的な位置づけも可能である。エロスが他者を必要とし、ロゴスが自己意識を必要とすることの内には、自己そのものも既に他者を前提していることを考え合わせると、途端に人類にとって共同体という存在が必然的な全個体間に横たわる快感であった、という事実を想起させる。その快感獲得の過程をもう一度本章においても反復してみたい。
 
 初期人類の祖先が恐らく繁殖期が限定されている事態から一年中生殖可能な事態へと転換してゆくまでの膨大な時間の中で何がそのような変化を齎したのであろうか?
 次のことが考えられる。
① 環境の激変が起り、多数の個体が死滅するような事態が頻発し、限定的な繁殖期においてのみ生殖行為が限定的に行動されることだけからでは、種の維持が困難になった。
② ある強固な捕食者となる他動物種が登場し、人類の祖となる種の生存を脅かした。

 利己的個体が多数の配偶子を独占しようとしても、他個体との摩擦により、反ってデメリットであるし、多くの子孫を養わなければならない羽目に陥り、結果的にはいずれもデメリットとなる故に、他個体との協調を図ることへと次第に落ち着き、やがて一個体が可能な生殖及び繁殖行動の許容範囲が臨界点を見出し、行動的な規範もやがて定着してゆく。この利己的行動の抑制因子として、性的同一種内対他個体攻撃欲求に対する抑制行動自体の齎す快楽に対する覚知を各個体へと齎す遺伝子が、自然選択による選択圧に対する反応として我々を理性的存在者として進化させてきたのだ。
 そういった過程において我々の祖先はある時、発声にリズムや抑揚をつけてなすこと自体にある種の快感を見出したのだ。行為自体の快感の発見という事実が、やがてこれを常習化させるに至る。つまり発声行為自体に生理的な快感はあるのと、その同一行為を各成員が共有すること自体の快感の発見である。音楽的律動を体感することを発声することを通して覚知する快感が初期性的欲求抑制の方策として理解されるようになるのはそれほどの時間はかからなかったであろう。セックス以外にもこのように素晴らしい快感を得る方法があり、それを発展させることで生活上に何らかのメリットを齎すこととなるかも知れない、と初期人類は打ち震えたかも知れない。そうした発見の共有化が成員間に習慣化されることで、定着してゆくことで、やがて言語活動の基本となる発声行動が常習化されるに至るのである。(これは「合わせる」ことの歓びの発見に他ならない。)
 ところで、ブーバーは次のように意味を規定している。
「人間が受け入れるのは、特殊な<内容>ではなく、現存であり、力としての現存である。この現存の力とは、三つの事柄を含んでおり、明確に区別はできないが、われわれは三つの特質として見ることができる。第一に、<われ‐なんじ>には真の相互性があるということ、受け入れられていること、結合の全体的な充実感があるということなのである。(中略)第二に、言葉ではいいあらわしがたい意味の実現という特質である。意味は保障される。もはやなにものも無意味なものはあり得なくなる。人生の意味がなんであれ、もはや問う必要はなくなる。しかしそれを問うにしても、答える必要はない。あなたはその意味をあらわすすべを知らないし、どのように定義すべきかを知らない。あなたはそれにたいする公式も図式ももっていないけれど、しかし、それはあなたの感覚的認識よりもはるかに確実である。啓示された意味と、かくれた意味は、いったいわれわれに何を意図し、何を求めているのであろうか。それは説明されることを望んではいない。_われわれが説明できるものではないが_、ただわれわれによって実現されることだけを求めている。第三には、この世界とは別な<来世の生活>ではなく、この世界のわれわれの生活に意味があるということ、<彼岸の世界>ではなく、此岸の世界に意味があること、この世界の生活の意味が確証されることを望んでいるという特質である。保証はわたしのなかに閉ざされているのではなく、わたしを通してこの世界に生まれることを望んでいる。しかし、意味それ自体を移すこともできないし、一般に受け入れられる普遍妥当の知識につくり改めることもできない。(中略)ひとは受け入れた意味を、自己の存在の一回性により、また自己の生命の一回性の中で確証し得るのみである。(後略)」(139~140ページより)
 この箇所の記述は言語活動を営む我々の姿と、そこへと至り着いた我々の祖先の言語行為を考える時に示唆的である。特に「意味は保障される。もはやなにものも無意味なものはあり得なくなる。人生の意味がなんであれ、もはや問う必要はなくなる。しかしそれを問うにしても、答える必要はない。あなたはその意味をあらわすすべを知らないし、どのように定義すべきかを知らない。あなたはそれにたいする公式も図式ももっていないけれど、しかし、それはあなたの感覚的認識よりもはるかに確実である。」が重要である。その重要性を説明すると、無意味の世界の排除こそが言語活動の本質であると同時に、定義以上に語の使用という事実こそが我々の言語活動を支えているということ、つまり慣用性としての言語の在り方であるということだ。しかしこの無意味な世界の排除は言語が意味を獲得してから後のことなのである。しかも我々は無意味な意思疎通性において、言語に意味を付与し得たのは、ブーバーが言うように意味を表わすすべを先天的に知り得なかったという一事に尽きる。(意味を示すことと意味を表すこととは違う。意味は誰でも示せるが、表すのは困難だ。)
 あなたの感覚的認識よりも確かなことである意味というものは、実に巨大な無意味な世界に取り巻かれていてその中にすっぽり包まれているからこそ、意味を示す(使用する)ことが重要であり、確実なのだ。
 例えば発声される音自体に意味はない。音に意味を付与することは、その次の段階(ステップ)である。廣松渉や祖父江孝男は、人間の言語をシンボル的機能と捉える。W・ジェームズその他のプラグマティストやウィトゲンシュタインら論理実証主義者たちは共通して言語を道具として捉えた。しかしそれらは一切があくまで音声と意味が一致したものである、という前提に立っている。少なくとも言語が今日のような形で成立した以降の言語の在り方である。
 鈴木大拙が述べているように(「日本的霊性」より)、日本人に大陸から仏教が齎された以前から、既に仏教を受容する素地があったからこそ、我々はそれらを自己の文化として採り入れてきたように、人間という種自体に既に他の霊長類にはない、発声による音楽的律動を意味と「連動させて」発声行為をなす能力があったのだ、と考えられる。そしてそのような発声行為を全成員が共有して快感を得ることもまた能力的に可能だったのだ。(ここでも「合わせる」ことの快感が集団同化意識と関わる。)
 サピアのネイティヴ・アメリカンの諸言語を含む世界の言語が持つ飛び火現象的な音韻と意味との配列規則の数々の例証には、言語が前意味的な状態においては、発声による音楽的律動性そのものに対する快感覚知の事実を物語ってはいまいか?
 発声すること自体が快感を齎すことは既に周知の事実であったが、音と意味を一致させることが更なる快感を呼び起こすことに我々の祖先は覚醒したのだ。
 一方エクリチュールの原形は人間によって行われていた。とは言えそれは絵と寸分たがわぬ物であった。しかしそれを通してその絵に描かれた対象を認識するという意味では、それは紛れもないエクリチュールであった。勿論それはまだ象形文字ほども文字化されていたわけではなかった。だから当然読むためのものではなく、発声することで意思疎通することへと転化されることもなかったであろう。要するに視覚的な記号であり、見て認知するのである。
 それとは別個に発声の音楽的律動行為が行われており、二つの行為(絵を見ることと発声すること)は別個の行為だったのだが、それをある時、絵文字による対象の意味理解と結び付けるような偶然的な発見がなされたのだ。つまり絵文字の定型に対して音を対応させたのだ。いったんそれが意味理解の快楽と発声律動の快楽とが一挙に行われると、先に例えようもない快楽倍増がなされてゆくのだ。その時初めて人間は対幻想的な意思疎通を相互の「なんじ」に対して遂行し得たのだ。異なる行為の連動が自己と他を結びつけた。
 全体的直観は言葉では表現し得ない。それを全体的把握として捉える時、そこに意味を生じさせることとなる。それは恐らく何かもっとそれより大きな別の世界にその全体を一部として位置づけながら把握した時に初めて意味を生じるものである。
 言語の誕生は、絵文字が一定の定型として定着し、完全記号化された時(それは恐らく文字表記と発声とが一定のルールによって対応しつつ執り行われることが定着し、エクリチュールがパロールの為の方策として認識されていった時点からであろう。)に、それを意思疎通の手段として認識し得ることが全成員に覚知された時であったのではなかろうか?ここにも共同幻想の快楽的覚知の例が見られる。
 ここでちょっと宗教と言語との係わり合いについて考えてみよう。
 端的に言えば、宗教心とは人心において、ある種の諦観、諦念を抱く局面、全ての人間の努力を水泡に帰すような外部自然界の脅威、疾病の流行(伝染病その他の)、あるいは恒常的な老化現象と成員の死といった経験から発生するものであろう。(人間存在の不完全性に対する認識が後に神に対する認識<完全な神は存在する筈だ、しなくては矛盾している>を招聘したのだ。)さて個々の成員が宗教心を持つことはともかくとして、共同体全体の人心の統一といった統括的な意図から生じる共同幻想としての宗教信仰心は、しかし、言語活動誕生からかなり経ってから、かなり文明が熟してきてから、あるいは幾つかの文明が滅んだりしてから後のことではなかったろうか?何故ならそれは統率するのに合理的な認識が必要になるほどの人口の増加を要するからだ。
 つまりまずブーバーの言うような意味での関係の世界をつくっている三つの領域の中の第一の関係、自然との生活から、そして第二の人間との生活である。第三の精神的存在との生活は、宗教心及び哲学的思惟確立後のことである。とりあえず外部自然からの脅威は、天変地異であり、第二の人間との生活における脅威は他者成員から齎される疫病、伝染病といったものの存在である。この二つは連続性を持っており、分かち難いものである。
 レヴィ・ストロースが再考したトーテミズムとは宗教心によるものではなく、前宗教的、宗教派生可能性をさえ有する根源的な人間の自然との間で取り交わされる生活から生じたものである。
 故にそれを原始宗教と呼ぶにはあまりに易しいが、実際上どのような特定の宗教、宗派に属さない無神論者でさえもが、それを持たずには認識作用そのものを成立させ得ないような基本的な思念としてトーテミズムは考えられて然るべきものである。寧ろ今日宗教と呼ばれるものを考慮に入れると、それはあくまで国家権力というものの介入以降の秩序、言ってみれば人身掌握のための方策としての国家戦略として位置付けることが可能である。それは現代のように潜在的意識における<脆弱な「個」と群集心理>の時代においても変わりない。しかしトーテミズムという文化人類学者たちの認識の中には明らかに国家的規模以前的な共同体の成員の婚姻システムやら生活上の道徳規範というものと不可分な共同幻想という側面が強く、それは意図的な人心掌握であるよりは、自発的な自己規定性として共同体全成員に宿っている精神と考えてもよいであろう。恐らく羞恥感情もここに起因するものであろう。
 だからこそ逆に仏教やキリスト教の教義の出発点となった釈迦牟尼やジーザス・クライストの考え方の中には本質的な人間理性の出発点を見出すことも可能だし、個人のイデアという側面から今後宗教思想を捉えることも無意味なことではあるまい。事実ブーバーという一人の宗教哲学者を考えてみる時、我々はそこに個人としての思想と国家以前的初期共同体幻想としての文化コードとの壁を感じるよりは、寧ろ積極的な融合を感じることの方が多い。それは例えばトルストイのような社会思想家、教育者、文学者のスタンスの中に感じるものとも寸分も違わないであろう。
 ブーバーが「なんじ」と言う時、そこにはカントが道徳的法則を至高の最高善として、まるでイデアの如く捉えたこととも近い心理がある。そしてブーバーが「なんじ」と言う時の心理は真理に対する心理である。しかもそこにはカントといった西欧哲学の先達だけではなく、釈迦牟尼の考えとも大きく重なる認識があるのである。例えば、彼が「我と汝」において次のように言う時、それは顕著である。ブーバーが語る次のような一節には明らかに釈迦牟尼の影響を思わせる。仏陀という存在の根源にはユダヤ教やキリスト教といった異教と一線を分かつことよりも寧ろそれら一切を包み込む大らかさがある、という考えが彼にあったのではないか、とさえ思わせる。
「(前略)たしかに、存在と向かいあうために、もはやいかなる存在にも執着をもたなくなったひとこそ、存在に向かって歩みでてゆくにふさわしいのではないだろうか。(中略)_どうして孤独になったか、その理由にもとづいて孤独は二種類に分かれる。ものを経験し、利用することから遠ざかることを孤独と呼ぶなら、これはたんに最高の関係ばかりでなく、およそ、すべての関係の行為をなすために、孤独はつねに必要となるであろう。ところがもし関係を断つことが孤独であると考えるならば、相手に向かって真に<なんじ>と語っているにもかかわらず、相手から見捨てられた者を、神はけっして見捨てることはないであろう。反対に、相手を利用しようとする欲望をもつものは、相手のあれやこれや執着する。しかるに<なんじ>の現存の実現すべき力の中に生きる者は、相手の存在と結合することができる。かかる結合をなすものこそ、神に対するそなえをなす。なぜならそのようなひとだけが、神の現実に人間の現実をささげることができるからである。」(131ページより)
 ここで神という一語を除かせて考えるなら、仏陀の考えた真理への道にも直結し得る。
 ここには当然のことながら、ユダヤ教徒としての人間ブーバーが宗教的な教義性から離れた一個人としての見解がある。それは私のようなキリスト教徒ならざる一個人にとってモーゼも、ジーザスも聖ヨハネもパウロも一個の個人として認識しようと欲する考えからは必然的な捉え方であろう。吉本が「共同幻想論」において言うような意味で「古事記」がある歴史構成的な国家意図によって神話化されたもの(あらゆる神話というものはそういう一律的な神話形態の流布行為という傾向があると文化人類学では考えられている。)であるような面からは、私はその考えを捉えてはいない。確かにキリスト教にはギリシャ正教、カソリック、プロテスタントといった個々の教義はあるし、他にも偶像を禁止するイスラム教などの教義的な世界観の相違はある。しかしもっと現代にとって大切なこととは、彼ら預言者、布教者いずれもが、個人であった、ということである。それは哲学から思想を俯瞰する立場の私のような人間からは極めて自然な認識である。またもし彼らの教義が宗派毎に異なって解釈されてきたとしても、その当時その神話が形成された時代にあった国家権力と不可分の強制的な宗教コードとは一線を画す宗教行為として彼ら予言者が位置付けられる以上、彼らの存在自体は我々にとって益々個人として立ちはだかる。
 ブーバーは民俗出自的にはユダヤ系ドイツ人であるが、その哲学展開において、引用されるのは西欧哲学から仏教、ユダヤ教、キリスト教といった広範囲に至る。それは一面では彼の哲学の豊饒さを示すと同時に無常性に我々を誘う部分がある。彼にあっては恐らく哲学も思想も宗教も、人間の根源性に起因する大きなうねりの中の一駒でしかないという意識が濃厚にある。それは西欧哲学が時代的変遷と共に獲得した命題であると同時に、東洋哲学では直観的に早い時期から捉えられてきた「空」とか「無」とかといった概念と西欧哲学の邂逅という事実として捉え得るであろう。
 西欧哲学には懐疑主義という考え方があるが、少なくとも仏陀に関する限り、懐疑論は否定されている。仏教全般にそういった考えが張り巡らされているかどうかを私は知らないが、仏陀のこの考え方は悟りという境地を考えていた彼にしては、とても象徴的な思想ではないだろうか?つまり思想というものが、どこかで善意志(カント用語)の持ち主だけが、つまり師匠についた大勢の弟子の中でも見開かれた目を持つ一際秀でた者のみが体得出来る真理というニュアンスを想起させる。昨今SNS(social network service)というものが伸して来たが、このシステムでは会員の紹介、推薦という手続きを経なければ加入出来ないということから、ネット社会が定着していた頃は、どのような個人も無料で検索出来るシステムに革新的な存在理由があったのだが、このSNSはその潮流を逆手に取った手法である。特権的なサークルを斡旋するシステムだからである。その意味で仏陀もまた、彼の真意を汲んで彼の思想を後世に伝え得たのはごく一部の弟子たちであったと思われるが、西欧哲学のある種のグローバリティー(ネット社会的)とは少々毛色の異なった思想伝達に関する考え方を、恐らくブーバーは取り入れたのではないだろうか?つまり西欧哲学では以心伝心とか暗黙の了解といったことは、流儀としては受け入れられない、だからこそ懐疑主義もまた出現したのだろう。仏陀は懐疑主義を否定している。ブーバー哲学もまた懐疑主義への離別意識に裏打ちされている。二人の言葉を並置してみよう。まず仏陀の考えを中村元の訳からここでブーバーに対して提出してみよう。

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執と言われる。
437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、
438 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
439 ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、彼にうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。(中略)
441 ある修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。
*
「649 (姓名は、かりに付けられたものにすぎないことを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンになのである』と。
650 生れによって<バラモン>となるのではない。生れによって<バラモンならざる者>となるのでもない。行為によって<バラモン>なのである。行為によって<バラモンならざる者>なのである。
651 行為によって農夫になるのである。行為によって職人になるのである。行為によって商人になるのである。行為によって傭い人となるのである。
653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。
654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。_進み行く車が轄に結ばれているように。
655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、_これによって<バラモン>となる。これが最上のバラモンの境地である。
653 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人々は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈〔と見なされる〕のである。ヴァーセッよ。このとおりであると知れ。」<三つのヴェーダ*仏教以前では三つのヴェーダのことを意味していた。普通仏教で「三明」とは、宿明通(自分及び他の宿世の生死の相を知る)と天眼通(自分及び他人の未来世の生死の相を知る)と漏尽通(現在の苦のすがたを知って一切の煩悩を断ずる)をいう>
 ブーバーへ行こう。
「さてわれわれは、断念しなければならなかったあの状況への応答をいい加減に済ますことはしない。会得した状況はけっして適当に済ますわけにはゆかなくなる。われわれは生きた生の実体へとこの状況を導入させるようになるのだ。ただこのように瞬間に誠実であることによってのみ、われわれは瞬間の総体とは全く別の人生を経験する。われわれは瞬簡に向かって答えるが、同時に、瞬間にたいして責任を負う。新たに創造される世界の具体性は、われわれの掌中に委ねられている。われわれはこれに責任を負っている。犬があなたを見つめたとき、そのまなざしに答えるがよい。子供があなたの手をつかんだとき、その触れ合いに答えるがよい。群衆があなたを取り囲むとき、彼らの苦しみに答えるがよい。(「対話」201ページより)

 二人に共通するところは修行者として学徒として、他者と接する時、その人なりの接し方があり、それはちょうど茂木健一郎が「意識とは何か」で述べている、例えば一人の女性が同時に子供にとっては母親であり、母親にとっては娘であり、友人にとっては同級生の女子であり、といった多層的な人格と性格と心理によって形成されているように、他者に対して接することはそれ自体で多層的な自己の人格を発現させることに他ならず(そのことは三原弟平氏が「ベンヤミンと女たち」<青土社刊>でベンヤミンと三人の女性との邂逅によって適格に指摘している。またこの主張を見ると、まるで西欧の実存主義はこの仏陀の考え方を移入したのではないかとさえ現代から見ると感じられる。)、それは師でも弟子でも同じである、ということ、そして行為が人格を形成するのであり、人格が行為を作るのではない(そのことを我々は日頃権威という名の下に、権威者に対して信用することで忘れがちである。どのような賢者も愚行を犯すことがあるし、どのような愚者も立派な行いによって向上する。)ということである。(二人の素晴らしい言述はもっと多くの例証をしたいところだが、それは今後の私の課題としたい。)、そして多層的な人格形成は悪いことではないということである。我々は無理にそこを統一したがるのだ。だから仏陀が言うこの場所というのは私が多層的な人格形成によって自己の対他者の可能性を発現させる意志という風にも解釈出来るのである。そこで仏陀とブーバーとの間に橋が架かる。
<仏教では今生を苦と捉えていて、その苦から開放されることが至上の至福であるから、来世を信じるユダヤ・キリスト教的宗教観とは異なる認識があることも確かであるが、それでも尚、私はそこに何か普遍的な宗教的波長の邂逅があるのではないか、と思うのである。私のこのブーバーと東洋哲学との相関性の考察は未だ始まったばかりである。しかし私はそれを専門的な研究課題にする積もりも今のところない。私にとって先述のブーバーと仏陀の関係には直感的な私とブーバー、私と仏陀との係わり合いから引き合うと感じるだけである。しかしブーバーの記述にはハイデッガーからインスパイアされた部分も多分にあるだろうし、サルトルへと影響を与えた部分もあるだろう。そして彼へのアプローチの場合、恐らくヤコブ・ベーメ、プリーストリ、ヤコービ、シュライエルマッヘル、キルケゴール、ロッツェ、ヤスパース、マルセル、レヴィナスとの哲学上の相関的考察もきっと意味あるものと思われる。しかし私はまず一人一人の哲学思想との出会いと係わり合いを大切にしてゆきたい。その際に個々のケースから考えたいし、またそういった考察は今後の課題としたいが、あくまで体系的哲学の把握はどなたかにお任せしたい。>
 例えば、人は美味しいものを食べたいという欲求がある。しかし世の中には美味しいが摂取すると害になるものも多い。いやどんないい食べ物でも好きだからと言ってそればかり摂取し過ぎていては害毒である。だから身体にいいものを程よいバランスで採るというのが理性的判断であろう。しかし恐らく太古から酒に溺れる人、極端に偏食する人、あるいは悪癖から抜けられない人はいたのだ。しかしそれを闇雲に否定する作法では、人はそこから立ち直れるものではない。本当に何かに耽溺している人は、きつく言われると却って依怙地になるものである。テストステロンが放出されて攻撃的にさえなる。そこで、よい行いをする人、節制する人そういった立場の人も、そうではなくつい何かに耽溺する人、自分の心を傷つけてしまう人、要するに悪い行いをする人をも包み込むような包容力があり、自分の過ちを適切に、しかも優しく教え導くような神性を人間社会が求めたのであろう。そういう意味では名前の残っている全ての宗教家、預言者はそういう包容力があったのである。だがもしそういう存在が周囲に見当たらなかったなら、天上に架空の万物の創造主を仮想する。Omniscienceというのはそういうことなのだ。宗教とは意外とこのような単純な心理に本来は支えられていたように思われる。人間がいつかは死ぬということは誰もが知っているが(ルソーによるとそれを知るのは人間だけである。)、未だ老齢に達していない内に、病没する人がいたから神に救いを求めたのである。(だからそういう苦境にある時神に縋る人間の心理を我々は笑うことは出来ない。それで気が少しでも和らぐのなら積極的にお祓いでも、お祈りでもすべきである。)
 人間は下等な動物のように殆ど自動的に自然環境の変化に対応して行動パターンを決定され、それを踏襲しているだけの生物ではない。巨大化した脳は時として不遜な、背徳な想像さえする。だがそういったあらゆる不遜な想像をする能力、つまり可能性を考慮に入れる能力こそが自然科学をも発達させてきた。だが、最近の動物性科学の世界では、本章の初めの方で述べた「番の衝突」を人間ばかりか殆ど全ての動物が行っていることが次第に明らかになってきた。動物もまた異性との駆け引きをするのである。ティム・バークヘッドの言葉を借りると、性というのは全ての動物にとって葛藤なのである。(「乱交の生物学」新思潮社刊)そしてその本意というものは人間とて動物と同じなのだ。しかし人間はいろいろその事態に人間特有の行動であるかのように名前をつけてきた。羨望、嫉妬、和解、解消というように。しかしそれもまた人間が考える力があったからである。
 しかし人間は同時に長い間宗教への極端な信仰心が、人心の統一という美名によって却って人間を特異な、動物よりも一層上の地位へと押し上げた。それは人間のただの思い上がりである。私は元祖宗教家を皆尊敬しているが、宗派それ自体にはあまり関心がない。それは社会学者や宗教学者、神学者に委任しようと思う。前にも触れたが彼ら元祖の宗教家は皆孤独だったし、個人の努力でそこまで到達したのだ。しかし動物は動物でしたたかな戦略の持ち主だ。そして人間は恐らく動物よりも悪癖から抜け難いという部分もあると思われる。(人間には意地とか面子とかの特有の心理がある。)しかも人間は自分たちを締め付けるようなやり方では何も納得しはしない。それは歴史が証明している。歴史上独裁者に締め付けられる民衆の方が正しかったこともあるであろうし、独裁者の言い分の方に部がある場合もあったであろう。しかし少なくとも人間は誰しも自分の関心を持てぬことにはなかなか精神が集中しない。関心の持てるもの、魅せられるものに引き寄せられ、そこからしか何も始められないのだ。恐らく苦手なことは後回しにするような精神構造になっているのだ。それが正しいことだからと言って嫌なことばかり無理して行っていると精神的ストレスが溜まり、一気に炸裂する。多くの衝動的犯罪とはそういう経緯によるものである。だから魅力ある関心事に対して人間はもっと敬意を払っていい。(結論でそれに触れる。)
 人間が国家を形成せてきたのは、実はその人間の脆い傾向性とか、信心深いこととも無縁ではない。そして国家という形態の形成というものは敬語の発生でも触れたが、それ自体は上位者でも、下位者でもなく中位者の力が大きいということはマックス・ヴェーバーも考察してきているが、私なりの考えを本章最後に触れようと思う。その前に私たちが制度的な受容力を積極的に適用するという事態について暫く考えてみたい。

 私たちは楽しいことは強制されなくてもやり、そうでないことは強制されてもやらない。しかもこの楽しいことの代表と考えられるセックス以外にも、セックスがなくてもセックスくらい身体的なオーガズムを感得するものがある。それが音楽である。そして語感だ。
 性的快楽への肉体的な受容の発動は、身体生理学的なリビドーにおける段階的なステップアップ、つまり前戯、本番、後戯といった音楽的秩序、つまりプレリュードからクライマックス、最終章へと至るプロセスとの相同性を保有している。これは例の日本語の中に定着している四文字熟語の受容性とも恐らく関連があるであろう。
 使用頻度の大きい語彙は記憶しやすさということが求められる。それはキャッチーな(覚えられやすい)キャッチコピーということである。新聞の見出しもそれと同様である。覚えられやすさは同時に印象に残りやすさである。
 ポピュラー・ソングはかつてそのような意図で作られていたのだった。
 今日難解なメロディーラインのJ―PОPSが多いと一般人に思われているのは過渡期的な状況にポップス界がある、ということかも知れない。つい昨今世界のポピュラー音楽関係者に対してアンケートが採られたが、世界を震撼させた500曲の中で大半を占める180曲位を60年代の曲が、次いで130曲位を70年代の曲が占め、90年代以降のものは僅か数曲にしか満たなかったという。
 音楽の快楽は唯一、性以外の純粋な快楽的欲望である、とはよく言われることである。ここに音楽と言語が実は同根である、ということがもし立証されるなら、快楽とは性と性以外のものという二種になる。一つはセックスの快楽、もう一つは音楽を聴いたり演奏したりすることをも含む言語活動の快楽である。
 人間が職場において現在働いているように、かつて人類が伴侶並びに子供を養う為に長期単身赴任の必要性から、性的抑制機能の進化が言語使用の発達と同時に起こったという可能性を認めるなら、生理学上の論理矛盾を何らきたしはしないであろう。性的抑制メカニズムがもし性的快感と比べて際立って不快であるのなら、我々は職場において職務に邁進してはいられないし、人類は文明を築き上げてはいなかったであろう。そういう意味において言語活動が原初的に、ブーバーの言うような「われ‐なんじ」の、あるいは吉本の言うような「対幻想」的な営為であるなら、我々は気持ちがいいからセックスをし、また気持ちがいいからセックスを我慢も出来るのだ。(それは我慢した後のセックスが気持ちいいだけでなない。我慢するという行為それ自体も気持ちいいのだ。)セックスを我慢すること自体がセックス以外の最も気持ちの良い行為(音楽と言語)であるのなら、我々はこの二つの現実を人生においていともたやすく取り入れられ得る。初期人類にとって、恐らく言語活動は音楽同様最も快感を伴うものであったが為に長期単身赴任さえもが、耐えられ得る行為であった、というのが本章の主旨である。またそのように家族養育の必要性から我々の祖先たちはセックス以外の人生の時間にも快感を得るように選択圧を受けて、それを快感となしてきたのだ。
 よく言われることであるが、メロディーが枯渇するというような自体は恐らくありはしまい。今日のJ‐PОPSにおいて難解と捉えられるものの大半は、かつて音楽においての心地良さとはまるで考えもせずに受容出来る言わばセックスのように気持ちいいメロディーであった筈のものが、もう一つの気持ちよさである言語‐音楽の層に属する性的抑制機能性と相補的な仕事への集中促進作用を齎す側の快楽へも進出しつつある、とは言えまいか?(勿論全てがそうだとは言い切れないが。)つまり音楽が過渡期である、というのは、我々が快楽とは今までは呼ばなかったものにおいてまで快楽を見出さざるを得ないほど多くのメロディーが今までに産出されてきた、ということを物語ってもいるのだ。音楽のメロディーを心地良いものとして受容することとは、一つの受肉である。

 サルトルやメルロ・ポンティーが「受肉する」と言った時、彼らはそこに不快感があるものとしては認識してはいなかったであろう。ごく自然に受容することが出来る、という現実がある。快感を持って受容することを受肉と呼ぶのではなかろうか?
 身体生理学的に快感であることは、一面では脳内でも快感である、ということを示している。我々が性に纏わる感触を快感であることと同様に、例えば難しい数学の問題を解いた時に感じる快感というものもまた同じ脳内による快感である。これを左脳とか右脳とかで判断すると、多少難しくなる。というのも数学の場合、あくまで論理思考というものは左脳とされるが、多くの数学者たちは脳を解剖してみると、右脳型であることが判明されている。それは医師でも同様である。ここには論理的な理解というものが、筋道立てて理解するということ自体を支える何らかの非論理的な根拠のあることを示しいている。
 理解出来た時に示す快感を、脳学者の茂木健一郎は、「アハ体験」と呼んでいるが、このような快感自体が、では他の快感、例えば性の快感、あるいは音楽を聴く時の快感とどのような関係があり、バイオリズムを持っているか、という問題において本論では、どうも言語は音楽と関係があり、言語習得もそうであれば、我々が日常新聞を読み印象に残る見出しのフレーズやキャッチコピーを記憶する時、その響き自体にある種の快感を持ち、そういうものは苦労して記憶するのではなく、難なく受け入れることが可能である、そのような経験自体も関係があるのではないか、ということを提案しているのだ。
 理解するということ、眉間に皺を寄せてやっと飲み込めた時の喜びは、あるルールに、ある直線に敷かれたレールに乗っかることが出来た喜びに近い。それは選択以前の問題である。理解することとは、意志のサヴァイヴァルであるから、旅先で乗り継ぎに予想外に時間を取られ、中継駅周辺を次の列車が出発する時間までそこら辺を散歩しようかな、というような悠長な行為選択とは訳が違う。そして理解し得た快感とはルールに、レールに乗っかることが出来たことに対して持つものである。そのことは人間がある枠に自己を当て嵌めたいという性向があることを証明している。
 例えば世の中には、当たり前のようでいて、よく考えると、つまり論理的に突き詰めてゆくと解決不能な問題はたくさんある。意味を理解することが極めて難しいのである。そうかと思うと、今度は逆に最初は難しくて何が何だかさっぱり解からないのに、いったん脳の回路が繋がり、何もかもが一挙に理解出来たら、もう二度と忘れないような事柄もある。例えばある種の法則とか理屈とかそういうものである。
 
 カントが言う分析的命題とは、例えば「何故我々は両親を敬わねばならないのか?」とか「何故人間には愛が必要なのか?」というような一見解かりきったようでいて、あるいは絶対正しいと知りながら、ではそれを何故か説明しろ、と言われると途端に言葉に窮するような性質の問いのことを言っている。論理的に問い詰めるようなやり方ではどうしても、我々の持つ論理の方が追いついていないということを示しているのである。そういったものを認識する仕方としてカントは実践理性と呼ぶものを提出している。例えば誰か異性を好きなる、友人を好きになる、という事態は考えてそうなっているわけではない。いつの間にかそうなっている。考える前にそのような感情を抱くものである。
 ところが今度は、カントが言うもう一つの綜合的命題というものとは、分析的命題というもの自体をいったん不問に付し、つまりそれ以上問い続けることを回避し(エポケー)、取り敢えずそれは真理なのである、ということを前提として、それらを積み上げて論証しようとすると、個々のケースにおいては矛盾なく、論証し終えることが可能なものである。
 例えば困った時には他人を助けることが何故真なのであるのか、というような倫理的な問いは具体的な問いであるので、分析的命題を認める限りで論証可能である。愛や尊敬心も個々の具体的なケースにおいては、何故それが正しいかということは論証可能である。
 このようなものを認識する仕方としてカントは思弁的理性と呼ぶものを提出している。
 このような問い自体はいつの間にか誰かを好きになる快感(これを苦痛と捉える考え方もあるが、苦痛もまた快楽の一つである、とドストエフスキーが言っているように、苦痛というものは快感という枠組みの一種である。)というものとどのように関係があるのだろうか?この二つは一見全く異なった認識であり、同一レヴェルではないように思われる。
 少なくとも分析的命題を真であると論証することは今のところ不可能であるように思われるので、快感は伴わないであろう。しかし少なくとも綜合的命題に関しては、構築性の問題であるから、それを論証し終えること自体には快感が伴うであろうことは予想されよう。そして実際は我々の脳内ではこのような難しい論理を理解する時にも、例えば難しい経済記事を理解する時に、解かりやすい見出しに助けられて理解することがあるような意味で、我々はある種のキャッチーな何物かを頼りに理解しているのではないだろうか?そういった理解し終えた時の快感というものが確かにあり、それは何か異国の文化、例えば衣裳とか音楽とか工芸に触れた時に、ある懐かしさにとらわれ、いっぺんに好きになるような時に我々が経験する思考の末に辿り着くようなものではない衝動的な快感が一方であるからこそ、そういう眉間に皺と寄せて考えてから得られる快感にも意味が出て来る。努力を要しない快感は、思考を巡らせやっと理解出来た快感を誘き寄せる。理解出来た時には我々はそれまでの苦労が笑い話になるようにどこかへ吹き飛んでいる。その時の快感はいっぺんに何かに惹きつけられる時の快感とそんなに違わないように感じられる。
 経済や数学の難解な命題を理解する時に、具体例を挙げて筋道立てて考えると理解出来ることがある。その具体的な理解の仕方というところに何かキーとなる要素が潜んでいる気がしはしないか?
 言語学者サピアは、ある意味ではそのような快感と結び付けて我々人類が言語活動を営んできたということを例証しながら、その正体解明への里程標を示したと言うことが出来る。音韻規則も、接頭辞、接尾辞といったものと語彙の関係も、統一された規則内で言語活動をしなければならない言語共同体の成員間で覚え難いものであるなら、ただちに淘汰されていった筈である。どのような言語においても、個々の言語独自の構造論的な事情があり、その限定された条件の中ではいたって合理的にワーキングメモリーとして位置づけ可能なものとして案出されている筈なのである。何か理解し難い難問を理解しようとする時、理解しやすい具体例をあげて考えることには、個々の言語において各自の言語構造の事情に限定された合理性というものと共通性があるのではないだろうか?
 このような音韻規則においては、このような文法である方が使用しやすいとか、このような統語論的な規則においてはこのような音素の連続は使用しやすいとか、このような文法規則においてはこのような意味の表示には適しているからこそ、この言語においてはこのような学問が発展した、といったことがあるのかも知れない。
 そのような利便性自体もまた吉本の謂いを借りて共同幻想と呼んでもよいのではないか?
 
 意識上か無意識上か(この意識と無意識の区別には問題はある。だがここでは一般的に考えている。)は、ともかくとして、利便性そのものにおいて、性行為が繁殖目的上の必然性から言っても誘引作用としても快感を伴うようになっているのと同じように、繁殖行動のために一緒に住む家族を養う生活の基盤を作るためにゆとりを持って狩猟その他で同性の仲間と出掛け、狩猟を円滑に進行させるべく意思疎通する為になされる言語的思考もまた快感を伴うようになっていると考えることは理に叶っている。そこに音楽と言語習得、言語活動とが同根であるという考えを採用すると、そこで興味ある事実も、幾つか発見出来る。
 元ビートルズのジョージ・ハリスン(1943~2001)は、リード・ギタリストとしては、インド音楽的な要素を数々導入したと同時に、ピジン、クレオールのメッカであるカリブ音楽風のテイストを持っているし、ハワイアン風の演奏スタイルもある。彼の音楽はインド音楽から啓示を受けた部分と、カリブ、ハワイアン風と、ロックンロールを出発点としたブルーノート(ブルース進行の音楽コード)とが合体したところに独自性があった、と思われる。しかしこれは一見すると奇異に思われる向きに対しても次のような見解も考えられる。
 というのはハワイアンを例に挙げれば、フラダンスという伝統芸能がすぐに想起されるが、フラダンスというものはそもそもハワイを訪れたスペイン人がフラメンコを踊って現地住民に披露したことに端を発しているという。そのフラメンコとはインドを発祥地とするジプシーが考案した音楽であった。インド音楽に開眼したハリスンがインドを発祥とするジプシーのフラメンコから影響を受けたフラダンスを伝統芸能として有するハワイアン音楽をエキスとしたギターワークを資質として持つという事態は、極めて音楽上のピジン、クレオール化においては自然な成り行きであるし、またカリブ海には昔から多くのインド人が航海していたという事実もあり、そのように異なった地域で発祥した音楽同士が融合する場合その融合が自然になされるに必要な相性というものがある。そのように融合される場合には、そもそも融合される対象間にその異質なものを受容しながら融合を自然なものにするべき相性的な要素がDNA的に備わっていたという事実が考えられる。
 それと同様、一個の言語自体も他の言語と邂逅し、融合する過程が多々見られることを考え合わせる時、これもまたその融合を円滑にするために最も有効かつ合理的な融合の仕方を誘引するようなDNAが融合する両言語間にア・プリオリに備わっていたと考えることは極めて自然である。快感を伴って受容されるという現実がここにもある。無理なくある不動点に落ち着くということはア・プリオリな言語、音楽の資質上のDNAに掛かっている。これはうろ覚えのことだが、ハイチかどこか中米の国ではドラムを使用することを国家が法的に禁止していた。それはドラムが革命戦争行進の誘引材料として作用することを支配者が恐れたからである。このことは関係と偶像という人間社会の宗教心統一が要求される事態においては、言語が人間にとって性に拠らない唯一の快楽、音楽の共有から引き起こされた身体記憶が、今度は国家の転覆と新たな国家の建設という事態を引き起こすことを支配者が恐れたとしてもごく自然なことである。何故なら彼らもまたその国家を築いた時には自分たち権力の歓びを無意識の内に人民にも共有させるべく音楽的熱狂でもって(例えば「J民党をぶっこわす。」、「人生いろいろ、会社もいろいろ。」と言うように)誘導したのだから。

 まず覚えやすいものを覚えるという無意識の選択をして、次に眉間に皺を寄せて考える(思念)ことへ時間を割くことが人間の行為の基本的順序になった。まず覚えたい事(関心)をして、次に覚えたくないことに着手する。
 自我という言葉は我、サンスクリットのアートマンから来ている。これは心身の基本原理である。これに対して梵(ブラフマン)が宇宙の最高原理とされる。ブーバーが大我没入と言うことは、要するに心身が宇宙の原理へと合致する境地のことである。これは西田の当為とも一脈通じるものがある。
 そのような理想を哲学者たちが、思念上で思索することは、思考力を人間が獲得したということ、言語というものを自己の武器として取り入れたということが大きく関係している。我々の祖先である初期霊長類は四足歩行者であったが、それより以前に当時地球上で大きな変動があって、森が誕生する。その森で地に這うようなことではなしに、恐らく食糧確保のためであろうが、樹上生活する内に四足歩行の経験が徐々に減少し、樹上にぶら下がったりするようになるに連れて手が他の霊長類よりも長くなる。その際視力と焦点化作用が向上していったという事実も見逃せない。初期霊長類においては眼窩後壁と呼ばれる眼球の周囲を支える部位はない。それが備わったおかげで我々の祖先は物的対象を見る力を養うことが出来たのだ。最初は手がたまたま長かった種がただ樹上生活選択した、ということだけだったのかも知れない。しかしいったんそういう姿勢で生活する習慣を身に付けると、四足歩行する種が使用する前肢が短く太い形状から長く細い形状になるに従って、それは歩行用途から解放される。また腰と脚も四足歩行的な屈折から開放される。しかも四足歩行者たちが地面を跳躍する時に脳に与えられる衝撃を緩衝するために、脳自体を巨大化することが不可能であったものが、樹上生活者たちは直立に近い姿勢でいたために、身体全体で脳の重量を支えることが可能となったために、脳が徐々に巨大化してゆく。また大きな地殻変動が起こり森は荒廃し、平原となって人類の祖先たちは樹上生活から追い遣られる。その時その不可避的状況から直立二足歩行することが現実的に要求されるようになる。手は最早体重を支えることに奉仕する必要性がなくなっていたから、森に残ったチンパンジーたちでさえ、既に完全に直立ではないが、二足歩行することは出来た。しかしチンパンジーたちは手が複雑な用途に適する形では進化しなかった。チンパンジーたちは親指と他の指を協力させて、物を巧く掴むことが出来ない。親指と人差し指を人間のように容易には力を込めて接触させることが出来ないのだ。バナナ持つ時も純粋に指同士を摘むようにすることは出来ず、掌か腕を曲げて身体ごと抱えるように持つ。
 現代人が携帯電話の使用頻度が増してきてから、親指を使用する頻度が増したことで、脳内を活性化することが多くなった、という報告もあるが、初期人類は手によって体重を支える用途から解放させ、特に親指を複雑に動かすことが出来るようになったことから、手によって何かをなすことが可能となった。人間はそれ以前の類人猿に比べて咀嚼力そのものは減退している。その代わりに脳に衝撃がかからないようにするために、人間の脳が更に発達し巨大化し、今度は脳の発達によって(最早跳躍したりする時の脳への衝撃は直立二足歩行によって解決していた)手を使用して、火等を使用し、硬い食物を柔らかくすることも可能となり、料理という一つのアートを手中に収め、衝撃の大きい咀嚼をする必要性から解放されたのだ。(後には固い食料だけではなく、穀類のようなものも食すようになる。その際にも手で作業することの必要性に対して手の活動の活発化は更に促されたであろう。)いったんそうなると手は万能な役割を果たし、サヴァイヴァル的な用途だけではなしに、絵を描いたり、異性を愛撫したりする細やかな動きとか感情表現にも使用されるようになる。手を使用して何かを創造することが発展して最初は単純な工夫であったものが次第に複雑化してきて、工夫に工夫を重ねて本来ならただの加工であるものが「料理」となっていった時それを「文明」として意識することにもなるし、また絵を描くことが、工具を作ること自体が芸術や工芸というアート「創造」という意識を自己に対して芽生えさせ、そういった自己の行為への意識が自然界全体への把握方法において、自然自体を創造物と認識する道を開かせ、そこからあらゆる客観的な客体認識と他者認識を、つまりブーバーの言う「われ‐なんじ」の関係、「われ‐それ」の関係を構築することが可能となったのだ。そこからあらゆる自己行為と自然界との関連を模索し、更に人工的な創造を積み重ね、科学とか哲学とか芸術を進化させてきたのだ。その際「見る」とか「炙る」とか「作る」とか「変える」とか「仕上げる」、「込める」というような観念を生じさせながら、そういう語彙を創出していったであろうことは容易に想像がつく。
 そういう意味では体重を支えるために頑強ではあるが、繊細ではない前肢を全くそれまでの用途と異なった用途へと転換させた事実こそが、親指と他の指を協力させて、複雑な動きをすることを可能にした。そういう事態こそが最も人間の言語的認識へと大きな跳躍となっていった、とも考えられるのだ。
 手で料理を作ったりすることは咀嚼に要する強大な能力を失った非力な人類にとって止むに止まれぬ行動であったであろう。しかしこのことが結局人間は快感を何の努力もなし本能的動作だけで得られる動物的な頑健さを失うことによって、頭を使って何かをなす、頭を使って手を利用し、最初から得られないような種類の快感を工夫して得るようになった事実から、「知恵」、「工夫」、「労働」の観念を発生せしめたのだ。労働は眉間に皺を寄せて物事を考え、その摂理や法則を理解する時に得られるア・ポステリオリな快感と似たタイプの快感である。考えると言う行為、つまり思念とは眉間に皺を寄せて得られる快感であるが、それは綜合的命題でさえ、身体全体を使用して何かを作ることに比べれば分析的な態度である。手を使用して物を作ることというのは明らかに綜合的な行為である。経験主義的な行為である。しかし双方ともア・プリリオリに得られる快感、外部から押し寄せてきた何物かを気に入るとか、身体の健康状態によって気分が爽快である(これもまた普段の努力の賜物であるが)ことで得られる快感とは異なって意図的にそういう快感を得るような行為を必要とする。理解すること、創造してそれを有用なものとして利用する(料理して食べることも含む。)ことはプロセスが要求される快感である。だがそんなに手間がかかることを態々やるのは、そういう苦労の末に(理解出来たり、物を創造したりして、それを有効に利用したりする状況にあること)快感を得られると我々がア・プリオリに承知しているからである。だから我々は創造と理解へと勤しむのである。
 何か物を手で創造する時、それがどういう目的によって利用されるかということは問わず、それを実践する際には眉間に皺を寄せて考えてから作らねばならない。その物が複雑であったり、自己の身体のスケールを遥かに凌ぐような巨大な物であったりしたら、どのような手順でどのような創造環境を段取りしてから作り上げてゆこうかという計画性が要求される。それは文章のような論理であっても、時計のような精密機械や重工業的な機械であっても、芸術品、工芸品であっても同様である。最小限の力で最大限に環境へと働きかける力を生み出す梃子のような原理を利用する時でも同様である。そのような何かを加工して何かを利用してそれほど強大な腕力を持たない人間が繊細な手を使い知恵を絞って物を創造してゆこうと意志すること自体は、対自己的に快感を得ること、快感がやってくるのをただじっと待っているのではなくて、自ら主体的に得ようと努力することから「意志」いう概念を得ることにもなる。ここに原初的な哲学的認識を我々の祖先は獲得したのだ。だからもし性的な快楽や恋の予感のような、通常向こうからやってくる快楽を不可避的な自然や運命の力である、と我々が認識して「それが尊いものである」という自然主義的な考え方(日本人の自然に対する接し方において顕著に示されるような)さえ、一方で主体的に環境自体に働きかける意志というものの存在を我々が請負っており、意志しながら努力してそういった状況を得ようと日頃から働きかけていればこそ、得られる認識である。
 人間が持つ理解し得た時に得られる快感というものは、そういう意味ではホモ・ファベルとしての認識作用から引き出されるものである。論理は手で作るものと等価のものなのである。あるいは我々の手になる創造物はおしなべて論理の結晶なのだ。人間が言語的思考において「創造」、「加工」、「料理」、「努力」、「意志」、「労働」といった概念を獲得することが、そこで得られる快感を他者と分かち合おうと思念するに及んで、あるいはそれらは同時的に「分配」、「協力」、「勧誘」、「愛」といった観念を発生させていったのであろう。
 人間は何かを覚えたいと思って覚えるのではなく、記憶したいと思って記憶するのではない。寧ろそうしたいと自己を規制するものは殆ど身につかず、記憶出来ず、そうしたくないと思っても自然と脳内に身体的な記憶として習慣化されたり、エピソード記憶として残ったりするものというものはある。同一対象に対しても、常時そうであるわけではなく、例えば若い頃読んで面白くなかったり、よく理解出来なかったテクストがある年齢を過ぎてからとてつもなく関心を持てたり、全く隅々までよく理解出来たりする、というようなことはしばしばあり得ることである。個人の経験を考えてみてもそうであるように、恐らく民族の言語共同体の歴史自体もまた丁度リチャード・ニーダムや三木成夫が指摘しているように生命記憶として分化過程における人類以前の種である祖先からの記憶がどのような個体にも潜在的に備わっているように、民族の記憶というものがあるのであろう。今日我々が目にする言葉、日頃我々が使用する概念といったものは恐らく初期人類が脳に刻み込んだ種としての記憶の上に、更に各言語共同体が育んできた民族の記憶というものが重なり合って、我々個々のパーソナリティーの一部を形成しているのだ。
 どのような観念が先で、どのような観念が後からついてきたかは永遠にわからないであろう。しかし、初期人類の頃から我々の祖先は他者に対しての意識を持ち、自己の位置を知ったり(物理的、社会的両面で)、他者と共同作業をしたり、他者を助けたり、疎んだり、愛したり、嫉妬したりしてきたのだ。そういった感情的で行動的な様相の集積が今日我々誰もが認めるところの社会であり、言語体系であり、精神文化である。
 次節は我々が今日目にする具体的な芸術や文化の様相から、あるいはメディアの状況から人間の内奥に潜在的に潜んでいる欲求の本質を考えてみたい。そしてそれを魅力として感受する主体的な意識とは何であるかという観点から終節と結論へ向けて掘り下げてみたい。まず宗教的とも言える社会的中位者の心的な傾向性について考え、そのことと、安定志向的な、リスク回避的な志向とが、保守的観念の固定化を招聘するのだという視点から捉えておく必要がある。

Friday, March 19, 2010

B名詞と動詞、10<辟易との戦い、そして辟易の獲得>

 では我々は何故このように名詞において全体把握をして次の事項へと意識を転換させてゆきたいのであろうか?それは結論的に言えば我々が我々自身を飽きっぽい動物である、と心得ているからである。そのことを考えるに当たって避けて通れない事柄がある。
 現代社会はことビジネスマンにとっては戦場である。ビジネスマンにとって最もよく読まれる本はビジネス書であろう。ビジネスに関するノウハウや成功談は兎に角よく売れる。だからどのような大きな書店でもビジネス書は一番目につき、手に取りやすい場所や階(地下階にある書店以外は一階)に置いてある。その点では本書は最もそういった類のものとは隔絶されているであろう。(今までお付き合い下さり有難うございます。尤も最近<2010年3月現在>ではドラッカーのような経営学中でも人間主体のものが人気があるようであり、景気不景気なども読まれる人気あるものに影響を与えるようだ。)
 ビジネスマンにとっては業務をこなすことが本論であって、それは時間との勝負である。よって彼らには辟易としている暇はない。寧ろ辟易としていられるほど、それだけに関心を集中していられる余裕が欲しいというのが現代人の真意である。しかし古代はそうではなかった。恐らく哲学というものの発祥にはそういった精神的なゆとりというものがアカデミックなものとして尊ばれたのであろう。それは洋の東西を問わない。だからレトリックということが言われるがそれは詭弁というギリシャ哲学にまで遡る。東洋哲学にも似たような考え方は多く存在したであろう。そういった時代においては現代のようなスピードの時代ではなかったから一部の支配者階級の人々以外は辟易との戦いというものが顕在化していたであろう。尤も平均寿命は現代よりも極端に短かったからその限られた日数の中で何かを掴もうと思う個人にとっては短過ぎる時間の経済の使い道において辟易はなかったかも知れない。しかし今日のような意味での次から次へと業務をこなしていくことが求められるようなスピード感とはまた質が違ったであろう。辟易との戦いが意識を転換することを促すということは考えられることである。今日のビジネスにおいては辟易を感じる暇などなく競争が激化している。そこでは向こうから必然的に意識の転換が押し寄せてくる。次から次へと仕事の内容を転換しなくてならないのだ。
 アメリカのユダヤ人哲学者ソール・クリプキは戦後哲学界の風雲児として位置づけられる天才であるとされる。私もそう思う。その論点は可能世界論というものからスタートしている。「名指しと必然性」は初期の最も有名なテクストである。彼がその本質においては二値論理収斂型の真偽評定型の哲学者である。その先達としては「世界は5秒前に出現した。」という殆どジョークに近いような語り口のパラドックスで有名なラッセルなどがいる。
 クリプキの「名指しと必然性」での<ゲーデルとシュミットの部分>は誰しも笑いなしには読み進めないであろう。現象学の祖とも言われるフッサールがどこか生真面目でカント以上に笑いの要素が希薄である(カントは通常で考えられる以上にユーモラスな一面があると思われる。)のに対して極めてクリプキはユーモアが溢れている。それはフッサールが真理究明型だし、カントがアイロニーという面が強いのに対してどちらかと言うとクリプキは修辞的であるからである。
 しかしそのクリプキにも対抗馬が現れる。それがイギリス生まれでアメリカに渡ったコリン・マッギンである。クリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」に抗して「ウィトゲンシュタインの言語論」を発表した。その後も彼は独自の見解で哲学界を席捲しているが、一方のクリプキはプリンストン大学の名誉教授になって在籍している今日殆ど新作を発表していない。彼ら二人は対極的であるとされる。クリプキが一刀両断に切り込む戦法であるなら、マッギンはじわじわと攻め立てるやり方である。マッギンは二値論理的な真偽だけには拘らない。しかし思想的な基盤にはクリプキ同様の哲学の伝統が息衝いている。この二人は案外似ているのではないか、という思いで私は二人の論文を読み比べてきた。経験論哲学の伝統と論理実証主義の方法論を融合させたクリプキと生理学や物理学の知識と見識をも置いた知性の持主のマッギンはどこかで共鳴し合っていると感じられるのだ。
 そこで私はこの二人の論法自体を分析してから辟易との戦いと辟易の獲得(現代のビジネスマンにとってはそういう一面がある。)に関してその本質的な部分の問題点を炙り出そうと思う。

 本論の副タイトルは「確信、理解、決心」である。そして先に私は<「信じる」ことは理解を鈍らせる。曇らせる。>と言った。しかしここにはある巧妙に仕組まれた私のトリックがあったのだ。というのも私が友人と行き彼が足を悪くさせた旅行に関する事実は私とその友人以外の人々にとってはどうでもよいことであるが、私はその友人同様その事実を確信を持って「事実だ」と言い切れる。それは個的な経験だから他者にとっては何の意味もないが私にとっては足が悪くなった友人との友情の絆が深まったという意味において重要であった。友人にとっては足が悪化したのだから辛い旅であったであろうから気の毒だし、別の感情を抱いているかも知れないが。(ひょっとしたら私が楽しくなかったのではないか、と思って気にしているかも知れない。)しかしもう一つ我々は「信じる」ことの大きな現実を持つ。それは皆が信じていることだから信じようということである。例えば人類が1970年において月に行ったのは事実であるとされる。「カプリコン・ワン」という映画が昔あり、それによると実際は人類が月に行ったのは嘘で、我々一般民間人がそういう風に巧妙に仕組まれた戦略によって思わされているだけである、というような趣旨の映画であった。しかし実際極一般的に言えば確かに専門家でなければ宇宙航空力学とかロケット工学の知識はないから嘘というものも全くつけないとは言えない。しかしこれだけ長い間あの考古学の捏造や建築耐震基準の偽装のような形では決して世界の世間に偽装であった、と言うような見解が出ないところを見ると実際にどうも「人類は一度は月に行った」ようである、という見解から我々は一般に「人類は月に行った。」としているのである。それは他者にとってはどうでもよい、私と友人との一泊旅行のような意味での些細な事実ではないにもかかわらず、と言って全くの真実であるという確証が個人的には出来ない性質の確信である。
 それは恐らく信じないことが(仮に自己の裁量と能力において信じられないものは、それがどんなに確証あるものと世間で言われていても、それを直ちに信じるわけにはゆかないという風に言い切る人間がいたとしても、そのこと自体は個人の自由であるから私は攻め立てる気はないが、そういう風に意思表示した人間は得てして変人と見做され敬遠されがちなのが社会である。)世間的に聞こえが悪く、もっと言えば軽蔑されるから、たとえそのような意味の感情(「本当にそうだったのだろうか?」という)を持っていたとしても、表立って表明はすまいと殆ど条件反射的に決め込んでいるからである。それをも我々は<私が個人的に友人と飯能に一泊旅行に行った事実>同様同一の「信じる」と定義しているが、それは事実に対する確信であるよりは社会的に慣用的に定義されている事実を踏襲したに過ぎないのだ。だから、それらは確信ではなく、確信的宣言である。しかし我々はそのようなものの中にはかなりの程度に、それこそ何の根拠もないのに「信じる」ことが「理解する」ことを鈍らせ、曇らせることもある、と言いたいのである。
 さて私は悲劇の演劇や映画は基本的にあまり観にゆかなくなっている。どちらかと言うと健康には笑うことの方がいいらしいし、また興行的な形態の表現芸術を鑑賞する場合、本来金を払って観にきているのはこっちなのに、そのなすべき反応には暗黙の規制がある場合が多いからである。悲劇を喜劇的に解釈して観にいくのも個人の自由なのに、ああいう集団の鑑賞スタイルだと同じ所で笑い同じ所で泣かなければ(特に見せ場では)いけないかのような暗黙の強制力がある。それは演劇や舞踏において甚だしい。そういう所で自由がないのなら却って家でヴィデオを借りてきて観た方がよっぽど楽しい。パフォーミング・アーツの最大の欠点は集団的熱狂と集団的協調性の強制である。兎に角私は笑いたい所で笑えないようなものを鑑賞することはストレスフルなので真っ平である。
 しかしここで問題となっているのは建前上本来自由である筈の幾多の自由な発言が実はかなりの部分において我々の社会では制限されているということである。金を払って見る興行の世界ですら、そういう場所でのマナーが規定されている(拍手すべき所、笑うべき所、掛け声を掛ける所が決まっている。というより文化の定着に従って自ずと決まってゆく。)のだから、我々は一体どこでストレス発散をすべきなのであろうか?
 このような本音を言うことが憚られるような確信的宣言という踏み絵と建前論的には本来自由でいて自由ではない社会の常識というものはどこかで繋がりを持つのではあるまいか?そしてこのことはクリプキとマッギンという一見風変わりな哲学者を読む際に、それを「真剣に書かれており、れっきとした学問なのだから眉を顰めて読まなければいけない」、というような法律も常識もない(勿論そうしてもまた自由であるが)、という私の主張がまずあることを言明し、かつそのこととは相反するが、真理とはいつでも意外とそんなものである(大して面白くはない)場合が多いのではないか、つまり「なーんだ。」と思うようなことが多いということをも述べておきたいのだ。私はこの二人は対極と思われがちであるが意外と似ていると感じて実はかなりの部分で大笑いして読み進めたということを告白しておこう。そして何より私がこの二人の哲学者の主張するかなりの部分が論的な進行方法に関しては確かに異なるものの、同一のテーマに裏打ちされている、と感じるのである。そしてその同一のテーマこそ、今まで語ってきた建前上は自由でいて本当は規制されている自由、そういった自由の中で我々は「理解する」という機能を麻痺させるのだ、ということ、つまり本音では「信じていない」のに「信じる」と殆ど無意識の内に宣言する(何の迷いもなく)ことが実際はかなりの割合で我々の日常においてはあるのだ、ということ、そしてそれらはおしなべて言語的な認識力の弊害として立ち現れるのだ、という観点を別個の角度から考察している、ということを述べておきたい。

 言語は何かを認識する際に役立つものであるが、実際はかなりの割合でそれによって真実の理解や真の知覚が妨げられているとも言えるのだ。それは事物や対象を名詞という語彙によって、あるいは極一般的に言われる「林檎は赤い」というような形容語句、あるいは敬語などによって顕著なようにある行為や動作を言い表す時に常套的に使用される語彙(動詞)において既に考えるまでもなく決定されていて我々がそれを疑うことなく使用し生活上何の疑問も抱かないということである。寧ろそれさえなければ何の蟠りもなく理解出来る事項もこの世界ではかなりあるのではないか、と見受けられるのにえてしてそういう言語的呪縛に囚われること自体には何の疑問も抱かないということである。それは恐らくマッギンの言うような意味で我々は科学的常識に対しては疑問を抱かないでいることの方が多いということと繋がる。
 マッギンは自著「意識の<神秘>は解明できるか」において空間自体が抱える我々にとっては不可知な性質こそが意識の本質と繋がるもので、それはビッグバンというある意味では偶然的な宇宙創出に関して、意識が空間の中から偶然立ち現れたのではなく、意識と空間の不可知性質こそが宇宙誕生(つまり空間の誕生)以前に存在し、それがビッグバンによって空間自体が誕生し、それ以前の意識的な実体は、空間が優位に見えるようになって逆に不可知になった、ということを述べている。そのことの比喩として「盲視」の人の知覚能力を取り上げて、視覚に障害のない人にとっては却って目が不自由でないことが我々によって通常知覚と考えられる以外の潜在的な能力を見え難くさせ、それが通常の視力が不自由な人の方が、目が通常の人も不自由な人も共に携えている潜在的能力をフルに活かしているのだ、という見解を示している。
 その論点は一見荒唐無稽であるかのように考えられるが、よく考えて見ると発想の転換であることが了解されるし、思弁的に捉えても何ら問題はない。寧ろ彼の哲学的な論理を荒唐無稽と感じてしまうことの方がより確信的宣言に屈しているということとなる。
 そういった意味ではかつて「ウィトゲンシュタインのパラドックス」をマッギンによって批判されたクリプキの論理もまた「可能世界意味論」と、独自の様相論理においては発想の転換を示している。結果論的に言えばクリプキはカント的な意味での観念論哲学者ではない。寧ろイギリス経験論哲学の系譜、ことにヒューム流の様式を取り入れた哲学者である。そしてカント的な心情倫理とは真っ向から対立する責任倫理主義者である。その最たるものがゲーデルとシュミットの論点と生徒に最初に同一面積の四角と円を描いた男を名指して教える部分の論点である。その点観念論哲学や現象学的な視点も多く持ったマッギンにおいては生物物理学的な知識と生理学的な視点があるだけに自然科学的ではあるが寧ろ数学的な論理性とは程遠い。それだけにある意味ではカント的な部分を多く持つが、それでいてヒューム的な不可知論はしっかりと携えている。その二面性に我々は思わず釘付けになる。マッギン哲学においては意識と実在における不可知性に空間全体をも含む未知性への扉を開くような発想の転換がある。また行為の自由を巡ってカントばりの論点も持ち込む。(「物自体」的である。)
 カントもマッギンも指摘したように我々が先に本章で示した行為の自由を巡っての論議は確信と確信の宣言との差異にも繋がる。確信と確信の宣言との峻別とは言うはやすしだが、実際日常的には我々はこの二つを如何に混同して考えているか、ということは言えよう。その二つを意識的に明確に区別する術を我々は持ち合わせてなどいない。「信じる」ことの確定的な範囲を示せと言われれば大半の人が困惑するにちがいない。しかし「理解出来る」ことが信じることへと直結してゆくことがあるということはクリプキの指摘しているようにア・プリオリがア・ポステリオリな経験によって開示されることの可能性の示唆によって明白であろう。(「名指しと必然性」39~40ページより)
 ここで我々はカント、ヘーゲル、クリプキ、マッギンの論点における対応すると思われる概念措定的な配置関係を確認出来る。下図のようになろう。
  
カント<自由>―ヘーゲル<主人>
―クリプキ<固定指示子及び固有名詞>―マッギン<心、意識>

カント<自然>―ヘーゲル<奴隷>
―クリプキ<一般名辞>―マッギン<脳>

 
 偶然性を認めているという論点において「名指しと必然性」、「意識の神秘は解明できるか」は共に多くの共通性を持つところであるが、では問題は「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(クリプキ)と「ウィトゲンシュタインの言語論」(マッギン)における両者の対決(とは言っても既に名声のあったクリプキに挑んだのはマッギンの方であり、クリプキは別段何も反論してはいない。)である。端的に言ってこの両者を敢えて分け隔てるものを考えるとしたら、共同体の成員としての自己意識の有無が言語的な思念、認識を形成することに寄与するか否かという点であろう。結論的に言えば両方が正しいと言い得るというものだ。というのもクリプキの論点はあくまで語彙選択が慣用として考えられるというものであり、それは必然的に共同体の存在を前提する。そもそも共同体自体がそういう成員間の複数性と自己滅却性に依拠した形で成立しているものなのだし、かつ言語とはその中で育まれてきたのであるからである。しかし同時にそれらは個的な思念においても他者との交信性なしに我々は他者に知られないような秘密性を保持しながら育まれても来たのである。よってマッギンの視点(仮に孤島に一人で暮らす人間がしたとしても規則遵守は遂行し得るのであり、言語や語彙選択に纏わる共同体の成員複数性に依拠した規則遵守性とは無縁にでもそういう思念に基づいた行為は可能であると締め括る。)とクリプキの視点は同じ言語使用を巡ってその歴史的な発生基盤に見る(クリプキ)か、それとも慣用、実践されることにおける個人の心的なメカニズムに見る(マッギン)か、という論点の相違がある限り比較のしようもないのである。この二つの論点の違いは明らかに言語の発祥に関する歴史性に依拠した在り方(確信の宣言)と言語が個的に慣用される特殊な思念的現実という異なった位相において論じられており、その意味では仮にクリプキの側を優位に立たせるとすれば生物学的に動物行動学的に言えば孤島で暮らす人間でさえも狼少年のような生い立ちであるならきっとマッギンの言うような意味での規則遵守や行為選択も全く異なったものであっただろうし、またマッギンの側を優位に立たせるとすれば他者それも多数の他者による慣用に基礎を置く規則遵守的なほぼ無意識的な動機付けによる語彙使用が持つ非主体的な創造性のなさが自己行為の根拠であることの矛盾くらいであるが、どちらも二人の哲学者が考える意図とはずれている。
 クリプキの論点は明らかに言語が通用すること、つまり意志伝達がなされることがその意図とか心情とかその際に使用する語彙の歴史性に対する知識が関係するのか否か(勿論それはクリプキにおいては関係ないとされる。)という部分に対する着目であるのに対して、マッギンにおいては言語よりも大きくクローズアップされているものが意識であるわけだから自ずと異なったウィトゲンシュタイン解釈になるわけである。その意味ではマッギンはクリプキがウィトゲンシュタインの意図を拡大解釈している、と指摘する部分では事実論的には正しい。しかし同時に論理とは先人が試みたが果たし得なかった段階的な秩序を更新してゆくことこそが求められるのであるなら、クリプキの拡大解釈もまたマッギンの批判を受けとめるまでもなくウィトゲンシュタイン哲学の可能性を示唆した意味で正しいスタンスなのである。
 この二つの論文において示される端的な二人の相違とはクリプキが真偽二値論理性へと収斂させたい意図、つまり言語慣用秩序そのものへの考察であるのに対して、マッギンの方は存在論的な知覚行為を主体とした言語的な思念という全く焦点の異なった論点である、というだけのことである。その意味ではこの対決には勝敗は成立しない。そもそも全く異なった論点による対決であるのだから、マッギンにしてみればこのような形で伝説化された先輩に挑戦したことのメリットは大きかったと言えよう。今現在においてはマッギンの立場の哲学がやや時代を席捲している感があるが、それも長いスパンではどうなるかわかったものではない、というのが私の見解である(この論文を書いた五年前くらいはそうであった<2010年3月現在>)。
 マッギンの快作「意識の<神秘>は解明できるか」はある意味では知覚出来る脳(医学、生理学的な自然科学対象として)と意識(あるいは心)の乖離を描出しつつ今後の哲学の動向を占うような結末になっている。しかしもっと重要なこととは後半に出てくるコンピューターに意識が持ち得るかという問題(ティム・クレインも「心が機械に持てるか」というテクストを発表している。)に関する言及で感じられることとして、我々がもし意識自体を創造し得るのなら、まず自己の存在(それが生命であろうとなかろうと)を維持しようと躍起になり(躍起になるというところが重要である。人間が何かの不具合に対して自己において対処し得るような機械は既に考案されている。しかし焦ったり焦れたりはしないのだ。コンピューターが人間の心を持てるようにするためには、それを何とか必死に気を静めるような人間臭い態度と行動のニュアンスが要求されるであろう。)、必死にその為に思考を働かせ、何としてでも存続を図ろうとするような意図を持った機械を考案し、かつそのことで他の機械とライバル心を持ち、自己よりも優秀な機械に対しては嫉妬を持ち得るような機械を考案することであろう。そして最終段階としてそういった自我を理性で抑制出来るような機械が考案されれば、かなり人間に近づくであろう。だがまず自我を構築させることが先決である。
 その意味ではクリプキの哲学もまた語彙としては一切登場しないものの、自我というものの存在が濃厚に漂っている。何故なら規則遵守とか固定支持詞とか固有名詞の持つ社会的な慣用性に焦点化された論点からは意味理解というものが心的なモティヴェーション(あのフッサールが必死になって追究した)というものとは無縁に意味作用的に意志伝達される言語行為という慣用性機能自体が持つ社会機能維持の為の奉仕というメカニズムの視点が考えられる。その視点は明らかに我々の内的な自我がどのような成員にも存在していることを前提とした、ある意味では性悪的な存在であることを認めつつ全成員総意事項としてそれらが案出されていて、そこに我々自身一人一人もまた加担しているという現実を踏まえて提出されているように思われるからである。だからマッギンが語る意識のある機械が案出されるとしたらその加担というレヴェルまで突き進みある時にはその前段階で他者に対して嫉妬や自己主張するような人間臭い生物学と人間学の狭間にあるような行為を逸脱して行い、その後素直に謝るような機械の存在こそが求められると思われる。ここにおいてクリプキの社会学的な視点もマッギンの心理学的な視点も同一のフィールドにおける関心集中志向性を持っていることが了解されるのである。

 さて我々は今クリプキとマッギンという論客たちの論理を通した視点を検証してきた。そこで示されたのは慣用的な行為の連鎖が社会において社会機能維持として社会という公共的な機構、あるいは集団的な意志、総意として共同体における意図に合致したものとして「理解される」時、我々の内的な事情如何にはかかわらずその行為や発言は機能し、意味を伝えるということである。そのことは哲学的な心情倫理という視点からは矛盾を孕むが責任倫理的な視点によってほぼ総ての社会機構が成立している今日の社会においてはマッギンが機械に意識が持ち得るかどうかという論考を通して「意識の<神秘>は解明できるか」において示した現出によって示される意識が在るかのような振る舞い自体は意識の有無とは無縁であるという視点と、クリプキの慣用される語彙や意味作用がそれを使用し慣用的な行為として言語行為を行う能力は、話者の例えば内的な事情(語彙やそれを認知した経緯やそのことに対する知識)とは無縁であるという視点とはクロスする。
 私は先に「信じる」ことが確信である(内的にそれが客観的に絶対正しいと思い、そう信じる。)か、確信の宣言であるか(確信があるわけではないが、社会的に広く認知されていることから信じること以外の選択肢がないかのように自然と強制される。)の区別は実はかなり難しいと言った。数年前大型客船が沈没した歴史的な事実をモティーフとした映画がヒットした頃、その映画を何回も観に行く人が続出したことが記憶に新しいが、その大半の人々はその映画が実際に真に名画と思って観に行ったのではなく、大勢の観客が映画を見に行って同時にスクリーンに釘付けにされている特殊状況が自己の生理的な反応力を高め、皆が涙する場面では自己も自然と運命共同体的な生理的反応を喚起し涙腺を緩ませるという現実であったはないか、と思っている。私は母と共に正月にヴィデオになってから実家で観たが、正直言ってそれほどの名画とは思えなかった。このように「信じる」ことと「信じさせられる」こととの境界はその時点では、まるでマジックにかかった観客のように難しい。後から考えてみると「あの時はそう思ったけれど、よく考えてみるとあんなものはただの~だよねえ。」というようなことは日常的にはよくあることである。しかしその騙されたり、周囲の状況に踊らされたりしているその時点ではなかなかそのトリックには気付かないものなのだ。(政治においてもそのようなことは大いにあり得る。)だから特に他者から質問責めにされたり(突然テレビカメラの前で路上インタビューされたりといった)、早急に返答を求められたりした場合などは確信と確信の宣言とが混同しがちなものなのだ。事後的にゆっくり論理的に考えて見るとその区別はつくものなのである。
 そういった擬似確信が横行するような日常も実は現代社会というものが言語的陳述を通してその意味作用を通して、その人間がどのような感情を持ってどのような願望を抱いて発しているかという観点を無視してさえ、その字議通りに受け取り意味作用的にのみ陳述が流用されてしまう機構として成立している現実から起因しているのだ、ということを実は多くの哲学者たちが暗に告発してきたのではないか、と私は思っているのだ。その例としてここで挙げたクリプキやマッギンが、あるいはそれよりは先輩格のストローソンやオースティンが考えられるのではないか、と思っている。勿論その更に先輩格のウィトゲンシュタインやフッサールにまで我々はその起源を遡れると思う。言語哲学の起源自体を考察するとそれだけで一冊の本が出来上がるくらいであるが、言語哲学は発生学的に言えばその存立基盤として考えられることとして、実はこの「信じる」ことを巡る行為としての顕現と内的な確信との混同という社会的現実が明白に露呈しているという時代的な直観に依拠しているのではなかろうか?それは「理解する」ことを積み重ねて「信じる」に至るのではない、一見そのように見えるがその実半ば強制的に信じ込まされているような確信の宣言という行為性の持つ無意識レヴェルへの考察とそれを引き起こす大脳の言語中枢の生理的な反応システムが解明されれば我々は自己の確信を確信宣言とはっきりと区別して考えることが出来る気がするのである。そしてそれを解明するには脳自体が言語を通して思考する回路において共同体機構維持の道具として慣用している言語行為の発生学的メカニズム(音韻とそれを誘引する意志決定のシステム)を研究対象として射程に入れて考えてゆかねばならないであろう。

 本節における最初の疑問もこれで解けた。何故我々が全体的な把握として一瞬一瞬を名詞的な思念(確信の宣言)で決裁するかは、実際社会機能維持の一翼を担うような社会構成要員としての成員意識がそうさせる、という側面もあるということである。勿論そればかりではない。生理学的な身体システム自体の事情も考えられよう。しかしこれはこれだけで独立してあるのではなく、進化論的な認識さえ我々の人類が立たされている大きな意味での現代(過去数十年というスパンではない、直立二足歩行から社会性を獲得するに到る辺りから現代までを含めた)においての固有の事情に即応して考えねばならないであろう。そして名詞的思念においてなされる全体把握認識力が恒常的に日常的生において散見されるということが、今度は社会機能維持の一翼を担うという無意識の同化作用によって考えられねばならないのなら、その思念が社会の個人に与える順応スピードの加速に伴って即応性と即応能力を社会自体が求めているのではないか、という無意識に醸成される「構え」を無条件に意志決定性において放出させるシステムが我々の身体に、脳に、意識に備わっているのではあるまいか?それは大いに考えられることである。そしてその「構え」が、ある時は辟易しているのに、それを隠蔽するように心掛けさせたりするのだ。面接試験を受けている各種受験者にとって型通りの質問はうんざりするようなタイプのものなのにもかかわらず、我々はこういった局面においてはそういう辟易を極力隠蔽しようと躍起になる。辟易との戦いがここでも登場する。そしてその戦いは明らかに名詞的思念による全体判断をその都度促進し、質問に対して決心を語る知性を喚起させる。決心は全体把握とその信条の維持によってなされるのだから。「理解する」行為のプロセスは理解完了時以外、明らかに試行錯誤的であり、選択躊躇であり、逡巡である。しかしこういう面接とか非常の時には既に理解されたこと自体を提示し、決心を語ることを求められる。警察に逮捕されて尋問を受ける場合も同様であろう。だからこそ一瞬一瞬の辟易との戦いが必当然的に求められ、そういった心的様相がバソプレッシンという報酬への欲求を高める作用の内分泌ホルモンが自律神経系から放出されるのだ。辟易との戦いが名詞的思念である全体把握、既決定事項の確認を我々に促す。辟易との戦いは知覚自体に変化を齎すし、認識にも変化を与える。意識的レヴェルの価値転換を促すのである。全体的な物の見方の転換を決心という心的行為がその行為遂行的発言において実践するのである。
 ここで少し噛み砕いたことを述べよう。この世の中には自分の人生の使命を充分自覚して、その為に日々研鑽を積み、それを社会へと還元しようと真剣に考えて生きている人というものがある。歴史的な人物で言えばマザー・テレサがそうであったし、韓国ドラマ「チャングムの誓い」のモデルとなった宮中の実在人物の女官チャングムもそうであろう。そのような人生を送る人にとって日々は毎日出会いと経験の連続で無駄な時間というものはないのであろう。それはある意味では理想的な生き方であるが、それは求めてそのような人生が送れるというようなものでもない。天性の資質というものが必要である。しかしそういう日々を理想としながらも達成出来ないで悶々としている人というのが極一般的な人物像であろう。そして彼等を理想とするということが意味するところは、「日々教えられるという出会いの感動をどうしたら持てるのだろう」、という問いを持つことは意外と多くの人々の持つ一般的な考えである、ということである。
 そしてそのような生き方の片鱗でも実践し得るのは実は自己の立たされている状況、自己本来の意図や意志を熟知している、ということに他ならない。自己の欲求や意志の向かう先が理解されていれば次の目標は設定しやすい。「信じる」ことと「信じさせられている」ことの区別がつくということもまず自己の欲求や願望、意志の在り方をよく認識しているか否かが鍵となる。言語はそれが発せられるとそのことに対する反応が返ってきてはじめて自己の意志伝達意図が通じたことが了解される。しかしそれが時として滞ることもある。簡単に他者に理解して貰えると思ったことが意外と他者からは理解されなかったり、あるいは逆に他者にはきっと理解して貰えまいと思っていたら意外と直に理解されたりすることもある。自己の欲求や願望や理想、意志の向かう先が明確な場合、その人が他者に対して取る意志伝達は円滑に進行するであろう。しかしそうでない場合意図だけが空回りして何も他者には伝わらない。言語が意志伝達行為である限り、マザー・テレサやチャングムのような人生を送りたいという理想を抱いてそれを少しでも実現したいと願い目標を見出そうとしている場合の人間からは自然とその方向性は決まってゆくのではあるまいか?
 詩は志である、とはよく言われることであるが、意志伝達もまた志である。人生には実は辟易としているゆとりはない。だから変化をつけて生きてゆくことは必須の行為である。そしてその為に我々は次の目標を常に設定して生きている。語彙選択が意志伝達の基本的な日常的思惟であるように他者と対話する時間をどのようにして過ごすかを考えることもまた大きな他者交流を通した目標設定行為である。
 言語がそれを通して話者の意図や意志を表明したり、理解を請願したりする行為の為の道具である限り、我々はクリプキやマッギンが言うような他者と物自体(空間と言い換えても良い。)がブラックボックスであるという現実に対して自己の位置をどのように見据えるかが哲学自体の存在理由となっていることを私は知ったが、言語行為がそのような共同体の中で他者との交流を通して理解して貰えたり、そうでなかったりという反復自体が意味する行為としての言語活動、創造的な意味合いをこれから問いたいと思う。辟易との戦いは目的性に満ちた日常から産出されるが、辟易の獲得もまた忙し過ぎる日常から真の目的を探りたいという意図から産出されるのではないか?辟易とするくらい一つ事に没頭したいと願う心理は別に悪いことではない。

Monday, March 15, 2010

A言語のメカニズム 21インターミッション

 ちょっと息抜きに言語の問題をもっと別角度から俯瞰してみよう。
 物理学では生命が必然であるか、偶然であるか未だに決着を見ていないということを述べたが、そのことについて少し詳しく考えてみよう。
 仮に生命が必然であるとしよう。するとこの宇宙の中では我々の住む地球以外の多くの星で多くの生命体が存在することになる。それはそう容易く地球から発見されるような距離ではないかも知れないが、やがてもっと高度な科学技術が人類にもたらされたら、きっとそういう別の惑星の生命体に遭遇出来るようになるであろう、ということになる。地球によく似た環境や条件の別の惑星では地球のような生命体溢れるような状況がきっとあるに違いない、ということになる。
 ところで地球はよく知られているだけで、多くの生物種が絶滅の憂き目にあった生物種の自然選択、地球環境の何らかの激変によるものであろう出来事が3回起きている。この大量絶滅を極初期から辿ってゆくと、まず古生代前期のオルドビス期とシルル期を境にする時期、そして古生代後期のペルム期と中生代の三畳紀の境目、更に中生代の白亜期から第三紀の暁新世への境目(この時所謂恐竜が絶滅したとされる。)である。しかし興味深いのはその度に絶滅を逃れ生き延びた種があり、その名からやがて地球上に君臨することとなる種もいて、かつその種はその大量絶滅の度ごとに異なった種たちである。二度と同じような展開は示されていない。絶滅した方の種も同じだし、また一度絶滅した再び甦った種も今のところない。このような唯一一回性の展開様相の示すところは、極めて自然の大きな変転はその都度の偶然的要素が大きく介在している、ということではなかろうか?
 もし本当に地球環境に適応出来る真に有能な種があるとして、それが絶滅したとしても、何らかの機会が与えられればまた復活することがありそうにも思えるが実際はそういうことはなかったし、一度絶滅するとまたその種が辿った進化の道のりを最初からやり直さねばならないとすると、仮にその種の所期の様相においてスタートが同じ様な生命システムの条件(全く同じことはあり得ないので)でも、同じ変化の仕方を繰り返し、同じような種へと変化して収まるということもまずありそうにない。なぜならその種の辿った初期の展開と最も違うのは周りの種の種類やそれらが形成する環境的条件がまるで違うということである。すると極めてその都度の偶然に支配されながら殆んど奇跡の如く偶然の積み重ねによって現在までの地球における生命体の構成や環境が形作られているとすると、今度はそれを地球外の天体に適用すると、他の天体において仮に地球同様生命体を育むのに最適な条件の星があったとしても、そういったそこに固有な偶然的条件が積み重なれば、同じ高等生命体が存在したとしても我々のような様相をした生命体ではない可能性の方がずっと大きい。それは我々地球においてカンブリア紀において進化の実験場が存在したが、その時にとうに絶滅した筈の(地球においては)種に似たものであったとしたら、その後の展開は地球とは全く異なった様相であったであろうし、そもそも地球とは全く違った展開であるなら、個体中心の生物ではなく、珊瑚のような群生とか、植物のようなタイプの戦略の生命体の高等知性化ということも進化上の可能性としては十分考えられるし、また固体状の生命体であるという保障も何処にもなく、例えば液体とか気体状の生命体、しかも高等知性を持った生命体である可能性も考えられる。しかし長い時間的スケールで考えると、そういった偶然的な生命体(しかもそれが高等生命体にまで連鎖するような)の誕生と進化という二つの稀なケースが同じ時間において起こるという可能性は限りなく小さいと言わねばなるまい。
 しかしもし百歩譲ってそういう偶然的出会いが仮にあったとしても我々がその高等知的生命体の言語を我々の知性で把握出来るものか(それは向こうの方が数段進んでいるという意味でもない。)、つまり交信可能な他者として存在しているのか、ということも大いに可能性としては考慮に入れておく必要があるであろう。
 我々はただでさえ地球上の多くの生命体に固有の言語をようやくその存在に気付き始めた段階なのである。我々には想像もつかぬような言語手段、コミュニケーション上の戦略がまだまだ地球上にさえ沢山あるに違いない。すると我々は言語というものの真実の姿、本当の普遍的性格を知らずにきている、ということも大いに考えられるのである。
 近年植物遺伝子等は明らかにその遺伝情報を各パーツへと送り込んでいることが解明されつつあるが、こういった遺伝情報そのものはすでにコミュニケーションであり、我々の言語行為の代用品でもある。いや寧ろ我々の言語行為そのものがこういった遺伝情報的な交信、情報伝達をこそ基礎としている、とも言い得るわけであり、その意味では言語というものの正体を把握し得るのはまさにこれからなのである。