Saturday, April 24, 2010

B 名詞と動詞 10 <理解される可能性と不可能性の認知>

 人間には自らの遺伝的特質を真摯に着目し、無理をせず自分らしい行いをしようという側面と同時に、自分らしさに拘らず自分がやりたいと思うに任せて突き進もうという側面とが同居している。しかしよく考えてみると自分というものは常に少しずつ変化しているのに、「自分らしさ」というものは過去の自分の経験を綜合した判断にしか過ぎないとも言い得る。ことにそれが栄光に輝いているものならとりわけそれに固執しがちであるが、これは保守的な考え方であろう。しかし同時に中島義道の言葉を借りれば我々には「私がいかなるパースペクティヴをとろうと、そこからの相貌は一つの経験としての実在的世界に影響を与えない」(「カントの自我論」8ページより・マッギンの考え方とも共通している。)ということを承知しているからこそ逆に何か世界自体、それがどんなに微小な世界たろうと、それに共鳴を与えたいという自我のようなものによって我々は「自分らしさ」に拘らず何か主体的に事を起こしたい、と願うのであろう。
 「自分らしさ」に拘泥している内は他者からの理解は、少なくとも意志伝達(特に対話を基本とした)においては得られまい。「自分らしさ」を対話中で主張することは独我論的な対自姿勢の表明であるから他者には理解し難い。自己はどんなに客観的に見つめても他者を見るようなわけにはゆかないのである。だから他者から見た自己は対話手に教えて貰うことが一番手っ取り早い。しかしそれはその他者にとっての自己でしかないのだが。
 勿論我々は他者から理解して貰う為にのみ意志伝達するわけではない。恐らく我々は寧ろ何が理解され、何が理解されないかを知り、ある部分では共通理解し合える部分を自己信念として邁進し、ある部分では他者にとって理解不能な部分を突き進もう、という意志決定の糧とする為に意志伝達するのだ。マッギンも言っているように他者もまた意識、心を持っている筈だという「信じる」ことを通して意志伝達はなされる。この前提が欠落すると対話上では理解は滞るであろう。(一方的な理解は真の理解ではなく、理解幻想である。)
 この理解される可能性、不可能性がア・プリオリに了解し得るのなら我々は意志伝達をする必要がない。
 前節でも少し述べたが、容易に理解して貰えると思っていたら、存外に理解して貰えずに、逆にどうせ理解して貰えないと諦めていたのに、ある時思い切って言ってみると意外と理解して貰えたという経験というものは誰しも持つ。前者の場合容易に他者にとっても理解してくれるだろうと思っていたことに対する認識不足(その事柄に対する誤謬的な物の見方)であるか、その他者がそういうことであれば容易に理解してくれるであろうという推測を成立させていたところの覚知してきた他者像(その他者に対する全体把握)が、存外に実像とは違っていたということであるかのいずれか、あるいは両方であろう。
 他者像というものも難しいが、その他者が理解し得ることとは何かを理解することもまた極めて難しい。
 他者からの理解、自己の側からの他者への理解(この双方があるから我々はその他者と意志伝達を図るのだ。)という接点は、ある共同体において命運を共にする者同士が同一共同体からの強制力(そのものは同一でもそれに対する認知の仕方、感受の仕方は自己と他者では自ずと異なろう。しかしそれでも何処かでその認知、感受の仕方において共通点があると確認し合え、またその存在を信じるからこそ我々は意志伝達をなす。)に接しているという現実認知が意志伝達の成立基盤ともなっている。それを失えば恐らく対話を通した共通認識や交流は途絶えてゆくことであろう。

 では先程の後者、理解されないであろうと思ったのに意外にすんなり理解された、というような場合はどのように考えればよいのであろう。これは色々考えられるが、一番の理由は「構え」を持たずにその考えを述べる、つまり理解して貰えるであろう、という臆測を先験的に持たないことが発話自体をクリアにして聴者の意識を理解しようという「構え」へと誘うのであろう。「構え」は話者になければないほど聴者に「構え」(肯定的に受け取ろうという)を構成し、逆に話者にあればあるほど聴者を「構え」から遠ざけ、拒否によって受容を解く姿勢を構成する。「構え」は受容する側においてのみ自発的となり、付与する側からなされれば強制となる。自然な発話こそが意味を肯定的に受容させる。
 勿論その内容も重要である。しかし内容は理解しようと「構え」ている場合にのみ受信される。発信者は受信者に感情的に内容を一旦受容して貰わねばならないのだ。だからもし内容が受容すべきものでも、「構え」て発信されれば受信者(聴者)は一応認めるものの、拒否しながら認める(渋々認める)であろう。「構え」なしに誤謬を伴った内容を語る時、その誤謬を指摘する聴者の側には他意はないと思われる。しかしそれが話者にとって信条、心情である場合は冷静な誤謬であるという指摘さえ受容出来はすまい。しかしその場合それ以上のそのことに関する話題を回避すればよいことである。その話題が対話成立条件をさえ脅かすものでない限り信条的な差異を尊重することは最低限の意志伝達のマナーである。

 「構え」は話者が聴者に仕向ける時「全体把握」的である。名詞的思念である。それに対してそれなしに話題に入る時虚心坦懐であるから理解しつつプロセスを重視し、そのプロセスを聴者に理解させつつ共有の場を構築させて進行させるので(聴者自身が主体的に話題へと自己を巻き込むように共有の場を発動する)動詞的思念となる。結論設定的な前者に比して、これは話題発動の誘引作用を持つ。前者(「構え」を採ることを)が「信じる」ことを強制することに繋がるのに比して、後者は「理解する」ことを促すことである。しかし促されないことも大いにあり得るのだから、最終的には自己の信条、決裁が必要となる、ということは言うまでもない。
 動詞的思念は明らかに全体把握からは漏れ出るものに対する着目である。というのも全体を把握することとは静的なものとして諦念すること、あらゆるそこから漏れ出る動きを一旦無視して背進することによって成立する。ところが動的な出来事、事実の認識は全体的な把握からその具体的、実際的な事象へと我々の着目を移動させる。言わば全体の崩壊、部分の独立とそのことへの注視を促進する。動きとはそれ自体で統一を乱すものである。そこで我々は動詞的な思念において心的様相は決して俯瞰主義ではなく、洞視主義に赴くのである。だがこの洞視主義は決して動詞だけではない。名詞においても心的にはあり得る。ただそれは性格とか性質ではなく、その過去の行動、行為、経験の全てが規定するその者(物)のシンボルである。しかしシンボルといってもある特定の象徴作用としてのものではなく、あくまで慣用的な使用においての固定指示(クリプキが言っているような意味での)である。それが固有名詞である。次節では一般名詞と固有名詞との関連性について考えてみよう。

Tuesday, April 13, 2010

A言語のメカニズム 22、発声、大脳、進化

 文化コードとしての会話や対話が人間の生活において重要な意味を持ち始めた頃、その会話や対話が音声によって、しかもそれを聴覚をもって受信していることを明確に意識していたのは、聴覚障害者だけであったかも知れない。音声は発声という行為によって成立し、発話という秩序で初めて他者へと伝達され認識される。ヤコブソンはその著書で聴覚に障害を持つ人間は幾ら発話それ自体に支障のない場合でも聴き手の側からすると逸脱した発話仕方になりがちで、発話に障害を持つ人間(歯が欠けていて、摩擦音を作り難い)でさえ、聴覚さえまともであれば、何とかそれに類する音声を別の工夫で再現出来る、と指摘しているが、ここには明らかに聴覚認知システムとしての音声秩序体としての言語行為の在り方が示されている。つまり我々は言語行為において大切なのはあくまで伝達されること、それは伝達するために他の音韻と弁別して一つの音韻を指し示すこと、ゆえにたとえその発声技術が稚拙であろうとも弁別認識さえ確固としておれば、何らコミュニケーションには支障がないということ(それを恣意性と呼んだわけであるが)なのである。
 前章、インターミッションで言語行為を拡張して認識する必要性を少し述べたが、実際なぜ我々はこのように発話とその授受という音声秩序による言語行為をオリジンとして発達させたのであろうか?興味深いのはなぜ視覚的サインでなくあくまで聴覚システム中心の言語行為であったのであろうか?そのことについて少し考えてみたい。
 聴覚的言語行為たるパロール以外のもの、現代に見てみると、モールス信号、メールといった遠隔地からのものは視覚確認的であるものの発信者の実体は確認できない。これを除いても、手話、手旗信号、エクリチュールこれらは総じて所作を伴うということである。
 その点パロールには身体的所作を必要としない。身体的な所作を伴わない実は唯一のものは表情である。これを忘れてはいけない。表情は最も有効かつ確認しやすい感情、意志表示言語である。パロールは実際はこの表情による意志表示(意思表示にはしないことに意味がある。なぜなら意思はあるコミュニケーション秩序を前提する。しかしここではもっと原初的であるが故に意志を使用する。意思の方は後に更新する「真意と偽装の心理学」中の初章試論を参照されたし。)に付帯して発展したと思われるが、次第に表情から独立して(勿論伴ってはいたものの)発展しだすのである。それ自体の行為、あるいはもっと行為を離れた言辞自体の独立的、自立的展開を示しだすのである。
 しかし音声言語がまず発達したと考えられることの第一の理由はやはり所作を伴わないということが生存戦略上の利便性であったからであったであろう。今まさに敵から襲われ掛けていたりする時、それが伝える方でも伝えられる方でも発声することで他者に気付かしめて「助けて」「逃げろ」と言う方がきっと他のやり方よりもずっとよかったのであろう。もっとも最初は発声のみで、「助けて」「逃げろ」という言辞までは言えなかったろうけれど。(表情はその表情をまず視覚的に認められるということを前提するが、発声は別の方向を向いている人間にも呼びとめられる。)
 ある鳥類のさえずり(鳥類はさえずることでその音声秩序に従った言語を営んでいる。)の研究をする動物行動学者は人間の言語の進化について、そもそも今までの言語学が音声と意味とを一対のものとして考え過ぎてきたためにその進化の歴史が見え難かったのではないか、としている。まず発声が意味とは別個に発達し、あとでそこに意味を当て嵌めていった、という風に考えた方がよいのではないか、と述べている。この考えにはもっともなところもあり、意味というものが実際上は人間の脳内では顕在化しつつも、外的に表示されるようになるということでは意外とずっと後から生じたということは十分考えられることである。というより音声と一体化した時点で脳内のもやもやは一気に意味として顕現されることとなった、ということであろう。地球上では音声秩序で言語を今のようなかたちで操るのは人間だけであるが、全く別の系の惑星では人間のかわりに鳥類の方が知的に進化し、人間の言語のようなものを操っているような想像さえ許す発想である。
 ともあれ言語行為が聴覚器官による認知を前提にして執り行われることは所作を必要としないということと、対峙していない相手にも声をかけられるということの利便性によって定着した、という一事が最早後戻り出来ない今のコミュニケーションの状況を作り出した(最初が全然違う方法であったなら、また別の進化があったであろう。)ということなのであろう。しかし歴史は常に一回限りのものであり、デザイン画の下書きのように何度も試行錯誤して決定してゆくような悠長なものではない。常に動いており、全ての瞬間が一切のリハーサルを許さない本番の営みなのである。
 発声する行為はやがて音声的秩序の形成とともに、表示される音声の恣意性に準じた意味をその都度の発声的必要性から生じるようになる。(声色とか音声的表情の変化をつけながら)意味は常套化、一般慣用化されるに従って概念的に定着する。するとその概念にそぐわないものは新たな意味の世界として別個の概念を希求するようになる。そもそも誰か別の同種個体を救助するとか、救助を求めるという行為の中で発する音声が言辞と化した時、言語行為となっていたということが事実であるなら、発声の意味はその時点で概念化(その個人にとっては救助するという行為の常套化と同時的な)されていた、と捉えられよう。寧ろ概念の定着とは同一行為<救助するなら、救助するという同一目的行動として>が反復されことで同一共同体(概念定着前は自然発生的集団であったであろう。)が全成員間の同意事項(社会通念)と化した時点でなされた、つまり不文律であっても暗黙の法的秩序、つまりその行為を履行しない成員に対しての裁き、報復、制裁(それはいろいろのタイプのものがあったろうけれど)が行われるようになっていった時点でなされた、というべきであろう。ただその社会通念的行為そのものが倫理的であるとか、道徳的であるとかの判断の登場はその行為の概念的定着、社会通念的定着のずっと後の話であろう。というのもそういった行為を裏切る別種の行為が定着してゆくこと、共同体内の成員間の葛藤、抗争、軋轢といったかたちでの違和感が蔓延してゆくと必然的にその行為、最初の救助という行為を巡って行為必然性の議論が交わされるようになるとは同一のことであり、救助はどこからどこまでを社会通念とし、どこからどこまでを非社会通念としていいものか、例えば今の今までは同一共同体成員でなかった個体の闖入とかの事実、救助を求める成員の日頃の態度、行動とかを基準とした行為必然性の議論は日々戦わされたことであろう。そこから、また新たな社会通念、概念の誕生、個別的意味の世界の豊饒な散逸とかが顕在化していったことであろう。無論散逸された幾多の概念が統一されたり分裂されたりの連続であったろう。
 発生論的には言語行為はそういった日々の設問反復からやがて人間としての種固有の文化コードとして定着する中で遺伝子レヴェルの進化をもたらし(行為の反復、慣用化が種の行動指令コードとなり、遺伝子的変異をもたらす。)、大脳は活性化され更に遺伝子の変異を常套化させながら、ついぞ発現されていなかった別種の能力を開拓させるその都度の必要性が更なる潜在的な遺伝子に対する発現性へと赴かしめた、ということであろう。