Tuesday, May 10, 2011

C自信論<自殺しようかと考えているあなたへ> 2、表情は言葉を規定する

 中島義道氏は「私は言語を習得してしまったがゆえに、言語によっては表すことのできない、その意味で言語以前の固有の体験に気づいてしまった」と述べている。(「「死」を哲学する」より、岩波書店刊)氏のライトモティーフの一つであるコミュニケーションにおける強者たれというかつて勤務しておられた電機通信大ゼミ生への訓示などに見られる言葉自体を信用しない日本人マジョリティに対する批判は、言葉を正確に伝え、自らの意志を飲み込まないことを行動的に正論としている。(「人生に生きる価値はない」より、新潮社刊)しかし氏の考えておられる言葉を最大の武器であるとしたその考え自体は正しいとしても、私たちは言語習得以前に持っていた習性全体を言語習得以後に全て失うということにはらないし、そのことに対する言及は今のところ中島氏からは齎されていない。
 勿論言語習得以後私たちは言語習得以前には直観的に持っていた多くのことを失うかも知れないが、やはり基本的に言語外的直観も常時携えていると捉えることが自然だ。
 それこそ私は表情であると考えるのだ。つまりもし私たち人類、あるいは哲学的私と言ってもいいが、それらは言葉があってこそ生存してこられたのだ、と一方では言える。しかし他方私たちに言葉によって意志を伝えることを促しているものを情動とか心による動因であると考えると、その心を最も顕著に示すものとしての表情を、仮に一切顔を他者に晒さないままでいたとしても尚例えばある文章から読み取れる表情がやはりあるのではないか?
 それは端的にニュアンスとかクオリアという言葉でも十分に伝わらない気が私はするのだ。
 クオリアとは端的に他者の心は自分には決して読めない、そしてその心が基本的に自分と同じであるかどうか決して確かめることが出来ない、それは私が見ている赤い色とあなたが見ている赤い色が同じように見えているかどうかさえ終ぞ確認出来ないという、要するにゾンビとか意識の問題を誘発する命題である。ニュアンスはある一定の波長として何らかのメッセージが伝わる効果の問題で、それは語彙の持つ意味が発話においてどういう効果を齎すかということだから、表情と関係が深いが、やはりそれは一面的である。
 従って表情とは私たちが好むと好まざるとに関わらず、例えば楽しい時には楽しい、悲しい時には悲しい表情をする、という意味で生理学的な法則である。それは意図してそういう表情をすることも不可能ではないが、やはり本当は悲しいのに楽しい振りをしていた場合すぐに見破られる、そういうタイプのものである。
 だからそれはクオリアが内的価値の命題であるのに対して、外的価値の秩序でありニュアンスをも含むと言える。と言うことは前節の謂いからすれば、「一致」の世界の考え方が適用されるだろう。
 そういう意味では中島氏が言葉の持つ意思疎通において最大の対他者的意図を表示するという意識的なことを根底から支えるような基本である。しかし氏はこの表情に対して殆ど言及しているようには思えない。「人生、しょせん気晴らし」において 単独者協会 というタイトルの章において僅か触れているだけである。
 宗教はしかしこの表情において個々の内的世界に通じる心の在り方を指示しはするが、その内的世界から見た思惑自体はあまり大きく取り扱わない。その点が哲学との最大の相違である。つまり最初から哲学は独我論を発生させることをも吝かではないタイプの内的世界からの視座自体を学全体の前提としていて、それ以上内的世界を離れたことは、宗教か科学にお任せするというスタンスを取っている。しかし宗教は最初からこの哲学では懐疑的対象であるところの「一致」が話し全体の前提となっている。つまりその「一致」こそ神の視点なのである。
 例えばニクラウス・クザーヌスの「神を観ることについて」の冒頭での謂いを見てみよう。

(前略)つまり、われわれのなかで一つの眼差しが他の眼差しよりも鋭くて、また、或る眼差しは近いものをかろうじて識別するが、他の眼差しは遠く離れたものも識別し、また、或る眼差しはそれの対象にゆっくりと到達し、他の眼差しはそれの対象により敏捷に到達するということがあるとすれば、視力のある者たちの全ての眼差しとしての絶対的眼差しは、全ての現に視力のある者および視力のある者になりうる者のもつ〔視力にかかわる〕あらゆる鋭さと敏捷さをあらゆる力を凌駕するものであることは、疑いのないことである。(19~20ページより、「神を観ることについて 他二篇」八巻和彦訳、岩波文庫)

 つまりここで言われていることとは、端的に神の視点があるということ、そしてそれを信じるというところから全ての教説が成立している、ということなのだ。だから逆にその前提さえ不問に伏せば哲学との思想的意味内容的な共通性は宗教には大いにある、とも言える。ただ哲学ではその前提にもいささか拘るという傾向があるだけである。
 しかし哲学者と言えど、私たちが意思疎通する時必ず表情を伴うという現実は否定しないだろう。つまりそれは一致しないかも知れないが、一致を目指すという言語行為の本質の根幹を支える生理的な法規なのである。あるいはクザーヌスはそのことを絶対的眼差し、つまり私たちが一切の法規を無視することが出来ないという運命として記述したのかも知れない。

 脳科学では笑う時の口元とか頬の形を意図的に作ると、本当に嬉しい気持ちになるということが分かっている。つまり形から入ることそのものが、本当にその時その表情を作った人の感情になるということから考えれば、意図的、外的価値としての表情をもやはり哲学上でも問題化していく必要があるように私には思われるのだ。