Tuesday, May 29, 2012

B論文 名詞と動詞 言語の無限連鎖

 不可知領域を自然科学では解明し得ないものとして認識し、そこから先は哲学に委ねるというスタンスは自然科学の方法的限界を自然科学が自ら認めた形での自然科学に於ける決定事項であるが、それはヒュームによって示された不可知論が後にカントによっても推進された事実からも伺える自然科学の外延的な実像でもあると同時に、それらはでは哲学では解明され得るのか、というと哲学もまたただ単に不可知を不可知として認識してゆくより他はないと結論するしか仕様がないのである(自然哲学出自の自然科学はある部分では極度にストイックであるが、そのストイシズムは哲学のそれとは又違う)。カントが形式主義者であるのはあくまで彼が「純粋理性批判」によってその極序説に於いて示したカテゴリー認識とその認識表によってである。寧ろ彼は現象論者である要素の方がより強いし、その現象主義論者としての本質に於いてフッサールが後に現象学を推進することとなったのである。カントのどういう部分が現象主義論者であるかと言えば、それは端的に言って彼の示す「物自体」という認識からであることは言うまでもない。しかしそれはやはりヒュームから引き継いだ部分のカントの本質であり、彼の全体ではない。カントの「物自体」とは決して現象的に我々によって覚知されるものとは異なり断絶をきたしているということを示すことを通して不可知論に到達したのはヒュームへの恩返しであったとも受け取れる。
 カントがある意味では物自体によってその現象的な認知以外の何物も我々がなし得ないという虚無感を独自のカテゴリー認識と綜合作用によって抉ったとするなら、現象の背後に本質を認めないという意味での唯現象主義というなら、サルトルこそ最もここでその任に相応しい人物であった、と言うべきであろう。そのサルトルが最も顕著に思想的なバックボーンとしたのがフッサールであったことは言うまでもないが、当のフッサールはスペチエスという概念を自身の初期論文「論理学研究」に於いて多用していることの背後にはダーウィニズムという観念が自然科学と論理学の狭間で大きな位置を占めていることを時代論的に直感し得たからである。そしてそのダーウィン当人よりも遥かに早く、種という概念を披瀝し、その分類学的な見地から総合的視野と分析的視野を透徹した眼差しで見つめていたのがカントであった。カントは論理主義的な認識の持主であったが、同時に形式的な認識もあったし、「物自体」を概念規定する様な方法的な論理思考には明らかに直観主義的な認識も持ち合わせていた。フッサールとて、直観主義的な視野をジェームスなどから咀嚼していたことは確かでありプラグマティズムと現象学の接点も意外とここら辺にあるのではないか、と思われる。しかもフッサールが極初期には数学を自身の専門分野としていた事実は安易な直観主義ではない確固たる論証性に裏打ちされた姿勢であるに違いないし、ある思想が成立する場とは極めて多重的で矛盾に満ちていることを、それこそ直観せずにはおれない。この様な思考的、思想的な連鎖が相互による認識作用の展開に於いて為される直観力、記憶整理力によって促進されていることと、その際に払われる秩序立った整理の仕方の様相が論的な展開と論的な様相を決するということを少なくともジェームスから学んでいた筈である。だがジェームスその当人にその様に我々が抱く様な認識があって、彼の論理を構築したのかと言えばそれは違うかも知れない、とも言い得るのである。ここには事後的に言語によって為された論理的な思想プロセスが次代の俊英たちによって巧みにその本質を独自の解釈によって上塗りされた上で継承される一種の無限連鎖を感じさせずにはおれない。というのもあるテクストに対してなされた発言とは必要以上にテクストに対する主観という風に解釈されやすい、ということがあるからである。
 実際にその発言はその様な主観主義的にその発言をした人物によってなされたものではなかったかも知れないが(あるいはそうであったかも知れないが)、にもかかわらず一方的にその様に深読みされて伝達されれば、我々はその深読みを正当なる解釈としがちである。それはそれを述べた者の社会的信用度に比例してそうである。やがて最初に発せられた言語の独自の多義的な意味は一義的な意味へと意図的に収斂され、目的論的な発言として処理され始める。偶然的な発言がこの時点で必然化され、過去の目的論的な事実として認定され始めるのである。ここに歴史は作られる(歴史とは無意識的に恣意的なものだ)。
 この様に言語によって為された発言自体がその自体的な意味性から離脱し、その発せられた偶然性が必然性へと置換され、やがて一義的な意味性へと収斂してゆく様な多義性の形骸化が我々が目にする過去化の最も顕著な例である。言語活動はこの様な過去化の波によって常に侵食されながら偶然の必然化作用によって規定を受けながら次代へと受け渡されるのである。そこにはある発言を発した人物の主観が言語的な概念化作用へと置換され、個的意味から普遍的意味へと置換されるある種の欺瞞、背進といったものが介在していることもまた事実である、ということである。人は真意伝達の完遂を幾分誤魔化しながら真意を多少の齟齬と曲解を経て伝達されることをア・プリオリに承知して意思疎通を図っているとも言えるのである。完全に自己が得た認識と同様の認識を他者が持ち得る為には他者が自己のクローンででもない限り不可能であることを我々は知っている(クローンでさえ完璧に相同の理解が得られるとは限らない)。だからこそ自己以外の他者が自己の認識とは幾分別個の認識を持って自己を理解することを予め承知していながらも、同種の理解の範疇で了解しておこうと思い厳密さを一般化された共通性へと常に置換しているのである。この様なある種の自己欺瞞、背進は言語活動という概念化作用にはつき物のことなのである。 その様な考え方を基本に空間の有限性の中で生を全うしようとするのが人間であるという前章の考え方を基本に、なぜその様な形で我々が言語による無限の連鎖をなすのであろうか、ということを考えてみよう。
 まず言語活動は人間が絶滅でもしない限り人間社会では無限に連鎖されてゆくということである。ある社会を例にとれば、その社会は日々刻々と異なった成員組織となっている。赤ん坊が産まれ、老人が死ぬ。そうやって成員の顔ぶれは日々刻々と変化している。そしてそうやって育まれ続ける言語体系は物凄く緩やかにではあるが、徐々に変化し続けている。それはどの様な言語に於いても何の例外もない。ただその様な変化のどの瞬間にでも成員がある語彙を使用する際にその語彙が指示する概念とは各成員が使用する際に心的に描くその語彙が指示する対象物(事)についての最大公約数的な重なりである。勿論その重なりの形状は徐々に変化してゆく。例えば林檎はかつて赤いものが主流で、それが最近になって徐々に黄色いものが主流となっているということが生物学的な傾向であった、としよう。すると林檎はかつて子供であり今は大人となっている成員たちによって赤いものであるという心的様相が定着していたとしても今後成長してゆく若者たちの世代にとって黄色いものとして徐々に変化して定着されてゆくであろう。そういった意味で語彙を巡るその語彙習得に纏わる個的体験性は徐々に成員メンバーの交代と共に変化してゆくことは恒常的な出来事である。しかしその変化のどの瞬間をとっても最大公約数的な心的描出の重なりがその瞬間での語彙の基本的な概念、つまり公共的な意味である。だからどの様な個的な体験性によって個的意味を成員個人の心中で語彙習得の記憶があろうとも、一般的な意味こそが主流となってその瞬間に於ける林檎なら林檎の定義を形成しているのだ。クワインの流儀では、「意味は名指しと同一視されてはならない」のだし、「意味とは、指示の対象から切り離されて語と結び付けられた本質のことである。」(「論理的観点から」33~34ページより)とする時、ここでクワインが言う対象とはカント的な物自体である。物自体はそれ固有の事情から我々によって認識される様な性質のものである以外の不可知な性質を常に有しているが、それは我々にとってはブラックボックスである。仮にその様なブラックボックスの一部が更に解明されても依然不可知領域は残される。そこら辺はカントの「純粋理性批判」からも既に口を酸っぱくするほど問われている。だが、その不可知性に取り巻かれながらも、極一般的な理解というものは常に存在する。それがその瞬間に於ける最大公約数的な対象的な事物への一般的理解であり、心的様相に於ける個的記憶誘引性の重なりである。それがクワインの言う本質というものと考えて間違いはない。しかしそれは名指しとは異なっているという。それはどういう事態を指すのであろうか?
 それはこう考えればそれほど難しくはない。本質はそのものに対する認識が変化するに連れて変化する。林檎なら林檎の我々の身体に及ぼす成分の理解度が増すに連れて林檎自体の本質は徐々に書き換えられてゆく。しかし林檎を「林檎」と呼ぶ語彙選択的な発話、記述行為を誘引する約束事は変化しない。一旦林檎を「林檎」と呼ぶ習慣はそうおいそれとは変化しない。そこで我々は林檎を「林檎」と名指す規則遵守的な認識は意味(つまり対象という物自体とは常に齟齬をきたす我々の対象への認識の本質である)とはまた別個の慣用的なコードである、ということとなるのだ。
 つまりある語彙はそれが指示する対象への人間のかかわりがある限り無限に連鎖してゆくが、徐々にその対象への理解度が増したり、希薄化したりしてその対象への認識が変化してゆくが、変化しながらもその語彙自体は残存しながら成員間に連鎖してゆく。そして概念規定的な役割を有している、という事実自体は何の変化もなく、語られ、記述され続けてゆくのだ。だがその無限の連鎖の事実が本質として我々に語ることとは、語彙を成立させる条件は人間の身体にける音韻的な発声システム自体にある限界がある、つまり周波数的な意味で我々が可聴な性質の音であるとか、口や喉の形から発することの可能な音の性質とかによってある特徴(限界)があるから(人間の発声システムは蝙蝠とも鳥とも異なっている)、その様な制約の中で執り行われるものである、ということと、その制約こそが、つまり能力の有限性こそが語彙を常に入れ替わらせることを阻止し、一旦そう呼ばれたものをそうおいそれとは被使用語彙の定着を変更しない保守性へと導くということである。そしてここでも空間的な有限性が同一パターンで各成員が同一の概念を通して個的な意味記憶を超えて共有し得る場を提供している、と考えることも可能なのである。もし空間が無限であり、個体が死滅せずに永遠に存続し得るのなら、言語活動に於いて仮に林檎なら林檎が指示する対象は無限と化し、またその様な音韻的に「り・ん・ご」と発する規則性やら音韻的な組み合わせも、その組み合わせの選択も無限と化し、林檎を林檎以外のあらゆる語彙で置換し得る無限の可能性の全てが顕現されてゆくに違いないであろう。
 しかし逆にもしあらゆる個体が死滅しないで生存を永遠に維持し得るとしたら、そういった個体間には全く抗争というものがないということを意味する。殺人のない共同体である。それは共同体でもない、ただの茫漠たる無限空間、それも個体によって埋め尽くされたものである。すると死滅に関する何の問いも存在しなくなり、従って哲学的思惟も存在し得なくなり、恐らくそういった社会には言語さえ生じ得ないであろう。すると仮に林檎を「ら・ん・ご」とか「る・ん・ご」とさえ発話し、それが指示する対象を呼ぶ空間的な地域が存在し得る空間的余裕があっても何の意味もない。そもそも言語が必要ではないだろうからである。この様に問うことの無意味を生じさせる可能性に対する認識は数学と物理学の関係を思わせる。
 虚数であるとか、千京の千京乗という様な数は数学に於いては思惟可能性として認められる。だがそれらは総じて物理学に於いては、とりわけ古典物理学をはじめとする自然科学に於いては余り意味がない。自然科学に於いてはその都度必要とされる計測可能な数値のみを相手とするから、その時点での科学技術の水準に左右され科学に於いては数値的計測方法の不可知領域への設問を無視することを決め込む。だが数学に於いては、それらは設問可能領域である。しかも無限性さえ考えることは可能である。数学はだから思念的に無限に進行する可能性をア・プリオリに前提している。おそらく個体の死滅のない社会では高等知性というものも生じようがないであろう。しかしにもかかわらず「り・ん・ご」を「ら・ん・ご」と呼ぶ様な社会の可能性を考えることは数学的にも哲学的にも可能であるし、その可能性もまた無ではない。というのも林檎を「り・ん・ご」と呼ぶこととなった経緯自体が極めて偶然的であるからである。これらの可能性を考えることは少なくとも現代理論物理学では稀ではないようである。
 ここである結論が示されたと思う。それは言語がその様な「り・ん・ご」を「れ・ん・ご」の様に呼ぶ可能性を秘めたある規定的、規約的な特定条件指示の音韻的顕現行為があるとするなら、言語の語彙発音等が徐々に変化する事実から言語は無限に変化をし続ける(人間が絶滅しない限り)無限連鎖の可能性を秘めた恣意的な行為である、としてもよい、ということである。事実歴史的にはどの様な言語でも一気に変化することは稀であるとしても徐々に発音が推移してゆくことは日常のことである。また日本語の「夜<yo>」をフィンランド語でも「yo」と呼ぶ様な偶然性(果たして全くの偶然であるかはまだ判然としていないが)や、あるいは「yo 」が「ye」である様な、しかもその意が夜である様な言語があり得る可能性はある。だがそれとて偶然である可能性の方が大きく、何か別の大本からそれらへ分岐していった可能性もあるという様なことは同一の歴史的背景がない限り不可能であろうが。
 しかも我々は次の点に眼を向けなければならないのだ。つまり無限連鎖はあくまでも我々の種の存続が永遠であるという限りの可能条件の下でであって、我々が使用するあらゆる言語はそれ独自の文法秩序と語彙を有しているが、その制約的な条件の中から我々は過去の使用者間の秩序の幾分かを受け継ぎ、その幾分かは変更し、次代に引き渡すが、それは永遠に続く連鎖に於いてのみ極初期の文法や語彙の痕跡が全くなくなる可能性を示しはするものの、実際上それ程の気の遠くなる様な変化をきたすことなく、人類が絶滅するのであれば、その連鎖に於ける変化は多少の痕跡を人類最後の存在者さえもが、極初期のその言語の原初的形態を痕跡として保持しているであろう、ということである。しかも成員間に慣用される言語が人類種に於ける個体の身体と精神による生命の永遠の保持が不可能であるという事実にすら依拠している、ということが示される。というのも無限連鎖に於いて徐々に変化してゆく言語の様相が初期から考えればほぼ無限であるくらいに個体が永遠に生命を維持し得るのなら、我々は言語など使用することすら意味がない、あるいはこう考えてもよい、人類がそれを使用することで存続を図ろうとする、個体を維持しようとする言語の生存の武器説はあくまで言語とは個体がいつかは死滅し、次代の個体へと生命活動が引き渡されることを前提として生み出された装置であるという考えなのなら、死滅しないで無限連鎖を続ける様な、つまり原初的な形態を全く保持していない様にやがてなる様な言語を態々自然が人類に使用することを選択し得るであろうか、つまりそれだけのコストをかけて人類の進化を自然が与えたであろうか、と考えると甚だ疑問である、と言わねばなるまい。つまりもし言語が人類の個体の生命数と寿命が仮に無限であることが可能であっても尚存在し得るのなら、何故無限に変化してゆく様なヴァラエティーを言語が持つ様に自然は選択し得たのか、という設問に対して我々は答えに窮するのである。何故なら言語が複雑であるからこそ徐々に社会のニーズと共に言語は変化し続けるのであり、つまり人間のあらゆる非論理的な欲求とか欲望とかが言語に一方で感情表出とそれとは対照的な論理構築をさえをもたらす誘引作用となるのであるから、もし個体の生存が無限である様な地球の、宇宙の人類の社会があり得るのなら、我々には寧ろ極単純な言語使用しかあり得ないのである。何故ならその様な社会には個体が永遠に存続し得るのだから、殺人はもとより、あらゆる犯罪、そしてそれを誘引する様な人間の心的に複雑な様相、例えば競争心とか嫉妬なども一切ないのでなければならないし、そうなったら単純な言語、つまり人間の非論理的な部分を排除したものでなければ矛盾するからである。
 つまりこう言えよう。言語が複雑であることで言語は緩やかに人間の意識の変化に伴った社会の変化を来たすのであり、それは人間の心的なつまり脳内での活動は一方で感情的な非論理に支えられつつ、同時に感情のままに突進することを制御することと、思惟することの快楽の獲得という目的論に於いて論理構築すること、例えば数学的思考を働かせるとかの活動を絶えず反復しているという事実に依拠している、ということである。そしてその論理的思考を巡らすことは人間が非論理に陥ることを一方でその本性として理解しているからこそ、その二律背反的になされている、と捉えられるのだ。我々の社会でも社会的失格者たち、あらゆる犯罪者がいる。だから当然のことながら被害者<死者も含む>も出るので、結局実存論的には永遠の個体の維持ということは自然科学的に仮に可能であってさえ不可能ということとなる。つまり自然は個体をほどよいレヴェルで死滅させながら全体を調節している、ということである。言語の無限連鎖はその限りで永遠の個体維持という幻想の下にのみ成立する思惟の自然が生み出した可能条件なのである。

Saturday, May 26, 2012

A論文 言語のメカニズム 27 中枢神経、物体、相関性

 受容と拒否のことを思い出して欲しい。(第6章、受容と拒否を参照されたし。)我々は受容と拒否を行うが、なるべく拒否を回避する方向で生を全うしようとする。拒否エネルギーが個体の維持に多大のロスをもたらすことは明白であり、故に我々は肯定的な事柄から否定的な事柄への転換や事項の変化、切り替えを何かの拍子に思い出したりはするものの、否定的から肯定的な方を寧ろなるべく選択し記憶しようとする。自己防衛心が極度に肯定的な事項への変化さえも、「あいつは用心した方がよい。いくら善人ぶったあいつの表情もどこかでしらじらしい。よってああいう手合いは一皮剥けば善良ぶった偽善的な表情や物言いに決まっている。信じてはいけない。」という事情から拒否し続けるように命令しでもしない限りなるべく肯定的に他者像に関しても捉えようとし、また仮にそう命じたとしてもその人物のことをそう深くは考えないようになるものである(無視とも違う。無視はエネルギーが要る。この場合自然と思考の範囲から除去されていく、ということであろう)。
 さて本章では少し別の観点から記憶とかのシステムを考察してみよう。例えば我々の生命が現象であるか、事実であるか、とか身体が物質であるかとかの議論は昔から多くの哲学者、科学者たちの論争の的となってきた。だからもし我々の身体をも物体として捉えるなら、全事物は物体となろう。しかし心的事象のみは取り敢えずここでは保留にしておくとして、身体を現象(生命現象)と捉えるなら、他の多くの物体も現象として捉えることも可能であろう。ここに今転がっている小石は物体であると、誰しも思う。だがこれが川とか海となるとちょっと事情が異なってくる。山脈は物体であるとも言えるが、大きな自然現象を育む自然環境(構成要素)だし、地球はやはり宇宙の大きなシステムの中の運動体としての現象でもある。物体と捉えられなくもないが、ただの物体(ただの物体と言っても、これとて何処から何処までと言うと、難しいのであるが)とも異なっている。例えば地球はああいうかたちをして何の不可思議もなく太陽の周囲に軌道を描いているわけだが、ああいう形でなくてもよさそうなのに、ああいう形をしているということは、ああいう形である何か、それ以外の形ではあり得なかった理由があるということである。すると形状、運動の仕方、引いては存在の仕方そのものが全ての事物の現象的側面となる。その現象とはどこかでその現象を成立させる必然性が更に求められ(少なくとも我々の思考に於いては)その必然性を科学では合目的性とか呼んだりするわけである。我々の身体をも一個の独立した宇宙(太陽系のように)とすると、我々の身体を一個の独立したシステムとして成立させているものとは細胞、血液、蛋白質、そして神経組織とかからとなる。それらは常に身体全体を一個の独立したシステムとして存在させるべくホメオスタシスを成立させる為に奉仕しているわけである。その身体の生理学的な機能維持と、物質としての身体を外部環境のシステムと、環境の一部として代謝、呼吸とかの機能維持において交換させながらも個体毎に別個の事情を抱えた独自のシステムとして成立させながら、内と外を明確に認識することの出来る能力を発現させる構造を内包した、言わば運動体という現象的側面と構造体という存在論的側面の両義性の名において顕現しているのである。しかも運動を司っているのが神経であるし、神経を束ねて指令を出したり、感覚を伝えたりするのも、脳、とりわけ大脳の役割である。その物体でもあるこの身体を支えるシステムは生命独自のそれであると同時に、非生命体をも含む全ての事物に共通する物理学的システムの一部でもある。それらは一見相反するようでいて、どこかで矛盾することなく共存している。
 多くの哲学者たちを困惑させてきた意識の問題は、では意識とは現象であるのかどうかという問いに対しては一応それも現象だと答えておこう。しかし我々はどこかで現象というと移ろいやすいもの、取り留めのない不確実なものという観念を持っている。それに較べ実在は確固たるものという観念もまた併せ持つ。しかし実在とは物体を固定化した、つまり不動のもの、構造的な解釈で捉えた観念であり、観念もまたイデアと言うのに相応しく何処かで永遠のものという考えを抱いている。しかし実際上我々の身体を機軸とする生命は流動的なものでもあるし、一瞬たりとも変化を免れ得ない。しかしそれでいて同時に全く異なった物体へと変化することは少なくとも生きている内にはあり得ない。雌雄が交換されるような種の生命体でさえ、そういう変化は予定調和的遺伝子のシステムに忠実な不随意的生理学(或いは発生学)的普遍性の範疇の出来事に過ぎない。物体という観念からは固体のイメージが強く、事実我々の身体は液体や気体を多く含み取り入れてはいるけれど、やはり固体状で移動し、代謝し、食物を吸収、消化する。それはしかし変化をきたし、常に内部から自発的に変化する(外部からの影響とか刺激に対する反応だけではなく)ものであり、その限りで生命現象であることもまた免れ得ない。それは生殖による自己増殖的連鎖と同時に自己内完結的にも絶えず中枢神経と末梢神経における交換システムにおいて連綿と行為と中断と、動と静を反復する変化希求型物体である。  
 しかし遺伝子や細胞さえそういった一個の自立したシステムとして壮絶な葛藤と死闘を体内で繰り広げているところを見ると我々の意識はそういった葛藤を一方でやはりそういう活動の一環として参加しながらも同時にそれら一切を高みから見物するような二面性も持っている。また、意識はそれを通してしか客観的洞察さえ不可能なので、現象であると同時に全ての生の時間の出来事を凝視する観察者でもあるのだ。だからこそフッサールやサルトル等が「意識は常に何者かの意識である」としたような、意識を持つということが、すなわち具体的な生の瞬間における知覚や体験(状況的、状況や身体生理と不可分な具体的な感情、生理的要求を通した)を一時たりとも不随させずには済まさない同時性を介在させた、つまり意識「内容」を切り離すことの出来ぬ現象でもあるのである。観察者と言ったが、それはそういう内容がまず先験的に立ち現れるこの世界の有り様を一挙に表現しやすい一つの比喩として我々が利用してきた、という側面も大きい。
 結論的に言おう。意識とはそれがある一定の目的に向けられている場合、つまり行為自体(それが自己のためのものか、他者や共同体に向けられたものであるかにかかわらず)を除いて、思惟とか反省へと赴くか(非行為的時間において)、そうでなければ観察(見るという行為の時間)へと赴く。観察は漠然として言えば視聴覚的な、本質的には視覚中心の知覚体験を重点的に採用した行為である。だからそれは関接的には目的性を持っていないとも言えない。しかし意外と反省や思惟はそれ自体、何かの目的性へと向けられてはおらず、生の実感を持つ時間での出来事であると言えよう。するとこれは明らかに非目的的であるから、自己の存在(や生活)を中心としたものの見方になる。昨日のこと、子供の頃のこと、妻のこと、子供のこと、友人のこと、同僚のこと……..etc。  それは必然的に他者への奉仕とか社会への奉仕という観念とは無縁のものであり、先に挙げた自己防衛や良心といった自己保身へと直結する傾向を常に持っている保守的な思念である。誰か溺れそうな人を助けようとしているときは、平静時のそのような思念は皆無である筈だ(そうでなければ目的は達せられない)。だからこういった場合の意識を他の意識と同列に論じるわけにはゆかない。この場合の意識は判断というのに近いと思われる。拠って本論ではこういう意識を以後全て判断とする。
 そして意識を中心にすれば神経システムは手段となるが、知覚、思考、判断といった多くのものが実際は常に意識的であるかどうかとなると甚だ疑問であり、無意識(これもフロイト的無意識だけではない)こそ実は知覚、思考、判断に直結し得ると思われるし、それを俎板に乗せると途端に神経及びその制御が生の目的となる。また神経システムにおいて我々は無意識の果たす役割と、イントロン等に見られる非不可欠物、あらゆる可能性を想定して複雑に組織された活型、不活型の蛋白質の発動、抑制の反復された制御システムが我々にとって生とは何か、そしてそれがコミュニケーションに於いて果たす役割を見据えることで、言語の意味を洞察する上で重要である、と思われる。そしてとりわけ本論では感情、行為、様相的概念理解の切り替えが記憶を促進し、そういった記憶を促進させながら受容機会を多くすることそのものを分析することが、行動生理学的にも認知言語学的にも極めて「変化することを常とし、そうしながら生を実践する生き物としての我々」というある種、時間論的哲学とも無縁ではない本論の中心的テーマへと向けられてゆくと思われる。言語とは言ってみれば変化を体現させながら、変化事実を事後的に確認すると同時に、未来予持的に変化を予告し、期待表明するものなのである。
 拠って本章ではまず神経というものが言語を誘発するのではないか、そしてそれは言語行為として実践されることで、神経機能をより活性化し、遺伝子の発現も促すのではないか、という考えを中心に論を進めてゆこうと思う。その為には神経とは何かということをざっと捉えておこう。
 神経組織自体はそれが人間の生を司る主要な位置付けを持った機関であると同時に、ある生命体の進化過程を体現した一つの別格的な生物学的事例でもあることが伺える。それは他の霊長類と比しても類例なき脳の大きさ、その指令システムの複雑さが例えば指一つとっても細かい動きを即指令出来るような各身体部位の機能の発達具合といった相乗性(シナジー)からも伺える。それにしても興味深いのは、我々の遺伝子における1000ものゲノムが、微妙な翻訳、転写ミスによって個体間の差異を形作ってはいるものの、それは人間学的には非常に大きな差異ではあるものの、殆どの個体は目は二つ、鼻や口は一つ、耳は二つということにおいては変わりない。勿論乳首や乳房が三つある人や、性器が二つ以上ある人もほんの僅かなパーセントではいる。しかしそのような特殊例を除いて、概ね人間はその身体構造上の仕組みや機能は殆んど変わらない。胃が腎臓の役割を担っているとかの特例は未だ耳にしていない。そういう意味では神経組織をも含めた全ての身体機能が何の差異もなく全ての成員に共通しているということは、自然界に何らかの合法則性のようなものが具わっていて、たとえ個体間の差異が微妙なる突然変異によって形成されたとしても、その変異の範囲は特別に逸脱することはない様になっている、としか思えない。まさにドゥ・ルーズが「差異と反復」で試みたようなその素晴らしい生命の両義性は秩序だったシステムの合法則性には決して逆らってはいない、ということである。その意味では神経組織もまた、複雑なシステム上での個体間差異はあるものの、グリア細胞やシナプス間隙といったシステムそのものにおいてどの個体も、特殊な遺伝子発現による変異表現型を含みながらも、やはり一定の秩序に則っている。
 さて中枢神経による、指令性においては中央集権的神経系ネットワークともいい得るものは、予め我々の身体全体をくまなく張り巡らされており、それゆえ殆どインターネットのネットワークに等しく、だからこそ脳から最も離れた爪先にさえ脳に近い部位と全く同じように瞬時に感覚をもたらす。それにもかかわらず脳自体は外部刺激からの感覚を持たない。(頭を打って痛いのは頭蓋骨に通る神経の知覚である。内部的には頭痛もするが、外部から、仮に触れられても<脳を開いて>も痛みは感じない。ここら辺は養老猛司著「唯脳論」青土社刊に詳しい)末梢神経に対してそこから得られる感覚を感覚させるものは脳からの指令である。勿論その痛みや痒みを感じる部位そのものの記憶もあるだろうが、その記憶を収納する部位もまた脳であることは確かなのである。
 しかし記憶には幾つかのパターンがあり、それは主に二つに分類出来る。例えば海馬記憶はエピソード記憶として理解することも可能である。また言語の記憶は明らかにこのエピソード記憶とは異なる。エピソード記憶が具体的な思い出として捉えられる情景的、心理的記憶であるのに対し、言語記憶は慣用的に常時引き出すことが出来る学習習得記憶であり、一々我々はその語彙を覚えた時の記憶を持ち合わせはいないし、ごく最近覚えた語彙さえも覚えた時の記憶は徐々に忘れ去られる運命にある。フッサールは「経験と判断」においてこのエピソード記憶と意味記憶の二つを次のように解釈している。(147ページより)
 一、それぞれの(たえずながれゆく)記憶の場の統一。これはせまい意味での直感的統一である。記憶のなかでひとつのながくつづくできごとが進行する場合、それがひとつの記憶だといえるのは、先行する局面で直観されたもの、以前にとおりすぎたものが「なお」直観され、把持されるかぎりでのことである。そこにあらたにあらわれるものは、まさにそのときはじめて「第一次的に」直観されるけれども。<エピソード記憶、管理人注>
 二、全体的な、ひろい意味で直観的な記憶の場。そこにさしあたりぞくするものは、意識の統一のなかを連続的に「進行していく」、いくつかの本来直観的な記憶の場であり、それらはもはや本来の直観的な生気はもたないが、過去把持的な生気はもっていて、したがってけっして過去のうちに「しずみこんで」はいないものである。さらにまた、あらたに想起されたものではなく、以前からある過去の地平にふくまれる一切が、このひろい意味での記憶の場にぞくする。_それらは想起という形式で志向を充実させる潜在力をもつものとしてふくまれるにすぎないが、この想起は最初は直観的なものとしてあらわれ、ついで、過去把持的に沈下して、いまだ生気はあるが非直観的な過去把持に、過去に沈み込んではいないが沈下したものに、なってしまう。<意味記憶、管理人注>
 意味記憶は明らかに最初は何らかの個人的体験性やら個人的意味合いを帯びていたわけだが、次第に慣用されることで、その意味性は記憶像からさして重要なものではなくなり、やがて概念的理解として定着され、いつも直観的に引き出され得る辞書的項目と化す。それに対し、エピソード記憶は好きなときにだけ思い出すことが出来る憩いである場合も多く、常に慣用する文字に近い意味記憶と違い、絵画的、映像的である。
 前前章において、数学の試験のことについての筆者の思い出と共に理解が概念性へと移行されることから、理解出来ない図形(好奇の対象)の方が実在感を払拭出来ず、かえって映像記憶となって残るのではないか、という仮説を思い出して欲しい。これは明らかに映像記憶であり、その試験会場の緊張した臨場感と理解出来なさが相まってなかなか忘れられるものではないだろう。しかし英語の得意であった筆者にとって解けた問いを一々覚えてはいない。そういうものである。使用頻度の大きい語彙を習得した時の記憶とは大抵幼少期である。難しい専門用語等を覚えた時の記憶と同じでは決してない。だがかなり前のことでも、エピソード的記憶像はそうは忘れられない。勿論日常的などうということのない記憶は段々明確ではなくなることはあり得る。しかし何かの拍子に突然嘘のように綺麗に思い出すこともそう珍しいことではない。ある人に久し振りに会うと突然その人間との思い出が、蘇ってくる。しかし基本的な英単語(日本人にとっての)を中学生時代に覚えた時の様に我々の生活上表現するための不可欠な「橋」や「川」等といった語彙を覚えた時の記憶はそうたやすく思い出せはしないし、一生思い出せないことの方が多い。広い意味での意味記憶も同様である。意味は個的な情況において記憶されるも、一旦覚えてしまうと、今度は概念的理解に移行してしまい慣用的条件反射になってしまう。哲学者や数学者が「論理」とか「命題」という語彙を一々個的状況性に依拠した習得時の記憶を引き出せるなら、その学者はまだかなり若い学者であろう。さてこのような語彙習得と概念的理解といった意味記憶とエピソード記憶との間に神経的メカニズムにおいてどのような差異が横たわっているのであろうか?
 映像記憶において情景において存在した、例えば友人と飲みに行った飲み屋の店内とかの、友人の顔とか表情以外の物体に関する認識とその物体において抱いた印象の双方が微妙に絡み合って記憶には格納される。意味記憶というものは個的概念理解において付帯するものであるが、概念理解と共に沈殿し(フッサールの謂いに従えば沈下し)何か特別の契機がない限りそうはそこから意識へとは這い上がって来ない。だが友人と行った飲み屋の記憶は友人と会わずにも、その友人のことを考えればすぐさま思い出せる。この両者の記憶の仕方の差異は思い出し方にも多大の差異があるから、当然神経系のメカニズムには差異が生じる筈であろう。まず映像記憶から考えてみよう。
 映像記憶は、しかし映像とその時抱いた自己の思念(考えたこと)や、情景と重なり合っている。必ずしもそれらが統一されて格納されているというわけでもないのだろうが、統一して想起することに我々は慣れている。映像記憶は全体的情景の印象と、人と語ったのであれば、他者の表情、そして会話内容(部分的なもので、脈絡や順番よりも、個々の内容であろう)だけはなぜか、意味記憶の側へと格納されている。が映像は明らかに全体的な雰囲気、友人と飲んだ店の暗さや広さ、といった自己身体から察せられる空間感覚の覚知と、映像的フレームの視覚的記憶像である。
 しかし、こういったエピソード記憶と違って、意味理解の記憶は理解出来た瞬間は、その後何度かの理解概念の反芻によってその時点では記憶されているが、慣用頻度の大きさに比例して徐々に忘却される。だから頻繁に会う友人との間での会話内容における意味記憶は、たまにしか会わない友人と違っていつどこで交わしたものであるかの記憶は徐々に混同されてゆく。つまりその会話を交わした情況は、映像となって情況だけで独立して格納され、内容は場所や会話した際の情景の映像記憶とは別個の格納のされ方となる。しかし理解した瞬間がそれ以前の誤解による理解から転換した場合、割合印象に残りやすく、その場所も情景も(もっとも、場所が思い出されるのに情景は思い出されないということは希少であろうが)忘れないものである。つまりここでも意味理解という名の感情が切り替わるからこそ、記憶に格納されてゆくのである。しかしその切り替わりが印象的でない場合、慣用頻度の大きさに比例して、他の多くの既知の概念に混ざって慣用されてゆくに従い、新奇さは薄れ文字記憶や語彙選択の常套的概念理解と共に、日常的道具性に埋没し、反復と惰性的常套性依拠姿勢によって意味記憶の中でも最も思念性の薄い状態へと沈下してゆくのである。この映像的なものと、文字、概念、意味の格納のされ方、引き出し方を今度はシナプス、ホルモン、ニューロン発火、抑制、調節機能、脳波といった生理学的観点から考察してみよう。
 フロイトが「夢判断」において示したこととは、夢が無意識の願望充足であるということであるが、その無意識が極めて記憶と大きく関わりがあるということでもあった。何かが記憶の片隅に巣食っている事柄は、明らかに記憶が階層的秩序を構成しているということである。記憶が、一々思い出さずともすぐに思念や発話に浮上するものと、そうではなく、何かの拍子にふと思い出すような種類のものと二つあるということは、日常的な生活の中で必要不可欠な事項の記憶とそうではないものの記憶とを峻別して格納していることを意味する。しかしそういった峻別を決行させるものとは意識であるよりは、身体生理学的判断と常に密接に談話しているところの条件反射的判断とも手を取り合った総合的判断というものではなかろうか?
 他者に対する信頼感の欠如が、まずその他者と談話する際にあるとしよう。(何度も出てきた例であるが)その際に他者に対して身構えさせるものとは明らかにそれ以前の他者観というものであろう。他者観は明らかにそれ以前の全人生における自己と他者との遣り取りから学んだ共同体内における自己にとっての他者というものの在り方に対する認識である。しかもそこには外部環境的な常套的コミュニケーションに対する観念と同時に自己固有のコミュニケーションの方法と、それを採用せざるを得ない先験的条件とかも問題となってこよう。しかし取り敢えずある他者に対して身構えてしまうことは自己防衛的な観点からは至極当然のことでもある。他者に対して身構えるということは他者が自己よりも防衛本能的観点からは上位に位置するわけだから、それ程大きくはないが明らかに他者に対する恐怖が介在する。恐怖を引き起こす総合的判断とは不確定事項(この場合だったらその接する他者が信頼出来るかどうかということに関して)に対する処方箋である。
 欲求という受容性と恐怖という拒否性を峻別して生み出しているものは、生理学的には化学物質が働いている回路の差異であり、その差異を生じさせる脳の判断である。脳といっても扁桃体という部位における価値判断の決断によるものと考えられる。ここら辺に関してはジョセフ・ルドゥーの論説が詳しいし、適切と思われるので随所随所で引用しながら見てゆこう。「扁桃体にニューロンは感覚の世界からの入力をつねに受けているが、その大半を無視する。じつのところ扁桃体のニューロンはほとんどの時間静止状態にある。だが、反応すべき種類の刺激_危険を意味する出来事その他、生物学的に重要な出来事_が存在するときにはちゃんと活性化する。このことはヒト以外の動物でもヒトでも証明されている。」(「シナプスが人格をつくる脳細胞から自己の総体へ」森憲作監修、谷垣暁美訳、みすず書房刊92ページより)この危険を察知する判断は人間が生まれてからその瞬間に至るまでに培ってきた他者や外部環境的な対自己の事物、事象の経験事項のデータ保存された記憶格納事項検索からのデータ解析という瞬時の扁桃体による判定のことである。どういう風に神経伝達物質を行き渡らせるかを一瞬において判断(不随意なものである)させる総合的判断が他者に対する信頼感の欠如の表現系として緊張をもたらす。
 神経系システムでは、投射ニューロンと呼ばれる比較的長い軸策を持つタイプのニューロンが、シナプス前ニューロンからシナプス後ニューロンへと発火、活性化させてゆくわけだ(階層的回路では投射ニューロンの主な役割は階層の次のレヴェルの投射ニューロンへと活性化を伝達してゆくことである。)が、その際前ニューロンの終末に位置している神経伝達物質が、前と後の間に位置するシナプス間隙をくぐって後ニューロンの活性化を促進すべく常に待機しているわけである。その際、活動電位の発生を起こりやすくするために後ニューロンの電気的状態を変化させるべくそのスピードと興奮を促進するのが、グルタミン酸である。これはアミノ酸系神経伝達物質の一つである。(それは投射ニューロンを促進する。)一方抑制性のニューロンは軸策の終わり(終末という。この種のニューロンは介在ニューロンと呼ばれ、軸策は投射ニューロンのそれよりも短い)からGABA(γaminobutyric acid、γ_アミノ酪酸の略)を放出したりする。このグルタミン酸とGABAの双方が相互に微妙なバランスで他を牽制しあったりすることで、激しい痛みや免疫的な抵抗力や、攻撃性と抑制力とかの全ての身体生理的現象を顕現させる。
 前述の恐怖と、その克服つまり他者に対する自己防衛の解除による他者信頼感の発生といった切り替えもこのバランス制御システムであるところのグルタミン酸とGABAの放出バランスによって決定される。それに加えて脳波やホルモン(性ホルモン他の)の放出されるバランスが全て組み合わさって心的状態と随意、不随意を総括して指令する総合的判断を生じさせる。その際には扁桃体が判断するという一事が極めて大きいと思われる。
 ところで南アメリカのアマゾンにはマナティーというワシントン条約制定後、保護指定動物の対象となった、象と同じ祖先を有する水中哺乳類が生息する。この動物は水面に乱生する浮き草のウオーレタスを食べるのだが、その消費量は生半可なものではない。しかし、乱生するこの植物は一方でマナティーが脱糞した糞によって多数のバクテリアが生じ、それを堆肥として更なる生育に利用するという半ば共生関係にある、と言ってよい。(そうやっていつまでも生育し続けるからマナティーにとっても食料が絶えることはない)この場合自然が何らかの代償を払って自己種にとって都合のよい条件を獲得するという合目的性にもかなった種選択をしているということとなる。ところでこのようなことが、では身体生理学的に遺伝子や蛋白質、細胞、神経組織といったことにも存するのであろうか?
 人間がどこかを負傷し血が出た時に、トロンビンという蛋白質が血液凝固システムの機能を発揮して血液を凝固させる。しかし同時に一定のトロンビンの作用をなした後では、今度は抗トロンビンが登場してその血液凝固システムの作用自体を抑制する。この抑制システムがなければいつまでたっても抗トロンビンが作用し続け果ては全人体の血液を凝固させてしまうだろう(既に述べた)。つまり血液が凝固する仕組みは負傷を負った時点では有効に作用するが、一旦凝固が貫徹された後はいつまでも作用してもらっていては困るというわけである。この事実から、蛋白質そのものが個々の役割を担いながらも、統一的な一個の人体というレヴェルでは責任分担し合いながら相互に制御し合うという一面を持ちつつ共生しているとも言える。我々が他者に対してある種の不審を抱いた時には、適度の緊張がもたらされるが、それは扁桃体の判断によって投射ニューロンを発火させるべくグルタミン酸が活躍するが、そういう際にも必ず同時にGABAも発動される。その相互のバランスによってグルタミン酸がより強度を持てば神経系における感覚は刺激に対する過大の反応となって我々に身体知覚され、逆にGABAの方が強度を持てばその刺激に対する抵抗の方が勝り、要するに免疫的な身体知覚を生じさせることとなる。恐怖は明らかに痛みとかの感覚同様、グルタミン酸の過度の発現であると言えるし、その免疫性は明らかにGABAニューロンの発現度の大きさがもたらした抵抗力であると言える。すると他者を不審の目で見る感情(あるいは判断)が、それほど悪い人間でもなさそうだという感情へと切り替わることとは、瞬時にグルタミン酸放出よりもGABA放出へと出力的数値の大きさが移行したことを意味しよう。
 だがそれだけではない。他者に対する寛容さや、鷹揚さといったものはこの二つだけが作用しているわけではない。モノアミンと呼ばれる調節物質も多大の貢献をする。ことにこの中の一種セロトニンは、それが脳内に不足すると鬱状態になり、不安状態がいつまでも続くのだ、という。するとセロトニンが脳内から不足しだすと、他者に対する不審と懐疑が一向に収まることもなくなり、偽装解除もなかなか出来なくなりストレスがたまる。ストレスがたまった状態での人体では副腎皮質ステロイドと呼ばれる(多くはホルモンである)ものの中でもとりわけコルチゾールという伝達物質が放出される。しかしこのコルチゾールとは記憶や情動といったさまざまの神経機能におけるプロセスにかかわる回路に情報を伝達するものであり(植物におけるオーキシンのようなものとも言える)これなくしては記憶とか思念とか思惟とかの作用もままならないわけだから、不安(現代に至るまで多くの哲学者や心理学者を悩まし続けてきた)とか緊張とかが一概に良くない状態であるとも言い切れないこととなる。更にこれに脳波レヴェルの発動も加わる。ベータ波はことに緊張状態の時には(だから他者信頼の欠如がもたらす偽装心理の時にも)最大限に達する。しかしその他者が意外と他意のない人物であると認知すると、今度は偽装や攻撃的なスタンスを解除するわけだから、真意表出を吝かでなしとし、発話には予防線が取り払われ、アルファー波が発動され、GABAが行過ぎた偽装的態度を是正すると鬱状態でのコルチゾールは再び沈下され、今度は話に夢中になるとドーパミンが発動やがてそれがノル・アドレナリン、アドレナリンを放出して躁状態に近くなる。この段階でのグルタミン酸とGABAとは日常的平均値に落ち着いているのであろう。精神特効薬はだから、躁状態の人間には鬱状態へと転換させるべく物質が、逆に鬱状態(恐怖や不安に苛まれる)の人間には躁状態へと転換させるべく物質が必要となる、ということである。
 しかし他者信頼感の欠如による偽装状態では明らかに他者を上位に見ている(不信)が、その攻撃性は他者の威圧感がピークに達した時であり(拒否)、その攻撃には正当防衛性があるから自己と他者の階級はタイである。しかし他者が下位に感じられると、性悪的な情動が発動され、「意外と無垢な奴だ。からかってやろう」という気になり、今度は攻撃性を生じサディスティックになるから、これはやや躁状態である。だからこの場合鬱~平均値~躁という移行過程が考えられよう。しかしこの攻撃が度を過ぎると、今度は良心が理性的レヴェルで発動されだし、やがて攻撃を中止し、平均値へと落ち着く。「最初ちょっとやな奴だと思ったけど、とはいえもう十分からかってやった。これからは少し奴の身になって紳士的に振舞おう」ということとなる。ここから真意表明が少しずつ執り行われる(受容)。鬱~平均値~躁~平均値となるわけである。
 しかしこの移行過程も個々において少しずつ異なり、その攻撃性や鬱状態も個々で諸相あり千差万別であろう。その段になると今度は性格遺伝子のレヴェルとなるが、その性格遺伝子もマゾヒスティックな性格とサディスティックな性格とは一律に二極分離なのではなく、双方がバランスを取り合っていて、こういうところには寛容だが、こういうところに関しては狭量であるとかの個人的差異もあり、双方の遺伝子が発現機会を相互に規制しあい、調整し合っているわけだから、逆に全く同じ遺伝子を持つ一卵性双生児であっても、生後すぐに引き離されて全く異なった環境で育った場合は、それでも全く似た性格となる(年齢を追ってそうなるケースが多いが)ケース同様、同一遺伝子なのに発現される機会に差が出て(成長過程での環境の極端な差によって引き起こされることが多い)表現型としては別個の発現ケースとなる、というケースも充分考えられる(Aという遺伝子もBという遺伝子も双方が共有しているのに、一方がAを特に発現させ、他方がBを発現させることを多く持つという違いが生じる)。
 ともあれその性格遺伝子の配列は発現される段では、性ホルモンに依拠している場合も多い。性ホルモンには幾つかの典型的なものがある。第20染色体上にある二種の鎖を構成するアミノ酸が二つだけ異なるオキシトシンとバソプレシンであり、男性の方により強固と言われるテストステロンである。テストストロンはコルチゾールが増加すると同時に増加する傾向があるし、オキシトシンはセロトニンと同様に平滑筋(内臓諸器官や血管などの壁を構成する筋肉。横紋筋がなく、普通その運動は不随意的で横紋筋よりも収縮の速度が遅い<広辞苑より>)を収縮する作用がある。
 テストストロンのことを詳しく述べるとそれだけでゆうに一冊の本を書かねばならなくなるので、本論では概略的なものに留めるが、その前に我々の身体が、いかに人体としての階層性によって不随意的にそのシステムが機能していることを少し考えてみたい(哲学用語としては身体を、医学用語としては人体を通常使うが、医学的説明においては人体を、哲学的考察においては身体を本論では使用する)。先述の介在ニューロンの軸策が投射ニューロンの軸策よりも短いということを思い出して欲しい。これは進化論的な合目的性においては、いかなる意味があるのであろうか?
 もし我々の諸刺激に対する感覚反応として神経システムが作用する時、それを抑制することは確かに多大の投射ニューロンの発火による人体を燃焼させることを未然に防止している(血液凝固を抑制する抗トロンビンの役割にも似ている)という意味では多大の貢献をしている。しかしそれが行き過ぎると身体感覚はあらゆる刺激に対して鈍磨された、抵抗力だけが矢鱈と主張するとんでもない不感症性を生じさえすることとなろう。それではやはりまずい。人体を損傷させてしまうにちがいない。そこで自然選択は未然にそういう抑制システムを構築しながらも、行き過ぎない形に留めおく、というまるで生物物理学的真理に添っているかの如く振舞うわけである。それはある種の階層性を自然と構築することであったかも知れないが、そのこと自体は自然選択において進化してきた生物の歴史における本来は偶然的である筈の生命の生存という意味においての最低限の必然性であったのかも知れない。さてもう一つそのような意味での階層性を想起させる一事をここで紹介しておこう。
 既に人間は聴覚システムよりも視覚システムの方が優位にある種であると言ったが、これも指摘しているし、また「コンパスの二本の尖端が触れている二つの場所を、なお明確に識別できる距離は、舌の先端の方が背中の中央部よりも50~50倍も小さい」とも述べているのはエルンスト・マッハである。マッハは物理学者であり、哲学者でもあるがこの種の生理学的事実を淡々と述べている(「空間と時間」野家啓一編訳、みすず書房刊9ページより)。
 身体的な部位における我々の知覚感覚能力は確かに顔の中心部を頂点として、その周囲、首あるいは乳首や性器といった敏感な部位を除けば足でも爪先や手でも指の先端に神経は集中し、その頂点から遠ざかれば遠ざかるほど鈍感になる。爪先よりも踵の方が明らかに大雑把な知覚能力しかないし、掌よりも手の甲の部分の方が大雑把であることも明らかである(腕も手首は掌側の方が敏感である)。これはある種の生活レヴェルでの知覚能力の被感覚頻度と重要性に基づいているように思われる。階層性は必要性に応じて徐々に進化過程において形成されていったのであろう。だから逆に全然今まで必要のなかった部位を頻繁に動作において利用するようになるとそこに神経がア・ポステリオリに集中し、徐々に階層性の上位へとその部位を押し上げてゆくことにもなり得るというわけである(勿論そうなるには一個体の習慣とかいうレヴェルではなく、多大の時間を要することとなるが)。
 最後にテストストロンがコルチゾール同様動員されることを先に述べたがテストストロンが免疫抑制をすることを述べておこう。これはどうしてなのか未だに解明されてはいない。マット・リドレーの言うように(「ゲノムが語る23の物語」中村桂子、斉藤隆央訳、紀伊国屋書店刊第10染色体ストレスより)マイケル・デーヴィスが示唆した<かつてはストレスの一般的な形態だった「半飢餓」の際にエネルギーを節約するためのシステム>であるか、<より健康な_つまり病気に対する耐性が高い_雄を選び出すのに有利なシステム>かのどちらかが有利な仮説であるそうだが、実際両方ともリドレー自身は納得してはいない。後者の理論によると免疫抑制というハンディーキャップさえもものともしないそれをはねのける強い遺伝子の持ち主が自然選択されてゆくのなら、そういう個体ばかりになってきた筈であるが、実際はそうではないから多少矛盾を感じさせる。また前者は飢餓状態における抵抗力を失う免疫抑制を敢えて自然選択したことの合目的性は立証され得ない。エネルギーの喪失を未然に防止する必要性において、免疫機能の不全を選択するしかなかったという致し方なさ(事情)が自然の側に何かあるのかも知れない。しかしこの問題は難しすぎるので今はそう示唆するに留めおこう。
 ここでちょっと纏めておこう。リドレーの表現を借りれば「脳と身体とゲノムは、三位一体となってダンスを踊っているのだ」(「ゲノムが語る23の物語」191ページより)。脳には遺伝子やゲノムを発現させる能力がある(全遺伝子の50~70%が脳で働いている、と言われる)し、遺伝子もまた脳を中枢神経として身体機能全般に渡る司令塔としての役割を顕現させ構成している。身体は、この場合神経回路、経路、あるいは細胞システム、免疫システム、ホルモン調節機能といった全体的レヴェルの身体機能を差していると思われるが、これらはそれ自体で脳や遺伝子を発動、発現させている。つまりこれらは全て相互に自己が他を検閲し合い、抑制し合い、制御し合い、影響を与え合っている相互依存、相互干渉、相互育成の関係にある、というわけである。勿論リドレー他の論者の言を待たずして我々は身体機能をその多くを我々自身の行動に負っている。行動のない身体機能などあり得ない。
 この事実を敷衍して捉えると、言語行為という身体行為は我々の脳を活性化し、記憶を促進し、遺伝子を発現させる。遺伝子によって性格的な傾向性を規定される側面もあるが、その同一条件下でも我々自身の行為選択によって大きくその発動される状況や様相を変えてゆくということである。また言語行為を含む全ての行為は身体的行動として、あるいは社会的行動(自己と他者、共同体内での自己の意識の所有を通した)として脳自体を新たな指令や選択(指令と選択に関しては神経経路がそのどちらであるかが論争の的となっているらしい。そのことは本章の大きな参考資料としたジョセフ・ルドゥー著「シナプスが人格をつくる 脳細胞から自己の総体へ」みすず書房刊に詳しい)を発動させる基本的な生の条件となっている。
 我々は身体を我々自身の自己固有の財産でありながら、自己の思うように、丁度我々自身が自動車やコンピューターを作り上げてきたようには操作することは出来ない。我々は好むと好まざるとにかかわらず、こういう身体を「生の条件」として受け入れて生きてきている。そういった現実を前に我々は一生物、一生命体としての我々自身の姿を見て他の全生命体をも含めて一括りの生命体的秩序として他の物質と区分して見てきた。あらゆる生物学、進化論の認識はそこに端を発する。そういった認識を呼び起こしてきたのも中枢神経であるところの脳であり、だが同時に地球上で他の全ての物体と同様我々自身もまた地球の、宇宙の物理学的法則性に逆らっては生きていけない。重力の法則に従って、他の物体同様、物理学的法則性の真理に忠実に存在している。だがその他一切の物体同様、物理的制約の中からも、我々自身固有の、多くの過去の哲学者たちは意識をその固有性に準えてきたわけであるが、そういう本性を主軸に他の生命体との相関性を把握しようとし、ある時は動物たちにも人間同様の固有性を譲歩して与えたり、ある時はやはり人間だけが固有であると思い直したりの連続がまるで全人類自体の総意であるかのように、生物学と哲学の歴史的振り子現象が果てしなく反復されてきたわけだし、これからもそうであろう。
 しかしこれだけは言えよう。生命体は自ら不随意的にではあるが、代謝し、常に細胞を入れ替えて変化することを恒常的なこととして生活している。そういう意味では生命体という秩序は明らかに主体性を持って外部的環境に拮抗して存在している。だから我々の生活上不可欠の言語行為とは、生命体が代謝して外部に拮抗することを余儀なくされているような意味で我々自身が我々固有の外部環境であるところの社会に対してその一部に収まりながらも、自己固有の幸福感や自由という当然の権利を巡って外部(他者が犇き合う)と常に拮抗して生を営んでいるその中での社会的な代謝機能として存在しているのだ、ということである。我々はそういう意味でいかに固有のコミュニケーション手段を持っていても、そういった個体と外部環境という相関性において生きている限り、自己と他者、あるいは共同体という呼び方をしてはいても、他の生命体と同様そういう規定性に中で生きている以上、殊更、固有の種であるということもなくなるということである。しかも広い意味では地球の重力の法則下で存在し続けている限り我々も一個の地球という環境における構成要素の一つに過ぎないとも言えるのである。だがその構成要素の一つにしか過ぎない、と認識出来るのは、ひょっとしたら人間だけなのかも知れない、と筆者も思うし、ジョセフ・ルドゥーはそれを明示性と呼んでいる(それに対し、動物も持っている意識をルドゥーは内示性と呼んでいる。しかし人間もまたこれも他の動物同様持っているのである。しかし植物に内示性があるのかとなると、これはまた別個の話であろう。「シナプスは人格をつくる」<先述>参照されたし)このことについては次章以下で、言語行為と絡めて詳しく論じてゆこうと思う。

Wednesday, May 23, 2012

C論文 自信論<自殺しようかと考えているあなたへ> 3、無とは何か?

 私たちは存在物の一切ない、つまり存在しない空間というものを一度として目撃したことがないし、それは状況的に私たちの知る世界ではあり得ない。  私は次のような仮説を立ててみたい。
 仮説 空間は存在物がなければ存在し得ないかも知れない
 この仮説は中島義道氏の「「死」を哲学する」における131ページによる二つの視点、つまり (1)「私は存在する」という仮象 (2)「私は無である」という仮象 においては、明らかに(2)の視点に該当する。要するに氏の表現を借りれば、科学という壮大なるフィクションによる視点である。しかしもしこの私による仮説と 存在するもの=変化するもの という図式双方がもし正しければ世界そのもの、宇宙そのものを神が創造したという仮説を正しいものにする余地を生む。つまり全てが予定調和的に創造された、ということになるからだ。
 つまり何も存在しない、つまり一切の存在物のない世界を神が創造するわけがない、という思念を私たちに誘うからである。
 これは真空状態という絶対状態を私たちは仮に作ることが出来ても、それは私たちという存在によって恣意的にそのような状態を一定範囲内で作っているだけのことである、つまりだから真実に一切の存在のない世界に空間が必要あるだろうか、ということから、もし存在物が一切ない世界であるなら空間など存在し得ないということに論理的にはなるからである。
 しかし勿論こういった問い自体は解明され得ないものであろう。
 だが私が空間に関して関心があることとは、端的にその空間に存在する全ての存在物が巧く棲み分けていることである。
 例えば現在も多くの人々が自殺したいと考えているし、この文章を読むあなたもそうかも知れない。しかし殆どの自殺の理由は借金で二進も三進も行かなくなってしまった状態以外では他者からの疎外感であるように思うのだが、そんなことを考えることが如何に無駄かということは空間の在り方を考えれば明白ではないだろうか?
 つまり私は旅行などでも大勢の観光客が殺到する場所を避けて、出来るだけ自分だけが鑑賞出来る風景とか場所を探して行くことにしている。つまり私しか知らないある時間帯のある観光名所ということにある種の優越意識を感じられるからである。
 200X年のX月X日の午後のある時間帯は私しかその観光名所にいなかったということを誇るのである。そして興味深いことには、どんな悪辣な独裁者でも支配者でも意外と彼が虐げる人民の住む全部の場所まで自分が我が物にしようとは思わないことである。
 つまり独裁者とか支配者とは端的に彼の行為に抵抗する人を自ら出現することを望んでおり、その抵抗を潰すことに快感を持っているのだ。だからもし彼らが独裁体制を敷こうとしていたとしても、そのことによって苦境に極度に陥らないのであれば、可能な限り無視を決め込むこと、相手にしないことが最良の措置である。つまり独裁者とは端的に彼が住む場所とか持つ権力を自分に対して劣等意識を持つ人民を積極的に必要なのである。勿論東南アジアにある特殊な国家のような例もあるが、総じて羨ましがらないということだけが独裁者や支配者を孤独へと追い込む最良の策なのである。
 少なくとも私はある空間においてある時間帯に自分しかいないということの優越感を得られるのなら、いっそ皆が殺到するような場所には生涯訪れないでいても一向に悔しくなどない。つまり多くの自殺者の自殺理由が実はこの大勢の人たちと同じ行動が出来ないとか、優越していることを誇示している人と同じように行動出来ないことから来る劣等意識が極度に飽和状態に達して決行するように私には思えるのである。
 つまり自信とは端的につまらぬ虚栄心とか他者への羨望といった心の状態が生む一切のピアプレッシャーを克服し得た時、意外と容易に出会える心的状態である。つまり一切の他者追随を諦めることからしか自信など得られないのである。
 それは私の殆ど成功という二文字に縁遠かった人生が証明している気がする。それでも私は結構人生全体が楽しいものであったからだ。
 つまり私たちは空間を何らかの形で与えられている。しかし制度とか他者追随の心的様相が、ある特定の場所を特権化して、他の多くを大したことない場所と決め込んでいるだけなのである。私自身はひょっとしたら、一切の存在物が世界に、宇宙にないようなことでもあり得るのなら、空間など必要ないし、そんな世界や宇宙自体を想像することすら不可能であるが、そういった世界とか宇宙には時間もなかったのではないかとそう考えているのだ。
 つまりそれくらい個々の存在物、勿論その中に私たち自身も含まれるのだが、それらは世界にとって宇宙にとって必要だったのだ。それを考えると支配とか権力といったものは所詮幻想であるし、そういうレヴェルからしか世界を見られなくなった時その者を真に老化したと言い得るのではないだろうか?
 だから自分が立っている位置、世界の中での私自身の中心に対する特権を感じられる内はその人間には自信を回復する余地が残されていると言えるだろう。
 何故そういうことを考えたかと言うと、私自身は殆ど他者から羨まれるようなことは少なくとも大人になってからは経験してこなかった。人生の大半の時間を無職とか失業者として、あるいは結婚とか家庭そのものも持つことが出来ずに五十歳まで生きてしまったからである。仕事の成功とまで行かなくても、少なくとも安定した収入だけでも求めてきたが、それも殆ど実現しなかった。まあ唯一それでも必死に常に何かに取り組んできたという充実感くらいが今記憶の上で残されていると言っていいかも知れない。しかしそれはある意味では人生全体を一定の価値として見ることをしなでいると、いつ何時自分もまた世間一般の自殺者と似たような運命を辿りかねないという私自身の懸念と予感から出た感慨なのである。そして私はそれを私と似たようなあまりぱっとしない仕事での評価と、対人関係的にここぞという時に適切な人材と出会えなかったということをさえ、ある意味では人生の指針にして生きていくための知恵を得る価値とすべしということを、私のようなタイプのあまり恵まれないけれど、自殺する勇気もなければ、それほど自意識が過剰ではないタイプの中年に言いたいのである。
 私自身はあまりいいことの少ない人生であったが、これからも残された全ての時間を精一杯何故私自身がこうして生れてきたのかという不可思議な事実に対する問いを問い続けていこうと思っている。

Tuesday, May 22, 2012

B論文 名詞と動詞 12、空間の有限性の可能性と自然選択

 自然が生命を地球上に発生させたのは偶然的出来事であったとしよう。事実そのように多くの科学者たちが考えている。だのに自然を恰も人格的な選択をなすかの如く、自然選択という行為を行うかのように考えることの基礎をダーウィンが設定して後我々は皆この自然選択という概念を認識論上で採用してきた。そこで本章ではダーウィンの自然選択が空間自体の事情から生命の少なくとも動物を主体としたレヴェルでは一個の個体が死滅するということ、しかも植物でさえ個体の死滅ではないにしろ、枯れ死し、そこから再生する分化全能性のような永遠の同一形状を示さない無常性を付与している自然選択の側からの事情と絡めて考えてみたい。言語自体の問題は次章から本章の考えを考慮に入れ再び取り掛かることとしよう。
 空間自体の事情とはでは一体何なのであろう。それはとりもなおさず異なった事物、対象は同一空間内には存在し得ないというカントを始め多くの論者が語ってきたことである。空間には空間の事情があるからこそ、生物の多くは偏利共生したりしながらも、基本的には同一空間内では異なった種同士は存在し難いような必当然的な棲み分けをしていると考えられる。しかもその棲み分けで生物はある意味ではある特定の環境ごとの異なった自然システムに各種の生物が適応して進化していった、その結果益々同一環境内では異種が生息し難い、少なくとも競争者に関してはどちらかが移住して別個の場所で、しかも同一の自然性格を持った地点に本拠を構えることが戦略的に有利である、という事情からも無駄な競争からも逃れられるということも考えられよう。しかも移住する側の方が移住させる側よりも多少異なった環境にも適応しやすいということが移住の有無を両種に決定させ得る要因にもなっているのではないか、と考えられる。だがそれよりももっと重要な自然選択の問題とは生物が繁殖子を通して子孫を後代へと繋いでゆくようなシステム自体をなぜ自然が選択しなければならなかったのか、ということである。
 ここでこういう問題が浮上する。もし空間自体が無限であるなら、生命体の無限増殖、個体の不死ということもあり得たのではないか、ということである。確かに地球にはある限界がある。同一種が別個の環境に適応して生活し得るようになるまでには多大の時間を要する。そこで自然はある種が適応し得る環境をある程度限定する代わりに、その種が生存可能領域で激しい競争を回避して長く生存し得る為には個体をある時期ごとに死滅させ入れ替わらせるような交代して永続してゆけるシステムを採用したのではないか?そこで自然は個体に寿命というものを付与したのだ。それは地球が有限であるということだけに起因しているように一見思われる。しかし実際それが唯一根拠なのであろうか?
 我々を含めて全ての生命は繁殖子を持ち、それを通して子孫を残す代わりに個体はある一定期間を通過すると自然と死滅する。これはただ地球環境に限度があると言うことだけで説明し得るであろうか?例えば全ての生命が地球にのみ依存してしか生息し得ないと立証される限りで、そのことは恐らく正しい。しかし宇宙時代へと突入した我々には可能性としては人工的な措置によってではあるものの、宇宙空間でも生命は生息し得ることを立証しつつある。
 さてそういったことが可能となったのはとりもなおさず人間の高等知性によってである。しかしこの人間の高等知性をもってしても人間が不老不死であることはまだ実現してはいない。しかし少なくともシロアリ、ハキリアリなどは建築や農業をすることは知られているし、ハチもまた建築家である。そしてビーバーに至っては建築家であると同時に環境自体をも変容させる都市計画者たちである。すると我々はこういった知性をただ単に生活能力としてだけに限定して考えることは難しくなる。それは応用範囲の拡張し得る可能性を秘めている。例えばビーバーが異なった環境へと何らかの事情によって移住を余儀なくされ得るならその異なった環境において生活すべく適応する中で以前にダム等を築いていた知性を別個の環境に応用させ、ダム以外のものを生活上の創造物として拵える可能性は充分にある。そこで我々人類が現在のような宇宙文明の萌芽を導くことを自然が可能性として全く考慮に入れなかったとは考え難くなる。というのもそれら一切はある程度の知性以上の進化はあくまで偶然的であるからそれ以上考える時自然選択的な発想だけでは充分ではない、とそうも考えられる。しかし我々は我々自身の限定された知性でさえ、そのように考えることが出来るのなら、我々をも自然が創造したとするなら、その自然が我々の生命のいくばくかの種が地球を越えて存在し得るようになる可能性を考慮に入れずに済ますことが出来得たかというと甚だ疑問である。それならなぜ我々をある一定の例えば言語的思考能力という知性を自然が付与したのか、という疑問には答えられなくなるからである。ここら辺はある意味ではカント的な思考であるし、事実私は本章では敢えてカント的な必然的存在者と実在的存在者の概念を起用し、論を進めてゆこうと決意している。そうすることで空間の有限性を論的に立証し得れば(物理的には不可能であるから)弁証法的には空間の有限性による生命の無限増殖と不死の不可能性を立証し得ると思われたからである。この際全てが偶然の連鎖であるということが実際上は必然化し得るのではないかという観点から一定以上の知性をあらゆる偶然性に依拠しては説明が出来ない(それについては後述する。)ということを前提してこの論を進めることをお断りしておこう。
 まず仮定としてあらゆる生命個体が死滅せず無限に増殖し得た場合、どのような事態が発生するかという観点から考えてみよう。
 空間はそれが地球内であれ(それが有限であることは既知の事項である)宇宙に関してであれ、それは人間が未来永劫その最果てへと到達出来ない程度に無限であるが、かと言って際限のないものでもない、と思われる。というのももし際限なく無限であるなら、生命の全ては個体的な意味で、死滅し、世代が交代せずとも、つまり個体が永遠に生存し得ても何の差支えもないということとなる。それは空間的な事情から鑑みればそういうことになる。だが個体という単位で存続させることに纏わるコストを軽減する為に個体ではなく、群体によって生存を維持し得るのならその方が遥かに低コストで生存を保障し得るということは充分考えられるから、逆にそれでも尚個体によって多くの高等生命が存在しているという事実はそういった生命が全て死滅し各世代毎に生の期間を交代することを前提していることになるし、また死滅せずに仮に空間内にいつまでたっても増殖し続け、それらが一旦手中にした所有空間を他の個体あるいは群体によって維持され続けるということが常識的な事実であるのなら、そうしたとしても何ら空間的経済において支障がないような状況、つまり宇宙空間は無限に広がっているということとなる。だが実際上はそうではなく、個体も群体さえも、交代しながら生をある一定期間の間だけに限定しているのだから、我々は空間にはある有限性が前提されて存在している、と論理的に思弁的に認識することが出来る。それは勿論物理的には立証不可能であり、永遠に不可知領域に属するとも言い得る。自然科学は不可知な領域には立ち入らないという前提から出発しており、その時点でこのような設問は無意味とする。しかし自然科学で無意味とされた全てが問うこと自体の意味を剥奪されたわけではない。空間が宇宙レヴェルから考察されれば、必然的に空間的な有限性が可能であるかという問いが生じる。しかし空間は時間的に移動し得る可能性に対する設問からその広大さが了解されるものである。そしてその時点で哲学的に問い掛けてみても、それは不可知的な広大さであり、無限性に限りなく近い。その無限性とは人間がその最果てには到達し得ないということの了解から生じる。しかしそれでも人間も、他のあらゆる生命個体が栄枯盛衰することから無限増殖を回避している自然のシステムの中でその有限的な可能性を認知し得ることから我々は空間と時間の相関性を見極めねばならないかも知れないのである。
 付記 しかしこの章の設問は、即座にとどのつまり一つの種が永遠不滅ではなく絶滅するというもう一つの生物学的真実へと意識を向かわせる。実はその部分からの問いを意識した時、初めて生物学や地球環境学、天文学、物理学と哲学が接合する部分が見出せるとも言い得るのだ。しかし言語構造は統語であれ文法であれ時制的にもメッセージ構造としても我々(人類自身)があたかも永遠不滅であるという前提で営まれている。それはメッセージを成立させる意識構造自体が願望に支えられているという事を意味する様に思われる。(Michael Kawaguchi)

Thursday, May 17, 2012

A論文 言語のメカニズム 26、大脳、記憶の選択、制度

 我々はこの世界に生れ落ち、不可避的に社会の一員として、周囲の共同体の成員としての生活を維持する中で、低度の障害を全成員が持っており、その障害の克服の過程がビジネスであったり、生涯学習といったテーマであったりするわけである。しかしこの障害は、イントロンのように非不可欠物ではあるものの、どこかで我々自身の個性をも決定するような密やかな重要性を持っているのかも知れない。なぜなら非不可欠物とはそれ自体では、なくても個体の存続には支障をきたさないものかも知れないが、仮に全ての非不可欠物が存在しなければ、選択的スプライシングやその他の身体的な諸不随意運動自体の必要性を減じ、そのこと自体が別の障害を引き起こしはしないか、という疑念も生じさせる。だから、免疫機能と同様に、我々は抗体を産出するような抵抗力の醸成の中からも、身体の無意識の不随意運動を招聘しているのである。制度に加担する個体の成員秩序とその自覚は意識的なことであるが、言語障害とかの症例に見られる状態は明らかに無意識の言語形成過程の露出である。オリジナルな自然選択の場の公開である。普通それは秘められているのだし、無意識に隠蔽しているのだが、我々はそれを時としてやはり無意識に、無意識を露呈させるのだ。それは意識的に望んだわけではないが、やはり無意識には望んでいる、ということも一面ではあるのかも知れない。
 無意識というものを精神分析学者はある特有なものとして捉えがちであるから、実際不随意的な身体衝動、身体生理の要求するところさえも、我々にとって無意識の行為、無意識の欲求と捉えてもよいように思われる。さて無意識に何かを求めているから、別種と捉えられかねない行為を執行する、誤った語彙を選択し、発声を失うとかの症状が生じるのであるなら、それは一面ではもう一つの意志伝達行為であろう。常套的概念でのやり取りに対するコミュニケーションの不可能性の意思表示であるし、常套性への無意識の抵抗、逸脱欲求のサインである。しかしそれは同一言語共同体内での同一成員間でのやり取りであることが要求されよう。差異は同質性を有する成員間でのみ有効なのだから。
 コミュニケーションの非対称性の現出は、他者が自己とは異なった方法によるコミュニケーションを採用していることの自覚から認知され得るが、そのことをそういった当のコミュニケーションを成立させる他者が十分自覚的であるか、それとも自分では常套的なやり取りをしている積りが、泥酔者の如く実際は巧く意志伝達されていないようなものなのか、という差はある。気付いている場合は障害を除去されていることに困惑している状態と捉えられるし、気付いていない場合は障害を除去された状態に対して違和感を持っていない、ということである。故にこちらの方が明らかに無意識ではあるものの、痛烈なる常套性への無視がある。気付いている場合はその者は障害を持った他の全成員の秩序へと回帰したいわけだから、常套性そのものへの抵抗や破壊意欲はない、ということになる。
 17章、理解、経済、発現において筆者は人見知り的知り合って間もない他者への警戒心とその解除にまつわる自己防衛と良心の発現における心的転換のメカニズムについて触れたことを思い出して欲しい。記憶の選択とはどの道記憶したい、というよりも記憶するに値する印象的な出来事をもって顕在するわけであり、極自然な脳内への侵入である。しかし侵入が密やかに行われようと、直撃的に行われようとそれは決してグラデーション的変化ではない。勿論「この人間もそう悪い人でもなさそうだ。」と思っていてもそれは懐疑を完全に解いているわけではなく、自己防衛の度が過ぎたことの反省にしか過ぎず、自己防衛という行為自体はあくまで他者を警戒すべき者として取り扱っていることから、他者を自己よりもどこか上位に置いていることを意味し、逆に他者に対する自己防衛の解除はある瞬間、他者の誠実、無垢、悪意のなさを瞬間的に認知するわけだから、一瞬にして他者性格の認知が転換されるわけである。その瞬間から今度は自己防衛してきた自己の保身的能力を自己認知しもしたのだから、他者は自己よりも下位に位置しだす。つまりニーチェも批判材料としたところの憐憫とか慈悲心の誕生である。
 この心的メカニズムはだからこそ、「あの時の彼の屈託のない、円らな瞳は悪意のなさを象徴していた。」となかなか忘れられなくなり、逆にその時までの自己の疑り深さを羞恥するかも知れないし、だからこそ逆に「あんな純粋な人間とは逆に付き合い難い。」と別な意味での警戒心を持ち始めるかも知れない。最初の警戒心は悪者かも知れないという想定だが、後のは認知後の処し方であり、下位者に対する(前者は上位想定者に対するものであるが)処し方、よく言えば思いやり、悪く言えば「大人なのにあんな警戒心がないとは気の毒だが、産な人間は逆に逆上したら怖いものだから、あまり深入りはすまい。」という他者への信用出来なさが再度表立っている。つまりあの警戒心を持ち普通の狡い大人だと思っていたのに、意外とそうではなかったことへの認知の瞬間とは忘れ難いのである。それは認識そのものが切り替えられたからだ。価値観が転換されたからである。変化が記憶を促進すると言った。抑制系が活躍していたのは、警戒心を解除するまでで、その後抑制系はやや後退し、今度は受容心がどっと増加し、抑制系は恐らく下位者への丁重なる処し方という軽い憐憫と軽い慈悲心への加担に参画しているものと思われる。しかしこれは同時に警戒心の強かった自己への反省も多少含まれているから最低限の抑制であろう。それは自己防衛の度の強かった最初の頃と異なり制度的現実の受容である。最初他者が上位にいた頃は明らかに受容ではなく、拒否が支配していたから制度への奉仕という余裕ある側面は微弱であった。この段階では明らかに自己の都合が優先されていた。ところが他者が誠実に他者や社会に接していることを知ると途端に自己の制度、つまり他者と共有する公共的財産であるところの共同体への奉仕の責務感が醸成され自己反省が良心から派遣され、逆にそれでも未だ多少残存している自己防衛が軽い憐憫「あんなに誠実だと損してきたであろうな。」という見識をも共生させる。
 自己防衛も良心も同一基盤であるなら、当然の如くその両者を支える基盤そのものの正体を見極めねばならないだろう。それは自己と他者を結びつけるもの、共同体という制度が派生させる成員間同士の同質性への依拠というもう一つの制度に他ならない。自己防衛における他者上位においても、良心から他者の誠実、無垢、悪意のなさに対する認知後の他者下位においても、自己の保身と自己別格の意識にかわりはない。これは哲学者たちがコギタチオと呼んだものであるとも言えよう。自己防衛も良心(の呵責である場合も多い。)も共に自己優先であり、自己領域確保とその存続希求であるから他者への愛、隣人愛を説くキリスト教の教義もまた一面では自己保身と無縁ではない。寧ろ良心とか愛とかを叫ぶ内は全て同一の処世訓的性質は避けられ得まい。だが記憶は変化、ある状態から別種の状態への転換の度合いに応じて促進されるなら、他者を信頼出来ると真に確信し得た時それはピークに達しよう。記憶が促進される転換点はあまりにも悲惨で、あまりにも衝撃的である場合を除いて、一般に否定的な認知から肯定的な認知に移行して行った時こそピークであろう。肯定と否定は非対称である。肯定に関する記憶は残りやすいが、否定の記憶とは本来消去されやすい。心理学的にPTSDを引き起こし得るような異常な体験を除いて。
 自己防衛も良心も共に制度の生んだものであるし、記憶もまた制度を一方で要求している。例えば我々は一年くらい会っていない友人を懐かしく思うのは、始終は会っていないからなのであって、始終会っているような人は寧ろ慣用的現実に近いから懐かしいとか思う暇はない。これと同じで、言語習得というものは慣用化され日常的に使用頻度が最大限に達すると、途端にそれを習得した際の記憶というものは飛ぶものである。慣用されている語彙に対する習得時の記憶とは通常なく(極最近覚えたての概念、語彙を除いて。しかしこれすらも慣用され続けるといつのまにか忘れ去られる場合も多い。)、それを使用する度にその習得時の記憶を想起する人など殆んど皆無であろう。だから明らかに言語習得は海馬記憶でもなければ、我々がそれを慣用し続けられるのも、海馬によるものでは決してない。FOXP2遺伝子があればこそ、自己と他者の意識を共同体内制度的な不可避的現実において顕在させると同時に外部環境による要求に対する返答として我々は言語行為を成立させるべく、語彙とその慣用を通し文法による統辞を自然と行うようになるのである。そしてどのような成員(言語障害等の成員を除く。)にも直ぐ実践される最大公約数としての被慣用体として言語は定立している。だからこそ、我々は慣用的日常行為を使用頻度と自己‐他者相関性の成立基盤に据えながら、一方で慣用とは無縁の久方ぶりに会う友人との楽しい思い出が海馬記憶の一頁として重宝されるという寸法なのである。
 遺伝子の翻訳、転写ミスは一端そうされると、最早そのことに関しては修正しはしない。同様にその知覚の瞬間に「一体、あの正体とは何なのだろう?」と思い確認し判断し直しでもしない限り、そうだと思い込んだらそのまま修正した判断を持つことなく記憶されてしまう。何か不審物、挙動不審者がいたとしたら我々は目に留め注視しよう。しかしどうということのない日常的情景は一瞬目に留めるもすぐさまやり過ごす。知覚の段階で我々は見慣れた慣用的現実を切り捨て、注視するもの、長く凝視するものは余程選び抜かれたもののみに対してである。常に既知で日常的な慣用物はそこそこ視線を走らせるだけで、記憶にまでは留め置かない。記憶すべき事項は知覚体験の段階で選択される。余分なもの、見慣れたどうということのない慣用的事項は選択項目から末梢され、我々は少しでも未知の新奇なるもののみを記憶に留め置こうとする。勿論瞬時の判断において。だからその判断が仮に思い過ごし(今見える山のふもとに走っているのが自動車だと思えば、それが自動車ではなく何か他の物であっても、そうだと思い込みそれを記憶に放り込む。)でもそれはそのまま記憶される。(思い過ごしのままに)更にそれはそれ程重大な事項ではないのでやがて無意識の領域に放り込まれ大半の映像内容は夢か何かの映像で流れてそのまま消去されてゆく。残存する無意識領域での映像は何かのきっかけがなければ二度と浮上しない。
 生物学の世界ではある事項に関する形質やあるタイプの遺伝子がその中の特定のものにだけ偏ることなく(例えば腹痛を起こしやすいタイプばかりが全ての成員に行き渡るとかの)、万遍なくどのタイプも存在するように配分される自然選択のことを頻度依存選択と呼ぶ。その意味では、どのようなタイプの事項も世には存在するが、だからこそ逆に記憶はそういう万便なく存在する事項の中から個体差を超える普遍的なこととしてどのような記憶が印象に残り、逆にどのような記憶が忘れられやすいかということに関して、個人差も勿論あるが、それでも尚、ある種普遍的にどのような個人にとっても記憶に残りやすく、逆に残り難いかという最大公約数的真理はある筈であろう。捻くれ者なら、いやな思い出ばかりを思い出すかと思われるかも知れないがそれはただそういう傾向が他より強いというだけで、楽しかったり、いやであったりという人生の中からも誰しも、記憶に残りやすいものとは否定的なものから肯定的なものへの変換(肉親の死とか本質的に悲しい思い出以外は)、感情や状況の変化などであると思われる。大脳に関しては殆んど示唆的にだけで終わってしまったが、次章で詳しく大脳のメカニズムについて触れることとして、本章の纏めとして概念図を示しておこう。  
 自己防衛心と良心の概念図式 自己防衛 自己    →          他者信頼欠如(他者上位) (警戒心の発生)   偽装体制保持           良心の抑制 良心発動 自己    →         他者信頼発生(他者下位) (警戒心の解除)   真意表明            警戒心の抑制 感情の切り替えによる記憶の促進 他者の真意把握不可状態  →         他者に対して否定的 感情的認知の切り替え   → 他者真意に他意なしと認知          他者に対して肯定的に再認識 感情の切り替えは知覚的状況の切り替えや、何らかの様相的切り替えも含む。

Tuesday, May 10, 2011

C自信論<自殺しようかと考えているあなたへ> 2、表情は言葉を規定する

 中島義道氏は「私は言語を習得してしまったがゆえに、言語によっては表すことのできない、その意味で言語以前の固有の体験に気づいてしまった」と述べている。(「「死」を哲学する」より、岩波書店刊)氏のライトモティーフの一つであるコミュニケーションにおける強者たれというかつて勤務しておられた電機通信大ゼミ生への訓示などに見られる言葉自体を信用しない日本人マジョリティに対する批判は、言葉を正確に伝え、自らの意志を飲み込まないことを行動的に正論としている。(「人生に生きる価値はない」より、新潮社刊)しかし氏の考えておられる言葉を最大の武器であるとしたその考え自体は正しいとしても、私たちは言語習得以前に持っていた習性全体を言語習得以後に全て失うということにはらないし、そのことに対する言及は今のところ中島氏からは齎されていない。
 勿論言語習得以後私たちは言語習得以前には直観的に持っていた多くのことを失うかも知れないが、やはり基本的に言語外的直観も常時携えていると捉えることが自然だ。
 それこそ私は表情であると考えるのだ。つまりもし私たち人類、あるいは哲学的私と言ってもいいが、それらは言葉があってこそ生存してこられたのだ、と一方では言える。しかし他方私たちに言葉によって意志を伝えることを促しているものを情動とか心による動因であると考えると、その心を最も顕著に示すものとしての表情を、仮に一切顔を他者に晒さないままでいたとしても尚例えばある文章から読み取れる表情がやはりあるのではないか?
 それは端的にニュアンスとかクオリアという言葉でも十分に伝わらない気が私はするのだ。
 クオリアとは端的に他者の心は自分には決して読めない、そしてその心が基本的に自分と同じであるかどうか決して確かめることが出来ない、それは私が見ている赤い色とあなたが見ている赤い色が同じように見えているかどうかさえ終ぞ確認出来ないという、要するにゾンビとか意識の問題を誘発する命題である。ニュアンスはある一定の波長として何らかのメッセージが伝わる効果の問題で、それは語彙の持つ意味が発話においてどういう効果を齎すかということだから、表情と関係が深いが、やはりそれは一面的である。
 従って表情とは私たちが好むと好まざるとに関わらず、例えば楽しい時には楽しい、悲しい時には悲しい表情をする、という意味で生理学的な法則である。それは意図してそういう表情をすることも不可能ではないが、やはり本当は悲しいのに楽しい振りをしていた場合すぐに見破られる、そういうタイプのものである。
 だからそれはクオリアが内的価値の命題であるのに対して、外的価値の秩序でありニュアンスをも含むと言える。と言うことは前節の謂いからすれば、「一致」の世界の考え方が適用されるだろう。
 そういう意味では中島氏が言葉の持つ意思疎通において最大の対他者的意図を表示するという意識的なことを根底から支えるような基本である。しかし氏はこの表情に対して殆ど言及しているようには思えない。「人生、しょせん気晴らし」において 単独者協会 というタイトルの章において僅か触れているだけである。
 宗教はしかしこの表情において個々の内的世界に通じる心の在り方を指示しはするが、その内的世界から見た思惑自体はあまり大きく取り扱わない。その点が哲学との最大の相違である。つまり最初から哲学は独我論を発生させることをも吝かではないタイプの内的世界からの視座自体を学全体の前提としていて、それ以上内的世界を離れたことは、宗教か科学にお任せするというスタンスを取っている。しかし宗教は最初からこの哲学では懐疑的対象であるところの「一致」が話し全体の前提となっている。つまりその「一致」こそ神の視点なのである。
 例えばニクラウス・クザーヌスの「神を観ることについて」の冒頭での謂いを見てみよう。

(前略)つまり、われわれのなかで一つの眼差しが他の眼差しよりも鋭くて、また、或る眼差しは近いものをかろうじて識別するが、他の眼差しは遠く離れたものも識別し、また、或る眼差しはそれの対象にゆっくりと到達し、他の眼差しはそれの対象により敏捷に到達するということがあるとすれば、視力のある者たちの全ての眼差しとしての絶対的眼差しは、全ての現に視力のある者および視力のある者になりうる者のもつ〔視力にかかわる〕あらゆる鋭さと敏捷さをあらゆる力を凌駕するものであることは、疑いのないことである。(19~20ページより、「神を観ることについて 他二篇」八巻和彦訳、岩波文庫)

 つまりここで言われていることとは、端的に神の視点があるということ、そしてそれを信じるというところから全ての教説が成立している、ということなのだ。だから逆にその前提さえ不問に伏せば哲学との思想的意味内容的な共通性は宗教には大いにある、とも言える。ただ哲学ではその前提にもいささか拘るという傾向があるだけである。
 しかし哲学者と言えど、私たちが意思疎通する時必ず表情を伴うという現実は否定しないだろう。つまりそれは一致しないかも知れないが、一致を目指すという言語行為の本質の根幹を支える生理的な法規なのである。あるいはクザーヌスはそのことを絶対的眼差し、つまり私たちが一切の法規を無視することが出来ないという運命として記述したのかも知れない。

 脳科学では笑う時の口元とか頬の形を意図的に作ると、本当に嬉しい気持ちになるということが分かっている。つまり形から入ることそのものが、本当にその時その表情を作った人の感情になるということから考えれば、意図的、外的価値としての表情をもやはり哲学上でも問題化していく必要があるように私には思われるのだ。

Wednesday, April 27, 2011

B名詞と動詞 11、実存と言語 <サルトル、レヴィナスの系譜から発展させて>

 名詞は概念的定義づけである。命名は具体的実存の一律的認識強制に他ならない。それは自然の多様性、不可知的特質に目を瞑り、人間の捏造した制度の網の目によって、それらを一語で言い表す暴挙である。(<あの>「美しい」と、<この>「美しい」と、<その>「美しい」は、同じ「美しい」と規定される形容的概念であっても実はそれぞれ全く質的にも、主体からの受け取られ方に関しても異なったものたちである。)
 つまりここで言語が命名された(動的現実、動的自然現象の叙述の動詞においてさえ、一律的に一般的な動的メカニズムとして概念規定された)もののみで、全てに背進する一つの独断であり、実存を必ず裏切る、ということを表わしている。にもかかわらずカントは理想を具現することの空しさを主張する。(岩波文庫版「純粋理性批判」中、239ページより)カントにとって理想とはある意味で彼の語る道徳的法則、あるいは自由、霊魂の不死、神といった三位一体にも比すべき最高規範の一つの雛形であることが伺える。そして我々は実は自然や現実に取り巻かれた実存の観察、目撃、傍観、立会い、参画、投企といったことによって言語(自然、現実の一つ一つに対応する対象、事象、現象を認識論的に名指す)を生み出し、言語から理想を生み出してきているのである。
 取り敢えず実存とは我々が自然や現実から表象することとそこから離脱してゆくものをも含めた総体だと捉えてみよう。
 実存が不可知であることは一応の前提にしておこう。実存とはある意味では自己を取り巻く環境とか社会とか今現時点での時間の只中であることの全てであろう。しかし我々は恐らく動物と最も異なる一面として我々以外の多くの同一種たちが地球の裏側にも生活しているということ、我々以前の祖先が我々と同様に生活していたということ、我々の死後もまた我々同様の我々の子孫たちが我々同様に生活してゆくだろうということ(尤も、地球が今のような状態で存続しての話であるが。そういう意味では地球が思いの他早く滅亡するような可能世界もまた考慮に入れて考えることが我々には出来るのである。)を知る、あるいはそうであろうと推測することが出来る。
 本章の下書き段階ではまだコリン・マッギンの「意識の<神秘>は解明できるか」を読んでいなかったために私は彼と同様の考えを書いていた。それは空間自体が我々の与り知らぬある種の特質があるのではないか、というものであった。恐らく我々が個々に今こうしている、存在することを何の不可思議もなく顕現させる空間自体のある種の度量の大きさとフレクシビリティーがあるということは恐らく誰にでも実感出来よう。空間自体の知られざる特質によって時空間にさえある種の歪があるということはアインシュタインの時代から立証されてきている。すると空間が時間を支配しているのか、それとも時間が空間を支配しているのか、あるいはそのいずれもないのかという疑問も出される可能性がある。しかしまだそのことには触れずにゆこう。

 言語は実存を裏切る。しかし言語は実存の前で自らの無力さを悟りながら、語ることを止めようとしない。それ以外の実存に拮抗する手段を見出せないからでもあるのだが、言語は実存を通して、その実存の姿を反省することによって生み出される。だから言語は実存の過去像をモデルとしたものである。今後もまた新たなる語彙や新たなる文法が生み出されてゆくであろう。しかしそれらは未来を予知して作られるものでさえ、現実的にはその語彙産出契機となるものは過去のデータであり、過去の記憶を下とした想起作用による産物である。だからこそ言語は過去のデータを下として編纂された一つの体系であって、その体系自体は実存を覆い尽くそうとするが、そのあまりの強度故に実存の生々しさは終ぞ表現し切れないその無力、歯がゆさが却って言語を体系的に進化させようと我々に強いる。仮の全体決定性であることを体系自体の存在矛盾から知り、それを訂正しながら全体を編纂し直すことが我々にとっての言語への取り組み方に他ならない。だから永遠に我々は神の如く誤謬の入り込む隙のない完全無欠の言語体系など編纂しようもないのである。そこで我々は益々言語と実存の溝を心的にも認知し、拭い難い真理と化してゆくのである。
 実存を糧に言語を作り変えてゆかねばならない、と常に我々はそう思うのだ。本来実存とは意味ではない。しかし人間は一般に実存を意味の呪縛から解き放ち見ることは最早出来ない。(本当にそうだろうか?)意味がなければ言語は名指すことが出来ない。(本当にそうだろうか?)実存の言語化は意味化への契機ともなり、実存そのものの在り様への表現の不可能性の宣言であり、実存の強度は、言語と意味の死を宣言せずには置かない。
 ここではっきりさせておこう。言語が意味を発生させるのか?それとも意味が言語を発生させるのか?
 複合動詞というものがある。複合動詞は(あるいは複合形容詞、例えば「甘辛い」というような)基本的動詞の組み合わせによって成立した(つまり言語発生以後に)言語的思念の進化によって成立したのか、あるいはそのような動詞(形容詞も)の表現するところに対応するような感情が先にあって、しかしそれを他者と意志伝達するような手段としての語彙が見出されておらず言語がただ感情的内面(心的様相)に追いついていけなかっただけなのか?
 答えはこうであろう。そういう感情は語彙発生以前にも確かにあった。しかしまず基本的にとりわけ顕著な性格のものから語彙化されていった。「聞く」と「入る」とか「甘い」と「辛い」のように。しかしじきに「聞き入る」とか」「甘辛い」とか言うようになる。そういう味覚感情があるからだ。ただ対応させるべき丁度ぴったりのものがない場合(中間的な感情に多い。)顕著な特質を表わす語彙を複合して間に合わせたのであろう。しかし我々は豊富な数の語彙を言語的に語彙を通して表現出来るようになってから、それをある特定の表情に載せて意志伝達出来るようになったのであろう。(他者との感情共有の確認と対話自体の独立した意義の発生)そしてこれは言えるであろう。このように語彙によって感情を表現出来るようになってから初めて我々は自己の感情を確たる心的様相とし、つまり心の存在を明示性として自覚し得るようになった。つまり我々は言語の、個々の語彙によって始めて自己の心像を確固とした存在として知るようになったのであろう。
 先の答え(意味と言語の前後関係)を述べよう。つまり意味の原型となる感情はあった。そもそも意味とは対象に対する感情であるのだから。しかしそれはその感情を語彙発話して他者に意志伝達し得ない限りただのカオスである。心の中のモヤモヤでしかない。言語獲得以前の人間は寡黙であったことであろう。(当然である。)それは自己の心的感情の自己内における完璧な占有によって全てが自己裁量によってなされるのであるから、感情に意味はなかったであろう。感情は言語以前にもあった。しかし言語が誕生してから、初めて我々は感情に意味を付与し得たのである。意味の獲得には段階があるのである。つまり下図のようになる。

内的感情をただ自己内に占有する。
       ↓

内的感情と語彙の対応を発見する。
       ↓

語彙使用を通して感情に意味を付与する。


 実存と言語の溝は常に言語の側から意識されているにもかかわらず、言語は実存から一方的に無力さを告げられ続ける。にもかかわらず言語は語ることを止められないので、人は実存から何らかの形を見出し、それを語彙に置き換えたり(発語、書記)、物そのものに置き換えたりする。(芸術)そうすることで対象に対する感情(何かを名指すこととは即ちその対象への愛着であったり、憎しみであったり、つまりは対象への感情の表出である。)を意味的に確認するのである。感情の在り方を確認することとは即ち感情の意味を確認することなのだ。だからもし我々に言語が獲得されなかったならば、我々は決して感情に意味を付与し得なかったであろうし、当然のことながら意味というものは無意味であったことであろう。
 物は実存の姿を決定する。物と空間、あるいはそこに伴う時間的変化が一体化し常に私たちが自らの身体を差し出し一体化を触知しているところの投企の場として、物は現象を空間に委ね空間から委ねられつつ私たちを自己として捉える機会を与える。物があるから私たちは自己を生命的存在と捉えられるのだ。サルトルは他者を人間とも捉えるし、物とも捉える。この質的転換がサルトルにとって重要なテーマだったのかも知れない。コリン・マッギンもまた物と生命との差異について触れている。彼はそれに人間の作った物をも加えて対置している。(「意識の<神秘>は解明できるか」より)
 実存はしかし物と空間、そして全ての変化を私たちに言語を通してしか捉えられないように現象として我々の前に差し出すが、ある意味ではそれを我々は言語以外のことでは捉えられないのだから、言語で表現されることを黙して待ってもいるのである。実存が待っていると捉えれば物と空間、そして全ての変化が言語によって表現されることで理解出来るようなものとして立ち現れるということが了解されるのである。実存を待たすのは我々自身なのである。
 しかし私たちは実存を蔑ろにしない限り言語によっては実存は語り尽くせないという言語の無力を感じざるを得ない。実存へのより深い理解とは、ある意味では語ることを止めること、ただじっと実存のあらゆる現象、あらゆる徴候を見守り、変化の中に身を置き、佇んでいることなのかも知れない。しかし私たちはただ理解することだけで実存の只中にいながら生を生きることは出来ない。理解されたことを私たちが他者に対して、実存自体に対して示すことで実存へ、私たちの対話において自己を明確化し得るのであり、実存は言語との溝をまざまざと見せつけながら尚も私たちが語りかけてくるのを待つことを止めはしない。それはある意味では我々自身が実存の一部であるのだし、また実存そのものも我々の一部であるからである。実存が言語を私たちとの関係において唯一の架け橋としているというその事実をもってもそのことは明らかである。自然が我々自身をも含み我々自身に自然が含まれるように、また社会が我々自身を含み我々自身に社会が含まれるように。
 言語を携え実存の只中で生を全うすることも即ち実存の一部なのであり、言語は実存との溝を自覚しつつ私たち自身を伴った実存の場面でもあるわけである。言語的思惟、言語的思念、言語的交流の全ては実存の一局面である。最早、意識もまた言語的局面たらざるを得ないのだから実存の一局面でもあるのである。
 あらゆる語られる言語の内に宿る溝に対するディレンマが共鳴し合った時、言語は実存と拮抗しつつ、待っている実存からの返答を聞くことが、あるいは一時なりとも出来るかも知れない。その実存からの返答の声は言語を勇気付けるであろう。勇気付けられれば言語は無力を悟りながらも徐々にその限りない可能性をも開示してゆくことであろう。それは言語が像としての役割を実存の場面で持っている、ということである。しかし、それは実存そのものではなく、私たちと実存とのかかわり合いの像である。私たちそのものをも成り立たせてくれるところの実存への感謝の印である。
 実存には表情が刻々と刻まれ、それは言語の可能性の領域をその都度開くが、同時に語らしめることを不毛と化す力で私たちに迫る。それでも尚語ることを止めない私たちはそういった反復の中でシーシュポスの石運びをしつつ、そのことで実存の表情を私たち自身に悟らせる。
 実存は無に隣接している。あらゆる事物の諸相にくまなく入り込む変化は実存を一時も同じ姿で私たちに知覚させはしない。そういった無常への認識は現象として私たちに実存様相を知らしめるあるエネルギーの強度が、そのエネルギーの無力をも同時に覚知させ、私たち自身の身体生理学的変化の只中に置くことを許す。非在、空無として実存を見守っていることを知る。全ての変化の一回性、唯一性は空無に見守られている。私たちが語る言葉の一回一回はそれぞれ異なった一回性、唯一性の致し方のない概念的記述であり、語ることが語り尽くせないというディレンマの中をのた打ち回り、それでも一回性、唯一性を語り留めておきたいという生の対話が実存の在り様を私たちに語らしめ、空無への実存の癒着を招聘する。
 空無としての非在はしかし実存の只中にそこそこあるように見えるが、非在の下に、非在の中に実存があるのでもない。
 空無としての非在は実存と共にある、というよりは互いに一切干渉し合わず対抗しているのでもなく、一切無関係であるにもかかわらず係わらずにはいられないように見える。それは非関係の積極的充実とでも呼べるような無関係である。無関係的同居である。
 非人間的と言うのに、どうして無人間的と言わないのか?
 それは人間が実存するからであろう。すると非在と実存は物と無関係というより非関係である。(コリン・マッギンはここで言う非在を我々にとっての心とか意識、空間自体の知られざる性質として捉えている。)実存にある空間は物と変化を伴っているのだし、物も変化も一切ない空間を知らない以上私たちはそれを非在と呼ぶ。物の一切ない空間とは成立し得るのであろうか?それは科学実験による作られた真空のようなものでは勿論ないのだ。それは観念上でしか成立し得ないのかも知れないが、あるのかも知れない。(こういう場合「ある」という形容的動詞叙述が適合するかどうかも解からない。)それは全存在を吸収するようなもう一つのイデアかも知れない。言語は音声や意味、統語構造、共同体的機能を持ち、かつ言語と実存の関係こそ非在という名のイデア、一切の共鳴を拒否しながら、実存の一部(場面)に言語を常に取り込んでゆくようなアンヴィヴァレンツな非関係のエネルギーである。それは国境を接していない国同士でもない。もともと事物はそれ自体で変化そのものだが、されら一切が空間の下で展開するそのこと自体は実存に対する認識によって知らされ、その承知それ自体は「我々の実存」の一部であるが、実存と認識には非関係のエネルギーが支配している。人が自分自身で関係付けているだけだからだ。
 認識とは全体への目配せ、それも暗黙のそれであり(自己に対しても他者に対しても)このア・プリオリは言語と共に発生したものなのだ。というより言語と付帯して発生したと言うべきであろうか?認識自体は前言語状態としてあり得るが、だがこの前言語状態はある意味では必然的に言語的思惟へと移行するではないか!このア・プリオリで私たちは実存の表情を読み取り、実存への何らかの返答をしなければならない。それは非在のイデアを実存から読み取るという実存の場面の構成である。我々は実存に対してと同時に自己の内的な意識的覚醒あるいは夢を見たりするような半意識的覚醒において好むと好まざるとにかかわらず非在にもまた自ら参加しているのだ。

 夢はトポロジー的に象徴的である。トポロジーは夢に展開する無意識が象徴する世界を対象化したもののようにさえ思われる。それは無意識の中に潜在するように見える非在のイデアの記号化であり、像である。それは明確な形を持った無意識の像である。それをたまたまトポロジストたちが引き出してくれたのだ。
 人間の遺伝子の中でその記号を担っているエクソンは遺伝子の全長僅か4パーセントしか過ぎず、残りの96パーセントのイントロンは人間の生における全行動中の意志の不確定さ、予想つかなさを担うかの如く存在し続け、それはある意味では人間の中にある原始生命の名残でもあり野生の声でもあり、人間が人間であることは人間が生物、動物であることに取り囲まれており、無意識の全体はファジーな一塊のもう一つの実在であり、象徴的トポロジーは非在のイデアであり、言語の実在に対して持つ非在のイデアは無意識でもあらゆる能力を発揮する。論理も倫理も構造も価値も当の対象に対して非在のイデアにおいて存する。
 存在すること、人間が人間として、生物として、動物として実存することそのものは論理の死であり、倫理は言語の産物であり、論理は実存することそのものへと向けられる非在のイデアである。だが論理が実存の何らかの変化を齎すことはないであろう。論理はただ実存から論理を引き出すのみであり、実存そのものを論理が変えることは恐らく出来まい。真理は論理の構成その中にあり、真理はア・ポステリオリに発見されるものも含めてア・プリオリであり、自然にも宇宙にも存する。だがその存すること自体はあくまで存在であり、実存である。それと拮抗する形で非在のイデアがあり得るのであり、論理とはその非在のイデアのほんの一部である。つまり真理や非在のイデアを顕現していても、その真理や非在のイデア自体は我々が実存の変化から意識的にそれを読み取らない限り顕現されているわけではないのである。
 非在のイデアはイルカの超音波的信号による言語に、ミツバチのダンスにも、ハキリアリやシロアリの分業と反復のシステムにも自然という対象に対して採られるスタンスに内在している。あらゆる関係とは実存に対する認識でしかないし、また認識によって読み取られることが可能な非在のイデアでしかない。
 実存という極めて巨大なファジーな無限性への予感の中に本来的に関係というものがア・プリオリにあるのではない。関係という綾、網の目で全ての実存を覆い尽くそうとするフロイト的に言えば原幻想的に、カントやフッサール的に言えば超越論的に、ベルグソン的に言えば時間の諸継続を分割して把握するようなア・プリオリ(実はカントが空間においては既に言っているのだが)は実存の側にでなく言語の中にある。あるいはもっと言えば脳の中にあるのだ。言語の分節化作用的統語性、空間把握、時間概念の合理的理解も全て、言語の実存へ向けての像形成的志向性に存する非在イデアとして実存への不可避的寄生特性を物語っている。
 木々の揺らぎは空間と事物の相互侵食的動的変化様相における木という生物そのものの恒常性と毛細管現象エネルギーと素粒子的動的変化が非在との非関係的並存の実存における現象性において、私たちの知覚と揺らぎとしての非在イデア的認識能力として成立しているに他ならず、空間と事物と変化のなす実存は非在へ感謝の言葉一つ掛けることなく、しらばっくれ私たちがそれを木々の揺らぎと認めるや否やあらゆる生物、植物に対するア・プリオリな概念像と生物学的法則性とにおいて、見えるもの(現象)を通して見えないもの(非在イデア)の非関係的並存を私たちの想起能力に対して徴候させるのである。
 その実存の驚異的顕現の前であらゆる言語は不毛な非在イデア的戯れに終始し、私たちが作る木々の揺らぎに私たち自身が圧倒され、大脳前頭葉が海馬へと送り、再び全感官へと戻ってくるニューロンの強度を形成する。
 実存はそれ自身ア・プリオリに私たちに全てを晒すかの如き様相的迫力で私たち自身が非在との非関係的並存によって認識することで作られるのものである。地球の大気中に存在する酸素、窒素、二酸化炭素といったものは全て実在であり、非在とは無縁に同居している。非関係的に同居している。非在が酸素自体に影響を及ぼすことはない。
 犬や猫にとって事物と空間は認知されるであろうが、実存的認識はないであろう。人間にしか実存はないとも言い切れないがその認識となると人間以外に考えられるとしたらイルカとか極めて少ない生物種しか思い浮かばない。サルに実存認識があるであろうか?
 
 私たちは何の気なしに時間というものがあるものとして捉え、動的質的変化の全諸相をその時間という網の目に支配されていると捉えるが、動的質的変化とそのスピードがあり、強度があり、事物性として空間と私たちが呼ぶ全ての事象の場において、それが展開するそのことを実存と呼ぶなら時間とはア・ポステリオリに木々の揺らぎに速度を測定し得るような秩序の下に認識する為の方便にしか過ぎまい。実存と時間は非関係である。時間によって物事全てが変化するのではなく、たまたま時間の推移と共にそれらが変化してゆくように思われるだけであり、時間自体は推移を見守るだけである。仮に時間がなくても変化というものは起こり得るのであろうか?そのことは難しくて私には解からない。
 何かが変化し、推移すること自体が時間であるなら殆ど変化しないものにおいても同様に時間が過ぎてゆくことがあることの証明にはならない。事実地球上には多くの長い時間において微小の変化をしか経験せずに済んで原型を留めているものも多い。時間を只一つのものと捉えることに無理があるのだろう。だからカントの客観的時間とは、私たちの認識を支える自己同一性、自我の産物ということにもなり得るのだ。カントのカテゴリーは自我を無意識的トポロジーで認識するプロセスということになる。
 なぜ空間と時間とを対概念の如く取り扱わねばならないのか?空間と時間は明に対する暗とも有に対する無とも本質的に異なった関係である。それは非関係である。たまたま我々自身が空間も時間も知るようにその二つを同時に体験しているからそこに我々自身(我々の周囲の自然も含めて)を機軸に空間と時間を並存している関係あるものとして認識しているだけであり、全く空間のないような場所(?)にも時間は流れるであろうし、また時間の全くない空間というものもないとは言えない。
 事物、事象(あらゆる変化諸相の)と空間の関係は有(?)であるが、時間は無でありその限りで空間そのものは有に満たされたかの如くに見える空無(非在)と非関係的並存しているところの有であり、変化をベースにすれば時間という変化と推移と平行して流れるものに対する非在イデアは、空間とはやはり非関係である。というのも時間の非在イデアはただ単に変化するということを要請するだけで、全く空間を必要とするとは限らない。その証拠に我々の心的様相はただじっとしていても一分、一秒たりとも同一ではない。しかしその変化は空間によって齎されたものでもない。
 過去も実際にそこにあるわけではない。あるのは言語として機能する過去に対する思念「昨日奴と一緒に酒を飲んだ。」とか「車で出掛けた富士山の景色は綺麗だった。」というようなことである。ちょっと言語学的なことを言うと「酒を止めた。」と言う場合、その酒にはビールもウィスキーも焼酎もワインも入る。しかし飲み屋で「お酒」とある場合、それは日本酒のことである。勿論日本酒と書いてある場合の方が多いが。また車と言うと通常日常生活においては自動車、並びに自家用車のことを指す。しかし車とは概念的には車輪一般を指す。このように慣用性と概念規定(辞書で調べてまず第一項に書いてあること)とはこのように異なっている。それはなぜか?省略があるということである。省略が日常性において果たす慣用的役割は大きい。このように我々は自然をも実は省略して自分たちにとって必要なことだけを最も重要なこととして捉え、後の部分(その方がずっと大きいのに)は大胆に見過ごしているのが我々の生の実態なのである。そして記憶もまた我々は積極的に不必要と思われる部分(その方がずっと大きい。)を大胆に忘却して生活しているのである。過去は最早ないものである。最早戻れないものである。だからそれについて語る時必要とされるのは過去像と記憶像だけである。だから過去想起は必要なもの以外は一切忘却されていることが前提しているのだ。しかしその忘却部分は想像力で補っている。大体こんな風であったというような構築である。サルトルはこの想像力を大変重要視した。それはカントの言った構想力というのにも似ている。過去のように見えるものは過去の痕跡であり、言語(それがある種絶対的な慣用である限り)もまたそういったものの一つである。言語は今そこにあるようなものではない。その意味では非在イデアの最たるものである。言語は全て記憶に基づいた過去像をモデルにしている。林檎を見て林檎と呼ぶのはその林檎の前に別の林檎を見ていたことの証拠であり、最初に語彙「林檎」を学習する時でも子供は大概親に「これなんて言うの?」と質問して親から「林檎って言うんだよ。」と教えられる。あるいは両親の会話から勝手に盗む。そして今までよく見かけたものを林檎であると認知する。語彙、名称、名詞、あるいは動的現実を概念規定する動詞も叙述限定を行う形容詞も皆過去の映像記憶、機能論的意味記憶によって過去の出来事を集計したデータを下にした認識をベースにしている。
 私たちは言語で実存を表現しそのことで実存と拮抗しようと欲する。しかし実存は表現したと思った瞬間あらゆる未知の要素を情報として私たちに提供する。必ず表現した言辞や陳述や述定から漏れる要素が残される。ここで言語の無力さへの自覚を誰しも経験している筈である。

 時間は空間のようには分割出来ない。だからこそベルグソンは「純粋持続」と呼ぶ時間性質を表現したのだ。一時間たった瞬間その時既に一時間何秒かは経過している。このようにある一瞬が常に自覚出来ないほどの脆さを持っているそういう性格をデリダは「差延」と呼んだ。しかも一瞬というものはまるで無限の深度を持っているかのようにあくまでも概念上でしか存在し得ないような意味での覚知不可能性を有している。一時間何分何秒何ミリ秒と言う風に無限の間隙を表示する時間の秩序は知覚不能様相である。一時間前のことも全て痕跡としてしか我々の脳裏には示されない。最早確認する術はないのである。つまり私たちは一時間を一平方メートルのようには知覚出来ないのである。一時間を過ごすことは出来るが一瞬で全てを知覚出来る空間的な事態とはそこが違うのである。時間とはだから認識的な方便でしかないのである。確認不能な実体(?)なのである。それはあらゆる事象的変化の諸相を網の目のように覆い尽くそうとする私たちの欲望が躍起になって摑まえようとするのにそこから常にするりと抜け落ちてゆくような事態のことなのである。
 だからこそ我々は変化的諸相を段階的にカテゴリー化するのである。そうすることによって初めて私たちは過去を再生されるVTRやDVDの映像の如く鮮明に思い描くことが可能となるのである。一挙に知覚出来ないことを概念的に段階的出来事として、ある時は因果論的に捉えることをすら可能にしながら記憶のアリアドネ性(「時間論_原音楽の彼方に」を参照されたし。)を引用しながら想起する為の方便が時間なのである。
 知覚は現に今起こりつつあることへの空間的把握に他ならず、それは動的変化を空間の中で捉えようと欲する意識のナルッキソス性によるものなのだ。そして未来予知とは寧ろネガティヴで不吉なことによって明確化することが多く、それを未然に防止しようと欲する意識によって産出される。そして現在において過去像を手掛かりに不吉なことも含めて未来予持するライウス性をも意識はその意志的動力源として携えている。そして時間的過去把握や未来予知は変化諸相への言語的アプローチの産物に他ならない。
 そうである。時間は言語というものの誕生と共に生み出されたものなのである。そしてそれは人間が永遠の生命を持っていなかったからである。そしてそのことが私たちをしてあらゆる実存意味を付与することを促した。実存のあらゆる諸相が語り掛けてくるものを真実と受け取りそこに何らかの意味を見出す。それは脈々と受け継がれてきた人間の思考的慣習である。(人間一個の生命は自然からすればとるに足らないものである。人間種が絶滅するか否かさえそうなのだから、それを尊いとすることさえ人間の勝手な都合でしかない。)
 サルトルは「嘔吐」でこれを一刀両断にする。実存に意味を付与するのはあくまで人間の勝手な都合でしかないのである。意味は言語が運用された上で必要不可欠のものと捉えられてきた。何物かを名指すということはそういうことではないのか、と。しかしそれは違うと思われる。言語は意味を運搬するものであるよりは、対話することそのもの(意味は対話することによって見出されるのなら、その時初めて登場するようなものであってもよい。勿論思念上であっても思惟上であってもあるいは記述上であっても同様である。)において確かめられる程度のものであって(たとえ確かめられなくても)よい。私たちが挨拶したりキスしたり抱擁したりすることに何か意味がなければならないだろうか?それと同じことではないだろうか。
 名指していることの形をとる名詞はそれ自体ではその名の示す概念の指示以外の何も示してはおらず動詞もこの動作陳述以外の何も示してはいない。語っている者にとっての興奮はだから言辞自体が如何に大袈裟であっても意味作用的には語られた語彙の組み合わせ自体の秩序以外何物も伝えはしない。
 「橋を渡った。」という文は話者が主語を省略して橋という概念を話者と対話手とが共通して有しつつ、共同体内の約束事として信じる(慣用的に)ものを「渡った」という過去の事実に対する述定以外に別にそれ自体意味といった意味はない。そのように対話手に語るところの話者の意思とかそういったことを内面的推測においてア・ポステリオリに私たち自身が勝手に見出そうとするだけである。それはそう語る話者の「その時の実存がある」、という事実以外の何を付与してもそれは自由だが、意味付与をはじめ、そういった解釈の問題であって、彼がそう語ったという実存は何も変わりはしない。そして彼が語った過去における橋を渡る行為そのものの実存と、後にそのことについて触れた実存は実は何のかかわりもないことであり(ただ単に想起してそのことに触れたに過ぎない。)全く別々の実存の場面に過ぎない。ましてや何も後にそう語る為に彼はある橋を渡ったのではなく、あくまで後日別の実存の場面(局面)において近い過去(遠い過去でもよい。)の実存についての述定をなしているだけのことである。にもかかわらずその因果的な性格を巡って常に堂々巡りの論争を繰り広げてきたのが哲学史の一面である。(ヒューム→カント→ベルグソン→ウィトゲンシュタイン)サルトルは本質からの訣別において実存の唯一的優位を語った。そしてそれは実存と非在イデアとの非関係をもう一つの現実として浮かび上がらせる。
 実存はカントが論じた物自体とも重なるし、それはとりもなおさずその客観的事物の現象をも生じさせるところの全てである。それは空間も含めあらゆる変化的諸相がそれ自体として息衝いている現在の事象の全てである。それは現在決定的にそこにあるということの強度である。だからこそ実存は意識と覚醒を重要な柱とするのだ。実存の意識を持つことが人間が自己同一性を得ることのア・プリオリな条件である。これがなく常に無意識であり、非覚醒状態であったなら、その人間は半死状態、半生状態でしかない。
 「私は~という名の一個の人間である。」という意識は同時に今のこの空間と事物とその変化諸相に取り囲まれ一個の存在者(理性的か否かを問わず)として存在しているという紛れも無い生命の諸瞬間が一個の生を生きる存在者(ハイデッガー的であるが)として実存の只中に自覚されるという事実こそが自我というものの正体に躍起になってきた幾多の哲学者たちの問いをすら産出してきたことなのだ。紛れも無く<実存に対する意識>が哲学者たちが自我と呼んだ自己同一性の中での他者(実存という他者も考えられる。)に対して自己を意識出来るところの心の在り様を決定しているわけである。
 そして自分を一個の存在者として名指すところの条件として言語がア・プリオリに実存に対して差し向けられている。それは実存を実存として認識する為のア・プリオリの条件として。実存を表現し切れない無力を自覚しつつ実存を裏切ることになるにもかかわらず。
 しかし事物が事物として存在しなくても空間は空間としてそれでも存在し続けているだろうか?というより空間なるものとして存在し得るだろうか?非在の空間として。
 ところが事物は現に存在している。事物が存在しているからこそ移動、運動が可能なのだ。空間があるから移動が可能であり運動が可能であるばかりか、まず事物があるからこそ移動や運動が可能なのだ。そして事物の移動や運動があるからこそ時間が生じる。時間があるからこそ動的変化があるのである。時間のない動的変化というものがあり得るであろうか?恐らくないであろう。実存とはこの両者を切っても切れないものとする現実のことを言うのである。そして実存の端々で私たちは言語の無力さを悟りながら、意味と論理に満ちた(と捉えることなしには把握出来ない。)実存に対して自己同一的確認において為される言語化は、刻々着々と経過しつつある無意味な時間への無時間化、我々の生に対する意味(意義)化に他ならない。
 言語活動は実存の中で生における一つの実存の場面において生の意義を見出すことを他者と共有する自己の本能的な創造、語らいと文章を通して「語ること」を産出することで超越的実存としての言語の正体を見出さざるを得ない行為である。言語はしかし実存の実存とのその場その場での邂逅の持つレアリテ、リアリティーを覆い尽くすことは出来ない。語らいの生における意義は実存の強度を抵抗しようともし切れないディレンマとカントの「判断力批判」の崇高に対する人間の美的判断にも共通する万人に共通した感動を共有し合えることの共同体内の確認と、そう願う自我において自己を見出そうとする成員間の賜物である。
 よって言語は実存を覆いつくせないにもかかわらず実存を益々裏切り(意志的発動)言語が実存を表現することが出来るものとして共同体内に機能せんと欲するし、かつそういうものとして我々は言語を捉える。あるいは捉えたいのだ。
 例えば名詞も動詞も個々の個別性、唯一性に対する表現しきれなさを知りながら一つ一つの出会いを既知のこととして処理することを促すように平坦に個別性をカテゴリーとして位置づける。一人一人の顔は異なっているが、顔はただの顔でしかないし、一人一人の語らいは皆独自のものだが、語らうこと、語ることという事実の名の下に一括してカテゴライズする。
 形容詞でさえ、美しい、綺麗ということは一人一人異なっているのにもかかわらず人の心を魅了するという質的な違いより、その事実性で一括して通り一片の表現しか生じさせない。観念の呪縛である。観念は一括した事実認定において個別性を末梢する。個別性の末梢はやがて言語を実存に対して横柄にする。傲慢にする。
 同じあなたであっても昨日のあなたと今日のあなたは違う。なのに同じ人格としてあなたとして捉えない限り、あなたと私の属している共同体ではその言語活動を糧に生活することは出来ない。同一性認定が法を生む。
 昨日の君が法を犯したのであり、今日の君はイノセントだ、とは言えないのである。
 川に掛けられた橋はいかなる形状の下であろうと全て同じ社会的機能として一括して橋でしかない。インフラという名で橋は観念上で個別性を剥奪される。
 しかし実存は個別的であり、レアルであり、あらゆる状況において一回的である。まるで生における全ての瞬間が全く異なった状況(心理的、生理的全ての)や質において一回的であるように_。
 ここに実存と言語の齟齬が生じる第一の理由がある。にもかかわらず言語はその語らいという活動において実存の場面として実存に癒着しようと欲するのだし、かつ巧みに潜り込む。言語が実存を裏切りながらも実存の一場面として振舞うその仕方が共同体の存立基盤となっているのである。
 ここで非在イデアについて述べておこう。本来関係なるものAとBとのかかわり合いは、Aが原因でBが結果でも、その逆でも、あるいは互いが互いの結合であったり、分裂であったり(前者がAとBが結合しCになり、後者はCがAとBに分裂)しても、それはその事実にこそ真実があり、AとBそれ自身は結合や分裂という事実に依拠しているに過ぎず、AやB自身が因果として作用しているわけではない。とするとAやBを俯瞰し、定義上結合したり、分裂したりさせる存在者が要求されよう。AやBの動的質的変化及び転換それ自体を関係性(そもそも何らかの集合体をAとかBとか措定すること自体恣意的なことでしかない。)と捉えるということの内に既に因果律としての物の見方が採用されている。しかもAやB自体の関係のみならず何らかの集合体同士の結び付きや別れを、AとかBとか捉える存在者と捉えられたもの同士の関係も全て実際に物理的現象として関係が存在するのではなく、あくまで一つの見え方、一つの捉え方として実存に対してア・ポステリオリに規定し得る、その可能性を捜したり、見出したりしているに過ぎない。その見方、捉え方は別の局面では全く別の再定義を要求され得るし、あるいはそれに取って代わることも充分あるので恣意的なものに過ぎない。これら一切の関係を実存(結合や分裂及びそれを結合や分裂と私たちが名指すところの動的質的状態の変化、変容)に対する見(え)方、捉え方を非在のイデアと私は呼んでいる。
 そして言語自体が実存に対して非在のイデアであり、かつそれでいて言語を育む私たちの考え方の存在そのものというかたちで実存の中の一場面に常に潜り込む言語の自らの立ち現れ方は巧みとしか言いようがない。しかし言語それ自体は全実存に対して非在のイデアであり、非在のイデアを産出し続ける私たち自身と言語の関係もそうであるが、少なくとも実存(私たちの日常全てを支配しるところの)に日々接している私たち自身と実存の関係と私たちと言語の関係は同じ様相の非在のイデアと見做し得る。なぜなら言語とは、私たち自身と実存との(私たち自身が実存の一部として存在し、実存を構成することをも他の一切の事物たちと担っているにもかかわらず)関係の像だからである。そうして築き上げられた実存は私たち自身より遥かにメジャーだし、言語は本来私たち自身の捏造だが、それ自身実存秩序を引き受け一人立ちし、もう一つの実存として私たちの前に立ちはだかる。してみると私たち自身と実存との関係と、私たち自身と言語の関係は相同であるし、かつそれら一切を実存の中の場面と捉えるなら、私たち自身と元は私たちが作った(これも実は疑う余地ありであるが)筈の言語との関係は、即ち「私たちと実存の関係」の中の一場面という風にも捉えられる。
 


私たち自身←→実存
     ↑像   

私たち自身←→言語
 

私たち自身と実存を分けて捉える考え方と
私たち自身も実存の一部と捉える考え方が
成立し得る。

上図を手掛かりに少し解析してみようと思う。まず実存とは存在論的な認識である。それは言語を操る我々自身の日常や自然に相対する、その中で苦闘する我々自身の姿も含む。現実と言い換えてもいいかも知れない。しかしただの現実と違うのはその現実に生きる我々の思念上で我々自身の存在とかかわる自然や社会、言語といった様々なレヴェルの様々な質の大きな現実と我々の存在との関係、その関係の中から我々自身を見つめることが出来ると実感出来る現実の総体であることだ。ハイデッガーやサルトルはそのようなものとして実存を捉えたのではないか、と私は考える。そこで実存と言語の関係を考えてみよう。現実に我々は我々自身を取り巻く現実をそれが自然であれ、社会であれ、言語自体であれそれを語彙に置換して表現する活動において様々な存在規定をしてきた。それが一つは言語である。木々を見て「木」と名付け、社会にとって重要な人間の活動を「政治」とか「経済」とか名付けてきた。そして言語活動自体を考え「文法」とか「意味」とか「音韻」とか名付けてきた。言語はそういう意味では実存の鏡でもある。だが実存と実際の自然や社会には齟齬もある。自然には我々の預かり知れない部分が多くあるし、社会にももう一つの自然の如く我々には解決不能の数々の問題がある。それらは依然不可知領域である。また言語自体もその解明には程遠い。すると自然も社会も言語も総じて実存であるなら、上図で示した言語とは脳内での言語的な思考、つまり言語的思考内容のこととなる。そしてこれにはある傾向性がある。こういう風に考えがちであるという傾向である。そこに当て嵌めて我々は自然を見る。社会を見る。言語自体を見る。「神」という概念もまた人間に固有の考えがちなことの代表である。人間の思考内容といってもよい。「死」もそうだし、「生」もそうである。あるいは「幸福」もそうだし、「愛」もそうである。これらは通常の意味での形がない。というより表わし難い。実際に「木」を木であるとする規定にも実は人間が自然科学的な分類学に則って考え出したカテゴリー認識に過ぎないのであって、木であるか葉であるか草であるか判然としないような種類のものもあるのかも知れない。あるいは実際に人間が「木」と規定しているものが絶対正しいとも言い切れない。自然には人間が木と考えるよりももっと何か別の事情によって木とも葉とも草とも区別がつかないようなものを創造されているかも知れないのだ。ただ我々は我々の知り得る自然のシステムの範囲で、例えば今我々が目にするある木を「木」と呼ぶに過ぎない。
 言語自体も恐らく言語が我々によって使用されてから言語を「文法」とか「意味」という風に分析したのに違いない。というのも言語を学習する際にそれをまず文法のシステム自体から覚えさせるということは臨界期をとうに過ぎた思春期以降の境界人か大人が外国語を習得する際の方便であって、我々が母国語を習得する際には実際には具体的な使用を親その他から聞き自然と慣用的に学習していったであろうからである。そしてそれは言語使用における初期人類とて同じことで、その意味では「文法」や「意味」といった語彙の誕生は「木」よりは後の筈である。まず生活において不可欠のものから順に学習されてゆく我々自身の習得過程同様、人類もまたそのように例えば人間関係においては親、子、親戚というような我々自身が自己、自分に近い範囲から習得するように人類自体もそのような最も日常的使用頻度の大きいものから語彙は創造されていったであろうことは容易に想像される。抽象的な語彙はその後である。だから「他人」とか「他者」とかは明らかに「親」や「子」よりは後的な語彙であると思われる。(?)まず基本として社会とはあらゆる家族の複合体であるから、人類史がまず共産主義において出発したのでない限り、社会の基本要素は家族である筈である。だから逆に「親」や「子」その次に「兄弟」、「姉妹」といった最も基本的な語彙は自然を表現する語彙に最も隣接した語彙である。それらは「空」や「川」、「土」、「海」、「山」といったものと同時的なものである。しかし人間は不可避的に社会とかかわるように出来ているので、次の段階において実存は社会を要求する。その最も基本的な概念こそ「他人」であり「他者」である。「友」はそれと付帯的に考え出された概念であろう。しかし難しいのは「愛」である。しかし恐らくこれは抽象的であるから「他人」よりも言語活動が進化した段階で出てきたものであろう。というのも「愛」は基本的には家族から生じるものだが、他者との間でも共同体においても国家においても存在し得る。「故郷を愛する」とか「愛国心」とか。だからこれらは言語自体の「意味」や「文法」といった語彙誕生の際に同時的に生み出されたと考えるのが最も順当ではなかろうか?というのも我々は抽象的に「愛」を知るのではなく、日常的な実存である家族との生活の中から具体的な愛の仕種や感情表現を知るのであり、その後にそのような現実自体を総体的な実存として認識する際に我々は初めてそういった日常の感情を「愛」と規定するからである。だから「愛」は「実存」や「言語」や「像」に近いものである。
 「像」とは何か?それは実存の様々なレヴェル、質においてそれを語彙に置換する際に我々が持つ現実、現象、事象に対して抱く表象であると言えよう。それを手掛かりに我々は言語的な思考を持つのだ。だからそれは実存と我々がその実存の中で思考する為の媒介であると言えよう。像こそ、あるいは心像、表象と言い換えてもいいものこそ、概念的には実存と言語の境界に位置するのだ。我々はこれなくして実存を実存として、あるいは言語を言語として認識することさえ出来ない。これをカントはカテゴリーとか構想力というもので表現したし、サルトルは想像力というもので表現した。
 しかし像とはある意味では個別具体的な映像想起やニュアンス想起を阻むような極一般的なカテゴリーしか喚起させない。言語とは一面ではその言語が通用する共同体成員全員の総意として一つの名指された対象に対する共通了解事項としての語彙形成によって成立しているその都度の語彙選択行為によって支えられているのであるから、その意味では「猫」はただ「猫」であり、『ネコ目、ネコ科』というような生物学的分類による専門学的カテゴリーや学名でもなければ、ある種の神話や文学的創作上の別名でもない。それはネコ一般である。猫に纏わる外延全てを一語で「猫」として省略して、全ての猫に共通した言語共同体が規定する常識性に照らし合わせて具体的記述、形容(その猫について語る話者にとって猫<猫一般>が嫌いな人であるか、猫を飼っていて、人間の固有性同様の愛着を持って語るかというような相違は大きいが、その際の形容にも愛着の差には形容自体の具体性にも差が出る、当然愛着を持っている場合にはより個別具体的で詳細な形容となり得る。)の省略の下、情報伝達機能という俎板に、あるものを只一つの「猫」という語で代表させることで個別具体性へと即座に対話内容が移行することを未然に防止しているのである。その先にまで対話内容が進行するか否かは、話者が語る猫についての話題(猫が好きな者同士の場合が多いだろうが、逆に嫌いな動物について反感の同意を求める場合もあるであろう。)が進化してゆくべきものあるか否かは、聴者がその猫に対して話者同様の関心があるか否かがキーとなり、話者が「猫のことなんだけどさあ。」と切り出した場合、その先を話者に続けて欲しければ聴者は「猫がどうしたの?」とか話者がある特定の猫について「うちの近所の猫のことなんだけどさあ。」と語ろうとしている場合には「その猫はどんな風なの?」と聞くことによってそれ以上の猫の叙述に進化が可能性として付与されるのだ。話者がある一般的な語彙選択によってある概念を提出した場合、それ以上その概念によって指示される対象に関心があれば、個別具体的な事項を聞き出せばよいという寸法である。しかし猫の話を切り出した時点ではその話者にとって聴者が自分同様に猫に関心があるか否かはまだ判然としていないのであるから、猫一般をまず話題設定しているのである。だから聴者が猫にはあまり興味がなく、犬に興味があり、話者もそれに同様の関心があれば犬の話題へと移行して差し支えなく、逆に話者が猫は好きなのに、犬は嫌いである場合は話題を180度転換する必要性が生じてくるのである。よって話者にとっての猫の実存は実存に対する綿密な描写まで話題として提出してよいものかどうかが、猫一般をまず指示すことで聴者へと打診されているのである。だからこそ猫について詳細を語り合いたい話者にとっては心的には綿密な実存描写が控えていても、まず聴者がそのことに関して同様の関心を抱けるかどうかという判断を話者が得たい為にまず猫一般から設定するということが意思疎通の第一段階の秩序として話者、聴者双方にとって認識されるのである。それは常識的了解事項としての猫なのである。だから聴者が猫一般に関心があると了解されれば、即ある特殊な猫の叙述へと移行し、「うちで飼う猫の体毛と模様が変わっていてねえ。」とかいう風な内容になるのである。それは言語が実存に対してあくまで非在のイデアである証拠なのである。故にこそ、実存としての猫の圧倒的な個別具体的な決定的なる存在感、現実感はどんなに形容しても実際にその猫を聴者に見せるまでは聴者にはそのままの形では伝わらず、実存を言語が覆い尽くすことなど出来はしない。だから大概聴者はその猫を実際に見せられる段になると「猫って言うからもっと全然違うイメージを抱いていたわ。」とか言う風になるのである。言語はここでも実存を裏切りつつ自らの都合で暴走し得るような力を示すのである。それでいてちゃっかり実存の一場面へといつでも気軽に加担し得るような出しゃばり者なのである。しかしこの出しゃばり者抜きで生きて行ける存在者など一人もいはしないのだ。そして言語は実存において自己を見出すと同時に存在者の内部でも一人歩きをし始めるのだ。そして言語が実存に対して言語自体の自己を見出すことと、存在者の内部で一人歩きし始めるこの中に他者及び、共同体という概念をア・ポステリオリに介在させることとなり、それはア・ポステリオリに見出されるア・プリオリなのである。
 最後に実存が時間というものに大きくかかわっているのだ、ということを考え、同時にそれは空間にもかかわりがあるということをも考えてみよう。
 哲学は生がある限り問われ続けられるものであると思われるが、時間と対抗するものとしての生がある時間的な経済と精神的な無常観が問うことを位置づけてきた。ある限られた時間の中で生きるのなら時間など問うことなく問わずに生きれば一番良いのかも知れない。にもかかわらず時間自体を問うということはブルースを聴かずしてブルースを論じるようなものであるのに、哲学はこれを延々やってきた。本来時間は意識とか自我とか個別的なものから問われるべきものであるのなら、哲学よりもまず言語学から問われねばならない態のものであった筈であろう。しかし言語学は時間をあまり積極的に問わずにきた。過去の事実は我々の手によって過去化され真実化される。中島義道の言葉を借りれば、「過去は意味は変わらないが内容は変わる」ものだとすれば、ある種の事後的な辻褄合わせは常に我々の日常に散見される。幼児が殺害されると決まって「明るい元気で活発な子でした。」と報じられ、また不測の列車事故や飛行機事故で亡くなった人を「仕事に積極的で真面目な勤務態度の周囲の皆から好かれる人でした。」と報じられる。では一体明るく元気でない子が殺害されたら、気の毒ではないのだろうか?周囲から好かれていない人が亡くなったら気の毒ではないのだろうか?と思わず言いたくなるほどの後付け的報道の辻褄合わせ的な意味論こそ我々が日々目にする我々自身の過去事実の意味づけ作用である。これらは言語自体、つまりどのような言及でも未来へ向けられた意思表示や行為遂行的発言を除く殆どが過去の事実の事後的な報告によって成立しているからである。だから逆に過去の事実に関する叙述ではない未来へ向けられた意思表示でさえ、過去の事実に起因した意志なのである。「私はこの人を妻とします。」という結婚式での行為遂行的発言は「今までは独身でした。しかしこれからは違います。」という一つの過去における在り方から決別し、これからはこうするという未来に対する述定なのである。
 では空間というものとは一体何なのだろう?時間はA地点からD地点へと移動する時、途中でB地点あるいは事物、C地点あるいは事物と遭遇し、かつD地点からA地点へと戻る時同じルートを通る時逆にC、Bという順序で通過するなら必然的に動く主体は移動しているが、途中のBやCは移動していない、つまり不動であるということとなり、しかも必ず順序としてBの次にC、帰りはCの次にBという風に経過し得るのならそこに推移というもの、つまり時間が認められることとなる。そして空間とはある二つの異なった地点や事物が同一の場所には存在し得ないということ、そしてそれらは移動に時間がかかるということにおいてその存在が少なくとも拡がりという意味においては証明されよう。しかし時間と空間が相互に規定し合っているかというとそれは疑問である。我々自身が空間内を移動する際に時間を要するということだけである。しかももう一つの時間の定義では変化が起きるということである。それは主体(見る、観察する)が認知し得る変化が体験的に推移の中で行われ得ることを認知し得ることによって証明される。事物間に全くの変化のない空間があったとしたら、それは悠久の時が仮に経過し得たとしても一瞬よりも短くても何ら差し支えないこととなる。変化とは位置的、質的、形状、生死といったことによって判定し得る。変化がないということは言い換えれば事物も生命もないということをある意味では意味する。つまり端的に言えば生命体を含めた事物はどんなに変化ののろいものであってさえ、徐々に変化してゆく、いつか最初にあった(この最初という観念は難しいのであるが、どのようなものでもその事物が存在し得たその前の状態、机であれば加工される前の木とかガラスとかがあることとなるのでそのことを意味させた。)状態からは離脱する。つまりこの変化を保証するものが時間である。そしてその変化を体現させる場が空間である。ここで初めて空間と時間が共同しあっているように見える。しかしこれも我々がその変化を目撃し得る限りでの話しなのである。その変化を目撃し体験し得る我々がそれを認知し、脳内で変化を規定し得るものは言語であろう。事物は変化してゆくことに同意しているし、事物は空間に存在し、変化という全事象へ加担することで実存そのものであると言明しているのだから、その変化を立ち会う我々自身の認識が言語でなされる以上、言語は空間の中で我々によって認知される空間の劇場化宣言と変化への同意と加担の中で私たち存在者自身の実存の中から全実存を少なくとも認識の上では(我々の与り知らぬ実存があるであろうと我々は予測出来る。)我々自身の実存(その全てを我々自身でさえ与り知らぬ。)をも実存の一部を構成する登場人物として認可しながら他の事物たちと競演することを自らに言い聞かせながら、存在者同士の連帯と協調の中でそれを自らの行動の水先案内人とすることで存在者同士を共同体の成員(例えば地球上のあらゆる人間以外の生物は皆地球という惑星における成員である。)として位置づけながら、それをそういった認識の糧とすべく利用するのである。しかも極めて日常的に、慣習化しながら、ある特定の逃れることの出来ない相棒として。そして言語的思考は「我々自身」の大いなる実存でありながらも、一向に空間自体には影響を与えない。それは我々の思惟や思考や反省それ自体は一向にそれらに影響を与えないのと同じである。それはそれらが時間にも全く影響を与えないのと同様である。それが反空間的、反時間的なものという性質を新たにここで言語、思考、思惟に付与することとなるのだ。それは我々が自然秩序の中で右往左往して生きているのに、同時に極めて反自然的な言語的存在として生きているということ、言語の内容、意志、意図からは決してそれを自然の一部と認識し得ない余剰を認知している。この一動物であり、生物学的存在でありながら、言語を通してそこから極端に逸脱する非生物学的存在である我々自身の両義性こそが最も厄介な代物なのである。それでいて肉体的存在、身体的存在としていつかは消滅するのが人間の運命である。
 我々がどのような個人であろうともいつかは死してその肉体を消滅させる存在であるのはいかなる理由によるものか?それを端的に物語ることとして空間の側の事情があると思われる。それは全ての生命体が永遠に存在し続ければ、その為に払われる全エネルギーというものは多大のものになり、それを顕現させる為のコストは例えば全地球レヴェルでも甚大なものになり得る他はない。加えて空間がそこで全て一回誕生してきた生物種によって占有されて一杯になる前に遺伝子を持って子孫を繁栄させる代わりに個体はある時期を持って退場させるような摂理を自然が選択したのであろう。各生物種同士の空間専有性を巡る衝突を最低限に制御する方策として個体の死滅というものを自然が選択したのであろう。しかしひょっとするとこの生命体の死滅のシステムこそがある種宇宙空間そのものの有限性を証明しさえするかも知れないと私には思われるのである。しかしそのことに関して本章ではまだ触れずに置こう。一個体がいつかは死滅する分析的な事態において我々はDNAレヴェルから運命付けられた生の経済において想像力や想起、あるいは構想力において無限性、非有限性を付与されている。限度ある生理的な能力がそれを超えた可能性への希求を心的にも概念設定可能性としても我々に付与されていると考えることは的を得ているように思われる。だからこそ全ての概念が対象とそれに対して規定された観念の呪縛を必然的に運命付けられているとしたら、我々はその呪縛を相互に受容していることの運命共同体においてその言語思考的な意味においても個的レヴェルから加担を表明すべく内的には無限な思考を施し、無限の可能性を思惟する自由を享受するのである。そして遺伝子において死滅する全個体が能力と可能性に関しては遺伝子において子孫も存続し得るように言語活動という能力もまた遺伝子を通して子孫へと受け継がれてゆくのである。そしてその受け継いだ身体生理的、大脳思考的遺産を受け継いでいることを言語活動への加担と内的、心的思念性において我々はその都度同意しつつ表明しているのである。