Tuesday, August 24, 2010

A言語のメカニズム 24、第二節 失語症報告例から見る言語学的諸問題

 数学は但し書きがあることで、その条件においてのみ有効である真理値の多い学であることは、ラッセルの示した例(前章)からも明白である。その意味では日常言語とは離れていても、大脳レヴェルではどこかでいつも我々自身によって考えられているような思考法の蓄積であり、集積であり、建築であろう。言語が仮定法によって幾らでも不可視、不可認識領域を仮想することの出来る世界であることは数学の構築世界にも通じる。
 まず何より数学は思考の整理を旨とする純粋整理学の極致である。しかし単純なものであれば、例えば私のような数学的素人でも理解可能なこの世界は、一歩重層性を帯びると、約束事の連鎖と重層的構造理解は、そう容易には一般素人によって誰でも理解出来るものではないことくらいは誰でも知っている。だが一つ一つの数学的行為は誰もが実践している、と言える。脳は記憶する際に、記憶しておく為の整理をしている、その記憶すべき像を潜在的には全体的な映像として保持しつつも、その中でもかなりな部分の余計な要素を切り捨てて、整理している。だからどんなに克明に記憶しているつもりでも、どこか自分勝手なその都度の都合で勘違いして記憶している場合も多い。つまり概念的な認識を悟性とも言うべき作用が記憶すべき出来事の網膜上に残存する映像に被せられているというわけなのである。
 数学において単純な論理の組み合わせであるなら、誰でも高等数学を簡単に理解出来るかというと、そうではないのは、明らかにそれが思惟の自然であり、実際の自然の自然とは異なっているということであろう。純粋概念はそれが単純な内は記憶しやすいし、慣用化されやすいであろうが、それが集積されると途端に難解になる。なぜなら我々は日常、慣れ親しんでいるものと、そうでないものを等価には認識出来ないという性向があるからである。慣れ親しんでいないものは、どんなに論理展開上必然であってさえ、それを想像することはおろか、正しいと思うことすら困難である場合も多い。我々はそれが多少間違っていたとしても雑多な、一部正しく、一部偏っていたり、曖昧であったり、要するに、全くの偽であることさえ除けば、幾分の不純要素を含んだものを必然的に嗜好する傾向があるのである。だから前にも書いたが、公的な文章がどこか理解し難く、取っ付き難いということもそういったことをよく立証しているし、あまりデカタンでさえなければ、どこか温かみを感じられるものとは、往々にして不純な要素、無矛盾ではなく、多少の(余り酷くない)矛盾を含んでいるものを親しみのあるものとして選択してゆく傾向があるのである。だから数学は誰でも基本的なことは理解している普遍学であるのに、その専門にはある特殊な能力を要する世界(芸術のように)なのである。数学はその厳密な無矛盾性への希求と実際には物理的には現実にありもしない円や線や点さえもが、あたかもそこにあるかの如く仮定して取り組む純粋思考の世界(学)なのである。しかしでは線や点が実際にはない、と言っても、だからと言って我々は線というとすぐに何かそれに近いものを連想出来る。これは明らかに線が概念上は我々の心的世界に存在している、ということである。例えば一本一本はそれぞれ異なった樹が生えている向こう岸の山を大きな川を渡りながら見ている時、明らかに我々は縦に生えた樹を認識せずに、山の横に連なってゆくライン(空と隔てられた線として)を認識するであろう。点や縦の線はそれが密集すれば容易に横の線に成り代わる。そういう風に記憶する方が脳内に容易に「これが山なのです。」と認識させながら記憶するのに都合がよいからなのだろうか?
 あるいはこういうことがよくありはしないだろうか?頭の中で色々概念的な試行錯誤をして考えるのと、つまり思惟する中で論理的に自分なりに理解して、それを実際に他者にも理解しやすいように言葉を発しながら、その自分の脳内で履行し得た事項を説明するのは極めて難しい、ということがある。その一番いい例が数学ではなかろうか?数学は脳内で理解し得たとしても、その理解した経路や自己の発見した理解する為の回路は自分ではよくわかっているのに、それを他者に説明する段になると、途端に概略的に説明することが億劫に感じられる、ということが。
 つまり言語行為とは自己の理解を他者に共有させる為のものである、と捉えるなら一旦自己の理解の仕方を取り下げて他者と共有出来る回路に乗せてから発信しないことには、何のことやらわからない(共通項の模索)、ということなのである。これが思惟の自然(脳内の自然)と共同体内の成員間にも共通なものとしての理解水準の自然とのズレなのである。後者を概念的自然と呼んでも差し支えあるまい。我々は自己の理解し得た論理を、例えば政治家が自己の信念とか信条を別の政治家に理解させようとして語る場合のように一旦、自己から切り離して論理を再構成しているわけで、これは思惟の自然を概念の自然へと置換している、ということなのだ。
 もう一つ大きな事実についてここで取り上げておこう。
 数学の試験の思い出といったら、あまり楽しいものではなかった、というのが筆者の場合であるが、ここで出された幾何学の設問について考えてみよう。例えば図形に関する記憶である。その図形をサンプルに何かの解を求める設問であった場合、全く皆目解への導き方を理解出来ない場合、図形は図形の形象そのものとして記憶されるかも知れないが、仮にすらすらとその設問に解を与えることが出来た場合一々その図形を覚えていられるであろうか、ということである。筆者のように試験で戸惑った思い出のある者のみが明確に図形の形象を映像記憶(そこには試験会場の緊張した臨場感、生徒たちの息遣い、鉛筆を走らせる音とかの情景が甦ってくるであろうけれど)をして、理解以前に自明のこととして解を導くことの出来た者は寧ろ潔くそのような些細な図形の形象など忘れてしまう、ということではないか?勿論図形そのものは二次元の概念であるから、三次元的な事物のような多角度から知覚可能なものと異なり記憶像としての格納のされ方はきっと別物であろう。つまり記憶は理解の仕方によって異なってくるということである。とりわけ二次元の図形などは殊更自分にとって必要不可欠な事項でない限り、自明性を付帯させている限り、記憶の格納から除去される運命にある、というのが一般的な真実ではなかろうか?(どんなに美しいと思っても、先週街角ですれ違った美女の顔さえ明確に思い出せる人はそうはいないであろう。ましてや図形や文字など尚更である。)
 ということは海馬に格納されるような事項はもし仮に記憶されていても、決してそのままの形でではない、ということでもあるのだ。理解は理解した瞬間にそれ以前の状態とは別個のものとして記憶される。理解されたものは概念化されるが、それ以前の状態では未だ分析対象である。分析対象であるということはそのものの実在性、存在理由そのもの、ひいては意味の世界の項目となる。好奇が探索する対象とはだから概念性を超えている。この場合、理解とは概念的理解のことであるが、不可解であるということが実在性をより大きく喚起させる。
 記憶のシステムを大脳による海馬その他の能力と捉えると、何らかの障害を持つ場合、言語機能を損傷するとかの症例が考えられるが、実際記憶は記憶したいものと、そうでないものを峻別している第一段階から、そもそもの記憶されるかどうかは決定されている。しかもそのことが実際の症例においても影響を及ぼしているということも十分考えられるのだ。哲学的に言えば他者、生物学的に言えば他個体に対する信頼感の有無が意思伝達において真意表明と偽装表示とを使い分けていることは明白であり、コミュニケーション自体の在り方、言辞に見られる説得力の有無すらもそこに依拠している。
 例えば公的文章が抽象名詞を多用し、形式的言辞に終始しているの、明らかに責任回避の集団心理が機能し記憶し難い言辞が常套化しているのも、記憶して貰っては困るという作成者の側のどのように受け取られても良いようなご都合主義が作用している。何らかの明白な言辞、つまり明示である場合、そこに依拠するさまざまの共同体成員の利害に対する責任を請け負うこととなるからだ。憲法が曖昧な言辞に依拠し、役所の公的文章が一般的にどのような成員が読んでも一様の解釈を成立させる為の最大公約数的概念提示となっているのは、個別意味的世界が最大公約数的解釈から逸脱してゆく傾向があるからであり、明示している側の責任に大いなる負担を強いるからである。しかしこの問題はフーコー的論点へと移行する可能性が大きいのでこれ以上の言辞は差し控えるが、少なくともそういった形式的言辞が公共性を帯びているという触れ込みなのにもかかわらず、概念提示によって約束事を銘記しているのにもかかわらず何らの意味的実体性を伴っていないのは責任の所在を一極集中させない為の方策であることは明白であろう。大脳においてもまた記憶をはじめさまざまの機能が局在的機能のみに依拠せずに、相互連関的補助促進システムである、と捉えると少しく記憶、あるいは言語活動を誘発する機能の在り方を捉える上で理解しやすいのではなかろうか?例えばある事項を記憶したいと望むのは大脳の側による事情にもよる。容量の問題もあるし、そこで付随意的に大脳自体が相互のネットワークによって連絡し合い、記憶格納に対する指令を出しているとは考えられないであろうか?あるいは、記憶するに値するかどうかの判断もまた大脳自体のネットによって連関的に決定されている、というわけである。そう考えると失語症による幾多の症例もまた、大脳による判断、つまり全体的な機能を維持する為にやむを得ずある機能を停止させる、休息させるという判断が成立しているのではなかろうか?勿論そのような判断に至った経緯には明らかな欠損、障害があり得るわけだが、必ずしもある部分の欠損が同じ症例を引き起こしているわけでもない、ということは個体毎の諸々の事情に応じた大脳判断がなされている、と考えることは極めて自然の理に適ったことであろう。
 だから無意識の内に形式的言辞に終始している個人の中には大脳による「あまり明示することを差し控えるような判断」が機能していると考えることは理に適っている。
 あるいはそれは言辞であるとかの意識的行為ばかりではない。知覚行為においても、我々は既に何かを視界に入れている段階で記憶するに足るものであるかどうか、という基準から取捨選択しているのである。記憶する以前に知覚すらすべてを等価に受容野(そこから視覚細胞に情報を渡す部分)が情報感知しているわけではない。だから言語障害とか失語症、自閉症等の症例においても局在論に終始してばかりいても埒は明かない場合も多いと思われる。
 数学の天才とはある意味ではベド・メータ的謂いを借りれば「蝿を蝿取り壷から取り出す」ように、ある障害によってその本来の機能を剥奪された人間の能力を再生することの出来る人である、と言える。明らかに位相幾何学の世界の認識方法は夢で我々が観念連合等の操作によって歪曲したりする時点での無意識世界に相通じるものがある。無意識の集合論と言ってもいいような数学世界がいとも容易に理解出来る個人というものは時折存在するが、言語障害者もそのような存在として認識した方がいいと思われる節もある。
 思惟の自然と自然の自然は齟齬をきたしているとは既に述べたが、我々は我々自身の意志とは無縁に身体が不随意的に判断し、思考の回路や、言語発話において文法的ルール(FOXP2遺伝子が司っているとされている。)、語彙、記述、読力等を疎外するような緊急の判断を下したりする。それはどんなに意志や心的欲求にそぐわないものであってさえ、我々は身体条件的有限性において生を営んでいるのだから、そういった時にはそれに従う以外の選択肢はない。つまり身体上での大脳判断は明らかに自然の自然に従順に判断を下している。例えば語彙を忘れるということは日常よく我々にも起こり得ることであるが、ある特定の語彙を別の近接してはいるものの、全く概念規定上においては別の事物を名指す語彙に置換してしか発話出来ない症例というものも見られる。
 今このような症例を引き起こす障害を何か特定出来ないか、と思案する時、こういうことを考えてみたらどうであろう。本論で何度か言語とはそれが発話される時に思惟された原型からは遠く隔たったとまでは行かなくとも、明らかに常套的概念規定性によってソシュールがラングと呼んだような共同体内概念規定へと転換されている。そこにはデリダが原=エクリチュールと読んだもののような思惟の自然に忠実な思念がそのままの形では体現されず、現実の機能性に依拠した言辞へと転換される、つまり障害によって原型を留めずにいる、ということであるならば、その原型と加工物の差を少しでも解明出来たなら、それを基準に言語障害や失語症を引き起こすメカニズムを解明することに奉仕し得ないであろうか、ということである。
 先述のラッセルの「数理哲学入門」の引用内容を思い出して貰いたい。
 例えば0~100とか200~300とかの有限な範囲を設定し、その間での数集合を考えてみよう。するとこの間の数を素数と捉えると101の数の集合である。あるいは小数点何桁までの有理数も含めると限定すれば、何とかどれ程の数になろうとも、有限の集合数値が導き出せるも、しかしこれを有理数、あるいは無理数をも含めて考えるとその間の数集合は∞になる。しかし論理的にはこれは何の無理もなく、思惟には考慮に入れることは出来る。それが思惟の自然ということになる。(少なくとも誰しもそれを可能条件として想定することが出来、かつたやすい。)しかしそれを実際に表示する段になると、なかなか難しい。(数学の専門家なら直ぐに理解出来る表わし方はあるだろうけど)思考の原型と発話される言辞との間の齟齬が、このことと関係ありはしないだろうか?
 我々は発話をして思考の内容を言語へと写像する時にこのことに近い何かを感じ取ることはたやすい。言葉に言い表せないことを敢えて言葉に置き換えようとする。その時我々は当然のことながら、あらゆる可能性を想定しつつ(瞬時に)その中から、除外すべきあらゆるケースを除外して、その中でもある特定の語彙とか言い回しとかを一個だけ選択し、発話上のレールに乗せる。それはまるで既に翻訳されたRNAから元のDNAへと逆転写するかのように失語症の症例を一個一個、原型へと戻すこととは、それ程難しくはないかも知れない。発話された当の内容そのものの非常套性のみを注視すれば、それは難解の一語に尽きよう。しかし例えば「橋」と言った言辞が、本来であったら別の語彙にすべきところなのに、敢えてそう言い間違うことを間違いとは思わない症例において、「橋」(本来彼<女>の言いたいことは川なのであるが)という語彙で伝える言辞を心的に想起させる全体的状況を考慮に入れ、発話された奇異に感じる語彙選択上の障害を逆算すれば、なぜ「川」というべきところを「橋」と言わしめたのかの原因を特定出来るのではないか?
 それは勿論フロイト的無意識の「言い間違い」と関係があるのか、という考えも当然出て来るが、フロイトの言う「言い間違い」は症状ではなかった。ヤコブソンは「一般言語学」(1963)において示している症例では、「ナイフ」の代わりに「フォーク」、「ランプ」の変わりに「テーブル」、「パイプ」の代わりに「吸う」、「トースター」の代わりに「食べる」と言う選択能力を冒された失語症患者のヘッドによる症例を紹介している。
 ヤコブソンが紹介したヘッドの症例(近隣性に基づく換喩)では明らかに最初の例では食器類、2番目は食事時の情景、3番目は喫煙に関するイメージ、4番目は一番離れていて食事とその際の電化製品(大きく言えば食事風景であるが、選択誤差がその近隣ではなく概念性そのものである点が異なっている。)である。このように一見関連性があるように思われる錯誤は、しかし注意深く見てみると個別的にかなりランダムな基準であることがわかる。寧ろその基準が統一されていたとしたら、症例であってもかなり軽度のものと考えて差し支えないであろうし、そもそもそのような症例は成立しないのであろう。
 このような語彙選択錯誤の症例から読み取れるのは、言語障害とか失語症ではランダムな基準がランダムであることの認識力そのものの低下、ないしは欠落と捉えることも可能であろう、ということである。
 ところで物理学の世界での無限大、無限小は一見数学のそれと相同であるように思われる部分もあるが、本質的には物理学の世界では大きさ毎に全てその性質も付帯する物理的条件も異なっているということである。数学においては純粋に数の世界であるので、その大小は純粋に無限小は無限大を逆行させた、反転状態と捉えることは可能である。(例えば正と負とにおけるように)それは代数的表現でも乗数を+と-とでどちらからも同じ値を表現出来ることからも自明である。そこに大きさ毎の条件的差異はない。その意味では言語は発話されることで、物理的条件の世界に放り出されるが、それ以前の状態、脳内では、発話される事項の、つまり語彙選択の段階では明らかに物理的条件を考慮に入れているが、思念性そのものの内的様相においては、言葉に置換される前では純粋な状態であり(だからこそこれを概念に置き換えることが困難なのであるが)言わば体感される個的意味の世界とは極めて数学的思念性の世界に接近している、とも言えるのである。そしてここからが大切であるのだが、そういった純粋思念の世界においては先程のヘッド、ヤコブソンの例証での振幅のある観念連合の選択基準は、そのランダムさなど左程の重要性さえない、そういうカオスによって支配されている、ということである。数学は一見無矛盾性の追究の場でありながら、いたるところに綻びもある学であることも確かである。1から10までの数そのものは物理学的な大きさによる条件的性質の違いはないけれど、一つとして同じ性質の数とは隣接していないし、またその隣接条件もばらばらで、統一性はない。(ただ1、2、3、4という個々の数が等間隔で並んでいるということだけである。)かつそれは数が大きくなっていっても同様である。(最も1~100を10~1000と言う風に置換すればそこには同一法則の発見は可能であろうが)その意味では物理学の世界ではどの空間のどの場所でも、宇宙であろうとも地球であろうとも我々の身体であろうとも、ナノテク的分子、原子の世界であろうとも、大小の違いが発揮する条件的性質の差異は普遍的である。つまり物理学と数学とでは普遍性の性質が全く違うということである。
 純粋なものはカオスである、と言った。失語症や言語障害の例が示すところの事実とは、最初に我々が語彙を発する以前に脳内で持つものはそのカオスであり、我々はただ瞬時にそのカオスを篩にかけ、たった一つの語彙をその中から選択し、発しているのだ、ということである。それは他者、他個体に対して了解させる、という目的性のためにわざわざカオスを統一させながらその中から一個の概念を敢えて搾り出すような操作を施しているのである。つまり自己了解(我々の脳内では常に自己にとってのみ了解出来る脳内神経回路の対話はなされている。)から他者説得へと転換される段になって、意図的に選択基準を設けて絞り込んでいるのである。故に脳内での自己理解は他者へ受け渡す為に概念が絞り込まれた段階で、当初の豊饒な姿は消え去り、残骸だけが伝えられる。(だからこそ他者性とは古来より哲学に重要テーマとなってきたのだ。)その残骸にしてしまうものを本論では障害と捉えている。一見何の矛盾もないかのように思われる数学論理上の数の並置には色々の矛盾、ただ等間隔に並置されていること以外には何の法則的秩序もない、そういうカオスを最初我々は抱き、コミュニケーション成立のためにその後操作を加え、当初とは全然別個のものとして、わざわざ「ある形」を作っているのだ、ということを本章の結論として次章へゆこうと思う。