Sunday, January 16, 2011

A言語のメカニズム 25、カテゴリーと階層性

 前章で川と橋がごっちゃになっているようなことを「語性錯誤」と言うが、これらは我々が心的にまずカオスを抱いて、そこから一個の語彙を選択していることを表わしているが、カオスとはその範囲が明確でないだけであり、実際ヘッド、ヤコブソンの例からは食事に纏わる事項であったり、そこから一個の表示すべき語彙選択を我々がしていることが判明するが、そういった具体的な行為に関する事項が、語彙集合となっているのなら、それらはその集合の境界(別集合との相関性という意味での)とか範疇となるとなるほど幾分カオスなだけのことはあるものの、どこか厳密ではないが、緩いカテゴリー的認識(漠然とした集合)は確かに存在するのではないか?
 カオスというもう一つの秩序によって心的には外部世界の全てを選択して認識し、必要なものののみを記憶しようとする目論見は、知覚作用においては、人間が確率論という数学分野を実際は心的に、つまり脳内に介在させてきている無意識的な思考能力が、障害によって意識的には認識されないものを数学者の手によって数式的秩序で甦っただけのものである、というその一事を持って証明されよう。その確率論的秩序は付随意的には全ての生命体が、個々の事情に従って個的なものではあるが、本能的に知覚作用とか刺激に対する反応とかの方程式を持っており、我々もまた、すべてのものを等価に知覚し、認識し得ないという潜在的には誰しもが知り得る事情に従って知覚し、記憶すべき事項とそうでないものを瞬時に峻別している。そこにはある種の階層性がある。身体生理学的にはカスケードと呼ばれるような蛋白質の制御システムにも当然のことながら認められる。例えば霊長類の視覚システムにおいて、「いかなる神経細胞も、受容野中心に当たる小さなスポットに対してはすみやかに反応(発火)するが、受容野全体に広がって当たる光に対しては、ほとんど反応しないということだ。網膜はこのようにして、目に入ってくる視覚情報のなかから余分な情報を消し去っているということだ。つまり、脳に送りこまれる情報は視覚のなかでも興味ある_光の分布が均一でない_部分についての情報であって、変化にとぼしい部分は、おおむね無視されることになる。」(フランシス・クリック著「DNAに魂はあるか_驚異の仮説」(The Astinishing Hypothesis)
 我々がこういったある偏りをもって全ての外部世界に接しているのは、確率論的にすべての外部世界を等価に知覚、認識していては一個体の生命の維持出来る時間を遙か越えてしまうということを身体上のホメオスタシスが恐らくDNAレヴェルからその漠然としてではあるが、後退を指令させるべく数値情報を我々の抑制系の各機関、各遺伝子、ホルモン、蛋白質、細胞に伝達しているからではなかろうか?
 例えば我々はある事物、例えばそれが自動車であったとしよう。我々は今目の前に駐車した自動車がドライバーの手によって運転され去っていくことは認められ、その時視覚情報のみではなく、当然のことながら聴覚情報としてエンジンの音やら、排気システムの音とかを知覚しているが、我々がその車が遙か一キロ先にまで消えゆくのを認められるような状況のランドスケープに立っているのなら、一キロ先に徐々に小さくなってはいるものの視界にははっきりと認められる自動車の音は最早知覚され得まい。ということは我々は漠然と自動車の視覚映像と聴覚音とを同時に認知し、統合して一つの出来事として車の発進を認識しているにもかかわらず、明らかに視覚と聴覚のシステムは別個のもので、それらは能力的には階層性を持ち(当然のことながらヒトは視覚能力は他の哺乳類よりも優れているが、聴覚や嗅覚は劣っている<勿論そうでない動物もいるが>ということもあるわけである。)、それらは本質的には別個で独立した能力であるにもかかわらず、統合、統覚している、勿論大脳においてだが、そういうことになる。カントの言っていたことは正しかった、と言える。
 言語もまたチョムスキーの考えを待たずして、学習だけではなくア・プリオリな能力として我々に具わっていて、環境的外部要因(教育とか家族の人間関係とか)によって発現されているわけである。そして言語にもまた階層性が存在する。

 ところで何度か触れたが、生命を偶然と看做すか、必然と看做すかという問題は過去から現在までも延々繰り返し論じられてきた普遍的論争であり、語理論と経験論による普遍論争にも匹敵する問いであると思われるが、マイケル・J・ベーエは自著「ダーウィンのブラックボックス」において、ダーウィンの自然選択という概念では、この生命秩序における複雑系を証明することは出来ないとし、ダーウィンの思想を出発点とするドーキンスをも批判対象とし、ダーウィニズムの後継者でありながら、エルドリッジやグールドは自然選択以外のメカニズム(それを彼等はウィルスの増殖とか特有の当然変異で説明しようとしているが、筆者にはそれはダーウィン理論の誤読にしか思えない。)で説明しようとする姿勢に半分共鳴してもいるものの、創造説に近いものを感じるというような発言を、その本の翻訳者の一人長野敬すらもしている。ここでベーエの考え方(「ダーウィンの自然選択のメカニズムは、現実には、血液凝固カスケードのような単純化できない複雑系の形成を妨げるはずだ。」<長野敬+野村尚子訳、青土社刊139ページより>に端的に示されている。)自体をどうのこうのと批評することは差し控えるが、ここでベーエ自身も唱えているところのダーウィンの自然選択とは一体何かと、考えてみるとエルドリッジ、グールド、ベーエに共通するのは、何か必然的な説明を求めているということであろう。この考え方は古くは合理論的、あるいはある意味、あの不完全定理や神の存在論で有名なゲーデル的な認識論にもどこかで通じる。しかしダーウィンの自然選択とは、筆者の考えるところ、選択基準というものに偶然性を認める限りで有効である(ダーウィンはそういう謂いを使用してはいないが)と言えよう。なぜならダーウィンはウィトシュタインが「語り得ぬことには沈黙せねばならない」というかの有名な「論考」最終章の考えを地で行った学者でもあったからである。だからその意味でベーエのダーウィン批判は「ダーウィンに神を期待した」認識ということとなる。ダーウィンが偉大な学者であったとしたら、安易な合理論的説明を避けたということを筆頭に挙げるべきではなかろうか?
 ベーエの論述はドーリトルという血液凝固システムを中心とした複雑系専門の学者の業績を認めつつも、「ドーリトルが『血栓と止血』に載せた論文の読者は、血液凝固研究の指導者たちだということを忘れないようにしよう。彼らは最先端を知っているのである。それでもこの論文は、血液凝固の起源がどのように始まり、その後どう進化したかを、彼らに対して説明していな。物語を聞かせているだけである。血液凝固カスケードがどのように現れたかをほんのわずかでも知っている人は、地球上には誰もいないのが実情だ。」と言い、所謂創造説的視座を確かに仄めかしている。確かに我々は誰もその実情は知ることは出来ないかも知れない。しかし我々の言語は、日常言語(自然言語)たろうと、数学言語たろうと、物理学の言語たろうと、化学式や方程式の言語たろう(人工言語)と人間は無限性へも挑戦しながら、肉眼では捕らえきれないものを顕微鏡やナノテクの世界でのハイテクを使って認識してきたような意味で肉眼では捉えきれないものまで想像力の及ぶ範疇として、現実の事象としてきたのではなかったろうか?確かにまだまだ実際の進化上の謎は解明されていないし、また未来永劫明確な形では我々自身全ての謎を解明し得ない、ということもあろう。しかしそれでも誰も知らないという謂いで全てを反ダーウィニズムに結びつけるのなら、それがどんなに優れた論述であっても、言語行為の能力自体の懐疑となっている(本人は自覚的ではなかろうが)とは言えまいか?
 少なくともベーエはその是非はともかく、偶然というものの存在理由を認めていないスタンスの論客ということになる。
 では我々の身体生理学上の諸事情はヘーゲルが言うような意味での<必然であるということの偶然性>に依拠した諸判断、選択を執り行なっているのであろうか?知覚の階層性が指し示す重要度、緊密度の階層性の如き差別すらも必然的なものなのだろうか?それとも不随意である限りにおいて刺激に対する反応という諸瞬間毎の偶然が刺激‐反応という図式において必然的に対応している、ということなのだろうか?
 そのことを考える上で遺伝子やゲノムの転写システムについて暫く考えてみよう。
 自然は大元では偶然的事象と出来事に支配されながら、その偶然をしかし運用するシステム自体は必然的な法則性によって支えられ、個的生命体レヴェルでも個々の事象は逆に非法則的であるが、ホメオスタシスレヴェルでの身体生理学次元では法則的(モノーの謂いに従えば熱力学第二法則に忠実に)である。だから自然は、それは自然史、地球史と言い換えても同じことであるが、極めて偶然的要素によって連鎖されている(空間的にも、時間的にも)が、かといってまるっきり偶然的、非法則的であるわけでもなく、どこかで明確なる秩序を、そのことをモノーは合目的性と言っている(古生物学者のリチャード・フォーティーはグールドの言うような偶然性に対して、それを一面では認めつつも、法則的秩序の存在を強調している。)ものを持っているが、この合目的性は多くの哲学者たちを悩まし続けてきた命題でもある。カントもまたこの合目的性において合理論の継承と、合理論的常套性からの離脱を同時に試みて来た。ドーキンスも合目的性という言葉は明確に使用しているし、自然科学は大元の事実的認定においては幾ら偶然性を認知していても、その運用や展開上のプロセスそのものにおいては法則的必然性を厳然と認識している。そのことを念頭において遺伝子の幾多の悪戯のような非合目的性(生命体維持にとってはエネルギー・ロスと認識され得るのに、そういった無駄は常に介在する。)を俯瞰すると、我々はそういった無駄や非効率性そのものさえもが、巧妙に仕組まれた、言ってみれば「神からの試練」であることが了解される。
 知覚がある対象を認識する時、我々は殆んど無意識の内に光の強度のような自動的な受容物にさえある選択を施して授受するものとそうでないもの(知覚しその存在を認知すべきでないもの)とを区分けしていることは、重要性における階層性と同時に生の経済、つまり特にその日の生活上に払われるエネルギーと、今現在の自己に潜在する肉体的精神的ポテンシャルによって成立する経済に鑑みて瞬時に判断し、これとこれのみを認知し、あとは切り捨てようという無意識の判断が働いている証拠であるが、遺伝子自体も時に、個体維持にとって不必要であるばかりか、お荷物にすらなる、あるいはもっと個体を危機に陥れることになる可能性すらある行為や、それこそハミルトンやドーキンスが唱えた利他的行動を行うことがある。その一つは生殖行動である。遺伝子は遺伝子自体で判断し、個体の事情を無視して暴走することもあるが、蛋白質や細胞も、それ自体で遺伝子の指令を一端は受け取るも、自己の都合で勝手に暴走し始めることがある。ところでなぜ我々は大脳の指令には何の疑問も持たずに、それを当然のこととして、遺伝子、蛋白質、細胞の意志は不遜なものと捉えるのであろうか?まるで遺伝子や蛋白質、細胞自体が意志を持つことは、大脳があまりに勝手な意志を持ち過ぎることが引き起こした罰である、とさえ考えたくなるほど我々は大脳による指令を当たり前のこととして捉え過ぎてはいまいか?
 もしどんなに思考力が冴え渡り、パソコンの前に座り一日中キーを打っていたとしたら、それこそエコノミークラス症候群的な姿勢の固定化から身体生理的状況としてはろくなことはないだろう。大脳もまた身体の一部であるから、大脳で判断することが常に最良の判断である、と言い切ることは決して出来ない。遺伝子には遺伝子の事情があるのである。しかも遺伝子が大脳を通じて発現しているという側面もあれば、遺伝子が大脳を中枢神経として成立させている、という側面もまた劣らずに重要な事実である。しかも遺伝子にはエキソン(人間の種として共通に持つ遺伝子)以外のジャンク遺伝子、イントロンが97%である。このようなある種無駄を承知で構成された身体生理学的システムはいたるところに、我々の発生の段階から仕組まれている。我々の指と指の間はそもそもそこにも骨や肉塊を介在させるべく用意された遺伝子を別の抑制系遺伝子、リーリン遺伝子と呼ばれる遺伝子が発現を阻止しその骨や肉や塊の発生を消去しているわけなのだし、イントロンもまたトランスポゾンその他の非必要不可欠物に遺伝子パラグラフを複雑に紛れ込ませた配列から選択的にエキソンをスプライシングするように我々の身体に、それこそ「神が設けた試練」なのである。
 しかし発生論的にはなぜミトコンドリアが呼吸を請け負うように、嫌気性細菌による好気性細菌の取り込み、誘導的共生という風に解釈されているが、それがなぜ嫌気性からの誘導であったのか(ひょっとするとシアノ・バクテリアの登場により大気に光合成による酸素が充満し嫌気性のものの生存を脅かしたことが選択圧となって、好気性への接近をもたらしたのかも知れない。)、あるいは植物などに見られる胚発生がなぜあのような分岐の仕方で形成されていくのか、そうではない別の形態での分岐の仕方でもよかったのに、という問題は再度我々に偶然と必然の問題を想起させる。(もしその胚発生の形態が最も効率的な発生を促進するのなら、そこには複雑な合目的性に依拠した必然が見出される筈であろう。)
 つまりこういうことである。遺伝子レヴェルの葛藤、闘争がある一定の抑制系によって何とかその暴走を未然に食い止めているという事実は、かつて地球全体がもっと平均的に温暖であった時期から、現在のように極地と赤道とに二極分離された極端な温度の分配の介在への移行は、しかし相対的に見た時には地球全体の温度が平均化されている、という地球物理学的真理をも彷彿させる。それは地球のホメオスタシスなのであろう。(我々が動いている地球にいる限りその動きは感知されないが、地球自体はそれを感知している。)我々の身体もまたミクロ・レヴェルでは遺伝子間の対立、細胞間の対立、神経系の対立といった図式を含有しながらもどこかではそれが一方向に暴走しないように仕組まれてもいるわけである。それが構造論的にも機能論的にも偶然性と必然性の相関関係を表わしてもいる。すると言語においてもそういった事実、ある時には、抑制系に対してさえ謀反を起こし得るような自発性が局在的にも認められるようなシステムとして大脳の言語制御機能が、階層的秩序を形成しつつも、そこから逸脱していくようなもう一つのカテゴリーも常に用意しているわけである。マット・リドリー的認識を借りよう。身体が癌細胞の増殖という脱メチル化をきたしているのなら、メチル化を形成している抑制系のシステムとその階層性を用意している身体のホメオスタシスは、ドーキンス流のビークル化した合目的性が遺伝子の一時的な借り物としての我々の身体を規定しているのなら、癌というものは、身体機能を蝕むその実体とは別のもう一つのカテゴリーの可能性提示であると同時に、階層性の破壊でもあるのだ。すると、我々は次のように言語行為を司る大脳機能も考えることが出来る。
 我々の身体が付随意的に転写ミスや翻訳ミスをしながら、その都度小さいレヴェルではかなりの偶然性を構築しながら突然変異性を個体に、その発生ごとに与えているわけだが、それを癌細胞の増殖といった謀反にまで至らせることも、一方で常に用意している生理学的選択システムのようなものがあり、だがそれは基本的にはホメオスタシスに貢献した階層性といった生理学的秩序をも与えながら、最悪の選択肢さえも可能性としては保有している。しかし一端その細胞の謀反に翻弄されるとなすがままになり、最悪にはその個体の維持は別個体の維持によって補完され、全体としては種は維持されるような自然選択を維持し続ける。そしてそのような自然選択の原理は語彙を選択せしめる大脳の言語制御機能においても存在し、それが語性錯誤や失語症を時として選択肢としてある個体のコミュニケーションシステムに入り込ませるわけである。それはやはり社会機能維持に関与する秩序においては個体の階層性の破壊である。しかしその常に潜在的に可能性として用意されたもう一つのカテゴリーは個体に試練を与えもするが、それを克服させる再構築の可能性も与える。というのもそもそも語性錯誤や失語症さえも一つの選択肢として用意しているところの可能性の場は真に自由の名に値するものであり、おそらく自然選択のオリジナルな場であろう。つまりそれは障害がないということである。逆にある一つの常套的意志伝達可能性にのみ依拠することとは本質的には障害によって我々を我々にとって真に自由の可能性から遠ざけている、ということでもあるのである。
 ここで障害というものの正体を定義しておく必要性があるだろう。それは常套的制度への加担、盲目の信頼である。あるいは常套的価値、常套的倫理性への依拠である。
 しかし我々はそこに実際は拘泥しているのだ。そうしなければ生きてゆけないというオブセッションを持ち生活している生活人として我々を見据えることが出来る。