Tuesday, September 7, 2010

B名詞と動詞 10<誘引作用としての動詞>

 クリプキは「名指しと必然性」において補遺(e)(194ページより)においてエバンスが指摘した「マルコ・ポーロ」の勘違いによる「マダガスカル」の誤用(本来アフリカ大陸の一部の地名として土着民が使用していたのに、それを島の名と思い込んだ。)について触れているが、誤用されるということの最も考えられる可能性とは誤用される語彙の音韻論的な響き、その語感が示すニュアンスが富に特徴的であるという事実、印象的で覚えやすかったという事実が挙げられると思う。本当の呼び名が異なっていても、そちらの方が印象的でなかったなら、寧ろその地名ではない別の地名の表記が頭に残る、ということは充分あり得る。名詞が記憶に残りやすいこととはそれ自体では語調、語感、覚えやすいような意味で特徴がある、ということが第一に考えられる。しかしその次に記憶に残りやすいものとして考えられることとは連想(観念連合)である。ある名詞が指示するニュアンス(事物の変化や動性)が当の語彙を一挙に記憶収納事項に格上げさせる誘引作用で、動的現実、性質、事実が連想される。そこに動詞(的な思念)の名詞に付け入る隙がある。
 動詞は人類言語学的に言えば恐らく名詞の叙述において発達したのであろう。動詞の持つ現前化作用や叙述事項(動詞の前後の文脈によって)から再現前化する際に連想を誘引する作用は個的な関連記憶を喚起し、印象に残る対象、事象、現象(随伴する名詞が指示させる)の様相を一挙に変化させ、脳裏に今までにないものを想起させる。
 勿論我々は色々な事物の名称をその名称が指示する現実と共に知っている。だからこそ我々は車や自転車、船、飛行機といった乗り物がどのような様相をして走行するかを予め知っていて、その記憶と知識を通した動的な想起をその名称が登場すると瞬時に関連記憶(エピソード記憶)と共に喚起する。想像する。その時動詞がその関連記憶や想像を誘引させる。「車が激しく行き交っていた。」とか「飛行機が離陸した。」と言うと、その情景を我々は一瞬で理解する。
 もう一つ顕著な特質は動詞が主語を必要とすることだ。命令形はそうじゃないとお考えかも知れないが、そうではない。命令形は「やめろ!」と言う場合、意味的には「私はあなたに止めることを命じる。」ということであるから、止めるという行為の主語は明らかに「あなた」であるのである。つまり動詞とはいついかなる時にも主語を要求するのだ。形容詞が必ず名詞(形容対象としての)を必要とするようにである。
 次のような(潜在的)思念的プロセスが一瞬にて執り行われると考えられる。

私はあなたに止めることを命じる。(意志表明、行為遂行的発言<オースティン的概念>意図)<願望思念>
           ↓
あなたは私の命令によって止めるようにしろ。(命令発令)<文章構成>
           ↓
止めろ。(命令施行)<実行>

 このようなある種の意志的な思念とその実行化(あるいは実効化)が為される心的、行動学的な過程には心的な意志的顕現という布石行為が我々の日常の生にはつき物であるという観点を喚起する。意志的心的メカニズムが行動を誘引させ、それを命令調の語で威嚇し、禁止、制止することで他者の願望を封じ込め、阻止することは自我的な意味での防衛本能と独我論的な裁量行為を常に我々がその本性上携えていることを物語っている。
 名詞が過去化の作用を最も体現した品詞であることは明白である。全ての対象は実はその出会いが最初である。昨日電車で見た人たちと今日見る人たちは全く異なった組み合わせであろう。その中で例え同一の人物を確認出来たとしても、それはその日におけるその人は一回性のものでしかない。明日のその人物もその人が認める自分の姿もその時の一回性によって独自的である筈だ。にもかかわらず我々は常にAをAとして、BをBとしてしか同定しない。そこにある種の誤謬があり、背進がある。欺瞞がある。しかし一々全ての邂逅を唯一無二のものとして裁定していたら身が持たない。そこでAもBも「他人」という一般的な「人物」としてカテゴライズし、範疇化された集合の要素として認識する。そこに名詞化された概念依拠的世界認識がある。名詞は創造的な死を意味するのだ。だからその名詞に生命を吹き込むのが動詞である。名詞を動的に叙述するのである。
 カントが背進と呼んだものとは実は我々が想起を通して過去化された既成事実の集計化された過去記憶像と生まれてから現在に至るまで過去を一括して人生と捉える綜合化の視点が創造する(捏造すると言っても過言ではない。)生の軌跡の意義化(偶然の必然化、歴史認識の誕生)による現在認識にしか過ぎない。だからこそカントは仮想的対象という概念を通してそれを訴えたのだ。現在は過去を記憶(人格を形成する起点)を糧に未来へと向けて志向する人間の総合的視点を獲得する為の方便である。だからその過去化された生、フッサール的謂いを借りればスペチエス的な生の集合体の軌跡が歴史である。ある個人の歴史、ある集団(国家、共同体<あらゆる種類の>、民族)の歴史というように。
 カントが仮想的対象と言いながら、同時に条件付きのとか条件者とか、経験的、感覚的世界と呼んだものとはヒューム的な意味での経験世界の表象性、現象性を前提した認識である。無条件者というものがそこから考え出されるのは、無条件者とはあるものとして考えられるというよりはクリプキも主張したような意味でのア・ポステリオリに見出されるア・プリオリである。「カントの自我論」で中島義道が実在性3と呼んだものもこれに他ならない。そしてそこで我々はあらゆる哲学や宗教をさえ産出してきた感覚界を離れたそれを俯瞰し、それを根源的に原因付けるものとしての根拠として、例えば神を措定して生に臨んできた我々人類の歴史が再び考える対象として浮上する。我々が現在とかある持続する時間にどこかで区切りをつけて過去化し得る時、我々が実は全ての偶然的な集積でしかない過去を集計化して必然へと結び付ける(必然化)のである、と認識することにおいてこそ生を区切る(幼年期、若年期、青年期、中年期、壮年期という風に)こと、ある行為に結果を見出すこと(三月期決算報告とかによって)など全てが実は偶然の必然化によって齎されていると了解出来るのだ。名詞はだからあくまでそういった生を区切るプロセスの合理性の下に見出された方策である。命名することで同一性を保障しようとする人間の仮の全体性認識(背進、欺瞞であるところの)の表象化された形態である。人間の細胞は8年で全て入れ替わるし、あるゆる原子的レヴェルでは全ての原子は三ヶ月で三分の一が入れ替わり、一年で全ての原子はほぼ入れ替わる。今日の私は昨日の私とは違うし、明日の私もまた今日の私とは違う。にもかかわらず一分、一秒も同一ではない自己を自己として特定の他者を常に同一の他者として認識するのが人間の社会的な現実である。法的にも殺人を犯したのは昨日の私で今日の私であると言う主張は通らない。
 無条件者を神と呼ぼうが、自然の摂理と呼ぼうが、真理と呼ぼうが、道徳的法則と呼ぼうが、皆それらはこの過去の偶然的事実の集積から過去化された事実の連鎖を必然化する人間の不可避的な思念的な本性、傾向性こそが生み出した産物であり、命名(名詞によって名指すこと)も過去事実のデータ整理上の都合からなされた合理的認識で、記憶システムが過去を現在へと直結するものとして認識させつつ現在意識を持たせるのである。
 動詞が過去化(現在を過去とし過去事実を集積する思念)によって創造された名詞に必要とされるということとはこの名詞の惰性的な性向を阻止するカント的に言えば仮想的想念、あるいはフッサール、ウィトゲンシュタイン流に言えば、そうではなかったかも知れない、そうではなくてもよかった今この世界という考え方の推進の下で意味を帯びてくる。つまり動詞が名詞の惰性的、欺瞞的な仮の全体決定性を阻止し、叙述事実の唯一性、偶然性を醸成し、定着させるのだ。しかし動詞によって叙述された出来事は叙述された瞬間に再び名詞化されて「一つの叙述真理」となり、過去の出来事という不変(現在からはもうどうしようもない)性の名の下に名詞化されるのだ。だから動詞は実は名詞の惰性的側面を打破しながら同時に新たな名詞的思念を形成させ、名詞化された過去の諸出来事(必然化された偶然の連鎖)を思念する際に側頭葉に格納されたものが想起され、その他の大脳各部署も関連記憶、連想想起を促進する役割を果たしている。動詞は名詞として名指された「昨日の飲み会での奴との会話」とか「先月のプレゼンでの彼の言動」といった記憶検索事項を一旦名詞的位置づけ作用の下に検索してしまえば今度はそこに再生的にその連鎖を反芻するような想起的想像力を喚起する。そしてそれを再び別の行為によって記憶事項として検索を閉じることを我々は自然とするのだから、その時過去が再生させる原動力である動詞の思念的使用が海馬を通して今度は別の記憶を収納させる、そしてその際に名詞的思念において「昨日の対話」とか「先月の彼」というような検索しやすいように命名する。名詞的命名、意味づけ作用とは過去化=必然化の為の誘引作用と考えられる。