Friday, May 28, 2010

B名詞と動詞10<一般名詞と固有名詞>

 我々は通常動詞を使用する時はその動的な現実、変化しつつある様相の具体的な叙述を心的に想起したり、想像したりしている。しかし名詞の場合、それが一般名詞であればその名詞が指示する「一般的な概念」を話者も聴者も前提している。それがあのソシュールがラングと呼んだものの本質的な意味である。椅子と言ったらそれは我々が日常的に今現在使用する椅子一般のイメージが即座に想起される。椅子というものの観念連合はその時代毎に徐々に変化しつつあるであろう。だから椅子というものの具体的なイメージ像は少しずつ変化している。(勿論動詞もまたその動き一般のイメージというものはある。)
 例えば今突拍子もないことであるが、こういうことを想像してみよう。我々が東京の街角、そう五反田であるとしよう。そこで駅前のタクシー乗り場の前にいてタクシーを待っているとしよう。ところが次に自分がタクシーに乗る番になって突如その情景が江戸時代のものにタイムスリップしたとしよう。そこに行き交うのは籠であり、それを運ぶ籠を運ぶ人夫たちである。私はその場所で呆気にとられながらも、タクシーが籠に変わっても行く場所は同じ戸越であるとしよう。私はその籠を仕方なく利用しながら、籠の人夫に「戸越」と声を掛ける。この時私はタクシーが現代では機能するところのものを江戸時代では籠で用を足していたということを時代劇か時代物の小説か何かで知っていて、それを即座に思い出し、タクシーの代理物として選択したのである。だから突然タイムスリップした五反田の街角で私が待っていたタクシーは私にとって(ということはそれを利用する全ての人にとって)移動の手段であるという文化コード、あるいは文明の利器としての存在理由を持った一般的な事物として認識していたわけである。しかしどういう理由でか突如背景の全ての景色が江戸時代にタイムスリップしてしまったから私は即座の判断でその時代にはないタクシーの代わりに籠を利用することを思いついた、というよりそこがそのまま江戸時代の背景になったから迷うことなくそれを利用することにしたのだ。タクシーと籠が時代的な相違とラングの通辞的な齟齬があるにせよ、我々は日常生活における移動手段として認識する心的な了解があり、それはラングでありコードであるであろう。そのコードの選択は慣用的な事項であり、どこにでも偏在しているものとしての共通理解がある。そしてそれは我々が成員であるところの共同体の隅々まで行き渡った約束事である。箸が物を食べる時に使うものであるようにである。
 しかしタイムスリップした今現在政治や経済で活躍する人物の名前、つまり固有名詞を使用してもそれを理解する者は私を除いて誰もいない。何たって私は同じ場所でそのまま江戸時代にタイムスリップしたのだ。すると私はその時代に合わせて何とか窮状を脱しようと江戸時代の政治家とか学者とか役者の名前を付き焼けば的に言ってみる。その時代の専門の風俗や生活研究の学者でも時代小説家でもないから即座には思い出せない。だから適当に学生時代に歴史に授業で習った名前を論う内にその時代に該当した何人かの有名人(その時代にとっての、現代から見れば歴史上の人物)の名前が人夫に了解された。
 ここで使用されている名詞は明らかにその人物が行った業績とか経歴を主体としたつまりその人物がその人物以外ではあり得ないことの証拠でもある行動、行為、あるいは語り伝えられてきた性格である。行動とか行為から我々はその時代において誰しも知るような人物のことを話題とする場合共有知識(あるいは関心)領域の確認という作業によって共通了解事項を即座に話題として選択しているのである。クリプキが固定指示子と呼んだものは一般名詞においてもあり得る。彼が使用した例としては光や水というものもそうである。金もそうである。しかしそれらはあくまでも我々にとって光や水とかが我々に果たす、あるいは我々がそれを固有の仕方で享受する(他の種の生物においてはまた異なった享受の仕方がある。)という事態をラング的にそれも通辞、共辞共に不変的なものとして利用しているし、そういう命名はクリプキが固定指示子と名指した行為によって恣意的に語彙音韻が選択されているのだ。そして当然彼の言う固定指示子は固有名詞も含まれる。ただ固有名詞はそれだけの選択によるものではない。今活躍する著名人の名前を話題にする時我々は我々が立たされている時代固有のコード(共辞的なラング)がある。ここは日本だから当然アメリカとは異なったラングが存在する。現代であれば当然日本でもアメリカでも通用するラングもあるが、そうでないものもあろう。(タイムスリップした江戸五反田はまだそこまで海外の情報はない。)そしてそういった固有名詞は有名人のことをタクシーの運転手や籠の人夫に語り掛ける時ばかりではなく、友人同士で共通の知人を語る時でも同様である。その友人の自己と他者双方が共通して知る了解事項、その友人の経歴や行動、性格(これは単に有名人よりはよく了解出来よう。というのも我々は現代の有名人に関してはマスコミその他でその性格を知るたけであり、実際に面識があるわけではない場合が大半なので、それはマスコミが作り上げた幻想である場合も多々あるからである。)を想起して使用される固有名詞の語彙選択である。それは通常の一般名詞を使用する時何かの為に利用するという約束事というコードとは異なった時代状況性に依存したラングである。だから私はタイムスリップした江戸時代において即座にその時代の著名人を想起し得なかったのである。そして明らかにA、人間(特定の人物)について固有名詞を語彙選択する場合とB、固有名詞、ある特定の事件、現象や特定の法則、理念を話題選択しその出来事や事象を共通了解事項として語彙選択する時(太平洋戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、総選挙、動的平衡、ソニック・ブーム、ドプラー効果、相対性理論、ファラデーの法則、万有引力の法則、守秘義務、単年度主義etc。)とC、一般名詞をただ単に利用する時は段階的にも質的にも異なった心的様相が介在すると思われる。尤も「犬」という語彙から想起されるものはある特定の時代(例えば<生類憐みの令>とかの通用した時代)においてはある種の普遍的な固有名詞(江戸時代においても使用されたであろう孔子や聖徳太子)以上に固有性(Aに近い)を有するであろう。2005年においての上半期におけるホワイトナイトや下半期における耐震強度偽装とかもそうである。つまり我々はこういった三つの段階と質的に異なる名詞に纏わる心的様相を恒常的に介在させていると考えられる。
ではその三つのケースにおいて個々に考えてみよう。
 Cの一般名詞はそれほどの難しい基準はなく、先程のタクシーや箸や犬の例で充分であろう。問題となるのはAの固有名詞とBの固有の現象や約束事、法律、慣習、事象、各種用語、専門語である。B、この範囲が一番広い。所謂専門用語が一般化された例や一般名詞が多少特殊化したレヴェルからほんの一部の専門家しか使用しないものまで広範囲である。しかも2005年(この文が書かれている時点)での国民的関心事などは共辞的ラングの固有名詞と言ってもいいであろうし、ある特定の集団や複数の人間間での約束事といった個的なものも全て含まれる。ただ単に語彙数から言えば一般名詞が最大数であるが、そのレヴェル、質的両方で最もそのカテゴリーが豊富なのはBである。
 専門用語が一般化したものは、多くの人々が知る専門用語であろう。例えば最も一般的なものは既に殆ど一般名詞化したもの自我、誤謬といった語彙(哲学、心理学の用語である。)は一般的にも通用する。これらは最初専門用語であったのであろうが一般化したようである。駄目、布石、定石、一目置くとかもそうであろう。あるいはインフォームド・コンセントとか2005年に俄然浮上した焦土作戦、レヴァレッジド・バイアウト、クラウン・ジュエリー、グリーン・メイラーといったものであり、またそれよりは多少専門化するものが、知覚生理学者が使用する水晶体、視差、収差といった語彙、あるいは映画業界におけるR指定とかB級娯楽映画とかの語彙、あるいは音楽業界におけるフランジングとか逆回転とかの録音技術に関するものであろう。これらは統計を取って調べなければ一般使用度がどの程度であるかは判然としないが、その使用頻度には大きな差があるであろう。また時代時代に固有の流行もある。
 固有名詞もまたその知名度のレヴェルによって著名な人名にはレヴェル的な段階が存在しよう。個人的にしか知られていないある特定の人間関係や集団でのあるいは極微小な地域における同好的サークルや地域の専業主婦間の固有名詞(同一オフィス内の人間関係も含む。)等はそれほど顕著な段階性は存在しまい。それはあくまでも社会的地位の高低でしかなく、固有に使用されるレヴェルでの段階性はない。しかし著名な人名はいかに偉大な人物であっても専門的な世界でのそれらはあくまで国民レヴェルで著名な特定の政治家や経済人、著名文化人、芸能人、スポーツ選手以外は専門用語に近い。例えば神経学の世界でのカンデルとかヘッブとかがその例である。そういったレヴェルでの著名性は専門分業的な固有名詞であり、専門語と同一の性格を持つ。その世界でしか知られていずに、しかも偉大であるということの意味は明らかに専門用語と同義である。
 だから固有名詞には二つの種類があることとなる。一つは個人的な意味での家族、知人を呼ぶそれ。もう一つは個人的ではない公の意味での固有名詞。そしてそれは更に二つに分岐する。それが一つは多くの大衆に知られた認知度の極めて高い(現代で言えば小泉首相<2006年9月退陣>、堀江元社長とかの)ケース。もう一方はあるスペシャリストとして固有の領域において専門用語化された存在を示すケースである。そして余り全国民に認知があるわけではないが、程ほどに著名なケースはある意味では認知度の極めて高いケースの予備軍でもあり、かつ個人的な固有名詞の延長されたものでもあるのである。だからこういった中間レヴェルの存在はどちらのケースにも転ぶ可能性のあるような範疇に属すこととなろう。
 さて問題はBのケースである。このケースでは殆ど一般名詞化されたもの自我とか誤謬とかがある一方、太平洋戦争とか動的平衡であるとか所謂その歴史的な推移や内容が鮮烈な形で想起されるような意味では前者は固有名詞であるが、それがあまりにも歴史的に必然的な事実であるかのように思われるために、それが一般名詞化されてもいる。また後者は明らかにその自然科学的、生化学的な意味、メカニズムが専門的な学者の間では共有コード化しており、専門用語である。これらはその専門家にのみ共有されるコードであり、極一般的な普通名詞にはならない。だから太平洋戦争に比すれば明らかに特殊である。しかしそれは認知のレヴェルであって、真理のレヴェルでではない。Cの一般名詞はそれがどんなに特殊なタクシーであっても箸であっても犬であっても、その一般名詞のカテゴリーにおいてはその変数でしかないが(ということはそれらは形容を要求する記述による特定の指示であるが)、Aの固有名詞やBの一般名詞に帰属しない特定指示名詞、抽象名詞はその指示の中に既に性質や真理、形容が内容把握、内容記述的に網羅されている。そしてこのBについては最も一般化されるか特殊固有名詞化するかの振り幅が大きいので、一般名詞という一般概念化と固有名詞特定指示化の両極端を常に行ったり来たりするような性格のグレイ・ゾーンであると言えよう。
 これら名詞のカテゴリーを「信じる」ことと「理解する」ことにおいて考えてみよう。まず一般名詞は概念として理解されている語彙で通用する、共同体において最も一般的に考えられる社会的な機能、有用性のある道具、生活手段である。だから「信じる」ことがあるにせよ、それはあくまで「理解する」ことを通してなされる「信じる」ことであるから、経験的な慣用性に依拠しているのである。それに対してBの抽象名詞や特定の出来事や事象、法則を表わす名詞はその特定の性質や性格を語る意味では固有名詞的であるからその性格や性質理解を要し、直接Cのような道具性はなく、あくまで動的現実、動詞的な思念が絡む、しかも一般名詞はその名詞を使用する度に一々動的現実を想起することは限りなく少ない(尤もハンマーというと叩くものというような意味では観念連合はある。しかしそれらはあくまで名詞的な思念において、つまり道具の持つ歴史性や一般使用を巡っての有用的な理解である。一旦知ってしまった以上それらは概念的な道具としての有用性であり、存在を信じるというようなものとも異なるが、取り敢えず名詞的に思念される。尤もそれで人が殺されたというような場合には別であるが、通常は名詞的に思念されるだけだ。生物種の場合例えば猫は猫でありその存在を信じてもいるが、それらはあくまで日常的に我々がよく知る動物である。だから猫が絶滅して過去の郷愁として想起されることでもない限りそれらは「存在したことを信じた」のではなく、これからもそう容易にいなくなりはしないのだから概念的に理解される心的様相の方が強いのである。)のに比べこれらはそのプロセスが何段階にも渡って反芻されるような想起、つまりメカニズム、意義といった複雑な階層や秩序が含有された思念を喚起する。だからこれらは経験的な慣用性から来る「理解する」ことから齎される「信じる」ことではなく、寧ろ専門学習的な経験、つまり固有のものに対する理解(その意味では固有名詞的な意味合いも持つ)である。一般名詞においてもハンマーならハンマーで固有性はある。しかしそれらは日常的に特殊なものではない。(だからレコードがCDに取って代わられたような意味で日常使用から淘汰されればこれもまた特殊化し得る。)だから当然それらを特有なものとして心的に名指すことはない。それに対して事象や現象、法則、歴史的出来事などはそれを記憶に留めた日常的に自然に侵入してきた語彙ではない、特有の学習記憶文脈が過去にあり(私にとっての太平洋戦争は両親から聞かされた戦争体験からである。)それに沿った固有の個的意味が一般名詞よりも顕著である。一般名詞には個的な意味性よりも慣用的な日常性が勝っている。そこが大きな相違である。だから固有名詞は個的意味と共にその特定の人物に固有の風貌があり、それに対する存在是認という「信じる」ことが初期においては大半を占めており、心的には「理解する」ことがその後にやってくる。というのも固有の人物においては「理解する」こととはあくまで存在是認の後にその行動や行為、思想のコードに対してなされるのであってア・ポステリオリである。まずア・プリオリに特定の他者として認知されるところの存在是認がなされ然る後にその人物に纏わる事項が一つ一つ(その人の癖、表情の日常的な取り方、他者への接し方といった)理解されることとなるのである。だから一般名詞において日常的実用性への理解、Bのケースにおいては学習的な意味理解というプロセスが、そして固有名詞においては信じることがまずなされる。一般名詞が実用理解であるのに日常的自明性によって名詞的思念、Bのケースが学習的であるから動詞的思念、そして固有名詞は存在是認における名詞的思念であるが、それは人格認知であるから一般名詞的な名詞的思念とは全く性質の異なった、その存在を信じる名詞的思念である。一般名詞が理解する名詞的思念であることからすれば対極である。
 一般名詞がこの世界に存在する何らかの事物、対象を名指したものであるということの了解はア・プリオリなものである。従ってそれを日常何の疑問もなく目にすることの出来るものに関してはその存在を「信じ」かつ「理解する」ことが出来る。その思念は具体的な理解を伴ってそれを把握した後は名詞的思念上で何の疑問も持たずに道具性として認識する。しかし一度も見たことのない生物(日本にいない生物もある。)に対してあるいは日本にいたとしても珍しい生物であるが為に一度も目にしたことがない(かく言う私もパンダの実物は見たことがない。)生物に関して我々はそれを生物であり、構造理解していてもあくまで知識レヴェルでのことである。だが一度でも写真や映像で見たならば、その生物はそれらを通して理解される。だが実際に目にするとBのケースのような意味で真に個的意味として理解されよう。だからある生物がその国にいない場合、それが他の国では当たり前のようにいるという現実が写真や映像などで紹介されている場合でもその名詞はその生物がいない国でも成立しているし、それなりのそれら写真や映像を通してなりのその生物の存在や性質に対する理解は生じよう。しかしそれらが実際にその生物がいないし、テレビのニュース等で紹介されていない国ではその段階ではまだ特殊事物の名詞であり、固有名詞に近い。だがやがてその国にその生物が運ばれて一般大衆の目に触れた段階において全体把握はなされ、形状記憶、性質理解はなされ一般名詞化される。仮にその生物が極一握りの専門家にしか名前さえ知られていなくても同様にその生物の名前が一般に公開され認知されると同時にその国の国民はその生物に対して名詞的思念で理解されたものとして概念的に使用し、名前を呼ぶ。その存在を「信じる」ことはその生物がその国で公開されるその時まで存在すら知られていない場合でさえその時には「信じられる」。それはそれまで存在だけはメディアやテクストで紹介されてきていた為に「信じられて」いたものの、それらは「理解されて」いたわけではない場合でも同様である。よって一般公開されたその時衆人の下にそれは初めて事実上同時に「理解され」、「信じられ」たわけである。
 何かが起こり、例えば今の例のようにある生物が一般公開されることにより一般名詞化し、固有名詞的なミステリアスから解放された時我々はその生物に対して認知し、名詞的思念を恒常化させるが、それまでは理解されているということが知識レヴェルであり、確かに存在は信じられているものの、理解されることと信じられることが遊離している状況であったのだ。それが一致したことで固有名詞的なミステリアスさは消滅し、謎の部分の溜飲は下げられ、一般化されるわけである。そして我々はそういうこととなった事態があるからこそ、クリプキが言うような意味でそうではなかった可能性「その生物がわが国に紹介されなかったかも知れない」という可能性を初めて考えることが出来るのだ。それはそうなってしまった「既に紹介された」ことに関してある種の後悔とか狼狽を感じた場合にはよりそうなのである。クリプキの言うような意味での可能世界意味論とはある結果が出されたことに関して喜ばしいと思う反面残念であったり、ある可能性が実現されそうな時に躊躇したり、逡巡したりする人間心理が存在することを如実に語っている。その意味では様相論理学とは明らかに一回性であるある出来事の発生が持つ過去変更不可能性が持つ時間論的諦念が生じさせた学であるとも言えよう。
 我々は一般名詞に関しそれをまず受け入れ然る後そのものと出会い(あるいは同時である場合もあるだろう。)、それが例えば猫であれば、猫と言う一般的な概念を自己において認識させる。それは猫を猫として規定している音韻的にnekoと発声する共同体秩序を不可避的に是認し、その成員としてその諸言語活動に加担することを無意識の内に選択しているのだ。そしてその受容した猫の概念との触れ合いが自己独自の個的意味を発生させるような猫を巡る経験を生じさせる。勿論その猫という語彙を覚えた最初の出会いもあった。しかしそれはまだそれが猫であると知る前に何か特定の名前を持ったペットとしてであっても、庭に歩いているどこかよその猫であってもそのこと自体は語彙習得自体には何の影響を与えはしない。猫という語彙はそれがどういうものであっても個的意味とは別個に習得されて、その概念<イデアと言ってもよい。>を通して個的意味を意志伝達し合うに過ぎない。だから一般名詞を使用する時我々はその語彙を概念として承認し、然る後個的な猫(昨日散歩をしていた時に見た猫であっても、かつて自分の家で飼っていた猫であっても)を語るのである。要するに概念のカテゴリーを通して個物を認識する、ということである。
 それに対して固有名詞は個的意味を生じさせるような一般概念はそもそも存在しない。既にそれ自体で充分個的であるからである。そこで固有名詞は逆に匿名性(田中であっても鈴木であっても高橋であっても渡辺であってもそれは固有の例えば田中であるにもかかわらず、何処にでもいる個人、人格の一つでしかないのだから)を帯びる。
 抽象名詞、歴史的事件や出来事の固有の呼び名(通称)、専門用語(概念規定語)、及び法則、事象、現象、法律を表わす名詞は個的である部分はあくまでその概念や理念の学習過程でしかなく、全ての成員にとっての同一のコードでなければならないと同時にそれらは理解する為に一定の過程(それは単純なものから複雑なものまで多種多様である。)を必要とする。「あれ何?」と聞く子供に「猫よ。」と答えて呼び名(名詞)を教えるように簡単にはゆかないのである。蒸発、離散、解散、消化、昇華、脱分極、光合成、慣性、ホメオスタシスといったものたちは、名詞でも油圧ポンプとかトランスミッションオイルとかと同じであり、その機能を一語では説明出来ない。一般名詞もまたこのBカテゴリーに含まれ得る可能性を持つもの、それがかなりの程度で一般化され今や誰しもが知り得るア・プリオリである場合など実はその段階性、レヴェルは多様である。そこで一般名詞と抽象名詞とか専門用語とかは歴史的事件(壇ノ浦の決戦とか大政奉還とかの)という固有性ともまた異なったある種のフレクシビリティーを含有している、と言える。
 逆に太平洋戦争を研究する研究家にとってのあらゆる事件や事変、戦争の呼び名はだから当然のことながら一般名詞化されている。また自然科学者にとってあらゆる自然科学現象の用語は全て一般名詞化されている。芸術家にとって美術、音楽用語、経済界の人間にとって経済用語とかも同様である。
 一般名詞において我々が留意すべき重要なこととは、我々が実際には今現前的には目にしていないものばかりか、日常でも目にしないものさえもそれを存在する極一般的なものとして認識するコードとして流用している、ということである。例えばコアラは日本に生息する動物ではないが、動物園に行けば見ることは出来るし、仮に普段そういう場所に行かない人間でもそれらの存在をテレビや写真、動物図鑑、新聞とかのメディアで知ることは容易であるし、またそれら日常において実物をそう容易に知覚出来ないものさえ思惟において動員される知識が例えば意志伝達における話題構成において必要事項として記憶事項、ワーキング・メモリー的な日常性のリストに入力されている。ファイル保存されている。我々が目にするものとは殆どが現代ではメディアを通してなされる。アメリカの大統領、スペースシャトル、空爆される世界各地の都市の様相(戦場)、それらは実際に目前で知覚されるような対象ではない。にもかかわらず我々はそれらを日常的に使用するトースターやテーブルや掃除機と同格の一般的な対象として認知している。人間は我々と同一種のホモ・サピエンスたちが「我々が行ったこともない地球の裏側」でも我々と恐らく同じように悩み、苦しみ、喜び、嬉しい表情をしているということを確信している。それは彼らの存在を「理解して」いるのと同時に「信じている」のだ。
 このような不在のもの、我々が生涯一度も目にすることなく終わる大半のものをもそれが存在しているし、これからもそうである、という認識する能力こそ人間がある対象を、名詞を通して事物の概念として名指す、命名するということの本質ではなかろうか?
 動物は自己個体と同一種の他個体が自己個体の周囲にいる者たちを除外しても自己の与り知らない場所において生活しているに違いないというような思念を抱くことが果たしてあるのだろうか?このことは動物における知識をも含めた認知がどの程度かという問題と同時に不可知領域や不可知という風に規定し得なくても自己の覚知可能性から漏れ出たあらゆる対象の必然的な存在可能性の確信とは一体我々の生にどのような意味を与えているのか、という重大な問題を我々に提出する。
 哲学者の中島義道はカント研究を通した独自の論客として知られているが、表象という哲学用語をカントがどのように解釈していたのかということに関して次のように語っている。(「カントの自我論」表象としてのバラ、34~35ページより)

 「表象」とは何か、あらためて考察してみよう。それは、カントの場合ラテン語の“reprasentatio”1英語の”idea”そしてドイツ語の“Vorstellunng”という三重の意味を担っている。三重の意味の差異をあえて省けば、「表象されたもの」とは現前に知覚されている対象自体ではなく、私の心的世界(Gemut)の「うち」に取り込まれた対象のあり方である。
 日常言語においては表象としてのバラとは知覚されるバラではなく、むしろ想像されるバラ、心像としてのバラである。日常語では、知覚とは対象を直接正しくとらえることだと了解されており、そのかぎり知覚されたバラにほかならない。
 ちなみに、ドイツ語の日常使用において、眼前の知覚風景を表象と呼ぶことはまずない。表象とはむしろ眼前にないものを思い描くときに使われる。例えば、“Stell dir mal vor!(ちょっと考えてごらん)”とか“Davon habe ich keine Vorstellung(それについては何も思い浮かばないよ)”というように。
 だがカントにおける表象としてのバラは、こうした日常的素朴な意味で心像であるわけではない。概念としてのバラでもない。それは、私が<いま・ここ>で知覚しているバラであり、私が昨日見たバラであり、他人がいま世界のどこかで見ているバラであり、誰も見ていないが現に存在しているバラであり、誰も見ていなかったが現に存在していたバラである。つまり、それは心像や意味にすぎないのではなくて、時間・空間のある場所に実在するバラと同義である。
ここに重要なことは、これらの表象としてのバラのうち、私が現に<いま・ここ>に知覚しているバラはいかなる特権的な身分ももたないということである。<いま・ここ>には不在であるが、世界のどこかに現に存在しているバラやかつて世界のどこかに現に存在していたバラも、<いま・ここ>に現に不在のバラに共通なあり方、それが表象としてのバラのあり方なのだ。
 こうしてみると、ほとんどの表象は<いま・ここ>に現に存在していないことがわかるであろう。さらに、私が一度も現に知覚したことがないソクラテスでも恐竜でも、同等に表象になりうる。とすると、むしろ私が<いま・ここ>で現に知覚している諸物こそ、表象としては例外的であることがわかってくる。
 むしろ、私が<いま・ここ>に現に知覚していない諸物のあり方こそ、表象のあり方のモデルなのである。そして、膨大な私が<いま・ここ>に現に知覚していない諸物のあり方のうち、かつて私が現に知覚したことの想起こそ特権的地位を占める。表象の適切なモデルは、私が過去の体験を端的に想起することなのだ。

 実に適切な表象の説明である。ここに我々が名詞において考えられる命名性の全てが説明され尽くしている。我々がある名詞、例えばハンマーを語彙選択する時我々の心的様相は、それをハンマーという表象を通して他者へ意志伝達する際には明らかに名詞的思念という道具理解(ハンマーがハンマーとして名指され世界中に存在する存在理由に対する日常的な理解。これがある為にハンマーという語は存在する。そしてそのこと自体を個人的レヴェルで理解するということ)に同意することを意識的、無意識的にかかわらず自覚している。そういう心的様相において我々は選択された語彙使用を通してその同意をも意志伝達内容と同時に表明しているのに他ならない。
 名詞使用を通した名詞的思念とは明らかに道具理解という世界共通(国内共通とか地域共同体共通とかの色々のレヴェルがあるが)認識及びそのことに対する同意表明を結果論的にはなしているのだ、と見做してよい。
そのことを下図に示してみよう。

意志伝達における話題選択→文章構成と語彙選択→発話<名詞使用に関する語彙選択においては道具理解、一般慣用性への同意表明をなしている。>

勿論こういったプロセスは日常的には殆ど無意識に条件反射的に執り行われているのである。勿論意志伝達とは意思表明であると同時に自己の意思確認、他者との間で取り交わされる相互意思確認が綯い交ぜとなった状態で心的な発話行為発動性に関した意志決定プロセス全てを言うこととする。そのように思惟から発話へと至る全てのプロセスを一括して意志伝達と呼ぼうと思う。


 名指し、あるいは名詞的思念を喚起する名詞使用、ある概念指示に関してクリプキが提示した理論は画期的であった。というのもそれが想起させる問題は概念が個的意味や個的理解、解釈を素通りしてそれが流用される共同体においてはその命名者がどのような意図やその概念に対する意味理解があろうともその流用のされ方は概念としてそれが名詞と言う体裁で表出された指示以上の何物も伝えはしないという冷酷かつ合理的な現実であった。ある物語を語る話者がそれをどのような自己の心的な様相において語ろうとも、彼の語りが指示すものは彼の心的な意図や願いとはある時は裏腹でさえあるような、つまり語る動機(フッサールが語った動機付けにも関係があるところの)とは無関係に「語り」という機能によって「語られた意味」(話者の内的動機とは無縁の意味作用的な)が、クリプキの謂いを借りれば循環する。
 今現在でも世界中ではあり得ることであるが、ある宮中の、あるいは王室での陰謀や一般大衆には知らされていない極一部の関係者による取り計らいというものがあるとしよう。それを表立って公表するわけにはゆかないからその取り計らいを今仮にAと呼び、その関係者たちの間では明らかにその取り計らい自体を指示する場合Aを使用するとしよう。しかしそのAという語彙は日常的にはその取り計らい自体と無縁ではないにせよ、その取り計らいが持つ秘め事的なニュアンス自体を字義通りに解釈すれば指示しはしないものとしよう。Aは語彙から受け取るべき語感には決して隠語的ニュアンスはない。その一部の関係者間によってはその取り計らい自体を指示していたその語彙Aも、それが隠語的な役割を果たすのはその取り計らいの実態を知る一部の人間だけだから、それを後世に語り継いでゆこうという裏切り者(その取り計らいは秘め事なので実際はそういう風に語り継ぐべきものではないので)がいでもしない限り、その語彙はやがてその字義が示す通常の意味以上のニュアンス(関係者間の秘密)は剥がれ落ち、その字義通りのみが意味作用として流用されてゆくであろう。言葉の歴史を辿ると意外とそういうことが多い。それはそのAが宮中で使用されている局面においてさえ隠語として使用する人間は関係者である一部の人間だけだから、その周囲の人間はたとえ宮中に仕える者たちでさえ例外なく字義通りにしか受け取らない。やがてその語彙は宮中でも取り計らいに気付かぬ能天気な人間たちの隠語的意図のない部分だけが独立して一般大衆に広まってゆく。
 上記のような現実をある意味ではクリプキの語彙慣用の実態を抉ったような言語論は語っている。クリプキが語る語彙使用における話者の「同意」という考え方は明らかに一般名詞が使用される時も、固有名詞が使用される時も、我々はそういった「語られる」言葉が「語ろうとする意志」とは一致する部分もあるが、必ず齟齬を持ちながら循環される、意味作用的な選択を持っているのだ、ということを如実に示しているのである。<このことに関してクリプキはナポレオンを例に出して述べている。ナポレオンを語る時、その話者が持つナポレオンの知識が「語られる」言葉自体には何の影響も与えはしない、つまり話者はそれを承知でその話者のナポレオンの知識(や認識の仕方)が並外れていてさえ、その見識は「語られた」言葉を通してはナポレオンが指示する性格には影響を及ぼさず、その限界(共同体の大多数の成員が平均して受け取るナポレオンという固有名詞が示す意味)を超えずに伝わることに同意して発言しているのである。>
  
 人間は真に孤独では生きることは出来ない。孤島に暮らす人間でさえその人間の周囲には鳥や亀、兎といった生物たちが人間の他者の代用として存在しているのである。それは脳内の各瞬間に即応した状況判断とかだけではなく、心的持続的に、心理的にそのような周囲の生命に対する協調や同化、ある種の自然共同体という観念を生きてゆく上で獲得する。その生命環境体の一部として生を全うするという意識を覚醒するのだ。どういう状況であってもその状況に応じた目的性や意義を見出す。だからこそ言語が慣用される循環的な情況を受容し、どのような形でその真理を見出したか(クリプキが言った固定指示における名詞を齎した張本人の特定)には係わらず、その真理を生の現実に応用し得る能力を持っている。発話行為も記述行為も、だから行為の一環として位置づけられる。
 我々は既に固有名詞が一般名詞化するような過程もあるし、また逆に一般名詞が固有名詞化し得るような特定の状況もあることを確認してきた。(レコード)それらが我々に教えてくれるのはあらゆる名詞が持つ性格とはその名詞が誕生した瞬間にある程度の限定的な役割は規定されるものの、決して固定的に一点に留まり続けるというものでもない、ということである。孤島に暮らす人間が誰一人として話相手がいないので孤独に打ちひしがれて必ず自殺するとも言い切れない。マッギンがあの「ウィトゲンシュタインの言語論」において示した後半のクライマックスで孤島において一人で生活する人間もまた規則遵守をし得る可能性には明らかにある秩序をどのような状況においても見出す能力の発現というものを想起せずにはおかない。そのようにある人間が切羽詰まった状況に目的と可能性を見出してゆくように語彙もまたそのように可変的な様相性に密着している。一般名詞であるようなある語彙がある地域集団間において、ある複数のサークル内において固有の意味を生じたり、あるいは専門用語であったものが広く一般化してその使用され方がある専門分野から大きく離脱して普遍的な真理の表現に流用されたり、といった現実は枚挙に暇がない。
 そのような意味では語彙の歴史性、通辞、共辞にかかわらず、あるいはその循環の範囲の拡大、延長といった現実はそれだけで、語彙の運命を可変的なものにする。
 かつてヴァイキングの一味であった民族のどの個人もそこで使用された語彙の幾つかが世界語になるとは思いも寄らなかったであろう。かつて一部の部族によってのみ行われた幾多の競技が今や世界的なスポーツになるなどと誰がその発祥の時代に予感し得ただろう?名詞の変動性や名詞の質的な広大さはそれだけで人類の移動や物の見方の変化を物語っている。今後もまた名詞は幾らでも変化し続け、更に数を増してゆくであろう。またそれが動詞をどう変化させてゆくかも重要なキーである。動詞もまた変化し、名詞を刺激、変化させ続ける。次章ではその動詞がどのように名詞に絡んでくるか、どのように名詞から絡まれるか、という面から考察してみようと思う。

Wednesday, May 19, 2010

A言語のメカニズム 23言語に関する疾病と大脳の機能 序説 有限性と無限性、思惟の自然と自然の自然

 前前章の(インターミッション)で生命存在の可能性と進化の様相の偶然性について、前章では言語行為の定着とそこで示された大脳による思考能力の進化過程について少し触れた。ある援用されることの多い言い回しや物言いは、固定化された価値を有する言辞となり、慣用句となる。その言辞を発明した人間が共同体のリーダーに納まる場合もあれば、それを巧みにそれ本来の意味以上に実在感あるものとして利用し、共同体成員間に同意させるような話術と内容を兼ね備えた人間がリーダーとなるということもあったであろう。しかし少なくともそれ以前の慣用句や誰かの物言いに対する援用という常套的利用に終始していた時点での共同体の概念規定に対して全く異なった捉え方の言語表現が一気にウィルスの如く駆け巡り、言語行為を通した思考性そのものを大幅に変更させることはある種の思考の革命である、と私は言った。それは革命をそう否定的に捉えていない物言いである。革命は政治的なものばかりではない。寧ろ言語の革命が実際上の政治的革命を誘引してきた歴史の事実の方が余程多い。テクストはその度に大きな指標となってきた。
 そのことと関係があるかどうかわからないが、物理学者のアイゲンとヴィンクラーは共著である「自然と遊戯_偶然を支配する自然法則_」において革命について触れている。

 安定性と不安定性の違いは議会に提案される不信任案をめぐるやりとりによって明瞭にできよう。投票の結果政府が政権を維持することに成功すれば、議会の構成は全然変化しないか、変わったとしてもほんのわずかしかないであろう。つまり状況は「安定化」されたことになる。あるいは逆に反対党が過半数を手に入れれば、議会は解散され議会の構成は新しくされる。議会が民主的な機関として果たす機能はその構造、すなわち構造が大きく変わったかどうかには無縁なのである。構造が崩壊するにもかかわらず機能は維持されるというのが進化過程の本質的特徴である。これに反し革命はまず系全体を破壊し去り、つぎに新しいものを作るということであり、しかもこの新しい系が後になって実際に機能を果たしうるものだという保障なしに行われるところに特徴がある。進化の過程にあって特定の系が崩壊するのは、新しくつくり出される構造がより高度の機能的効率をもつ場合だけである。言いかえると、現行のものが不安定になる前に、その進化過程が起こるとことの利点がまず「提示」されなければならない。(東京化学同人刊、寺本英・伊勢典夫ほか訳、164ページより)

 ここでアイゲン_ヴィンクラーは自然が如何に偶然的要因によって大きくその姿を変えようとも、その都度の環境において生命体が進化するとか、しないとかの決断を自然が下すものと捉えるなら、ギャンブル的な突然の変化をもたらしたりはしない、つまり一切の進化上の自然選択システムが必ずその変化ののちにその生命体の利するところへ落ち着くようにのみ作用する、と捉えている。しかしこの見方はその生物にとっての利だけからの視点である。その生物には偏利であろうとなかろうと多くの寄生した生命体との共生によって生を営んでいる。すると例えばその生命体に寄生している生物の方の利が優先し、宿主の利を凌ぐということはいろいろの要因(それこそハインリッヒの法則的秩序に従って)からあり得ることだからである。しかしではこのアイゲン_ヴィンクラーの論述が偽であるかと言えばそれも違う。恐らく進化と突然変異とを大きく峻別し、なお進化というものをその個別種にとって利するところにのみ落ち着く、とすれば確かにこの二人の意見は正しい。しかし種とはそもそも子孫という別個体を生殖行為という特殊な行為によって産出する際に常に突然変異をももたらしてきた、ということなのである。
 種とはどのようなものであれ、その種固有の出自を持ち、その固有の事情は書き記された過去の祖先から引き継いだ遺伝的形質とそれをもって生まれ、同時に自身の個体としてのアイデンティティーを持つ誕生の際に受ける特殊状況からの影響によって幾分の突然変異をも請け負って生を営む際に現実の自然環境に対応し、対峙する中で示される遺伝形質とそれを利用した外部環境からの発信(特殊なものである。)に対する受信としてそれを認知し、知覚し、そのこと自体からも促進される遺伝子による生成過程において外部への返信として発現されたり、内部環境(身体)において外部への返信という行為に対応すべく常に全体的ホメオスタシスによって統制されながらも個々の、例えば染色体、細胞、神経組織といったさまざまの段階的レヴェル相互の発信、受信、返信が反復されたりすることの双方向的なメカニズムによって、遺伝子だけではなくさまざまの症状がその都度発現されたり抑制されたりといったことの、基本的に共通なエキソンにおいて保障された同一種内での自己同一的生命の集合体における様相のことを言うのである。
 癌におかされるということは個体維持に関しては突然変異的事項であり、その寄生種の勝手な都合に振り回される人間の個体の様相である。言語行為もまた疾病によって大きく疎外される。コミュニケーションのモティヴェーションの如何を問わず、それは発話能力に支障をきたす。これは言語学者、大脳神経医学者たちによって多くの報告例がもたらされている。しかしその実例に入る前にまず言語行為において発信、受信、返信と言ったシステムとはどのようなものなのか、ということに就いて考察してみよう。なぜ言語行為にさえも疾病が起きるのか、という問いは言語行為というものの正体に対する認識なしには理解し得ない。
 物理学において生命的秩序は明らかに情報のやり取りの有無によって峻別される。シアノ・バクテリアが自己増殖する過程では、無性生殖の秩序として同一の遺伝子を無限に拡張してゆく。その際同一であるという一事が相互に情報のやり取りを保障するのである。植物がオーキシン等のホルモンによって成長その他の一切の機能を制御し、そのたびごとに各パーツに情報を送り込んでいる。そのように情報を送り込めるのは一重にその大元のオーキシンを生成する植物遺伝子が祖先種から引き継いだ形質を遺伝子上に書き込まれた情報に忠実に発現させているからである。つまり情報とは同一のものに対してしか受け渡すことは出来ないのである。仮に全く植物の生成にとって全く利のない遺伝子が人為的に注入されたとしても、免疫的拒否反応を示すだけで、その遺伝子は伝えるべく情報をその植物本体はその用途を考慮せずに排除しようとするであろう。それは人間の身体においても同様である。
 このことを数学の論理においてしばらく考えてみよう。ラッセルの「数理哲学入門」の中から今論じている情報ということに関係する事項を幾つか取り出して考察してみることにする。

 証明における数学的帰納法は、昔は何か神秘的なものであった。それが正当な証明法であることを疑う合理的根拠があるようにはみえなかったが、だれもそれがなぜ正当であるかをはっきりとは知らなかった。ある人は、帰納法という語が論理学で使われる意味における帰納法の実際例であると信じた。ポアンカレは数学的帰納法を、それによって無限数の三段論法が一つの論法に要約できるきわめて重要な原理であると思った。われわれはいまではこれらすべての見解が間違っており、数学的帰納法は定義であって原理ではないことを知っている。ある数には数学的帰納法が適用でき、他の数には適用できない。われわれは「自然数」を数学的帰納法による証明できるように、つまりあらゆる帰納的性質を有するように定義する。このことから、数学的帰納法による証明が自然数に適用されるのは、神秘的な直観や公理や原理によるのではなくて、純粋にことば上の約束として定義されれば、四本の足をもつ動物は四足獣であることがいえる。数学的帰納法にしたがう数のばあいもまったく同様である。
 「帰納的数」という語はいままで「自然数」とよんだものと全く同じ集合を意味するものとする。それは、この数集合の定義が数学的帰納法からえられるということを、暗示しているので具合がよい。
 数学的帰納法は他の何ものにもまして有限者を無限者から区別する本質的特徴をあたえる。数学的帰納法の原理は通俗的には「つぎのものからつぎのものへと推論できるものは、初めから終わりまで推論できる」というような形でのべられる。このいい方は、最初と最後のあいだの中間段階の数が有限であるばあいには真であるが、他のばあいには真ではない。
 
 ラッセルの言うある数から別のある数への集合を考えた時、有限であればこそ数集合となり得るということを言い表わしている。そもそも集合とは有限であればこそ論理的に解析し得る。なぜなら無限であることは理念的には可能だが、表示しきれないし、また限りのないものをどうやって一括りに出来るのか?それは概念的思考の限界を示してもいる。しかし同時に我々はあり得ないことも数秩序の上ではあり得ることとして考えることが出来る。(本論の最初章を参照されたし。)その意味で数論理は言語的思考の論理的カテゴリーにも近いところがある。無限への認識もその意味では数論理と言語的思考の、自分の能力を超えたものまで想像して考えるとが出来るという「思考の性質」を物語っている。そもそも全ての数を数えあげることは不可能であるが、そういう風に無限に「ある数からある数までの」限定された範囲にさえ無限に数を考えることが出来るという概念的思考はやはり論理上でも可能である。ラッセルの論述はまだ続く。

貨車が動き始めるのを見たことのある者は、衝撃がつぎの貨車からつぎの貨車へと伝えられて、最後には一番後の貨車までも動き出す様に気づいたことであろう。列車が無限に長ければ、無限数の衝撃の系列があることになり、全体の系列が動き出すときはこないであろう。しかしながら貨車の系列は帰納的数の系列(中略)よりも長くなくて、しかも機関がそれに耐えられるならば、それぞれの貨車は遅かれ早かれ動きはじめるであろう。まだ動きはじめていないもっと後の車両はいつも残っているだろうが。この事例は、つぎからつぎへと進む議論と、それの有限性との関係を明らかにするのに役立つ。数学的帰納法による議論が妥当しない無限数の諸性質を対照的に考察すると、有限数についておこなわれる数学的帰納法のほとんど無意識的な使用法が明らかになってくる。

 ここの部分は物理的には宇宙ででもない限り実現不可能な比喩であるが、論理的な秩序を考える上ではまさしく名論であろう。しかも遺伝子が発現する現実や、どこかでついぞ全体の遺伝子が同時に発現することのない我々の身体まで連想させる。物理学的考察においてアイゲン_ヴィンクラーの論理が個体に存する突然変異という現実(遺伝子の翻訳ミスとか発現ミスというものも十分あり得るから、極端に遺伝的形質を無視する個体などあり得ないが、少々の誤差は常に付き物である。)ということを考慮に入れていないことと相通じるものを、ラッセルの言辞には感じさせる。このような概念的理解を促進する論理にはイデー的な認識の近いところもあり、するとそういったイデー的思考を揶揄するかの如きフッサールの言辞を思い出させる。

 (前略)文法的相違と論理学的相違とは必ずしも一致しない、換言すれば、諸言語は、伝達のための広範な効用をもつ質量的な意味の相違をも、根本的な論理学的相違(すなわち、アプリオリに意味の普遍的本質に基づく相違)を表明する場合と同様の、厳格な諸形式によって表明する_という、このような一般的認識は<論理学的諸形式の領域を過度に限定し、論理学的に重要な多数の相違を単なる文法的相違と看做して廃棄し、その挙句かろうじて伝統的三段論法に何がしかの内容を温存しておくに足りる程度のものだけを残しておく、有害な過激論{ラディカリズム}>にために地ならしすることにもなろう。ともかく高く評価すべき、ブレンターノの形式論理学の改革の試みは、周知の通りこのような行き過ぎに陥ったのである。ここでは表現、意味、意味志向および意味充実の現象学的な本質的相互関係を完全に解明することのみが、われわれに安全な中道を与えうるのであり、そしてまた文法的分析と意味分析の相互関係をも必要な判明性にもたらしうるのである。

 フッサールの論述は文法的相違と論理学的相違を同一視することが論理学的視点を限定することである、と批判しているが、事実我々が論理学的と捉えるものに対して、文法的相違は明らかに慣用という事実から限定された、日常的な使用頻度と共同体機能において親しみの持てる公共的事物のみを特権的に優遇するような偏向を必ず携えていることからもよく理解出来る。その意味では公共的で最大公約数的規定価値的な言語における慣用的文法規定性は差別的であり、しかも生物学的にも人間の声帯その他の身体的事情によって、民族共同体的ラングにおいて、その言い回し自体が極めて発音し難い(もっともどの民族も英語を勉強してその発音のし難いと感じるものがあり、それは大抵英語圏の人々もまたそう感じていることも多いが。)という側面は往々にしてあり、偏向性そものは致し方ないものなのかも知れない。だからラッセルが言う数理哲学的論理の真理性への希求は、そういった物理的条件とは無縁のある意味では大脳レヴェルの思惟の問題であることが了解される。数学という学自体が思惟の自然をモットーとしているからである。だから数学において物理学的な数値の無限に精確な表示は概念的には可能であっても、実際上のナノテクノロジーの限界をも考慮に入れれば実現不可能なことでもあるわけである。またこの不可能性はカントにおいても彼を悩ませた問題でもあった。カントは「純粋理性批判」(中、94ページより)において次のように語っている。

 (略)空間において実在するもの即ち物質は条件付きのものである、そしてその内的条件は空間の部分であり、また部分のそのまた部分は更に遠い条件をなしている。それだからこの場合には背進的な綜合が成立し、理性はこの綜合の絶対的全体性を要求する。そしてこの絶対的全体性が成立し得るためには、物質の実在が消滅して無に帰するか、それとももはや物質でないところの、即ち部分をもたぬ単純なものになるか、二つのうちいずれかであるような究極の分割による以外にはあり得ない。従ってここにもまた条件の系列と、無条件なものにいたる遡行〔背進〕とがある。(後略)

 この論述はラッセルの論述の最初に示した部分の論理を物理的空間に置換したものだ。
 無限大と無限小は理性的レヴェルでは理解出来ても、その包括的認識そのものが、物理的な確認が、こと相手が無限であれば完遂不可能である。その意味では無限とは、有限であることで確証されるラッセルの言う論理を成立させながら、一方でそれを無効にするようなもう一つの現実に対する我々知的存在者にとっての論理的無矛盾性への回答である。論理的無矛盾性とは、思惟の自然、思惟の必然であるのである。だからこそこう言える。論理的無矛盾性の学、数学の思惟の自然と、自然の自然とはおのずからズレを来たすのだ、と。(フッサールの言う文法的相違とはこの場合自然の自然に該当するのである。)
 遺伝子の翻訳ミス、配列ミスといった自然の自然な在り方が示すものは、結局のところ我々が理解し得るものは法則性だのア・ポステリオリに確認し得るところの大まかな真実だけで、それに逆らう自然の誤差とかの極小的なレヴェルの偶然性を支配するような必然性(そのようなものがあっての話だが)というものは現時点での我々には解析不能なのである。そのことをよく物語っているのがデリダの発言「有限性は本質的であって、根本的に乗り越えられることはけっしてあり得ないのではないだろうか」(「『幾何学の起源』序説」117ページより)であろう。
 しかし有限であればこそある個体同士の生殖行為によって産出される遺伝形質を備えた子供、子孫の系譜が生物学的には可能ともなり得るわけであり、その片親から二分の一づつ継承される同一のDNAが同一であればこそ情報を伝えられるというもう一つの厳然たる普遍法則を指し示してもいる。我々自身とは完全なるコピーでもないけれど、完全なるオリジナルでも決してない、ということなのである。偶然性は大きいけれど、遺伝的形質は確固たる必然であるからである。
 我々は生物学や遺伝子工学においてショウジョウバエや線虫、あるいは植物に関してはシロイヌナズナ等といった特定の生物のみを集中的に探索してきた。それは普遍的法則性の発見のためにその時その時の研究者たちと、現代科学技術の限界的事情、倫理的事情(人間を実験材料に出来ないものも沢山ある。)によってもたらされた致し方のない現実であり、この場合それはフッサールの言う文法的相違であり、自然の自然に対する対処法だったのだ。(思惟の自然では人間を知るには人間に対する実験が最も有効であることは確かであるのにそう簡単にはいかない。)しかし我々が例えば長く外国暮らしをしていて、久しぶりに祖国の人と邂逅した時、極自然と母国語で話すような、同一のものに対しては情報が生まれるという物理法則は、もっと近しい関係で言えば別々に育った一卵性双生児が殆んど始めて会ったその瞬間にすぐに気心を通じ合うような真実からも証明されているし、実験することが憚られるような人間の本質も、実は潜在的には我々自身が最もよく知っていることなのかも知れない。しかし科学は証明されなければ、自然法則としては決して認知しはしない。言語学者や脳神経学者たちは常に障害をもったケースを取っ掛かりとして、自身の病理学的見地から言語行為の本質を探ってきた。中でも失語症とか言語障害とかの症例は既に何世紀も前から多く報告されているし、また研究も盛んである。そこから幾つかの重要なものを取り出し検証してみよう。

Wednesday, May 5, 2010

C翻弄論 7 中位者の自己犠牲的精神に纏わるマゾヒズム的傾向と権力志向的サディズム

 我々の社会を見回しても容易にその例が見られることというのは、中位者の下位者に対する優越意識の誇示である。巫女論において吉本が主張したこととは、この中位者の心理を抉り出すことにあったと私には思えてならないのである。というのも巫女はそれ自体では決して権力者ではないけれど、上位権力者に対してはある種の近寄り難さを心理的に抱く大衆が身近なアイドルとしてこの巫女を認識していたのではないか、ということと、もう一つはこの巫女の行状を巧みに利用した中位者たちがいて、彼等は決して上位者には未来永劫なれないことを自己内でも自覚的であり、その自覚が今現在の上位者にあっては、その地位を揺ぎ無いものにして、尚且つ下位者の中からあまり優秀な人材が出て、上位者並びに自己を中心とする中位者社会の脅威にならないように心がけることがモットーであった、と考えられるのである。巫女は言わばそういう思惑を実践するための大衆つまり下位者に対する恰好の緩和的な素材であり、上位者に対する尊崇を維持するために機能したし、それを積極的に下位者に対して啓蒙することが中位者の使命であった、と想像される。
 アリとかハチの社会では中位者というものはメスの働きアリと働きバチである。下位者はオスの働きアリ、ハチである。上位者は女王アリとハチである。この圧倒的多数の中位下位者社会であるミツバチの世界では、下位者働きバチ(この中から王は出現しないという意味では働きはメスと同じでも下位者と言ってもよいだろう。)にとって遺伝学的にも実際の親である女王よりも兄弟に当たる働きバチのクラスの成員の方が血縁は強い(W・D・ハミルトンが発見した。女王アリ・ハチはメスをオスとの交接で生むが、オスはそれなしに生む。)ので、他所から女王地位剥奪者が現れて女王が変更されることより、自分の子を作るより、親の女王がいつまでも居座っているよりも自分の遺伝子を一番受け継ぐ兄弟姉妹が女王になった方が得なので、同一クラスの成員のために只管働き、彼らの結束は決して揺るがない。今度はアリの話をしよう。(ドーキンス「利己的遺伝子」より)
 それはある意味では社会内自己犠牲率先主義である。そこに介在する固定化マゾヒズム(勿論彼にそういう認識はない。擬人化して私はこう呼んでいる。)は、実は社会システムを改変しようと試みる不届き者を警戒し、未然にそのような行為を防止することにあるが、いざ女王の座を狙う他所様の不届き者が出現すると、今度はその不届き者の発する独自のフェロモンによって、たちどころに洗脳されて、今現在の女王が偽者であるという暗示にかかり、女王の挿げ替えを実践することに協力する。(現在の女王の首をちょん切るのだ。)しかし不届き者自身は彼等の横の結束さえ崩壊させなければ安堵して女王の座に座る。その繰り返しである。このような共同的な結束による自己犠牲的な心理が人間社会にも多々見受けられる。つまり重要なこととは、女王がどんなに偉くても、ハタラキ・クラスの横の結束を壊滅することは不可能だ、ということである。このことは人間の歴史においても、中世における帝国とか王国でもしばしば見られたことである。
 先述の寂寥が過食に繋がるという事態は、ある意味ではまさしく性的欲求の非実現性がもう一つの快楽である食へと向かうということと、言語活動であるところの会話する対象つまり他者が身近に不在であることが、性的抑制という言語思考的快楽をさえ阻止されているために、致し方なく(勿論そのようには当人には意識されないが)食へと意識を向かわせ、やがて性的抑制が過食という事態へと転化する、という風に解釈出来る。
 しかしそのような過食という行為それ自体は対他的には迷惑を直接かけないで済む。しかし社会機能維持の観点からは中位者たちは、下位者に対して日頃から上位者に対しては自己欲求を抑圧してもいるので、実は潜在している上位者に従属すること自体に内在するマゾヒズム的ストレス(そういうものがあってとして)を下位者に対するサディズムに置換しているのだ。それが横の結束だけはたとえ王者でも干渉することは許されない中位者の不動の権限である。そのような心理で臨む下位者に対する中位者の態度というものは、上位者に対しての従順を下位者に対して「自分だってこれだけ我慢しているのだから、お前も従え。」という要求しているのと同じである。それはある意味では上位者に対し自分でも気付かぬストレスも抱いているということをも意味しないだろうか?
 言うまでもないことであるが、アリやハチはあくまで遺伝子的な判断によって結束するし、上位者になりかわろうとする不届き者に対して誘引され、再び作業遂行という事態(女王の首を落とす。)へと至る。しかし人間は遺伝子的な傾向性として上位に対しては諂い、下位に対しては尊大になるという事態はあり得るが、それは無意識に表出する誰しも経験する惰性的な意思決定性によるものである。人間の場合、実際信条としてそういう態度を採ることを忌避している場合、意識的に無意識の惰性的対下位者に向けられる尊大さを抑制しようと意思決定することはある。思いやりである。しかしにもかかわらず殆ど自動的と言っても構わないくらいの意志的な対下位者尊大性の誇示者というものはいつの世にもいる。そういう人間の心理はまさに信じること、つまり上位者に対する礼節死守に対する神からの恩恵が下位者に対する上位志向性秩序への服従強要のための抑圧以外の何物でもないという信条に支配されているのである。それは性的快楽を抑制する機能の一つとしての言語的な思考、あるいは言語使用快楽の極がまさに、信じることが至上命題である、信じて実行することが自由として至上価値である、と命令しているのである。そこでは最早対自己懐疑というものは存在する余地が与えられない。信じることというのは考え続けることの放棄であり、惰性的性格(只管続行を命じる)がある。(宗教的妄信にもそれが言える。)
 しかしこの種のマゾヒズム自体がサディズムへと転化されてバランスをとっている決心の構造というものとは、一面では惰性的な日常性への依拠と同時に対下位者の脅威論を論理的に正当化している、とも言えるのである。下位者による中位地位剥奪への恐怖が支配へと直結している。これはいじめの心理の基本的構造でもある。
 恐怖が支配へと直結しているものの典型の一つが宗教である。宗教心というものを仮に今神に対する畏敬の念、神を恐れる気持ちであるとしよう。するとそこから我々は、我々自身が長い時代不可知の領域を不可知のものとしてエポケーすること自体が、とてつもなく心配なことであり、耐え難い困難さを伴うものであることを知る。というのも人間存在が不完全だという認識があるから、実は無であるところの不可知領域全てを何か実体が在るかの如く「神」という存在を仮定し、仮想しそこに最大の信頼と依拠を決め込むことから宗教心としての神の存在の確証を人間は得るのである。実際不可知領域というものはミステリアスに見える。そこで神という概念に代表させ、自らの小ささを覚知するための方策として、不可知領域の広大さを実感し得ない者(それは実際知覚不能であるからそうであるのは当然なのであるが)に対して不遜である、神をも恐れない不届き者であるという烙印を押すのである。その行為もまたある種の中位者の下位者に対する愉悦として古代より人間において機能してきたのである。上位者というものが人間であることを重々承知であるのにもかかわらず、人間に対する恐怖を神への恐怖に置き換えることで急場を凌いだ歴史的経緯の中から我々の祖先は次第にその仮託存在を実在するか如き錯覚に陥らせたのである。再び神への認識に戻ってみよう。

 ユダヤ哲学者であるレヴィナスも多大な影響を受けたブーバーには神が論的に前提されている。ブーバーは「我と汝」において、次のような叙述において、神というものの在り方を明確に規定している。そして続けて語る。
「(前略)自己の態度をたんに<体験するだけにとどめ、心の中だけに終わらせてしまうひとは、どのような深い思索に耽ろうとも、世界は存在しないのである。_また、彼の中に生ずるどのような心の戯れ、芸術、陶酔、恍惚、神秘があろうとも、彼は世界のいぶきに触れることはない。自己の内部でのみ解決を求めているかぎり、ひとは世界を愛することも、悩むこともあり得ない。彼は世界へと出てゆかないからである。ただ世界を信ずるひとだけが、世界とともに自己がなすべきことが分る。このことを明らかに認めるひとは、神なしではあり得ないであろう。もしわれわれがけっして消え去ることなき真実の世界を愛するならば、あらゆる恐れの中にあっても、すすんで愛し、われわれの精神の腕で世界を抱擁するならば、われわれの手は、この手を支えている別の手に出会うであろう。
 神から人間を分離させる<世界>とか、<世界の生活>があるとはおもわない。そのような<世界>は、経験し利用する疎外された<それ>の世界の生活である。
 真に世界へ出てゆく者は、神に出会うべく出てゆくのである。内への集中と外への活動、この双方は、一にして他であり、また一つであることを真に必要としているのである。
 神は一切を包む。しかし、神は、いっさいではない。神はわたしの<自己>を包む。しかし、神は<自己>ではない。このいかなる言葉によってもいいつくし得ようもないもののゆえに、わたしの言葉で、他のものが自分の言葉で、<なんじ>というように、<なんじ>と語ることができる。このいいあらわしがたいもののゆえに、<われ>と<なんじ>があり、対話があり、言語があり、原行為である精神があり、言葉が永遠に存在するのである。
                      ❋
 現実に現存しているという人間の<宗教的>な状況は、根本的に解決できない二律背反を特質とする。二律背反が解決できないということは、まことに人間の本質にもとづいている。またそこから命題を認めて反命題を認めて反命題を認めぬ者は、人間の状況の意味を破壊してしまうであろう。さらにこの二律背反性の矛盾を生命をもって耐える以外の他の方法をとろうとする者は、人間の状況にたいして誤りを犯すことになる。人間の状況の意味は、すべての二律背反に生きること、なんの予想も、想像も、規則ももたず、ひたすら、たえず新たに生きることにある。(119~120ページより)」
 
 ブーバーは神を絶対視しない。寧ろ各自心の中にある神を大切に思う。(そういうところはスピノザ的である。)神は彼にとって全知全能ではない。太字の部分が最も神の規定性としては重要である。そして神とは言ってみれば、各自の中にあるDNAのようなものであるかも知れない。それは確かに自己ではない。自己である神は部分的なものだ。しかしそれは自分にとっても「なんじ」にとっても皆共通して持つ重要なものである。まさに「われ」は自己を離れて「なんじ」の神や他の「なんじ」の神とも出会うし、協力することが出来るのだ。「この手をささえている別の手」こそ、我々が皆持つ人間としての絆である。この主張は明らかに吉本の共同幻想とも出会う。共同幻想は自己幻想同士の出会いでもあるように思われるからだ。
 しかし問題なのは後半である。とりわけ最後の言葉である。「人間の状況の意味は、すべての二律背反に生きること、なんの予想も、想像も、規則ももたず、ひたすら、たえず新たに生きることにある。」という一説は極めて重要である。全て二律背反に生きることとは異質性同士の共存と捉えれば理解出来る。「われ」と「なんじ」は確かに違う。違うから他者であり、他者と自己が対幻想となり得る。これが意思疎通の始まりである。
 しかし意思疎通というものは常に巧くゆくとは限らない。サールは同じ哲学者でもブーバーのように暖かくは眼差しを向けはしない。寧ろアイロニックであるし、懐疑主義的である。しかしその方法が理解という道筋には重要なのだ、という主張がある。
「ちなみに私は、約束を守るという義務が道徳的義務との間に必然的関係をまったく持っていないと考えている。約束を守るという義務が道徳的義務の典型例であると主張されることはたしかに多い。そこで、非常に陳腐な例を考えてみよう。さて、私が誰かのパーティーに出席すると約束しながら、その晩になるとパーティーに行く意欲を失ったとしよう。もちろん私は、出席するべきではある。なぜならば、結局私はそのように約束し、かつ出席しなくてもよいとするための言い訳(excuse)は見出されないからである。にもかかわらず私はそのパーティーには行かない。はたしてこの場合、私は不道徳であろうか。この場合が約束不履行であることは疑いはない。そして、私がそのパーティーに行くことがなんらかの理由で重要なことであるとすれば、私が家から出ないでいるということは不道徳なことであろう。しかし、その場合には、不道徳かいなかということは私の出席がどれほど重要であるかによってきまることになり、約束の際に引き受けた義務からただちに導かれるものではなくなってしまうであろう。(「言語行為」333~334ページより)
 まさに昔観た映画シリーズの植木等の無責任サラリーマンの台詞である。「何?お呼びじゃない?こりゃまた失礼!」である。つまり敬遠された人間の心理は、敬遠される自己内の理由にある程度自覚的なのである。だからこういう場合、無理してまで向こうの建前的誘いに応じるような義務感など無い方が寧ろ喜ばれるのである。人間引き際が大事である。いつまでもある場所にはいないで、いち早く他者の暗黙のサインを察して退散する必要性も社会にはあるのだ。それを一々説明を受けずには気が付かないような疎さはあまり褒められたものではない。
 しかしこの見解は実はブーバーの上記の見解と全く一致するのである。二律背反的な他者との相関関係を理解出来ない人間、つまり彼が「この二律背反性の矛盾を生命をもって耐える以外の他の方法をとろうとする者」とする人間こそ、他者からの建前的に誘いを受けたことを承知せず、敢えて説明されなければ何も覚知しない鈍感な人間のことだ。全く異なった文脈のように思われる哲学者間にも多くの共通した考え方は存在するのに、ただ闇雲に彼らは次元を異にすると見做すのはただ安易な流派受け売り的ジャーナリズムである。実存主義も行動主義も論理実証主義も構造主義も日常言語学派も分析哲学もポスト構造主義もへったくれもない。それらの哲学者たちは別のそのような言葉で括られることを望んではいなかったし、今もそうだ。それを示すためにブーバーとサールを持ち出した。思想を一括りにすることこそ中位者の知恵である。人間の中位者の心理は上位者へのマゾヒズムを下位者に対してサディズムに転換することで、自己安定化を図ろうとする無意識の選択なのである。それは誰もが持つ心理である。
 生物の世界における熾烈な自己犠牲性について思い出して頂きたい。彼らのように自己の分際を心得ること、自分の立場を弁えることはどの社会でも重要なことだが、そのことに関しては疎い奴がいる人間よりも寧ろ動物界の方がより徹底している。ハタラキアリやハタラキバチらは自らの本分を逸脱しない。もっと徹底している。自己犠牲の精神にも近い。「自分は社会においてそれほど偉い存在、分際ではない。」という自覚を徹底させている(勿論比喩である)。だからこそ逆に恐ろしく義務遂行的であるのだ。何しろプログラムされた通りに生きている。人間は頭がいいので遺伝子プログラムに沿って生きているとは考えたくはない。仮にそうだとしても別の理由を探したい。そして自分だけ固有であると思いたい。そういう考えの人間同士は相性もいい。

 付記 養老孟司は脳を実在作用、遺伝子を情報作用と捉える(「人間科学」)しかし氏のドーキンス批判は当たっていないのではないだろうか?この事は別ブログ 「生きているもの」と「死んだもの」養老孟司と永井均 において近日中に示す積もりである(未だ調査すべき事項があるので、すぐというわけにはいかないが)http://d.hatena.ne.jp/olivlove/#edit_in_place
 養老の考えの基本である行動が脳によって実在的に決定される事が遺伝子に影響を受けないという事は確かに行動学的には正しいが、そもそもある職業を選択したり、親しい人とか尊敬する人が決定される事はやはり遺伝子の影響が大きいと私は考える。要するに養老は解剖医としての経験から自然と人口を二値論理的に分極化したいようだが、やや即物的に過ぎるというのが、哲学的考察(氏は哲学者ではないという自意識が肯定的に強い)としては、少なくとも私にとっては物足りない。私たちは社会生活上外面的体面を保つ事と、心理的内面を保持し続ける事の二面的同時性を生きるし、それは自己に於いてそうであるばかりか、ミラーニューロンの発見などからも明白な様に、他者も又そうであるという確信を生きる。従って結論的には脳も遺伝子もあらゆる行動と意志決定、その合理化に関わると私は考える。