Monday, July 5, 2010

C翻弄論 結論 魅力論

 多くの人々の心を惹きつけるものには必ず何かがある。皆が魅力を持つものが悪いものの場合もある。また自分だけが魅力を感じるものが下らないものであるとも決め付けられない。その本質論に入る前に少し堅い話をしよう。
 基本的に人間の認識の視点の根源とは、ミシェル・アンリの主張、「西欧哲学が拠って立つ地点が存在論的一元論であり、主観、客観の根源は客観的に他者認識する」に実は我々今まで長々と考えてきたことの本質が横たわっている。フッサールが超越論的主観性と捉えた我々の信念の本質も、実はアンリが述べた存在論的一元論に収斂されてゆく。人間が信念を基本的な知恵として無意識のレヴェルからも携えていること自体が、時には弊害的に押し寄せる典型的例として、贔屓の人間のなす行為はたとえそれが善行ではなく、暴挙であってさえ、容認し、またそれとは逆に嫌悪の感情を抱いている成員に対して我々はそれが正論であっても尚容認し得ないという極めて不都合な矛盾した傾向性があるということだ。人間はなぜ他者(自分の周囲に生活している成員に対してや、自分とは直にはかかわりがないが、各種メスメディアに登場する人物に対して畏敬の念をも含めて)に対して、贔屓にするのだろうか?その精神状態が、魅力を感じる一個のクオリアによる仕業と捉え人間論的本質を考えて纏めよう。
 人間は贔屓なものに接する時、それがヒーローであろうとアンチ・ヒーローであろうと、それが正義漢だろうと、悪人だろうと、いったん虜になるとなかなかその感情を払拭出来ない。それは一種の麻薬的な作用である。進化論生物学者のドーキンスは例証しているが、カッコウは他種の鳥の巣に自分の雛を預け託卵するが、その託された他種の鳥は自分の雛とカッコウ両方を育て、しかもカッコウの雛は他種の雛よりも巨大化して育ち、果ては他種の雛を巣から蹴落とす。彼はカッコウのように托卵する鳥類がなぜ別種の親鳥たちを騙し続けることが出来るのか、ということについて、それは騙される方においても何か得体の知れぬ快感、つまりつい騙されてしまう、騙されるように身を委ねてしまう説明不能の魔力的な魅力が托卵するカッコウの雛に備わっているのではないか、と考える。この考え方は極めて魅力的だ。この生物学的事実は自然選択や進化上のメリットという面からだけでは説明がつかない。明らかに偽装される側の雛たちは本当に親鳥から餌をせしめる権利を有しているのにもかかわらず、貰い少なくなるばかりか、巣から偽装側のヒヨドリに蹴落とされる。実子を失うという痛い思いをしてまで、偽装に嵌ってしまい、作為を見抜けない親鳥たちにとってその偽装者カッコウの雛(託卵するのは親であるが、雛自身に)はたまらなく魅力的なところがあるに違いない、とい彼は考える。我々にも悪党であることを知りつつ魅力的な者にはつい惹かれる、贔屓にすることが日常でもある。それが幼児のように害悪の少ないケースばかりではない。大の大人に対してさえ、あの悪党は何故か許せるという理性レヴェルから言えば合理的な説明がつかない贔屓感情を抱くことは珍しくない。そういう意味で我々はある特定の政治家やタレントを心から贔屓にして、ヒーローにしたがる。それも自分だけが一番その本質を見抜いているかの如き錯覚を持つ。(実は多くの他人が同じ気持ちなのに。)
 例えば我々が異性に惹かれる時、そこに理由などあるだろうか?あるいはそういう理由を概念的、合理的に説明出来るだろうか?恋人や愛人(性的パートナー)を選択する時我々は果たして自己や他者に対してその理由を理性論的に説明し得るだろうか?またそういう説明に意味があるだろうか?必要とする他者を選択し、彼(女)を「自分にとって必要な人だ」と意志決定するのに一々合理的説明が自分や他者につくだろうか?だから逆に公的利害において(例えば会社の将来)のためを思って自己の贔屓心や親近感にのみ依拠させないで人選するというような時に人は私的感情を敢えて抑制しているが、友人を選ぶ時我々は、論理的に考え行動しているとは到底思えない。本家から受け継いだ資産管理のために配偶者を世間への体裁を気にして公的な人格、家風に沿う異性を理性論的に選択するということは過去にはあったし、今でも政略結婚的な現実も皆無ではない。逆にそのような家訓を持つ家系の人間でさえそんなに資産管理が重要なら、結婚相手に自己選択しないくらいなら、寧ろ資産管理ビジネスの専門家を雇う方が賢明であると判断する人間も多いだろう。配偶者だけは理性的に選ぶという考えは今日でも消滅はしていないが、それでも自己の内的な贔屓心を全く無視して選択するというようなことがあり得るかどうか私には疑問である。だから仮に選挙で候補を選ぶ時に全く贔屓心を無視し完全に理性的に判断して投票している、という主張にも信頼が持てない。本当はただ惹かれるからその候補に投票しているのに、安易な動機で選択したことを悟られまいとして自己弁護していることが多いだろう。
 我々はヒーローに惹かれる(スポーツの勝者のような)場合、「合わせる」意識を生じさせ(勿論個人的に好きである場合も多いだろうが)、ヒーロー並びに、アンチ・ヒーローの中に、ある種屈折した性質(ヒーローの玉に瑕の部分)を見出し、贔屓心でそれさえ惹かれる場合、孤独確保意識を無意識に採用している。そういう場合自分だけがそういう嗜好なのだ(私秘的なもの)と錯覚する。
 人間は自分にだけ理解出来ると錯覚するような真摯さのクオリアを持つ、と私は思う。実はこの自分だけが理解出来るのではないかという私秘性こそが、贔屓感情の最も顕著なものである。しかしどのようなマイナーな嗜好でも、恐らくそれは精神異常(ネクロフィリア、つまり死体愛好者とかのような)を除いて、自分の脇の汗の匂いを嗅ぐ癖を持っている人は多い。告白すると私にもそういう癖もある。そういう悪癖とテレビに登場するヒーローやマイナーなタレントや政治家、あるいは文化人に対する贔屓感情には共通性がある。それがマイナーであればあるほどその魅力は自分にとって切実だ。癖はある意味では全般的にサルトルが粘体の惰性と呼んだもの(「存在と無」、「想像力の問題」その他で)と同様、拘泥しやすい魅力だし、恍惚的な偏愛をきたしもする。それは嗜好的な翻弄だ。どのような高尚な趣味であれ、卑俗な癖であれ、恐らく生物学的な脳内の作用としては同等のものだろう。またもう一つ重要なことは、それが自分だけに固有ではないということを他者から告白され知ると、それまで自分だけだと思い抱いていた不安感(マイナーさに対する偏愛であるが故に持っていた不安)が一気に解除され、逆に誇りとなることすらある。これは恐らく脳科学的見地に立てば、スリリングでサスペンシヴな内容の映像を見て興奮を味わう脳内のモルヒネ作用とも関係があるだろう。ある種の達成感というものは、自分の目標達成であるならまだしも健康だが、自己欲求が満たされない代理感情として他者に価値的、能力的抜群さに対する憧れと、日頃不満を抱いている成員を代理攻撃し溜飲を下げる能力の持ち主がヒーロー(皆自分にとっての私秘的な存在へと昇華される。)の発見の場合もある。またヒーローは、得てして多少悪の匂いも立ち込める、毒がある方が自分の日頃の鬱憤を解消してくれる。
 ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクはその著「斜めから見る」において<主体というものそのものも人間が自分の中心に設定した価値的な何物か(それを彼はラカン理論を軸に、対象aと呼んでいる。)を巡りぐるぐる回る自己内部の心的な運動だ>と捉える。中心に幻想があり、それは私秘的であり(そういうところウィトゲンシュタインの私的言語を想起させる。)、その非在性が宗教、神、偶像を私的に存在させ、それは充足されぬ欲望の欠落感を誤魔化すために設けられた空虚な中心であり、それがラカンの言う対象aである。主体というもう一つの幻想をその周囲をぐるぐる回ることを通して顕現させる当のものであるという発想は説得力がある。ラカン流の現実界という概念はある意味ではカントの物自体に近い観念であり、その物自体の薄っぺらさに耐えられない人間はそこに意味と価値を付与する、とジジェクは捉える。「存在の耐えられない軽さ」の克服、現象界の限界は人間の認知の無能力に対する覚醒である。だから人は他者(客観の起源)に惹かれる。
 洋の東西を問わず、宗教の本質も、偶像設定の本質(だからこそ古代のユダヤ教から一神教の宗教では偶像を禁止してきた。それだけ偶像崇拝には魅力があったし、それは今でも変わらない。)も皆この人間の中心設定的心的作用、そこに価値と意味を付与せずにはおれない、それでいて集団同化意識と孤独確保意識とが両輪として作用する現実と関係があり、一方で皆の憧れる対象を自分も欲し、他方それだけでは飽き足らず、自分固有の私秘的な対象を求める。人間の「真摯さのクオリア」とも呼ぶべき言語化し得ない感性は馬の合う人間とそうでない人間の差を他者に対して我々が付与するように、もともとあったように感じられはするが、本来的には既成事実による偶発的な展開(我々の友人関係を見てみれば分かる。しかし偶発性も相互の相性というものに端を発する場合も多いと思われる。)に対して真理の如き価値を付与する言語的思念の幻想である。人間はア・プリオリに設定された真理に沿って生きるのではなく、自分が信じられ、愛し得る対象を軸に自ら固有の真理を打ち建てようとする。そこには魅力という得体の知れぬ、価値観とも真理とも異なる受容可能性、拒否不必要性という事態が立ちはだかる。この「魅力があるから贔屓にする」は合理に説明は出来ぬ。説明出来るものは魅力ではない。
 ドーキンスの指摘する「騙され続ける事態」を招くこと自体他種の鳥の生存戦略からすれば、非合理的な、エネルギー・ロスである。にもかかわらず騙されてしまうことに、ドーキンスはカッコウが麻薬的な内分泌性の物質を発散しているのではないかと考える。そして人間の男性が魅力的な女性に対して直の恋愛関係を作ることなく、その写真や映像を見ながらマスターベーションをする事実も生物が生存戦略的な意味合いからは非合理的な行動を採る証拠だ、とする。魅力の本質はそれが利益を齎すものであれ、実害を被るものであれ、麻薬的な脳内の非理性的認識に大いに関係があるのではないか。周囲の除け者になりたくないし、いじめも受けたくないのでそれが悪いことだと承知してもつい他者と「合わせて」いじめに加担することだってある。
 社会常識、社会通念、世間知、一般的観念といったものはおしなべて、人間が集団生活を営む上で必要不可欠な同調性である。挨拶、儀式全般の遂行、敬語の使用、法律遵守、行進、合唱、楽器演奏(合奏)、同人誌、雑誌への投稿、祭りの熱狂、スポーツ観戦、演劇鑑賞、音楽鑑賞、選挙、キャッチフレーズの使用、詩歌や駄洒落における語呂合わせ。それらは全て集団内で「合わせる」行為として位置付けられる。それはある意味では法的な遵守姿勢だし、積極的な個人の側から集団へと同意表明行為として認識されよう。オリンピックの際には通常、自分の国の選手を応援し、選手がメダルを獲れば、国家と国旗が掲揚されることを喜び、自国選手が敗れれば同盟国とか贔屓の国を応援する。こういった場合我々は集団同化意識に自らの関心的志向性を焦点化する。そのことの是非を疑うことは通常稀である。しかし同時に自分だけのプライヴェートな時間や空間を求め、その中で密かな歓びを味わうという二面性が人間にはある。要するに他者から疎まれない程度に逸脱したいという欲求がある。
 例えば性行為は誰でも一度は経験する類のものという意味では明らかに「合わせる」行為である。しかし同時に、それは明らかに反社会的な行為でもある。つまり個人のDNAの存続のみを目的とした行為は社会的に結婚という形で価値規範的にお墨付きを得ているが、心的にも行為目的的にも明らかに本質は反社会的である。ただ社会生物学、生物進化学的な意味で生殖、種の繁栄のための正当行為であるに過ぎない。
 例えば犯罪者のような成員に対しても、完璧に憎悪の対象となる者から、果ては同情を寄せたくなる者まで段階があり、どの犯罪者に対しても同じレヴェルで感情を寄せることはない。何かに関して私は寛容だが、別の件では許せないというモラル上の是非感情や、何かに関してはずぼらでも我慢出来るが、別の件に関しては厳密でなければ気が済まないという判断基準には個人差があり、その個人差に内在する「真摯さのクオリア」の波長が合う人間同士は馬が合う、気が合う(chemistry)。が、それは容易に説明することが通常出来ない。個人的な性格遺伝子の差異、個人史といったものが密接に絡み合って形成された判断基準だからだ。こういう個人的に相性がいい人間関係というものはしばしばある魅力ある対象に対して長所以外の欠点にさえ魅力を感じ合える、偏愛的な嗜好に対する共感という「真摯さのクオリア」が重要な役割を果たす。(極めつけの変態的なことであれあるほど緊密な共感<背徳的なスリリングさ>が生じる。)それは権威からの重圧感からの開放意識とも大いに関係があるのではないか?
 私たちはこの相反する二つの心的傾向を常に共存させて生活している。皆が賛同する倫理を積極的に肯定し、皆が賛美する偶像的存在を自分もまた積極的に受容すると同時に、ある時は衝動的に価値基準の一切を否定したいかの如く、殆ど合理的な説明の尽かない判断基準を極めて理性的な判断規準と何の矛盾もなく共存させている。だから人間はどのようなタイプの者であれ、多かれ少なかれ社会的存在であると同時に、反社会的存在とも言い得るのだ。
 だから逆に究極的にどのような他者から爪弾きに合っても社会全体が自己の存在を容認すれば、その人間はよくある「変人」ということで済まされ、事実昔から偉人には変人が多かったということからもそのことは了解される。しかしもし自分の立場が完全に社会からも周囲の家族や仲間からも孤立してしまった場合、人間はそれでも尚内的に、神様だけには見捨てはしないだろうと考えてきた。神に対してだけは「真摯さのクオリア」で自己と繋がっていると信じたい。宗教心や神への契約の観念も全てこの心理に帰着する。社会から追放された異教者、殺人を犯し逃亡を続ける犯罪者でさえ、この究極の救いへの希求によって辛うじて生命を維持してゆける。だから自殺はそれでも尚、神にさえも見捨てられたと人間が認識した時に初めて自己に許す行為ではないだろうか?(我々は負け犬的な人生の成員に対してさえ共感を得ることが出来る。)
 人間は運命に翻弄されながらも、その究極の部分では自己に対する救いの場を常に見出している間は、未来へと希望を持つことが出来る。しかし自分の未来の全てが神の予定調和によって何らかの手段によって知らしめられるなら、我々は果たして生を、未来が不確実であった時のように全うし得るであろうか?
 全米で一冊の本が注目を浴びた。その本は日本に八年後に翻訳された。著者は歴史家アリス・ウェクスラーであり、その妹と一緒に彼女はある遺伝病の病因と、遺伝子家系図を見出すことに傾注する。その結果彼女らはある選択をする。ウェクスラー家において母親の遺伝的疾患を母親から告白されたのが、アリス、ナンシー姉妹にとって成人してからずっと後のことだった(結局この本の著者のアリスが二十六歳の時、1968年に発病徴候顕在化以後初めて彼女の母親がハンチントン病であることが判明する。)ことが、少なくとも幼年期、思春期共に支障なく成長出来たことを彼女らは今でも感謝している。だが自分の家系に宿る難病の系譜を知り、その事実に向き合う事態は、人生において関心対象を見出し熱中出来るという幸福な事実と異なり、その探索と、病気の系譜を辿る道筋は即自分たちに影のように投げかけられる家族の未来の運命なのである。
 アリス、ナンシーの母親レオノアは、家族の中から初めて大学へ進学し、大学院も卒業した俊才だった。彼女は生物学で修士を獲った。彼女の父アブラハム・R・セービンは白ロシアに住むユダヤ人だったが、帝政ロシアの反ユダヤ主義から逃れて渡米した。彼は衣料雑貨店で働いた。彼は幼い頃ルーマニアから移住してきた女性、サビナ・フェイゲンバウムと結婚した。彼らは長男、次男、三男、そしてレオノアを儲けた。レオノアの父アブラハムはアリスの誕生前の1929年にハンチントン舞踏病にて没した。レオノアの祖父ヤコブ・L・ザイチェク、やはり母の叔母のディンカ、そしてアブラハムの他の妹たちリア、アイダも皆この奇病によって命を落としている。しかしそのことはこの家族間では話題にするのも憚られるタブーだった。アリスの謂いによると「この家族はハンチントン病を恥ずべき秘密だと考えていたし、よほど親しい親戚が揃ったときでなければ話題に上ることもなく、それすらも稀であった。」(「ウェクスラー家の選択」以後全部この件に関して同書から)結局彼女らの父が配偶者たるレオノアの家系の真実を知るのはずっとあとである。アリスの父は若い頃弁護士になり、後に精神科医に転身するために最初妻と住んだニューヨークを離れる。しかし妻レオノアは家事に専念、若い頃の学問の夢を諦める。彼女は自分が女であるために彼女の父の病気について薄々知っていたが遺伝しないと思っていた。しかし後にレオノアの兄弟三人ともハンチントン病であることが判明(皆アリス、ナンシーの若い頃その病気で死ぬ。)した時、彼女自身その遺伝的な実害があるということを知り、同時に彼女の夫ミルトン・ウェクスラーも全ての真実を医師から伝えられる。しかし遺伝学を学んでいたレオノアは多くの文献から自分にも発病可能性があることを知らない筈はないと彼女の娘である著者アリスは述べる。ここに科学者であり、客観的に事実見据える知識と理性を持ち合わせている筈だが、こと自分のことになると大丈夫だろうと思いたい人間の心理が透けて見える。アリスは父親に母の病気を知っていて私たちを産んだのかと問い詰めるが、その時の彼女,及びそれを問い詰められて激怒した父の心理は筆舌に尽くし難い苦悩だったであろう。<私がこの本を読んで関心があったこと一つとは、アリスの語るレオノア・ウェクスラーが一人で悩みを抱え込む姿だった。喪の時通常韓国人は辺りを憚らずに嗚咽する。この行為はある意味では他者に対して窮状を訴えるかの如くである。しかしどうも彼女ばかりか夫もユダヤ系であるウェクスラー家の人々はそういうタイプではないらしい。それともアメリカ人の国民性なのか?私は以前湾岸戦争で亡くなった息子を持つ父親の映像を見たことがあるが、その時もうっすらと涙を溜めさえせずに、じっと悲しみを耐え忍んでいた姿が妙に印象的だった。このことに関して日本人も確かに自然死の場合、そうである。ただ自然死以外ではどうなのか私には未だよくわからない。アメリカ人は国家のために殉じることを名誉と思う気持ちが強いのかも知れない。(これも個人差はあるだろうが。)>
 ハンチントン病は16世紀半ばのノルウェー、17世紀のフランス、イギリスに既に見られ、それはアリスによるとヨーロッパ人の移住と植民地拡大の歴史でもある。舞踏病について簡単に触れておこう。これは広辞苑によると、「顔面、手、足、舌などに一種の付随的急速運動を現す、踊るような身振りを主徴とする疾患。リウマチ性舞踏病は小舞踏病といわれ、小児に発症し治りやすいが、遺伝性のハンチントン舞踏病(アメリカの神経学者G・S・Huntington1851~1916に因む。)は中年に始まり精神障害を伴い、進行性で予後不良。」ハンチントン病をもつ人々は、症状が次々に起こっても、物事を志向する感覚を忘れないでいるとはいえ(そこはアルツハイマー病とはちがう)、発病から十年、二十年たって、最終的には痴呆のような症状が起こってくるのが一般的なようだ。ある神経学者はこういう書き方もしている。「痴呆の最終段階に達すると、患者は人格の完全な崩壊という哀れな情景を示す。」という。アリスの母レオノアは四十六歳にして発病する。私たちは小児の際の難病(それは克服し得るものとそうではないものがある。)と大人になってからの難病というものの両方を経験する。認知症も大人になってからの難病である。そのいずれが辛いかという判断を我々は下せない。(コールド・スプリング・ハーバー研究所(チャールズ・B・ダベンポート創設)は功罪を世界史に残している。その実証的なデータには多くの難病保持者に対する激励となる一方、難病そのものへの恐怖感を与えてきている。特に「ハンチントン病の患者と発病リスクを持つ人々をアメリカから一掃するための強制断種であり、移民制限であった」という。(この歴史的な経過は我が国のハンセン氏病に対する国家政策とも共通している。))遅く発病するという現実が不安感を倍増させもする。事実母親の遺伝病を聞かされたアリスは自分にも50%の確率で受け継がれた遺伝子についてナーバスになり、果てはほんの些細な忘れごとをも遺伝病の徴候と結び付けてしまったという。結局アリスたちは母親がその兄弟全員がハンチントン病で死ぬまでは自分にもそういう運命に無頓着だったが、次々訪れる死を目撃し不安感に襲われ始め共に心が掻き乱されてゆく過程を体験する。そして何よりも自分より先に徴候の現れる家族、死に行く家族を健常者として見守らなくてはならない運命が最も著者にとって過酷だったと言う。
 かつて西部邁はテレビで「日本人は死を恐れるようになった。」と言っていたが、私は違うと思う。死が恐ろしいのはどの民族も同じだ。我々はただ死の恐怖の克服の仕方が時代ごとに変化してきていると捉えた方がよいと思う。寧ろ日本人は近年「生に対しての執着心あるいは忍耐力」が薄弱化してきたと思う。死の恐怖の克服の仕方において現代の日本人は死を受容することを望んでいるとさえ言えるのでは?ルソーは「人間不平等起源論」や「エミール」で衣服を着、文明化したおかげで人間が微弱になり、免疫抵抗力を失ったと言った。それはレヴィナスが「<渇望>とはなにも欠けてはいない者が有する欲求、じぶんの存在を所有している者、みずからの充溢のかなたにおもむく者、<無限なもの>の観念を有する者に帰属する希求であるからである。」という謂いと直結している。日本人はその意味では過不足ない状況において、「いじめ」を同一種内攻撃欲求実現に利用し、サディスティックな欲求を満たし始め、それを受ける者さえそれを受容して、抵抗することを即座に断念する。嫌いな人間から無理して好かれようと思う必要などないと私はいじめを受ける人に言いたい。全ての人に好かれようと思えば、無理が生じ、いじめの対象となりやすいと思う。敵は人間社会においていてもよいのだ。その証拠に本当にウェクスラー家のような事情を抱えていると知っていて尚いじめをするような輩は殆どいないと私は思う。いじめの対象となることは存在感があるということなのだ。(また今日のいじめ自殺は大人も含めて個々異なる理由はあるのだろうが、どこかで自殺志願者たちには、自分の死をテレビや新聞で取り上げられるのではないかという事態を想定している気が私にはする。またマスメディアはそのいじめ自殺を一括してニュースソースにして劇場型社会性認識を無意識に視聴者に植え付ける。)
 遺伝子レヴェルでの疾患を持つ家族はウェクスラー家に限らず、必死で生を求めるから自殺という選択肢は、最悪の場合にのみ保存されている。未来予測の下で、そう遠くはない死の決定性は回避不能である遺伝子傾向性は、今や個人情報である。ルソーは「動物とは死とは何かをまったく知らない」と言ったが、私は言い換えたい。「動物は元気な時に自分もいつかは死ぬということを知らない。人間だけがそれを知っている。」と。そして元気な時くらい死の現実を忘れるような鈍感さも時には必要だと私は言いたい。本当に死に隣接した者は生を意識し、死を考えないようにする筈だ。元気なのに尚死を考えられるのはレヴィナスの言う渇望であり、無いもの強請りなのだ。(いじめられていると感じるあなたに言いたい。そんなにいじめをしているという意識は多くの人にはない。いじめは皆のからかい気分の気紛れでしかない。大人社会にはもっと激烈ないじめが罷り通っている。我々は皆多かれ少なかれいじめの被害者かつ加害者である。被害者意識の過剰反応を抑制することをモットーとして頂きたい。偉大な人間の大多数は苛められっ子である場合も多いのだから。)

 私たちの知る歴史はある意味では支配者、権力者によって書き換えられてきた部分が多分にある。しかし同時に権力者の存在の仕方、つまり真の権力は、中間支配層、つまり前章の最後節の中位者にあり、その安定志向が大きな歴史の書き換えを行わせてきた。前章で私は敬語や官僚の誕生のプロセスに関する思考実験を試みたが、この中位者の存在は何も官僚職に留まるものではない。寧ろ官僚の中にも立派な志の方も多い。マスコミもそうである。進歩主義的考え方の人々も、保守的な考え方の人々の間の双方に、あるいは経済的優位にある人々、貧困な人々、あるいはそのどちらにも属さない人々の中にも真実を求めている人々と既得権益に胡坐をかく人々の両方がいる。つまり国家という幻想性、庶民という幻想性双方に、私たちは常に二つの志向、保守安定希求と革新変動希求の両方を持つ。だから偶像崇拝的な庶民の論理と感情と権力者たちの思惑が合致した地点が国家であるとも言える。(勿論その中間層に両方の要素が混合されている。)しかしその細部を粒さに見れば、柳田國男が「海上の道」で述べているように、離れた地域の説話同士は何らかの行商、出稼ぎ者による人的交流と邂逅によって多分に同化されてゆく。(それはユダヤ教経典とギリシャ神話、あるいはユダヤ教典とイスラム経典、キリスト教典とイスラム教典といったもの同士にも多分にその作用は確認出来る。)その同化作用が段々一つに纏まったものこそ国家神話の世界であるとも言える。それは多分に庶民の総意としても機能してきたわけである。(私たちは「権力者は身勝手、庶民は被害者」という意識をそろそろ脱却しなければならいし、マスコミもそういう単純な二分法を脱却すべきだ。寧ろ最高権力者たちは、底辺の人々と同様無力な部分もある。中位者の横暴をこそ本質的な除去姿勢と捉える必要がある。それは恐らく特定の誰かではなく全ての存在者が有している傾向性である。)
 だが一方柳田が「遠野物語」で座敷童のことを民話題材として取り上げたが、地方には寒冷による飢饉や生活上の多種の事情から割合最近の近代史に至るまで間引きは行われてきた。そういうことや水子に対する供養と鎮魂の意識がいろいろ合わさって座敷童の民話主題が形成されてきた、という推察も可能である。その意味で神話学、民話学、民俗学の世界での学問的対象は、人間の生活レヴェルから推察出来る人間が自然と接してきた精神史と不可分だ、という視点に立てば、或いは体質と文化の相関性に立てば、DNAという遺伝子生物学的認識(民族、血縁一族、共同体)と、それに影響を与えかつそれに起因する人間の自然に対する生活感情と、プーサン、バルビゾン派、セザンヌ、ターナーといった西欧風景画の系譜、あるいは日本の、遡って中国の山水画の系譜等、芸術表現上の精神史、世界認識史は、今後新たなスペクトルにおいて共同作業が求められるとは言えまいか?そしてそこにもまた「合わせる」ことの世界中の庶民に共通した知恵と政治を求めてきた祝祭的な人間の潜在的な要求(現代のメディア論にも関係してくる。)、時として権力や社会機構に反逆してきた人間の個的な権利問題としての「知的快楽主義」の相関性が炙りされてくる可能性を私は信じたい。

 私たちの未来への不安はいつか自らの運命にも到来する死へと収斂されるが、そのことに対して一瞬でも忘れさせてくれる、つまり不安を除去してくれる対象に対して、例えば事物であれ、人物であれ、行為であれ、思念であれ、盲目的に飛び付く。性もその一つだ。だが性的快楽は死と常に隣接している。しかもこれは気持ちがいいから止められない。この刹那的な快楽に身を委ねることでさえ、人生の行為選択の一部だが、エロスとタナトスの関係そのものさえ、我々は客観的に考察対象にすることが可能だ。またそのことについて考えることも楽しい。死を考えることは死の恐怖を忘れさせてくれる。それを本論では「知的快楽主義」と呼んだ。だが性的な事柄に耽溺するも、知的な快楽に埋没するも、何物かから翻弄されてゆくということ自体に変わりなく、全ての事態を受け入れて生きているのが人間である。恐らく「翻弄される」意味では全生物が同じ条件下にある。だから例えばどんな楽しいことにも苦しいことというのは付き物であり、同時にどんな苦しい責務にも必ず楽しいところはある。私たちは他者一般に対し贔屓の者にはその欠点をも含め愛す。しかしいったん嫌いになった者には「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に、その人間に今まで抱いてきた魅力や長所までも憎悪と幻滅の対象とする。だからこそ理性が求められる。それは私たちが生来的な能力の目覚めとして第一の他者(それはたいてい両親である。)を認識した時に得たあの客観的視座の延長線上にある。
 翻弄を受けとめつつ、その翻弄に対して一矢を報いることは、私たちの人生においては、理性しかない。理性は魅力八十%で、汚点二十%のものも、魅力二十%で、汚点八十%のものも査定において判断基準を等価にしてゆく以外の何物でもない。魅力は贔屓感情を生む。しかし贔屓感情は常に理性による判断を切望する。カントは他律的人生にアンチを唱えた。(「道徳形而上学原論」、「実践理性批判」より)他律を真に自律へと変換するには翻弄を翻弄として受けとめつつ、その事態に対し冷静に対処して真の自由という名の幸福を獲得することへと向けて邁進することである。
 ウェクスラー家の選択はある意味で、ライプニッツの予定調和が、遺伝子ゲノム解析という行為などが夢のまた夢であった時代の楽天主義であるということを証明した。科学者もまた科学に精通していない普通の人々の群れから外れたくはないという感情を抱いて生活している。人間はこうしている間にも、何物かに対して関心を集中させ、同時にその関心を別の何物かに対して役立てようと、目的達成への希求を価値論的に信じることを止められない。翻弄を熱狂へと、熱狂を理性的認識へと転換してゆくことそのものが、行為目的論の設定基盤になる。これはフッサールの超越論的主観性とも大いに関係があるが、その彼の概念を倫理的に肯定的に捉えようという意識が私にはある。フッサールはこのことについて外在主義的に超越論的主観性を捉えていたと私は思う。私はそこをすら内在主義的に見据えたいのだ。
 結局人間は、社会的、反社会的という問題意識という設定自体に不毛を感じるクオリアが先天的に備わっている。相性とか「真摯さのクオリア」も人間にとっては一つの判断規準でしかない。しかしそれは自覚的に「これはこういうものだ。」と説明不能な分、未だ解明されてはいない。私はこの二つがフッサールの超越論的主観性をも成立させてきたと思う。これは人それぞれが異なっているように見えて実際は個人差を超えて共通性の方が大きいと私は思う。
 人間の遺伝子の決定的「同」の部分は徐々に全貌が明らかになりつつある。それはエキソンと呼ばれる部分で、それは全体の五%にも満たない。それに対して人間の遺伝子のランダムな構成部分イントロンは一説には九十七%とも九十九%とも言われる。あるいはこの領域の研究が性格遺伝子の気紛れさとか私が「真摯さのクオリア」と呼ぶものの正体を解明し得るかも知れない、という憶測をしつつ、最後に結論らしきものを述べて本論を締めたい。
 私たちは何ごとにもつけ魅力と相性というものの恩恵と実害なしに生活することは出来ない。何故ならもともとそのものへの翻弄を引き受けて生きているし、また生きてきたからである。「合わせる」ことの我々の本質は、実はかなり自分では独自なことだと思っていることにも適用されるし、「知的快楽主義」的傾向から人間は皆社会から逸脱する可能性(その極端にエゴイスティックな利用の仕方次第では)もあるのだ。再び「合わせる」について考えてみよう。

「(前略)かかる経験は、共同的に超越される対象と、私の身体をとりまくもろもろの身体とについての二重の対象化的把握によって動機づけられている、と言った方がいいであろう。特に私が他の人々とともに或る共同のリズムのうちに拘束されていて、私がこのリズムを生じさせるのに寄与しているという事実は、私が一つの「主観‐われわれ」のうちに拘束された者として私をとらえるように、ことさら私をそそのかす作業の意味である。それは兵士たちの歩調をとった行進の意味であり、またボートのクルーのリズムカルな作業の意味である。それにしても、注意しなければならないが、その場合、リズムは自由に私から出てくるのである。それは私が私の超越によって実現する一つの企てである。リズムは規則的な反復のペルスペクチブにおいて未来と現在と過去を綜合する。このリズムを生み出すのは私である。けれども、それと同時に、このリズムは私をとりまく具体的な共同体の作業もしくは行進の一般的なリズムと融け合っている。このリズムはかかる具体的な共同体によってしか意味を獲得しない。そのことは、たとえば私の採りいれるリズムが《調子外れ》であるときに、」私が体験するところのことである。」(「存在と無」下、809~810ページより)
 我々はまさにサルトルが言うように「調子はずれ」にはなりたくないのだ。だから敢えて調子はずれで体制(大勢)に抵抗する行為は調子を合わせるという音楽的合一性に対する自由の行使、「合わせる」行為を前提とした意図的な意思表示に取って置き、それは滅多にはしない。始終それをしていたら効果は全くなくなる。公的な場における性的話題忌避もまた羞恥感情の自主規制タブーであり、集団同化意識に属す。それは寧ろ社会や共同体の一定のルールに随順する成員が義務履行の末に獲得した特権である。ニーチェの示した反宗教的権威性は、彼が伝統的な哲学の徒であることの証でもある。「合わせる」ことは気持ちよく自発的な行為なのだ。
 サルトルの言うような「誰でもいい誰か」(「存在と無」)として対私的に、対他的にだけではなしに私をも捉えたある種の無名性、匿名性における自己認識として我々全成員が世界市民として生活していることは、一言語共同体成員としての意識を持ち、そこで実は「合わせる」の内に自己の在りようを発見することだ。「合わせる」があるからこそ、「外れる」があり、「離れる」があり、「一人でやる」があり、「一人でいる」がある。「一人でやる」もまたそれをしていない他の皆に「合わせてやる」に他ならない。「一人でいる」もまた他の皆に「合わせて一人でいる」に他ならないのだ。
 我々は思惟において、その内容はその場その時の独自のものであり、唯一的な考えとの出会いであるが、それらは概して「あれっ、こういうことって以前にも考えたことがあったよな。」という風なものだし、何かを考える仕方そのものは、いつものようなやり方だし、その仕方、やり方はどこか言語を発する時、思念を纏める仕方、やり方に似ている。纏め方とは、いつの間にか独り言めいて思念する「かたち」へと収斂され得る。それをそのまま温存させつつ、それを文章や発話で具現化するか、そのまま内的にただ一人で抱え込み、その内別の思念の支配により自然と忘却されるかのどちらかへと帰着する。
 我々は明らかに「一人でやる」の思念においても、自己を第一の他者として自己にとって理解しやすいように考えを纏める。これは一人でいる時に「一人でやる」、要するに自分に「合わせる」なのだ。その自分とは一体何なのか?それは脆弱な「個」から抜け出るという理想に自分を当て嵌めた「自分という名の真理」である。
 我々は皆一人になった時でさえ、きっとサルトルが言うような意味での「誰でもいい誰か」だし、それは都会の雑踏にいる時も、ひとっ子一人いない田舎の山道を歩いている時もそうだ。自我とは寧ろ他者に対する欲望によって醸成される。
 音楽を演奏し、会議に出席する意図と覚悟で我々は皆「一人でいる」時には「一人でやる」へと臨んでいる。そういう行為を敢えて選択している。内的な言語的思念が「一人でやる」、「合わせる」であるのはそのためだ。敢えて沈黙することで内的に自己に話す。
 それはある意味では皆で一緒にやりつつ「合わせる」も、一人でする「合わせる」もその都度それら一切を統括する「合わせる」、である。一人でいること、することと、皆でいる、することそのものを「合わせる」のだ。それが人生である。
 意志は行為されて初めて意志であったとされる。しようかと思い描くことは、意志ではない。しかし発話すること、発語行為は意志だが、何かを言語的に思念すること一個一個は内的事実にしか過ぎず、ただそれらが一定の目的の渦中においてなされ得る限り、意志へと誘導される可能性が大いにあるだけだ。ある考えがある行動の合理性に裏打ちされる限り、意志として発現される可能性が大きい。
 だから対人間社会(共同体)内秩序としての「合わせる」行為選択は、対社会(共同体)的な意味で責任倫理的側面が強い。だが仮に社会全体が歪曲した風潮となってゆくと途端に内的葛藤が必然的に生じ、心情倫理の復権が内的に叫ばれだす。そういうケースにおいてカントの倫理問題は極めて有効性がある。
 <しかしそのようなケースとは稀であり、殆どの場合特殊な歴史的状況でしか起り得ず、例えばロシア革命以後のスターリニズム批判、第二次世界大戦中における兵役拒否その他反ナチズム運動とかのケース(戦後も沢山そういうことはあったし今もそうである。)しか考えられない。事実この時期マヤコフスキー、ガルシア・ロルカ、ワルター・ベンヤミン、ディトリッヒ・ボンヘッファーといった人物たちが苦悩する状況へ立ち向かった。この四人は、一人目は自殺、二人目と四人目は銃殺、処刑され、三人目は追い詰められて自殺した。共に戦争、圧政といった現実と向かい合っていた。「合わせる」は、社会の選択=悪の状況下では、社会の選択=善と認識させる状況より苛烈である。そういう場合真に善意志を貫くことは、自らアンチ・ヒーローたることを引き受けなければならない。そういう状況では、「合わせる」方が楽なのだ。しかし考えてみよう。もしあなたが誰か(国家でもいいし、法人や組織でもいいし、個人とかテロリストの集団でもいい。)に強制的に、脅迫命令めいた状況で戦場に立たされ、敵兵が銃口をあなたに突き付けて来た時、あなたは尚自ら携帯している銃を相手に使用することを拒むということが何を意味するかを。>
 ウェクスラー家の選択を我々は笑えない。(私たちは我が国においてハンセン病患者に対して非情な判断を下してきた。彼(女)らは断種され、生まれてきた子供は国の法治的判断によって間引き対象とされた。しかしそれはある意味で国家の判断に従順に従った、つまり病気を隠蔽することが出来なかった庶民の無防備が生み出したことでもある。その無垢さに対して今日我々は勿論笑えない。K泉内閣による国による控訴断念も記憶に新しいが、私はかの全生園に訪れたことがある。そこは有名な精神科医院も隣接し、かつていろいろな意味で差別を受けてきた人々にとってせめて慰安となる生活環境確保という措置のために公園には綺麗な桜も植えられているが、そのことが私たちにほんの少しの慰めを与える。桜の美しさを目にした私は全生園に収容された人々の断種、間引きされた赤子の魂が乗り移って悲しい歴史を繰り返さないように訴えているようだった。私は収容施設にもまた苦悩した職員もいたと信じたい。)ナンシーにとって学問は「知ること」であり、「知ること」とは本来楽しい筈だ。だがその対象が自分の死も射程に入れた未来となると、流石の科学者も臆する。彼女は科学者でありながら、自然科学を彼女らほどは信奉しない一般民間人の採る「知りたくはない」権利を選ぶ。それは自然科学からの翻弄に対する返答である。それが私たちに教えるのは、死の告知の恐怖を紛らわすには、何か他のことに取り付かれ、翻弄されることを楽しむ以外にはない、ということだ。魅力に熱中することで解消される懊悩もある。魅力は状況次第で刻々変わる。それはアリスの言葉を借りれば、<「終わること」ではなく「はじまる」ことを考えたかった>ナンシーが研究者としてのスタートを切ったばかりのスタンスを想起させる。自らの死の予感と恐怖の克服だけではなく、生きることを楽しむことが遺伝病の事実を知った彼女の選択だったのだから。
 哲学は究極的には「信じる」ことの何らかの提示の仕方そのものであり、「信じる」とは何なのか(それは宗教信仰心も含めて)への問いである。欲求に従順に行動することも欲求であれば、欲求に逆らい抑制することも欲求だとすれば、「信じる」を疑うことも「信じる」だし、「疑う」を信じることも「信じる」一つと言える。しかしアリスとナンシーは自体的客観事実において自分たちの未来を疑うよりは、「知る」欲求を封鎖した(かった)。つまり一般民間人的な「知りたくはない」権利の行使は、フッサールが超哲論的主観性と彼が呼ぶ自然科学における自体的客観事実への認識も、「それを正しい」と信じる人間の信念も、宗教的信仰心と共存して本源的に人間内部に位置していることさえ介さずに寧ろ「自分の未来とは自体的には知らないでいる方が幸せだ」というフィクションに真実と説得力を感じるクオリアの選択をしたに等しい。それは宗教的信仰心(しばしば自体的客観事実に反する)に近い。ハンチントン病の自殺は一般人の七倍で病気初期に集中する。レオノアと夫はアリスの学生時代に離婚するが、彼女の母の病名診断後も父による彼の元妻へのケアは続く。私はここにアメリカ人の慈愛を感じる。(かつて映画監督ロジェ・バディムの葬儀に元妻たち<ドヌーヴ、バルドー、フォンダ>が参列したニュースを読んだ時、私は西欧米人の慈愛の深さを感じた。)
 アリスは院生時代に自ら子供を作ることを断念するが、恋人と離別後、再び愛する男性と出会う。アリスはナンシーが母の自殺未遂後、頻繁に手紙の遣り取りをしたことを書いている。私はこの下りに胸が詰まった。家族の愛の前には科学も、哲学も犠牲にしてもよいという選択の強さに私は覚醒させられた。愛は至上のものである。それは愛するということの辛さ、厳しさを物語っているが、翻弄されることが価値だと言い切れる信念の前で、私たちは論じることの起源を知る。論じることもまた「生きる」ことだし、生きることは「信じる」ことである。「信じる」ことは楽しい時には楽しいと告げ、辛く苦しい時は「辛い」、「苦しい」と告げることなのだ。あらゆる偽装性の真意表出による除去こそ、学問を包み込む愛の至上目的である。論じることもそのためにある。愛は衝動的な感性同士の出会いを必然化する持続的努力に他ならず、我々が翻弄を論じることを支える。それはもたつかない「確固たる理性」の称揚である。
 私たちはシビアな現実の前で理想的な生き方とか勝ち組への夢とかの発想が脆くも崩れ去る音を聞く立場へいつでも立たされる可能性がある。そういう現実を前に自己に厳しくなり過ぎると、自殺という道が待ち構えている。いじめられているなら、何らかのレスキューを求めるべきだ。人間同士の精神的いじめと先述のようなウェクスラー家の苦悩とどちらが苦しいかをここで私には言えないが、少なくとも打開策が講じられるという意味では遺伝病ほど我々は切迫してはいない筈である。
 私たちは「合わせる」によく翻弄される。だから「知的快楽主義」の価値転換が必要なのだ。それは時としてアンチ・ヒーロー意識へ我々を誘う。しかし「除け者にされたくはない」意識は最もネガティヴな「合わせる」行為の動機であり、それが他者のいじめの助長となることもあるが、親しい友人と何故か馬が合う、相性がいいと思うその本質には、「もたついた理性」の弁証法からの脱却の可能性もある。人間には考え込み過ぎて失敗するくらいならいっそ何も考えないで行動した方がいい。一気にやって、それが結果的に理性的な行動となればよい。(ギャンブル的な感性)を選択してもよいのだ。思い切った決断は<した時>は不安だが、後で考えると正しかったと思えることも多いと我々は経験的に知っている。考えても仕方ないこと、chemistry(衝動的な感性の場=真摯さのクオリア)自体に私たちが翻弄されていることを運命として受け入れ(死の不可避事実を受け入れるように)てスポーツとかビジネスとかに熱中して勝ったなら、支配欲求を一瞬満たし恍惚となり、しかしそれも一つの翻弄であるとシジフォス的認識を持ちつつ、再び麓から岩を山頂へと運ぶことを決意した者は、ただchemistryだけに拘泥した「オタク」となるだけでなく向上するだろう。その時真の意味で魅力とは何なのかを、再び問い詰める心の余裕が持てるのではなかろうか?(了)

翻弄論
主な参考文献
仏陀<釈迦無尼>「仏陀のことば」‐スッタニパータ‐、ジャン・ジャック・ルソー「人間不平等起源論」(中公クラシックス)、イマンニュエル・カント「純粋理性批判」、「プロレゴメナ」、「実践理性批判」、「判断力批判」(岩波文庫)、ゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル「精神現象学」(作品社)、チャールズ・ダーウィン「種の起源」(岩波文庫)、フリードリッヒ・ニーチェ「道徳の系譜」、「善悪の彼岸」(岩波文庫)、エトムント・フッサール「論理学研究」(みすず書房)(1902)、「デカルト的省察」(岩波文庫)(1931)、「イデーン」(みすず書房)(1913~)、「経験と判断」(河出書房)(1939)、「幾何学の起エドワード・サピア「言語」(岩波文庫)(1921)、柳田國男「遠野物語」(新潮文庫)(1910)「海上の道」(筑摩書房)(1961)、西田幾多郎「善の研究」(1911)、「思索と体験」(岩波文庫)、「場所的論理と宗教的世界観」(筑摩書房)、マックス・ヴェーバー「古代ユダヤ教」(岩波文庫)(1920)、エドワード・サピア「言語」(岩波文庫)(1921)、ルドウィッヒ・ウィトゲンシュタイン「論理哲学研究」(法政大学出版)(1922)、「哲学探究」(大修館書店)(1945)、マルチン・ブーバー「汝と我」(1923)、「対話」(岩波文庫)、ジグムント・フロイト「精神分析入門」(新潮文庫)(1932)、鈴木大拙「日本的霊性」(岩波文庫)(1944)、A・J・エイヤー「言語・真理・論理」(岩波現代叢書)(1946)、ジャン・ポール・サルトル「嘔吐」(1938)、「存在と無」(人文書院)(1943)、「ユダヤ人」(岩波文庫)(1954)、フェルディナント・ソシュール「一般言語学講義」(岩波書店)(1949)、カール・グスタフ・ユング「無意識の心理」(人文書院)(1948)、クロード・レヴィ・ストロース「親族の基本構造」(青弓社)(1949)、「人種と歴史」(みすず書房)(1952)、「悲しき熱帯」(中央公論社)(1955)、「今日のトーテムズム」(みすず書房)(1962)、コンラート・ローレンツ「攻撃」(みすず書房)(1963)、ジョルジュ・バタイユ「エロチシズム」(ダヴィッド社)(1957)「宗教の理論」(筑摩書房)(1973)、ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」(大修館書店)(1962)、モーリス・ファーバー「通信の歴史」(恒文社)(1963)、ジェロルド・J・カッツ「言語と哲学」(大修館書店)(1965)、ハーバート・ファイグル「こころともの」(勁草書房)(1966)、エドワード・ホール「かくれた次元」(みすず書房)(1966)、デズモンド・モリス「裸のサル」(河出書房新社)(1967)、ジョセフ・H・グリーンバーグ「人類言語学」(大修館書店)(1968)、吉本隆明「共同幻想論」(角川文庫)(1968)、ジョン・R・サール「言語行為」(勁草書房)(1969)、ジョルジュ・バタイユ「宗教の理論」(筑摩書房)(1973)、「エロチシズム」(ダヴィッド社)、香原志勢「人類生物学入門」(中公新書)(1974)、ピーター・ヘリオット「言語心理学入門」(大修館書店)(1975)、リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」(1976)、「延長された表現型」(紀伊国屋書店)(1982)、トーマス・ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」(勁草書房)(1979)、祖父江孝男「文化人類学入門」(中公新書)(1979)、ソール・クリプキ「名指しと必然性」(1972)、「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(産業図書)(1981)、富田虎男「アメリカ・インディアンの歴史」(雄山閣出版)(1982)、三木成夫「胎児の世界」(中公新書)(1983)、コリン・マッギン「ウィトゲンシュタインの言語論」(勁草書房)(1984)、マックス・I・ディモント「ユダヤ人」(朝日選書)(1984)、スラヴォイ・ジジェク「斜めから見る」(青土社)(1991)、マット・リドレー「ゲノムが語る23の物語」(紀伊国屋書店)(1993)、「やわらかな遺伝子」(2003)、マイケル・ダメット「分析哲学の起源」(オックスフォード出版局)(1994)、竹内久美子「そんなバカな!」(文芸春秋社)(1994)、中才敏郎「心と知識」(勁草書房)(1995)、信原幸弘「心の現代哲学」(勁草書房)(1999)、ジェイムズ・М・ダブス+メアリー・G・ダブス「テストストロン」(青土社)(2000)、西研「哲学的思考」(筑摩書房)(2001)、ジョセフ・ルドゥー「シナプスは人格をつくる」(みすず書房)(2002)、ジェームズ・D・ワトソン「DNA」(講談社)(2003)、アリス・ウェクスラー「ウェクスラー家の選択」、アンドリュー・H・ノール「生命最初の30億年」(2003)、三原弟平「ベンヤミンと女たち」(青土社)(2003)、森本浩一「デヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか」(NHK出版)(2004)、茂木健一郎「クオリア入門」(ちくま学芸文庫)(1999)「脳内現象」(NHKブックス)(2004)、「意識とは何か」(ちくま新書)(2003)、飯田隆「クリプキ ことばは意味をもてるか」(NHK出版)(2004)、梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書)(2006)
‐括弧内出版年は外国のものは原書の初出。しかし著者死去後のものも含む。その他多くのネット検索、CDによる音楽への鑑賞、試聴が元となった論文も含む。‐

C論文は一応今回で終了するが、その続きはやはりc論文第二弾として「自信論」を更新する。(河口ミカル)