名詞は概念的定義づけである。命名は具体的実存の一律的認識強制に他ならない。それは自然の多様性、不可知的特質に目を瞑り、人間の捏造した制度の網の目によって、それらを一語で言い表す暴挙である。(<あの>「美しい」と、<この>「美しい」と、<その>「美しい」は、同じ「美しい」と規定される形容的概念であっても実はそれぞれ全く質的にも、主体からの受け取られ方に関しても異なったものたちである。)
つまりここで言語が命名された(動的現実、動的自然現象の叙述の動詞においてさえ、一律的に一般的な動的メカニズムとして概念規定された)もののみで、全てに背進する一つの独断であり、実存を必ず裏切る、ということを表わしている。にもかかわらずカントは理想を具現することの空しさを主張する。(岩波文庫版「純粋理性批判」中、239ページより)カントにとって理想とはある意味で彼の語る道徳的法則、あるいは自由、霊魂の不死、神といった三位一体にも比すべき最高規範の一つの雛形であることが伺える。そして我々は実は自然や現実に取り巻かれた実存の観察、目撃、傍観、立会い、参画、投企といったことによって言語(自然、現実の一つ一つに対応する対象、事象、現象を認識論的に名指す)を生み出し、言語から理想を生み出してきているのである。
取り敢えず実存とは我々が自然や現実から表象することとそこから離脱してゆくものをも含めた総体だと捉えてみよう。
実存が不可知であることは一応の前提にしておこう。実存とはある意味では自己を取り巻く環境とか社会とか今現時点での時間の只中であることの全てであろう。しかし我々は恐らく動物と最も異なる一面として我々以外の多くの同一種たちが地球の裏側にも生活しているということ、我々以前の祖先が我々と同様に生活していたということ、我々の死後もまた我々同様の我々の子孫たちが我々同様に生活してゆくだろうということ(尤も、地球が今のような状態で存続しての話であるが。そういう意味では地球が思いの他早く滅亡するような可能世界もまた考慮に入れて考えることが我々には出来るのである。)を知る、あるいはそうであろうと推測することが出来る。
本章の下書き段階ではまだコリン・マッギンの「意識の<神秘>は解明できるか」を読んでいなかったために私は彼と同様の考えを書いていた。それは空間自体が我々の与り知らぬある種の特質があるのではないか、というものであった。恐らく我々が個々に今こうしている、存在することを何の不可思議もなく顕現させる空間自体のある種の度量の大きさとフレクシビリティーがあるということは恐らく誰にでも実感出来よう。空間自体の知られざる特質によって時空間にさえある種の歪があるということはアインシュタインの時代から立証されてきている。すると空間が時間を支配しているのか、それとも時間が空間を支配しているのか、あるいはそのいずれもないのかという疑問も出される可能性がある。しかしまだそのことには触れずにゆこう。
言語は実存を裏切る。しかし言語は実存の前で自らの無力さを悟りながら、語ることを止めようとしない。それ以外の実存に拮抗する手段を見出せないからでもあるのだが、言語は実存を通して、その実存の姿を反省することによって生み出される。だから言語は実存の過去像をモデルとしたものである。今後もまた新たなる語彙や新たなる文法が生み出されてゆくであろう。しかしそれらは未来を予知して作られるものでさえ、現実的にはその語彙産出契機となるものは過去のデータであり、過去の記憶を下とした想起作用による産物である。だからこそ言語は過去のデータを下として編纂された一つの体系であって、その体系自体は実存を覆い尽くそうとするが、そのあまりの強度故に実存の生々しさは終ぞ表現し切れないその無力、歯がゆさが却って言語を体系的に進化させようと我々に強いる。仮の全体決定性であることを体系自体の存在矛盾から知り、それを訂正しながら全体を編纂し直すことが我々にとっての言語への取り組み方に他ならない。だから永遠に我々は神の如く誤謬の入り込む隙のない完全無欠の言語体系など編纂しようもないのである。そこで我々は益々言語と実存の溝を心的にも認知し、拭い難い真理と化してゆくのである。
実存を糧に言語を作り変えてゆかねばならない、と常に我々はそう思うのだ。本来実存とは意味ではない。しかし人間は一般に実存を意味の呪縛から解き放ち見ることは最早出来ない。(本当にそうだろうか?)意味がなければ言語は名指すことが出来ない。(本当にそうだろうか?)実存の言語化は意味化への契機ともなり、実存そのものの在り様への表現の不可能性の宣言であり、実存の強度は、言語と意味の死を宣言せずには置かない。
ここではっきりさせておこう。言語が意味を発生させるのか?それとも意味が言語を発生させるのか?
複合動詞というものがある。複合動詞は(あるいは複合形容詞、例えば「甘辛い」というような)基本的動詞の組み合わせによって成立した(つまり言語発生以後に)言語的思念の進化によって成立したのか、あるいはそのような動詞(形容詞も)の表現するところに対応するような感情が先にあって、しかしそれを他者と意志伝達するような手段としての語彙が見出されておらず言語がただ感情的内面(心的様相)に追いついていけなかっただけなのか?
答えはこうであろう。そういう感情は語彙発生以前にも確かにあった。しかしまず基本的にとりわけ顕著な性格のものから語彙化されていった。「聞く」と「入る」とか「甘い」と「辛い」のように。しかしじきに「聞き入る」とか」「甘辛い」とか言うようになる。そういう味覚感情があるからだ。ただ対応させるべき丁度ぴったりのものがない場合(中間的な感情に多い。)顕著な特質を表わす語彙を複合して間に合わせたのであろう。しかし我々は豊富な数の語彙を言語的に語彙を通して表現出来るようになってから、それをある特定の表情に載せて意志伝達出来るようになったのであろう。(他者との感情共有の確認と対話自体の独立した意義の発生)そしてこれは言えるであろう。このように語彙によって感情を表現出来るようになってから初めて我々は自己の感情を確たる心的様相とし、つまり心の存在を明示性として自覚し得るようになった。つまり我々は言語の、個々の語彙によって始めて自己の心像を確固とした存在として知るようになったのであろう。
先の答え(意味と言語の前後関係)を述べよう。つまり意味の原型となる感情はあった。そもそも意味とは対象に対する感情であるのだから。しかしそれはその感情を語彙発話して他者に意志伝達し得ない限りただのカオスである。心の中のモヤモヤでしかない。言語獲得以前の人間は寡黙であったことであろう。(当然である。)それは自己の心的感情の自己内における完璧な占有によって全てが自己裁量によってなされるのであるから、感情に意味はなかったであろう。感情は言語以前にもあった。しかし言語が誕生してから、初めて我々は感情に意味を付与し得たのである。意味の獲得には段階があるのである。つまり下図のようになる。
内的感情をただ自己内に占有する。
↓
内的感情と語彙の対応を発見する。
↓
語彙使用を通して感情に意味を付与する。
実存と言語の溝は常に言語の側から意識されているにもかかわらず、言語は実存から一方的に無力さを告げられ続ける。にもかかわらず言語は語ることを止められないので、人は実存から何らかの形を見出し、それを語彙に置き換えたり(発語、書記)、物そのものに置き換えたりする。(芸術)そうすることで対象に対する感情(何かを名指すこととは即ちその対象への愛着であったり、憎しみであったり、つまりは対象への感情の表出である。)を意味的に確認するのである。感情の在り方を確認することとは即ち感情の意味を確認することなのだ。だからもし我々に言語が獲得されなかったならば、我々は決して感情に意味を付与し得なかったであろうし、当然のことながら意味というものは無意味であったことであろう。
物は実存の姿を決定する。物と空間、あるいはそこに伴う時間的変化が一体化し常に私たちが自らの身体を差し出し一体化を触知しているところの投企の場として、物は現象を空間に委ね空間から委ねられつつ私たちを自己として捉える機会を与える。物があるから私たちは自己を生命的存在と捉えられるのだ。サルトルは他者を人間とも捉えるし、物とも捉える。この質的転換がサルトルにとって重要なテーマだったのかも知れない。コリン・マッギンもまた物と生命との差異について触れている。彼はそれに人間の作った物をも加えて対置している。(「意識の<神秘>は解明できるか」より)
実存はしかし物と空間、そして全ての変化を私たちに言語を通してしか捉えられないように現象として我々の前に差し出すが、ある意味ではそれを我々は言語以外のことでは捉えられないのだから、言語で表現されることを黙して待ってもいるのである。実存が待っていると捉えれば物と空間、そして全ての変化が言語によって表現されることで理解出来るようなものとして立ち現れるということが了解されるのである。実存を待たすのは我々自身なのである。
しかし私たちは実存を蔑ろにしない限り言語によっては実存は語り尽くせないという言語の無力を感じざるを得ない。実存へのより深い理解とは、ある意味では語ることを止めること、ただじっと実存のあらゆる現象、あらゆる徴候を見守り、変化の中に身を置き、佇んでいることなのかも知れない。しかし私たちはただ理解することだけで実存の只中にいながら生を生きることは出来ない。理解されたことを私たちが他者に対して、実存自体に対して示すことで実存へ、私たちの対話において自己を明確化し得るのであり、実存は言語との溝をまざまざと見せつけながら尚も私たちが語りかけてくるのを待つことを止めはしない。それはある意味では我々自身が実存の一部であるのだし、また実存そのものも我々の一部であるからである。実存が言語を私たちとの関係において唯一の架け橋としているというその事実をもってもそのことは明らかである。自然が我々自身をも含み我々自身に自然が含まれるように、また社会が我々自身を含み我々自身に社会が含まれるように。
言語を携え実存の只中で生を全うすることも即ち実存の一部なのであり、言語は実存との溝を自覚しつつ私たち自身を伴った実存の場面でもあるわけである。言語的思惟、言語的思念、言語的交流の全ては実存の一局面である。最早、意識もまた言語的局面たらざるを得ないのだから実存の一局面でもあるのである。
あらゆる語られる言語の内に宿る溝に対するディレンマが共鳴し合った時、言語は実存と拮抗しつつ、待っている実存からの返答を聞くことが、あるいは一時なりとも出来るかも知れない。その実存からの返答の声は言語を勇気付けるであろう。勇気付けられれば言語は無力を悟りながらも徐々にその限りない可能性をも開示してゆくことであろう。それは言語が像としての役割を実存の場面で持っている、ということである。しかし、それは実存そのものではなく、私たちと実存とのかかわり合いの像である。私たちそのものをも成り立たせてくれるところの実存への感謝の印である。
実存には表情が刻々と刻まれ、それは言語の可能性の領域をその都度開くが、同時に語らしめることを不毛と化す力で私たちに迫る。それでも尚語ることを止めない私たちはそういった反復の中でシーシュポスの石運びをしつつ、そのことで実存の表情を私たち自身に悟らせる。
実存は無に隣接している。あらゆる事物の諸相にくまなく入り込む変化は実存を一時も同じ姿で私たちに知覚させはしない。そういった無常への認識は現象として私たちに実存様相を知らしめるあるエネルギーの強度が、そのエネルギーの無力をも同時に覚知させ、私たち自身の身体生理学的変化の只中に置くことを許す。非在、空無として実存を見守っていることを知る。全ての変化の一回性、唯一性は空無に見守られている。私たちが語る言葉の一回一回はそれぞれ異なった一回性、唯一性の致し方のない概念的記述であり、語ることが語り尽くせないというディレンマの中をのた打ち回り、それでも一回性、唯一性を語り留めておきたいという生の対話が実存の在り様を私たちに語らしめ、空無への実存の癒着を招聘する。
空無としての非在はしかし実存の只中にそこそこあるように見えるが、非在の下に、非在の中に実存があるのでもない。
空無としての非在は実存と共にある、というよりは互いに一切干渉し合わず対抗しているのでもなく、一切無関係であるにもかかわらず係わらずにはいられないように見える。それは非関係の積極的充実とでも呼べるような無関係である。無関係的同居である。
非人間的と言うのに、どうして無人間的と言わないのか?
それは人間が実存するからであろう。すると非在と実存は物と無関係というより非関係である。(コリン・マッギンはここで言う非在を我々にとっての心とか意識、空間自体の知られざる性質として捉えている。)実存にある空間は物と変化を伴っているのだし、物も変化も一切ない空間を知らない以上私たちはそれを非在と呼ぶ。物の一切ない空間とは成立し得るのであろうか?それは科学実験による作られた真空のようなものでは勿論ないのだ。それは観念上でしか成立し得ないのかも知れないが、あるのかも知れない。(こういう場合「ある」という形容的動詞叙述が適合するかどうかも解からない。)それは全存在を吸収するようなもう一つのイデアかも知れない。言語は音声や意味、統語構造、共同体的機能を持ち、かつ言語と実存の関係こそ非在という名のイデア、一切の共鳴を拒否しながら、実存の一部(場面)に言語を常に取り込んでゆくようなアンヴィヴァレンツな非関係のエネルギーである。それは国境を接していない国同士でもない。もともと事物はそれ自体で変化そのものだが、されら一切が空間の下で展開するそのこと自体は実存に対する認識によって知らされ、その承知それ自体は「我々の実存」の一部であるが、実存と認識には非関係のエネルギーが支配している。人が自分自身で関係付けているだけだからだ。
認識とは全体への目配せ、それも暗黙のそれであり(自己に対しても他者に対しても)このア・プリオリは言語と共に発生したものなのだ。というより言語と付帯して発生したと言うべきであろうか?認識自体は前言語状態としてあり得るが、だがこの前言語状態はある意味では必然的に言語的思惟へと移行するではないか!このア・プリオリで私たちは実存の表情を読み取り、実存への何らかの返答をしなければならない。それは非在のイデアを実存から読み取るという実存の場面の構成である。我々は実存に対してと同時に自己の内的な意識的覚醒あるいは夢を見たりするような半意識的覚醒において好むと好まざるとにかかわらず非在にもまた自ら参加しているのだ。
夢はトポロジー的に象徴的である。トポロジーは夢に展開する無意識が象徴する世界を対象化したもののようにさえ思われる。それは無意識の中に潜在するように見える非在のイデアの記号化であり、像である。それは明確な形を持った無意識の像である。それをたまたまトポロジストたちが引き出してくれたのだ。
人間の遺伝子の中でその記号を担っているエクソンは遺伝子の全長僅か4パーセントしか過ぎず、残りの96パーセントのイントロンは人間の生における全行動中の意志の不確定さ、予想つかなさを担うかの如く存在し続け、それはある意味では人間の中にある原始生命の名残でもあり野生の声でもあり、人間が人間であることは人間が生物、動物であることに取り囲まれており、無意識の全体はファジーな一塊のもう一つの実在であり、象徴的トポロジーは非在のイデアであり、言語の実在に対して持つ非在のイデアは無意識でもあらゆる能力を発揮する。論理も倫理も構造も価値も当の対象に対して非在のイデアにおいて存する。
存在すること、人間が人間として、生物として、動物として実存することそのものは論理の死であり、倫理は言語の産物であり、論理は実存することそのものへと向けられる非在のイデアである。だが論理が実存の何らかの変化を齎すことはないであろう。論理はただ実存から論理を引き出すのみであり、実存そのものを論理が変えることは恐らく出来まい。真理は論理の構成その中にあり、真理はア・ポステリオリに発見されるものも含めてア・プリオリであり、自然にも宇宙にも存する。だがその存すること自体はあくまで存在であり、実存である。それと拮抗する形で非在のイデアがあり得るのであり、論理とはその非在のイデアのほんの一部である。つまり真理や非在のイデアを顕現していても、その真理や非在のイデア自体は我々が実存の変化から意識的にそれを読み取らない限り顕現されているわけではないのである。
非在のイデアはイルカの超音波的信号による言語に、ミツバチのダンスにも、ハキリアリやシロアリの分業と反復のシステムにも自然という対象に対して採られるスタンスに内在している。あらゆる関係とは実存に対する認識でしかないし、また認識によって読み取られることが可能な非在のイデアでしかない。
実存という極めて巨大なファジーな無限性への予感の中に本来的に関係というものがア・プリオリにあるのではない。関係という綾、網の目で全ての実存を覆い尽くそうとするフロイト的に言えば原幻想的に、カントやフッサール的に言えば超越論的に、ベルグソン的に言えば時間の諸継続を分割して把握するようなア・プリオリ(実はカントが空間においては既に言っているのだが)は実存の側にでなく言語の中にある。あるいはもっと言えば脳の中にあるのだ。言語の分節化作用的統語性、空間把握、時間概念の合理的理解も全て、言語の実存へ向けての像形成的志向性に存する非在イデアとして実存への不可避的寄生特性を物語っている。
木々の揺らぎは空間と事物の相互侵食的動的変化様相における木という生物そのものの恒常性と毛細管現象エネルギーと素粒子的動的変化が非在との非関係的並存の実存における現象性において、私たちの知覚と揺らぎとしての非在イデア的認識能力として成立しているに他ならず、空間と事物と変化のなす実存は非在へ感謝の言葉一つ掛けることなく、しらばっくれ私たちがそれを木々の揺らぎと認めるや否やあらゆる生物、植物に対するア・プリオリな概念像と生物学的法則性とにおいて、見えるもの(現象)を通して見えないもの(非在イデア)の非関係的並存を私たちの想起能力に対して徴候させるのである。
その実存の驚異的顕現の前であらゆる言語は不毛な非在イデア的戯れに終始し、私たちが作る木々の揺らぎに私たち自身が圧倒され、大脳前頭葉が海馬へと送り、再び全感官へと戻ってくるニューロンの強度を形成する。
実存はそれ自身ア・プリオリに私たちに全てを晒すかの如き様相的迫力で私たち自身が非在との非関係的並存によって認識することで作られるのものである。地球の大気中に存在する酸素、窒素、二酸化炭素といったものは全て実在であり、非在とは無縁に同居している。非関係的に同居している。非在が酸素自体に影響を及ぼすことはない。
犬や猫にとって事物と空間は認知されるであろうが、実存的認識はないであろう。人間にしか実存はないとも言い切れないがその認識となると人間以外に考えられるとしたらイルカとか極めて少ない生物種しか思い浮かばない。サルに実存認識があるであろうか?
私たちは何の気なしに時間というものがあるものとして捉え、動的質的変化の全諸相をその時間という網の目に支配されていると捉えるが、動的質的変化とそのスピードがあり、強度があり、事物性として空間と私たちが呼ぶ全ての事象の場において、それが展開するそのことを実存と呼ぶなら時間とはア・ポステリオリに木々の揺らぎに速度を測定し得るような秩序の下に認識する為の方便にしか過ぎまい。実存と時間は非関係である。時間によって物事全てが変化するのではなく、たまたま時間の推移と共にそれらが変化してゆくように思われるだけであり、時間自体は推移を見守るだけである。仮に時間がなくても変化というものは起こり得るのであろうか?そのことは難しくて私には解からない。
何かが変化し、推移すること自体が時間であるなら殆ど変化しないものにおいても同様に時間が過ぎてゆくことがあることの証明にはならない。事実地球上には多くの長い時間において微小の変化をしか経験せずに済んで原型を留めているものも多い。時間を只一つのものと捉えることに無理があるのだろう。だからカントの客観的時間とは、私たちの認識を支える自己同一性、自我の産物ということにもなり得るのだ。カントのカテゴリーは自我を無意識的トポロジーで認識するプロセスということになる。
なぜ空間と時間とを対概念の如く取り扱わねばならないのか?空間と時間は明に対する暗とも有に対する無とも本質的に異なった関係である。それは非関係である。たまたま我々自身が空間も時間も知るようにその二つを同時に体験しているからそこに我々自身(我々の周囲の自然も含めて)を機軸に空間と時間を並存している関係あるものとして認識しているだけであり、全く空間のないような場所(?)にも時間は流れるであろうし、また時間の全くない空間というものもないとは言えない。
事物、事象(あらゆる変化諸相の)と空間の関係は有(?)であるが、時間は無でありその限りで空間そのものは有に満たされたかの如くに見える空無(非在)と非関係的並存しているところの有であり、変化をベースにすれば時間という変化と推移と平行して流れるものに対する非在イデアは、空間とはやはり非関係である。というのも時間の非在イデアはただ単に変化するということを要請するだけで、全く空間を必要とするとは限らない。その証拠に我々の心的様相はただじっとしていても一分、一秒たりとも同一ではない。しかしその変化は空間によって齎されたものでもない。
過去も実際にそこにあるわけではない。あるのは言語として機能する過去に対する思念「昨日奴と一緒に酒を飲んだ。」とか「車で出掛けた富士山の景色は綺麗だった。」というようなことである。ちょっと言語学的なことを言うと「酒を止めた。」と言う場合、その酒にはビールもウィスキーも焼酎もワインも入る。しかし飲み屋で「お酒」とある場合、それは日本酒のことである。勿論日本酒と書いてある場合の方が多いが。また車と言うと通常日常生活においては自動車、並びに自家用車のことを指す。しかし車とは概念的には車輪一般を指す。このように慣用性と概念規定(辞書で調べてまず第一項に書いてあること)とはこのように異なっている。それはなぜか?省略があるということである。省略が日常性において果たす慣用的役割は大きい。このように我々は自然をも実は省略して自分たちにとって必要なことだけを最も重要なこととして捉え、後の部分(その方がずっと大きいのに)は大胆に見過ごしているのが我々の生の実態なのである。そして記憶もまた我々は積極的に不必要と思われる部分(その方がずっと大きい。)を大胆に忘却して生活しているのである。過去は最早ないものである。最早戻れないものである。だからそれについて語る時必要とされるのは過去像と記憶像だけである。だから過去想起は必要なもの以外は一切忘却されていることが前提しているのだ。しかしその忘却部分は想像力で補っている。大体こんな風であったというような構築である。サルトルはこの想像力を大変重要視した。それはカントの言った構想力というのにも似ている。過去のように見えるものは過去の痕跡であり、言語(それがある種絶対的な慣用である限り)もまたそういったものの一つである。言語は今そこにあるようなものではない。その意味では非在イデアの最たるものである。言語は全て記憶に基づいた過去像をモデルにしている。林檎を見て林檎と呼ぶのはその林檎の前に別の林檎を見ていたことの証拠であり、最初に語彙「林檎」を学習する時でも子供は大概親に「これなんて言うの?」と質問して親から「林檎って言うんだよ。」と教えられる。あるいは両親の会話から勝手に盗む。そして今までよく見かけたものを林檎であると認知する。語彙、名称、名詞、あるいは動的現実を概念規定する動詞も叙述限定を行う形容詞も皆過去の映像記憶、機能論的意味記憶によって過去の出来事を集計したデータを下にした認識をベースにしている。
私たちは言語で実存を表現しそのことで実存と拮抗しようと欲する。しかし実存は表現したと思った瞬間あらゆる未知の要素を情報として私たちに提供する。必ず表現した言辞や陳述や述定から漏れる要素が残される。ここで言語の無力さへの自覚を誰しも経験している筈である。
時間は空間のようには分割出来ない。だからこそベルグソンは「純粋持続」と呼ぶ時間性質を表現したのだ。一時間たった瞬間その時既に一時間何秒かは経過している。このようにある一瞬が常に自覚出来ないほどの脆さを持っているそういう性格をデリダは「差延」と呼んだ。しかも一瞬というものはまるで無限の深度を持っているかのようにあくまでも概念上でしか存在し得ないような意味での覚知不可能性を有している。一時間何分何秒何ミリ秒と言う風に無限の間隙を表示する時間の秩序は知覚不能様相である。一時間前のことも全て痕跡としてしか我々の脳裏には示されない。最早確認する術はないのである。つまり私たちは一時間を一平方メートルのようには知覚出来ないのである。一時間を過ごすことは出来るが一瞬で全てを知覚出来る空間的な事態とはそこが違うのである。時間とはだから認識的な方便でしかないのである。確認不能な実体(?)なのである。それはあらゆる事象的変化の諸相を網の目のように覆い尽くそうとする私たちの欲望が躍起になって摑まえようとするのにそこから常にするりと抜け落ちてゆくような事態のことなのである。
だからこそ我々は変化的諸相を段階的にカテゴリー化するのである。そうすることによって初めて私たちは過去を再生されるVTRやDVDの映像の如く鮮明に思い描くことが可能となるのである。一挙に知覚出来ないことを概念的に段階的出来事として、ある時は因果論的に捉えることをすら可能にしながら記憶のアリアドネ性(「時間論_原音楽の彼方に」を参照されたし。)を引用しながら想起する為の方便が時間なのである。
知覚は現に今起こりつつあることへの空間的把握に他ならず、それは動的変化を空間の中で捉えようと欲する意識のナルッキソス性によるものなのだ。そして未来予知とは寧ろネガティヴで不吉なことによって明確化することが多く、それを未然に防止しようと欲する意識によって産出される。そして現在において過去像を手掛かりに不吉なことも含めて未来予持するライウス性をも意識はその意志的動力源として携えている。そして時間的過去把握や未来予知は変化諸相への言語的アプローチの産物に他ならない。
そうである。時間は言語というものの誕生と共に生み出されたものなのである。そしてそれは人間が永遠の生命を持っていなかったからである。そしてそのことが私たちをしてあらゆる実存意味を付与することを促した。実存のあらゆる諸相が語り掛けてくるものを真実と受け取りそこに何らかの意味を見出す。それは脈々と受け継がれてきた人間の思考的慣習である。(人間一個の生命は自然からすればとるに足らないものである。人間種が絶滅するか否かさえそうなのだから、それを尊いとすることさえ人間の勝手な都合でしかない。)
サルトルは「嘔吐」でこれを一刀両断にする。実存に意味を付与するのはあくまで人間の勝手な都合でしかないのである。意味は言語が運用された上で必要不可欠のものと捉えられてきた。何物かを名指すということはそういうことではないのか、と。しかしそれは違うと思われる。言語は意味を運搬するものであるよりは、対話することそのもの(意味は対話することによって見出されるのなら、その時初めて登場するようなものであってもよい。勿論思念上であっても思惟上であってもあるいは記述上であっても同様である。)において確かめられる程度のものであって(たとえ確かめられなくても)よい。私たちが挨拶したりキスしたり抱擁したりすることに何か意味がなければならないだろうか?それと同じことではないだろうか。
名指していることの形をとる名詞はそれ自体ではその名の示す概念の指示以外の何も示してはおらず動詞もこの動作陳述以外の何も示してはいない。語っている者にとっての興奮はだから言辞自体が如何に大袈裟であっても意味作用的には語られた語彙の組み合わせ自体の秩序以外何物も伝えはしない。
「橋を渡った。」という文は話者が主語を省略して橋という概念を話者と対話手とが共通して有しつつ、共同体内の約束事として信じる(慣用的に)ものを「渡った」という過去の事実に対する述定以外に別にそれ自体意味といった意味はない。そのように対話手に語るところの話者の意思とかそういったことを内面的推測においてア・ポステリオリに私たち自身が勝手に見出そうとするだけである。それはそう語る話者の「その時の実存がある」、という事実以外の何を付与してもそれは自由だが、意味付与をはじめ、そういった解釈の問題であって、彼がそう語ったという実存は何も変わりはしない。そして彼が語った過去における橋を渡る行為そのものの実存と、後にそのことについて触れた実存は実は何のかかわりもないことであり(ただ単に想起してそのことに触れたに過ぎない。)全く別々の実存の場面に過ぎない。ましてや何も後にそう語る為に彼はある橋を渡ったのではなく、あくまで後日別の実存の場面(局面)において近い過去(遠い過去でもよい。)の実存についての述定をなしているだけのことである。にもかかわらずその因果的な性格を巡って常に堂々巡りの論争を繰り広げてきたのが哲学史の一面である。(ヒューム→カント→ベルグソン→ウィトゲンシュタイン)サルトルは本質からの訣別において実存の唯一的優位を語った。そしてそれは実存と非在イデアとの非関係をもう一つの現実として浮かび上がらせる。
実存はカントが論じた物自体とも重なるし、それはとりもなおさずその客観的事物の現象をも生じさせるところの全てである。それは空間も含めあらゆる変化的諸相がそれ自体として息衝いている現在の事象の全てである。それは現在決定的にそこにあるということの強度である。だからこそ実存は意識と覚醒を重要な柱とするのだ。実存の意識を持つことが人間が自己同一性を得ることのア・プリオリな条件である。これがなく常に無意識であり、非覚醒状態であったなら、その人間は半死状態、半生状態でしかない。
「私は~という名の一個の人間である。」という意識は同時に今のこの空間と事物とその変化諸相に取り囲まれ一個の存在者(理性的か否かを問わず)として存在しているという紛れも無い生命の諸瞬間が一個の生を生きる存在者(ハイデッガー的であるが)として実存の只中に自覚されるという事実こそが自我というものの正体に躍起になってきた幾多の哲学者たちの問いをすら産出してきたことなのだ。紛れも無く<実存に対する意識>が哲学者たちが自我と呼んだ自己同一性の中での他者(実存という他者も考えられる。)に対して自己を意識出来るところの心の在り様を決定しているわけである。
そして自分を一個の存在者として名指すところの条件として言語がア・プリオリに実存に対して差し向けられている。それは実存を実存として認識する為のア・プリオリの条件として。実存を表現し切れない無力を自覚しつつ実存を裏切ることになるにもかかわらず。
しかし事物が事物として存在しなくても空間は空間としてそれでも存在し続けているだろうか?というより空間なるものとして存在し得るだろうか?非在の空間として。
ところが事物は現に存在している。事物が存在しているからこそ移動、運動が可能なのだ。空間があるから移動が可能であり運動が可能であるばかりか、まず事物があるからこそ移動や運動が可能なのだ。そして事物の移動や運動があるからこそ時間が生じる。時間があるからこそ動的変化があるのである。時間のない動的変化というものがあり得るであろうか?恐らくないであろう。実存とはこの両者を切っても切れないものとする現実のことを言うのである。そして実存の端々で私たちは言語の無力さを悟りながら、意味と論理に満ちた(と捉えることなしには把握出来ない。)実存に対して自己同一的確認において為される言語化は、刻々着々と経過しつつある無意味な時間への無時間化、我々の生に対する意味(意義)化に他ならない。
言語活動は実存の中で生における一つの実存の場面において生の意義を見出すことを他者と共有する自己の本能的な創造、語らいと文章を通して「語ること」を産出することで超越的実存としての言語の正体を見出さざるを得ない行為である。言語はしかし実存の実存とのその場その場での邂逅の持つレアリテ、リアリティーを覆い尽くすことは出来ない。語らいの生における意義は実存の強度を抵抗しようともし切れないディレンマとカントの「判断力批判」の崇高に対する人間の美的判断にも共通する万人に共通した感動を共有し合えることの共同体内の確認と、そう願う自我において自己を見出そうとする成員間の賜物である。
よって言語は実存を覆いつくせないにもかかわらず実存を益々裏切り(意志的発動)言語が実存を表現することが出来るものとして共同体内に機能せんと欲するし、かつそういうものとして我々は言語を捉える。あるいは捉えたいのだ。
例えば名詞も動詞も個々の個別性、唯一性に対する表現しきれなさを知りながら一つ一つの出会いを既知のこととして処理することを促すように平坦に個別性をカテゴリーとして位置づける。一人一人の顔は異なっているが、顔はただの顔でしかないし、一人一人の語らいは皆独自のものだが、語らうこと、語ることという事実の名の下に一括してカテゴライズする。
形容詞でさえ、美しい、綺麗ということは一人一人異なっているのにもかかわらず人の心を魅了するという質的な違いより、その事実性で一括して通り一片の表現しか生じさせない。観念の呪縛である。観念は一括した事実認定において個別性を末梢する。個別性の末梢はやがて言語を実存に対して横柄にする。傲慢にする。
同じあなたであっても昨日のあなたと今日のあなたは違う。なのに同じ人格としてあなたとして捉えない限り、あなたと私の属している共同体ではその言語活動を糧に生活することは出来ない。同一性認定が法を生む。
昨日の君が法を犯したのであり、今日の君はイノセントだ、とは言えないのである。
川に掛けられた橋はいかなる形状の下であろうと全て同じ社会的機能として一括して橋でしかない。インフラという名で橋は観念上で個別性を剥奪される。
しかし実存は個別的であり、レアルであり、あらゆる状況において一回的である。まるで生における全ての瞬間が全く異なった状況(心理的、生理的全ての)や質において一回的であるように_。
ここに実存と言語の齟齬が生じる第一の理由がある。にもかかわらず言語はその語らいという活動において実存の場面として実存に癒着しようと欲するのだし、かつ巧みに潜り込む。言語が実存を裏切りながらも実存の一場面として振舞うその仕方が共同体の存立基盤となっているのである。
ここで非在イデアについて述べておこう。本来関係なるものAとBとのかかわり合いは、Aが原因でBが結果でも、その逆でも、あるいは互いが互いの結合であったり、分裂であったり(前者がAとBが結合しCになり、後者はCがAとBに分裂)しても、それはその事実にこそ真実があり、AとBそれ自身は結合や分裂という事実に依拠しているに過ぎず、AやB自身が因果として作用しているわけではない。とするとAやBを俯瞰し、定義上結合したり、分裂したりさせる存在者が要求されよう。AやBの動的質的変化及び転換それ自体を関係性(そもそも何らかの集合体をAとかBとか措定すること自体恣意的なことでしかない。)と捉えるということの内に既に因果律としての物の見方が採用されている。しかもAやB自体の関係のみならず何らかの集合体同士の結び付きや別れを、AとかBとか捉える存在者と捉えられたもの同士の関係も全て実際に物理的現象として関係が存在するのではなく、あくまで一つの見え方、一つの捉え方として実存に対してア・ポステリオリに規定し得る、その可能性を捜したり、見出したりしているに過ぎない。その見方、捉え方は別の局面では全く別の再定義を要求され得るし、あるいはそれに取って代わることも充分あるので恣意的なものに過ぎない。これら一切の関係を実存(結合や分裂及びそれを結合や分裂と私たちが名指すところの動的質的状態の変化、変容)に対する見(え)方、捉え方を非在のイデアと私は呼んでいる。
そして言語自体が実存に対して非在のイデアであり、かつそれでいて言語を育む私たちの考え方の存在そのものというかたちで実存の中の一場面に常に潜り込む言語の自らの立ち現れ方は巧みとしか言いようがない。しかし言語それ自体は全実存に対して非在のイデアであり、非在のイデアを産出し続ける私たち自身と言語の関係もそうであるが、少なくとも実存(私たちの日常全てを支配しるところの)に日々接している私たち自身と実存の関係と私たちと言語の関係は同じ様相の非在のイデアと見做し得る。なぜなら言語とは、私たち自身と実存との(私たち自身が実存の一部として存在し、実存を構成することをも他の一切の事物たちと担っているにもかかわらず)関係の像だからである。そうして築き上げられた実存は私たち自身より遥かにメジャーだし、言語は本来私たち自身の捏造だが、それ自身実存秩序を引き受け一人立ちし、もう一つの実存として私たちの前に立ちはだかる。してみると私たち自身と実存との関係と、私たち自身と言語の関係は相同であるし、かつそれら一切を実存の中の場面と捉えるなら、私たち自身と元は私たちが作った(これも実は疑う余地ありであるが)筈の言語との関係は、即ち「私たちと実存の関係」の中の一場面という風にも捉えられる。
私たち自身←→実存
↑像
私たち自身←→言語
私たち自身と実存を分けて捉える考え方と
私たち自身も実存の一部と捉える考え方が
成立し得る。
上図を手掛かりに少し解析してみようと思う。まず実存とは存在論的な認識である。それは言語を操る我々自身の日常や自然に相対する、その中で苦闘する我々自身の姿も含む。現実と言い換えてもいいかも知れない。しかしただの現実と違うのはその現実に生きる我々の思念上で我々自身の存在とかかわる自然や社会、言語といった様々なレヴェルの様々な質の大きな現実と我々の存在との関係、その関係の中から我々自身を見つめることが出来ると実感出来る現実の総体であることだ。ハイデッガーやサルトルはそのようなものとして実存を捉えたのではないか、と私は考える。そこで実存と言語の関係を考えてみよう。現実に我々は我々自身を取り巻く現実をそれが自然であれ、社会であれ、言語自体であれそれを語彙に置換して表現する活動において様々な存在規定をしてきた。それが一つは言語である。木々を見て「木」と名付け、社会にとって重要な人間の活動を「政治」とか「経済」とか名付けてきた。そして言語活動自体を考え「文法」とか「意味」とか「音韻」とか名付けてきた。言語はそういう意味では実存の鏡でもある。だが実存と実際の自然や社会には齟齬もある。自然には我々の預かり知れない部分が多くあるし、社会にももう一つの自然の如く我々には解決不能の数々の問題がある。それらは依然不可知領域である。また言語自体もその解明には程遠い。すると自然も社会も言語も総じて実存であるなら、上図で示した言語とは脳内での言語的な思考、つまり言語的思考内容のこととなる。そしてこれにはある傾向性がある。こういう風に考えがちであるという傾向である。そこに当て嵌めて我々は自然を見る。社会を見る。言語自体を見る。「神」という概念もまた人間に固有の考えがちなことの代表である。人間の思考内容といってもよい。「死」もそうだし、「生」もそうである。あるいは「幸福」もそうだし、「愛」もそうである。これらは通常の意味での形がない。というより表わし難い。実際に「木」を木であるとする規定にも実は人間が自然科学的な分類学に則って考え出したカテゴリー認識に過ぎないのであって、木であるか葉であるか草であるか判然としないような種類のものもあるのかも知れない。あるいは実際に人間が「木」と規定しているものが絶対正しいとも言い切れない。自然には人間が木と考えるよりももっと何か別の事情によって木とも葉とも草とも区別がつかないようなものを創造されているかも知れないのだ。ただ我々は我々の知り得る自然のシステムの範囲で、例えば今我々が目にするある木を「木」と呼ぶに過ぎない。
言語自体も恐らく言語が我々によって使用されてから言語を「文法」とか「意味」という風に分析したのに違いない。というのも言語を学習する際にそれをまず文法のシステム自体から覚えさせるということは臨界期をとうに過ぎた思春期以降の境界人か大人が外国語を習得する際の方便であって、我々が母国語を習得する際には実際には具体的な使用を親その他から聞き自然と慣用的に学習していったであろうからである。そしてそれは言語使用における初期人類とて同じことで、その意味では「文法」や「意味」といった語彙の誕生は「木」よりは後の筈である。まず生活において不可欠のものから順に学習されてゆく我々自身の習得過程同様、人類もまたそのように例えば人間関係においては親、子、親戚というような我々自身が自己、自分に近い範囲から習得するように人類自体もそのような最も日常的使用頻度の大きいものから語彙は創造されていったであろうことは容易に想像される。抽象的な語彙はその後である。だから「他人」とか「他者」とかは明らかに「親」や「子」よりは後的な語彙であると思われる。(?)まず基本として社会とはあらゆる家族の複合体であるから、人類史がまず共産主義において出発したのでない限り、社会の基本要素は家族である筈である。だから逆に「親」や「子」その次に「兄弟」、「姉妹」といった最も基本的な語彙は自然を表現する語彙に最も隣接した語彙である。それらは「空」や「川」、「土」、「海」、「山」といったものと同時的なものである。しかし人間は不可避的に社会とかかわるように出来ているので、次の段階において実存は社会を要求する。その最も基本的な概念こそ「他人」であり「他者」である。「友」はそれと付帯的に考え出された概念であろう。しかし難しいのは「愛」である。しかし恐らくこれは抽象的であるから「他人」よりも言語活動が進化した段階で出てきたものであろう。というのも「愛」は基本的には家族から生じるものだが、他者との間でも共同体においても国家においても存在し得る。「故郷を愛する」とか「愛国心」とか。だからこれらは言語自体の「意味」や「文法」といった語彙誕生の際に同時的に生み出されたと考えるのが最も順当ではなかろうか?というのも我々は抽象的に「愛」を知るのではなく、日常的な実存である家族との生活の中から具体的な愛の仕種や感情表現を知るのであり、その後にそのような現実自体を総体的な実存として認識する際に我々は初めてそういった日常の感情を「愛」と規定するからである。だから「愛」は「実存」や「言語」や「像」に近いものである。
「像」とは何か?それは実存の様々なレヴェル、質においてそれを語彙に置換する際に我々が持つ現実、現象、事象に対して抱く表象であると言えよう。それを手掛かりに我々は言語的な思考を持つのだ。だからそれは実存と我々がその実存の中で思考する為の媒介であると言えよう。像こそ、あるいは心像、表象と言い換えてもいいものこそ、概念的には実存と言語の境界に位置するのだ。我々はこれなくして実存を実存として、あるいは言語を言語として認識することさえ出来ない。これをカントはカテゴリーとか構想力というもので表現したし、サルトルは想像力というもので表現した。
しかし像とはある意味では個別具体的な映像想起やニュアンス想起を阻むような極一般的なカテゴリーしか喚起させない。言語とは一面ではその言語が通用する共同体成員全員の総意として一つの名指された対象に対する共通了解事項としての語彙形成によって成立しているその都度の語彙選択行為によって支えられているのであるから、その意味では「猫」はただ「猫」であり、『ネコ目、ネコ科』というような生物学的分類による専門学的カテゴリーや学名でもなければ、ある種の神話や文学的創作上の別名でもない。それはネコ一般である。猫に纏わる外延全てを一語で「猫」として省略して、全ての猫に共通した言語共同体が規定する常識性に照らし合わせて具体的記述、形容(その猫について語る話者にとって猫<猫一般>が嫌いな人であるか、猫を飼っていて、人間の固有性同様の愛着を持って語るかというような相違は大きいが、その際の形容にも愛着の差には形容自体の具体性にも差が出る、当然愛着を持っている場合にはより個別具体的で詳細な形容となり得る。)の省略の下、情報伝達機能という俎板に、あるものを只一つの「猫」という語で代表させることで個別具体性へと即座に対話内容が移行することを未然に防止しているのである。その先にまで対話内容が進行するか否かは、話者が語る猫についての話題(猫が好きな者同士の場合が多いだろうが、逆に嫌いな動物について反感の同意を求める場合もあるであろう。)が進化してゆくべきものあるか否かは、聴者がその猫に対して話者同様の関心があるか否かがキーとなり、話者が「猫のことなんだけどさあ。」と切り出した場合、その先を話者に続けて欲しければ聴者は「猫がどうしたの?」とか話者がある特定の猫について「うちの近所の猫のことなんだけどさあ。」と語ろうとしている場合には「その猫はどんな風なの?」と聞くことによってそれ以上の猫の叙述に進化が可能性として付与されるのだ。話者がある一般的な語彙選択によってある概念を提出した場合、それ以上その概念によって指示される対象に関心があれば、個別具体的な事項を聞き出せばよいという寸法である。しかし猫の話を切り出した時点ではその話者にとって聴者が自分同様に猫に関心があるか否かはまだ判然としていないのであるから、猫一般をまず話題設定しているのである。だから聴者が猫にはあまり興味がなく、犬に興味があり、話者もそれに同様の関心があれば犬の話題へと移行して差し支えなく、逆に話者が猫は好きなのに、犬は嫌いである場合は話題を180度転換する必要性が生じてくるのである。よって話者にとっての猫の実存は実存に対する綿密な描写まで話題として提出してよいものかどうかが、猫一般をまず指示すことで聴者へと打診されているのである。だからこそ猫について詳細を語り合いたい話者にとっては心的には綿密な実存描写が控えていても、まず聴者がそのことに関して同様の関心を抱けるかどうかという判断を話者が得たい為にまず猫一般から設定するということが意思疎通の第一段階の秩序として話者、聴者双方にとって認識されるのである。それは常識的了解事項としての猫なのである。だから聴者が猫一般に関心があると了解されれば、即ある特殊な猫の叙述へと移行し、「うちで飼う猫の体毛と模様が変わっていてねえ。」とかいう風な内容になるのである。それは言語が実存に対してあくまで非在のイデアである証拠なのである。故にこそ、実存としての猫の圧倒的な個別具体的な決定的なる存在感、現実感はどんなに形容しても実際にその猫を聴者に見せるまでは聴者にはそのままの形では伝わらず、実存を言語が覆い尽くすことなど出来はしない。だから大概聴者はその猫を実際に見せられる段になると「猫って言うからもっと全然違うイメージを抱いていたわ。」とか言う風になるのである。言語はここでも実存を裏切りつつ自らの都合で暴走し得るような力を示すのである。それでいてちゃっかり実存の一場面へといつでも気軽に加担し得るような出しゃばり者なのである。しかしこの出しゃばり者抜きで生きて行ける存在者など一人もいはしないのだ。そして言語は実存において自己を見出すと同時に存在者の内部でも一人歩きをし始めるのだ。そして言語が実存に対して言語自体の自己を見出すことと、存在者の内部で一人歩きし始めるこの中に他者及び、共同体という概念をア・ポステリオリに介在させることとなり、それはア・ポステリオリに見出されるア・プリオリなのである。
最後に実存が時間というものに大きくかかわっているのだ、ということを考え、同時にそれは空間にもかかわりがあるということをも考えてみよう。
哲学は生がある限り問われ続けられるものであると思われるが、時間と対抗するものとしての生がある時間的な経済と精神的な無常観が問うことを位置づけてきた。ある限られた時間の中で生きるのなら時間など問うことなく問わずに生きれば一番良いのかも知れない。にもかかわらず時間自体を問うということはブルースを聴かずしてブルースを論じるようなものであるのに、哲学はこれを延々やってきた。本来時間は意識とか自我とか個別的なものから問われるべきものであるのなら、哲学よりもまず言語学から問われねばならない態のものであった筈であろう。しかし言語学は時間をあまり積極的に問わずにきた。過去の事実は我々の手によって過去化され真実化される。中島義道の言葉を借りれば、「過去は意味は変わらないが内容は変わる」ものだとすれば、ある種の事後的な辻褄合わせは常に我々の日常に散見される。幼児が殺害されると決まって「明るい元気で活発な子でした。」と報じられ、また不測の列車事故や飛行機事故で亡くなった人を「仕事に積極的で真面目な勤務態度の周囲の皆から好かれる人でした。」と報じられる。では一体明るく元気でない子が殺害されたら、気の毒ではないのだろうか?周囲から好かれていない人が亡くなったら気の毒ではないのだろうか?と思わず言いたくなるほどの後付け的報道の辻褄合わせ的な意味論こそ我々が日々目にする我々自身の過去事実の意味づけ作用である。これらは言語自体、つまりどのような言及でも未来へ向けられた意思表示や行為遂行的発言を除く殆どが過去の事実の事後的な報告によって成立しているからである。だから逆に過去の事実に関する叙述ではない未来へ向けられた意思表示でさえ、過去の事実に起因した意志なのである。「私はこの人を妻とします。」という結婚式での行為遂行的発言は「今までは独身でした。しかしこれからは違います。」という一つの過去における在り方から決別し、これからはこうするという未来に対する述定なのである。
では空間というものとは一体何なのだろう?時間はA地点からD地点へと移動する時、途中でB地点あるいは事物、C地点あるいは事物と遭遇し、かつD地点からA地点へと戻る時同じルートを通る時逆にC、Bという順序で通過するなら必然的に動く主体は移動しているが、途中のBやCは移動していない、つまり不動であるということとなり、しかも必ず順序としてBの次にC、帰りはCの次にBという風に経過し得るのならそこに推移というもの、つまり時間が認められることとなる。そして空間とはある二つの異なった地点や事物が同一の場所には存在し得ないということ、そしてそれらは移動に時間がかかるということにおいてその存在が少なくとも拡がりという意味においては証明されよう。しかし時間と空間が相互に規定し合っているかというとそれは疑問である。我々自身が空間内を移動する際に時間を要するということだけである。しかももう一つの時間の定義では変化が起きるということである。それは主体(見る、観察する)が認知し得る変化が体験的に推移の中で行われ得ることを認知し得ることによって証明される。事物間に全くの変化のない空間があったとしたら、それは悠久の時が仮に経過し得たとしても一瞬よりも短くても何ら差し支えないこととなる。変化とは位置的、質的、形状、生死といったことによって判定し得る。変化がないということは言い換えれば事物も生命もないということをある意味では意味する。つまり端的に言えば生命体を含めた事物はどんなに変化ののろいものであってさえ、徐々に変化してゆく、いつか最初にあった(この最初という観念は難しいのであるが、どのようなものでもその事物が存在し得たその前の状態、机であれば加工される前の木とかガラスとかがあることとなるのでそのことを意味させた。)状態からは離脱する。つまりこの変化を保証するものが時間である。そしてその変化を体現させる場が空間である。ここで初めて空間と時間が共同しあっているように見える。しかしこれも我々がその変化を目撃し得る限りでの話しなのである。その変化を目撃し体験し得る我々がそれを認知し、脳内で変化を規定し得るものは言語であろう。事物は変化してゆくことに同意しているし、事物は空間に存在し、変化という全事象へ加担することで実存そのものであると言明しているのだから、その変化を立ち会う我々自身の認識が言語でなされる以上、言語は空間の中で我々によって認知される空間の劇場化宣言と変化への同意と加担の中で私たち存在者自身の実存の中から全実存を少なくとも認識の上では(我々の与り知らぬ実存があるであろうと我々は予測出来る。)我々自身の実存(その全てを我々自身でさえ与り知らぬ。)をも実存の一部を構成する登場人物として認可しながら他の事物たちと競演することを自らに言い聞かせながら、存在者同士の連帯と協調の中でそれを自らの行動の水先案内人とすることで存在者同士を共同体の成員(例えば地球上のあらゆる人間以外の生物は皆地球という惑星における成員である。)として位置づけながら、それをそういった認識の糧とすべく利用するのである。しかも極めて日常的に、慣習化しながら、ある特定の逃れることの出来ない相棒として。そして言語的思考は「我々自身」の大いなる実存でありながらも、一向に空間自体には影響を与えない。それは我々の思惟や思考や反省それ自体は一向にそれらに影響を与えないのと同じである。それはそれらが時間にも全く影響を与えないのと同様である。それが反空間的、反時間的なものという性質を新たにここで言語、思考、思惟に付与することとなるのだ。それは我々が自然秩序の中で右往左往して生きているのに、同時に極めて反自然的な言語的存在として生きているということ、言語の内容、意志、意図からは決してそれを自然の一部と認識し得ない余剰を認知している。この一動物であり、生物学的存在でありながら、言語を通してそこから極端に逸脱する非生物学的存在である我々自身の両義性こそが最も厄介な代物なのである。それでいて肉体的存在、身体的存在としていつかは消滅するのが人間の運命である。
我々がどのような個人であろうともいつかは死してその肉体を消滅させる存在であるのはいかなる理由によるものか?それを端的に物語ることとして空間の側の事情があると思われる。それは全ての生命体が永遠に存在し続ければ、その為に払われる全エネルギーというものは多大のものになり、それを顕現させる為のコストは例えば全地球レヴェルでも甚大なものになり得る他はない。加えて空間がそこで全て一回誕生してきた生物種によって占有されて一杯になる前に遺伝子を持って子孫を繁栄させる代わりに個体はある時期を持って退場させるような摂理を自然が選択したのであろう。各生物種同士の空間専有性を巡る衝突を最低限に制御する方策として個体の死滅というものを自然が選択したのであろう。しかしひょっとするとこの生命体の死滅のシステムこそがある種宇宙空間そのものの有限性を証明しさえするかも知れないと私には思われるのである。しかしそのことに関して本章ではまだ触れずに置こう。一個体がいつかは死滅する分析的な事態において我々はDNAレヴェルから運命付けられた生の経済において想像力や想起、あるいは構想力において無限性、非有限性を付与されている。限度ある生理的な能力がそれを超えた可能性への希求を心的にも概念設定可能性としても我々に付与されていると考えることは的を得ているように思われる。だからこそ全ての概念が対象とそれに対して規定された観念の呪縛を必然的に運命付けられているとしたら、我々はその呪縛を相互に受容していることの運命共同体においてその言語思考的な意味においても個的レヴェルから加担を表明すべく内的には無限な思考を施し、無限の可能性を思惟する自由を享受するのである。そして遺伝子において死滅する全個体が能力と可能性に関しては遺伝子において子孫も存続し得るように言語活動という能力もまた遺伝子を通して子孫へと受け継がれてゆくのである。そしてその受け継いだ身体生理的、大脳思考的遺産を受け継いでいることを言語活動への加担と内的、心的思念性において我々はその都度同意しつつ表明しているのである。
Wednesday, April 27, 2011
Sunday, January 16, 2011
A言語のメカニズム 25、カテゴリーと階層性
前章で川と橋がごっちゃになっているようなことを「語性錯誤」と言うが、これらは我々が心的にまずカオスを抱いて、そこから一個の語彙を選択していることを表わしているが、カオスとはその範囲が明確でないだけであり、実際ヘッド、ヤコブソンの例からは食事に纏わる事項であったり、そこから一個の表示すべき語彙選択を我々がしていることが判明するが、そういった具体的な行為に関する事項が、語彙集合となっているのなら、それらはその集合の境界(別集合との相関性という意味での)とか範疇となるとなるほど幾分カオスなだけのことはあるものの、どこか厳密ではないが、緩いカテゴリー的認識(漠然とした集合)は確かに存在するのではないか?
カオスというもう一つの秩序によって心的には外部世界の全てを選択して認識し、必要なものののみを記憶しようとする目論見は、知覚作用においては、人間が確率論という数学分野を実際は心的に、つまり脳内に介在させてきている無意識的な思考能力が、障害によって意識的には認識されないものを数学者の手によって数式的秩序で甦っただけのものである、というその一事を持って証明されよう。その確率論的秩序は付随意的には全ての生命体が、個々の事情に従って個的なものではあるが、本能的に知覚作用とか刺激に対する反応とかの方程式を持っており、我々もまた、すべてのものを等価に知覚し、認識し得ないという潜在的には誰しもが知り得る事情に従って知覚し、記憶すべき事項とそうでないものを瞬時に峻別している。そこにはある種の階層性がある。身体生理学的にはカスケードと呼ばれるような蛋白質の制御システムにも当然のことながら認められる。例えば霊長類の視覚システムにおいて、「いかなる神経細胞も、受容野中心に当たる小さなスポットに対してはすみやかに反応(発火)するが、受容野全体に広がって当たる光に対しては、ほとんど反応しないということだ。網膜はこのようにして、目に入ってくる視覚情報のなかから余分な情報を消し去っているということだ。つまり、脳に送りこまれる情報は視覚のなかでも興味ある_光の分布が均一でない_部分についての情報であって、変化にとぼしい部分は、おおむね無視されることになる。」(フランシス・クリック著「DNAに魂はあるか_驚異の仮説」(The Astinishing Hypothesis)
我々がこういったある偏りをもって全ての外部世界に接しているのは、確率論的にすべての外部世界を等価に知覚、認識していては一個体の生命の維持出来る時間を遙か越えてしまうということを身体上のホメオスタシスが恐らくDNAレヴェルからその漠然としてではあるが、後退を指令させるべく数値情報を我々の抑制系の各機関、各遺伝子、ホルモン、蛋白質、細胞に伝達しているからではなかろうか?
例えば我々はある事物、例えばそれが自動車であったとしよう。我々は今目の前に駐車した自動車がドライバーの手によって運転され去っていくことは認められ、その時視覚情報のみではなく、当然のことながら聴覚情報としてエンジンの音やら、排気システムの音とかを知覚しているが、我々がその車が遙か一キロ先にまで消えゆくのを認められるような状況のランドスケープに立っているのなら、一キロ先に徐々に小さくなってはいるものの視界にははっきりと認められる自動車の音は最早知覚され得まい。ということは我々は漠然と自動車の視覚映像と聴覚音とを同時に認知し、統合して一つの出来事として車の発進を認識しているにもかかわらず、明らかに視覚と聴覚のシステムは別個のもので、それらは能力的には階層性を持ち(当然のことながらヒトは視覚能力は他の哺乳類よりも優れているが、聴覚や嗅覚は劣っている<勿論そうでない動物もいるが>ということもあるわけである。)、それらは本質的には別個で独立した能力であるにもかかわらず、統合、統覚している、勿論大脳においてだが、そういうことになる。カントの言っていたことは正しかった、と言える。
言語もまたチョムスキーの考えを待たずして、学習だけではなくア・プリオリな能力として我々に具わっていて、環境的外部要因(教育とか家族の人間関係とか)によって発現されているわけである。そして言語にもまた階層性が存在する。
ところで何度か触れたが、生命を偶然と看做すか、必然と看做すかという問題は過去から現在までも延々繰り返し論じられてきた普遍的論争であり、語理論と経験論による普遍論争にも匹敵する問いであると思われるが、マイケル・J・ベーエは自著「ダーウィンのブラックボックス」において、ダーウィンの自然選択という概念では、この生命秩序における複雑系を証明することは出来ないとし、ダーウィンの思想を出発点とするドーキンスをも批判対象とし、ダーウィニズムの後継者でありながら、エルドリッジやグールドは自然選択以外のメカニズム(それを彼等はウィルスの増殖とか特有の当然変異で説明しようとしているが、筆者にはそれはダーウィン理論の誤読にしか思えない。)で説明しようとする姿勢に半分共鳴してもいるものの、創造説に近いものを感じるというような発言を、その本の翻訳者の一人長野敬すらもしている。ここでベーエの考え方(「ダーウィンの自然選択のメカニズムは、現実には、血液凝固カスケードのような単純化できない複雑系の形成を妨げるはずだ。」<長野敬+野村尚子訳、青土社刊139ページより>に端的に示されている。)自体をどうのこうのと批評することは差し控えるが、ここでベーエ自身も唱えているところのダーウィンの自然選択とは一体何かと、考えてみるとエルドリッジ、グールド、ベーエに共通するのは、何か必然的な説明を求めているということであろう。この考え方は古くは合理論的、あるいはある意味、あの不完全定理や神の存在論で有名なゲーデル的な認識論にもどこかで通じる。しかしダーウィンの自然選択とは、筆者の考えるところ、選択基準というものに偶然性を認める限りで有効である(ダーウィンはそういう謂いを使用してはいないが)と言えよう。なぜならダーウィンはウィトシュタインが「語り得ぬことには沈黙せねばならない」というかの有名な「論考」最終章の考えを地で行った学者でもあったからである。だからその意味でベーエのダーウィン批判は「ダーウィンに神を期待した」認識ということとなる。ダーウィンが偉大な学者であったとしたら、安易な合理論的説明を避けたということを筆頭に挙げるべきではなかろうか?
ベーエの論述はドーリトルという血液凝固システムを中心とした複雑系専門の学者の業績を認めつつも、「ドーリトルが『血栓と止血』に載せた論文の読者は、血液凝固研究の指導者たちだということを忘れないようにしよう。彼らは最先端を知っているのである。それでもこの論文は、血液凝固の起源がどのように始まり、その後どう進化したかを、彼らに対して説明していな。物語を聞かせているだけである。血液凝固カスケードがどのように現れたかをほんのわずかでも知っている人は、地球上には誰もいないのが実情だ。」と言い、所謂創造説的視座を確かに仄めかしている。確かに我々は誰もその実情は知ることは出来ないかも知れない。しかし我々の言語は、日常言語(自然言語)たろうと、数学言語たろうと、物理学の言語たろうと、化学式や方程式の言語たろう(人工言語)と人間は無限性へも挑戦しながら、肉眼では捕らえきれないものを顕微鏡やナノテクの世界でのハイテクを使って認識してきたような意味で肉眼では捉えきれないものまで想像力の及ぶ範疇として、現実の事象としてきたのではなかったろうか?確かにまだまだ実際の進化上の謎は解明されていないし、また未来永劫明確な形では我々自身全ての謎を解明し得ない、ということもあろう。しかしそれでも誰も知らないという謂いで全てを反ダーウィニズムに結びつけるのなら、それがどんなに優れた論述であっても、言語行為の能力自体の懐疑となっている(本人は自覚的ではなかろうが)とは言えまいか?
少なくともベーエはその是非はともかく、偶然というものの存在理由を認めていないスタンスの論客ということになる。
では我々の身体生理学上の諸事情はヘーゲルが言うような意味での<必然であるということの偶然性>に依拠した諸判断、選択を執り行なっているのであろうか?知覚の階層性が指し示す重要度、緊密度の階層性の如き差別すらも必然的なものなのだろうか?それとも不随意である限りにおいて刺激に対する反応という諸瞬間毎の偶然が刺激‐反応という図式において必然的に対応している、ということなのだろうか?
そのことを考える上で遺伝子やゲノムの転写システムについて暫く考えてみよう。
自然は大元では偶然的事象と出来事に支配されながら、その偶然をしかし運用するシステム自体は必然的な法則性によって支えられ、個的生命体レヴェルでも個々の事象は逆に非法則的であるが、ホメオスタシスレヴェルでの身体生理学次元では法則的(モノーの謂いに従えば熱力学第二法則に忠実に)である。だから自然は、それは自然史、地球史と言い換えても同じことであるが、極めて偶然的要素によって連鎖されている(空間的にも、時間的にも)が、かといってまるっきり偶然的、非法則的であるわけでもなく、どこかで明確なる秩序を、そのことをモノーは合目的性と言っている(古生物学者のリチャード・フォーティーはグールドの言うような偶然性に対して、それを一面では認めつつも、法則的秩序の存在を強調している。)ものを持っているが、この合目的性は多くの哲学者たちを悩まし続けてきた命題でもある。カントもまたこの合目的性において合理論の継承と、合理論的常套性からの離脱を同時に試みて来た。ドーキンスも合目的性という言葉は明確に使用しているし、自然科学は大元の事実的認定においては幾ら偶然性を認知していても、その運用や展開上のプロセスそのものにおいては法則的必然性を厳然と認識している。そのことを念頭において遺伝子の幾多の悪戯のような非合目的性(生命体維持にとってはエネルギー・ロスと認識され得るのに、そういった無駄は常に介在する。)を俯瞰すると、我々はそういった無駄や非効率性そのものさえもが、巧妙に仕組まれた、言ってみれば「神からの試練」であることが了解される。
知覚がある対象を認識する時、我々は殆んど無意識の内に光の強度のような自動的な受容物にさえある選択を施して授受するものとそうでないもの(知覚しその存在を認知すべきでないもの)とを区分けしていることは、重要性における階層性と同時に生の経済、つまり特にその日の生活上に払われるエネルギーと、今現在の自己に潜在する肉体的精神的ポテンシャルによって成立する経済に鑑みて瞬時に判断し、これとこれのみを認知し、あとは切り捨てようという無意識の判断が働いている証拠であるが、遺伝子自体も時に、個体維持にとって不必要であるばかりか、お荷物にすらなる、あるいはもっと個体を危機に陥れることになる可能性すらある行為や、それこそハミルトンやドーキンスが唱えた利他的行動を行うことがある。その一つは生殖行動である。遺伝子は遺伝子自体で判断し、個体の事情を無視して暴走することもあるが、蛋白質や細胞も、それ自体で遺伝子の指令を一端は受け取るも、自己の都合で勝手に暴走し始めることがある。ところでなぜ我々は大脳の指令には何の疑問も持たずに、それを当然のこととして、遺伝子、蛋白質、細胞の意志は不遜なものと捉えるのであろうか?まるで遺伝子や蛋白質、細胞自体が意志を持つことは、大脳があまりに勝手な意志を持ち過ぎることが引き起こした罰である、とさえ考えたくなるほど我々は大脳による指令を当たり前のこととして捉え過ぎてはいまいか?
もしどんなに思考力が冴え渡り、パソコンの前に座り一日中キーを打っていたとしたら、それこそエコノミークラス症候群的な姿勢の固定化から身体生理的状況としてはろくなことはないだろう。大脳もまた身体の一部であるから、大脳で判断することが常に最良の判断である、と言い切ることは決して出来ない。遺伝子には遺伝子の事情があるのである。しかも遺伝子が大脳を通じて発現しているという側面もあれば、遺伝子が大脳を中枢神経として成立させている、という側面もまた劣らずに重要な事実である。しかも遺伝子にはエキソン(人間の種として共通に持つ遺伝子)以外のジャンク遺伝子、イントロンが97%である。このようなある種無駄を承知で構成された身体生理学的システムはいたるところに、我々の発生の段階から仕組まれている。我々の指と指の間はそもそもそこにも骨や肉塊を介在させるべく用意された遺伝子を別の抑制系遺伝子、リーリン遺伝子と呼ばれる遺伝子が発現を阻止しその骨や肉や塊の発生を消去しているわけなのだし、イントロンもまたトランスポゾンその他の非必要不可欠物に遺伝子パラグラフを複雑に紛れ込ませた配列から選択的にエキソンをスプライシングするように我々の身体に、それこそ「神が設けた試練」なのである。
しかし発生論的にはなぜミトコンドリアが呼吸を請け負うように、嫌気性細菌による好気性細菌の取り込み、誘導的共生という風に解釈されているが、それがなぜ嫌気性からの誘導であったのか(ひょっとするとシアノ・バクテリアの登場により大気に光合成による酸素が充満し嫌気性のものの生存を脅かしたことが選択圧となって、好気性への接近をもたらしたのかも知れない。)、あるいは植物などに見られる胚発生がなぜあのような分岐の仕方で形成されていくのか、そうではない別の形態での分岐の仕方でもよかったのに、という問題は再度我々に偶然と必然の問題を想起させる。(もしその胚発生の形態が最も効率的な発生を促進するのなら、そこには複雑な合目的性に依拠した必然が見出される筈であろう。)
つまりこういうことである。遺伝子レヴェルの葛藤、闘争がある一定の抑制系によって何とかその暴走を未然に食い止めているという事実は、かつて地球全体がもっと平均的に温暖であった時期から、現在のように極地と赤道とに二極分離された極端な温度の分配の介在への移行は、しかし相対的に見た時には地球全体の温度が平均化されている、という地球物理学的真理をも彷彿させる。それは地球のホメオスタシスなのであろう。(我々が動いている地球にいる限りその動きは感知されないが、地球自体はそれを感知している。)我々の身体もまたミクロ・レヴェルでは遺伝子間の対立、細胞間の対立、神経系の対立といった図式を含有しながらもどこかではそれが一方向に暴走しないように仕組まれてもいるわけである。それが構造論的にも機能論的にも偶然性と必然性の相関関係を表わしてもいる。すると言語においてもそういった事実、ある時には、抑制系に対してさえ謀反を起こし得るような自発性が局在的にも認められるようなシステムとして大脳の言語制御機能が、階層的秩序を形成しつつも、そこから逸脱していくようなもう一つのカテゴリーも常に用意しているわけである。マット・リドリー的認識を借りよう。身体が癌細胞の増殖という脱メチル化をきたしているのなら、メチル化を形成している抑制系のシステムとその階層性を用意している身体のホメオスタシスは、ドーキンス流のビークル化した合目的性が遺伝子の一時的な借り物としての我々の身体を規定しているのなら、癌というものは、身体機能を蝕むその実体とは別のもう一つのカテゴリーの可能性提示であると同時に、階層性の破壊でもあるのだ。すると、我々は次のように言語行為を司る大脳機能も考えることが出来る。
我々の身体が付随意的に転写ミスや翻訳ミスをしながら、その都度小さいレヴェルではかなりの偶然性を構築しながら突然変異性を個体に、その発生ごとに与えているわけだが、それを癌細胞の増殖といった謀反にまで至らせることも、一方で常に用意している生理学的選択システムのようなものがあり、だがそれは基本的にはホメオスタシスに貢献した階層性といった生理学的秩序をも与えながら、最悪の選択肢さえも可能性としては保有している。しかし一端その細胞の謀反に翻弄されるとなすがままになり、最悪にはその個体の維持は別個体の維持によって補完され、全体としては種は維持されるような自然選択を維持し続ける。そしてそのような自然選択の原理は語彙を選択せしめる大脳の言語制御機能においても存在し、それが語性錯誤や失語症を時として選択肢としてある個体のコミュニケーションシステムに入り込ませるわけである。それはやはり社会機能維持に関与する秩序においては個体の階層性の破壊である。しかしその常に潜在的に可能性として用意されたもう一つのカテゴリーは個体に試練を与えもするが、それを克服させる再構築の可能性も与える。というのもそもそも語性錯誤や失語症さえも一つの選択肢として用意しているところの可能性の場は真に自由の名に値するものであり、おそらく自然選択のオリジナルな場であろう。つまりそれは障害がないということである。逆にある一つの常套的意志伝達可能性にのみ依拠することとは本質的には障害によって我々を我々にとって真に自由の可能性から遠ざけている、ということでもあるのである。
ここで障害というものの正体を定義しておく必要性があるだろう。それは常套的制度への加担、盲目の信頼である。あるいは常套的価値、常套的倫理性への依拠である。
しかし我々はそこに実際は拘泥しているのだ。そうしなければ生きてゆけないというオブセッションを持ち生活している生活人として我々を見据えることが出来る。
カオスというもう一つの秩序によって心的には外部世界の全てを選択して認識し、必要なものののみを記憶しようとする目論見は、知覚作用においては、人間が確率論という数学分野を実際は心的に、つまり脳内に介在させてきている無意識的な思考能力が、障害によって意識的には認識されないものを数学者の手によって数式的秩序で甦っただけのものである、というその一事を持って証明されよう。その確率論的秩序は付随意的には全ての生命体が、個々の事情に従って個的なものではあるが、本能的に知覚作用とか刺激に対する反応とかの方程式を持っており、我々もまた、すべてのものを等価に知覚し、認識し得ないという潜在的には誰しもが知り得る事情に従って知覚し、記憶すべき事項とそうでないものを瞬時に峻別している。そこにはある種の階層性がある。身体生理学的にはカスケードと呼ばれるような蛋白質の制御システムにも当然のことながら認められる。例えば霊長類の視覚システムにおいて、「いかなる神経細胞も、受容野中心に当たる小さなスポットに対してはすみやかに反応(発火)するが、受容野全体に広がって当たる光に対しては、ほとんど反応しないということだ。網膜はこのようにして、目に入ってくる視覚情報のなかから余分な情報を消し去っているということだ。つまり、脳に送りこまれる情報は視覚のなかでも興味ある_光の分布が均一でない_部分についての情報であって、変化にとぼしい部分は、おおむね無視されることになる。」(フランシス・クリック著「DNAに魂はあるか_驚異の仮説」(The Astinishing Hypothesis)
我々がこういったある偏りをもって全ての外部世界に接しているのは、確率論的にすべての外部世界を等価に知覚、認識していては一個体の生命の維持出来る時間を遙か越えてしまうということを身体上のホメオスタシスが恐らくDNAレヴェルからその漠然としてではあるが、後退を指令させるべく数値情報を我々の抑制系の各機関、各遺伝子、ホルモン、蛋白質、細胞に伝達しているからではなかろうか?
例えば我々はある事物、例えばそれが自動車であったとしよう。我々は今目の前に駐車した自動車がドライバーの手によって運転され去っていくことは認められ、その時視覚情報のみではなく、当然のことながら聴覚情報としてエンジンの音やら、排気システムの音とかを知覚しているが、我々がその車が遙か一キロ先にまで消えゆくのを認められるような状況のランドスケープに立っているのなら、一キロ先に徐々に小さくなってはいるものの視界にははっきりと認められる自動車の音は最早知覚され得まい。ということは我々は漠然と自動車の視覚映像と聴覚音とを同時に認知し、統合して一つの出来事として車の発進を認識しているにもかかわらず、明らかに視覚と聴覚のシステムは別個のもので、それらは能力的には階層性を持ち(当然のことながらヒトは視覚能力は他の哺乳類よりも優れているが、聴覚や嗅覚は劣っている<勿論そうでない動物もいるが>ということもあるわけである。)、それらは本質的には別個で独立した能力であるにもかかわらず、統合、統覚している、勿論大脳においてだが、そういうことになる。カントの言っていたことは正しかった、と言える。
言語もまたチョムスキーの考えを待たずして、学習だけではなくア・プリオリな能力として我々に具わっていて、環境的外部要因(教育とか家族の人間関係とか)によって発現されているわけである。そして言語にもまた階層性が存在する。
ところで何度か触れたが、生命を偶然と看做すか、必然と看做すかという問題は過去から現在までも延々繰り返し論じられてきた普遍的論争であり、語理論と経験論による普遍論争にも匹敵する問いであると思われるが、マイケル・J・ベーエは自著「ダーウィンのブラックボックス」において、ダーウィンの自然選択という概念では、この生命秩序における複雑系を証明することは出来ないとし、ダーウィンの思想を出発点とするドーキンスをも批判対象とし、ダーウィニズムの後継者でありながら、エルドリッジやグールドは自然選択以外のメカニズム(それを彼等はウィルスの増殖とか特有の当然変異で説明しようとしているが、筆者にはそれはダーウィン理論の誤読にしか思えない。)で説明しようとする姿勢に半分共鳴してもいるものの、創造説に近いものを感じるというような発言を、その本の翻訳者の一人長野敬すらもしている。ここでベーエの考え方(「ダーウィンの自然選択のメカニズムは、現実には、血液凝固カスケードのような単純化できない複雑系の形成を妨げるはずだ。」<長野敬+野村尚子訳、青土社刊139ページより>に端的に示されている。)自体をどうのこうのと批評することは差し控えるが、ここでベーエ自身も唱えているところのダーウィンの自然選択とは一体何かと、考えてみるとエルドリッジ、グールド、ベーエに共通するのは、何か必然的な説明を求めているということであろう。この考え方は古くは合理論的、あるいはある意味、あの不完全定理や神の存在論で有名なゲーデル的な認識論にもどこかで通じる。しかしダーウィンの自然選択とは、筆者の考えるところ、選択基準というものに偶然性を認める限りで有効である(ダーウィンはそういう謂いを使用してはいないが)と言えよう。なぜならダーウィンはウィトシュタインが「語り得ぬことには沈黙せねばならない」というかの有名な「論考」最終章の考えを地で行った学者でもあったからである。だからその意味でベーエのダーウィン批判は「ダーウィンに神を期待した」認識ということとなる。ダーウィンが偉大な学者であったとしたら、安易な合理論的説明を避けたということを筆頭に挙げるべきではなかろうか?
ベーエの論述はドーリトルという血液凝固システムを中心とした複雑系専門の学者の業績を認めつつも、「ドーリトルが『血栓と止血』に載せた論文の読者は、血液凝固研究の指導者たちだということを忘れないようにしよう。彼らは最先端を知っているのである。それでもこの論文は、血液凝固の起源がどのように始まり、その後どう進化したかを、彼らに対して説明していな。物語を聞かせているだけである。血液凝固カスケードがどのように現れたかをほんのわずかでも知っている人は、地球上には誰もいないのが実情だ。」と言い、所謂創造説的視座を確かに仄めかしている。確かに我々は誰もその実情は知ることは出来ないかも知れない。しかし我々の言語は、日常言語(自然言語)たろうと、数学言語たろうと、物理学の言語たろうと、化学式や方程式の言語たろう(人工言語)と人間は無限性へも挑戦しながら、肉眼では捕らえきれないものを顕微鏡やナノテクの世界でのハイテクを使って認識してきたような意味で肉眼では捉えきれないものまで想像力の及ぶ範疇として、現実の事象としてきたのではなかったろうか?確かにまだまだ実際の進化上の謎は解明されていないし、また未来永劫明確な形では我々自身全ての謎を解明し得ない、ということもあろう。しかしそれでも誰も知らないという謂いで全てを反ダーウィニズムに結びつけるのなら、それがどんなに優れた論述であっても、言語行為の能力自体の懐疑となっている(本人は自覚的ではなかろうが)とは言えまいか?
少なくともベーエはその是非はともかく、偶然というものの存在理由を認めていないスタンスの論客ということになる。
では我々の身体生理学上の諸事情はヘーゲルが言うような意味での<必然であるということの偶然性>に依拠した諸判断、選択を執り行なっているのであろうか?知覚の階層性が指し示す重要度、緊密度の階層性の如き差別すらも必然的なものなのだろうか?それとも不随意である限りにおいて刺激に対する反応という諸瞬間毎の偶然が刺激‐反応という図式において必然的に対応している、ということなのだろうか?
そのことを考える上で遺伝子やゲノムの転写システムについて暫く考えてみよう。
自然は大元では偶然的事象と出来事に支配されながら、その偶然をしかし運用するシステム自体は必然的な法則性によって支えられ、個的生命体レヴェルでも個々の事象は逆に非法則的であるが、ホメオスタシスレヴェルでの身体生理学次元では法則的(モノーの謂いに従えば熱力学第二法則に忠実に)である。だから自然は、それは自然史、地球史と言い換えても同じことであるが、極めて偶然的要素によって連鎖されている(空間的にも、時間的にも)が、かといってまるっきり偶然的、非法則的であるわけでもなく、どこかで明確なる秩序を、そのことをモノーは合目的性と言っている(古生物学者のリチャード・フォーティーはグールドの言うような偶然性に対して、それを一面では認めつつも、法則的秩序の存在を強調している。)ものを持っているが、この合目的性は多くの哲学者たちを悩まし続けてきた命題でもある。カントもまたこの合目的性において合理論の継承と、合理論的常套性からの離脱を同時に試みて来た。ドーキンスも合目的性という言葉は明確に使用しているし、自然科学は大元の事実的認定においては幾ら偶然性を認知していても、その運用や展開上のプロセスそのものにおいては法則的必然性を厳然と認識している。そのことを念頭において遺伝子の幾多の悪戯のような非合目的性(生命体維持にとってはエネルギー・ロスと認識され得るのに、そういった無駄は常に介在する。)を俯瞰すると、我々はそういった無駄や非効率性そのものさえもが、巧妙に仕組まれた、言ってみれば「神からの試練」であることが了解される。
知覚がある対象を認識する時、我々は殆んど無意識の内に光の強度のような自動的な受容物にさえある選択を施して授受するものとそうでないもの(知覚しその存在を認知すべきでないもの)とを区分けしていることは、重要性における階層性と同時に生の経済、つまり特にその日の生活上に払われるエネルギーと、今現在の自己に潜在する肉体的精神的ポテンシャルによって成立する経済に鑑みて瞬時に判断し、これとこれのみを認知し、あとは切り捨てようという無意識の判断が働いている証拠であるが、遺伝子自体も時に、個体維持にとって不必要であるばかりか、お荷物にすらなる、あるいはもっと個体を危機に陥れることになる可能性すらある行為や、それこそハミルトンやドーキンスが唱えた利他的行動を行うことがある。その一つは生殖行動である。遺伝子は遺伝子自体で判断し、個体の事情を無視して暴走することもあるが、蛋白質や細胞も、それ自体で遺伝子の指令を一端は受け取るも、自己の都合で勝手に暴走し始めることがある。ところでなぜ我々は大脳の指令には何の疑問も持たずに、それを当然のこととして、遺伝子、蛋白質、細胞の意志は不遜なものと捉えるのであろうか?まるで遺伝子や蛋白質、細胞自体が意志を持つことは、大脳があまりに勝手な意志を持ち過ぎることが引き起こした罰である、とさえ考えたくなるほど我々は大脳による指令を当たり前のこととして捉え過ぎてはいまいか?
もしどんなに思考力が冴え渡り、パソコンの前に座り一日中キーを打っていたとしたら、それこそエコノミークラス症候群的な姿勢の固定化から身体生理的状況としてはろくなことはないだろう。大脳もまた身体の一部であるから、大脳で判断することが常に最良の判断である、と言い切ることは決して出来ない。遺伝子には遺伝子の事情があるのである。しかも遺伝子が大脳を通じて発現しているという側面もあれば、遺伝子が大脳を中枢神経として成立させている、という側面もまた劣らずに重要な事実である。しかも遺伝子にはエキソン(人間の種として共通に持つ遺伝子)以外のジャンク遺伝子、イントロンが97%である。このようなある種無駄を承知で構成された身体生理学的システムはいたるところに、我々の発生の段階から仕組まれている。我々の指と指の間はそもそもそこにも骨や肉塊を介在させるべく用意された遺伝子を別の抑制系遺伝子、リーリン遺伝子と呼ばれる遺伝子が発現を阻止しその骨や肉や塊の発生を消去しているわけなのだし、イントロンもまたトランスポゾンその他の非必要不可欠物に遺伝子パラグラフを複雑に紛れ込ませた配列から選択的にエキソンをスプライシングするように我々の身体に、それこそ「神が設けた試練」なのである。
しかし発生論的にはなぜミトコンドリアが呼吸を請け負うように、嫌気性細菌による好気性細菌の取り込み、誘導的共生という風に解釈されているが、それがなぜ嫌気性からの誘導であったのか(ひょっとするとシアノ・バクテリアの登場により大気に光合成による酸素が充満し嫌気性のものの生存を脅かしたことが選択圧となって、好気性への接近をもたらしたのかも知れない。)、あるいは植物などに見られる胚発生がなぜあのような分岐の仕方で形成されていくのか、そうではない別の形態での分岐の仕方でもよかったのに、という問題は再度我々に偶然と必然の問題を想起させる。(もしその胚発生の形態が最も効率的な発生を促進するのなら、そこには複雑な合目的性に依拠した必然が見出される筈であろう。)
つまりこういうことである。遺伝子レヴェルの葛藤、闘争がある一定の抑制系によって何とかその暴走を未然に食い止めているという事実は、かつて地球全体がもっと平均的に温暖であった時期から、現在のように極地と赤道とに二極分離された極端な温度の分配の介在への移行は、しかし相対的に見た時には地球全体の温度が平均化されている、という地球物理学的真理をも彷彿させる。それは地球のホメオスタシスなのであろう。(我々が動いている地球にいる限りその動きは感知されないが、地球自体はそれを感知している。)我々の身体もまたミクロ・レヴェルでは遺伝子間の対立、細胞間の対立、神経系の対立といった図式を含有しながらもどこかではそれが一方向に暴走しないように仕組まれてもいるわけである。それが構造論的にも機能論的にも偶然性と必然性の相関関係を表わしてもいる。すると言語においてもそういった事実、ある時には、抑制系に対してさえ謀反を起こし得るような自発性が局在的にも認められるようなシステムとして大脳の言語制御機能が、階層的秩序を形成しつつも、そこから逸脱していくようなもう一つのカテゴリーも常に用意しているわけである。マット・リドリー的認識を借りよう。身体が癌細胞の増殖という脱メチル化をきたしているのなら、メチル化を形成している抑制系のシステムとその階層性を用意している身体のホメオスタシスは、ドーキンス流のビークル化した合目的性が遺伝子の一時的な借り物としての我々の身体を規定しているのなら、癌というものは、身体機能を蝕むその実体とは別のもう一つのカテゴリーの可能性提示であると同時に、階層性の破壊でもあるのだ。すると、我々は次のように言語行為を司る大脳機能も考えることが出来る。
我々の身体が付随意的に転写ミスや翻訳ミスをしながら、その都度小さいレヴェルではかなりの偶然性を構築しながら突然変異性を個体に、その発生ごとに与えているわけだが、それを癌細胞の増殖といった謀反にまで至らせることも、一方で常に用意している生理学的選択システムのようなものがあり、だがそれは基本的にはホメオスタシスに貢献した階層性といった生理学的秩序をも与えながら、最悪の選択肢さえも可能性としては保有している。しかし一端その細胞の謀反に翻弄されるとなすがままになり、最悪にはその個体の維持は別個体の維持によって補完され、全体としては種は維持されるような自然選択を維持し続ける。そしてそのような自然選択の原理は語彙を選択せしめる大脳の言語制御機能においても存在し、それが語性錯誤や失語症を時として選択肢としてある個体のコミュニケーションシステムに入り込ませるわけである。それはやはり社会機能維持に関与する秩序においては個体の階層性の破壊である。しかしその常に潜在的に可能性として用意されたもう一つのカテゴリーは個体に試練を与えもするが、それを克服させる再構築の可能性も与える。というのもそもそも語性錯誤や失語症さえも一つの選択肢として用意しているところの可能性の場は真に自由の名に値するものであり、おそらく自然選択のオリジナルな場であろう。つまりそれは障害がないということである。逆にある一つの常套的意志伝達可能性にのみ依拠することとは本質的には障害によって我々を我々にとって真に自由の可能性から遠ざけている、ということでもあるのである。
ここで障害というものの正体を定義しておく必要性があるだろう。それは常套的制度への加担、盲目の信頼である。あるいは常套的価値、常套的倫理性への依拠である。
しかし我々はそこに実際は拘泥しているのだ。そうしなければ生きてゆけないというオブセッションを持ち生活している生活人として我々を見据えることが出来る。
Wednesday, October 6, 2010
C自信論<自殺しようかと考えているあなたへ>1, 語ることの発見に伴う自信
哲学者は多く信念とか理念とか判断とか経験と語る。しかし意外と語られないことに自信ということがある。尤も小浜逸郎氏の著作に「正しく悩むための哲学―生きる自信を手にする14のヒント」(PHP文庫)というものがある(今読んでいるとことである)が、それは哲学フィールドから考えられたというより、やはり哲学自体に対する一つの批判、提言であるのではないか?
哲学と人生論は違うというのが中島義道氏の「哲学の教科書」(講談社学術文庫)の思想だが、氏は思想とも文学とも芸術とも違うと考えている。小浜氏と中島氏による往復書簡集的装いの近著である「やっぱり、人は分かりあえない」(PHP新書)において小浜氏は中島氏のことを哲学聖化主義であると批判するが、一方中島氏は別の著において多くの人が哲学に求め過ぎると哲学とは万能ではない旨を示している。この両氏の考えは共に正しい。
しかしここでは哲学のあり方を巡って論議することが主旨ではない。私は端的に哲学において最大の敵であるように思われている実用ということから、一体人生全体の自信を持つことが出来るのだろうか、ということを考えたいのである。しかしその際私がどのような形でそれを考えるのか、例えば哲学的位置づけにおいてなのか、あるいはそういう風に哲学的位置づけを別種のものとする哲学自体の因習に対する批判においてなのか、と問われればそのいずれでもあり、いずれでもないとしか言えない。つまりその二つは同じ一つのことであるとも言えるし、またそれら二つの接点が仮にあったとしても尚、それだけではない何かこそ、真実であるように私には思えるからである。
一時期政治の世界ではいじめの問題が大きく取り上げられた。しかし昨今日本人はいじめられてきた人が自殺したりしていじめをしてきた人間に対して少なからぬプロテストをするというレヴェルを超える自殺者を多く生み出している。それは恐らくいじめという現象自体さえもがそれら一切の生きる希望を見失うということの内のほんの些細な一つであるような意味として自殺を多くの人が選んでいる証拠ではないだろうか?
しかしやはり自殺をする選択肢には端的に自信というものを生きることに持てないというところにあるように思われる。しかしその自信とはある枠組とか判で押したような確固とした目的のようなものとはやはり決定的に違うのではないだろうか?
つまり生きる自信を考える時に必要なことは、それを得ても、それを得なくても、それを問うこと自体に意味を見出すこと以外にはないとまずそれ以上でもそれ以下でもないことを自覚することではないだろうか?
確かに現時点で住む場所さえない人にとって生きる自信を持てということ自体が苛酷な要求であることもあろう。だからこそ生きることを選択することは他者を頼ったりすることを頑なに拒否したり、自身の無力自体に対して極度に卑下したり、見栄のようなものから羞恥心を異様に増幅させたりすること自体から脱却することからしかなされ得ないのではないか?
生きることは仮にかなり巧くいっているように見える人間にとっても恐らくそれほどたやすいことではないし、また生きる意味を問われて即座に返答出来る人は殆どいないだろう。つまりだからこそ延々と哲学者や思想家や宗教家たちがそのような問いを人類に投げかけてきたのである。
経済社会において経済力は一定程度必須のものとして扱われている。従って実用的見地からすれば全ての心にかかわる問題を考えることは一銭の得にもならない。にもかかわらず歴史に残っている偉大なテクストはかなり経済力に恵まれた人や学者や政治家として成功をした人たちから、生涯を流浪の生活を重ねたり、精神に異常を来たしたり、通常ではない行動や生活をするタイプの市民として一般には位置づけられてしまうような運命を背負った人たちに至るまで様々なタイプの人生によって書かれ続けてきた。その事実は実用的であることから自信が生れてくるにしても尚、その実用とは世間的成功とか処世術とか基本的に異なっていることを示している。
そこには老若男女から社会的地位一切を度外視した視点がまず求められている。このことは一切の文学や芸術とも共通する要素である。
かつてアーティストの故・荒川修作氏は妻で詩人であるマドリン・ギンズ氏と共著で「意味のメカニズム」を著した時、その基本的理念とはアーティストにとって役に立つ本を書くということであった。そういう意味では実用という時明らかに一定の範囲内に絞った考えの下に人を集めてそこに一定の共通した矜持を持たすという意図がある。しかしその意図も恐らくアート自体が役には立たないものであるという不文律があるからこそ書くモティヴェーションとなり得たとも言える。
しかし今私が考えている実用ということは、人生全体が生きる価値があるものかどうかということ自体へ懐疑的問いを突きつけた人たちにとってのそれであるから、一定程度に焦点化された命題を持てるということ自体が既にその時点で生きることを価値として認めていることになるから、そういう類の本を読める人は価値を認めること自体に苦慮しているということはない。だが彼らとてでは「何故生きるのですか?」と問われて即座に返答することなど出来はしないだろう。つまりある意味では生きる価値が理解出来ていたら、一切の苦悩が発生し得る訳などないのであり、それが困難であり、時には不可能であるが故に我々は自信喪失に陥るのである。そういう観点に立てば、寧ろ最初から焦点化された生きる目的を疑うことのない人にとって「何故生きるのですか?」という問いはある意味では極めて危険な問いと化す。つまりそういうことを含めて哲学者である中島義道氏は「哲学とは危険なものである」と言っているのである。このことはやはり哲学者であるハンナ・アーレント氏も言っていたことである。(「責任と判断」筑摩書房刊より)
でも恐らく我々はこの種の問いから一旦思念した途端に逃れられることはない。そしてその中でそのことを問い続けることだけが自信を得る方法であるとしか一旦そのような問いを心的に巣食わせた人にとっては打開策などないと言ってよい。
通常私たちは何もかも巧く行っている時に自信喪失に陥ることなどない。つまり巧くいかなくなった時にこそ自信喪失になるのだ。しかしそのことは同時に自信喪失状態からもし仮に何とか抜け出すことが出来たなら、その時こそ逆にどんな最悪の状態になってもまず冷静になって打開策を見出すことをする自信だけは得ることが出来るのではないか?
と言うことはただあまり障害がなく巧く何もかも行くということ自体は決して最良の自信を獲得する状態ではない、ということを意味する。何故ならそういう状態で一度も苦難が発生しないということ自体が極めて巧く行くこと自体への価値的認識を確固としたものにしないからである。つまりもっと簡単に言えば巧く行くこと自体に対する感謝の念は徐々に喪失されていく。あるいは自殺する心理的状態とは、この種の心理によるのかも知れない。
私たちの祖先は原始生活において一定程度の自然全体に対して、その恵みに感謝の念を捧げてきたと言える。その感謝の念の一つが神社となり、寺社となっているのである。しかしそのように感謝の念を捧げるということの内には、自然によってその都度災害に見舞われるという現実があっただろう。農耕文化を定着させていくプロセス自体に、恐らく私たちの祖先たちにとって通過しなくてはならない困苦とは人心の一致だったかも知れない。
しかし何故人心を一致させなくてはらないのかということは、ある意味では全ての存在者にとって心とはそう容易に理解し合えないということが真理だったからではないだろうか?
理解し合えないからこそ私たちには言語が必要だったのである。つまり私たちは語る相手の心がその都度見えているか、一々発話しなくても心に聞こえてくるのであれば、一切の言語行為をする必要はない。あるいは私たちが自分自身の身体の全てを先までお見通しであるのなら、一切の相談を他者にすることなどなかっただろう。
例えば女性は月の物から、何から何まで生殖に纏わることを自分だけで察知することが出来たのなら、男性を誘ったり、男性の精子を身ごもったりすることに纏わる表情(偽装も含めて)を顔に出すことなどなかっただろう。つまり自分に関する全てを理解することの不可能性こそが、我々の顔に表情を示すことを強いたのだ。
例えば本当は辛い気持ちがあっても、それを悟られまいとする気持ちは誰にでもあるだろうが、そういった配慮とは正直に顔に出すという表情を前提とするのだ。だから本当はよく自分の妊娠の仕組み自体を把握してはいないからこそ、女性はあたかもそのことを(確かに男性よりは把握しているのだが)熟知した表情で男性を誘惑したりすることを女性は太古からしてきたのだ。自己の無能力を他者に悟らせないということが人間に知性を育んできたからである。
つまりそのことを全ての他者は全ての他者に対して知っている。その中の偶然只一人こそが自分である。その自分でさえ自分の全てを知り得ない、健康状態から寿命、自らの未来に待ち受けている運命の全てに対する把握し得なさ自体が、言語行為を他者との間で誘発する。その相互に誘発し合う運命こそが、つまり人心は一致しない、だからこそ「一致」、そういう陳腐な語彙ではなくもっと崇高な語彙であった方がいいかも知れない「何か」こそが、私たちに言語を齎したのだ、と言える。つまり自分しか知らない幾多のこととは、端的に自分だけ知らないことを多く持つことを私たちに知らしめる。そしてそのことを自分に対して気がつく時私たちは自分だけがこういう気持ちでいるのであろうか、と疑問を抱く。そして恐らくその時なりに結論を出すだろう。それは自分だけではない可能性があるということである。勿論自分だけであるかも知れない。しかしその如何を他者に問い糾すことには意味がある、そう結論するのである。それこそが一致しないことを前提とした「一致」への問いである。
先ほど「何か」と言ったことを哲学ではイデアとか真理とか規範とか色々な語彙によって示してきたと言える。数学で言うところの公理と言ってもいいかも知れない。勿論それ自体が所詮幻想である可能性を多くの先人は感じ取ってきたのだろうと思う。
しかし幻想であるかも知れないが、それをあたかもあるかのように求めることは存外無意味ではないということに対して先人たちは早く気づいてきたのだろうと思う。
つまり気づいてきたからこそ信念と言った時に、その信念にも色々あって、その都度そうではないかと目測することから、瞬時に閃くことなども含めて多くの信じることを信念と呼んだのだ。そしてその都度それらは只単に幻想かも知れないと考えた。デカルトなどは現実と夢の境界自体を疑いもした。
そうなるとついに私たちは全ての存在に対してさえ疑いを払拭出来なくなってくる。つまり一方で一致していること全てが幻想かも知れないと思うことと、そういう風に疑うこと自体は確かに現実であると、デカルトのように考えたとしたら、段々私という存在さえ私一個の存在の中からさえ疑い得るし、他者と語りつつも疑い得ることになる。
しかしもしそこに語り得ることにおいて疑うこと自体に同意を得たのなら、それは私という存在への懐疑に対して一定の自信を持つことが可能ではないか、とそう多くの哲学者は考えた筈だ。それは語ること自体の意味に対する覚醒である。つまり一致とは真理の内容の一致ではなくて、語ること、語るという行為事実の方にあったのである。
その時私たちは人心が一致しないからこそ、一致を求めるということの内に自信を見出したのである。だから本節で私が言いたいこととは、一銭の得にもならない明確な目的意からすれば著しく実利的有用性がないということの内にこそ確固とした自信が存在し得る余地があるのではないか、ということなのである。それは語りそのものが私たちの中で最大の価値であるように思える瞬間だけが自己存在に対して自信を得ることが可能であるように思われるのである。語りとは言葉もそうであるし、表情もそうである。私たちは表情を伴わない語りをすることが出来ない。自信を考える際に最初に私が述べた実用ということはこの言葉と表情の不可分性において語られる余地があるのではないだろうか?そのことを次節で考えてみたい。
哲学と人生論は違うというのが中島義道氏の「哲学の教科書」(講談社学術文庫)の思想だが、氏は思想とも文学とも芸術とも違うと考えている。小浜氏と中島氏による往復書簡集的装いの近著である「やっぱり、人は分かりあえない」(PHP新書)において小浜氏は中島氏のことを哲学聖化主義であると批判するが、一方中島氏は別の著において多くの人が哲学に求め過ぎると哲学とは万能ではない旨を示している。この両氏の考えは共に正しい。
しかしここでは哲学のあり方を巡って論議することが主旨ではない。私は端的に哲学において最大の敵であるように思われている実用ということから、一体人生全体の自信を持つことが出来るのだろうか、ということを考えたいのである。しかしその際私がどのような形でそれを考えるのか、例えば哲学的位置づけにおいてなのか、あるいはそういう風に哲学的位置づけを別種のものとする哲学自体の因習に対する批判においてなのか、と問われればそのいずれでもあり、いずれでもないとしか言えない。つまりその二つは同じ一つのことであるとも言えるし、またそれら二つの接点が仮にあったとしても尚、それだけではない何かこそ、真実であるように私には思えるからである。
一時期政治の世界ではいじめの問題が大きく取り上げられた。しかし昨今日本人はいじめられてきた人が自殺したりしていじめをしてきた人間に対して少なからぬプロテストをするというレヴェルを超える自殺者を多く生み出している。それは恐らくいじめという現象自体さえもがそれら一切の生きる希望を見失うということの内のほんの些細な一つであるような意味として自殺を多くの人が選んでいる証拠ではないだろうか?
しかしやはり自殺をする選択肢には端的に自信というものを生きることに持てないというところにあるように思われる。しかしその自信とはある枠組とか判で押したような確固とした目的のようなものとはやはり決定的に違うのではないだろうか?
つまり生きる自信を考える時に必要なことは、それを得ても、それを得なくても、それを問うこと自体に意味を見出すこと以外にはないとまずそれ以上でもそれ以下でもないことを自覚することではないだろうか?
確かに現時点で住む場所さえない人にとって生きる自信を持てということ自体が苛酷な要求であることもあろう。だからこそ生きることを選択することは他者を頼ったりすることを頑なに拒否したり、自身の無力自体に対して極度に卑下したり、見栄のようなものから羞恥心を異様に増幅させたりすること自体から脱却することからしかなされ得ないのではないか?
生きることは仮にかなり巧くいっているように見える人間にとっても恐らくそれほどたやすいことではないし、また生きる意味を問われて即座に返答出来る人は殆どいないだろう。つまりだからこそ延々と哲学者や思想家や宗教家たちがそのような問いを人類に投げかけてきたのである。
経済社会において経済力は一定程度必須のものとして扱われている。従って実用的見地からすれば全ての心にかかわる問題を考えることは一銭の得にもならない。にもかかわらず歴史に残っている偉大なテクストはかなり経済力に恵まれた人や学者や政治家として成功をした人たちから、生涯を流浪の生活を重ねたり、精神に異常を来たしたり、通常ではない行動や生活をするタイプの市民として一般には位置づけられてしまうような運命を背負った人たちに至るまで様々なタイプの人生によって書かれ続けてきた。その事実は実用的であることから自信が生れてくるにしても尚、その実用とは世間的成功とか処世術とか基本的に異なっていることを示している。
そこには老若男女から社会的地位一切を度外視した視点がまず求められている。このことは一切の文学や芸術とも共通する要素である。
かつてアーティストの故・荒川修作氏は妻で詩人であるマドリン・ギンズ氏と共著で「意味のメカニズム」を著した時、その基本的理念とはアーティストにとって役に立つ本を書くということであった。そういう意味では実用という時明らかに一定の範囲内に絞った考えの下に人を集めてそこに一定の共通した矜持を持たすという意図がある。しかしその意図も恐らくアート自体が役には立たないものであるという不文律があるからこそ書くモティヴェーションとなり得たとも言える。
しかし今私が考えている実用ということは、人生全体が生きる価値があるものかどうかということ自体へ懐疑的問いを突きつけた人たちにとってのそれであるから、一定程度に焦点化された命題を持てるということ自体が既にその時点で生きることを価値として認めていることになるから、そういう類の本を読める人は価値を認めること自体に苦慮しているということはない。だが彼らとてでは「何故生きるのですか?」と問われて即座に返答することなど出来はしないだろう。つまりある意味では生きる価値が理解出来ていたら、一切の苦悩が発生し得る訳などないのであり、それが困難であり、時には不可能であるが故に我々は自信喪失に陥るのである。そういう観点に立てば、寧ろ最初から焦点化された生きる目的を疑うことのない人にとって「何故生きるのですか?」という問いはある意味では極めて危険な問いと化す。つまりそういうことを含めて哲学者である中島義道氏は「哲学とは危険なものである」と言っているのである。このことはやはり哲学者であるハンナ・アーレント氏も言っていたことである。(「責任と判断」筑摩書房刊より)
でも恐らく我々はこの種の問いから一旦思念した途端に逃れられることはない。そしてその中でそのことを問い続けることだけが自信を得る方法であるとしか一旦そのような問いを心的に巣食わせた人にとっては打開策などないと言ってよい。
通常私たちは何もかも巧く行っている時に自信喪失に陥ることなどない。つまり巧くいかなくなった時にこそ自信喪失になるのだ。しかしそのことは同時に自信喪失状態からもし仮に何とか抜け出すことが出来たなら、その時こそ逆にどんな最悪の状態になってもまず冷静になって打開策を見出すことをする自信だけは得ることが出来るのではないか?
と言うことはただあまり障害がなく巧く何もかも行くということ自体は決して最良の自信を獲得する状態ではない、ということを意味する。何故ならそういう状態で一度も苦難が発生しないということ自体が極めて巧く行くこと自体への価値的認識を確固としたものにしないからである。つまりもっと簡単に言えば巧く行くこと自体に対する感謝の念は徐々に喪失されていく。あるいは自殺する心理的状態とは、この種の心理によるのかも知れない。
私たちの祖先は原始生活において一定程度の自然全体に対して、その恵みに感謝の念を捧げてきたと言える。その感謝の念の一つが神社となり、寺社となっているのである。しかしそのように感謝の念を捧げるということの内には、自然によってその都度災害に見舞われるという現実があっただろう。農耕文化を定着させていくプロセス自体に、恐らく私たちの祖先たちにとって通過しなくてはならない困苦とは人心の一致だったかも知れない。
しかし何故人心を一致させなくてはらないのかということは、ある意味では全ての存在者にとって心とはそう容易に理解し合えないということが真理だったからではないだろうか?
理解し合えないからこそ私たちには言語が必要だったのである。つまり私たちは語る相手の心がその都度見えているか、一々発話しなくても心に聞こえてくるのであれば、一切の言語行為をする必要はない。あるいは私たちが自分自身の身体の全てを先までお見通しであるのなら、一切の相談を他者にすることなどなかっただろう。
例えば女性は月の物から、何から何まで生殖に纏わることを自分だけで察知することが出来たのなら、男性を誘ったり、男性の精子を身ごもったりすることに纏わる表情(偽装も含めて)を顔に出すことなどなかっただろう。つまり自分に関する全てを理解することの不可能性こそが、我々の顔に表情を示すことを強いたのだ。
例えば本当は辛い気持ちがあっても、それを悟られまいとする気持ちは誰にでもあるだろうが、そういった配慮とは正直に顔に出すという表情を前提とするのだ。だから本当はよく自分の妊娠の仕組み自体を把握してはいないからこそ、女性はあたかもそのことを(確かに男性よりは把握しているのだが)熟知した表情で男性を誘惑したりすることを女性は太古からしてきたのだ。自己の無能力を他者に悟らせないということが人間に知性を育んできたからである。
つまりそのことを全ての他者は全ての他者に対して知っている。その中の偶然只一人こそが自分である。その自分でさえ自分の全てを知り得ない、健康状態から寿命、自らの未来に待ち受けている運命の全てに対する把握し得なさ自体が、言語行為を他者との間で誘発する。その相互に誘発し合う運命こそが、つまり人心は一致しない、だからこそ「一致」、そういう陳腐な語彙ではなくもっと崇高な語彙であった方がいいかも知れない「何か」こそが、私たちに言語を齎したのだ、と言える。つまり自分しか知らない幾多のこととは、端的に自分だけ知らないことを多く持つことを私たちに知らしめる。そしてそのことを自分に対して気がつく時私たちは自分だけがこういう気持ちでいるのであろうか、と疑問を抱く。そして恐らくその時なりに結論を出すだろう。それは自分だけではない可能性があるということである。勿論自分だけであるかも知れない。しかしその如何を他者に問い糾すことには意味がある、そう結論するのである。それこそが一致しないことを前提とした「一致」への問いである。
先ほど「何か」と言ったことを哲学ではイデアとか真理とか規範とか色々な語彙によって示してきたと言える。数学で言うところの公理と言ってもいいかも知れない。勿論それ自体が所詮幻想である可能性を多くの先人は感じ取ってきたのだろうと思う。
しかし幻想であるかも知れないが、それをあたかもあるかのように求めることは存外無意味ではないということに対して先人たちは早く気づいてきたのだろうと思う。
つまり気づいてきたからこそ信念と言った時に、その信念にも色々あって、その都度そうではないかと目測することから、瞬時に閃くことなども含めて多くの信じることを信念と呼んだのだ。そしてその都度それらは只単に幻想かも知れないと考えた。デカルトなどは現実と夢の境界自体を疑いもした。
そうなるとついに私たちは全ての存在に対してさえ疑いを払拭出来なくなってくる。つまり一方で一致していること全てが幻想かも知れないと思うことと、そういう風に疑うこと自体は確かに現実であると、デカルトのように考えたとしたら、段々私という存在さえ私一個の存在の中からさえ疑い得るし、他者と語りつつも疑い得ることになる。
しかしもしそこに語り得ることにおいて疑うこと自体に同意を得たのなら、それは私という存在への懐疑に対して一定の自信を持つことが可能ではないか、とそう多くの哲学者は考えた筈だ。それは語ること自体の意味に対する覚醒である。つまり一致とは真理の内容の一致ではなくて、語ること、語るという行為事実の方にあったのである。
その時私たちは人心が一致しないからこそ、一致を求めるということの内に自信を見出したのである。だから本節で私が言いたいこととは、一銭の得にもならない明確な目的意からすれば著しく実利的有用性がないということの内にこそ確固とした自信が存在し得る余地があるのではないか、ということなのである。それは語りそのものが私たちの中で最大の価値であるように思える瞬間だけが自己存在に対して自信を得ることが可能であるように思われるのである。語りとは言葉もそうであるし、表情もそうである。私たちは表情を伴わない語りをすることが出来ない。自信を考える際に最初に私が述べた実用ということはこの言葉と表情の不可分性において語られる余地があるのではないだろうか?そのことを次節で考えてみたい。
Tuesday, September 7, 2010
B名詞と動詞 10<誘引作用としての動詞>
クリプキは「名指しと必然性」において補遺(e)(194ページより)においてエバンスが指摘した「マルコ・ポーロ」の勘違いによる「マダガスカル」の誤用(本来アフリカ大陸の一部の地名として土着民が使用していたのに、それを島の名と思い込んだ。)について触れているが、誤用されるということの最も考えられる可能性とは誤用される語彙の音韻論的な響き、その語感が示すニュアンスが富に特徴的であるという事実、印象的で覚えやすかったという事実が挙げられると思う。本当の呼び名が異なっていても、そちらの方が印象的でなかったなら、寧ろその地名ではない別の地名の表記が頭に残る、ということは充分あり得る。名詞が記憶に残りやすいこととはそれ自体では語調、語感、覚えやすいような意味で特徴がある、ということが第一に考えられる。しかしその次に記憶に残りやすいものとして考えられることとは連想(観念連合)である。ある名詞が指示するニュアンス(事物の変化や動性)が当の語彙を一挙に記憶収納事項に格上げさせる誘引作用で、動的現実、性質、事実が連想される。そこに動詞(的な思念)の名詞に付け入る隙がある。
動詞は人類言語学的に言えば恐らく名詞の叙述において発達したのであろう。動詞の持つ現前化作用や叙述事項(動詞の前後の文脈によって)から再現前化する際に連想を誘引する作用は個的な関連記憶を喚起し、印象に残る対象、事象、現象(随伴する名詞が指示させる)の様相を一挙に変化させ、脳裏に今までにないものを想起させる。
勿論我々は色々な事物の名称をその名称が指示する現実と共に知っている。だからこそ我々は車や自転車、船、飛行機といった乗り物がどのような様相をして走行するかを予め知っていて、その記憶と知識を通した動的な想起をその名称が登場すると瞬時に関連記憶(エピソード記憶)と共に喚起する。想像する。その時動詞がその関連記憶や想像を誘引させる。「車が激しく行き交っていた。」とか「飛行機が離陸した。」と言うと、その情景を我々は一瞬で理解する。
もう一つ顕著な特質は動詞が主語を必要とすることだ。命令形はそうじゃないとお考えかも知れないが、そうではない。命令形は「やめろ!」と言う場合、意味的には「私はあなたに止めることを命じる。」ということであるから、止めるという行為の主語は明らかに「あなた」であるのである。つまり動詞とはいついかなる時にも主語を要求するのだ。形容詞が必ず名詞(形容対象としての)を必要とするようにである。
次のような(潜在的)思念的プロセスが一瞬にて執り行われると考えられる。
私はあなたに止めることを命じる。(意志表明、行為遂行的発言<オースティン的概念>意図)<願望思念>
↓
あなたは私の命令によって止めるようにしろ。(命令発令)<文章構成>
↓
止めろ。(命令施行)<実行>
このようなある種の意志的な思念とその実行化(あるいは実効化)が為される心的、行動学的な過程には心的な意志的顕現という布石行為が我々の日常の生にはつき物であるという観点を喚起する。意志的心的メカニズムが行動を誘引させ、それを命令調の語で威嚇し、禁止、制止することで他者の願望を封じ込め、阻止することは自我的な意味での防衛本能と独我論的な裁量行為を常に我々がその本性上携えていることを物語っている。
名詞が過去化の作用を最も体現した品詞であることは明白である。全ての対象は実はその出会いが最初である。昨日電車で見た人たちと今日見る人たちは全く異なった組み合わせであろう。その中で例え同一の人物を確認出来たとしても、それはその日におけるその人は一回性のものでしかない。明日のその人物もその人が認める自分の姿もその時の一回性によって独自的である筈だ。にもかかわらず我々は常にAをAとして、BをBとしてしか同定しない。そこにある種の誤謬があり、背進がある。欺瞞がある。しかし一々全ての邂逅を唯一無二のものとして裁定していたら身が持たない。そこでAもBも「他人」という一般的な「人物」としてカテゴライズし、範疇化された集合の要素として認識する。そこに名詞化された概念依拠的世界認識がある。名詞は創造的な死を意味するのだ。だからその名詞に生命を吹き込むのが動詞である。名詞を動的に叙述するのである。
カントが背進と呼んだものとは実は我々が想起を通して過去化された既成事実の集計化された過去記憶像と生まれてから現在に至るまで過去を一括して人生と捉える綜合化の視点が創造する(捏造すると言っても過言ではない。)生の軌跡の意義化(偶然の必然化、歴史認識の誕生)による現在認識にしか過ぎない。だからこそカントは仮想的対象という概念を通してそれを訴えたのだ。現在は過去を記憶(人格を形成する起点)を糧に未来へと向けて志向する人間の総合的視点を獲得する為の方便である。だからその過去化された生、フッサール的謂いを借りればスペチエス的な生の集合体の軌跡が歴史である。ある個人の歴史、ある集団(国家、共同体<あらゆる種類の>、民族)の歴史というように。
カントが仮想的対象と言いながら、同時に条件付きのとか条件者とか、経験的、感覚的世界と呼んだものとはヒューム的な意味での経験世界の表象性、現象性を前提した認識である。無条件者というものがそこから考え出されるのは、無条件者とはあるものとして考えられるというよりはクリプキも主張したような意味でのア・ポステリオリに見出されるア・プリオリである。「カントの自我論」で中島義道が実在性3と呼んだものもこれに他ならない。そしてそこで我々はあらゆる哲学や宗教をさえ産出してきた感覚界を離れたそれを俯瞰し、それを根源的に原因付けるものとしての根拠として、例えば神を措定して生に臨んできた我々人類の歴史が再び考える対象として浮上する。我々が現在とかある持続する時間にどこかで区切りをつけて過去化し得る時、我々が実は全ての偶然的な集積でしかない過去を集計化して必然へと結び付ける(必然化)のである、と認識することにおいてこそ生を区切る(幼年期、若年期、青年期、中年期、壮年期という風に)こと、ある行為に結果を見出すこと(三月期決算報告とかによって)など全てが実は偶然の必然化によって齎されていると了解出来るのだ。名詞はだからあくまでそういった生を区切るプロセスの合理性の下に見出された方策である。命名することで同一性を保障しようとする人間の仮の全体性認識(背進、欺瞞であるところの)の表象化された形態である。人間の細胞は8年で全て入れ替わるし、あるゆる原子的レヴェルでは全ての原子は三ヶ月で三分の一が入れ替わり、一年で全ての原子はほぼ入れ替わる。今日の私は昨日の私とは違うし、明日の私もまた今日の私とは違う。にもかかわらず一分、一秒も同一ではない自己を自己として特定の他者を常に同一の他者として認識するのが人間の社会的な現実である。法的にも殺人を犯したのは昨日の私で今日の私であると言う主張は通らない。
無条件者を神と呼ぼうが、自然の摂理と呼ぼうが、真理と呼ぼうが、道徳的法則と呼ぼうが、皆それらはこの過去の偶然的事実の集積から過去化された事実の連鎖を必然化する人間の不可避的な思念的な本性、傾向性こそが生み出した産物であり、命名(名詞によって名指すこと)も過去事実のデータ整理上の都合からなされた合理的認識で、記憶システムが過去を現在へと直結するものとして認識させつつ現在意識を持たせるのである。
動詞が過去化(現在を過去とし過去事実を集積する思念)によって創造された名詞に必要とされるということとはこの名詞の惰性的な性向を阻止するカント的に言えば仮想的想念、あるいはフッサール、ウィトゲンシュタイン流に言えば、そうではなかったかも知れない、そうではなくてもよかった今この世界という考え方の推進の下で意味を帯びてくる。つまり動詞が名詞の惰性的、欺瞞的な仮の全体決定性を阻止し、叙述事実の唯一性、偶然性を醸成し、定着させるのだ。しかし動詞によって叙述された出来事は叙述された瞬間に再び名詞化されて「一つの叙述真理」となり、過去の出来事という不変(現在からはもうどうしようもない)性の名の下に名詞化されるのだ。だから動詞は実は名詞の惰性的側面を打破しながら同時に新たな名詞的思念を形成させ、名詞化された過去の諸出来事(必然化された偶然の連鎖)を思念する際に側頭葉に格納されたものが想起され、その他の大脳各部署も関連記憶、連想想起を促進する役割を果たしている。動詞は名詞として名指された「昨日の飲み会での奴との会話」とか「先月のプレゼンでの彼の言動」といった記憶検索事項を一旦名詞的位置づけ作用の下に検索してしまえば今度はそこに再生的にその連鎖を反芻するような想起的想像力を喚起する。そしてそれを再び別の行為によって記憶事項として検索を閉じることを我々は自然とするのだから、その時過去が再生させる原動力である動詞の思念的使用が海馬を通して今度は別の記憶を収納させる、そしてその際に名詞的思念において「昨日の対話」とか「先月の彼」というような検索しやすいように命名する。名詞的命名、意味づけ作用とは過去化=必然化の為の誘引作用と考えられる。
動詞は人類言語学的に言えば恐らく名詞の叙述において発達したのであろう。動詞の持つ現前化作用や叙述事項(動詞の前後の文脈によって)から再現前化する際に連想を誘引する作用は個的な関連記憶を喚起し、印象に残る対象、事象、現象(随伴する名詞が指示させる)の様相を一挙に変化させ、脳裏に今までにないものを想起させる。
勿論我々は色々な事物の名称をその名称が指示する現実と共に知っている。だからこそ我々は車や自転車、船、飛行機といった乗り物がどのような様相をして走行するかを予め知っていて、その記憶と知識を通した動的な想起をその名称が登場すると瞬時に関連記憶(エピソード記憶)と共に喚起する。想像する。その時動詞がその関連記憶や想像を誘引させる。「車が激しく行き交っていた。」とか「飛行機が離陸した。」と言うと、その情景を我々は一瞬で理解する。
もう一つ顕著な特質は動詞が主語を必要とすることだ。命令形はそうじゃないとお考えかも知れないが、そうではない。命令形は「やめろ!」と言う場合、意味的には「私はあなたに止めることを命じる。」ということであるから、止めるという行為の主語は明らかに「あなた」であるのである。つまり動詞とはいついかなる時にも主語を要求するのだ。形容詞が必ず名詞(形容対象としての)を必要とするようにである。
次のような(潜在的)思念的プロセスが一瞬にて執り行われると考えられる。
私はあなたに止めることを命じる。(意志表明、行為遂行的発言<オースティン的概念>意図)<願望思念>
↓
あなたは私の命令によって止めるようにしろ。(命令発令)<文章構成>
↓
止めろ。(命令施行)<実行>
このようなある種の意志的な思念とその実行化(あるいは実効化)が為される心的、行動学的な過程には心的な意志的顕現という布石行為が我々の日常の生にはつき物であるという観点を喚起する。意志的心的メカニズムが行動を誘引させ、それを命令調の語で威嚇し、禁止、制止することで他者の願望を封じ込め、阻止することは自我的な意味での防衛本能と独我論的な裁量行為を常に我々がその本性上携えていることを物語っている。
名詞が過去化の作用を最も体現した品詞であることは明白である。全ての対象は実はその出会いが最初である。昨日電車で見た人たちと今日見る人たちは全く異なった組み合わせであろう。その中で例え同一の人物を確認出来たとしても、それはその日におけるその人は一回性のものでしかない。明日のその人物もその人が認める自分の姿もその時の一回性によって独自的である筈だ。にもかかわらず我々は常にAをAとして、BをBとしてしか同定しない。そこにある種の誤謬があり、背進がある。欺瞞がある。しかし一々全ての邂逅を唯一無二のものとして裁定していたら身が持たない。そこでAもBも「他人」という一般的な「人物」としてカテゴライズし、範疇化された集合の要素として認識する。そこに名詞化された概念依拠的世界認識がある。名詞は創造的な死を意味するのだ。だからその名詞に生命を吹き込むのが動詞である。名詞を動的に叙述するのである。
カントが背進と呼んだものとは実は我々が想起を通して過去化された既成事実の集計化された過去記憶像と生まれてから現在に至るまで過去を一括して人生と捉える綜合化の視点が創造する(捏造すると言っても過言ではない。)生の軌跡の意義化(偶然の必然化、歴史認識の誕生)による現在認識にしか過ぎない。だからこそカントは仮想的対象という概念を通してそれを訴えたのだ。現在は過去を記憶(人格を形成する起点)を糧に未来へと向けて志向する人間の総合的視点を獲得する為の方便である。だからその過去化された生、フッサール的謂いを借りればスペチエス的な生の集合体の軌跡が歴史である。ある個人の歴史、ある集団(国家、共同体<あらゆる種類の>、民族)の歴史というように。
カントが仮想的対象と言いながら、同時に条件付きのとか条件者とか、経験的、感覚的世界と呼んだものとはヒューム的な意味での経験世界の表象性、現象性を前提した認識である。無条件者というものがそこから考え出されるのは、無条件者とはあるものとして考えられるというよりはクリプキも主張したような意味でのア・ポステリオリに見出されるア・プリオリである。「カントの自我論」で中島義道が実在性3と呼んだものもこれに他ならない。そしてそこで我々はあらゆる哲学や宗教をさえ産出してきた感覚界を離れたそれを俯瞰し、それを根源的に原因付けるものとしての根拠として、例えば神を措定して生に臨んできた我々人類の歴史が再び考える対象として浮上する。我々が現在とかある持続する時間にどこかで区切りをつけて過去化し得る時、我々が実は全ての偶然的な集積でしかない過去を集計化して必然へと結び付ける(必然化)のである、と認識することにおいてこそ生を区切る(幼年期、若年期、青年期、中年期、壮年期という風に)こと、ある行為に結果を見出すこと(三月期決算報告とかによって)など全てが実は偶然の必然化によって齎されていると了解出来るのだ。名詞はだからあくまでそういった生を区切るプロセスの合理性の下に見出された方策である。命名することで同一性を保障しようとする人間の仮の全体性認識(背進、欺瞞であるところの)の表象化された形態である。人間の細胞は8年で全て入れ替わるし、あるゆる原子的レヴェルでは全ての原子は三ヶ月で三分の一が入れ替わり、一年で全ての原子はほぼ入れ替わる。今日の私は昨日の私とは違うし、明日の私もまた今日の私とは違う。にもかかわらず一分、一秒も同一ではない自己を自己として特定の他者を常に同一の他者として認識するのが人間の社会的な現実である。法的にも殺人を犯したのは昨日の私で今日の私であると言う主張は通らない。
無条件者を神と呼ぼうが、自然の摂理と呼ぼうが、真理と呼ぼうが、道徳的法則と呼ぼうが、皆それらはこの過去の偶然的事実の集積から過去化された事実の連鎖を必然化する人間の不可避的な思念的な本性、傾向性こそが生み出した産物であり、命名(名詞によって名指すこと)も過去事実のデータ整理上の都合からなされた合理的認識で、記憶システムが過去を現在へと直結するものとして認識させつつ現在意識を持たせるのである。
動詞が過去化(現在を過去とし過去事実を集積する思念)によって創造された名詞に必要とされるということとはこの名詞の惰性的な性向を阻止するカント的に言えば仮想的想念、あるいはフッサール、ウィトゲンシュタイン流に言えば、そうではなかったかも知れない、そうではなくてもよかった今この世界という考え方の推進の下で意味を帯びてくる。つまり動詞が名詞の惰性的、欺瞞的な仮の全体決定性を阻止し、叙述事実の唯一性、偶然性を醸成し、定着させるのだ。しかし動詞によって叙述された出来事は叙述された瞬間に再び名詞化されて「一つの叙述真理」となり、過去の出来事という不変(現在からはもうどうしようもない)性の名の下に名詞化されるのだ。だから動詞は実は名詞の惰性的側面を打破しながら同時に新たな名詞的思念を形成させ、名詞化された過去の諸出来事(必然化された偶然の連鎖)を思念する際に側頭葉に格納されたものが想起され、その他の大脳各部署も関連記憶、連想想起を促進する役割を果たしている。動詞は名詞として名指された「昨日の飲み会での奴との会話」とか「先月のプレゼンでの彼の言動」といった記憶検索事項を一旦名詞的位置づけ作用の下に検索してしまえば今度はそこに再生的にその連鎖を反芻するような想起的想像力を喚起する。そしてそれを再び別の行為によって記憶事項として検索を閉じることを我々は自然とするのだから、その時過去が再生させる原動力である動詞の思念的使用が海馬を通して今度は別の記憶を収納させる、そしてその際に名詞的思念において「昨日の対話」とか「先月の彼」というような検索しやすいように命名する。名詞的命名、意味づけ作用とは過去化=必然化の為の誘引作用と考えられる。
Tuesday, August 24, 2010
A言語のメカニズム 24、第二節 失語症報告例から見る言語学的諸問題
数学は但し書きがあることで、その条件においてのみ有効である真理値の多い学であることは、ラッセルの示した例(前章)からも明白である。その意味では日常言語とは離れていても、大脳レヴェルではどこかでいつも我々自身によって考えられているような思考法の蓄積であり、集積であり、建築であろう。言語が仮定法によって幾らでも不可視、不可認識領域を仮想することの出来る世界であることは数学の構築世界にも通じる。
まず何より数学は思考の整理を旨とする純粋整理学の極致である。しかし単純なものであれば、例えば私のような数学的素人でも理解可能なこの世界は、一歩重層性を帯びると、約束事の連鎖と重層的構造理解は、そう容易には一般素人によって誰でも理解出来るものではないことくらいは誰でも知っている。だが一つ一つの数学的行為は誰もが実践している、と言える。脳は記憶する際に、記憶しておく為の整理をしている、その記憶すべき像を潜在的には全体的な映像として保持しつつも、その中でもかなりな部分の余計な要素を切り捨てて、整理している。だからどんなに克明に記憶しているつもりでも、どこか自分勝手なその都度の都合で勘違いして記憶している場合も多い。つまり概念的な認識を悟性とも言うべき作用が記憶すべき出来事の網膜上に残存する映像に被せられているというわけなのである。
数学において単純な論理の組み合わせであるなら、誰でも高等数学を簡単に理解出来るかというと、そうではないのは、明らかにそれが思惟の自然であり、実際の自然の自然とは異なっているということであろう。純粋概念はそれが単純な内は記憶しやすいし、慣用化されやすいであろうが、それが集積されると途端に難解になる。なぜなら我々は日常、慣れ親しんでいるものと、そうでないものを等価には認識出来ないという性向があるからである。慣れ親しんでいないものは、どんなに論理展開上必然であってさえ、それを想像することはおろか、正しいと思うことすら困難である場合も多い。我々はそれが多少間違っていたとしても雑多な、一部正しく、一部偏っていたり、曖昧であったり、要するに、全くの偽であることさえ除けば、幾分の不純要素を含んだものを必然的に嗜好する傾向があるのである。だから前にも書いたが、公的な文章がどこか理解し難く、取っ付き難いということもそういったことをよく立証しているし、あまりデカタンでさえなければ、どこか温かみを感じられるものとは、往々にして不純な要素、無矛盾ではなく、多少の(余り酷くない)矛盾を含んでいるものを親しみのあるものとして選択してゆく傾向があるのである。だから数学は誰でも基本的なことは理解している普遍学であるのに、その専門にはある特殊な能力を要する世界(芸術のように)なのである。数学はその厳密な無矛盾性への希求と実際には物理的には現実にありもしない円や線や点さえもが、あたかもそこにあるかの如く仮定して取り組む純粋思考の世界(学)なのである。しかしでは線や点が実際にはない、と言っても、だからと言って我々は線というとすぐに何かそれに近いものを連想出来る。これは明らかに線が概念上は我々の心的世界に存在している、ということである。例えば一本一本はそれぞれ異なった樹が生えている向こう岸の山を大きな川を渡りながら見ている時、明らかに我々は縦に生えた樹を認識せずに、山の横に連なってゆくライン(空と隔てられた線として)を認識するであろう。点や縦の線はそれが密集すれば容易に横の線に成り代わる。そういう風に記憶する方が脳内に容易に「これが山なのです。」と認識させながら記憶するのに都合がよいからなのだろうか?
あるいはこういうことがよくありはしないだろうか?頭の中で色々概念的な試行錯誤をして考えるのと、つまり思惟する中で論理的に自分なりに理解して、それを実際に他者にも理解しやすいように言葉を発しながら、その自分の脳内で履行し得た事項を説明するのは極めて難しい、ということがある。その一番いい例が数学ではなかろうか?数学は脳内で理解し得たとしても、その理解した経路や自己の発見した理解する為の回路は自分ではよくわかっているのに、それを他者に説明する段になると、途端に概略的に説明することが億劫に感じられる、ということが。
つまり言語行為とは自己の理解を他者に共有させる為のものである、と捉えるなら一旦自己の理解の仕方を取り下げて他者と共有出来る回路に乗せてから発信しないことには、何のことやらわからない(共通項の模索)、ということなのである。これが思惟の自然(脳内の自然)と共同体内の成員間にも共通なものとしての理解水準の自然とのズレなのである。後者を概念的自然と呼んでも差し支えあるまい。我々は自己の理解し得た論理を、例えば政治家が自己の信念とか信条を別の政治家に理解させようとして語る場合のように一旦、自己から切り離して論理を再構成しているわけで、これは思惟の自然を概念の自然へと置換している、ということなのだ。
もう一つ大きな事実についてここで取り上げておこう。
数学の試験の思い出といったら、あまり楽しいものではなかった、というのが筆者の場合であるが、ここで出された幾何学の設問について考えてみよう。例えば図形に関する記憶である。その図形をサンプルに何かの解を求める設問であった場合、全く皆目解への導き方を理解出来ない場合、図形は図形の形象そのものとして記憶されるかも知れないが、仮にすらすらとその設問に解を与えることが出来た場合一々その図形を覚えていられるであろうか、ということである。筆者のように試験で戸惑った思い出のある者のみが明確に図形の形象を映像記憶(そこには試験会場の緊張した臨場感、生徒たちの息遣い、鉛筆を走らせる音とかの情景が甦ってくるであろうけれど)をして、理解以前に自明のこととして解を導くことの出来た者は寧ろ潔くそのような些細な図形の形象など忘れてしまう、ということではないか?勿論図形そのものは二次元の概念であるから、三次元的な事物のような多角度から知覚可能なものと異なり記憶像としての格納のされ方はきっと別物であろう。つまり記憶は理解の仕方によって異なってくるということである。とりわけ二次元の図形などは殊更自分にとって必要不可欠な事項でない限り、自明性を付帯させている限り、記憶の格納から除去される運命にある、というのが一般的な真実ではなかろうか?(どんなに美しいと思っても、先週街角ですれ違った美女の顔さえ明確に思い出せる人はそうはいないであろう。ましてや図形や文字など尚更である。)
ということは海馬に格納されるような事項はもし仮に記憶されていても、決してそのままの形でではない、ということでもあるのだ。理解は理解した瞬間にそれ以前の状態とは別個のものとして記憶される。理解されたものは概念化されるが、それ以前の状態では未だ分析対象である。分析対象であるということはそのものの実在性、存在理由そのもの、ひいては意味の世界の項目となる。好奇が探索する対象とはだから概念性を超えている。この場合、理解とは概念的理解のことであるが、不可解であるということが実在性をより大きく喚起させる。
記憶のシステムを大脳による海馬その他の能力と捉えると、何らかの障害を持つ場合、言語機能を損傷するとかの症例が考えられるが、実際記憶は記憶したいものと、そうでないものを峻別している第一段階から、そもそもの記憶されるかどうかは決定されている。しかもそのことが実際の症例においても影響を及ぼしているということも十分考えられるのだ。哲学的に言えば他者、生物学的に言えば他個体に対する信頼感の有無が意思伝達において真意表明と偽装表示とを使い分けていることは明白であり、コミュニケーション自体の在り方、言辞に見られる説得力の有無すらもそこに依拠している。
例えば公的文章が抽象名詞を多用し、形式的言辞に終始しているの、明らかに責任回避の集団心理が機能し記憶し難い言辞が常套化しているのも、記憶して貰っては困るという作成者の側のどのように受け取られても良いようなご都合主義が作用している。何らかの明白な言辞、つまり明示である場合、そこに依拠するさまざまの共同体成員の利害に対する責任を請け負うこととなるからだ。憲法が曖昧な言辞に依拠し、役所の公的文章が一般的にどのような成員が読んでも一様の解釈を成立させる為の最大公約数的概念提示となっているのは、個別意味的世界が最大公約数的解釈から逸脱してゆく傾向があるからであり、明示している側の責任に大いなる負担を強いるからである。しかしこの問題はフーコー的論点へと移行する可能性が大きいのでこれ以上の言辞は差し控えるが、少なくともそういった形式的言辞が公共性を帯びているという触れ込みなのにもかかわらず、概念提示によって約束事を銘記しているのにもかかわらず何らの意味的実体性を伴っていないのは責任の所在を一極集中させない為の方策であることは明白であろう。大脳においてもまた記憶をはじめさまざまの機能が局在的機能のみに依拠せずに、相互連関的補助促進システムである、と捉えると少しく記憶、あるいは言語活動を誘発する機能の在り方を捉える上で理解しやすいのではなかろうか?例えばある事項を記憶したいと望むのは大脳の側による事情にもよる。容量の問題もあるし、そこで付随意的に大脳自体が相互のネットワークによって連絡し合い、記憶格納に対する指令を出しているとは考えられないであろうか?あるいは、記憶するに値するかどうかの判断もまた大脳自体のネットによって連関的に決定されている、というわけである。そう考えると失語症による幾多の症例もまた、大脳による判断、つまり全体的な機能を維持する為にやむを得ずある機能を停止させる、休息させるという判断が成立しているのではなかろうか?勿論そのような判断に至った経緯には明らかな欠損、障害があり得るわけだが、必ずしもある部分の欠損が同じ症例を引き起こしているわけでもない、ということは個体毎の諸々の事情に応じた大脳判断がなされている、と考えることは極めて自然の理に適ったことであろう。
だから無意識の内に形式的言辞に終始している個人の中には大脳による「あまり明示することを差し控えるような判断」が機能していると考えることは理に適っている。
あるいはそれは言辞であるとかの意識的行為ばかりではない。知覚行為においても、我々は既に何かを視界に入れている段階で記憶するに足るものであるかどうか、という基準から取捨選択しているのである。記憶する以前に知覚すらすべてを等価に受容野(そこから視覚細胞に情報を渡す部分)が情報感知しているわけではない。だから言語障害とか失語症、自閉症等の症例においても局在論に終始してばかりいても埒は明かない場合も多いと思われる。
数学の天才とはある意味ではベド・メータ的謂いを借りれば「蝿を蝿取り壷から取り出す」ように、ある障害によってその本来の機能を剥奪された人間の能力を再生することの出来る人である、と言える。明らかに位相幾何学の世界の認識方法は夢で我々が観念連合等の操作によって歪曲したりする時点での無意識世界に相通じるものがある。無意識の集合論と言ってもいいような数学世界がいとも容易に理解出来る個人というものは時折存在するが、言語障害者もそのような存在として認識した方がいいと思われる節もある。
思惟の自然と自然の自然は齟齬をきたしているとは既に述べたが、我々は我々自身の意志とは無縁に身体が不随意的に判断し、思考の回路や、言語発話において文法的ルール(FOXP2遺伝子が司っているとされている。)、語彙、記述、読力等を疎外するような緊急の判断を下したりする。それはどんなに意志や心的欲求にそぐわないものであってさえ、我々は身体条件的有限性において生を営んでいるのだから、そういった時にはそれに従う以外の選択肢はない。つまり身体上での大脳判断は明らかに自然の自然に従順に判断を下している。例えば語彙を忘れるということは日常よく我々にも起こり得ることであるが、ある特定の語彙を別の近接してはいるものの、全く概念規定上においては別の事物を名指す語彙に置換してしか発話出来ない症例というものも見られる。
今このような症例を引き起こす障害を何か特定出来ないか、と思案する時、こういうことを考えてみたらどうであろう。本論で何度か言語とはそれが発話される時に思惟された原型からは遠く隔たったとまでは行かなくとも、明らかに常套的概念規定性によってソシュールがラングと呼んだような共同体内概念規定へと転換されている。そこにはデリダが原=エクリチュールと読んだもののような思惟の自然に忠実な思念がそのままの形では体現されず、現実の機能性に依拠した言辞へと転換される、つまり障害によって原型を留めずにいる、ということであるならば、その原型と加工物の差を少しでも解明出来たなら、それを基準に言語障害や失語症を引き起こすメカニズムを解明することに奉仕し得ないであろうか、ということである。
先述のラッセルの「数理哲学入門」の引用内容を思い出して貰いたい。
例えば0~100とか200~300とかの有限な範囲を設定し、その間での数集合を考えてみよう。するとこの間の数を素数と捉えると101の数の集合である。あるいは小数点何桁までの有理数も含めると限定すれば、何とかどれ程の数になろうとも、有限の集合数値が導き出せるも、しかしこれを有理数、あるいは無理数をも含めて考えるとその間の数集合は∞になる。しかし論理的にはこれは何の無理もなく、思惟には考慮に入れることは出来る。それが思惟の自然ということになる。(少なくとも誰しもそれを可能条件として想定することが出来、かつたやすい。)しかしそれを実際に表示する段になると、なかなか難しい。(数学の専門家なら直ぐに理解出来る表わし方はあるだろうけど)思考の原型と発話される言辞との間の齟齬が、このことと関係ありはしないだろうか?
我々は発話をして思考の内容を言語へと写像する時にこのことに近い何かを感じ取ることはたやすい。言葉に言い表せないことを敢えて言葉に置き換えようとする。その時我々は当然のことながら、あらゆる可能性を想定しつつ(瞬時に)その中から、除外すべきあらゆるケースを除外して、その中でもある特定の語彙とか言い回しとかを一個だけ選択し、発話上のレールに乗せる。それはまるで既に翻訳されたRNAから元のDNAへと逆転写するかのように失語症の症例を一個一個、原型へと戻すこととは、それ程難しくはないかも知れない。発話された当の内容そのものの非常套性のみを注視すれば、それは難解の一語に尽きよう。しかし例えば「橋」と言った言辞が、本来であったら別の語彙にすべきところなのに、敢えてそう言い間違うことを間違いとは思わない症例において、「橋」(本来彼<女>の言いたいことは川なのであるが)という語彙で伝える言辞を心的に想起させる全体的状況を考慮に入れ、発話された奇異に感じる語彙選択上の障害を逆算すれば、なぜ「川」というべきところを「橋」と言わしめたのかの原因を特定出来るのではないか?
それは勿論フロイト的無意識の「言い間違い」と関係があるのか、という考えも当然出て来るが、フロイトの言う「言い間違い」は症状ではなかった。ヤコブソンは「一般言語学」(1963)において示している症例では、「ナイフ」の代わりに「フォーク」、「ランプ」の変わりに「テーブル」、「パイプ」の代わりに「吸う」、「トースター」の代わりに「食べる」と言う選択能力を冒された失語症患者のヘッドによる症例を紹介している。
ヤコブソンが紹介したヘッドの症例(近隣性に基づく換喩)では明らかに最初の例では食器類、2番目は食事時の情景、3番目は喫煙に関するイメージ、4番目は一番離れていて食事とその際の電化製品(大きく言えば食事風景であるが、選択誤差がその近隣ではなく概念性そのものである点が異なっている。)である。このように一見関連性があるように思われる錯誤は、しかし注意深く見てみると個別的にかなりランダムな基準であることがわかる。寧ろその基準が統一されていたとしたら、症例であってもかなり軽度のものと考えて差し支えないであろうし、そもそもそのような症例は成立しないのであろう。
このような語彙選択錯誤の症例から読み取れるのは、言語障害とか失語症ではランダムな基準がランダムであることの認識力そのものの低下、ないしは欠落と捉えることも可能であろう、ということである。
ところで物理学の世界での無限大、無限小は一見数学のそれと相同であるように思われる部分もあるが、本質的には物理学の世界では大きさ毎に全てその性質も付帯する物理的条件も異なっているということである。数学においては純粋に数の世界であるので、その大小は純粋に無限小は無限大を逆行させた、反転状態と捉えることは可能である。(例えば正と負とにおけるように)それは代数的表現でも乗数を+と-とでどちらからも同じ値を表現出来ることからも自明である。そこに大きさ毎の条件的差異はない。その意味では言語は発話されることで、物理的条件の世界に放り出されるが、それ以前の状態、脳内では、発話される事項の、つまり語彙選択の段階では明らかに物理的条件を考慮に入れているが、思念性そのものの内的様相においては、言葉に置換される前では純粋な状態であり(だからこそこれを概念に置き換えることが困難なのであるが)言わば体感される個的意味の世界とは極めて数学的思念性の世界に接近している、とも言えるのである。そしてここからが大切であるのだが、そういった純粋思念の世界においては先程のヘッド、ヤコブソンの例証での振幅のある観念連合の選択基準は、そのランダムさなど左程の重要性さえない、そういうカオスによって支配されている、ということである。数学は一見無矛盾性の追究の場でありながら、いたるところに綻びもある学であることも確かである。1から10までの数そのものは物理学的な大きさによる条件的性質の違いはないけれど、一つとして同じ性質の数とは隣接していないし、またその隣接条件もばらばらで、統一性はない。(ただ1、2、3、4という個々の数が等間隔で並んでいるということだけである。)かつそれは数が大きくなっていっても同様である。(最も1~100を10~1000と言う風に置換すればそこには同一法則の発見は可能であろうが)その意味では物理学の世界ではどの空間のどの場所でも、宇宙であろうとも地球であろうとも我々の身体であろうとも、ナノテク的分子、原子の世界であろうとも、大小の違いが発揮する条件的性質の差異は普遍的である。つまり物理学と数学とでは普遍性の性質が全く違うということである。
純粋なものはカオスである、と言った。失語症や言語障害の例が示すところの事実とは、最初に我々が語彙を発する以前に脳内で持つものはそのカオスであり、我々はただ瞬時にそのカオスを篩にかけ、たった一つの語彙をその中から選択し、発しているのだ、ということである。それは他者、他個体に対して了解させる、という目的性のためにわざわざカオスを統一させながらその中から一個の概念を敢えて搾り出すような操作を施しているのである。つまり自己了解(我々の脳内では常に自己にとってのみ了解出来る脳内神経回路の対話はなされている。)から他者説得へと転換される段になって、意図的に選択基準を設けて絞り込んでいるのである。故に脳内での自己理解は他者へ受け渡す為に概念が絞り込まれた段階で、当初の豊饒な姿は消え去り、残骸だけが伝えられる。(だからこそ他者性とは古来より哲学に重要テーマとなってきたのだ。)その残骸にしてしまうものを本論では障害と捉えている。一見何の矛盾もないかのように思われる数学論理上の数の並置には色々の矛盾、ただ等間隔に並置されていること以外には何の法則的秩序もない、そういうカオスを最初我々は抱き、コミュニケーション成立のためにその後操作を加え、当初とは全然別個のものとして、わざわざ「ある形」を作っているのだ、ということを本章の結論として次章へゆこうと思う。
まず何より数学は思考の整理を旨とする純粋整理学の極致である。しかし単純なものであれば、例えば私のような数学的素人でも理解可能なこの世界は、一歩重層性を帯びると、約束事の連鎖と重層的構造理解は、そう容易には一般素人によって誰でも理解出来るものではないことくらいは誰でも知っている。だが一つ一つの数学的行為は誰もが実践している、と言える。脳は記憶する際に、記憶しておく為の整理をしている、その記憶すべき像を潜在的には全体的な映像として保持しつつも、その中でもかなりな部分の余計な要素を切り捨てて、整理している。だからどんなに克明に記憶しているつもりでも、どこか自分勝手なその都度の都合で勘違いして記憶している場合も多い。つまり概念的な認識を悟性とも言うべき作用が記憶すべき出来事の網膜上に残存する映像に被せられているというわけなのである。
数学において単純な論理の組み合わせであるなら、誰でも高等数学を簡単に理解出来るかというと、そうではないのは、明らかにそれが思惟の自然であり、実際の自然の自然とは異なっているということであろう。純粋概念はそれが単純な内は記憶しやすいし、慣用化されやすいであろうが、それが集積されると途端に難解になる。なぜなら我々は日常、慣れ親しんでいるものと、そうでないものを等価には認識出来ないという性向があるからである。慣れ親しんでいないものは、どんなに論理展開上必然であってさえ、それを想像することはおろか、正しいと思うことすら困難である場合も多い。我々はそれが多少間違っていたとしても雑多な、一部正しく、一部偏っていたり、曖昧であったり、要するに、全くの偽であることさえ除けば、幾分の不純要素を含んだものを必然的に嗜好する傾向があるのである。だから前にも書いたが、公的な文章がどこか理解し難く、取っ付き難いということもそういったことをよく立証しているし、あまりデカタンでさえなければ、どこか温かみを感じられるものとは、往々にして不純な要素、無矛盾ではなく、多少の(余り酷くない)矛盾を含んでいるものを親しみのあるものとして選択してゆく傾向があるのである。だから数学は誰でも基本的なことは理解している普遍学であるのに、その専門にはある特殊な能力を要する世界(芸術のように)なのである。数学はその厳密な無矛盾性への希求と実際には物理的には現実にありもしない円や線や点さえもが、あたかもそこにあるかの如く仮定して取り組む純粋思考の世界(学)なのである。しかしでは線や点が実際にはない、と言っても、だからと言って我々は線というとすぐに何かそれに近いものを連想出来る。これは明らかに線が概念上は我々の心的世界に存在している、ということである。例えば一本一本はそれぞれ異なった樹が生えている向こう岸の山を大きな川を渡りながら見ている時、明らかに我々は縦に生えた樹を認識せずに、山の横に連なってゆくライン(空と隔てられた線として)を認識するであろう。点や縦の線はそれが密集すれば容易に横の線に成り代わる。そういう風に記憶する方が脳内に容易に「これが山なのです。」と認識させながら記憶するのに都合がよいからなのだろうか?
あるいはこういうことがよくありはしないだろうか?頭の中で色々概念的な試行錯誤をして考えるのと、つまり思惟する中で論理的に自分なりに理解して、それを実際に他者にも理解しやすいように言葉を発しながら、その自分の脳内で履行し得た事項を説明するのは極めて難しい、ということがある。その一番いい例が数学ではなかろうか?数学は脳内で理解し得たとしても、その理解した経路や自己の発見した理解する為の回路は自分ではよくわかっているのに、それを他者に説明する段になると、途端に概略的に説明することが億劫に感じられる、ということが。
つまり言語行為とは自己の理解を他者に共有させる為のものである、と捉えるなら一旦自己の理解の仕方を取り下げて他者と共有出来る回路に乗せてから発信しないことには、何のことやらわからない(共通項の模索)、ということなのである。これが思惟の自然(脳内の自然)と共同体内の成員間にも共通なものとしての理解水準の自然とのズレなのである。後者を概念的自然と呼んでも差し支えあるまい。我々は自己の理解し得た論理を、例えば政治家が自己の信念とか信条を別の政治家に理解させようとして語る場合のように一旦、自己から切り離して論理を再構成しているわけで、これは思惟の自然を概念の自然へと置換している、ということなのだ。
もう一つ大きな事実についてここで取り上げておこう。
数学の試験の思い出といったら、あまり楽しいものではなかった、というのが筆者の場合であるが、ここで出された幾何学の設問について考えてみよう。例えば図形に関する記憶である。その図形をサンプルに何かの解を求める設問であった場合、全く皆目解への導き方を理解出来ない場合、図形は図形の形象そのものとして記憶されるかも知れないが、仮にすらすらとその設問に解を与えることが出来た場合一々その図形を覚えていられるであろうか、ということである。筆者のように試験で戸惑った思い出のある者のみが明確に図形の形象を映像記憶(そこには試験会場の緊張した臨場感、生徒たちの息遣い、鉛筆を走らせる音とかの情景が甦ってくるであろうけれど)をして、理解以前に自明のこととして解を導くことの出来た者は寧ろ潔くそのような些細な図形の形象など忘れてしまう、ということではないか?勿論図形そのものは二次元の概念であるから、三次元的な事物のような多角度から知覚可能なものと異なり記憶像としての格納のされ方はきっと別物であろう。つまり記憶は理解の仕方によって異なってくるということである。とりわけ二次元の図形などは殊更自分にとって必要不可欠な事項でない限り、自明性を付帯させている限り、記憶の格納から除去される運命にある、というのが一般的な真実ではなかろうか?(どんなに美しいと思っても、先週街角ですれ違った美女の顔さえ明確に思い出せる人はそうはいないであろう。ましてや図形や文字など尚更である。)
ということは海馬に格納されるような事項はもし仮に記憶されていても、決してそのままの形でではない、ということでもあるのだ。理解は理解した瞬間にそれ以前の状態とは別個のものとして記憶される。理解されたものは概念化されるが、それ以前の状態では未だ分析対象である。分析対象であるということはそのものの実在性、存在理由そのもの、ひいては意味の世界の項目となる。好奇が探索する対象とはだから概念性を超えている。この場合、理解とは概念的理解のことであるが、不可解であるということが実在性をより大きく喚起させる。
記憶のシステムを大脳による海馬その他の能力と捉えると、何らかの障害を持つ場合、言語機能を損傷するとかの症例が考えられるが、実際記憶は記憶したいものと、そうでないものを峻別している第一段階から、そもそもの記憶されるかどうかは決定されている。しかもそのことが実際の症例においても影響を及ぼしているということも十分考えられるのだ。哲学的に言えば他者、生物学的に言えば他個体に対する信頼感の有無が意思伝達において真意表明と偽装表示とを使い分けていることは明白であり、コミュニケーション自体の在り方、言辞に見られる説得力の有無すらもそこに依拠している。
例えば公的文章が抽象名詞を多用し、形式的言辞に終始しているの、明らかに責任回避の集団心理が機能し記憶し難い言辞が常套化しているのも、記憶して貰っては困るという作成者の側のどのように受け取られても良いようなご都合主義が作用している。何らかの明白な言辞、つまり明示である場合、そこに依拠するさまざまの共同体成員の利害に対する責任を請け負うこととなるからだ。憲法が曖昧な言辞に依拠し、役所の公的文章が一般的にどのような成員が読んでも一様の解釈を成立させる為の最大公約数的概念提示となっているのは、個別意味的世界が最大公約数的解釈から逸脱してゆく傾向があるからであり、明示している側の責任に大いなる負担を強いるからである。しかしこの問題はフーコー的論点へと移行する可能性が大きいのでこれ以上の言辞は差し控えるが、少なくともそういった形式的言辞が公共性を帯びているという触れ込みなのにもかかわらず、概念提示によって約束事を銘記しているのにもかかわらず何らの意味的実体性を伴っていないのは責任の所在を一極集中させない為の方策であることは明白であろう。大脳においてもまた記憶をはじめさまざまの機能が局在的機能のみに依拠せずに、相互連関的補助促進システムである、と捉えると少しく記憶、あるいは言語活動を誘発する機能の在り方を捉える上で理解しやすいのではなかろうか?例えばある事項を記憶したいと望むのは大脳の側による事情にもよる。容量の問題もあるし、そこで付随意的に大脳自体が相互のネットワークによって連絡し合い、記憶格納に対する指令を出しているとは考えられないであろうか?あるいは、記憶するに値するかどうかの判断もまた大脳自体のネットによって連関的に決定されている、というわけである。そう考えると失語症による幾多の症例もまた、大脳による判断、つまり全体的な機能を維持する為にやむを得ずある機能を停止させる、休息させるという判断が成立しているのではなかろうか?勿論そのような判断に至った経緯には明らかな欠損、障害があり得るわけだが、必ずしもある部分の欠損が同じ症例を引き起こしているわけでもない、ということは個体毎の諸々の事情に応じた大脳判断がなされている、と考えることは極めて自然の理に適ったことであろう。
だから無意識の内に形式的言辞に終始している個人の中には大脳による「あまり明示することを差し控えるような判断」が機能していると考えることは理に適っている。
あるいはそれは言辞であるとかの意識的行為ばかりではない。知覚行為においても、我々は既に何かを視界に入れている段階で記憶するに足るものであるかどうか、という基準から取捨選択しているのである。記憶する以前に知覚すらすべてを等価に受容野(そこから視覚細胞に情報を渡す部分)が情報感知しているわけではない。だから言語障害とか失語症、自閉症等の症例においても局在論に終始してばかりいても埒は明かない場合も多いと思われる。
数学の天才とはある意味ではベド・メータ的謂いを借りれば「蝿を蝿取り壷から取り出す」ように、ある障害によってその本来の機能を剥奪された人間の能力を再生することの出来る人である、と言える。明らかに位相幾何学の世界の認識方法は夢で我々が観念連合等の操作によって歪曲したりする時点での無意識世界に相通じるものがある。無意識の集合論と言ってもいいような数学世界がいとも容易に理解出来る個人というものは時折存在するが、言語障害者もそのような存在として認識した方がいいと思われる節もある。
思惟の自然と自然の自然は齟齬をきたしているとは既に述べたが、我々は我々自身の意志とは無縁に身体が不随意的に判断し、思考の回路や、言語発話において文法的ルール(FOXP2遺伝子が司っているとされている。)、語彙、記述、読力等を疎外するような緊急の判断を下したりする。それはどんなに意志や心的欲求にそぐわないものであってさえ、我々は身体条件的有限性において生を営んでいるのだから、そういった時にはそれに従う以外の選択肢はない。つまり身体上での大脳判断は明らかに自然の自然に従順に判断を下している。例えば語彙を忘れるということは日常よく我々にも起こり得ることであるが、ある特定の語彙を別の近接してはいるものの、全く概念規定上においては別の事物を名指す語彙に置換してしか発話出来ない症例というものも見られる。
今このような症例を引き起こす障害を何か特定出来ないか、と思案する時、こういうことを考えてみたらどうであろう。本論で何度か言語とはそれが発話される時に思惟された原型からは遠く隔たったとまでは行かなくとも、明らかに常套的概念規定性によってソシュールがラングと呼んだような共同体内概念規定へと転換されている。そこにはデリダが原=エクリチュールと読んだもののような思惟の自然に忠実な思念がそのままの形では体現されず、現実の機能性に依拠した言辞へと転換される、つまり障害によって原型を留めずにいる、ということであるならば、その原型と加工物の差を少しでも解明出来たなら、それを基準に言語障害や失語症を引き起こすメカニズムを解明することに奉仕し得ないであろうか、ということである。
先述のラッセルの「数理哲学入門」の引用内容を思い出して貰いたい。
例えば0~100とか200~300とかの有限な範囲を設定し、その間での数集合を考えてみよう。するとこの間の数を素数と捉えると101の数の集合である。あるいは小数点何桁までの有理数も含めると限定すれば、何とかどれ程の数になろうとも、有限の集合数値が導き出せるも、しかしこれを有理数、あるいは無理数をも含めて考えるとその間の数集合は∞になる。しかし論理的にはこれは何の無理もなく、思惟には考慮に入れることは出来る。それが思惟の自然ということになる。(少なくとも誰しもそれを可能条件として想定することが出来、かつたやすい。)しかしそれを実際に表示する段になると、なかなか難しい。(数学の専門家なら直ぐに理解出来る表わし方はあるだろうけど)思考の原型と発話される言辞との間の齟齬が、このことと関係ありはしないだろうか?
我々は発話をして思考の内容を言語へと写像する時にこのことに近い何かを感じ取ることはたやすい。言葉に言い表せないことを敢えて言葉に置き換えようとする。その時我々は当然のことながら、あらゆる可能性を想定しつつ(瞬時に)その中から、除外すべきあらゆるケースを除外して、その中でもある特定の語彙とか言い回しとかを一個だけ選択し、発話上のレールに乗せる。それはまるで既に翻訳されたRNAから元のDNAへと逆転写するかのように失語症の症例を一個一個、原型へと戻すこととは、それ程難しくはないかも知れない。発話された当の内容そのものの非常套性のみを注視すれば、それは難解の一語に尽きよう。しかし例えば「橋」と言った言辞が、本来であったら別の語彙にすべきところなのに、敢えてそう言い間違うことを間違いとは思わない症例において、「橋」(本来彼<女>の言いたいことは川なのであるが)という語彙で伝える言辞を心的に想起させる全体的状況を考慮に入れ、発話された奇異に感じる語彙選択上の障害を逆算すれば、なぜ「川」というべきところを「橋」と言わしめたのかの原因を特定出来るのではないか?
それは勿論フロイト的無意識の「言い間違い」と関係があるのか、という考えも当然出て来るが、フロイトの言う「言い間違い」は症状ではなかった。ヤコブソンは「一般言語学」(1963)において示している症例では、「ナイフ」の代わりに「フォーク」、「ランプ」の変わりに「テーブル」、「パイプ」の代わりに「吸う」、「トースター」の代わりに「食べる」と言う選択能力を冒された失語症患者のヘッドによる症例を紹介している。
ヤコブソンが紹介したヘッドの症例(近隣性に基づく換喩)では明らかに最初の例では食器類、2番目は食事時の情景、3番目は喫煙に関するイメージ、4番目は一番離れていて食事とその際の電化製品(大きく言えば食事風景であるが、選択誤差がその近隣ではなく概念性そのものである点が異なっている。)である。このように一見関連性があるように思われる錯誤は、しかし注意深く見てみると個別的にかなりランダムな基準であることがわかる。寧ろその基準が統一されていたとしたら、症例であってもかなり軽度のものと考えて差し支えないであろうし、そもそもそのような症例は成立しないのであろう。
このような語彙選択錯誤の症例から読み取れるのは、言語障害とか失語症ではランダムな基準がランダムであることの認識力そのものの低下、ないしは欠落と捉えることも可能であろう、ということである。
ところで物理学の世界での無限大、無限小は一見数学のそれと相同であるように思われる部分もあるが、本質的には物理学の世界では大きさ毎に全てその性質も付帯する物理的条件も異なっているということである。数学においては純粋に数の世界であるので、その大小は純粋に無限小は無限大を逆行させた、反転状態と捉えることは可能である。(例えば正と負とにおけるように)それは代数的表現でも乗数を+と-とでどちらからも同じ値を表現出来ることからも自明である。そこに大きさ毎の条件的差異はない。その意味では言語は発話されることで、物理的条件の世界に放り出されるが、それ以前の状態、脳内では、発話される事項の、つまり語彙選択の段階では明らかに物理的条件を考慮に入れているが、思念性そのものの内的様相においては、言葉に置換される前では純粋な状態であり(だからこそこれを概念に置き換えることが困難なのであるが)言わば体感される個的意味の世界とは極めて数学的思念性の世界に接近している、とも言えるのである。そしてここからが大切であるのだが、そういった純粋思念の世界においては先程のヘッド、ヤコブソンの例証での振幅のある観念連合の選択基準は、そのランダムさなど左程の重要性さえない、そういうカオスによって支配されている、ということである。数学は一見無矛盾性の追究の場でありながら、いたるところに綻びもある学であることも確かである。1から10までの数そのものは物理学的な大きさによる条件的性質の違いはないけれど、一つとして同じ性質の数とは隣接していないし、またその隣接条件もばらばらで、統一性はない。(ただ1、2、3、4という個々の数が等間隔で並んでいるということだけである。)かつそれは数が大きくなっていっても同様である。(最も1~100を10~1000と言う風に置換すればそこには同一法則の発見は可能であろうが)その意味では物理学の世界ではどの空間のどの場所でも、宇宙であろうとも地球であろうとも我々の身体であろうとも、ナノテク的分子、原子の世界であろうとも、大小の違いが発揮する条件的性質の差異は普遍的である。つまり物理学と数学とでは普遍性の性質が全く違うということである。
純粋なものはカオスである、と言った。失語症や言語障害の例が示すところの事実とは、最初に我々が語彙を発する以前に脳内で持つものはそのカオスであり、我々はただ瞬時にそのカオスを篩にかけ、たった一つの語彙をその中から選択し、発しているのだ、ということである。それは他者、他個体に対して了解させる、という目的性のためにわざわざカオスを統一させながらその中から一個の概念を敢えて搾り出すような操作を施しているのである。つまり自己了解(我々の脳内では常に自己にとってのみ了解出来る脳内神経回路の対話はなされている。)から他者説得へと転換される段になって、意図的に選択基準を設けて絞り込んでいるのである。故に脳内での自己理解は他者へ受け渡す為に概念が絞り込まれた段階で、当初の豊饒な姿は消え去り、残骸だけが伝えられる。(だからこそ他者性とは古来より哲学に重要テーマとなってきたのだ。)その残骸にしてしまうものを本論では障害と捉えている。一見何の矛盾もないかのように思われる数学論理上の数の並置には色々の矛盾、ただ等間隔に並置されていること以外には何の法則的秩序もない、そういうカオスを最初我々は抱き、コミュニケーション成立のためにその後操作を加え、当初とは全然別個のものとして、わざわざ「ある形」を作っているのだ、ということを本章の結論として次章へゆこうと思う。
Monday, July 5, 2010
C翻弄論 結論 魅力論
多くの人々の心を惹きつけるものには必ず何かがある。皆が魅力を持つものが悪いものの場合もある。また自分だけが魅力を感じるものが下らないものであるとも決め付けられない。その本質論に入る前に少し堅い話をしよう。
基本的に人間の認識の視点の根源とは、ミシェル・アンリの主張、「西欧哲学が拠って立つ地点が存在論的一元論であり、主観、客観の根源は客観的に他者認識する」に実は我々今まで長々と考えてきたことの本質が横たわっている。フッサールが超越論的主観性と捉えた我々の信念の本質も、実はアンリが述べた存在論的一元論に収斂されてゆく。人間が信念を基本的な知恵として無意識のレヴェルからも携えていること自体が、時には弊害的に押し寄せる典型的例として、贔屓の人間のなす行為はたとえそれが善行ではなく、暴挙であってさえ、容認し、またそれとは逆に嫌悪の感情を抱いている成員に対して我々はそれが正論であっても尚容認し得ないという極めて不都合な矛盾した傾向性があるということだ。人間はなぜ他者(自分の周囲に生活している成員に対してや、自分とは直にはかかわりがないが、各種メスメディアに登場する人物に対して畏敬の念をも含めて)に対して、贔屓にするのだろうか?その精神状態が、魅力を感じる一個のクオリアによる仕業と捉え人間論的本質を考えて纏めよう。
人間は贔屓なものに接する時、それがヒーローであろうとアンチ・ヒーローであろうと、それが正義漢だろうと、悪人だろうと、いったん虜になるとなかなかその感情を払拭出来ない。それは一種の麻薬的な作用である。進化論生物学者のドーキンスは例証しているが、カッコウは他種の鳥の巣に自分の雛を預け託卵するが、その託された他種の鳥は自分の雛とカッコウ両方を育て、しかもカッコウの雛は他種の雛よりも巨大化して育ち、果ては他種の雛を巣から蹴落とす。彼はカッコウのように托卵する鳥類がなぜ別種の親鳥たちを騙し続けることが出来るのか、ということについて、それは騙される方においても何か得体の知れぬ快感、つまりつい騙されてしまう、騙されるように身を委ねてしまう説明不能の魔力的な魅力が托卵するカッコウの雛に備わっているのではないか、と考える。この考え方は極めて魅力的だ。この生物学的事実は自然選択や進化上のメリットという面からだけでは説明がつかない。明らかに偽装される側の雛たちは本当に親鳥から餌をせしめる権利を有しているのにもかかわらず、貰い少なくなるばかりか、巣から偽装側のヒヨドリに蹴落とされる。実子を失うという痛い思いをしてまで、偽装に嵌ってしまい、作為を見抜けない親鳥たちにとってその偽装者カッコウの雛(託卵するのは親であるが、雛自身に)はたまらなく魅力的なところがあるに違いない、とい彼は考える。我々にも悪党であることを知りつつ魅力的な者にはつい惹かれる、贔屓にすることが日常でもある。それが幼児のように害悪の少ないケースばかりではない。大の大人に対してさえ、あの悪党は何故か許せるという理性レヴェルから言えば合理的な説明がつかない贔屓感情を抱くことは珍しくない。そういう意味で我々はある特定の政治家やタレントを心から贔屓にして、ヒーローにしたがる。それも自分だけが一番その本質を見抜いているかの如き錯覚を持つ。(実は多くの他人が同じ気持ちなのに。)
例えば我々が異性に惹かれる時、そこに理由などあるだろうか?あるいはそういう理由を概念的、合理的に説明出来るだろうか?恋人や愛人(性的パートナー)を選択する時我々は果たして自己や他者に対してその理由を理性論的に説明し得るだろうか?またそういう説明に意味があるだろうか?必要とする他者を選択し、彼(女)を「自分にとって必要な人だ」と意志決定するのに一々合理的説明が自分や他者につくだろうか?だから逆に公的利害において(例えば会社の将来)のためを思って自己の贔屓心や親近感にのみ依拠させないで人選するというような時に人は私的感情を敢えて抑制しているが、友人を選ぶ時我々は、論理的に考え行動しているとは到底思えない。本家から受け継いだ資産管理のために配偶者を世間への体裁を気にして公的な人格、家風に沿う異性を理性論的に選択するということは過去にはあったし、今でも政略結婚的な現実も皆無ではない。逆にそのような家訓を持つ家系の人間でさえそんなに資産管理が重要なら、結婚相手に自己選択しないくらいなら、寧ろ資産管理ビジネスの専門家を雇う方が賢明であると判断する人間も多いだろう。配偶者だけは理性的に選ぶという考えは今日でも消滅はしていないが、それでも自己の内的な贔屓心を全く無視して選択するというようなことがあり得るかどうか私には疑問である。だから仮に選挙で候補を選ぶ時に全く贔屓心を無視し完全に理性的に判断して投票している、という主張にも信頼が持てない。本当はただ惹かれるからその候補に投票しているのに、安易な動機で選択したことを悟られまいとして自己弁護していることが多いだろう。
我々はヒーローに惹かれる(スポーツの勝者のような)場合、「合わせる」意識を生じさせ(勿論個人的に好きである場合も多いだろうが)、ヒーロー並びに、アンチ・ヒーローの中に、ある種屈折した性質(ヒーローの玉に瑕の部分)を見出し、贔屓心でそれさえ惹かれる場合、孤独確保意識を無意識に採用している。そういう場合自分だけがそういう嗜好なのだ(私秘的なもの)と錯覚する。
人間は自分にだけ理解出来ると錯覚するような真摯さのクオリアを持つ、と私は思う。実はこの自分だけが理解出来るのではないかという私秘性こそが、贔屓感情の最も顕著なものである。しかしどのようなマイナーな嗜好でも、恐らくそれは精神異常(ネクロフィリア、つまり死体愛好者とかのような)を除いて、自分の脇の汗の匂いを嗅ぐ癖を持っている人は多い。告白すると私にもそういう癖もある。そういう悪癖とテレビに登場するヒーローやマイナーなタレントや政治家、あるいは文化人に対する贔屓感情には共通性がある。それがマイナーであればあるほどその魅力は自分にとって切実だ。癖はある意味では全般的にサルトルが粘体の惰性と呼んだもの(「存在と無」、「想像力の問題」その他で)と同様、拘泥しやすい魅力だし、恍惚的な偏愛をきたしもする。それは嗜好的な翻弄だ。どのような高尚な趣味であれ、卑俗な癖であれ、恐らく生物学的な脳内の作用としては同等のものだろう。またもう一つ重要なことは、それが自分だけに固有ではないということを他者から告白され知ると、それまで自分だけだと思い抱いていた不安感(マイナーさに対する偏愛であるが故に持っていた不安)が一気に解除され、逆に誇りとなることすらある。これは恐らく脳科学的見地に立てば、スリリングでサスペンシヴな内容の映像を見て興奮を味わう脳内のモルヒネ作用とも関係があるだろう。ある種の達成感というものは、自分の目標達成であるならまだしも健康だが、自己欲求が満たされない代理感情として他者に価値的、能力的抜群さに対する憧れと、日頃不満を抱いている成員を代理攻撃し溜飲を下げる能力の持ち主がヒーロー(皆自分にとっての私秘的な存在へと昇華される。)の発見の場合もある。またヒーローは、得てして多少悪の匂いも立ち込める、毒がある方が自分の日頃の鬱憤を解消してくれる。
ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクはその著「斜めから見る」において<主体というものそのものも人間が自分の中心に設定した価値的な何物か(それを彼はラカン理論を軸に、対象aと呼んでいる。)を巡りぐるぐる回る自己内部の心的な運動だ>と捉える。中心に幻想があり、それは私秘的であり(そういうところウィトゲンシュタインの私的言語を想起させる。)、その非在性が宗教、神、偶像を私的に存在させ、それは充足されぬ欲望の欠落感を誤魔化すために設けられた空虚な中心であり、それがラカンの言う対象aである。主体というもう一つの幻想をその周囲をぐるぐる回ることを通して顕現させる当のものであるという発想は説得力がある。ラカン流の現実界という概念はある意味ではカントの物自体に近い観念であり、その物自体の薄っぺらさに耐えられない人間はそこに意味と価値を付与する、とジジェクは捉える。「存在の耐えられない軽さ」の克服、現象界の限界は人間の認知の無能力に対する覚醒である。だから人は他者(客観の起源)に惹かれる。
洋の東西を問わず、宗教の本質も、偶像設定の本質(だからこそ古代のユダヤ教から一神教の宗教では偶像を禁止してきた。それだけ偶像崇拝には魅力があったし、それは今でも変わらない。)も皆この人間の中心設定的心的作用、そこに価値と意味を付与せずにはおれない、それでいて集団同化意識と孤独確保意識とが両輪として作用する現実と関係があり、一方で皆の憧れる対象を自分も欲し、他方それだけでは飽き足らず、自分固有の私秘的な対象を求める。人間の「真摯さのクオリア」とも呼ぶべき言語化し得ない感性は馬の合う人間とそうでない人間の差を他者に対して我々が付与するように、もともとあったように感じられはするが、本来的には既成事実による偶発的な展開(我々の友人関係を見てみれば分かる。しかし偶発性も相互の相性というものに端を発する場合も多いと思われる。)に対して真理の如き価値を付与する言語的思念の幻想である。人間はア・プリオリに設定された真理に沿って生きるのではなく、自分が信じられ、愛し得る対象を軸に自ら固有の真理を打ち建てようとする。そこには魅力という得体の知れぬ、価値観とも真理とも異なる受容可能性、拒否不必要性という事態が立ちはだかる。この「魅力があるから贔屓にする」は合理に説明は出来ぬ。説明出来るものは魅力ではない。
ドーキンスの指摘する「騙され続ける事態」を招くこと自体他種の鳥の生存戦略からすれば、非合理的な、エネルギー・ロスである。にもかかわらず騙されてしまうことに、ドーキンスはカッコウが麻薬的な内分泌性の物質を発散しているのではないかと考える。そして人間の男性が魅力的な女性に対して直の恋愛関係を作ることなく、その写真や映像を見ながらマスターベーションをする事実も生物が生存戦略的な意味合いからは非合理的な行動を採る証拠だ、とする。魅力の本質はそれが利益を齎すものであれ、実害を被るものであれ、麻薬的な脳内の非理性的認識に大いに関係があるのではないか。周囲の除け者になりたくないし、いじめも受けたくないのでそれが悪いことだと承知してもつい他者と「合わせて」いじめに加担することだってある。
社会常識、社会通念、世間知、一般的観念といったものはおしなべて、人間が集団生活を営む上で必要不可欠な同調性である。挨拶、儀式全般の遂行、敬語の使用、法律遵守、行進、合唱、楽器演奏(合奏)、同人誌、雑誌への投稿、祭りの熱狂、スポーツ観戦、演劇鑑賞、音楽鑑賞、選挙、キャッチフレーズの使用、詩歌や駄洒落における語呂合わせ。それらは全て集団内で「合わせる」行為として位置付けられる。それはある意味では法的な遵守姿勢だし、積極的な個人の側から集団へと同意表明行為として認識されよう。オリンピックの際には通常、自分の国の選手を応援し、選手がメダルを獲れば、国家と国旗が掲揚されることを喜び、自国選手が敗れれば同盟国とか贔屓の国を応援する。こういった場合我々は集団同化意識に自らの関心的志向性を焦点化する。そのことの是非を疑うことは通常稀である。しかし同時に自分だけのプライヴェートな時間や空間を求め、その中で密かな歓びを味わうという二面性が人間にはある。要するに他者から疎まれない程度に逸脱したいという欲求がある。
例えば性行為は誰でも一度は経験する類のものという意味では明らかに「合わせる」行為である。しかし同時に、それは明らかに反社会的な行為でもある。つまり個人のDNAの存続のみを目的とした行為は社会的に結婚という形で価値規範的にお墨付きを得ているが、心的にも行為目的的にも明らかに本質は反社会的である。ただ社会生物学、生物進化学的な意味で生殖、種の繁栄のための正当行為であるに過ぎない。
例えば犯罪者のような成員に対しても、完璧に憎悪の対象となる者から、果ては同情を寄せたくなる者まで段階があり、どの犯罪者に対しても同じレヴェルで感情を寄せることはない。何かに関して私は寛容だが、別の件では許せないというモラル上の是非感情や、何かに関してはずぼらでも我慢出来るが、別の件に関しては厳密でなければ気が済まないという判断基準には個人差があり、その個人差に内在する「真摯さのクオリア」の波長が合う人間同士は馬が合う、気が合う(chemistry)。が、それは容易に説明することが通常出来ない。個人的な性格遺伝子の差異、個人史といったものが密接に絡み合って形成された判断基準だからだ。こういう個人的に相性がいい人間関係というものはしばしばある魅力ある対象に対して長所以外の欠点にさえ魅力を感じ合える、偏愛的な嗜好に対する共感という「真摯さのクオリア」が重要な役割を果たす。(極めつけの変態的なことであれあるほど緊密な共感<背徳的なスリリングさ>が生じる。)それは権威からの重圧感からの開放意識とも大いに関係があるのではないか?
私たちはこの相反する二つの心的傾向を常に共存させて生活している。皆が賛同する倫理を積極的に肯定し、皆が賛美する偶像的存在を自分もまた積極的に受容すると同時に、ある時は衝動的に価値基準の一切を否定したいかの如く、殆ど合理的な説明の尽かない判断基準を極めて理性的な判断規準と何の矛盾もなく共存させている。だから人間はどのようなタイプの者であれ、多かれ少なかれ社会的存在であると同時に、反社会的存在とも言い得るのだ。
だから逆に究極的にどのような他者から爪弾きに合っても社会全体が自己の存在を容認すれば、その人間はよくある「変人」ということで済まされ、事実昔から偉人には変人が多かったということからもそのことは了解される。しかしもし自分の立場が完全に社会からも周囲の家族や仲間からも孤立してしまった場合、人間はそれでも尚内的に、神様だけには見捨てはしないだろうと考えてきた。神に対してだけは「真摯さのクオリア」で自己と繋がっていると信じたい。宗教心や神への契約の観念も全てこの心理に帰着する。社会から追放された異教者、殺人を犯し逃亡を続ける犯罪者でさえ、この究極の救いへの希求によって辛うじて生命を維持してゆける。だから自殺はそれでも尚、神にさえも見捨てられたと人間が認識した時に初めて自己に許す行為ではないだろうか?(我々は負け犬的な人生の成員に対してさえ共感を得ることが出来る。)
人間は運命に翻弄されながらも、その究極の部分では自己に対する救いの場を常に見出している間は、未来へと希望を持つことが出来る。しかし自分の未来の全てが神の予定調和によって何らかの手段によって知らしめられるなら、我々は果たして生を、未来が不確実であった時のように全うし得るであろうか?
全米で一冊の本が注目を浴びた。その本は日本に八年後に翻訳された。著者は歴史家アリス・ウェクスラーであり、その妹と一緒に彼女はある遺伝病の病因と、遺伝子家系図を見出すことに傾注する。その結果彼女らはある選択をする。ウェクスラー家において母親の遺伝的疾患を母親から告白されたのが、アリス、ナンシー姉妹にとって成人してからずっと後のことだった(結局この本の著者のアリスが二十六歳の時、1968年に発病徴候顕在化以後初めて彼女の母親がハンチントン病であることが判明する。)ことが、少なくとも幼年期、思春期共に支障なく成長出来たことを彼女らは今でも感謝している。だが自分の家系に宿る難病の系譜を知り、その事実に向き合う事態は、人生において関心対象を見出し熱中出来るという幸福な事実と異なり、その探索と、病気の系譜を辿る道筋は即自分たちに影のように投げかけられる家族の未来の運命なのである。
アリス、ナンシーの母親レオノアは、家族の中から初めて大学へ進学し、大学院も卒業した俊才だった。彼女は生物学で修士を獲った。彼女の父アブラハム・R・セービンは白ロシアに住むユダヤ人だったが、帝政ロシアの反ユダヤ主義から逃れて渡米した。彼は衣料雑貨店で働いた。彼は幼い頃ルーマニアから移住してきた女性、サビナ・フェイゲンバウムと結婚した。彼らは長男、次男、三男、そしてレオノアを儲けた。レオノアの父アブラハムはアリスの誕生前の1929年にハンチントン舞踏病にて没した。レオノアの祖父ヤコブ・L・ザイチェク、やはり母の叔母のディンカ、そしてアブラハムの他の妹たちリア、アイダも皆この奇病によって命を落としている。しかしそのことはこの家族間では話題にするのも憚られるタブーだった。アリスの謂いによると「この家族はハンチントン病を恥ずべき秘密だと考えていたし、よほど親しい親戚が揃ったときでなければ話題に上ることもなく、それすらも稀であった。」(「ウェクスラー家の選択」以後全部この件に関して同書から)結局彼女らの父が配偶者たるレオノアの家系の真実を知るのはずっとあとである。アリスの父は若い頃弁護士になり、後に精神科医に転身するために最初妻と住んだニューヨークを離れる。しかし妻レオノアは家事に専念、若い頃の学問の夢を諦める。彼女は自分が女であるために彼女の父の病気について薄々知っていたが遺伝しないと思っていた。しかし後にレオノアの兄弟三人ともハンチントン病であることが判明(皆アリス、ナンシーの若い頃その病気で死ぬ。)した時、彼女自身その遺伝的な実害があるということを知り、同時に彼女の夫ミルトン・ウェクスラーも全ての真実を医師から伝えられる。しかし遺伝学を学んでいたレオノアは多くの文献から自分にも発病可能性があることを知らない筈はないと彼女の娘である著者アリスは述べる。ここに科学者であり、客観的に事実見据える知識と理性を持ち合わせている筈だが、こと自分のことになると大丈夫だろうと思いたい人間の心理が透けて見える。アリスは父親に母の病気を知っていて私たちを産んだのかと問い詰めるが、その時の彼女,及びそれを問い詰められて激怒した父の心理は筆舌に尽くし難い苦悩だったであろう。<私がこの本を読んで関心があったこと一つとは、アリスの語るレオノア・ウェクスラーが一人で悩みを抱え込む姿だった。喪の時通常韓国人は辺りを憚らずに嗚咽する。この行為はある意味では他者に対して窮状を訴えるかの如くである。しかしどうも彼女ばかりか夫もユダヤ系であるウェクスラー家の人々はそういうタイプではないらしい。それともアメリカ人の国民性なのか?私は以前湾岸戦争で亡くなった息子を持つ父親の映像を見たことがあるが、その時もうっすらと涙を溜めさえせずに、じっと悲しみを耐え忍んでいた姿が妙に印象的だった。このことに関して日本人も確かに自然死の場合、そうである。ただ自然死以外ではどうなのか私には未だよくわからない。アメリカ人は国家のために殉じることを名誉と思う気持ちが強いのかも知れない。(これも個人差はあるだろうが。)>
ハンチントン病は16世紀半ばのノルウェー、17世紀のフランス、イギリスに既に見られ、それはアリスによるとヨーロッパ人の移住と植民地拡大の歴史でもある。舞踏病について簡単に触れておこう。これは広辞苑によると、「顔面、手、足、舌などに一種の付随的急速運動を現す、踊るような身振りを主徴とする疾患。リウマチ性舞踏病は小舞踏病といわれ、小児に発症し治りやすいが、遺伝性のハンチントン舞踏病(アメリカの神経学者G・S・Huntington1851~1916に因む。)は中年に始まり精神障害を伴い、進行性で予後不良。」ハンチントン病をもつ人々は、症状が次々に起こっても、物事を志向する感覚を忘れないでいるとはいえ(そこはアルツハイマー病とはちがう)、発病から十年、二十年たって、最終的には痴呆のような症状が起こってくるのが一般的なようだ。ある神経学者はこういう書き方もしている。「痴呆の最終段階に達すると、患者は人格の完全な崩壊という哀れな情景を示す。」という。アリスの母レオノアは四十六歳にして発病する。私たちは小児の際の難病(それは克服し得るものとそうではないものがある。)と大人になってからの難病というものの両方を経験する。認知症も大人になってからの難病である。そのいずれが辛いかという判断を我々は下せない。(コールド・スプリング・ハーバー研究所(チャールズ・B・ダベンポート創設)は功罪を世界史に残している。その実証的なデータには多くの難病保持者に対する激励となる一方、難病そのものへの恐怖感を与えてきている。特に「ハンチントン病の患者と発病リスクを持つ人々をアメリカから一掃するための強制断種であり、移民制限であった」という。(この歴史的な経過は我が国のハンセン氏病に対する国家政策とも共通している。))遅く発病するという現実が不安感を倍増させもする。事実母親の遺伝病を聞かされたアリスは自分にも50%の確率で受け継がれた遺伝子についてナーバスになり、果てはほんの些細な忘れごとをも遺伝病の徴候と結び付けてしまったという。結局アリスたちは母親がその兄弟全員がハンチントン病で死ぬまでは自分にもそういう運命に無頓着だったが、次々訪れる死を目撃し不安感に襲われ始め共に心が掻き乱されてゆく過程を体験する。そして何よりも自分より先に徴候の現れる家族、死に行く家族を健常者として見守らなくてはならない運命が最も著者にとって過酷だったと言う。
かつて西部邁はテレビで「日本人は死を恐れるようになった。」と言っていたが、私は違うと思う。死が恐ろしいのはどの民族も同じだ。我々はただ死の恐怖の克服の仕方が時代ごとに変化してきていると捉えた方がよいと思う。寧ろ日本人は近年「生に対しての執着心あるいは忍耐力」が薄弱化してきたと思う。死の恐怖の克服の仕方において現代の日本人は死を受容することを望んでいるとさえ言えるのでは?ルソーは「人間不平等起源論」や「エミール」で衣服を着、文明化したおかげで人間が微弱になり、免疫抵抗力を失ったと言った。それはレヴィナスが「<渇望>とはなにも欠けてはいない者が有する欲求、じぶんの存在を所有している者、みずからの充溢のかなたにおもむく者、<無限なもの>の観念を有する者に帰属する希求であるからである。」という謂いと直結している。日本人はその意味では過不足ない状況において、「いじめ」を同一種内攻撃欲求実現に利用し、サディスティックな欲求を満たし始め、それを受ける者さえそれを受容して、抵抗することを即座に断念する。嫌いな人間から無理して好かれようと思う必要などないと私はいじめを受ける人に言いたい。全ての人に好かれようと思えば、無理が生じ、いじめの対象となりやすいと思う。敵は人間社会においていてもよいのだ。その証拠に本当にウェクスラー家のような事情を抱えていると知っていて尚いじめをするような輩は殆どいないと私は思う。いじめの対象となることは存在感があるということなのだ。(また今日のいじめ自殺は大人も含めて個々異なる理由はあるのだろうが、どこかで自殺志願者たちには、自分の死をテレビや新聞で取り上げられるのではないかという事態を想定している気が私にはする。またマスメディアはそのいじめ自殺を一括してニュースソースにして劇場型社会性認識を無意識に視聴者に植え付ける。)
遺伝子レヴェルでの疾患を持つ家族はウェクスラー家に限らず、必死で生を求めるから自殺という選択肢は、最悪の場合にのみ保存されている。未来予測の下で、そう遠くはない死の決定性は回避不能である遺伝子傾向性は、今や個人情報である。ルソーは「動物とは死とは何かをまったく知らない」と言ったが、私は言い換えたい。「動物は元気な時に自分もいつかは死ぬということを知らない。人間だけがそれを知っている。」と。そして元気な時くらい死の現実を忘れるような鈍感さも時には必要だと私は言いたい。本当に死に隣接した者は生を意識し、死を考えないようにする筈だ。元気なのに尚死を考えられるのはレヴィナスの言う渇望であり、無いもの強請りなのだ。(いじめられていると感じるあなたに言いたい。そんなにいじめをしているという意識は多くの人にはない。いじめは皆のからかい気分の気紛れでしかない。大人社会にはもっと激烈ないじめが罷り通っている。我々は皆多かれ少なかれいじめの被害者かつ加害者である。被害者意識の過剰反応を抑制することをモットーとして頂きたい。偉大な人間の大多数は苛められっ子である場合も多いのだから。)
私たちの知る歴史はある意味では支配者、権力者によって書き換えられてきた部分が多分にある。しかし同時に権力者の存在の仕方、つまり真の権力は、中間支配層、つまり前章の最後節の中位者にあり、その安定志向が大きな歴史の書き換えを行わせてきた。前章で私は敬語や官僚の誕生のプロセスに関する思考実験を試みたが、この中位者の存在は何も官僚職に留まるものではない。寧ろ官僚の中にも立派な志の方も多い。マスコミもそうである。進歩主義的考え方の人々も、保守的な考え方の人々の間の双方に、あるいは経済的優位にある人々、貧困な人々、あるいはそのどちらにも属さない人々の中にも真実を求めている人々と既得権益に胡坐をかく人々の両方がいる。つまり国家という幻想性、庶民という幻想性双方に、私たちは常に二つの志向、保守安定希求と革新変動希求の両方を持つ。だから偶像崇拝的な庶民の論理と感情と権力者たちの思惑が合致した地点が国家であるとも言える。(勿論その中間層に両方の要素が混合されている。)しかしその細部を粒さに見れば、柳田國男が「海上の道」で述べているように、離れた地域の説話同士は何らかの行商、出稼ぎ者による人的交流と邂逅によって多分に同化されてゆく。(それはユダヤ教経典とギリシャ神話、あるいはユダヤ教典とイスラム経典、キリスト教典とイスラム教典といったもの同士にも多分にその作用は確認出来る。)その同化作用が段々一つに纏まったものこそ国家神話の世界であるとも言える。それは多分に庶民の総意としても機能してきたわけである。(私たちは「権力者は身勝手、庶民は被害者」という意識をそろそろ脱却しなければならいし、マスコミもそういう単純な二分法を脱却すべきだ。寧ろ最高権力者たちは、底辺の人々と同様無力な部分もある。中位者の横暴をこそ本質的な除去姿勢と捉える必要がある。それは恐らく特定の誰かではなく全ての存在者が有している傾向性である。)
だが一方柳田が「遠野物語」で座敷童のことを民話題材として取り上げたが、地方には寒冷による飢饉や生活上の多種の事情から割合最近の近代史に至るまで間引きは行われてきた。そういうことや水子に対する供養と鎮魂の意識がいろいろ合わさって座敷童の民話主題が形成されてきた、という推察も可能である。その意味で神話学、民話学、民俗学の世界での学問的対象は、人間の生活レヴェルから推察出来る人間が自然と接してきた精神史と不可分だ、という視点に立てば、或いは体質と文化の相関性に立てば、DNAという遺伝子生物学的認識(民族、血縁一族、共同体)と、それに影響を与えかつそれに起因する人間の自然に対する生活感情と、プーサン、バルビゾン派、セザンヌ、ターナーといった西欧風景画の系譜、あるいは日本の、遡って中国の山水画の系譜等、芸術表現上の精神史、世界認識史は、今後新たなスペクトルにおいて共同作業が求められるとは言えまいか?そしてそこにもまた「合わせる」ことの世界中の庶民に共通した知恵と政治を求めてきた祝祭的な人間の潜在的な要求(現代のメディア論にも関係してくる。)、時として権力や社会機構に反逆してきた人間の個的な権利問題としての「知的快楽主義」の相関性が炙りされてくる可能性を私は信じたい。
私たちの未来への不安はいつか自らの運命にも到来する死へと収斂されるが、そのことに対して一瞬でも忘れさせてくれる、つまり不安を除去してくれる対象に対して、例えば事物であれ、人物であれ、行為であれ、思念であれ、盲目的に飛び付く。性もその一つだ。だが性的快楽は死と常に隣接している。しかもこれは気持ちがいいから止められない。この刹那的な快楽に身を委ねることでさえ、人生の行為選択の一部だが、エロスとタナトスの関係そのものさえ、我々は客観的に考察対象にすることが可能だ。またそのことについて考えることも楽しい。死を考えることは死の恐怖を忘れさせてくれる。それを本論では「知的快楽主義」と呼んだ。だが性的な事柄に耽溺するも、知的な快楽に埋没するも、何物かから翻弄されてゆくということ自体に変わりなく、全ての事態を受け入れて生きているのが人間である。恐らく「翻弄される」意味では全生物が同じ条件下にある。だから例えばどんな楽しいことにも苦しいことというのは付き物であり、同時にどんな苦しい責務にも必ず楽しいところはある。私たちは他者一般に対し贔屓の者にはその欠点をも含め愛す。しかしいったん嫌いになった者には「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に、その人間に今まで抱いてきた魅力や長所までも憎悪と幻滅の対象とする。だからこそ理性が求められる。それは私たちが生来的な能力の目覚めとして第一の他者(それはたいてい両親である。)を認識した時に得たあの客観的視座の延長線上にある。
翻弄を受けとめつつ、その翻弄に対して一矢を報いることは、私たちの人生においては、理性しかない。理性は魅力八十%で、汚点二十%のものも、魅力二十%で、汚点八十%のものも査定において判断基準を等価にしてゆく以外の何物でもない。魅力は贔屓感情を生む。しかし贔屓感情は常に理性による判断を切望する。カントは他律的人生にアンチを唱えた。(「道徳形而上学原論」、「実践理性批判」より)他律を真に自律へと変換するには翻弄を翻弄として受けとめつつ、その事態に対し冷静に対処して真の自由という名の幸福を獲得することへと向けて邁進することである。
ウェクスラー家の選択はある意味で、ライプニッツの予定調和が、遺伝子ゲノム解析という行為などが夢のまた夢であった時代の楽天主義であるということを証明した。科学者もまた科学に精通していない普通の人々の群れから外れたくはないという感情を抱いて生活している。人間はこうしている間にも、何物かに対して関心を集中させ、同時にその関心を別の何物かに対して役立てようと、目的達成への希求を価値論的に信じることを止められない。翻弄を熱狂へと、熱狂を理性的認識へと転換してゆくことそのものが、行為目的論の設定基盤になる。これはフッサールの超越論的主観性とも大いに関係があるが、その彼の概念を倫理的に肯定的に捉えようという意識が私にはある。フッサールはこのことについて外在主義的に超越論的主観性を捉えていたと私は思う。私はそこをすら内在主義的に見据えたいのだ。
結局人間は、社会的、反社会的という問題意識という設定自体に不毛を感じるクオリアが先天的に備わっている。相性とか「真摯さのクオリア」も人間にとっては一つの判断規準でしかない。しかしそれは自覚的に「これはこういうものだ。」と説明不能な分、未だ解明されてはいない。私はこの二つがフッサールの超越論的主観性をも成立させてきたと思う。これは人それぞれが異なっているように見えて実際は個人差を超えて共通性の方が大きいと私は思う。
人間の遺伝子の決定的「同」の部分は徐々に全貌が明らかになりつつある。それはエキソンと呼ばれる部分で、それは全体の五%にも満たない。それに対して人間の遺伝子のランダムな構成部分イントロンは一説には九十七%とも九十九%とも言われる。あるいはこの領域の研究が性格遺伝子の気紛れさとか私が「真摯さのクオリア」と呼ぶものの正体を解明し得るかも知れない、という憶測をしつつ、最後に結論らしきものを述べて本論を締めたい。
私たちは何ごとにもつけ魅力と相性というものの恩恵と実害なしに生活することは出来ない。何故ならもともとそのものへの翻弄を引き受けて生きているし、また生きてきたからである。「合わせる」ことの我々の本質は、実はかなり自分では独自なことだと思っていることにも適用されるし、「知的快楽主義」的傾向から人間は皆社会から逸脱する可能性(その極端にエゴイスティックな利用の仕方次第では)もあるのだ。再び「合わせる」について考えてみよう。
「(前略)かかる経験は、共同的に超越される対象と、私の身体をとりまくもろもろの身体とについての二重の対象化的把握によって動機づけられている、と言った方がいいであろう。特に私が他の人々とともに或る共同のリズムのうちに拘束されていて、私がこのリズムを生じさせるのに寄与しているという事実は、私が一つの「主観‐われわれ」のうちに拘束された者として私をとらえるように、ことさら私をそそのかす作業の意味である。それは兵士たちの歩調をとった行進の意味であり、またボートのクルーのリズムカルな作業の意味である。それにしても、注意しなければならないが、その場合、リズムは自由に私から出てくるのである。それは私が私の超越によって実現する一つの企てである。リズムは規則的な反復のペルスペクチブにおいて未来と現在と過去を綜合する。このリズムを生み出すのは私である。けれども、それと同時に、このリズムは私をとりまく具体的な共同体の作業もしくは行進の一般的なリズムと融け合っている。このリズムはかかる具体的な共同体によってしか意味を獲得しない。そのことは、たとえば私の採りいれるリズムが《調子外れ》であるときに、」私が体験するところのことである。」(「存在と無」下、809~810ページより)
我々はまさにサルトルが言うように「調子はずれ」にはなりたくないのだ。だから敢えて調子はずれで体制(大勢)に抵抗する行為は調子を合わせるという音楽的合一性に対する自由の行使、「合わせる」行為を前提とした意図的な意思表示に取って置き、それは滅多にはしない。始終それをしていたら効果は全くなくなる。公的な場における性的話題忌避もまた羞恥感情の自主規制タブーであり、集団同化意識に属す。それは寧ろ社会や共同体の一定のルールに随順する成員が義務履行の末に獲得した特権である。ニーチェの示した反宗教的権威性は、彼が伝統的な哲学の徒であることの証でもある。「合わせる」ことは気持ちよく自発的な行為なのだ。
サルトルの言うような「誰でもいい誰か」(「存在と無」)として対私的に、対他的にだけではなしに私をも捉えたある種の無名性、匿名性における自己認識として我々全成員が世界市民として生活していることは、一言語共同体成員としての意識を持ち、そこで実は「合わせる」の内に自己の在りようを発見することだ。「合わせる」があるからこそ、「外れる」があり、「離れる」があり、「一人でやる」があり、「一人でいる」がある。「一人でやる」もまたそれをしていない他の皆に「合わせてやる」に他ならない。「一人でいる」もまた他の皆に「合わせて一人でいる」に他ならないのだ。
我々は思惟において、その内容はその場その時の独自のものであり、唯一的な考えとの出会いであるが、それらは概して「あれっ、こういうことって以前にも考えたことがあったよな。」という風なものだし、何かを考える仕方そのものは、いつものようなやり方だし、その仕方、やり方はどこか言語を発する時、思念を纏める仕方、やり方に似ている。纏め方とは、いつの間にか独り言めいて思念する「かたち」へと収斂され得る。それをそのまま温存させつつ、それを文章や発話で具現化するか、そのまま内的にただ一人で抱え込み、その内別の思念の支配により自然と忘却されるかのどちらかへと帰着する。
我々は明らかに「一人でやる」の思念においても、自己を第一の他者として自己にとって理解しやすいように考えを纏める。これは一人でいる時に「一人でやる」、要するに自分に「合わせる」なのだ。その自分とは一体何なのか?それは脆弱な「個」から抜け出るという理想に自分を当て嵌めた「自分という名の真理」である。
我々は皆一人になった時でさえ、きっとサルトルが言うような意味での「誰でもいい誰か」だし、それは都会の雑踏にいる時も、ひとっ子一人いない田舎の山道を歩いている時もそうだ。自我とは寧ろ他者に対する欲望によって醸成される。
音楽を演奏し、会議に出席する意図と覚悟で我々は皆「一人でいる」時には「一人でやる」へと臨んでいる。そういう行為を敢えて選択している。内的な言語的思念が「一人でやる」、「合わせる」であるのはそのためだ。敢えて沈黙することで内的に自己に話す。
それはある意味では皆で一緒にやりつつ「合わせる」も、一人でする「合わせる」もその都度それら一切を統括する「合わせる」、である。一人でいること、することと、皆でいる、することそのものを「合わせる」のだ。それが人生である。
意志は行為されて初めて意志であったとされる。しようかと思い描くことは、意志ではない。しかし発話すること、発語行為は意志だが、何かを言語的に思念すること一個一個は内的事実にしか過ぎず、ただそれらが一定の目的の渦中においてなされ得る限り、意志へと誘導される可能性が大いにあるだけだ。ある考えがある行動の合理性に裏打ちされる限り、意志として発現される可能性が大きい。
だから対人間社会(共同体)内秩序としての「合わせる」行為選択は、対社会(共同体)的な意味で責任倫理的側面が強い。だが仮に社会全体が歪曲した風潮となってゆくと途端に内的葛藤が必然的に生じ、心情倫理の復権が内的に叫ばれだす。そういうケースにおいてカントの倫理問題は極めて有効性がある。
<しかしそのようなケースとは稀であり、殆どの場合特殊な歴史的状況でしか起り得ず、例えばロシア革命以後のスターリニズム批判、第二次世界大戦中における兵役拒否その他反ナチズム運動とかのケース(戦後も沢山そういうことはあったし今もそうである。)しか考えられない。事実この時期マヤコフスキー、ガルシア・ロルカ、ワルター・ベンヤミン、ディトリッヒ・ボンヘッファーといった人物たちが苦悩する状況へ立ち向かった。この四人は、一人目は自殺、二人目と四人目は銃殺、処刑され、三人目は追い詰められて自殺した。共に戦争、圧政といった現実と向かい合っていた。「合わせる」は、社会の選択=悪の状況下では、社会の選択=善と認識させる状況より苛烈である。そういう場合真に善意志を貫くことは、自らアンチ・ヒーローたることを引き受けなければならない。そういう状況では、「合わせる」方が楽なのだ。しかし考えてみよう。もしあなたが誰か(国家でもいいし、法人や組織でもいいし、個人とかテロリストの集団でもいい。)に強制的に、脅迫命令めいた状況で戦場に立たされ、敵兵が銃口をあなたに突き付けて来た時、あなたは尚自ら携帯している銃を相手に使用することを拒むということが何を意味するかを。>
ウェクスラー家の選択を我々は笑えない。(私たちは我が国においてハンセン病患者に対して非情な判断を下してきた。彼(女)らは断種され、生まれてきた子供は国の法治的判断によって間引き対象とされた。しかしそれはある意味で国家の判断に従順に従った、つまり病気を隠蔽することが出来なかった庶民の無防備が生み出したことでもある。その無垢さに対して今日我々は勿論笑えない。K泉内閣による国による控訴断念も記憶に新しいが、私はかの全生園に訪れたことがある。そこは有名な精神科医院も隣接し、かつていろいろな意味で差別を受けてきた人々にとってせめて慰安となる生活環境確保という措置のために公園には綺麗な桜も植えられているが、そのことが私たちにほんの少しの慰めを与える。桜の美しさを目にした私は全生園に収容された人々の断種、間引きされた赤子の魂が乗り移って悲しい歴史を繰り返さないように訴えているようだった。私は収容施設にもまた苦悩した職員もいたと信じたい。)ナンシーにとって学問は「知ること」であり、「知ること」とは本来楽しい筈だ。だがその対象が自分の死も射程に入れた未来となると、流石の科学者も臆する。彼女は科学者でありながら、自然科学を彼女らほどは信奉しない一般民間人の採る「知りたくはない」権利を選ぶ。それは自然科学からの翻弄に対する返答である。それが私たちに教えるのは、死の告知の恐怖を紛らわすには、何か他のことに取り付かれ、翻弄されることを楽しむ以外にはない、ということだ。魅力に熱中することで解消される懊悩もある。魅力は状況次第で刻々変わる。それはアリスの言葉を借りれば、<「終わること」ではなく「はじまる」ことを考えたかった>ナンシーが研究者としてのスタートを切ったばかりのスタンスを想起させる。自らの死の予感と恐怖の克服だけではなく、生きることを楽しむことが遺伝病の事実を知った彼女の選択だったのだから。
哲学は究極的には「信じる」ことの何らかの提示の仕方そのものであり、「信じる」とは何なのか(それは宗教信仰心も含めて)への問いである。欲求に従順に行動することも欲求であれば、欲求に逆らい抑制することも欲求だとすれば、「信じる」を疑うことも「信じる」だし、「疑う」を信じることも「信じる」一つと言える。しかしアリスとナンシーは自体的客観事実において自分たちの未来を疑うよりは、「知る」欲求を封鎖した(かった)。つまり一般民間人的な「知りたくはない」権利の行使は、フッサールが超哲論的主観性と彼が呼ぶ自然科学における自体的客観事実への認識も、「それを正しい」と信じる人間の信念も、宗教的信仰心と共存して本源的に人間内部に位置していることさえ介さずに寧ろ「自分の未来とは自体的には知らないでいる方が幸せだ」というフィクションに真実と説得力を感じるクオリアの選択をしたに等しい。それは宗教的信仰心(しばしば自体的客観事実に反する)に近い。ハンチントン病の自殺は一般人の七倍で病気初期に集中する。レオノアと夫はアリスの学生時代に離婚するが、彼女の母の病名診断後も父による彼の元妻へのケアは続く。私はここにアメリカ人の慈愛を感じる。(かつて映画監督ロジェ・バディムの葬儀に元妻たち<ドヌーヴ、バルドー、フォンダ>が参列したニュースを読んだ時、私は西欧米人の慈愛の深さを感じた。)
アリスは院生時代に自ら子供を作ることを断念するが、恋人と離別後、再び愛する男性と出会う。アリスはナンシーが母の自殺未遂後、頻繁に手紙の遣り取りをしたことを書いている。私はこの下りに胸が詰まった。家族の愛の前には科学も、哲学も犠牲にしてもよいという選択の強さに私は覚醒させられた。愛は至上のものである。それは愛するということの辛さ、厳しさを物語っているが、翻弄されることが価値だと言い切れる信念の前で、私たちは論じることの起源を知る。論じることもまた「生きる」ことだし、生きることは「信じる」ことである。「信じる」ことは楽しい時には楽しいと告げ、辛く苦しい時は「辛い」、「苦しい」と告げることなのだ。あらゆる偽装性の真意表出による除去こそ、学問を包み込む愛の至上目的である。論じることもそのためにある。愛は衝動的な感性同士の出会いを必然化する持続的努力に他ならず、我々が翻弄を論じることを支える。それはもたつかない「確固たる理性」の称揚である。
私たちはシビアな現実の前で理想的な生き方とか勝ち組への夢とかの発想が脆くも崩れ去る音を聞く立場へいつでも立たされる可能性がある。そういう現実を前に自己に厳しくなり過ぎると、自殺という道が待ち構えている。いじめられているなら、何らかのレスキューを求めるべきだ。人間同士の精神的いじめと先述のようなウェクスラー家の苦悩とどちらが苦しいかをここで私には言えないが、少なくとも打開策が講じられるという意味では遺伝病ほど我々は切迫してはいない筈である。
私たちは「合わせる」によく翻弄される。だから「知的快楽主義」の価値転換が必要なのだ。それは時としてアンチ・ヒーロー意識へ我々を誘う。しかし「除け者にされたくはない」意識は最もネガティヴな「合わせる」行為の動機であり、それが他者のいじめの助長となることもあるが、親しい友人と何故か馬が合う、相性がいいと思うその本質には、「もたついた理性」の弁証法からの脱却の可能性もある。人間には考え込み過ぎて失敗するくらいならいっそ何も考えないで行動した方がいい。一気にやって、それが結果的に理性的な行動となればよい。(ギャンブル的な感性)を選択してもよいのだ。思い切った決断は<した時>は不安だが、後で考えると正しかったと思えることも多いと我々は経験的に知っている。考えても仕方ないこと、chemistry(衝動的な感性の場=真摯さのクオリア)自体に私たちが翻弄されていることを運命として受け入れ(死の不可避事実を受け入れるように)てスポーツとかビジネスとかに熱中して勝ったなら、支配欲求を一瞬満たし恍惚となり、しかしそれも一つの翻弄であるとシジフォス的認識を持ちつつ、再び麓から岩を山頂へと運ぶことを決意した者は、ただchemistryだけに拘泥した「オタク」となるだけでなく向上するだろう。その時真の意味で魅力とは何なのかを、再び問い詰める心の余裕が持てるのではなかろうか?(了)
翻弄論
主な参考文献
仏陀<釈迦無尼>「仏陀のことば」‐スッタニパータ‐、ジャン・ジャック・ルソー「人間不平等起源論」(中公クラシックス)、イマンニュエル・カント「純粋理性批判」、「プロレゴメナ」、「実践理性批判」、「判断力批判」(岩波文庫)、ゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル「精神現象学」(作品社)、チャールズ・ダーウィン「種の起源」(岩波文庫)、フリードリッヒ・ニーチェ「道徳の系譜」、「善悪の彼岸」(岩波文庫)、エトムント・フッサール「論理学研究」(みすず書房)(1902)、「デカルト的省察」(岩波文庫)(1931)、「イデーン」(みすず書房)(1913~)、「経験と判断」(河出書房)(1939)、「幾何学の起エドワード・サピア「言語」(岩波文庫)(1921)、柳田國男「遠野物語」(新潮文庫)(1910)「海上の道」(筑摩書房)(1961)、西田幾多郎「善の研究」(1911)、「思索と体験」(岩波文庫)、「場所的論理と宗教的世界観」(筑摩書房)、マックス・ヴェーバー「古代ユダヤ教」(岩波文庫)(1920)、エドワード・サピア「言語」(岩波文庫)(1921)、ルドウィッヒ・ウィトゲンシュタイン「論理哲学研究」(法政大学出版)(1922)、「哲学探究」(大修館書店)(1945)、マルチン・ブーバー「汝と我」(1923)、「対話」(岩波文庫)、ジグムント・フロイト「精神分析入門」(新潮文庫)(1932)、鈴木大拙「日本的霊性」(岩波文庫)(1944)、A・J・エイヤー「言語・真理・論理」(岩波現代叢書)(1946)、ジャン・ポール・サルトル「嘔吐」(1938)、「存在と無」(人文書院)(1943)、「ユダヤ人」(岩波文庫)(1954)、フェルディナント・ソシュール「一般言語学講義」(岩波書店)(1949)、カール・グスタフ・ユング「無意識の心理」(人文書院)(1948)、クロード・レヴィ・ストロース「親族の基本構造」(青弓社)(1949)、「人種と歴史」(みすず書房)(1952)、「悲しき熱帯」(中央公論社)(1955)、「今日のトーテムズム」(みすず書房)(1962)、コンラート・ローレンツ「攻撃」(みすず書房)(1963)、ジョルジュ・バタイユ「エロチシズム」(ダヴィッド社)(1957)「宗教の理論」(筑摩書房)(1973)、ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」(大修館書店)(1962)、モーリス・ファーバー「通信の歴史」(恒文社)(1963)、ジェロルド・J・カッツ「言語と哲学」(大修館書店)(1965)、ハーバート・ファイグル「こころともの」(勁草書房)(1966)、エドワード・ホール「かくれた次元」(みすず書房)(1966)、デズモンド・モリス「裸のサル」(河出書房新社)(1967)、ジョセフ・H・グリーンバーグ「人類言語学」(大修館書店)(1968)、吉本隆明「共同幻想論」(角川文庫)(1968)、ジョン・R・サール「言語行為」(勁草書房)(1969)、ジョルジュ・バタイユ「宗教の理論」(筑摩書房)(1973)、「エロチシズム」(ダヴィッド社)、香原志勢「人類生物学入門」(中公新書)(1974)、ピーター・ヘリオット「言語心理学入門」(大修館書店)(1975)、リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」(1976)、「延長された表現型」(紀伊国屋書店)(1982)、トーマス・ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」(勁草書房)(1979)、祖父江孝男「文化人類学入門」(中公新書)(1979)、ソール・クリプキ「名指しと必然性」(1972)、「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(産業図書)(1981)、富田虎男「アメリカ・インディアンの歴史」(雄山閣出版)(1982)、三木成夫「胎児の世界」(中公新書)(1983)、コリン・マッギン「ウィトゲンシュタインの言語論」(勁草書房)(1984)、マックス・I・ディモント「ユダヤ人」(朝日選書)(1984)、スラヴォイ・ジジェク「斜めから見る」(青土社)(1991)、マット・リドレー「ゲノムが語る23の物語」(紀伊国屋書店)(1993)、「やわらかな遺伝子」(2003)、マイケル・ダメット「分析哲学の起源」(オックスフォード出版局)(1994)、竹内久美子「そんなバカな!」(文芸春秋社)(1994)、中才敏郎「心と知識」(勁草書房)(1995)、信原幸弘「心の現代哲学」(勁草書房)(1999)、ジェイムズ・М・ダブス+メアリー・G・ダブス「テストストロン」(青土社)(2000)、西研「哲学的思考」(筑摩書房)(2001)、ジョセフ・ルドゥー「シナプスは人格をつくる」(みすず書房)(2002)、ジェームズ・D・ワトソン「DNA」(講談社)(2003)、アリス・ウェクスラー「ウェクスラー家の選択」、アンドリュー・H・ノール「生命最初の30億年」(2003)、三原弟平「ベンヤミンと女たち」(青土社)(2003)、森本浩一「デヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか」(NHK出版)(2004)、茂木健一郎「クオリア入門」(ちくま学芸文庫)(1999)「脳内現象」(NHKブックス)(2004)、「意識とは何か」(ちくま新書)(2003)、飯田隆「クリプキ ことばは意味をもてるか」(NHK出版)(2004)、梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書)(2006)
‐括弧内出版年は外国のものは原書の初出。しかし著者死去後のものも含む。その他多くのネット検索、CDによる音楽への鑑賞、試聴が元となった論文も含む。‐
C論文は一応今回で終了するが、その続きはやはりc論文第二弾として「自信論」を更新する。(河口ミカル)
基本的に人間の認識の視点の根源とは、ミシェル・アンリの主張、「西欧哲学が拠って立つ地点が存在論的一元論であり、主観、客観の根源は客観的に他者認識する」に実は我々今まで長々と考えてきたことの本質が横たわっている。フッサールが超越論的主観性と捉えた我々の信念の本質も、実はアンリが述べた存在論的一元論に収斂されてゆく。人間が信念を基本的な知恵として無意識のレヴェルからも携えていること自体が、時には弊害的に押し寄せる典型的例として、贔屓の人間のなす行為はたとえそれが善行ではなく、暴挙であってさえ、容認し、またそれとは逆に嫌悪の感情を抱いている成員に対して我々はそれが正論であっても尚容認し得ないという極めて不都合な矛盾した傾向性があるということだ。人間はなぜ他者(自分の周囲に生活している成員に対してや、自分とは直にはかかわりがないが、各種メスメディアに登場する人物に対して畏敬の念をも含めて)に対して、贔屓にするのだろうか?その精神状態が、魅力を感じる一個のクオリアによる仕業と捉え人間論的本質を考えて纏めよう。
人間は贔屓なものに接する時、それがヒーローであろうとアンチ・ヒーローであろうと、それが正義漢だろうと、悪人だろうと、いったん虜になるとなかなかその感情を払拭出来ない。それは一種の麻薬的な作用である。進化論生物学者のドーキンスは例証しているが、カッコウは他種の鳥の巣に自分の雛を預け託卵するが、その託された他種の鳥は自分の雛とカッコウ両方を育て、しかもカッコウの雛は他種の雛よりも巨大化して育ち、果ては他種の雛を巣から蹴落とす。彼はカッコウのように托卵する鳥類がなぜ別種の親鳥たちを騙し続けることが出来るのか、ということについて、それは騙される方においても何か得体の知れぬ快感、つまりつい騙されてしまう、騙されるように身を委ねてしまう説明不能の魔力的な魅力が托卵するカッコウの雛に備わっているのではないか、と考える。この考え方は極めて魅力的だ。この生物学的事実は自然選択や進化上のメリットという面からだけでは説明がつかない。明らかに偽装される側の雛たちは本当に親鳥から餌をせしめる権利を有しているのにもかかわらず、貰い少なくなるばかりか、巣から偽装側のヒヨドリに蹴落とされる。実子を失うという痛い思いをしてまで、偽装に嵌ってしまい、作為を見抜けない親鳥たちにとってその偽装者カッコウの雛(託卵するのは親であるが、雛自身に)はたまらなく魅力的なところがあるに違いない、とい彼は考える。我々にも悪党であることを知りつつ魅力的な者にはつい惹かれる、贔屓にすることが日常でもある。それが幼児のように害悪の少ないケースばかりではない。大の大人に対してさえ、あの悪党は何故か許せるという理性レヴェルから言えば合理的な説明がつかない贔屓感情を抱くことは珍しくない。そういう意味で我々はある特定の政治家やタレントを心から贔屓にして、ヒーローにしたがる。それも自分だけが一番その本質を見抜いているかの如き錯覚を持つ。(実は多くの他人が同じ気持ちなのに。)
例えば我々が異性に惹かれる時、そこに理由などあるだろうか?あるいはそういう理由を概念的、合理的に説明出来るだろうか?恋人や愛人(性的パートナー)を選択する時我々は果たして自己や他者に対してその理由を理性論的に説明し得るだろうか?またそういう説明に意味があるだろうか?必要とする他者を選択し、彼(女)を「自分にとって必要な人だ」と意志決定するのに一々合理的説明が自分や他者につくだろうか?だから逆に公的利害において(例えば会社の将来)のためを思って自己の贔屓心や親近感にのみ依拠させないで人選するというような時に人は私的感情を敢えて抑制しているが、友人を選ぶ時我々は、論理的に考え行動しているとは到底思えない。本家から受け継いだ資産管理のために配偶者を世間への体裁を気にして公的な人格、家風に沿う異性を理性論的に選択するということは過去にはあったし、今でも政略結婚的な現実も皆無ではない。逆にそのような家訓を持つ家系の人間でさえそんなに資産管理が重要なら、結婚相手に自己選択しないくらいなら、寧ろ資産管理ビジネスの専門家を雇う方が賢明であると判断する人間も多いだろう。配偶者だけは理性的に選ぶという考えは今日でも消滅はしていないが、それでも自己の内的な贔屓心を全く無視して選択するというようなことがあり得るかどうか私には疑問である。だから仮に選挙で候補を選ぶ時に全く贔屓心を無視し完全に理性的に判断して投票している、という主張にも信頼が持てない。本当はただ惹かれるからその候補に投票しているのに、安易な動機で選択したことを悟られまいとして自己弁護していることが多いだろう。
我々はヒーローに惹かれる(スポーツの勝者のような)場合、「合わせる」意識を生じさせ(勿論個人的に好きである場合も多いだろうが)、ヒーロー並びに、アンチ・ヒーローの中に、ある種屈折した性質(ヒーローの玉に瑕の部分)を見出し、贔屓心でそれさえ惹かれる場合、孤独確保意識を無意識に採用している。そういう場合自分だけがそういう嗜好なのだ(私秘的なもの)と錯覚する。
人間は自分にだけ理解出来ると錯覚するような真摯さのクオリアを持つ、と私は思う。実はこの自分だけが理解出来るのではないかという私秘性こそが、贔屓感情の最も顕著なものである。しかしどのようなマイナーな嗜好でも、恐らくそれは精神異常(ネクロフィリア、つまり死体愛好者とかのような)を除いて、自分の脇の汗の匂いを嗅ぐ癖を持っている人は多い。告白すると私にもそういう癖もある。そういう悪癖とテレビに登場するヒーローやマイナーなタレントや政治家、あるいは文化人に対する贔屓感情には共通性がある。それがマイナーであればあるほどその魅力は自分にとって切実だ。癖はある意味では全般的にサルトルが粘体の惰性と呼んだもの(「存在と無」、「想像力の問題」その他で)と同様、拘泥しやすい魅力だし、恍惚的な偏愛をきたしもする。それは嗜好的な翻弄だ。どのような高尚な趣味であれ、卑俗な癖であれ、恐らく生物学的な脳内の作用としては同等のものだろう。またもう一つ重要なことは、それが自分だけに固有ではないということを他者から告白され知ると、それまで自分だけだと思い抱いていた不安感(マイナーさに対する偏愛であるが故に持っていた不安)が一気に解除され、逆に誇りとなることすらある。これは恐らく脳科学的見地に立てば、スリリングでサスペンシヴな内容の映像を見て興奮を味わう脳内のモルヒネ作用とも関係があるだろう。ある種の達成感というものは、自分の目標達成であるならまだしも健康だが、自己欲求が満たされない代理感情として他者に価値的、能力的抜群さに対する憧れと、日頃不満を抱いている成員を代理攻撃し溜飲を下げる能力の持ち主がヒーロー(皆自分にとっての私秘的な存在へと昇華される。)の発見の場合もある。またヒーローは、得てして多少悪の匂いも立ち込める、毒がある方が自分の日頃の鬱憤を解消してくれる。
ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクはその著「斜めから見る」において<主体というものそのものも人間が自分の中心に設定した価値的な何物か(それを彼はラカン理論を軸に、対象aと呼んでいる。)を巡りぐるぐる回る自己内部の心的な運動だ>と捉える。中心に幻想があり、それは私秘的であり(そういうところウィトゲンシュタインの私的言語を想起させる。)、その非在性が宗教、神、偶像を私的に存在させ、それは充足されぬ欲望の欠落感を誤魔化すために設けられた空虚な中心であり、それがラカンの言う対象aである。主体というもう一つの幻想をその周囲をぐるぐる回ることを通して顕現させる当のものであるという発想は説得力がある。ラカン流の現実界という概念はある意味ではカントの物自体に近い観念であり、その物自体の薄っぺらさに耐えられない人間はそこに意味と価値を付与する、とジジェクは捉える。「存在の耐えられない軽さ」の克服、現象界の限界は人間の認知の無能力に対する覚醒である。だから人は他者(客観の起源)に惹かれる。
洋の東西を問わず、宗教の本質も、偶像設定の本質(だからこそ古代のユダヤ教から一神教の宗教では偶像を禁止してきた。それだけ偶像崇拝には魅力があったし、それは今でも変わらない。)も皆この人間の中心設定的心的作用、そこに価値と意味を付与せずにはおれない、それでいて集団同化意識と孤独確保意識とが両輪として作用する現実と関係があり、一方で皆の憧れる対象を自分も欲し、他方それだけでは飽き足らず、自分固有の私秘的な対象を求める。人間の「真摯さのクオリア」とも呼ぶべき言語化し得ない感性は馬の合う人間とそうでない人間の差を他者に対して我々が付与するように、もともとあったように感じられはするが、本来的には既成事実による偶発的な展開(我々の友人関係を見てみれば分かる。しかし偶発性も相互の相性というものに端を発する場合も多いと思われる。)に対して真理の如き価値を付与する言語的思念の幻想である。人間はア・プリオリに設定された真理に沿って生きるのではなく、自分が信じられ、愛し得る対象を軸に自ら固有の真理を打ち建てようとする。そこには魅力という得体の知れぬ、価値観とも真理とも異なる受容可能性、拒否不必要性という事態が立ちはだかる。この「魅力があるから贔屓にする」は合理に説明は出来ぬ。説明出来るものは魅力ではない。
ドーキンスの指摘する「騙され続ける事態」を招くこと自体他種の鳥の生存戦略からすれば、非合理的な、エネルギー・ロスである。にもかかわらず騙されてしまうことに、ドーキンスはカッコウが麻薬的な内分泌性の物質を発散しているのではないかと考える。そして人間の男性が魅力的な女性に対して直の恋愛関係を作ることなく、その写真や映像を見ながらマスターベーションをする事実も生物が生存戦略的な意味合いからは非合理的な行動を採る証拠だ、とする。魅力の本質はそれが利益を齎すものであれ、実害を被るものであれ、麻薬的な脳内の非理性的認識に大いに関係があるのではないか。周囲の除け者になりたくないし、いじめも受けたくないのでそれが悪いことだと承知してもつい他者と「合わせて」いじめに加担することだってある。
社会常識、社会通念、世間知、一般的観念といったものはおしなべて、人間が集団生活を営む上で必要不可欠な同調性である。挨拶、儀式全般の遂行、敬語の使用、法律遵守、行進、合唱、楽器演奏(合奏)、同人誌、雑誌への投稿、祭りの熱狂、スポーツ観戦、演劇鑑賞、音楽鑑賞、選挙、キャッチフレーズの使用、詩歌や駄洒落における語呂合わせ。それらは全て集団内で「合わせる」行為として位置付けられる。それはある意味では法的な遵守姿勢だし、積極的な個人の側から集団へと同意表明行為として認識されよう。オリンピックの際には通常、自分の国の選手を応援し、選手がメダルを獲れば、国家と国旗が掲揚されることを喜び、自国選手が敗れれば同盟国とか贔屓の国を応援する。こういった場合我々は集団同化意識に自らの関心的志向性を焦点化する。そのことの是非を疑うことは通常稀である。しかし同時に自分だけのプライヴェートな時間や空間を求め、その中で密かな歓びを味わうという二面性が人間にはある。要するに他者から疎まれない程度に逸脱したいという欲求がある。
例えば性行為は誰でも一度は経験する類のものという意味では明らかに「合わせる」行為である。しかし同時に、それは明らかに反社会的な行為でもある。つまり個人のDNAの存続のみを目的とした行為は社会的に結婚という形で価値規範的にお墨付きを得ているが、心的にも行為目的的にも明らかに本質は反社会的である。ただ社会生物学、生物進化学的な意味で生殖、種の繁栄のための正当行為であるに過ぎない。
例えば犯罪者のような成員に対しても、完璧に憎悪の対象となる者から、果ては同情を寄せたくなる者まで段階があり、どの犯罪者に対しても同じレヴェルで感情を寄せることはない。何かに関して私は寛容だが、別の件では許せないというモラル上の是非感情や、何かに関してはずぼらでも我慢出来るが、別の件に関しては厳密でなければ気が済まないという判断基準には個人差があり、その個人差に内在する「真摯さのクオリア」の波長が合う人間同士は馬が合う、気が合う(chemistry)。が、それは容易に説明することが通常出来ない。個人的な性格遺伝子の差異、個人史といったものが密接に絡み合って形成された判断基準だからだ。こういう個人的に相性がいい人間関係というものはしばしばある魅力ある対象に対して長所以外の欠点にさえ魅力を感じ合える、偏愛的な嗜好に対する共感という「真摯さのクオリア」が重要な役割を果たす。(極めつけの変態的なことであれあるほど緊密な共感<背徳的なスリリングさ>が生じる。)それは権威からの重圧感からの開放意識とも大いに関係があるのではないか?
私たちはこの相反する二つの心的傾向を常に共存させて生活している。皆が賛同する倫理を積極的に肯定し、皆が賛美する偶像的存在を自分もまた積極的に受容すると同時に、ある時は衝動的に価値基準の一切を否定したいかの如く、殆ど合理的な説明の尽かない判断基準を極めて理性的な判断規準と何の矛盾もなく共存させている。だから人間はどのようなタイプの者であれ、多かれ少なかれ社会的存在であると同時に、反社会的存在とも言い得るのだ。
だから逆に究極的にどのような他者から爪弾きに合っても社会全体が自己の存在を容認すれば、その人間はよくある「変人」ということで済まされ、事実昔から偉人には変人が多かったということからもそのことは了解される。しかしもし自分の立場が完全に社会からも周囲の家族や仲間からも孤立してしまった場合、人間はそれでも尚内的に、神様だけには見捨てはしないだろうと考えてきた。神に対してだけは「真摯さのクオリア」で自己と繋がっていると信じたい。宗教心や神への契約の観念も全てこの心理に帰着する。社会から追放された異教者、殺人を犯し逃亡を続ける犯罪者でさえ、この究極の救いへの希求によって辛うじて生命を維持してゆける。だから自殺はそれでも尚、神にさえも見捨てられたと人間が認識した時に初めて自己に許す行為ではないだろうか?(我々は負け犬的な人生の成員に対してさえ共感を得ることが出来る。)
人間は運命に翻弄されながらも、その究極の部分では自己に対する救いの場を常に見出している間は、未来へと希望を持つことが出来る。しかし自分の未来の全てが神の予定調和によって何らかの手段によって知らしめられるなら、我々は果たして生を、未来が不確実であった時のように全うし得るであろうか?
全米で一冊の本が注目を浴びた。その本は日本に八年後に翻訳された。著者は歴史家アリス・ウェクスラーであり、その妹と一緒に彼女はある遺伝病の病因と、遺伝子家系図を見出すことに傾注する。その結果彼女らはある選択をする。ウェクスラー家において母親の遺伝的疾患を母親から告白されたのが、アリス、ナンシー姉妹にとって成人してからずっと後のことだった(結局この本の著者のアリスが二十六歳の時、1968年に発病徴候顕在化以後初めて彼女の母親がハンチントン病であることが判明する。)ことが、少なくとも幼年期、思春期共に支障なく成長出来たことを彼女らは今でも感謝している。だが自分の家系に宿る難病の系譜を知り、その事実に向き合う事態は、人生において関心対象を見出し熱中出来るという幸福な事実と異なり、その探索と、病気の系譜を辿る道筋は即自分たちに影のように投げかけられる家族の未来の運命なのである。
アリス、ナンシーの母親レオノアは、家族の中から初めて大学へ進学し、大学院も卒業した俊才だった。彼女は生物学で修士を獲った。彼女の父アブラハム・R・セービンは白ロシアに住むユダヤ人だったが、帝政ロシアの反ユダヤ主義から逃れて渡米した。彼は衣料雑貨店で働いた。彼は幼い頃ルーマニアから移住してきた女性、サビナ・フェイゲンバウムと結婚した。彼らは長男、次男、三男、そしてレオノアを儲けた。レオノアの父アブラハムはアリスの誕生前の1929年にハンチントン舞踏病にて没した。レオノアの祖父ヤコブ・L・ザイチェク、やはり母の叔母のディンカ、そしてアブラハムの他の妹たちリア、アイダも皆この奇病によって命を落としている。しかしそのことはこの家族間では話題にするのも憚られるタブーだった。アリスの謂いによると「この家族はハンチントン病を恥ずべき秘密だと考えていたし、よほど親しい親戚が揃ったときでなければ話題に上ることもなく、それすらも稀であった。」(「ウェクスラー家の選択」以後全部この件に関して同書から)結局彼女らの父が配偶者たるレオノアの家系の真実を知るのはずっとあとである。アリスの父は若い頃弁護士になり、後に精神科医に転身するために最初妻と住んだニューヨークを離れる。しかし妻レオノアは家事に専念、若い頃の学問の夢を諦める。彼女は自分が女であるために彼女の父の病気について薄々知っていたが遺伝しないと思っていた。しかし後にレオノアの兄弟三人ともハンチントン病であることが判明(皆アリス、ナンシーの若い頃その病気で死ぬ。)した時、彼女自身その遺伝的な実害があるということを知り、同時に彼女の夫ミルトン・ウェクスラーも全ての真実を医師から伝えられる。しかし遺伝学を学んでいたレオノアは多くの文献から自分にも発病可能性があることを知らない筈はないと彼女の娘である著者アリスは述べる。ここに科学者であり、客観的に事実見据える知識と理性を持ち合わせている筈だが、こと自分のことになると大丈夫だろうと思いたい人間の心理が透けて見える。アリスは父親に母の病気を知っていて私たちを産んだのかと問い詰めるが、その時の彼女,及びそれを問い詰められて激怒した父の心理は筆舌に尽くし難い苦悩だったであろう。<私がこの本を読んで関心があったこと一つとは、アリスの語るレオノア・ウェクスラーが一人で悩みを抱え込む姿だった。喪の時通常韓国人は辺りを憚らずに嗚咽する。この行為はある意味では他者に対して窮状を訴えるかの如くである。しかしどうも彼女ばかりか夫もユダヤ系であるウェクスラー家の人々はそういうタイプではないらしい。それともアメリカ人の国民性なのか?私は以前湾岸戦争で亡くなった息子を持つ父親の映像を見たことがあるが、その時もうっすらと涙を溜めさえせずに、じっと悲しみを耐え忍んでいた姿が妙に印象的だった。このことに関して日本人も確かに自然死の場合、そうである。ただ自然死以外ではどうなのか私には未だよくわからない。アメリカ人は国家のために殉じることを名誉と思う気持ちが強いのかも知れない。(これも個人差はあるだろうが。)>
ハンチントン病は16世紀半ばのノルウェー、17世紀のフランス、イギリスに既に見られ、それはアリスによるとヨーロッパ人の移住と植民地拡大の歴史でもある。舞踏病について簡単に触れておこう。これは広辞苑によると、「顔面、手、足、舌などに一種の付随的急速運動を現す、踊るような身振りを主徴とする疾患。リウマチ性舞踏病は小舞踏病といわれ、小児に発症し治りやすいが、遺伝性のハンチントン舞踏病(アメリカの神経学者G・S・Huntington1851~1916に因む。)は中年に始まり精神障害を伴い、進行性で予後不良。」ハンチントン病をもつ人々は、症状が次々に起こっても、物事を志向する感覚を忘れないでいるとはいえ(そこはアルツハイマー病とはちがう)、発病から十年、二十年たって、最終的には痴呆のような症状が起こってくるのが一般的なようだ。ある神経学者はこういう書き方もしている。「痴呆の最終段階に達すると、患者は人格の完全な崩壊という哀れな情景を示す。」という。アリスの母レオノアは四十六歳にして発病する。私たちは小児の際の難病(それは克服し得るものとそうではないものがある。)と大人になってからの難病というものの両方を経験する。認知症も大人になってからの難病である。そのいずれが辛いかという判断を我々は下せない。(コールド・スプリング・ハーバー研究所(チャールズ・B・ダベンポート創設)は功罪を世界史に残している。その実証的なデータには多くの難病保持者に対する激励となる一方、難病そのものへの恐怖感を与えてきている。特に「ハンチントン病の患者と発病リスクを持つ人々をアメリカから一掃するための強制断種であり、移民制限であった」という。(この歴史的な経過は我が国のハンセン氏病に対する国家政策とも共通している。))遅く発病するという現実が不安感を倍増させもする。事実母親の遺伝病を聞かされたアリスは自分にも50%の確率で受け継がれた遺伝子についてナーバスになり、果てはほんの些細な忘れごとをも遺伝病の徴候と結び付けてしまったという。結局アリスたちは母親がその兄弟全員がハンチントン病で死ぬまでは自分にもそういう運命に無頓着だったが、次々訪れる死を目撃し不安感に襲われ始め共に心が掻き乱されてゆく過程を体験する。そして何よりも自分より先に徴候の現れる家族、死に行く家族を健常者として見守らなくてはならない運命が最も著者にとって過酷だったと言う。
かつて西部邁はテレビで「日本人は死を恐れるようになった。」と言っていたが、私は違うと思う。死が恐ろしいのはどの民族も同じだ。我々はただ死の恐怖の克服の仕方が時代ごとに変化してきていると捉えた方がよいと思う。寧ろ日本人は近年「生に対しての執着心あるいは忍耐力」が薄弱化してきたと思う。死の恐怖の克服の仕方において現代の日本人は死を受容することを望んでいるとさえ言えるのでは?ルソーは「人間不平等起源論」や「エミール」で衣服を着、文明化したおかげで人間が微弱になり、免疫抵抗力を失ったと言った。それはレヴィナスが「<渇望>とはなにも欠けてはいない者が有する欲求、じぶんの存在を所有している者、みずからの充溢のかなたにおもむく者、<無限なもの>の観念を有する者に帰属する希求であるからである。」という謂いと直結している。日本人はその意味では過不足ない状況において、「いじめ」を同一種内攻撃欲求実現に利用し、サディスティックな欲求を満たし始め、それを受ける者さえそれを受容して、抵抗することを即座に断念する。嫌いな人間から無理して好かれようと思う必要などないと私はいじめを受ける人に言いたい。全ての人に好かれようと思えば、無理が生じ、いじめの対象となりやすいと思う。敵は人間社会においていてもよいのだ。その証拠に本当にウェクスラー家のような事情を抱えていると知っていて尚いじめをするような輩は殆どいないと私は思う。いじめの対象となることは存在感があるということなのだ。(また今日のいじめ自殺は大人も含めて個々異なる理由はあるのだろうが、どこかで自殺志願者たちには、自分の死をテレビや新聞で取り上げられるのではないかという事態を想定している気が私にはする。またマスメディアはそのいじめ自殺を一括してニュースソースにして劇場型社会性認識を無意識に視聴者に植え付ける。)
遺伝子レヴェルでの疾患を持つ家族はウェクスラー家に限らず、必死で生を求めるから自殺という選択肢は、最悪の場合にのみ保存されている。未来予測の下で、そう遠くはない死の決定性は回避不能である遺伝子傾向性は、今や個人情報である。ルソーは「動物とは死とは何かをまったく知らない」と言ったが、私は言い換えたい。「動物は元気な時に自分もいつかは死ぬということを知らない。人間だけがそれを知っている。」と。そして元気な時くらい死の現実を忘れるような鈍感さも時には必要だと私は言いたい。本当に死に隣接した者は生を意識し、死を考えないようにする筈だ。元気なのに尚死を考えられるのはレヴィナスの言う渇望であり、無いもの強請りなのだ。(いじめられていると感じるあなたに言いたい。そんなにいじめをしているという意識は多くの人にはない。いじめは皆のからかい気分の気紛れでしかない。大人社会にはもっと激烈ないじめが罷り通っている。我々は皆多かれ少なかれいじめの被害者かつ加害者である。被害者意識の過剰反応を抑制することをモットーとして頂きたい。偉大な人間の大多数は苛められっ子である場合も多いのだから。)
私たちの知る歴史はある意味では支配者、権力者によって書き換えられてきた部分が多分にある。しかし同時に権力者の存在の仕方、つまり真の権力は、中間支配層、つまり前章の最後節の中位者にあり、その安定志向が大きな歴史の書き換えを行わせてきた。前章で私は敬語や官僚の誕生のプロセスに関する思考実験を試みたが、この中位者の存在は何も官僚職に留まるものではない。寧ろ官僚の中にも立派な志の方も多い。マスコミもそうである。進歩主義的考え方の人々も、保守的な考え方の人々の間の双方に、あるいは経済的優位にある人々、貧困な人々、あるいはそのどちらにも属さない人々の中にも真実を求めている人々と既得権益に胡坐をかく人々の両方がいる。つまり国家という幻想性、庶民という幻想性双方に、私たちは常に二つの志向、保守安定希求と革新変動希求の両方を持つ。だから偶像崇拝的な庶民の論理と感情と権力者たちの思惑が合致した地点が国家であるとも言える。(勿論その中間層に両方の要素が混合されている。)しかしその細部を粒さに見れば、柳田國男が「海上の道」で述べているように、離れた地域の説話同士は何らかの行商、出稼ぎ者による人的交流と邂逅によって多分に同化されてゆく。(それはユダヤ教経典とギリシャ神話、あるいはユダヤ教典とイスラム経典、キリスト教典とイスラム教典といったもの同士にも多分にその作用は確認出来る。)その同化作用が段々一つに纏まったものこそ国家神話の世界であるとも言える。それは多分に庶民の総意としても機能してきたわけである。(私たちは「権力者は身勝手、庶民は被害者」という意識をそろそろ脱却しなければならいし、マスコミもそういう単純な二分法を脱却すべきだ。寧ろ最高権力者たちは、底辺の人々と同様無力な部分もある。中位者の横暴をこそ本質的な除去姿勢と捉える必要がある。それは恐らく特定の誰かではなく全ての存在者が有している傾向性である。)
だが一方柳田が「遠野物語」で座敷童のことを民話題材として取り上げたが、地方には寒冷による飢饉や生活上の多種の事情から割合最近の近代史に至るまで間引きは行われてきた。そういうことや水子に対する供養と鎮魂の意識がいろいろ合わさって座敷童の民話主題が形成されてきた、という推察も可能である。その意味で神話学、民話学、民俗学の世界での学問的対象は、人間の生活レヴェルから推察出来る人間が自然と接してきた精神史と不可分だ、という視点に立てば、或いは体質と文化の相関性に立てば、DNAという遺伝子生物学的認識(民族、血縁一族、共同体)と、それに影響を与えかつそれに起因する人間の自然に対する生活感情と、プーサン、バルビゾン派、セザンヌ、ターナーといった西欧風景画の系譜、あるいは日本の、遡って中国の山水画の系譜等、芸術表現上の精神史、世界認識史は、今後新たなスペクトルにおいて共同作業が求められるとは言えまいか?そしてそこにもまた「合わせる」ことの世界中の庶民に共通した知恵と政治を求めてきた祝祭的な人間の潜在的な要求(現代のメディア論にも関係してくる。)、時として権力や社会機構に反逆してきた人間の個的な権利問題としての「知的快楽主義」の相関性が炙りされてくる可能性を私は信じたい。
私たちの未来への不安はいつか自らの運命にも到来する死へと収斂されるが、そのことに対して一瞬でも忘れさせてくれる、つまり不安を除去してくれる対象に対して、例えば事物であれ、人物であれ、行為であれ、思念であれ、盲目的に飛び付く。性もその一つだ。だが性的快楽は死と常に隣接している。しかもこれは気持ちがいいから止められない。この刹那的な快楽に身を委ねることでさえ、人生の行為選択の一部だが、エロスとタナトスの関係そのものさえ、我々は客観的に考察対象にすることが可能だ。またそのことについて考えることも楽しい。死を考えることは死の恐怖を忘れさせてくれる。それを本論では「知的快楽主義」と呼んだ。だが性的な事柄に耽溺するも、知的な快楽に埋没するも、何物かから翻弄されてゆくということ自体に変わりなく、全ての事態を受け入れて生きているのが人間である。恐らく「翻弄される」意味では全生物が同じ条件下にある。だから例えばどんな楽しいことにも苦しいことというのは付き物であり、同時にどんな苦しい責務にも必ず楽しいところはある。私たちは他者一般に対し贔屓の者にはその欠点をも含め愛す。しかしいったん嫌いになった者には「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に、その人間に今まで抱いてきた魅力や長所までも憎悪と幻滅の対象とする。だからこそ理性が求められる。それは私たちが生来的な能力の目覚めとして第一の他者(それはたいてい両親である。)を認識した時に得たあの客観的視座の延長線上にある。
翻弄を受けとめつつ、その翻弄に対して一矢を報いることは、私たちの人生においては、理性しかない。理性は魅力八十%で、汚点二十%のものも、魅力二十%で、汚点八十%のものも査定において判断基準を等価にしてゆく以外の何物でもない。魅力は贔屓感情を生む。しかし贔屓感情は常に理性による判断を切望する。カントは他律的人生にアンチを唱えた。(「道徳形而上学原論」、「実践理性批判」より)他律を真に自律へと変換するには翻弄を翻弄として受けとめつつ、その事態に対し冷静に対処して真の自由という名の幸福を獲得することへと向けて邁進することである。
ウェクスラー家の選択はある意味で、ライプニッツの予定調和が、遺伝子ゲノム解析という行為などが夢のまた夢であった時代の楽天主義であるということを証明した。科学者もまた科学に精通していない普通の人々の群れから外れたくはないという感情を抱いて生活している。人間はこうしている間にも、何物かに対して関心を集中させ、同時にその関心を別の何物かに対して役立てようと、目的達成への希求を価値論的に信じることを止められない。翻弄を熱狂へと、熱狂を理性的認識へと転換してゆくことそのものが、行為目的論の設定基盤になる。これはフッサールの超越論的主観性とも大いに関係があるが、その彼の概念を倫理的に肯定的に捉えようという意識が私にはある。フッサールはこのことについて外在主義的に超越論的主観性を捉えていたと私は思う。私はそこをすら内在主義的に見据えたいのだ。
結局人間は、社会的、反社会的という問題意識という設定自体に不毛を感じるクオリアが先天的に備わっている。相性とか「真摯さのクオリア」も人間にとっては一つの判断規準でしかない。しかしそれは自覚的に「これはこういうものだ。」と説明不能な分、未だ解明されてはいない。私はこの二つがフッサールの超越論的主観性をも成立させてきたと思う。これは人それぞれが異なっているように見えて実際は個人差を超えて共通性の方が大きいと私は思う。
人間の遺伝子の決定的「同」の部分は徐々に全貌が明らかになりつつある。それはエキソンと呼ばれる部分で、それは全体の五%にも満たない。それに対して人間の遺伝子のランダムな構成部分イントロンは一説には九十七%とも九十九%とも言われる。あるいはこの領域の研究が性格遺伝子の気紛れさとか私が「真摯さのクオリア」と呼ぶものの正体を解明し得るかも知れない、という憶測をしつつ、最後に結論らしきものを述べて本論を締めたい。
私たちは何ごとにもつけ魅力と相性というものの恩恵と実害なしに生活することは出来ない。何故ならもともとそのものへの翻弄を引き受けて生きているし、また生きてきたからである。「合わせる」ことの我々の本質は、実はかなり自分では独自なことだと思っていることにも適用されるし、「知的快楽主義」的傾向から人間は皆社会から逸脱する可能性(その極端にエゴイスティックな利用の仕方次第では)もあるのだ。再び「合わせる」について考えてみよう。
「(前略)かかる経験は、共同的に超越される対象と、私の身体をとりまくもろもろの身体とについての二重の対象化的把握によって動機づけられている、と言った方がいいであろう。特に私が他の人々とともに或る共同のリズムのうちに拘束されていて、私がこのリズムを生じさせるのに寄与しているという事実は、私が一つの「主観‐われわれ」のうちに拘束された者として私をとらえるように、ことさら私をそそのかす作業の意味である。それは兵士たちの歩調をとった行進の意味であり、またボートのクルーのリズムカルな作業の意味である。それにしても、注意しなければならないが、その場合、リズムは自由に私から出てくるのである。それは私が私の超越によって実現する一つの企てである。リズムは規則的な反復のペルスペクチブにおいて未来と現在と過去を綜合する。このリズムを生み出すのは私である。けれども、それと同時に、このリズムは私をとりまく具体的な共同体の作業もしくは行進の一般的なリズムと融け合っている。このリズムはかかる具体的な共同体によってしか意味を獲得しない。そのことは、たとえば私の採りいれるリズムが《調子外れ》であるときに、」私が体験するところのことである。」(「存在と無」下、809~810ページより)
我々はまさにサルトルが言うように「調子はずれ」にはなりたくないのだ。だから敢えて調子はずれで体制(大勢)に抵抗する行為は調子を合わせるという音楽的合一性に対する自由の行使、「合わせる」行為を前提とした意図的な意思表示に取って置き、それは滅多にはしない。始終それをしていたら効果は全くなくなる。公的な場における性的話題忌避もまた羞恥感情の自主規制タブーであり、集団同化意識に属す。それは寧ろ社会や共同体の一定のルールに随順する成員が義務履行の末に獲得した特権である。ニーチェの示した反宗教的権威性は、彼が伝統的な哲学の徒であることの証でもある。「合わせる」ことは気持ちよく自発的な行為なのだ。
サルトルの言うような「誰でもいい誰か」(「存在と無」)として対私的に、対他的にだけではなしに私をも捉えたある種の無名性、匿名性における自己認識として我々全成員が世界市民として生活していることは、一言語共同体成員としての意識を持ち、そこで実は「合わせる」の内に自己の在りようを発見することだ。「合わせる」があるからこそ、「外れる」があり、「離れる」があり、「一人でやる」があり、「一人でいる」がある。「一人でやる」もまたそれをしていない他の皆に「合わせてやる」に他ならない。「一人でいる」もまた他の皆に「合わせて一人でいる」に他ならないのだ。
我々は思惟において、その内容はその場その時の独自のものであり、唯一的な考えとの出会いであるが、それらは概して「あれっ、こういうことって以前にも考えたことがあったよな。」という風なものだし、何かを考える仕方そのものは、いつものようなやり方だし、その仕方、やり方はどこか言語を発する時、思念を纏める仕方、やり方に似ている。纏め方とは、いつの間にか独り言めいて思念する「かたち」へと収斂され得る。それをそのまま温存させつつ、それを文章や発話で具現化するか、そのまま内的にただ一人で抱え込み、その内別の思念の支配により自然と忘却されるかのどちらかへと帰着する。
我々は明らかに「一人でやる」の思念においても、自己を第一の他者として自己にとって理解しやすいように考えを纏める。これは一人でいる時に「一人でやる」、要するに自分に「合わせる」なのだ。その自分とは一体何なのか?それは脆弱な「個」から抜け出るという理想に自分を当て嵌めた「自分という名の真理」である。
我々は皆一人になった時でさえ、きっとサルトルが言うような意味での「誰でもいい誰か」だし、それは都会の雑踏にいる時も、ひとっ子一人いない田舎の山道を歩いている時もそうだ。自我とは寧ろ他者に対する欲望によって醸成される。
音楽を演奏し、会議に出席する意図と覚悟で我々は皆「一人でいる」時には「一人でやる」へと臨んでいる。そういう行為を敢えて選択している。内的な言語的思念が「一人でやる」、「合わせる」であるのはそのためだ。敢えて沈黙することで内的に自己に話す。
それはある意味では皆で一緒にやりつつ「合わせる」も、一人でする「合わせる」もその都度それら一切を統括する「合わせる」、である。一人でいること、することと、皆でいる、することそのものを「合わせる」のだ。それが人生である。
意志は行為されて初めて意志であったとされる。しようかと思い描くことは、意志ではない。しかし発話すること、発語行為は意志だが、何かを言語的に思念すること一個一個は内的事実にしか過ぎず、ただそれらが一定の目的の渦中においてなされ得る限り、意志へと誘導される可能性が大いにあるだけだ。ある考えがある行動の合理性に裏打ちされる限り、意志として発現される可能性が大きい。
だから対人間社会(共同体)内秩序としての「合わせる」行為選択は、対社会(共同体)的な意味で責任倫理的側面が強い。だが仮に社会全体が歪曲した風潮となってゆくと途端に内的葛藤が必然的に生じ、心情倫理の復権が内的に叫ばれだす。そういうケースにおいてカントの倫理問題は極めて有効性がある。
<しかしそのようなケースとは稀であり、殆どの場合特殊な歴史的状況でしか起り得ず、例えばロシア革命以後のスターリニズム批判、第二次世界大戦中における兵役拒否その他反ナチズム運動とかのケース(戦後も沢山そういうことはあったし今もそうである。)しか考えられない。事実この時期マヤコフスキー、ガルシア・ロルカ、ワルター・ベンヤミン、ディトリッヒ・ボンヘッファーといった人物たちが苦悩する状況へ立ち向かった。この四人は、一人目は自殺、二人目と四人目は銃殺、処刑され、三人目は追い詰められて自殺した。共に戦争、圧政といった現実と向かい合っていた。「合わせる」は、社会の選択=悪の状況下では、社会の選択=善と認識させる状況より苛烈である。そういう場合真に善意志を貫くことは、自らアンチ・ヒーローたることを引き受けなければならない。そういう状況では、「合わせる」方が楽なのだ。しかし考えてみよう。もしあなたが誰か(国家でもいいし、法人や組織でもいいし、個人とかテロリストの集団でもいい。)に強制的に、脅迫命令めいた状況で戦場に立たされ、敵兵が銃口をあなたに突き付けて来た時、あなたは尚自ら携帯している銃を相手に使用することを拒むということが何を意味するかを。>
ウェクスラー家の選択を我々は笑えない。(私たちは我が国においてハンセン病患者に対して非情な判断を下してきた。彼(女)らは断種され、生まれてきた子供は国の法治的判断によって間引き対象とされた。しかしそれはある意味で国家の判断に従順に従った、つまり病気を隠蔽することが出来なかった庶民の無防備が生み出したことでもある。その無垢さに対して今日我々は勿論笑えない。K泉内閣による国による控訴断念も記憶に新しいが、私はかの全生園に訪れたことがある。そこは有名な精神科医院も隣接し、かつていろいろな意味で差別を受けてきた人々にとってせめて慰安となる生活環境確保という措置のために公園には綺麗な桜も植えられているが、そのことが私たちにほんの少しの慰めを与える。桜の美しさを目にした私は全生園に収容された人々の断種、間引きされた赤子の魂が乗り移って悲しい歴史を繰り返さないように訴えているようだった。私は収容施設にもまた苦悩した職員もいたと信じたい。)ナンシーにとって学問は「知ること」であり、「知ること」とは本来楽しい筈だ。だがその対象が自分の死も射程に入れた未来となると、流石の科学者も臆する。彼女は科学者でありながら、自然科学を彼女らほどは信奉しない一般民間人の採る「知りたくはない」権利を選ぶ。それは自然科学からの翻弄に対する返答である。それが私たちに教えるのは、死の告知の恐怖を紛らわすには、何か他のことに取り付かれ、翻弄されることを楽しむ以外にはない、ということだ。魅力に熱中することで解消される懊悩もある。魅力は状況次第で刻々変わる。それはアリスの言葉を借りれば、<「終わること」ではなく「はじまる」ことを考えたかった>ナンシーが研究者としてのスタートを切ったばかりのスタンスを想起させる。自らの死の予感と恐怖の克服だけではなく、生きることを楽しむことが遺伝病の事実を知った彼女の選択だったのだから。
哲学は究極的には「信じる」ことの何らかの提示の仕方そのものであり、「信じる」とは何なのか(それは宗教信仰心も含めて)への問いである。欲求に従順に行動することも欲求であれば、欲求に逆らい抑制することも欲求だとすれば、「信じる」を疑うことも「信じる」だし、「疑う」を信じることも「信じる」一つと言える。しかしアリスとナンシーは自体的客観事実において自分たちの未来を疑うよりは、「知る」欲求を封鎖した(かった)。つまり一般民間人的な「知りたくはない」権利の行使は、フッサールが超哲論的主観性と彼が呼ぶ自然科学における自体的客観事実への認識も、「それを正しい」と信じる人間の信念も、宗教的信仰心と共存して本源的に人間内部に位置していることさえ介さずに寧ろ「自分の未来とは自体的には知らないでいる方が幸せだ」というフィクションに真実と説得力を感じるクオリアの選択をしたに等しい。それは宗教的信仰心(しばしば自体的客観事実に反する)に近い。ハンチントン病の自殺は一般人の七倍で病気初期に集中する。レオノアと夫はアリスの学生時代に離婚するが、彼女の母の病名診断後も父による彼の元妻へのケアは続く。私はここにアメリカ人の慈愛を感じる。(かつて映画監督ロジェ・バディムの葬儀に元妻たち<ドヌーヴ、バルドー、フォンダ>が参列したニュースを読んだ時、私は西欧米人の慈愛の深さを感じた。)
アリスは院生時代に自ら子供を作ることを断念するが、恋人と離別後、再び愛する男性と出会う。アリスはナンシーが母の自殺未遂後、頻繁に手紙の遣り取りをしたことを書いている。私はこの下りに胸が詰まった。家族の愛の前には科学も、哲学も犠牲にしてもよいという選択の強さに私は覚醒させられた。愛は至上のものである。それは愛するということの辛さ、厳しさを物語っているが、翻弄されることが価値だと言い切れる信念の前で、私たちは論じることの起源を知る。論じることもまた「生きる」ことだし、生きることは「信じる」ことである。「信じる」ことは楽しい時には楽しいと告げ、辛く苦しい時は「辛い」、「苦しい」と告げることなのだ。あらゆる偽装性の真意表出による除去こそ、学問を包み込む愛の至上目的である。論じることもそのためにある。愛は衝動的な感性同士の出会いを必然化する持続的努力に他ならず、我々が翻弄を論じることを支える。それはもたつかない「確固たる理性」の称揚である。
私たちはシビアな現実の前で理想的な生き方とか勝ち組への夢とかの発想が脆くも崩れ去る音を聞く立場へいつでも立たされる可能性がある。そういう現実を前に自己に厳しくなり過ぎると、自殺という道が待ち構えている。いじめられているなら、何らかのレスキューを求めるべきだ。人間同士の精神的いじめと先述のようなウェクスラー家の苦悩とどちらが苦しいかをここで私には言えないが、少なくとも打開策が講じられるという意味では遺伝病ほど我々は切迫してはいない筈である。
私たちは「合わせる」によく翻弄される。だから「知的快楽主義」の価値転換が必要なのだ。それは時としてアンチ・ヒーロー意識へ我々を誘う。しかし「除け者にされたくはない」意識は最もネガティヴな「合わせる」行為の動機であり、それが他者のいじめの助長となることもあるが、親しい友人と何故か馬が合う、相性がいいと思うその本質には、「もたついた理性」の弁証法からの脱却の可能性もある。人間には考え込み過ぎて失敗するくらいならいっそ何も考えないで行動した方がいい。一気にやって、それが結果的に理性的な行動となればよい。(ギャンブル的な感性)を選択してもよいのだ。思い切った決断は<した時>は不安だが、後で考えると正しかったと思えることも多いと我々は経験的に知っている。考えても仕方ないこと、chemistry(衝動的な感性の場=真摯さのクオリア)自体に私たちが翻弄されていることを運命として受け入れ(死の不可避事実を受け入れるように)てスポーツとかビジネスとかに熱中して勝ったなら、支配欲求を一瞬満たし恍惚となり、しかしそれも一つの翻弄であるとシジフォス的認識を持ちつつ、再び麓から岩を山頂へと運ぶことを決意した者は、ただchemistryだけに拘泥した「オタク」となるだけでなく向上するだろう。その時真の意味で魅力とは何なのかを、再び問い詰める心の余裕が持てるのではなかろうか?(了)
翻弄論
主な参考文献
仏陀<釈迦無尼>「仏陀のことば」‐スッタニパータ‐、ジャン・ジャック・ルソー「人間不平等起源論」(中公クラシックス)、イマンニュエル・カント「純粋理性批判」、「プロレゴメナ」、「実践理性批判」、「判断力批判」(岩波文庫)、ゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル「精神現象学」(作品社)、チャールズ・ダーウィン「種の起源」(岩波文庫)、フリードリッヒ・ニーチェ「道徳の系譜」、「善悪の彼岸」(岩波文庫)、エトムント・フッサール「論理学研究」(みすず書房)(1902)、「デカルト的省察」(岩波文庫)(1931)、「イデーン」(みすず書房)(1913~)、「経験と判断」(河出書房)(1939)、「幾何学の起エドワード・サピア「言語」(岩波文庫)(1921)、柳田國男「遠野物語」(新潮文庫)(1910)「海上の道」(筑摩書房)(1961)、西田幾多郎「善の研究」(1911)、「思索と体験」(岩波文庫)、「場所的論理と宗教的世界観」(筑摩書房)、マックス・ヴェーバー「古代ユダヤ教」(岩波文庫)(1920)、エドワード・サピア「言語」(岩波文庫)(1921)、ルドウィッヒ・ウィトゲンシュタイン「論理哲学研究」(法政大学出版)(1922)、「哲学探究」(大修館書店)(1945)、マルチン・ブーバー「汝と我」(1923)、「対話」(岩波文庫)、ジグムント・フロイト「精神分析入門」(新潮文庫)(1932)、鈴木大拙「日本的霊性」(岩波文庫)(1944)、A・J・エイヤー「言語・真理・論理」(岩波現代叢書)(1946)、ジャン・ポール・サルトル「嘔吐」(1938)、「存在と無」(人文書院)(1943)、「ユダヤ人」(岩波文庫)(1954)、フェルディナント・ソシュール「一般言語学講義」(岩波書店)(1949)、カール・グスタフ・ユング「無意識の心理」(人文書院)(1948)、クロード・レヴィ・ストロース「親族の基本構造」(青弓社)(1949)、「人種と歴史」(みすず書房)(1952)、「悲しき熱帯」(中央公論社)(1955)、「今日のトーテムズム」(みすず書房)(1962)、コンラート・ローレンツ「攻撃」(みすず書房)(1963)、ジョルジュ・バタイユ「エロチシズム」(ダヴィッド社)(1957)「宗教の理論」(筑摩書房)(1973)、ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」(大修館書店)(1962)、モーリス・ファーバー「通信の歴史」(恒文社)(1963)、ジェロルド・J・カッツ「言語と哲学」(大修館書店)(1965)、ハーバート・ファイグル「こころともの」(勁草書房)(1966)、エドワード・ホール「かくれた次元」(みすず書房)(1966)、デズモンド・モリス「裸のサル」(河出書房新社)(1967)、ジョセフ・H・グリーンバーグ「人類言語学」(大修館書店)(1968)、吉本隆明「共同幻想論」(角川文庫)(1968)、ジョン・R・サール「言語行為」(勁草書房)(1969)、ジョルジュ・バタイユ「宗教の理論」(筑摩書房)(1973)、「エロチシズム」(ダヴィッド社)、香原志勢「人類生物学入門」(中公新書)(1974)、ピーター・ヘリオット「言語心理学入門」(大修館書店)(1975)、リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」(1976)、「延長された表現型」(紀伊国屋書店)(1982)、トーマス・ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」(勁草書房)(1979)、祖父江孝男「文化人類学入門」(中公新書)(1979)、ソール・クリプキ「名指しと必然性」(1972)、「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(産業図書)(1981)、富田虎男「アメリカ・インディアンの歴史」(雄山閣出版)(1982)、三木成夫「胎児の世界」(中公新書)(1983)、コリン・マッギン「ウィトゲンシュタインの言語論」(勁草書房)(1984)、マックス・I・ディモント「ユダヤ人」(朝日選書)(1984)、スラヴォイ・ジジェク「斜めから見る」(青土社)(1991)、マット・リドレー「ゲノムが語る23の物語」(紀伊国屋書店)(1993)、「やわらかな遺伝子」(2003)、マイケル・ダメット「分析哲学の起源」(オックスフォード出版局)(1994)、竹内久美子「そんなバカな!」(文芸春秋社)(1994)、中才敏郎「心と知識」(勁草書房)(1995)、信原幸弘「心の現代哲学」(勁草書房)(1999)、ジェイムズ・М・ダブス+メアリー・G・ダブス「テストストロン」(青土社)(2000)、西研「哲学的思考」(筑摩書房)(2001)、ジョセフ・ルドゥー「シナプスは人格をつくる」(みすず書房)(2002)、ジェームズ・D・ワトソン「DNA」(講談社)(2003)、アリス・ウェクスラー「ウェクスラー家の選択」、アンドリュー・H・ノール「生命最初の30億年」(2003)、三原弟平「ベンヤミンと女たち」(青土社)(2003)、森本浩一「デヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか」(NHK出版)(2004)、茂木健一郎「クオリア入門」(ちくま学芸文庫)(1999)「脳内現象」(NHKブックス)(2004)、「意識とは何か」(ちくま新書)(2003)、飯田隆「クリプキ ことばは意味をもてるか」(NHK出版)(2004)、梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書)(2006)
‐括弧内出版年は外国のものは原書の初出。しかし著者死去後のものも含む。その他多くのネット検索、CDによる音楽への鑑賞、試聴が元となった論文も含む。‐
C論文は一応今回で終了するが、その続きはやはりc論文第二弾として「自信論」を更新する。(河口ミカル)
Friday, May 28, 2010
B名詞と動詞10<一般名詞と固有名詞>
我々は通常動詞を使用する時はその動的な現実、変化しつつある様相の具体的な叙述を心的に想起したり、想像したりしている。しかし名詞の場合、それが一般名詞であればその名詞が指示する「一般的な概念」を話者も聴者も前提している。それがあのソシュールがラングと呼んだものの本質的な意味である。椅子と言ったらそれは我々が日常的に今現在使用する椅子一般のイメージが即座に想起される。椅子というものの観念連合はその時代毎に徐々に変化しつつあるであろう。だから椅子というものの具体的なイメージ像は少しずつ変化している。(勿論動詞もまたその動き一般のイメージというものはある。)
例えば今突拍子もないことであるが、こういうことを想像してみよう。我々が東京の街角、そう五反田であるとしよう。そこで駅前のタクシー乗り場の前にいてタクシーを待っているとしよう。ところが次に自分がタクシーに乗る番になって突如その情景が江戸時代のものにタイムスリップしたとしよう。そこに行き交うのは籠であり、それを運ぶ籠を運ぶ人夫たちである。私はその場所で呆気にとられながらも、タクシーが籠に変わっても行く場所は同じ戸越であるとしよう。私はその籠を仕方なく利用しながら、籠の人夫に「戸越」と声を掛ける。この時私はタクシーが現代では機能するところのものを江戸時代では籠で用を足していたということを時代劇か時代物の小説か何かで知っていて、それを即座に思い出し、タクシーの代理物として選択したのである。だから突然タイムスリップした五反田の街角で私が待っていたタクシーは私にとって(ということはそれを利用する全ての人にとって)移動の手段であるという文化コード、あるいは文明の利器としての存在理由を持った一般的な事物として認識していたわけである。しかしどういう理由でか突如背景の全ての景色が江戸時代にタイムスリップしてしまったから私は即座の判断でその時代にはないタクシーの代わりに籠を利用することを思いついた、というよりそこがそのまま江戸時代の背景になったから迷うことなくそれを利用することにしたのだ。タクシーと籠が時代的な相違とラングの通辞的な齟齬があるにせよ、我々は日常生活における移動手段として認識する心的な了解があり、それはラングでありコードであるであろう。そのコードの選択は慣用的な事項であり、どこにでも偏在しているものとしての共通理解がある。そしてそれは我々が成員であるところの共同体の隅々まで行き渡った約束事である。箸が物を食べる時に使うものであるようにである。
しかしタイムスリップした今現在政治や経済で活躍する人物の名前、つまり固有名詞を使用してもそれを理解する者は私を除いて誰もいない。何たって私は同じ場所でそのまま江戸時代にタイムスリップしたのだ。すると私はその時代に合わせて何とか窮状を脱しようと江戸時代の政治家とか学者とか役者の名前を付き焼けば的に言ってみる。その時代の専門の風俗や生活研究の学者でも時代小説家でもないから即座には思い出せない。だから適当に学生時代に歴史に授業で習った名前を論う内にその時代に該当した何人かの有名人(その時代にとっての、現代から見れば歴史上の人物)の名前が人夫に了解された。
ここで使用されている名詞は明らかにその人物が行った業績とか経歴を主体としたつまりその人物がその人物以外ではあり得ないことの証拠でもある行動、行為、あるいは語り伝えられてきた性格である。行動とか行為から我々はその時代において誰しも知るような人物のことを話題とする場合共有知識(あるいは関心)領域の確認という作業によって共通了解事項を即座に話題として選択しているのである。クリプキが固定指示子と呼んだものは一般名詞においてもあり得る。彼が使用した例としては光や水というものもそうである。金もそうである。しかしそれらはあくまでも我々にとって光や水とかが我々に果たす、あるいは我々がそれを固有の仕方で享受する(他の種の生物においてはまた異なった享受の仕方がある。)という事態をラング的にそれも通辞、共辞共に不変的なものとして利用しているし、そういう命名はクリプキが固定指示子と名指した行為によって恣意的に語彙音韻が選択されているのだ。そして当然彼の言う固定指示子は固有名詞も含まれる。ただ固有名詞はそれだけの選択によるものではない。今活躍する著名人の名前を話題にする時我々は我々が立たされている時代固有のコード(共辞的なラング)がある。ここは日本だから当然アメリカとは異なったラングが存在する。現代であれば当然日本でもアメリカでも通用するラングもあるが、そうでないものもあろう。(タイムスリップした江戸五反田はまだそこまで海外の情報はない。)そしてそういった固有名詞は有名人のことをタクシーの運転手や籠の人夫に語り掛ける時ばかりではなく、友人同士で共通の知人を語る時でも同様である。その友人の自己と他者双方が共通して知る了解事項、その友人の経歴や行動、性格(これは単に有名人よりはよく了解出来よう。というのも我々は現代の有名人に関してはマスコミその他でその性格を知るたけであり、実際に面識があるわけではない場合が大半なので、それはマスコミが作り上げた幻想である場合も多々あるからである。)を想起して使用される固有名詞の語彙選択である。それは通常の一般名詞を使用する時何かの為に利用するという約束事というコードとは異なった時代状況性に依存したラングである。だから私はタイムスリップした江戸時代において即座にその時代の著名人を想起し得なかったのである。そして明らかにA、人間(特定の人物)について固有名詞を語彙選択する場合とB、固有名詞、ある特定の事件、現象や特定の法則、理念を話題選択しその出来事や事象を共通了解事項として語彙選択する時(太平洋戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、総選挙、動的平衡、ソニック・ブーム、ドプラー効果、相対性理論、ファラデーの法則、万有引力の法則、守秘義務、単年度主義etc。)とC、一般名詞をただ単に利用する時は段階的にも質的にも異なった心的様相が介在すると思われる。尤も「犬」という語彙から想起されるものはある特定の時代(例えば<生類憐みの令>とかの通用した時代)においてはある種の普遍的な固有名詞(江戸時代においても使用されたであろう孔子や聖徳太子)以上に固有性(Aに近い)を有するであろう。2005年においての上半期におけるホワイトナイトや下半期における耐震強度偽装とかもそうである。つまり我々はこういった三つの段階と質的に異なる名詞に纏わる心的様相を恒常的に介在させていると考えられる。
ではその三つのケースにおいて個々に考えてみよう。
Cの一般名詞はそれほどの難しい基準はなく、先程のタクシーや箸や犬の例で充分であろう。問題となるのはAの固有名詞とBの固有の現象や約束事、法律、慣習、事象、各種用語、専門語である。B、この範囲が一番広い。所謂専門用語が一般化された例や一般名詞が多少特殊化したレヴェルからほんの一部の専門家しか使用しないものまで広範囲である。しかも2005年(この文が書かれている時点)での国民的関心事などは共辞的ラングの固有名詞と言ってもいいであろうし、ある特定の集団や複数の人間間での約束事といった個的なものも全て含まれる。ただ単に語彙数から言えば一般名詞が最大数であるが、そのレヴェル、質的両方で最もそのカテゴリーが豊富なのはBである。
専門用語が一般化したものは、多くの人々が知る専門用語であろう。例えば最も一般的なものは既に殆ど一般名詞化したもの自我、誤謬といった語彙(哲学、心理学の用語である。)は一般的にも通用する。これらは最初専門用語であったのであろうが一般化したようである。駄目、布石、定石、一目置くとかもそうであろう。あるいはインフォームド・コンセントとか2005年に俄然浮上した焦土作戦、レヴァレッジド・バイアウト、クラウン・ジュエリー、グリーン・メイラーといったものであり、またそれよりは多少専門化するものが、知覚生理学者が使用する水晶体、視差、収差といった語彙、あるいは映画業界におけるR指定とかB級娯楽映画とかの語彙、あるいは音楽業界におけるフランジングとか逆回転とかの録音技術に関するものであろう。これらは統計を取って調べなければ一般使用度がどの程度であるかは判然としないが、その使用頻度には大きな差があるであろう。また時代時代に固有の流行もある。
固有名詞もまたその知名度のレヴェルによって著名な人名にはレヴェル的な段階が存在しよう。個人的にしか知られていないある特定の人間関係や集団でのあるいは極微小な地域における同好的サークルや地域の専業主婦間の固有名詞(同一オフィス内の人間関係も含む。)等はそれほど顕著な段階性は存在しまい。それはあくまでも社会的地位の高低でしかなく、固有に使用されるレヴェルでの段階性はない。しかし著名な人名はいかに偉大な人物であっても専門的な世界でのそれらはあくまで国民レヴェルで著名な特定の政治家や経済人、著名文化人、芸能人、スポーツ選手以外は専門用語に近い。例えば神経学の世界でのカンデルとかヘッブとかがその例である。そういったレヴェルでの著名性は専門分業的な固有名詞であり、専門語と同一の性格を持つ。その世界でしか知られていずに、しかも偉大であるということの意味は明らかに専門用語と同義である。
だから固有名詞には二つの種類があることとなる。一つは個人的な意味での家族、知人を呼ぶそれ。もう一つは個人的ではない公の意味での固有名詞。そしてそれは更に二つに分岐する。それが一つは多くの大衆に知られた認知度の極めて高い(現代で言えば小泉首相<2006年9月退陣>、堀江元社長とかの)ケース。もう一方はあるスペシャリストとして固有の領域において専門用語化された存在を示すケースである。そして余り全国民に認知があるわけではないが、程ほどに著名なケースはある意味では認知度の極めて高いケースの予備軍でもあり、かつ個人的な固有名詞の延長されたものでもあるのである。だからこういった中間レヴェルの存在はどちらのケースにも転ぶ可能性のあるような範疇に属すこととなろう。
さて問題はBのケースである。このケースでは殆ど一般名詞化されたもの自我とか誤謬とかがある一方、太平洋戦争とか動的平衡であるとか所謂その歴史的な推移や内容が鮮烈な形で想起されるような意味では前者は固有名詞であるが、それがあまりにも歴史的に必然的な事実であるかのように思われるために、それが一般名詞化されてもいる。また後者は明らかにその自然科学的、生化学的な意味、メカニズムが専門的な学者の間では共有コード化しており、専門用語である。これらはその専門家にのみ共有されるコードであり、極一般的な普通名詞にはならない。だから太平洋戦争に比すれば明らかに特殊である。しかしそれは認知のレヴェルであって、真理のレヴェルでではない。Cの一般名詞はそれがどんなに特殊なタクシーであっても箸であっても犬であっても、その一般名詞のカテゴリーにおいてはその変数でしかないが(ということはそれらは形容を要求する記述による特定の指示であるが)、Aの固有名詞やBの一般名詞に帰属しない特定指示名詞、抽象名詞はその指示の中に既に性質や真理、形容が内容把握、内容記述的に網羅されている。そしてこのBについては最も一般化されるか特殊固有名詞化するかの振り幅が大きいので、一般名詞という一般概念化と固有名詞特定指示化の両極端を常に行ったり来たりするような性格のグレイ・ゾーンであると言えよう。
これら名詞のカテゴリーを「信じる」ことと「理解する」ことにおいて考えてみよう。まず一般名詞は概念として理解されている語彙で通用する、共同体において最も一般的に考えられる社会的な機能、有用性のある道具、生活手段である。だから「信じる」ことがあるにせよ、それはあくまで「理解する」ことを通してなされる「信じる」ことであるから、経験的な慣用性に依拠しているのである。それに対してBの抽象名詞や特定の出来事や事象、法則を表わす名詞はその特定の性質や性格を語る意味では固有名詞的であるからその性格や性質理解を要し、直接Cのような道具性はなく、あくまで動的現実、動詞的な思念が絡む、しかも一般名詞はその名詞を使用する度に一々動的現実を想起することは限りなく少ない(尤もハンマーというと叩くものというような意味では観念連合はある。しかしそれらはあくまで名詞的な思念において、つまり道具の持つ歴史性や一般使用を巡っての有用的な理解である。一旦知ってしまった以上それらは概念的な道具としての有用性であり、存在を信じるというようなものとも異なるが、取り敢えず名詞的に思念される。尤もそれで人が殺されたというような場合には別であるが、通常は名詞的に思念されるだけだ。生物種の場合例えば猫は猫でありその存在を信じてもいるが、それらはあくまで日常的に我々がよく知る動物である。だから猫が絶滅して過去の郷愁として想起されることでもない限りそれらは「存在したことを信じた」のではなく、これからもそう容易にいなくなりはしないのだから概念的に理解される心的様相の方が強いのである。)のに比べこれらはそのプロセスが何段階にも渡って反芻されるような想起、つまりメカニズム、意義といった複雑な階層や秩序が含有された思念を喚起する。だからこれらは経験的な慣用性から来る「理解する」ことから齎される「信じる」ことではなく、寧ろ専門学習的な経験、つまり固有のものに対する理解(その意味では固有名詞的な意味合いも持つ)である。一般名詞においてもハンマーならハンマーで固有性はある。しかしそれらは日常的に特殊なものではない。(だからレコードがCDに取って代わられたような意味で日常使用から淘汰されればこれもまた特殊化し得る。)だから当然それらを特有なものとして心的に名指すことはない。それに対して事象や現象、法則、歴史的出来事などはそれを記憶に留めた日常的に自然に侵入してきた語彙ではない、特有の学習記憶文脈が過去にあり(私にとっての太平洋戦争は両親から聞かされた戦争体験からである。)それに沿った固有の個的意味が一般名詞よりも顕著である。一般名詞には個的な意味性よりも慣用的な日常性が勝っている。そこが大きな相違である。だから固有名詞は個的意味と共にその特定の人物に固有の風貌があり、それに対する存在是認という「信じる」ことが初期においては大半を占めており、心的には「理解する」ことがその後にやってくる。というのも固有の人物においては「理解する」こととはあくまで存在是認の後にその行動や行為、思想のコードに対してなされるのであってア・ポステリオリである。まずア・プリオリに特定の他者として認知されるところの存在是認がなされ然る後にその人物に纏わる事項が一つ一つ(その人の癖、表情の日常的な取り方、他者への接し方といった)理解されることとなるのである。だから一般名詞において日常的実用性への理解、Bのケースにおいては学習的な意味理解というプロセスが、そして固有名詞においては信じることがまずなされる。一般名詞が実用理解であるのに日常的自明性によって名詞的思念、Bのケースが学習的であるから動詞的思念、そして固有名詞は存在是認における名詞的思念であるが、それは人格認知であるから一般名詞的な名詞的思念とは全く性質の異なった、その存在を信じる名詞的思念である。一般名詞が理解する名詞的思念であることからすれば対極である。
一般名詞がこの世界に存在する何らかの事物、対象を名指したものであるということの了解はア・プリオリなものである。従ってそれを日常何の疑問もなく目にすることの出来るものに関してはその存在を「信じ」かつ「理解する」ことが出来る。その思念は具体的な理解を伴ってそれを把握した後は名詞的思念上で何の疑問も持たずに道具性として認識する。しかし一度も見たことのない生物(日本にいない生物もある。)に対してあるいは日本にいたとしても珍しい生物であるが為に一度も目にしたことがない(かく言う私もパンダの実物は見たことがない。)生物に関して我々はそれを生物であり、構造理解していてもあくまで知識レヴェルでのことである。だが一度でも写真や映像で見たならば、その生物はそれらを通して理解される。だが実際に目にするとBのケースのような意味で真に個的意味として理解されよう。だからある生物がその国にいない場合、それが他の国では当たり前のようにいるという現実が写真や映像などで紹介されている場合でもその名詞はその生物がいない国でも成立しているし、それなりのそれら写真や映像を通してなりのその生物の存在や性質に対する理解は生じよう。しかしそれらが実際にその生物がいないし、テレビのニュース等で紹介されていない国ではその段階ではまだ特殊事物の名詞であり、固有名詞に近い。だがやがてその国にその生物が運ばれて一般大衆の目に触れた段階において全体把握はなされ、形状記憶、性質理解はなされ一般名詞化される。仮にその生物が極一握りの専門家にしか名前さえ知られていなくても同様にその生物の名前が一般に公開され認知されると同時にその国の国民はその生物に対して名詞的思念で理解されたものとして概念的に使用し、名前を呼ぶ。その存在を「信じる」ことはその生物がその国で公開されるその時まで存在すら知られていない場合でさえその時には「信じられる」。それはそれまで存在だけはメディアやテクストで紹介されてきていた為に「信じられて」いたものの、それらは「理解されて」いたわけではない場合でも同様である。よって一般公開されたその時衆人の下にそれは初めて事実上同時に「理解され」、「信じられ」たわけである。
何かが起こり、例えば今の例のようにある生物が一般公開されることにより一般名詞化し、固有名詞的なミステリアスから解放された時我々はその生物に対して認知し、名詞的思念を恒常化させるが、それまでは理解されているということが知識レヴェルであり、確かに存在は信じられているものの、理解されることと信じられることが遊離している状況であったのだ。それが一致したことで固有名詞的なミステリアスさは消滅し、謎の部分の溜飲は下げられ、一般化されるわけである。そして我々はそういうこととなった事態があるからこそ、クリプキが言うような意味でそうではなかった可能性「その生物がわが国に紹介されなかったかも知れない」という可能性を初めて考えることが出来るのだ。それはそうなってしまった「既に紹介された」ことに関してある種の後悔とか狼狽を感じた場合にはよりそうなのである。クリプキの言うような意味での可能世界意味論とはある結果が出されたことに関して喜ばしいと思う反面残念であったり、ある可能性が実現されそうな時に躊躇したり、逡巡したりする人間心理が存在することを如実に語っている。その意味では様相論理学とは明らかに一回性であるある出来事の発生が持つ過去変更不可能性が持つ時間論的諦念が生じさせた学であるとも言えよう。
我々は一般名詞に関しそれをまず受け入れ然る後そのものと出会い(あるいは同時である場合もあるだろう。)、それが例えば猫であれば、猫と言う一般的な概念を自己において認識させる。それは猫を猫として規定している音韻的にnekoと発声する共同体秩序を不可避的に是認し、その成員としてその諸言語活動に加担することを無意識の内に選択しているのだ。そしてその受容した猫の概念との触れ合いが自己独自の個的意味を発生させるような猫を巡る経験を生じさせる。勿論その猫という語彙を覚えた最初の出会いもあった。しかしそれはまだそれが猫であると知る前に何か特定の名前を持ったペットとしてであっても、庭に歩いているどこかよその猫であってもそのこと自体は語彙習得自体には何の影響を与えはしない。猫という語彙はそれがどういうものであっても個的意味とは別個に習得されて、その概念<イデアと言ってもよい。>を通して個的意味を意志伝達し合うに過ぎない。だから一般名詞を使用する時我々はその語彙を概念として承認し、然る後個的な猫(昨日散歩をしていた時に見た猫であっても、かつて自分の家で飼っていた猫であっても)を語るのである。要するに概念のカテゴリーを通して個物を認識する、ということである。
それに対して固有名詞は個的意味を生じさせるような一般概念はそもそも存在しない。既にそれ自体で充分個的であるからである。そこで固有名詞は逆に匿名性(田中であっても鈴木であっても高橋であっても渡辺であってもそれは固有の例えば田中であるにもかかわらず、何処にでもいる個人、人格の一つでしかないのだから)を帯びる。
抽象名詞、歴史的事件や出来事の固有の呼び名(通称)、専門用語(概念規定語)、及び法則、事象、現象、法律を表わす名詞は個的である部分はあくまでその概念や理念の学習過程でしかなく、全ての成員にとっての同一のコードでなければならないと同時にそれらは理解する為に一定の過程(それは単純なものから複雑なものまで多種多様である。)を必要とする。「あれ何?」と聞く子供に「猫よ。」と答えて呼び名(名詞)を教えるように簡単にはゆかないのである。蒸発、離散、解散、消化、昇華、脱分極、光合成、慣性、ホメオスタシスといったものたちは、名詞でも油圧ポンプとかトランスミッションオイルとかと同じであり、その機能を一語では説明出来ない。一般名詞もまたこのBカテゴリーに含まれ得る可能性を持つもの、それがかなりの程度で一般化され今や誰しもが知り得るア・プリオリである場合など実はその段階性、レヴェルは多様である。そこで一般名詞と抽象名詞とか専門用語とかは歴史的事件(壇ノ浦の決戦とか大政奉還とかの)という固有性ともまた異なったある種のフレクシビリティーを含有している、と言える。
逆に太平洋戦争を研究する研究家にとってのあらゆる事件や事変、戦争の呼び名はだから当然のことながら一般名詞化されている。また自然科学者にとってあらゆる自然科学現象の用語は全て一般名詞化されている。芸術家にとって美術、音楽用語、経済界の人間にとって経済用語とかも同様である。
一般名詞において我々が留意すべき重要なこととは、我々が実際には今現前的には目にしていないものばかりか、日常でも目にしないものさえもそれを存在する極一般的なものとして認識するコードとして流用している、ということである。例えばコアラは日本に生息する動物ではないが、動物園に行けば見ることは出来るし、仮に普段そういう場所に行かない人間でもそれらの存在をテレビや写真、動物図鑑、新聞とかのメディアで知ることは容易であるし、またそれら日常において実物をそう容易に知覚出来ないものさえ思惟において動員される知識が例えば意志伝達における話題構成において必要事項として記憶事項、ワーキング・メモリー的な日常性のリストに入力されている。ファイル保存されている。我々が目にするものとは殆どが現代ではメディアを通してなされる。アメリカの大統領、スペースシャトル、空爆される世界各地の都市の様相(戦場)、それらは実際に目前で知覚されるような対象ではない。にもかかわらず我々はそれらを日常的に使用するトースターやテーブルや掃除機と同格の一般的な対象として認知している。人間は我々と同一種のホモ・サピエンスたちが「我々が行ったこともない地球の裏側」でも我々と恐らく同じように悩み、苦しみ、喜び、嬉しい表情をしているということを確信している。それは彼らの存在を「理解して」いるのと同時に「信じている」のだ。
このような不在のもの、我々が生涯一度も目にすることなく終わる大半のものをもそれが存在しているし、これからもそうである、という認識する能力こそ人間がある対象を、名詞を通して事物の概念として名指す、命名するということの本質ではなかろうか?
動物は自己個体と同一種の他個体が自己個体の周囲にいる者たちを除外しても自己の与り知らない場所において生活しているに違いないというような思念を抱くことが果たしてあるのだろうか?このことは動物における知識をも含めた認知がどの程度かという問題と同時に不可知領域や不可知という風に規定し得なくても自己の覚知可能性から漏れ出たあらゆる対象の必然的な存在可能性の確信とは一体我々の生にどのような意味を与えているのか、という重大な問題を我々に提出する。
哲学者の中島義道はカント研究を通した独自の論客として知られているが、表象という哲学用語をカントがどのように解釈していたのかということに関して次のように語っている。(「カントの自我論」表象としてのバラ、34~35ページより)
「表象」とは何か、あらためて考察してみよう。それは、カントの場合ラテン語の“reprasentatio”1英語の”idea”そしてドイツ語の“Vorstellunng”という三重の意味を担っている。三重の意味の差異をあえて省けば、「表象されたもの」とは現前に知覚されている対象自体ではなく、私の心的世界(Gemut)の「うち」に取り込まれた対象のあり方である。
日常言語においては表象としてのバラとは知覚されるバラではなく、むしろ想像されるバラ、心像としてのバラである。日常語では、知覚とは対象を直接正しくとらえることだと了解されており、そのかぎり知覚されたバラにほかならない。
ちなみに、ドイツ語の日常使用において、眼前の知覚風景を表象と呼ぶことはまずない。表象とはむしろ眼前にないものを思い描くときに使われる。例えば、“Stell dir mal vor!(ちょっと考えてごらん)”とか“Davon habe ich keine Vorstellung(それについては何も思い浮かばないよ)”というように。
だがカントにおける表象としてのバラは、こうした日常的素朴な意味で心像であるわけではない。概念としてのバラでもない。それは、私が<いま・ここ>で知覚しているバラであり、私が昨日見たバラであり、他人がいま世界のどこかで見ているバラであり、誰も見ていないが現に存在しているバラであり、誰も見ていなかったが現に存在していたバラである。つまり、それは心像や意味にすぎないのではなくて、時間・空間のある場所に実在するバラと同義である。
ここに重要なことは、これらの表象としてのバラのうち、私が現に<いま・ここ>に知覚しているバラはいかなる特権的な身分ももたないということである。<いま・ここ>には不在であるが、世界のどこかに現に存在しているバラやかつて世界のどこかに現に存在していたバラも、<いま・ここ>に現に不在のバラに共通なあり方、それが表象としてのバラのあり方なのだ。
こうしてみると、ほとんどの表象は<いま・ここ>に現に存在していないことがわかるであろう。さらに、私が一度も現に知覚したことがないソクラテスでも恐竜でも、同等に表象になりうる。とすると、むしろ私が<いま・ここ>で現に知覚している諸物こそ、表象としては例外的であることがわかってくる。
むしろ、私が<いま・ここ>に現に知覚していない諸物のあり方こそ、表象のあり方のモデルなのである。そして、膨大な私が<いま・ここ>に現に知覚していない諸物のあり方のうち、かつて私が現に知覚したことの想起こそ特権的地位を占める。表象の適切なモデルは、私が過去の体験を端的に想起することなのだ。
実に適切な表象の説明である。ここに我々が名詞において考えられる命名性の全てが説明され尽くしている。我々がある名詞、例えばハンマーを語彙選択する時我々の心的様相は、それをハンマーという表象を通して他者へ意志伝達する際には明らかに名詞的思念という道具理解(ハンマーがハンマーとして名指され世界中に存在する存在理由に対する日常的な理解。これがある為にハンマーという語は存在する。そしてそのこと自体を個人的レヴェルで理解するということ)に同意することを意識的、無意識的にかかわらず自覚している。そういう心的様相において我々は選択された語彙使用を通してその同意をも意志伝達内容と同時に表明しているのに他ならない。
名詞使用を通した名詞的思念とは明らかに道具理解という世界共通(国内共通とか地域共同体共通とかの色々のレヴェルがあるが)認識及びそのことに対する同意表明を結果論的にはなしているのだ、と見做してよい。
そのことを下図に示してみよう。
意志伝達における話題選択→文章構成と語彙選択→発話<名詞使用に関する語彙選択においては道具理解、一般慣用性への同意表明をなしている。>
勿論こういったプロセスは日常的には殆ど無意識に条件反射的に執り行われているのである。勿論意志伝達とは意思表明であると同時に自己の意思確認、他者との間で取り交わされる相互意思確認が綯い交ぜとなった状態で心的な発話行為発動性に関した意志決定プロセス全てを言うこととする。そのように思惟から発話へと至る全てのプロセスを一括して意志伝達と呼ぼうと思う。
名指し、あるいは名詞的思念を喚起する名詞使用、ある概念指示に関してクリプキが提示した理論は画期的であった。というのもそれが想起させる問題は概念が個的意味や個的理解、解釈を素通りしてそれが流用される共同体においてはその命名者がどのような意図やその概念に対する意味理解があろうともその流用のされ方は概念としてそれが名詞と言う体裁で表出された指示以上の何物も伝えはしないという冷酷かつ合理的な現実であった。ある物語を語る話者がそれをどのような自己の心的な様相において語ろうとも、彼の語りが指示すものは彼の心的な意図や願いとはある時は裏腹でさえあるような、つまり語る動機(フッサールが語った動機付けにも関係があるところの)とは無関係に「語り」という機能によって「語られた意味」(話者の内的動機とは無縁の意味作用的な)が、クリプキの謂いを借りれば循環する。
今現在でも世界中ではあり得ることであるが、ある宮中の、あるいは王室での陰謀や一般大衆には知らされていない極一部の関係者による取り計らいというものがあるとしよう。それを表立って公表するわけにはゆかないからその取り計らいを今仮にAと呼び、その関係者たちの間では明らかにその取り計らい自体を指示する場合Aを使用するとしよう。しかしそのAという語彙は日常的にはその取り計らい自体と無縁ではないにせよ、その取り計らいが持つ秘め事的なニュアンス自体を字義通りに解釈すれば指示しはしないものとしよう。Aは語彙から受け取るべき語感には決して隠語的ニュアンスはない。その一部の関係者間によってはその取り計らい自体を指示していたその語彙Aも、それが隠語的な役割を果たすのはその取り計らいの実態を知る一部の人間だけだから、それを後世に語り継いでゆこうという裏切り者(その取り計らいは秘め事なので実際はそういう風に語り継ぐべきものではないので)がいでもしない限り、その語彙はやがてその字義が示す通常の意味以上のニュアンス(関係者間の秘密)は剥がれ落ち、その字義通りのみが意味作用として流用されてゆくであろう。言葉の歴史を辿ると意外とそういうことが多い。それはそのAが宮中で使用されている局面においてさえ隠語として使用する人間は関係者である一部の人間だけだから、その周囲の人間はたとえ宮中に仕える者たちでさえ例外なく字義通りにしか受け取らない。やがてその語彙は宮中でも取り計らいに気付かぬ能天気な人間たちの隠語的意図のない部分だけが独立して一般大衆に広まってゆく。
上記のような現実をある意味ではクリプキの語彙慣用の実態を抉ったような言語論は語っている。クリプキが語る語彙使用における話者の「同意」という考え方は明らかに一般名詞が使用される時も、固有名詞が使用される時も、我々はそういった「語られる」言葉が「語ろうとする意志」とは一致する部分もあるが、必ず齟齬を持ちながら循環される、意味作用的な選択を持っているのだ、ということを如実に示しているのである。<このことに関してクリプキはナポレオンを例に出して述べている。ナポレオンを語る時、その話者が持つナポレオンの知識が「語られる」言葉自体には何の影響も与えはしない、つまり話者はそれを承知でその話者のナポレオンの知識(や認識の仕方)が並外れていてさえ、その見識は「語られた」言葉を通してはナポレオンが指示する性格には影響を及ぼさず、その限界(共同体の大多数の成員が平均して受け取るナポレオンという固有名詞が示す意味)を超えずに伝わることに同意して発言しているのである。>
人間は真に孤独では生きることは出来ない。孤島に暮らす人間でさえその人間の周囲には鳥や亀、兎といった生物たちが人間の他者の代用として存在しているのである。それは脳内の各瞬間に即応した状況判断とかだけではなく、心的持続的に、心理的にそのような周囲の生命に対する協調や同化、ある種の自然共同体という観念を生きてゆく上で獲得する。その生命環境体の一部として生を全うするという意識を覚醒するのだ。どういう状況であってもその状況に応じた目的性や意義を見出す。だからこそ言語が慣用される循環的な情況を受容し、どのような形でその真理を見出したか(クリプキが言った固定指示における名詞を齎した張本人の特定)には係わらず、その真理を生の現実に応用し得る能力を持っている。発話行為も記述行為も、だから行為の一環として位置づけられる。
我々は既に固有名詞が一般名詞化するような過程もあるし、また逆に一般名詞が固有名詞化し得るような特定の状況もあることを確認してきた。(レコード)それらが我々に教えてくれるのはあらゆる名詞が持つ性格とはその名詞が誕生した瞬間にある程度の限定的な役割は規定されるものの、決して固定的に一点に留まり続けるというものでもない、ということである。孤島に暮らす人間が誰一人として話相手がいないので孤独に打ちひしがれて必ず自殺するとも言い切れない。マッギンがあの「ウィトゲンシュタインの言語論」において示した後半のクライマックスで孤島において一人で生活する人間もまた規則遵守をし得る可能性には明らかにある秩序をどのような状況においても見出す能力の発現というものを想起せずにはおかない。そのようにある人間が切羽詰まった状況に目的と可能性を見出してゆくように語彙もまたそのように可変的な様相性に密着している。一般名詞であるようなある語彙がある地域集団間において、ある複数のサークル内において固有の意味を生じたり、あるいは専門用語であったものが広く一般化してその使用され方がある専門分野から大きく離脱して普遍的な真理の表現に流用されたり、といった現実は枚挙に暇がない。
そのような意味では語彙の歴史性、通辞、共辞にかかわらず、あるいはその循環の範囲の拡大、延長といった現実はそれだけで、語彙の運命を可変的なものにする。
かつてヴァイキングの一味であった民族のどの個人もそこで使用された語彙の幾つかが世界語になるとは思いも寄らなかったであろう。かつて一部の部族によってのみ行われた幾多の競技が今や世界的なスポーツになるなどと誰がその発祥の時代に予感し得ただろう?名詞の変動性や名詞の質的な広大さはそれだけで人類の移動や物の見方の変化を物語っている。今後もまた名詞は幾らでも変化し続け、更に数を増してゆくであろう。またそれが動詞をどう変化させてゆくかも重要なキーである。動詞もまた変化し、名詞を刺激、変化させ続ける。次章ではその動詞がどのように名詞に絡んでくるか、どのように名詞から絡まれるか、という面から考察してみようと思う。
例えば今突拍子もないことであるが、こういうことを想像してみよう。我々が東京の街角、そう五反田であるとしよう。そこで駅前のタクシー乗り場の前にいてタクシーを待っているとしよう。ところが次に自分がタクシーに乗る番になって突如その情景が江戸時代のものにタイムスリップしたとしよう。そこに行き交うのは籠であり、それを運ぶ籠を運ぶ人夫たちである。私はその場所で呆気にとられながらも、タクシーが籠に変わっても行く場所は同じ戸越であるとしよう。私はその籠を仕方なく利用しながら、籠の人夫に「戸越」と声を掛ける。この時私はタクシーが現代では機能するところのものを江戸時代では籠で用を足していたということを時代劇か時代物の小説か何かで知っていて、それを即座に思い出し、タクシーの代理物として選択したのである。だから突然タイムスリップした五反田の街角で私が待っていたタクシーは私にとって(ということはそれを利用する全ての人にとって)移動の手段であるという文化コード、あるいは文明の利器としての存在理由を持った一般的な事物として認識していたわけである。しかしどういう理由でか突如背景の全ての景色が江戸時代にタイムスリップしてしまったから私は即座の判断でその時代にはないタクシーの代わりに籠を利用することを思いついた、というよりそこがそのまま江戸時代の背景になったから迷うことなくそれを利用することにしたのだ。タクシーと籠が時代的な相違とラングの通辞的な齟齬があるにせよ、我々は日常生活における移動手段として認識する心的な了解があり、それはラングでありコードであるであろう。そのコードの選択は慣用的な事項であり、どこにでも偏在しているものとしての共通理解がある。そしてそれは我々が成員であるところの共同体の隅々まで行き渡った約束事である。箸が物を食べる時に使うものであるようにである。
しかしタイムスリップした今現在政治や経済で活躍する人物の名前、つまり固有名詞を使用してもそれを理解する者は私を除いて誰もいない。何たって私は同じ場所でそのまま江戸時代にタイムスリップしたのだ。すると私はその時代に合わせて何とか窮状を脱しようと江戸時代の政治家とか学者とか役者の名前を付き焼けば的に言ってみる。その時代の専門の風俗や生活研究の学者でも時代小説家でもないから即座には思い出せない。だから適当に学生時代に歴史に授業で習った名前を論う内にその時代に該当した何人かの有名人(その時代にとっての、現代から見れば歴史上の人物)の名前が人夫に了解された。
ここで使用されている名詞は明らかにその人物が行った業績とか経歴を主体としたつまりその人物がその人物以外ではあり得ないことの証拠でもある行動、行為、あるいは語り伝えられてきた性格である。行動とか行為から我々はその時代において誰しも知るような人物のことを話題とする場合共有知識(あるいは関心)領域の確認という作業によって共通了解事項を即座に話題として選択しているのである。クリプキが固定指示子と呼んだものは一般名詞においてもあり得る。彼が使用した例としては光や水というものもそうである。金もそうである。しかしそれらはあくまでも我々にとって光や水とかが我々に果たす、あるいは我々がそれを固有の仕方で享受する(他の種の生物においてはまた異なった享受の仕方がある。)という事態をラング的にそれも通辞、共辞共に不変的なものとして利用しているし、そういう命名はクリプキが固定指示子と名指した行為によって恣意的に語彙音韻が選択されているのだ。そして当然彼の言う固定指示子は固有名詞も含まれる。ただ固有名詞はそれだけの選択によるものではない。今活躍する著名人の名前を話題にする時我々は我々が立たされている時代固有のコード(共辞的なラング)がある。ここは日本だから当然アメリカとは異なったラングが存在する。現代であれば当然日本でもアメリカでも通用するラングもあるが、そうでないものもあろう。(タイムスリップした江戸五反田はまだそこまで海外の情報はない。)そしてそういった固有名詞は有名人のことをタクシーの運転手や籠の人夫に語り掛ける時ばかりではなく、友人同士で共通の知人を語る時でも同様である。その友人の自己と他者双方が共通して知る了解事項、その友人の経歴や行動、性格(これは単に有名人よりはよく了解出来よう。というのも我々は現代の有名人に関してはマスコミその他でその性格を知るたけであり、実際に面識があるわけではない場合が大半なので、それはマスコミが作り上げた幻想である場合も多々あるからである。)を想起して使用される固有名詞の語彙選択である。それは通常の一般名詞を使用する時何かの為に利用するという約束事というコードとは異なった時代状況性に依存したラングである。だから私はタイムスリップした江戸時代において即座にその時代の著名人を想起し得なかったのである。そして明らかにA、人間(特定の人物)について固有名詞を語彙選択する場合とB、固有名詞、ある特定の事件、現象や特定の法則、理念を話題選択しその出来事や事象を共通了解事項として語彙選択する時(太平洋戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、総選挙、動的平衡、ソニック・ブーム、ドプラー効果、相対性理論、ファラデーの法則、万有引力の法則、守秘義務、単年度主義etc。)とC、一般名詞をただ単に利用する時は段階的にも質的にも異なった心的様相が介在すると思われる。尤も「犬」という語彙から想起されるものはある特定の時代(例えば<生類憐みの令>とかの通用した時代)においてはある種の普遍的な固有名詞(江戸時代においても使用されたであろう孔子や聖徳太子)以上に固有性(Aに近い)を有するであろう。2005年においての上半期におけるホワイトナイトや下半期における耐震強度偽装とかもそうである。つまり我々はこういった三つの段階と質的に異なる名詞に纏わる心的様相を恒常的に介在させていると考えられる。
ではその三つのケースにおいて個々に考えてみよう。
Cの一般名詞はそれほどの難しい基準はなく、先程のタクシーや箸や犬の例で充分であろう。問題となるのはAの固有名詞とBの固有の現象や約束事、法律、慣習、事象、各種用語、専門語である。B、この範囲が一番広い。所謂専門用語が一般化された例や一般名詞が多少特殊化したレヴェルからほんの一部の専門家しか使用しないものまで広範囲である。しかも2005年(この文が書かれている時点)での国民的関心事などは共辞的ラングの固有名詞と言ってもいいであろうし、ある特定の集団や複数の人間間での約束事といった個的なものも全て含まれる。ただ単に語彙数から言えば一般名詞が最大数であるが、そのレヴェル、質的両方で最もそのカテゴリーが豊富なのはBである。
専門用語が一般化したものは、多くの人々が知る専門用語であろう。例えば最も一般的なものは既に殆ど一般名詞化したもの自我、誤謬といった語彙(哲学、心理学の用語である。)は一般的にも通用する。これらは最初専門用語であったのであろうが一般化したようである。駄目、布石、定石、一目置くとかもそうであろう。あるいはインフォームド・コンセントとか2005年に俄然浮上した焦土作戦、レヴァレッジド・バイアウト、クラウン・ジュエリー、グリーン・メイラーといったものであり、またそれよりは多少専門化するものが、知覚生理学者が使用する水晶体、視差、収差といった語彙、あるいは映画業界におけるR指定とかB級娯楽映画とかの語彙、あるいは音楽業界におけるフランジングとか逆回転とかの録音技術に関するものであろう。これらは統計を取って調べなければ一般使用度がどの程度であるかは判然としないが、その使用頻度には大きな差があるであろう。また時代時代に固有の流行もある。
固有名詞もまたその知名度のレヴェルによって著名な人名にはレヴェル的な段階が存在しよう。個人的にしか知られていないある特定の人間関係や集団でのあるいは極微小な地域における同好的サークルや地域の専業主婦間の固有名詞(同一オフィス内の人間関係も含む。)等はそれほど顕著な段階性は存在しまい。それはあくまでも社会的地位の高低でしかなく、固有に使用されるレヴェルでの段階性はない。しかし著名な人名はいかに偉大な人物であっても専門的な世界でのそれらはあくまで国民レヴェルで著名な特定の政治家や経済人、著名文化人、芸能人、スポーツ選手以外は専門用語に近い。例えば神経学の世界でのカンデルとかヘッブとかがその例である。そういったレヴェルでの著名性は専門分業的な固有名詞であり、専門語と同一の性格を持つ。その世界でしか知られていずに、しかも偉大であるということの意味は明らかに専門用語と同義である。
だから固有名詞には二つの種類があることとなる。一つは個人的な意味での家族、知人を呼ぶそれ。もう一つは個人的ではない公の意味での固有名詞。そしてそれは更に二つに分岐する。それが一つは多くの大衆に知られた認知度の極めて高い(現代で言えば小泉首相<2006年9月退陣>、堀江元社長とかの)ケース。もう一方はあるスペシャリストとして固有の領域において専門用語化された存在を示すケースである。そして余り全国民に認知があるわけではないが、程ほどに著名なケースはある意味では認知度の極めて高いケースの予備軍でもあり、かつ個人的な固有名詞の延長されたものでもあるのである。だからこういった中間レヴェルの存在はどちらのケースにも転ぶ可能性のあるような範疇に属すこととなろう。
さて問題はBのケースである。このケースでは殆ど一般名詞化されたもの自我とか誤謬とかがある一方、太平洋戦争とか動的平衡であるとか所謂その歴史的な推移や内容が鮮烈な形で想起されるような意味では前者は固有名詞であるが、それがあまりにも歴史的に必然的な事実であるかのように思われるために、それが一般名詞化されてもいる。また後者は明らかにその自然科学的、生化学的な意味、メカニズムが専門的な学者の間では共有コード化しており、専門用語である。これらはその専門家にのみ共有されるコードであり、極一般的な普通名詞にはならない。だから太平洋戦争に比すれば明らかに特殊である。しかしそれは認知のレヴェルであって、真理のレヴェルでではない。Cの一般名詞はそれがどんなに特殊なタクシーであっても箸であっても犬であっても、その一般名詞のカテゴリーにおいてはその変数でしかないが(ということはそれらは形容を要求する記述による特定の指示であるが)、Aの固有名詞やBの一般名詞に帰属しない特定指示名詞、抽象名詞はその指示の中に既に性質や真理、形容が内容把握、内容記述的に網羅されている。そしてこのBについては最も一般化されるか特殊固有名詞化するかの振り幅が大きいので、一般名詞という一般概念化と固有名詞特定指示化の両極端を常に行ったり来たりするような性格のグレイ・ゾーンであると言えよう。
これら名詞のカテゴリーを「信じる」ことと「理解する」ことにおいて考えてみよう。まず一般名詞は概念として理解されている語彙で通用する、共同体において最も一般的に考えられる社会的な機能、有用性のある道具、生活手段である。だから「信じる」ことがあるにせよ、それはあくまで「理解する」ことを通してなされる「信じる」ことであるから、経験的な慣用性に依拠しているのである。それに対してBの抽象名詞や特定の出来事や事象、法則を表わす名詞はその特定の性質や性格を語る意味では固有名詞的であるからその性格や性質理解を要し、直接Cのような道具性はなく、あくまで動的現実、動詞的な思念が絡む、しかも一般名詞はその名詞を使用する度に一々動的現実を想起することは限りなく少ない(尤もハンマーというと叩くものというような意味では観念連合はある。しかしそれらはあくまで名詞的な思念において、つまり道具の持つ歴史性や一般使用を巡っての有用的な理解である。一旦知ってしまった以上それらは概念的な道具としての有用性であり、存在を信じるというようなものとも異なるが、取り敢えず名詞的に思念される。尤もそれで人が殺されたというような場合には別であるが、通常は名詞的に思念されるだけだ。生物種の場合例えば猫は猫でありその存在を信じてもいるが、それらはあくまで日常的に我々がよく知る動物である。だから猫が絶滅して過去の郷愁として想起されることでもない限りそれらは「存在したことを信じた」のではなく、これからもそう容易にいなくなりはしないのだから概念的に理解される心的様相の方が強いのである。)のに比べこれらはそのプロセスが何段階にも渡って反芻されるような想起、つまりメカニズム、意義といった複雑な階層や秩序が含有された思念を喚起する。だからこれらは経験的な慣用性から来る「理解する」ことから齎される「信じる」ことではなく、寧ろ専門学習的な経験、つまり固有のものに対する理解(その意味では固有名詞的な意味合いも持つ)である。一般名詞においてもハンマーならハンマーで固有性はある。しかしそれらは日常的に特殊なものではない。(だからレコードがCDに取って代わられたような意味で日常使用から淘汰されればこれもまた特殊化し得る。)だから当然それらを特有なものとして心的に名指すことはない。それに対して事象や現象、法則、歴史的出来事などはそれを記憶に留めた日常的に自然に侵入してきた語彙ではない、特有の学習記憶文脈が過去にあり(私にとっての太平洋戦争は両親から聞かされた戦争体験からである。)それに沿った固有の個的意味が一般名詞よりも顕著である。一般名詞には個的な意味性よりも慣用的な日常性が勝っている。そこが大きな相違である。だから固有名詞は個的意味と共にその特定の人物に固有の風貌があり、それに対する存在是認という「信じる」ことが初期においては大半を占めており、心的には「理解する」ことがその後にやってくる。というのも固有の人物においては「理解する」こととはあくまで存在是認の後にその行動や行為、思想のコードに対してなされるのであってア・ポステリオリである。まずア・プリオリに特定の他者として認知されるところの存在是認がなされ然る後にその人物に纏わる事項が一つ一つ(その人の癖、表情の日常的な取り方、他者への接し方といった)理解されることとなるのである。だから一般名詞において日常的実用性への理解、Bのケースにおいては学習的な意味理解というプロセスが、そして固有名詞においては信じることがまずなされる。一般名詞が実用理解であるのに日常的自明性によって名詞的思念、Bのケースが学習的であるから動詞的思念、そして固有名詞は存在是認における名詞的思念であるが、それは人格認知であるから一般名詞的な名詞的思念とは全く性質の異なった、その存在を信じる名詞的思念である。一般名詞が理解する名詞的思念であることからすれば対極である。
一般名詞がこの世界に存在する何らかの事物、対象を名指したものであるということの了解はア・プリオリなものである。従ってそれを日常何の疑問もなく目にすることの出来るものに関してはその存在を「信じ」かつ「理解する」ことが出来る。その思念は具体的な理解を伴ってそれを把握した後は名詞的思念上で何の疑問も持たずに道具性として認識する。しかし一度も見たことのない生物(日本にいない生物もある。)に対してあるいは日本にいたとしても珍しい生物であるが為に一度も目にしたことがない(かく言う私もパンダの実物は見たことがない。)生物に関して我々はそれを生物であり、構造理解していてもあくまで知識レヴェルでのことである。だが一度でも写真や映像で見たならば、その生物はそれらを通して理解される。だが実際に目にするとBのケースのような意味で真に個的意味として理解されよう。だからある生物がその国にいない場合、それが他の国では当たり前のようにいるという現実が写真や映像などで紹介されている場合でもその名詞はその生物がいない国でも成立しているし、それなりのそれら写真や映像を通してなりのその生物の存在や性質に対する理解は生じよう。しかしそれらが実際にその生物がいないし、テレビのニュース等で紹介されていない国ではその段階ではまだ特殊事物の名詞であり、固有名詞に近い。だがやがてその国にその生物が運ばれて一般大衆の目に触れた段階において全体把握はなされ、形状記憶、性質理解はなされ一般名詞化される。仮にその生物が極一握りの専門家にしか名前さえ知られていなくても同様にその生物の名前が一般に公開され認知されると同時にその国の国民はその生物に対して名詞的思念で理解されたものとして概念的に使用し、名前を呼ぶ。その存在を「信じる」ことはその生物がその国で公開されるその時まで存在すら知られていない場合でさえその時には「信じられる」。それはそれまで存在だけはメディアやテクストで紹介されてきていた為に「信じられて」いたものの、それらは「理解されて」いたわけではない場合でも同様である。よって一般公開されたその時衆人の下にそれは初めて事実上同時に「理解され」、「信じられ」たわけである。
何かが起こり、例えば今の例のようにある生物が一般公開されることにより一般名詞化し、固有名詞的なミステリアスから解放された時我々はその生物に対して認知し、名詞的思念を恒常化させるが、それまでは理解されているということが知識レヴェルであり、確かに存在は信じられているものの、理解されることと信じられることが遊離している状況であったのだ。それが一致したことで固有名詞的なミステリアスさは消滅し、謎の部分の溜飲は下げられ、一般化されるわけである。そして我々はそういうこととなった事態があるからこそ、クリプキが言うような意味でそうではなかった可能性「その生物がわが国に紹介されなかったかも知れない」という可能性を初めて考えることが出来るのだ。それはそうなってしまった「既に紹介された」ことに関してある種の後悔とか狼狽を感じた場合にはよりそうなのである。クリプキの言うような意味での可能世界意味論とはある結果が出されたことに関して喜ばしいと思う反面残念であったり、ある可能性が実現されそうな時に躊躇したり、逡巡したりする人間心理が存在することを如実に語っている。その意味では様相論理学とは明らかに一回性であるある出来事の発生が持つ過去変更不可能性が持つ時間論的諦念が生じさせた学であるとも言えよう。
我々は一般名詞に関しそれをまず受け入れ然る後そのものと出会い(あるいは同時である場合もあるだろう。)、それが例えば猫であれば、猫と言う一般的な概念を自己において認識させる。それは猫を猫として規定している音韻的にnekoと発声する共同体秩序を不可避的に是認し、その成員としてその諸言語活動に加担することを無意識の内に選択しているのだ。そしてその受容した猫の概念との触れ合いが自己独自の個的意味を発生させるような猫を巡る経験を生じさせる。勿論その猫という語彙を覚えた最初の出会いもあった。しかしそれはまだそれが猫であると知る前に何か特定の名前を持ったペットとしてであっても、庭に歩いているどこかよその猫であってもそのこと自体は語彙習得自体には何の影響を与えはしない。猫という語彙はそれがどういうものであっても個的意味とは別個に習得されて、その概念<イデアと言ってもよい。>を通して個的意味を意志伝達し合うに過ぎない。だから一般名詞を使用する時我々はその語彙を概念として承認し、然る後個的な猫(昨日散歩をしていた時に見た猫であっても、かつて自分の家で飼っていた猫であっても)を語るのである。要するに概念のカテゴリーを通して個物を認識する、ということである。
それに対して固有名詞は個的意味を生じさせるような一般概念はそもそも存在しない。既にそれ自体で充分個的であるからである。そこで固有名詞は逆に匿名性(田中であっても鈴木であっても高橋であっても渡辺であってもそれは固有の例えば田中であるにもかかわらず、何処にでもいる個人、人格の一つでしかないのだから)を帯びる。
抽象名詞、歴史的事件や出来事の固有の呼び名(通称)、専門用語(概念規定語)、及び法則、事象、現象、法律を表わす名詞は個的である部分はあくまでその概念や理念の学習過程でしかなく、全ての成員にとっての同一のコードでなければならないと同時にそれらは理解する為に一定の過程(それは単純なものから複雑なものまで多種多様である。)を必要とする。「あれ何?」と聞く子供に「猫よ。」と答えて呼び名(名詞)を教えるように簡単にはゆかないのである。蒸発、離散、解散、消化、昇華、脱分極、光合成、慣性、ホメオスタシスといったものたちは、名詞でも油圧ポンプとかトランスミッションオイルとかと同じであり、その機能を一語では説明出来ない。一般名詞もまたこのBカテゴリーに含まれ得る可能性を持つもの、それがかなりの程度で一般化され今や誰しもが知り得るア・プリオリである場合など実はその段階性、レヴェルは多様である。そこで一般名詞と抽象名詞とか専門用語とかは歴史的事件(壇ノ浦の決戦とか大政奉還とかの)という固有性ともまた異なったある種のフレクシビリティーを含有している、と言える。
逆に太平洋戦争を研究する研究家にとってのあらゆる事件や事変、戦争の呼び名はだから当然のことながら一般名詞化されている。また自然科学者にとってあらゆる自然科学現象の用語は全て一般名詞化されている。芸術家にとって美術、音楽用語、経済界の人間にとって経済用語とかも同様である。
一般名詞において我々が留意すべき重要なこととは、我々が実際には今現前的には目にしていないものばかりか、日常でも目にしないものさえもそれを存在する極一般的なものとして認識するコードとして流用している、ということである。例えばコアラは日本に生息する動物ではないが、動物園に行けば見ることは出来るし、仮に普段そういう場所に行かない人間でもそれらの存在をテレビや写真、動物図鑑、新聞とかのメディアで知ることは容易であるし、またそれら日常において実物をそう容易に知覚出来ないものさえ思惟において動員される知識が例えば意志伝達における話題構成において必要事項として記憶事項、ワーキング・メモリー的な日常性のリストに入力されている。ファイル保存されている。我々が目にするものとは殆どが現代ではメディアを通してなされる。アメリカの大統領、スペースシャトル、空爆される世界各地の都市の様相(戦場)、それらは実際に目前で知覚されるような対象ではない。にもかかわらず我々はそれらを日常的に使用するトースターやテーブルや掃除機と同格の一般的な対象として認知している。人間は我々と同一種のホモ・サピエンスたちが「我々が行ったこともない地球の裏側」でも我々と恐らく同じように悩み、苦しみ、喜び、嬉しい表情をしているということを確信している。それは彼らの存在を「理解して」いるのと同時に「信じている」のだ。
このような不在のもの、我々が生涯一度も目にすることなく終わる大半のものをもそれが存在しているし、これからもそうである、という認識する能力こそ人間がある対象を、名詞を通して事物の概念として名指す、命名するということの本質ではなかろうか?
動物は自己個体と同一種の他個体が自己個体の周囲にいる者たちを除外しても自己の与り知らない場所において生活しているに違いないというような思念を抱くことが果たしてあるのだろうか?このことは動物における知識をも含めた認知がどの程度かという問題と同時に不可知領域や不可知という風に規定し得なくても自己の覚知可能性から漏れ出たあらゆる対象の必然的な存在可能性の確信とは一体我々の生にどのような意味を与えているのか、という重大な問題を我々に提出する。
哲学者の中島義道はカント研究を通した独自の論客として知られているが、表象という哲学用語をカントがどのように解釈していたのかということに関して次のように語っている。(「カントの自我論」表象としてのバラ、34~35ページより)
「表象」とは何か、あらためて考察してみよう。それは、カントの場合ラテン語の“reprasentatio”1英語の”idea”そしてドイツ語の“Vorstellunng”という三重の意味を担っている。三重の意味の差異をあえて省けば、「表象されたもの」とは現前に知覚されている対象自体ではなく、私の心的世界(Gemut)の「うち」に取り込まれた対象のあり方である。
日常言語においては表象としてのバラとは知覚されるバラではなく、むしろ想像されるバラ、心像としてのバラである。日常語では、知覚とは対象を直接正しくとらえることだと了解されており、そのかぎり知覚されたバラにほかならない。
ちなみに、ドイツ語の日常使用において、眼前の知覚風景を表象と呼ぶことはまずない。表象とはむしろ眼前にないものを思い描くときに使われる。例えば、“Stell dir mal vor!(ちょっと考えてごらん)”とか“Davon habe ich keine Vorstellung(それについては何も思い浮かばないよ)”というように。
だがカントにおける表象としてのバラは、こうした日常的素朴な意味で心像であるわけではない。概念としてのバラでもない。それは、私が<いま・ここ>で知覚しているバラであり、私が昨日見たバラであり、他人がいま世界のどこかで見ているバラであり、誰も見ていないが現に存在しているバラであり、誰も見ていなかったが現に存在していたバラである。つまり、それは心像や意味にすぎないのではなくて、時間・空間のある場所に実在するバラと同義である。
ここに重要なことは、これらの表象としてのバラのうち、私が現に<いま・ここ>に知覚しているバラはいかなる特権的な身分ももたないということである。<いま・ここ>には不在であるが、世界のどこかに現に存在しているバラやかつて世界のどこかに現に存在していたバラも、<いま・ここ>に現に不在のバラに共通なあり方、それが表象としてのバラのあり方なのだ。
こうしてみると、ほとんどの表象は<いま・ここ>に現に存在していないことがわかるであろう。さらに、私が一度も現に知覚したことがないソクラテスでも恐竜でも、同等に表象になりうる。とすると、むしろ私が<いま・ここ>で現に知覚している諸物こそ、表象としては例外的であることがわかってくる。
むしろ、私が<いま・ここ>に現に知覚していない諸物のあり方こそ、表象のあり方のモデルなのである。そして、膨大な私が<いま・ここ>に現に知覚していない諸物のあり方のうち、かつて私が現に知覚したことの想起こそ特権的地位を占める。表象の適切なモデルは、私が過去の体験を端的に想起することなのだ。
実に適切な表象の説明である。ここに我々が名詞において考えられる命名性の全てが説明され尽くしている。我々がある名詞、例えばハンマーを語彙選択する時我々の心的様相は、それをハンマーという表象を通して他者へ意志伝達する際には明らかに名詞的思念という道具理解(ハンマーがハンマーとして名指され世界中に存在する存在理由に対する日常的な理解。これがある為にハンマーという語は存在する。そしてそのこと自体を個人的レヴェルで理解するということ)に同意することを意識的、無意識的にかかわらず自覚している。そういう心的様相において我々は選択された語彙使用を通してその同意をも意志伝達内容と同時に表明しているのに他ならない。
名詞使用を通した名詞的思念とは明らかに道具理解という世界共通(国内共通とか地域共同体共通とかの色々のレヴェルがあるが)認識及びそのことに対する同意表明を結果論的にはなしているのだ、と見做してよい。
そのことを下図に示してみよう。
意志伝達における話題選択→文章構成と語彙選択→発話<名詞使用に関する語彙選択においては道具理解、一般慣用性への同意表明をなしている。>
勿論こういったプロセスは日常的には殆ど無意識に条件反射的に執り行われているのである。勿論意志伝達とは意思表明であると同時に自己の意思確認、他者との間で取り交わされる相互意思確認が綯い交ぜとなった状態で心的な発話行為発動性に関した意志決定プロセス全てを言うこととする。そのように思惟から発話へと至る全てのプロセスを一括して意志伝達と呼ぼうと思う。
名指し、あるいは名詞的思念を喚起する名詞使用、ある概念指示に関してクリプキが提示した理論は画期的であった。というのもそれが想起させる問題は概念が個的意味や個的理解、解釈を素通りしてそれが流用される共同体においてはその命名者がどのような意図やその概念に対する意味理解があろうともその流用のされ方は概念としてそれが名詞と言う体裁で表出された指示以上の何物も伝えはしないという冷酷かつ合理的な現実であった。ある物語を語る話者がそれをどのような自己の心的な様相において語ろうとも、彼の語りが指示すものは彼の心的な意図や願いとはある時は裏腹でさえあるような、つまり語る動機(フッサールが語った動機付けにも関係があるところの)とは無関係に「語り」という機能によって「語られた意味」(話者の内的動機とは無縁の意味作用的な)が、クリプキの謂いを借りれば循環する。
今現在でも世界中ではあり得ることであるが、ある宮中の、あるいは王室での陰謀や一般大衆には知らされていない極一部の関係者による取り計らいというものがあるとしよう。それを表立って公表するわけにはゆかないからその取り計らいを今仮にAと呼び、その関係者たちの間では明らかにその取り計らい自体を指示する場合Aを使用するとしよう。しかしそのAという語彙は日常的にはその取り計らい自体と無縁ではないにせよ、その取り計らいが持つ秘め事的なニュアンス自体を字義通りに解釈すれば指示しはしないものとしよう。Aは語彙から受け取るべき語感には決して隠語的ニュアンスはない。その一部の関係者間によってはその取り計らい自体を指示していたその語彙Aも、それが隠語的な役割を果たすのはその取り計らいの実態を知る一部の人間だけだから、それを後世に語り継いでゆこうという裏切り者(その取り計らいは秘め事なので実際はそういう風に語り継ぐべきものではないので)がいでもしない限り、その語彙はやがてその字義が示す通常の意味以上のニュアンス(関係者間の秘密)は剥がれ落ち、その字義通りのみが意味作用として流用されてゆくであろう。言葉の歴史を辿ると意外とそういうことが多い。それはそのAが宮中で使用されている局面においてさえ隠語として使用する人間は関係者である一部の人間だけだから、その周囲の人間はたとえ宮中に仕える者たちでさえ例外なく字義通りにしか受け取らない。やがてその語彙は宮中でも取り計らいに気付かぬ能天気な人間たちの隠語的意図のない部分だけが独立して一般大衆に広まってゆく。
上記のような現実をある意味ではクリプキの語彙慣用の実態を抉ったような言語論は語っている。クリプキが語る語彙使用における話者の「同意」という考え方は明らかに一般名詞が使用される時も、固有名詞が使用される時も、我々はそういった「語られる」言葉が「語ろうとする意志」とは一致する部分もあるが、必ず齟齬を持ちながら循環される、意味作用的な選択を持っているのだ、ということを如実に示しているのである。<このことに関してクリプキはナポレオンを例に出して述べている。ナポレオンを語る時、その話者が持つナポレオンの知識が「語られる」言葉自体には何の影響も与えはしない、つまり話者はそれを承知でその話者のナポレオンの知識(や認識の仕方)が並外れていてさえ、その見識は「語られた」言葉を通してはナポレオンが指示する性格には影響を及ぼさず、その限界(共同体の大多数の成員が平均して受け取るナポレオンという固有名詞が示す意味)を超えずに伝わることに同意して発言しているのである。>
人間は真に孤独では生きることは出来ない。孤島に暮らす人間でさえその人間の周囲には鳥や亀、兎といった生物たちが人間の他者の代用として存在しているのである。それは脳内の各瞬間に即応した状況判断とかだけではなく、心的持続的に、心理的にそのような周囲の生命に対する協調や同化、ある種の自然共同体という観念を生きてゆく上で獲得する。その生命環境体の一部として生を全うするという意識を覚醒するのだ。どういう状況であってもその状況に応じた目的性や意義を見出す。だからこそ言語が慣用される循環的な情況を受容し、どのような形でその真理を見出したか(クリプキが言った固定指示における名詞を齎した張本人の特定)には係わらず、その真理を生の現実に応用し得る能力を持っている。発話行為も記述行為も、だから行為の一環として位置づけられる。
我々は既に固有名詞が一般名詞化するような過程もあるし、また逆に一般名詞が固有名詞化し得るような特定の状況もあることを確認してきた。(レコード)それらが我々に教えてくれるのはあらゆる名詞が持つ性格とはその名詞が誕生した瞬間にある程度の限定的な役割は規定されるものの、決して固定的に一点に留まり続けるというものでもない、ということである。孤島に暮らす人間が誰一人として話相手がいないので孤独に打ちひしがれて必ず自殺するとも言い切れない。マッギンがあの「ウィトゲンシュタインの言語論」において示した後半のクライマックスで孤島において一人で生活する人間もまた規則遵守をし得る可能性には明らかにある秩序をどのような状況においても見出す能力の発現というものを想起せずにはおかない。そのようにある人間が切羽詰まった状況に目的と可能性を見出してゆくように語彙もまたそのように可変的な様相性に密着している。一般名詞であるようなある語彙がある地域集団間において、ある複数のサークル内において固有の意味を生じたり、あるいは専門用語であったものが広く一般化してその使用され方がある専門分野から大きく離脱して普遍的な真理の表現に流用されたり、といった現実は枚挙に暇がない。
そのような意味では語彙の歴史性、通辞、共辞にかかわらず、あるいはその循環の範囲の拡大、延長といった現実はそれだけで、語彙の運命を可変的なものにする。
かつてヴァイキングの一味であった民族のどの個人もそこで使用された語彙の幾つかが世界語になるとは思いも寄らなかったであろう。かつて一部の部族によってのみ行われた幾多の競技が今や世界的なスポーツになるなどと誰がその発祥の時代に予感し得ただろう?名詞の変動性や名詞の質的な広大さはそれだけで人類の移動や物の見方の変化を物語っている。今後もまた名詞は幾らでも変化し続け、更に数を増してゆくであろう。またそれが動詞をどう変化させてゆくかも重要なキーである。動詞もまた変化し、名詞を刺激、変化させ続ける。次章ではその動詞がどのように名詞に絡んでくるか、どのように名詞から絡まれるか、という面から考察してみようと思う。
Subscribe to:
Posts (Atom)