Tuesday, May 10, 2011

C自信論<自殺しようかと考えているあなたへ> 2、表情は言葉を規定する

 中島義道氏は「私は言語を習得してしまったがゆえに、言語によっては表すことのできない、その意味で言語以前の固有の体験に気づいてしまった」と述べている。(「「死」を哲学する」より、岩波書店刊)氏のライトモティーフの一つであるコミュニケーションにおける強者たれというかつて勤務しておられた電機通信大ゼミ生への訓示などに見られる言葉自体を信用しない日本人マジョリティに対する批判は、言葉を正確に伝え、自らの意志を飲み込まないことを行動的に正論としている。(「人生に生きる価値はない」より、新潮社刊)しかし氏の考えておられる言葉を最大の武器であるとしたその考え自体は正しいとしても、私たちは言語習得以前に持っていた習性全体を言語習得以後に全て失うということにはらないし、そのことに対する言及は今のところ中島氏からは齎されていない。
 勿論言語習得以後私たちは言語習得以前には直観的に持っていた多くのことを失うかも知れないが、やはり基本的に言語外的直観も常時携えていると捉えることが自然だ。
 それこそ私は表情であると考えるのだ。つまりもし私たち人類、あるいは哲学的私と言ってもいいが、それらは言葉があってこそ生存してこられたのだ、と一方では言える。しかし他方私たちに言葉によって意志を伝えることを促しているものを情動とか心による動因であると考えると、その心を最も顕著に示すものとしての表情を、仮に一切顔を他者に晒さないままでいたとしても尚例えばある文章から読み取れる表情がやはりあるのではないか?
 それは端的にニュアンスとかクオリアという言葉でも十分に伝わらない気が私はするのだ。
 クオリアとは端的に他者の心は自分には決して読めない、そしてその心が基本的に自分と同じであるかどうか決して確かめることが出来ない、それは私が見ている赤い色とあなたが見ている赤い色が同じように見えているかどうかさえ終ぞ確認出来ないという、要するにゾンビとか意識の問題を誘発する命題である。ニュアンスはある一定の波長として何らかのメッセージが伝わる効果の問題で、それは語彙の持つ意味が発話においてどういう効果を齎すかということだから、表情と関係が深いが、やはりそれは一面的である。
 従って表情とは私たちが好むと好まざるとに関わらず、例えば楽しい時には楽しい、悲しい時には悲しい表情をする、という意味で生理学的な法則である。それは意図してそういう表情をすることも不可能ではないが、やはり本当は悲しいのに楽しい振りをしていた場合すぐに見破られる、そういうタイプのものである。
 だからそれはクオリアが内的価値の命題であるのに対して、外的価値の秩序でありニュアンスをも含むと言える。と言うことは前節の謂いからすれば、「一致」の世界の考え方が適用されるだろう。
 そういう意味では中島氏が言葉の持つ意思疎通において最大の対他者的意図を表示するという意識的なことを根底から支えるような基本である。しかし氏はこの表情に対して殆ど言及しているようには思えない。「人生、しょせん気晴らし」において 単独者協会 というタイトルの章において僅か触れているだけである。
 宗教はしかしこの表情において個々の内的世界に通じる心の在り方を指示しはするが、その内的世界から見た思惑自体はあまり大きく取り扱わない。その点が哲学との最大の相違である。つまり最初から哲学は独我論を発生させることをも吝かではないタイプの内的世界からの視座自体を学全体の前提としていて、それ以上内的世界を離れたことは、宗教か科学にお任せするというスタンスを取っている。しかし宗教は最初からこの哲学では懐疑的対象であるところの「一致」が話し全体の前提となっている。つまりその「一致」こそ神の視点なのである。
 例えばニクラウス・クザーヌスの「神を観ることについて」の冒頭での謂いを見てみよう。

(前略)つまり、われわれのなかで一つの眼差しが他の眼差しよりも鋭くて、また、或る眼差しは近いものをかろうじて識別するが、他の眼差しは遠く離れたものも識別し、また、或る眼差しはそれの対象にゆっくりと到達し、他の眼差しはそれの対象により敏捷に到達するということがあるとすれば、視力のある者たちの全ての眼差しとしての絶対的眼差しは、全ての現に視力のある者および視力のある者になりうる者のもつ〔視力にかかわる〕あらゆる鋭さと敏捷さをあらゆる力を凌駕するものであることは、疑いのないことである。(19~20ページより、「神を観ることについて 他二篇」八巻和彦訳、岩波文庫)

 つまりここで言われていることとは、端的に神の視点があるということ、そしてそれを信じるというところから全ての教説が成立している、ということなのだ。だから逆にその前提さえ不問に伏せば哲学との思想的意味内容的な共通性は宗教には大いにある、とも言える。ただ哲学ではその前提にもいささか拘るという傾向があるだけである。
 しかし哲学者と言えど、私たちが意思疎通する時必ず表情を伴うという現実は否定しないだろう。つまりそれは一致しないかも知れないが、一致を目指すという言語行為の本質の根幹を支える生理的な法規なのである。あるいはクザーヌスはそのことを絶対的眼差し、つまり私たちが一切の法規を無視することが出来ないという運命として記述したのかも知れない。

 脳科学では笑う時の口元とか頬の形を意図的に作ると、本当に嬉しい気持ちになるということが分かっている。つまり形から入ることそのものが、本当にその時その表情を作った人の感情になるということから考えれば、意図的、外的価値としての表情をもやはり哲学上でも問題化していく必要があるように私には思われるのだ。

Wednesday, April 27, 2011

B名詞と動詞 11、実存と言語 <サルトル、レヴィナスの系譜から発展させて>

 名詞は概念的定義づけである。命名は具体的実存の一律的認識強制に他ならない。それは自然の多様性、不可知的特質に目を瞑り、人間の捏造した制度の網の目によって、それらを一語で言い表す暴挙である。(<あの>「美しい」と、<この>「美しい」と、<その>「美しい」は、同じ「美しい」と規定される形容的概念であっても実はそれぞれ全く質的にも、主体からの受け取られ方に関しても異なったものたちである。)
 つまりここで言語が命名された(動的現実、動的自然現象の叙述の動詞においてさえ、一律的に一般的な動的メカニズムとして概念規定された)もののみで、全てに背進する一つの独断であり、実存を必ず裏切る、ということを表わしている。にもかかわらずカントは理想を具現することの空しさを主張する。(岩波文庫版「純粋理性批判」中、239ページより)カントにとって理想とはある意味で彼の語る道徳的法則、あるいは自由、霊魂の不死、神といった三位一体にも比すべき最高規範の一つの雛形であることが伺える。そして我々は実は自然や現実に取り巻かれた実存の観察、目撃、傍観、立会い、参画、投企といったことによって言語(自然、現実の一つ一つに対応する対象、事象、現象を認識論的に名指す)を生み出し、言語から理想を生み出してきているのである。
 取り敢えず実存とは我々が自然や現実から表象することとそこから離脱してゆくものをも含めた総体だと捉えてみよう。
 実存が不可知であることは一応の前提にしておこう。実存とはある意味では自己を取り巻く環境とか社会とか今現時点での時間の只中であることの全てであろう。しかし我々は恐らく動物と最も異なる一面として我々以外の多くの同一種たちが地球の裏側にも生活しているということ、我々以前の祖先が我々と同様に生活していたということ、我々の死後もまた我々同様の我々の子孫たちが我々同様に生活してゆくだろうということ(尤も、地球が今のような状態で存続しての話であるが。そういう意味では地球が思いの他早く滅亡するような可能世界もまた考慮に入れて考えることが我々には出来るのである。)を知る、あるいはそうであろうと推測することが出来る。
 本章の下書き段階ではまだコリン・マッギンの「意識の<神秘>は解明できるか」を読んでいなかったために私は彼と同様の考えを書いていた。それは空間自体が我々の与り知らぬある種の特質があるのではないか、というものであった。恐らく我々が個々に今こうしている、存在することを何の不可思議もなく顕現させる空間自体のある種の度量の大きさとフレクシビリティーがあるということは恐らく誰にでも実感出来よう。空間自体の知られざる特質によって時空間にさえある種の歪があるということはアインシュタインの時代から立証されてきている。すると空間が時間を支配しているのか、それとも時間が空間を支配しているのか、あるいはそのいずれもないのかという疑問も出される可能性がある。しかしまだそのことには触れずにゆこう。

 言語は実存を裏切る。しかし言語は実存の前で自らの無力さを悟りながら、語ることを止めようとしない。それ以外の実存に拮抗する手段を見出せないからでもあるのだが、言語は実存を通して、その実存の姿を反省することによって生み出される。だから言語は実存の過去像をモデルとしたものである。今後もまた新たなる語彙や新たなる文法が生み出されてゆくであろう。しかしそれらは未来を予知して作られるものでさえ、現実的にはその語彙産出契機となるものは過去のデータであり、過去の記憶を下とした想起作用による産物である。だからこそ言語は過去のデータを下として編纂された一つの体系であって、その体系自体は実存を覆い尽くそうとするが、そのあまりの強度故に実存の生々しさは終ぞ表現し切れないその無力、歯がゆさが却って言語を体系的に進化させようと我々に強いる。仮の全体決定性であることを体系自体の存在矛盾から知り、それを訂正しながら全体を編纂し直すことが我々にとっての言語への取り組み方に他ならない。だから永遠に我々は神の如く誤謬の入り込む隙のない完全無欠の言語体系など編纂しようもないのである。そこで我々は益々言語と実存の溝を心的にも認知し、拭い難い真理と化してゆくのである。
 実存を糧に言語を作り変えてゆかねばならない、と常に我々はそう思うのだ。本来実存とは意味ではない。しかし人間は一般に実存を意味の呪縛から解き放ち見ることは最早出来ない。(本当にそうだろうか?)意味がなければ言語は名指すことが出来ない。(本当にそうだろうか?)実存の言語化は意味化への契機ともなり、実存そのものの在り様への表現の不可能性の宣言であり、実存の強度は、言語と意味の死を宣言せずには置かない。
 ここではっきりさせておこう。言語が意味を発生させるのか?それとも意味が言語を発生させるのか?
 複合動詞というものがある。複合動詞は(あるいは複合形容詞、例えば「甘辛い」というような)基本的動詞の組み合わせによって成立した(つまり言語発生以後に)言語的思念の進化によって成立したのか、あるいはそのような動詞(形容詞も)の表現するところに対応するような感情が先にあって、しかしそれを他者と意志伝達するような手段としての語彙が見出されておらず言語がただ感情的内面(心的様相)に追いついていけなかっただけなのか?
 答えはこうであろう。そういう感情は語彙発生以前にも確かにあった。しかしまず基本的にとりわけ顕著な性格のものから語彙化されていった。「聞く」と「入る」とか「甘い」と「辛い」のように。しかしじきに「聞き入る」とか」「甘辛い」とか言うようになる。そういう味覚感情があるからだ。ただ対応させるべき丁度ぴったりのものがない場合(中間的な感情に多い。)顕著な特質を表わす語彙を複合して間に合わせたのであろう。しかし我々は豊富な数の語彙を言語的に語彙を通して表現出来るようになってから、それをある特定の表情に載せて意志伝達出来るようになったのであろう。(他者との感情共有の確認と対話自体の独立した意義の発生)そしてこれは言えるであろう。このように語彙によって感情を表現出来るようになってから初めて我々は自己の感情を確たる心的様相とし、つまり心の存在を明示性として自覚し得るようになった。つまり我々は言語の、個々の語彙によって始めて自己の心像を確固とした存在として知るようになったのであろう。
 先の答え(意味と言語の前後関係)を述べよう。つまり意味の原型となる感情はあった。そもそも意味とは対象に対する感情であるのだから。しかしそれはその感情を語彙発話して他者に意志伝達し得ない限りただのカオスである。心の中のモヤモヤでしかない。言語獲得以前の人間は寡黙であったことであろう。(当然である。)それは自己の心的感情の自己内における完璧な占有によって全てが自己裁量によってなされるのであるから、感情に意味はなかったであろう。感情は言語以前にもあった。しかし言語が誕生してから、初めて我々は感情に意味を付与し得たのである。意味の獲得には段階があるのである。つまり下図のようになる。

内的感情をただ自己内に占有する。
       ↓

内的感情と語彙の対応を発見する。
       ↓

語彙使用を通して感情に意味を付与する。


 実存と言語の溝は常に言語の側から意識されているにもかかわらず、言語は実存から一方的に無力さを告げられ続ける。にもかかわらず言語は語ることを止められないので、人は実存から何らかの形を見出し、それを語彙に置き換えたり(発語、書記)、物そのものに置き換えたりする。(芸術)そうすることで対象に対する感情(何かを名指すこととは即ちその対象への愛着であったり、憎しみであったり、つまりは対象への感情の表出である。)を意味的に確認するのである。感情の在り方を確認することとは即ち感情の意味を確認することなのだ。だからもし我々に言語が獲得されなかったならば、我々は決して感情に意味を付与し得なかったであろうし、当然のことながら意味というものは無意味であったことであろう。
 物は実存の姿を決定する。物と空間、あるいはそこに伴う時間的変化が一体化し常に私たちが自らの身体を差し出し一体化を触知しているところの投企の場として、物は現象を空間に委ね空間から委ねられつつ私たちを自己として捉える機会を与える。物があるから私たちは自己を生命的存在と捉えられるのだ。サルトルは他者を人間とも捉えるし、物とも捉える。この質的転換がサルトルにとって重要なテーマだったのかも知れない。コリン・マッギンもまた物と生命との差異について触れている。彼はそれに人間の作った物をも加えて対置している。(「意識の<神秘>は解明できるか」より)
 実存はしかし物と空間、そして全ての変化を私たちに言語を通してしか捉えられないように現象として我々の前に差し出すが、ある意味ではそれを我々は言語以外のことでは捉えられないのだから、言語で表現されることを黙して待ってもいるのである。実存が待っていると捉えれば物と空間、そして全ての変化が言語によって表現されることで理解出来るようなものとして立ち現れるということが了解されるのである。実存を待たすのは我々自身なのである。
 しかし私たちは実存を蔑ろにしない限り言語によっては実存は語り尽くせないという言語の無力を感じざるを得ない。実存へのより深い理解とは、ある意味では語ることを止めること、ただじっと実存のあらゆる現象、あらゆる徴候を見守り、変化の中に身を置き、佇んでいることなのかも知れない。しかし私たちはただ理解することだけで実存の只中にいながら生を生きることは出来ない。理解されたことを私たちが他者に対して、実存自体に対して示すことで実存へ、私たちの対話において自己を明確化し得るのであり、実存は言語との溝をまざまざと見せつけながら尚も私たちが語りかけてくるのを待つことを止めはしない。それはある意味では我々自身が実存の一部であるのだし、また実存そのものも我々の一部であるからである。実存が言語を私たちとの関係において唯一の架け橋としているというその事実をもってもそのことは明らかである。自然が我々自身をも含み我々自身に自然が含まれるように、また社会が我々自身を含み我々自身に社会が含まれるように。
 言語を携え実存の只中で生を全うすることも即ち実存の一部なのであり、言語は実存との溝を自覚しつつ私たち自身を伴った実存の場面でもあるわけである。言語的思惟、言語的思念、言語的交流の全ては実存の一局面である。最早、意識もまた言語的局面たらざるを得ないのだから実存の一局面でもあるのである。
 あらゆる語られる言語の内に宿る溝に対するディレンマが共鳴し合った時、言語は実存と拮抗しつつ、待っている実存からの返答を聞くことが、あるいは一時なりとも出来るかも知れない。その実存からの返答の声は言語を勇気付けるであろう。勇気付けられれば言語は無力を悟りながらも徐々にその限りない可能性をも開示してゆくことであろう。それは言語が像としての役割を実存の場面で持っている、ということである。しかし、それは実存そのものではなく、私たちと実存とのかかわり合いの像である。私たちそのものをも成り立たせてくれるところの実存への感謝の印である。
 実存には表情が刻々と刻まれ、それは言語の可能性の領域をその都度開くが、同時に語らしめることを不毛と化す力で私たちに迫る。それでも尚語ることを止めない私たちはそういった反復の中でシーシュポスの石運びをしつつ、そのことで実存の表情を私たち自身に悟らせる。
 実存は無に隣接している。あらゆる事物の諸相にくまなく入り込む変化は実存を一時も同じ姿で私たちに知覚させはしない。そういった無常への認識は現象として私たちに実存様相を知らしめるあるエネルギーの強度が、そのエネルギーの無力をも同時に覚知させ、私たち自身の身体生理学的変化の只中に置くことを許す。非在、空無として実存を見守っていることを知る。全ての変化の一回性、唯一性は空無に見守られている。私たちが語る言葉の一回一回はそれぞれ異なった一回性、唯一性の致し方のない概念的記述であり、語ることが語り尽くせないというディレンマの中をのた打ち回り、それでも一回性、唯一性を語り留めておきたいという生の対話が実存の在り様を私たちに語らしめ、空無への実存の癒着を招聘する。
 空無としての非在はしかし実存の只中にそこそこあるように見えるが、非在の下に、非在の中に実存があるのでもない。
 空無としての非在は実存と共にある、というよりは互いに一切干渉し合わず対抗しているのでもなく、一切無関係であるにもかかわらず係わらずにはいられないように見える。それは非関係の積極的充実とでも呼べるような無関係である。無関係的同居である。
 非人間的と言うのに、どうして無人間的と言わないのか?
 それは人間が実存するからであろう。すると非在と実存は物と無関係というより非関係である。(コリン・マッギンはここで言う非在を我々にとっての心とか意識、空間自体の知られざる性質として捉えている。)実存にある空間は物と変化を伴っているのだし、物も変化も一切ない空間を知らない以上私たちはそれを非在と呼ぶ。物の一切ない空間とは成立し得るのであろうか?それは科学実験による作られた真空のようなものでは勿論ないのだ。それは観念上でしか成立し得ないのかも知れないが、あるのかも知れない。(こういう場合「ある」という形容的動詞叙述が適合するかどうかも解からない。)それは全存在を吸収するようなもう一つのイデアかも知れない。言語は音声や意味、統語構造、共同体的機能を持ち、かつ言語と実存の関係こそ非在という名のイデア、一切の共鳴を拒否しながら、実存の一部(場面)に言語を常に取り込んでゆくようなアンヴィヴァレンツな非関係のエネルギーである。それは国境を接していない国同士でもない。もともと事物はそれ自体で変化そのものだが、されら一切が空間の下で展開するそのこと自体は実存に対する認識によって知らされ、その承知それ自体は「我々の実存」の一部であるが、実存と認識には非関係のエネルギーが支配している。人が自分自身で関係付けているだけだからだ。
 認識とは全体への目配せ、それも暗黙のそれであり(自己に対しても他者に対しても)このア・プリオリは言語と共に発生したものなのだ。というより言語と付帯して発生したと言うべきであろうか?認識自体は前言語状態としてあり得るが、だがこの前言語状態はある意味では必然的に言語的思惟へと移行するではないか!このア・プリオリで私たちは実存の表情を読み取り、実存への何らかの返答をしなければならない。それは非在のイデアを実存から読み取るという実存の場面の構成である。我々は実存に対してと同時に自己の内的な意識的覚醒あるいは夢を見たりするような半意識的覚醒において好むと好まざるとにかかわらず非在にもまた自ら参加しているのだ。

 夢はトポロジー的に象徴的である。トポロジーは夢に展開する無意識が象徴する世界を対象化したもののようにさえ思われる。それは無意識の中に潜在するように見える非在のイデアの記号化であり、像である。それは明確な形を持った無意識の像である。それをたまたまトポロジストたちが引き出してくれたのだ。
 人間の遺伝子の中でその記号を担っているエクソンは遺伝子の全長僅か4パーセントしか過ぎず、残りの96パーセントのイントロンは人間の生における全行動中の意志の不確定さ、予想つかなさを担うかの如く存在し続け、それはある意味では人間の中にある原始生命の名残でもあり野生の声でもあり、人間が人間であることは人間が生物、動物であることに取り囲まれており、無意識の全体はファジーな一塊のもう一つの実在であり、象徴的トポロジーは非在のイデアであり、言語の実在に対して持つ非在のイデアは無意識でもあらゆる能力を発揮する。論理も倫理も構造も価値も当の対象に対して非在のイデアにおいて存する。
 存在すること、人間が人間として、生物として、動物として実存することそのものは論理の死であり、倫理は言語の産物であり、論理は実存することそのものへと向けられる非在のイデアである。だが論理が実存の何らかの変化を齎すことはないであろう。論理はただ実存から論理を引き出すのみであり、実存そのものを論理が変えることは恐らく出来まい。真理は論理の構成その中にあり、真理はア・ポステリオリに発見されるものも含めてア・プリオリであり、自然にも宇宙にも存する。だがその存すること自体はあくまで存在であり、実存である。それと拮抗する形で非在のイデアがあり得るのであり、論理とはその非在のイデアのほんの一部である。つまり真理や非在のイデアを顕現していても、その真理や非在のイデア自体は我々が実存の変化から意識的にそれを読み取らない限り顕現されているわけではないのである。
 非在のイデアはイルカの超音波的信号による言語に、ミツバチのダンスにも、ハキリアリやシロアリの分業と反復のシステムにも自然という対象に対して採られるスタンスに内在している。あらゆる関係とは実存に対する認識でしかないし、また認識によって読み取られることが可能な非在のイデアでしかない。
 実存という極めて巨大なファジーな無限性への予感の中に本来的に関係というものがア・プリオリにあるのではない。関係という綾、網の目で全ての実存を覆い尽くそうとするフロイト的に言えば原幻想的に、カントやフッサール的に言えば超越論的に、ベルグソン的に言えば時間の諸継続を分割して把握するようなア・プリオリ(実はカントが空間においては既に言っているのだが)は実存の側にでなく言語の中にある。あるいはもっと言えば脳の中にあるのだ。言語の分節化作用的統語性、空間把握、時間概念の合理的理解も全て、言語の実存へ向けての像形成的志向性に存する非在イデアとして実存への不可避的寄生特性を物語っている。
 木々の揺らぎは空間と事物の相互侵食的動的変化様相における木という生物そのものの恒常性と毛細管現象エネルギーと素粒子的動的変化が非在との非関係的並存の実存における現象性において、私たちの知覚と揺らぎとしての非在イデア的認識能力として成立しているに他ならず、空間と事物と変化のなす実存は非在へ感謝の言葉一つ掛けることなく、しらばっくれ私たちがそれを木々の揺らぎと認めるや否やあらゆる生物、植物に対するア・プリオリな概念像と生物学的法則性とにおいて、見えるもの(現象)を通して見えないもの(非在イデア)の非関係的並存を私たちの想起能力に対して徴候させるのである。
 その実存の驚異的顕現の前であらゆる言語は不毛な非在イデア的戯れに終始し、私たちが作る木々の揺らぎに私たち自身が圧倒され、大脳前頭葉が海馬へと送り、再び全感官へと戻ってくるニューロンの強度を形成する。
 実存はそれ自身ア・プリオリに私たちに全てを晒すかの如き様相的迫力で私たち自身が非在との非関係的並存によって認識することで作られるのものである。地球の大気中に存在する酸素、窒素、二酸化炭素といったものは全て実在であり、非在とは無縁に同居している。非関係的に同居している。非在が酸素自体に影響を及ぼすことはない。
 犬や猫にとって事物と空間は認知されるであろうが、実存的認識はないであろう。人間にしか実存はないとも言い切れないがその認識となると人間以外に考えられるとしたらイルカとか極めて少ない生物種しか思い浮かばない。サルに実存認識があるであろうか?
 
 私たちは何の気なしに時間というものがあるものとして捉え、動的質的変化の全諸相をその時間という網の目に支配されていると捉えるが、動的質的変化とそのスピードがあり、強度があり、事物性として空間と私たちが呼ぶ全ての事象の場において、それが展開するそのことを実存と呼ぶなら時間とはア・ポステリオリに木々の揺らぎに速度を測定し得るような秩序の下に認識する為の方便にしか過ぎまい。実存と時間は非関係である。時間によって物事全てが変化するのではなく、たまたま時間の推移と共にそれらが変化してゆくように思われるだけであり、時間自体は推移を見守るだけである。仮に時間がなくても変化というものは起こり得るのであろうか?そのことは難しくて私には解からない。
 何かが変化し、推移すること自体が時間であるなら殆ど変化しないものにおいても同様に時間が過ぎてゆくことがあることの証明にはならない。事実地球上には多くの長い時間において微小の変化をしか経験せずに済んで原型を留めているものも多い。時間を只一つのものと捉えることに無理があるのだろう。だからカントの客観的時間とは、私たちの認識を支える自己同一性、自我の産物ということにもなり得るのだ。カントのカテゴリーは自我を無意識的トポロジーで認識するプロセスということになる。
 なぜ空間と時間とを対概念の如く取り扱わねばならないのか?空間と時間は明に対する暗とも有に対する無とも本質的に異なった関係である。それは非関係である。たまたま我々自身が空間も時間も知るようにその二つを同時に体験しているからそこに我々自身(我々の周囲の自然も含めて)を機軸に空間と時間を並存している関係あるものとして認識しているだけであり、全く空間のないような場所(?)にも時間は流れるであろうし、また時間の全くない空間というものもないとは言えない。
 事物、事象(あらゆる変化諸相の)と空間の関係は有(?)であるが、時間は無でありその限りで空間そのものは有に満たされたかの如くに見える空無(非在)と非関係的並存しているところの有であり、変化をベースにすれば時間という変化と推移と平行して流れるものに対する非在イデアは、空間とはやはり非関係である。というのも時間の非在イデアはただ単に変化するということを要請するだけで、全く空間を必要とするとは限らない。その証拠に我々の心的様相はただじっとしていても一分、一秒たりとも同一ではない。しかしその変化は空間によって齎されたものでもない。
 過去も実際にそこにあるわけではない。あるのは言語として機能する過去に対する思念「昨日奴と一緒に酒を飲んだ。」とか「車で出掛けた富士山の景色は綺麗だった。」というようなことである。ちょっと言語学的なことを言うと「酒を止めた。」と言う場合、その酒にはビールもウィスキーも焼酎もワインも入る。しかし飲み屋で「お酒」とある場合、それは日本酒のことである。勿論日本酒と書いてある場合の方が多いが。また車と言うと通常日常生活においては自動車、並びに自家用車のことを指す。しかし車とは概念的には車輪一般を指す。このように慣用性と概念規定(辞書で調べてまず第一項に書いてあること)とはこのように異なっている。それはなぜか?省略があるということである。省略が日常性において果たす慣用的役割は大きい。このように我々は自然をも実は省略して自分たちにとって必要なことだけを最も重要なこととして捉え、後の部分(その方がずっと大きいのに)は大胆に見過ごしているのが我々の生の実態なのである。そして記憶もまた我々は積極的に不必要と思われる部分(その方がずっと大きい。)を大胆に忘却して生活しているのである。過去は最早ないものである。最早戻れないものである。だからそれについて語る時必要とされるのは過去像と記憶像だけである。だから過去想起は必要なもの以外は一切忘却されていることが前提しているのだ。しかしその忘却部分は想像力で補っている。大体こんな風であったというような構築である。サルトルはこの想像力を大変重要視した。それはカントの言った構想力というのにも似ている。過去のように見えるものは過去の痕跡であり、言語(それがある種絶対的な慣用である限り)もまたそういったものの一つである。言語は今そこにあるようなものではない。その意味では非在イデアの最たるものである。言語は全て記憶に基づいた過去像をモデルにしている。林檎を見て林檎と呼ぶのはその林檎の前に別の林檎を見ていたことの証拠であり、最初に語彙「林檎」を学習する時でも子供は大概親に「これなんて言うの?」と質問して親から「林檎って言うんだよ。」と教えられる。あるいは両親の会話から勝手に盗む。そして今までよく見かけたものを林檎であると認知する。語彙、名称、名詞、あるいは動的現実を概念規定する動詞も叙述限定を行う形容詞も皆過去の映像記憶、機能論的意味記憶によって過去の出来事を集計したデータを下にした認識をベースにしている。
 私たちは言語で実存を表現しそのことで実存と拮抗しようと欲する。しかし実存は表現したと思った瞬間あらゆる未知の要素を情報として私たちに提供する。必ず表現した言辞や陳述や述定から漏れる要素が残される。ここで言語の無力さへの自覚を誰しも経験している筈である。

 時間は空間のようには分割出来ない。だからこそベルグソンは「純粋持続」と呼ぶ時間性質を表現したのだ。一時間たった瞬間その時既に一時間何秒かは経過している。このようにある一瞬が常に自覚出来ないほどの脆さを持っているそういう性格をデリダは「差延」と呼んだ。しかも一瞬というものはまるで無限の深度を持っているかのようにあくまでも概念上でしか存在し得ないような意味での覚知不可能性を有している。一時間何分何秒何ミリ秒と言う風に無限の間隙を表示する時間の秩序は知覚不能様相である。一時間前のことも全て痕跡としてしか我々の脳裏には示されない。最早確認する術はないのである。つまり私たちは一時間を一平方メートルのようには知覚出来ないのである。一時間を過ごすことは出来るが一瞬で全てを知覚出来る空間的な事態とはそこが違うのである。時間とはだから認識的な方便でしかないのである。確認不能な実体(?)なのである。それはあらゆる事象的変化の諸相を網の目のように覆い尽くそうとする私たちの欲望が躍起になって摑まえようとするのにそこから常にするりと抜け落ちてゆくような事態のことなのである。
 だからこそ我々は変化的諸相を段階的にカテゴリー化するのである。そうすることによって初めて私たちは過去を再生されるVTRやDVDの映像の如く鮮明に思い描くことが可能となるのである。一挙に知覚出来ないことを概念的に段階的出来事として、ある時は因果論的に捉えることをすら可能にしながら記憶のアリアドネ性(「時間論_原音楽の彼方に」を参照されたし。)を引用しながら想起する為の方便が時間なのである。
 知覚は現に今起こりつつあることへの空間的把握に他ならず、それは動的変化を空間の中で捉えようと欲する意識のナルッキソス性によるものなのだ。そして未来予知とは寧ろネガティヴで不吉なことによって明確化することが多く、それを未然に防止しようと欲する意識によって産出される。そして現在において過去像を手掛かりに不吉なことも含めて未来予持するライウス性をも意識はその意志的動力源として携えている。そして時間的過去把握や未来予知は変化諸相への言語的アプローチの産物に他ならない。
 そうである。時間は言語というものの誕生と共に生み出されたものなのである。そしてそれは人間が永遠の生命を持っていなかったからである。そしてそのことが私たちをしてあらゆる実存意味を付与することを促した。実存のあらゆる諸相が語り掛けてくるものを真実と受け取りそこに何らかの意味を見出す。それは脈々と受け継がれてきた人間の思考的慣習である。(人間一個の生命は自然からすればとるに足らないものである。人間種が絶滅するか否かさえそうなのだから、それを尊いとすることさえ人間の勝手な都合でしかない。)
 サルトルは「嘔吐」でこれを一刀両断にする。実存に意味を付与するのはあくまで人間の勝手な都合でしかないのである。意味は言語が運用された上で必要不可欠のものと捉えられてきた。何物かを名指すということはそういうことではないのか、と。しかしそれは違うと思われる。言語は意味を運搬するものであるよりは、対話することそのもの(意味は対話することによって見出されるのなら、その時初めて登場するようなものであってもよい。勿論思念上であっても思惟上であってもあるいは記述上であっても同様である。)において確かめられる程度のものであって(たとえ確かめられなくても)よい。私たちが挨拶したりキスしたり抱擁したりすることに何か意味がなければならないだろうか?それと同じことではないだろうか。
 名指していることの形をとる名詞はそれ自体ではその名の示す概念の指示以外の何も示してはおらず動詞もこの動作陳述以外の何も示してはいない。語っている者にとっての興奮はだから言辞自体が如何に大袈裟であっても意味作用的には語られた語彙の組み合わせ自体の秩序以外何物も伝えはしない。
 「橋を渡った。」という文は話者が主語を省略して橋という概念を話者と対話手とが共通して有しつつ、共同体内の約束事として信じる(慣用的に)ものを「渡った」という過去の事実に対する述定以外に別にそれ自体意味といった意味はない。そのように対話手に語るところの話者の意思とかそういったことを内面的推測においてア・ポステリオリに私たち自身が勝手に見出そうとするだけである。それはそう語る話者の「その時の実存がある」、という事実以外の何を付与してもそれは自由だが、意味付与をはじめ、そういった解釈の問題であって、彼がそう語ったという実存は何も変わりはしない。そして彼が語った過去における橋を渡る行為そのものの実存と、後にそのことについて触れた実存は実は何のかかわりもないことであり(ただ単に想起してそのことに触れたに過ぎない。)全く別々の実存の場面に過ぎない。ましてや何も後にそう語る為に彼はある橋を渡ったのではなく、あくまで後日別の実存の場面(局面)において近い過去(遠い過去でもよい。)の実存についての述定をなしているだけのことである。にもかかわらずその因果的な性格を巡って常に堂々巡りの論争を繰り広げてきたのが哲学史の一面である。(ヒューム→カント→ベルグソン→ウィトゲンシュタイン)サルトルは本質からの訣別において実存の唯一的優位を語った。そしてそれは実存と非在イデアとの非関係をもう一つの現実として浮かび上がらせる。
 実存はカントが論じた物自体とも重なるし、それはとりもなおさずその客観的事物の現象をも生じさせるところの全てである。それは空間も含めあらゆる変化的諸相がそれ自体として息衝いている現在の事象の全てである。それは現在決定的にそこにあるということの強度である。だからこそ実存は意識と覚醒を重要な柱とするのだ。実存の意識を持つことが人間が自己同一性を得ることのア・プリオリな条件である。これがなく常に無意識であり、非覚醒状態であったなら、その人間は半死状態、半生状態でしかない。
 「私は~という名の一個の人間である。」という意識は同時に今のこの空間と事物とその変化諸相に取り囲まれ一個の存在者(理性的か否かを問わず)として存在しているという紛れも無い生命の諸瞬間が一個の生を生きる存在者(ハイデッガー的であるが)として実存の只中に自覚されるという事実こそが自我というものの正体に躍起になってきた幾多の哲学者たちの問いをすら産出してきたことなのだ。紛れも無く<実存に対する意識>が哲学者たちが自我と呼んだ自己同一性の中での他者(実存という他者も考えられる。)に対して自己を意識出来るところの心の在り様を決定しているわけである。
 そして自分を一個の存在者として名指すところの条件として言語がア・プリオリに実存に対して差し向けられている。それは実存を実存として認識する為のア・プリオリの条件として。実存を表現し切れない無力を自覚しつつ実存を裏切ることになるにもかかわらず。
 しかし事物が事物として存在しなくても空間は空間としてそれでも存在し続けているだろうか?というより空間なるものとして存在し得るだろうか?非在の空間として。
 ところが事物は現に存在している。事物が存在しているからこそ移動、運動が可能なのだ。空間があるから移動が可能であり運動が可能であるばかりか、まず事物があるからこそ移動や運動が可能なのだ。そして事物の移動や運動があるからこそ時間が生じる。時間があるからこそ動的変化があるのである。時間のない動的変化というものがあり得るであろうか?恐らくないであろう。実存とはこの両者を切っても切れないものとする現実のことを言うのである。そして実存の端々で私たちは言語の無力さを悟りながら、意味と論理に満ちた(と捉えることなしには把握出来ない。)実存に対して自己同一的確認において為される言語化は、刻々着々と経過しつつある無意味な時間への無時間化、我々の生に対する意味(意義)化に他ならない。
 言語活動は実存の中で生における一つの実存の場面において生の意義を見出すことを他者と共有する自己の本能的な創造、語らいと文章を通して「語ること」を産出することで超越的実存としての言語の正体を見出さざるを得ない行為である。言語はしかし実存の実存とのその場その場での邂逅の持つレアリテ、リアリティーを覆い尽くすことは出来ない。語らいの生における意義は実存の強度を抵抗しようともし切れないディレンマとカントの「判断力批判」の崇高に対する人間の美的判断にも共通する万人に共通した感動を共有し合えることの共同体内の確認と、そう願う自我において自己を見出そうとする成員間の賜物である。
 よって言語は実存を覆いつくせないにもかかわらず実存を益々裏切り(意志的発動)言語が実存を表現することが出来るものとして共同体内に機能せんと欲するし、かつそういうものとして我々は言語を捉える。あるいは捉えたいのだ。
 例えば名詞も動詞も個々の個別性、唯一性に対する表現しきれなさを知りながら一つ一つの出会いを既知のこととして処理することを促すように平坦に個別性をカテゴリーとして位置づける。一人一人の顔は異なっているが、顔はただの顔でしかないし、一人一人の語らいは皆独自のものだが、語らうこと、語ることという事実の名の下に一括してカテゴライズする。
 形容詞でさえ、美しい、綺麗ということは一人一人異なっているのにもかかわらず人の心を魅了するという質的な違いより、その事実性で一括して通り一片の表現しか生じさせない。観念の呪縛である。観念は一括した事実認定において個別性を末梢する。個別性の末梢はやがて言語を実存に対して横柄にする。傲慢にする。
 同じあなたであっても昨日のあなたと今日のあなたは違う。なのに同じ人格としてあなたとして捉えない限り、あなたと私の属している共同体ではその言語活動を糧に生活することは出来ない。同一性認定が法を生む。
 昨日の君が法を犯したのであり、今日の君はイノセントだ、とは言えないのである。
 川に掛けられた橋はいかなる形状の下であろうと全て同じ社会的機能として一括して橋でしかない。インフラという名で橋は観念上で個別性を剥奪される。
 しかし実存は個別的であり、レアルであり、あらゆる状況において一回的である。まるで生における全ての瞬間が全く異なった状況(心理的、生理的全ての)や質において一回的であるように_。
 ここに実存と言語の齟齬が生じる第一の理由がある。にもかかわらず言語はその語らいという活動において実存の場面として実存に癒着しようと欲するのだし、かつ巧みに潜り込む。言語が実存を裏切りながらも実存の一場面として振舞うその仕方が共同体の存立基盤となっているのである。
 ここで非在イデアについて述べておこう。本来関係なるものAとBとのかかわり合いは、Aが原因でBが結果でも、その逆でも、あるいは互いが互いの結合であったり、分裂であったり(前者がAとBが結合しCになり、後者はCがAとBに分裂)しても、それはその事実にこそ真実があり、AとBそれ自身は結合や分裂という事実に依拠しているに過ぎず、AやB自身が因果として作用しているわけではない。とするとAやBを俯瞰し、定義上結合したり、分裂したりさせる存在者が要求されよう。AやBの動的質的変化及び転換それ自体を関係性(そもそも何らかの集合体をAとかBとか措定すること自体恣意的なことでしかない。)と捉えるということの内に既に因果律としての物の見方が採用されている。しかもAやB自体の関係のみならず何らかの集合体同士の結び付きや別れを、AとかBとか捉える存在者と捉えられたもの同士の関係も全て実際に物理的現象として関係が存在するのではなく、あくまで一つの見え方、一つの捉え方として実存に対してア・ポステリオリに規定し得る、その可能性を捜したり、見出したりしているに過ぎない。その見方、捉え方は別の局面では全く別の再定義を要求され得るし、あるいはそれに取って代わることも充分あるので恣意的なものに過ぎない。これら一切の関係を実存(結合や分裂及びそれを結合や分裂と私たちが名指すところの動的質的状態の変化、変容)に対する見(え)方、捉え方を非在のイデアと私は呼んでいる。
 そして言語自体が実存に対して非在のイデアであり、かつそれでいて言語を育む私たちの考え方の存在そのものというかたちで実存の中の一場面に常に潜り込む言語の自らの立ち現れ方は巧みとしか言いようがない。しかし言語それ自体は全実存に対して非在のイデアであり、非在のイデアを産出し続ける私たち自身と言語の関係もそうであるが、少なくとも実存(私たちの日常全てを支配しるところの)に日々接している私たち自身と実存の関係と私たちと言語の関係は同じ様相の非在のイデアと見做し得る。なぜなら言語とは、私たち自身と実存との(私たち自身が実存の一部として存在し、実存を構成することをも他の一切の事物たちと担っているにもかかわらず)関係の像だからである。そうして築き上げられた実存は私たち自身より遥かにメジャーだし、言語は本来私たち自身の捏造だが、それ自身実存秩序を引き受け一人立ちし、もう一つの実存として私たちの前に立ちはだかる。してみると私たち自身と実存との関係と、私たち自身と言語の関係は相同であるし、かつそれら一切を実存の中の場面と捉えるなら、私たち自身と元は私たちが作った(これも実は疑う余地ありであるが)筈の言語との関係は、即ち「私たちと実存の関係」の中の一場面という風にも捉えられる。
 


私たち自身←→実存
     ↑像   

私たち自身←→言語
 

私たち自身と実存を分けて捉える考え方と
私たち自身も実存の一部と捉える考え方が
成立し得る。

上図を手掛かりに少し解析してみようと思う。まず実存とは存在論的な認識である。それは言語を操る我々自身の日常や自然に相対する、その中で苦闘する我々自身の姿も含む。現実と言い換えてもいいかも知れない。しかしただの現実と違うのはその現実に生きる我々の思念上で我々自身の存在とかかわる自然や社会、言語といった様々なレヴェルの様々な質の大きな現実と我々の存在との関係、その関係の中から我々自身を見つめることが出来ると実感出来る現実の総体であることだ。ハイデッガーやサルトルはそのようなものとして実存を捉えたのではないか、と私は考える。そこで実存と言語の関係を考えてみよう。現実に我々は我々自身を取り巻く現実をそれが自然であれ、社会であれ、言語自体であれそれを語彙に置換して表現する活動において様々な存在規定をしてきた。それが一つは言語である。木々を見て「木」と名付け、社会にとって重要な人間の活動を「政治」とか「経済」とか名付けてきた。そして言語活動自体を考え「文法」とか「意味」とか「音韻」とか名付けてきた。言語はそういう意味では実存の鏡でもある。だが実存と実際の自然や社会には齟齬もある。自然には我々の預かり知れない部分が多くあるし、社会にももう一つの自然の如く我々には解決不能の数々の問題がある。それらは依然不可知領域である。また言語自体もその解明には程遠い。すると自然も社会も言語も総じて実存であるなら、上図で示した言語とは脳内での言語的な思考、つまり言語的思考内容のこととなる。そしてこれにはある傾向性がある。こういう風に考えがちであるという傾向である。そこに当て嵌めて我々は自然を見る。社会を見る。言語自体を見る。「神」という概念もまた人間に固有の考えがちなことの代表である。人間の思考内容といってもよい。「死」もそうだし、「生」もそうである。あるいは「幸福」もそうだし、「愛」もそうである。これらは通常の意味での形がない。というより表わし難い。実際に「木」を木であるとする規定にも実は人間が自然科学的な分類学に則って考え出したカテゴリー認識に過ぎないのであって、木であるか葉であるか草であるか判然としないような種類のものもあるのかも知れない。あるいは実際に人間が「木」と規定しているものが絶対正しいとも言い切れない。自然には人間が木と考えるよりももっと何か別の事情によって木とも葉とも草とも区別がつかないようなものを創造されているかも知れないのだ。ただ我々は我々の知り得る自然のシステムの範囲で、例えば今我々が目にするある木を「木」と呼ぶに過ぎない。
 言語自体も恐らく言語が我々によって使用されてから言語を「文法」とか「意味」という風に分析したのに違いない。というのも言語を学習する際にそれをまず文法のシステム自体から覚えさせるということは臨界期をとうに過ぎた思春期以降の境界人か大人が外国語を習得する際の方便であって、我々が母国語を習得する際には実際には具体的な使用を親その他から聞き自然と慣用的に学習していったであろうからである。そしてそれは言語使用における初期人類とて同じことで、その意味では「文法」や「意味」といった語彙の誕生は「木」よりは後の筈である。まず生活において不可欠のものから順に学習されてゆく我々自身の習得過程同様、人類もまたそのように例えば人間関係においては親、子、親戚というような我々自身が自己、自分に近い範囲から習得するように人類自体もそのような最も日常的使用頻度の大きいものから語彙は創造されていったであろうことは容易に想像される。抽象的な語彙はその後である。だから「他人」とか「他者」とかは明らかに「親」や「子」よりは後的な語彙であると思われる。(?)まず基本として社会とはあらゆる家族の複合体であるから、人類史がまず共産主義において出発したのでない限り、社会の基本要素は家族である筈である。だから逆に「親」や「子」その次に「兄弟」、「姉妹」といった最も基本的な語彙は自然を表現する語彙に最も隣接した語彙である。それらは「空」や「川」、「土」、「海」、「山」といったものと同時的なものである。しかし人間は不可避的に社会とかかわるように出来ているので、次の段階において実存は社会を要求する。その最も基本的な概念こそ「他人」であり「他者」である。「友」はそれと付帯的に考え出された概念であろう。しかし難しいのは「愛」である。しかし恐らくこれは抽象的であるから「他人」よりも言語活動が進化した段階で出てきたものであろう。というのも「愛」は基本的には家族から生じるものだが、他者との間でも共同体においても国家においても存在し得る。「故郷を愛する」とか「愛国心」とか。だからこれらは言語自体の「意味」や「文法」といった語彙誕生の際に同時的に生み出されたと考えるのが最も順当ではなかろうか?というのも我々は抽象的に「愛」を知るのではなく、日常的な実存である家族との生活の中から具体的な愛の仕種や感情表現を知るのであり、その後にそのような現実自体を総体的な実存として認識する際に我々は初めてそういった日常の感情を「愛」と規定するからである。だから「愛」は「実存」や「言語」や「像」に近いものである。
 「像」とは何か?それは実存の様々なレヴェル、質においてそれを語彙に置換する際に我々が持つ現実、現象、事象に対して抱く表象であると言えよう。それを手掛かりに我々は言語的な思考を持つのだ。だからそれは実存と我々がその実存の中で思考する為の媒介であると言えよう。像こそ、あるいは心像、表象と言い換えてもいいものこそ、概念的には実存と言語の境界に位置するのだ。我々はこれなくして実存を実存として、あるいは言語を言語として認識することさえ出来ない。これをカントはカテゴリーとか構想力というもので表現したし、サルトルは想像力というもので表現した。
 しかし像とはある意味では個別具体的な映像想起やニュアンス想起を阻むような極一般的なカテゴリーしか喚起させない。言語とは一面ではその言語が通用する共同体成員全員の総意として一つの名指された対象に対する共通了解事項としての語彙形成によって成立しているその都度の語彙選択行為によって支えられているのであるから、その意味では「猫」はただ「猫」であり、『ネコ目、ネコ科』というような生物学的分類による専門学的カテゴリーや学名でもなければ、ある種の神話や文学的創作上の別名でもない。それはネコ一般である。猫に纏わる外延全てを一語で「猫」として省略して、全ての猫に共通した言語共同体が規定する常識性に照らし合わせて具体的記述、形容(その猫について語る話者にとって猫<猫一般>が嫌いな人であるか、猫を飼っていて、人間の固有性同様の愛着を持って語るかというような相違は大きいが、その際の形容にも愛着の差には形容自体の具体性にも差が出る、当然愛着を持っている場合にはより個別具体的で詳細な形容となり得る。)の省略の下、情報伝達機能という俎板に、あるものを只一つの「猫」という語で代表させることで個別具体性へと即座に対話内容が移行することを未然に防止しているのである。その先にまで対話内容が進行するか否かは、話者が語る猫についての話題(猫が好きな者同士の場合が多いだろうが、逆に嫌いな動物について反感の同意を求める場合もあるであろう。)が進化してゆくべきものあるか否かは、聴者がその猫に対して話者同様の関心があるか否かがキーとなり、話者が「猫のことなんだけどさあ。」と切り出した場合、その先を話者に続けて欲しければ聴者は「猫がどうしたの?」とか話者がある特定の猫について「うちの近所の猫のことなんだけどさあ。」と語ろうとしている場合には「その猫はどんな風なの?」と聞くことによってそれ以上の猫の叙述に進化が可能性として付与されるのだ。話者がある一般的な語彙選択によってある概念を提出した場合、それ以上その概念によって指示される対象に関心があれば、個別具体的な事項を聞き出せばよいという寸法である。しかし猫の話を切り出した時点ではその話者にとって聴者が自分同様に猫に関心があるか否かはまだ判然としていないのであるから、猫一般をまず話題設定しているのである。だから聴者が猫にはあまり興味がなく、犬に興味があり、話者もそれに同様の関心があれば犬の話題へと移行して差し支えなく、逆に話者が猫は好きなのに、犬は嫌いである場合は話題を180度転換する必要性が生じてくるのである。よって話者にとっての猫の実存は実存に対する綿密な描写まで話題として提出してよいものかどうかが、猫一般をまず指示すことで聴者へと打診されているのである。だからこそ猫について詳細を語り合いたい話者にとっては心的には綿密な実存描写が控えていても、まず聴者がそのことに関して同様の関心を抱けるかどうかという判断を話者が得たい為にまず猫一般から設定するということが意思疎通の第一段階の秩序として話者、聴者双方にとって認識されるのである。それは常識的了解事項としての猫なのである。だから聴者が猫一般に関心があると了解されれば、即ある特殊な猫の叙述へと移行し、「うちで飼う猫の体毛と模様が変わっていてねえ。」とかいう風な内容になるのである。それは言語が実存に対してあくまで非在のイデアである証拠なのである。故にこそ、実存としての猫の圧倒的な個別具体的な決定的なる存在感、現実感はどんなに形容しても実際にその猫を聴者に見せるまでは聴者にはそのままの形では伝わらず、実存を言語が覆い尽くすことなど出来はしない。だから大概聴者はその猫を実際に見せられる段になると「猫って言うからもっと全然違うイメージを抱いていたわ。」とか言う風になるのである。言語はここでも実存を裏切りつつ自らの都合で暴走し得るような力を示すのである。それでいてちゃっかり実存の一場面へといつでも気軽に加担し得るような出しゃばり者なのである。しかしこの出しゃばり者抜きで生きて行ける存在者など一人もいはしないのだ。そして言語は実存において自己を見出すと同時に存在者の内部でも一人歩きをし始めるのだ。そして言語が実存に対して言語自体の自己を見出すことと、存在者の内部で一人歩きし始めるこの中に他者及び、共同体という概念をア・ポステリオリに介在させることとなり、それはア・ポステリオリに見出されるア・プリオリなのである。
 最後に実存が時間というものに大きくかかわっているのだ、ということを考え、同時にそれは空間にもかかわりがあるということをも考えてみよう。
 哲学は生がある限り問われ続けられるものであると思われるが、時間と対抗するものとしての生がある時間的な経済と精神的な無常観が問うことを位置づけてきた。ある限られた時間の中で生きるのなら時間など問うことなく問わずに生きれば一番良いのかも知れない。にもかかわらず時間自体を問うということはブルースを聴かずしてブルースを論じるようなものであるのに、哲学はこれを延々やってきた。本来時間は意識とか自我とか個別的なものから問われるべきものであるのなら、哲学よりもまず言語学から問われねばならない態のものであった筈であろう。しかし言語学は時間をあまり積極的に問わずにきた。過去の事実は我々の手によって過去化され真実化される。中島義道の言葉を借りれば、「過去は意味は変わらないが内容は変わる」ものだとすれば、ある種の事後的な辻褄合わせは常に我々の日常に散見される。幼児が殺害されると決まって「明るい元気で活発な子でした。」と報じられ、また不測の列車事故や飛行機事故で亡くなった人を「仕事に積極的で真面目な勤務態度の周囲の皆から好かれる人でした。」と報じられる。では一体明るく元気でない子が殺害されたら、気の毒ではないのだろうか?周囲から好かれていない人が亡くなったら気の毒ではないのだろうか?と思わず言いたくなるほどの後付け的報道の辻褄合わせ的な意味論こそ我々が日々目にする我々自身の過去事実の意味づけ作用である。これらは言語自体、つまりどのような言及でも未来へ向けられた意思表示や行為遂行的発言を除く殆どが過去の事実の事後的な報告によって成立しているからである。だから逆に過去の事実に関する叙述ではない未来へ向けられた意思表示でさえ、過去の事実に起因した意志なのである。「私はこの人を妻とします。」という結婚式での行為遂行的発言は「今までは独身でした。しかしこれからは違います。」という一つの過去における在り方から決別し、これからはこうするという未来に対する述定なのである。
 では空間というものとは一体何なのだろう?時間はA地点からD地点へと移動する時、途中でB地点あるいは事物、C地点あるいは事物と遭遇し、かつD地点からA地点へと戻る時同じルートを通る時逆にC、Bという順序で通過するなら必然的に動く主体は移動しているが、途中のBやCは移動していない、つまり不動であるということとなり、しかも必ず順序としてBの次にC、帰りはCの次にBという風に経過し得るのならそこに推移というもの、つまり時間が認められることとなる。そして空間とはある二つの異なった地点や事物が同一の場所には存在し得ないということ、そしてそれらは移動に時間がかかるということにおいてその存在が少なくとも拡がりという意味においては証明されよう。しかし時間と空間が相互に規定し合っているかというとそれは疑問である。我々自身が空間内を移動する際に時間を要するということだけである。しかももう一つの時間の定義では変化が起きるということである。それは主体(見る、観察する)が認知し得る変化が体験的に推移の中で行われ得ることを認知し得ることによって証明される。事物間に全くの変化のない空間があったとしたら、それは悠久の時が仮に経過し得たとしても一瞬よりも短くても何ら差し支えないこととなる。変化とは位置的、質的、形状、生死といったことによって判定し得る。変化がないということは言い換えれば事物も生命もないということをある意味では意味する。つまり端的に言えば生命体を含めた事物はどんなに変化ののろいものであってさえ、徐々に変化してゆく、いつか最初にあった(この最初という観念は難しいのであるが、どのようなものでもその事物が存在し得たその前の状態、机であれば加工される前の木とかガラスとかがあることとなるのでそのことを意味させた。)状態からは離脱する。つまりこの変化を保証するものが時間である。そしてその変化を体現させる場が空間である。ここで初めて空間と時間が共同しあっているように見える。しかしこれも我々がその変化を目撃し得る限りでの話しなのである。その変化を目撃し体験し得る我々がそれを認知し、脳内で変化を規定し得るものは言語であろう。事物は変化してゆくことに同意しているし、事物は空間に存在し、変化という全事象へ加担することで実存そのものであると言明しているのだから、その変化を立ち会う我々自身の認識が言語でなされる以上、言語は空間の中で我々によって認知される空間の劇場化宣言と変化への同意と加担の中で私たち存在者自身の実存の中から全実存を少なくとも認識の上では(我々の与り知らぬ実存があるであろうと我々は予測出来る。)我々自身の実存(その全てを我々自身でさえ与り知らぬ。)をも実存の一部を構成する登場人物として認可しながら他の事物たちと競演することを自らに言い聞かせながら、存在者同士の連帯と協調の中でそれを自らの行動の水先案内人とすることで存在者同士を共同体の成員(例えば地球上のあらゆる人間以外の生物は皆地球という惑星における成員である。)として位置づけながら、それをそういった認識の糧とすべく利用するのである。しかも極めて日常的に、慣習化しながら、ある特定の逃れることの出来ない相棒として。そして言語的思考は「我々自身」の大いなる実存でありながらも、一向に空間自体には影響を与えない。それは我々の思惟や思考や反省それ自体は一向にそれらに影響を与えないのと同じである。それはそれらが時間にも全く影響を与えないのと同様である。それが反空間的、反時間的なものという性質を新たにここで言語、思考、思惟に付与することとなるのだ。それは我々が自然秩序の中で右往左往して生きているのに、同時に極めて反自然的な言語的存在として生きているということ、言語の内容、意志、意図からは決してそれを自然の一部と認識し得ない余剰を認知している。この一動物であり、生物学的存在でありながら、言語を通してそこから極端に逸脱する非生物学的存在である我々自身の両義性こそが最も厄介な代物なのである。それでいて肉体的存在、身体的存在としていつかは消滅するのが人間の運命である。
 我々がどのような個人であろうともいつかは死してその肉体を消滅させる存在であるのはいかなる理由によるものか?それを端的に物語ることとして空間の側の事情があると思われる。それは全ての生命体が永遠に存在し続ければ、その為に払われる全エネルギーというものは多大のものになり、それを顕現させる為のコストは例えば全地球レヴェルでも甚大なものになり得る他はない。加えて空間がそこで全て一回誕生してきた生物種によって占有されて一杯になる前に遺伝子を持って子孫を繁栄させる代わりに個体はある時期を持って退場させるような摂理を自然が選択したのであろう。各生物種同士の空間専有性を巡る衝突を最低限に制御する方策として個体の死滅というものを自然が選択したのであろう。しかしひょっとするとこの生命体の死滅のシステムこそがある種宇宙空間そのものの有限性を証明しさえするかも知れないと私には思われるのである。しかしそのことに関して本章ではまだ触れずに置こう。一個体がいつかは死滅する分析的な事態において我々はDNAレヴェルから運命付けられた生の経済において想像力や想起、あるいは構想力において無限性、非有限性を付与されている。限度ある生理的な能力がそれを超えた可能性への希求を心的にも概念設定可能性としても我々に付与されていると考えることは的を得ているように思われる。だからこそ全ての概念が対象とそれに対して規定された観念の呪縛を必然的に運命付けられているとしたら、我々はその呪縛を相互に受容していることの運命共同体においてその言語思考的な意味においても個的レヴェルから加担を表明すべく内的には無限な思考を施し、無限の可能性を思惟する自由を享受するのである。そして遺伝子において死滅する全個体が能力と可能性に関しては遺伝子において子孫も存続し得るように言語活動という能力もまた遺伝子を通して子孫へと受け継がれてゆくのである。そしてその受け継いだ身体生理的、大脳思考的遺産を受け継いでいることを言語活動への加担と内的、心的思念性において我々はその都度同意しつつ表明しているのである。

Sunday, January 16, 2011

A言語のメカニズム 25、カテゴリーと階層性

 前章で川と橋がごっちゃになっているようなことを「語性錯誤」と言うが、これらは我々が心的にまずカオスを抱いて、そこから一個の語彙を選択していることを表わしているが、カオスとはその範囲が明確でないだけであり、実際ヘッド、ヤコブソンの例からは食事に纏わる事項であったり、そこから一個の表示すべき語彙選択を我々がしていることが判明するが、そういった具体的な行為に関する事項が、語彙集合となっているのなら、それらはその集合の境界(別集合との相関性という意味での)とか範疇となるとなるほど幾分カオスなだけのことはあるものの、どこか厳密ではないが、緩いカテゴリー的認識(漠然とした集合)は確かに存在するのではないか?
 カオスというもう一つの秩序によって心的には外部世界の全てを選択して認識し、必要なものののみを記憶しようとする目論見は、知覚作用においては、人間が確率論という数学分野を実際は心的に、つまり脳内に介在させてきている無意識的な思考能力が、障害によって意識的には認識されないものを数学者の手によって数式的秩序で甦っただけのものである、というその一事を持って証明されよう。その確率論的秩序は付随意的には全ての生命体が、個々の事情に従って個的なものではあるが、本能的に知覚作用とか刺激に対する反応とかの方程式を持っており、我々もまた、すべてのものを等価に知覚し、認識し得ないという潜在的には誰しもが知り得る事情に従って知覚し、記憶すべき事項とそうでないものを瞬時に峻別している。そこにはある種の階層性がある。身体生理学的にはカスケードと呼ばれるような蛋白質の制御システムにも当然のことながら認められる。例えば霊長類の視覚システムにおいて、「いかなる神経細胞も、受容野中心に当たる小さなスポットに対してはすみやかに反応(発火)するが、受容野全体に広がって当たる光に対しては、ほとんど反応しないということだ。網膜はこのようにして、目に入ってくる視覚情報のなかから余分な情報を消し去っているということだ。つまり、脳に送りこまれる情報は視覚のなかでも興味ある_光の分布が均一でない_部分についての情報であって、変化にとぼしい部分は、おおむね無視されることになる。」(フランシス・クリック著「DNAに魂はあるか_驚異の仮説」(The Astinishing Hypothesis)
 我々がこういったある偏りをもって全ての外部世界に接しているのは、確率論的にすべての外部世界を等価に知覚、認識していては一個体の生命の維持出来る時間を遙か越えてしまうということを身体上のホメオスタシスが恐らくDNAレヴェルからその漠然としてではあるが、後退を指令させるべく数値情報を我々の抑制系の各機関、各遺伝子、ホルモン、蛋白質、細胞に伝達しているからではなかろうか?
 例えば我々はある事物、例えばそれが自動車であったとしよう。我々は今目の前に駐車した自動車がドライバーの手によって運転され去っていくことは認められ、その時視覚情報のみではなく、当然のことながら聴覚情報としてエンジンの音やら、排気システムの音とかを知覚しているが、我々がその車が遙か一キロ先にまで消えゆくのを認められるような状況のランドスケープに立っているのなら、一キロ先に徐々に小さくなってはいるものの視界にははっきりと認められる自動車の音は最早知覚され得まい。ということは我々は漠然と自動車の視覚映像と聴覚音とを同時に認知し、統合して一つの出来事として車の発進を認識しているにもかかわらず、明らかに視覚と聴覚のシステムは別個のもので、それらは能力的には階層性を持ち(当然のことながらヒトは視覚能力は他の哺乳類よりも優れているが、聴覚や嗅覚は劣っている<勿論そうでない動物もいるが>ということもあるわけである。)、それらは本質的には別個で独立した能力であるにもかかわらず、統合、統覚している、勿論大脳においてだが、そういうことになる。カントの言っていたことは正しかった、と言える。
 言語もまたチョムスキーの考えを待たずして、学習だけではなくア・プリオリな能力として我々に具わっていて、環境的外部要因(教育とか家族の人間関係とか)によって発現されているわけである。そして言語にもまた階層性が存在する。

 ところで何度か触れたが、生命を偶然と看做すか、必然と看做すかという問題は過去から現在までも延々繰り返し論じられてきた普遍的論争であり、語理論と経験論による普遍論争にも匹敵する問いであると思われるが、マイケル・J・ベーエは自著「ダーウィンのブラックボックス」において、ダーウィンの自然選択という概念では、この生命秩序における複雑系を証明することは出来ないとし、ダーウィンの思想を出発点とするドーキンスをも批判対象とし、ダーウィニズムの後継者でありながら、エルドリッジやグールドは自然選択以外のメカニズム(それを彼等はウィルスの増殖とか特有の当然変異で説明しようとしているが、筆者にはそれはダーウィン理論の誤読にしか思えない。)で説明しようとする姿勢に半分共鳴してもいるものの、創造説に近いものを感じるというような発言を、その本の翻訳者の一人長野敬すらもしている。ここでベーエの考え方(「ダーウィンの自然選択のメカニズムは、現実には、血液凝固カスケードのような単純化できない複雑系の形成を妨げるはずだ。」<長野敬+野村尚子訳、青土社刊139ページより>に端的に示されている。)自体をどうのこうのと批評することは差し控えるが、ここでベーエ自身も唱えているところのダーウィンの自然選択とは一体何かと、考えてみるとエルドリッジ、グールド、ベーエに共通するのは、何か必然的な説明を求めているということであろう。この考え方は古くは合理論的、あるいはある意味、あの不完全定理や神の存在論で有名なゲーデル的な認識論にもどこかで通じる。しかしダーウィンの自然選択とは、筆者の考えるところ、選択基準というものに偶然性を認める限りで有効である(ダーウィンはそういう謂いを使用してはいないが)と言えよう。なぜならダーウィンはウィトシュタインが「語り得ぬことには沈黙せねばならない」というかの有名な「論考」最終章の考えを地で行った学者でもあったからである。だからその意味でベーエのダーウィン批判は「ダーウィンに神を期待した」認識ということとなる。ダーウィンが偉大な学者であったとしたら、安易な合理論的説明を避けたということを筆頭に挙げるべきではなかろうか?
 ベーエの論述はドーリトルという血液凝固システムを中心とした複雑系専門の学者の業績を認めつつも、「ドーリトルが『血栓と止血』に載せた論文の読者は、血液凝固研究の指導者たちだということを忘れないようにしよう。彼らは最先端を知っているのである。それでもこの論文は、血液凝固の起源がどのように始まり、その後どう進化したかを、彼らに対して説明していな。物語を聞かせているだけである。血液凝固カスケードがどのように現れたかをほんのわずかでも知っている人は、地球上には誰もいないのが実情だ。」と言い、所謂創造説的視座を確かに仄めかしている。確かに我々は誰もその実情は知ることは出来ないかも知れない。しかし我々の言語は、日常言語(自然言語)たろうと、数学言語たろうと、物理学の言語たろうと、化学式や方程式の言語たろう(人工言語)と人間は無限性へも挑戦しながら、肉眼では捕らえきれないものを顕微鏡やナノテクの世界でのハイテクを使って認識してきたような意味で肉眼では捉えきれないものまで想像力の及ぶ範疇として、現実の事象としてきたのではなかったろうか?確かにまだまだ実際の進化上の謎は解明されていないし、また未来永劫明確な形では我々自身全ての謎を解明し得ない、ということもあろう。しかしそれでも誰も知らないという謂いで全てを反ダーウィニズムに結びつけるのなら、それがどんなに優れた論述であっても、言語行為の能力自体の懐疑となっている(本人は自覚的ではなかろうが)とは言えまいか?
 少なくともベーエはその是非はともかく、偶然というものの存在理由を認めていないスタンスの論客ということになる。
 では我々の身体生理学上の諸事情はヘーゲルが言うような意味での<必然であるということの偶然性>に依拠した諸判断、選択を執り行なっているのであろうか?知覚の階層性が指し示す重要度、緊密度の階層性の如き差別すらも必然的なものなのだろうか?それとも不随意である限りにおいて刺激に対する反応という諸瞬間毎の偶然が刺激‐反応という図式において必然的に対応している、ということなのだろうか?
 そのことを考える上で遺伝子やゲノムの転写システムについて暫く考えてみよう。
 自然は大元では偶然的事象と出来事に支配されながら、その偶然をしかし運用するシステム自体は必然的な法則性によって支えられ、個的生命体レヴェルでも個々の事象は逆に非法則的であるが、ホメオスタシスレヴェルでの身体生理学次元では法則的(モノーの謂いに従えば熱力学第二法則に忠実に)である。だから自然は、それは自然史、地球史と言い換えても同じことであるが、極めて偶然的要素によって連鎖されている(空間的にも、時間的にも)が、かといってまるっきり偶然的、非法則的であるわけでもなく、どこかで明確なる秩序を、そのことをモノーは合目的性と言っている(古生物学者のリチャード・フォーティーはグールドの言うような偶然性に対して、それを一面では認めつつも、法則的秩序の存在を強調している。)ものを持っているが、この合目的性は多くの哲学者たちを悩まし続けてきた命題でもある。カントもまたこの合目的性において合理論の継承と、合理論的常套性からの離脱を同時に試みて来た。ドーキンスも合目的性という言葉は明確に使用しているし、自然科学は大元の事実的認定においては幾ら偶然性を認知していても、その運用や展開上のプロセスそのものにおいては法則的必然性を厳然と認識している。そのことを念頭において遺伝子の幾多の悪戯のような非合目的性(生命体維持にとってはエネルギー・ロスと認識され得るのに、そういった無駄は常に介在する。)を俯瞰すると、我々はそういった無駄や非効率性そのものさえもが、巧妙に仕組まれた、言ってみれば「神からの試練」であることが了解される。
 知覚がある対象を認識する時、我々は殆んど無意識の内に光の強度のような自動的な受容物にさえある選択を施して授受するものとそうでないもの(知覚しその存在を認知すべきでないもの)とを区分けしていることは、重要性における階層性と同時に生の経済、つまり特にその日の生活上に払われるエネルギーと、今現在の自己に潜在する肉体的精神的ポテンシャルによって成立する経済に鑑みて瞬時に判断し、これとこれのみを認知し、あとは切り捨てようという無意識の判断が働いている証拠であるが、遺伝子自体も時に、個体維持にとって不必要であるばかりか、お荷物にすらなる、あるいはもっと個体を危機に陥れることになる可能性すらある行為や、それこそハミルトンやドーキンスが唱えた利他的行動を行うことがある。その一つは生殖行動である。遺伝子は遺伝子自体で判断し、個体の事情を無視して暴走することもあるが、蛋白質や細胞も、それ自体で遺伝子の指令を一端は受け取るも、自己の都合で勝手に暴走し始めることがある。ところでなぜ我々は大脳の指令には何の疑問も持たずに、それを当然のこととして、遺伝子、蛋白質、細胞の意志は不遜なものと捉えるのであろうか?まるで遺伝子や蛋白質、細胞自体が意志を持つことは、大脳があまりに勝手な意志を持ち過ぎることが引き起こした罰である、とさえ考えたくなるほど我々は大脳による指令を当たり前のこととして捉え過ぎてはいまいか?
 もしどんなに思考力が冴え渡り、パソコンの前に座り一日中キーを打っていたとしたら、それこそエコノミークラス症候群的な姿勢の固定化から身体生理的状況としてはろくなことはないだろう。大脳もまた身体の一部であるから、大脳で判断することが常に最良の判断である、と言い切ることは決して出来ない。遺伝子には遺伝子の事情があるのである。しかも遺伝子が大脳を通じて発現しているという側面もあれば、遺伝子が大脳を中枢神経として成立させている、という側面もまた劣らずに重要な事実である。しかも遺伝子にはエキソン(人間の種として共通に持つ遺伝子)以外のジャンク遺伝子、イントロンが97%である。このようなある種無駄を承知で構成された身体生理学的システムはいたるところに、我々の発生の段階から仕組まれている。我々の指と指の間はそもそもそこにも骨や肉塊を介在させるべく用意された遺伝子を別の抑制系遺伝子、リーリン遺伝子と呼ばれる遺伝子が発現を阻止しその骨や肉や塊の発生を消去しているわけなのだし、イントロンもまたトランスポゾンその他の非必要不可欠物に遺伝子パラグラフを複雑に紛れ込ませた配列から選択的にエキソンをスプライシングするように我々の身体に、それこそ「神が設けた試練」なのである。
 しかし発生論的にはなぜミトコンドリアが呼吸を請け負うように、嫌気性細菌による好気性細菌の取り込み、誘導的共生という風に解釈されているが、それがなぜ嫌気性からの誘導であったのか(ひょっとするとシアノ・バクテリアの登場により大気に光合成による酸素が充満し嫌気性のものの生存を脅かしたことが選択圧となって、好気性への接近をもたらしたのかも知れない。)、あるいは植物などに見られる胚発生がなぜあのような分岐の仕方で形成されていくのか、そうではない別の形態での分岐の仕方でもよかったのに、という問題は再度我々に偶然と必然の問題を想起させる。(もしその胚発生の形態が最も効率的な発生を促進するのなら、そこには複雑な合目的性に依拠した必然が見出される筈であろう。)
 つまりこういうことである。遺伝子レヴェルの葛藤、闘争がある一定の抑制系によって何とかその暴走を未然に食い止めているという事実は、かつて地球全体がもっと平均的に温暖であった時期から、現在のように極地と赤道とに二極分離された極端な温度の分配の介在への移行は、しかし相対的に見た時には地球全体の温度が平均化されている、という地球物理学的真理をも彷彿させる。それは地球のホメオスタシスなのであろう。(我々が動いている地球にいる限りその動きは感知されないが、地球自体はそれを感知している。)我々の身体もまたミクロ・レヴェルでは遺伝子間の対立、細胞間の対立、神経系の対立といった図式を含有しながらもどこかではそれが一方向に暴走しないように仕組まれてもいるわけである。それが構造論的にも機能論的にも偶然性と必然性の相関関係を表わしてもいる。すると言語においてもそういった事実、ある時には、抑制系に対してさえ謀反を起こし得るような自発性が局在的にも認められるようなシステムとして大脳の言語制御機能が、階層的秩序を形成しつつも、そこから逸脱していくようなもう一つのカテゴリーも常に用意しているわけである。マット・リドリー的認識を借りよう。身体が癌細胞の増殖という脱メチル化をきたしているのなら、メチル化を形成している抑制系のシステムとその階層性を用意している身体のホメオスタシスは、ドーキンス流のビークル化した合目的性が遺伝子の一時的な借り物としての我々の身体を規定しているのなら、癌というものは、身体機能を蝕むその実体とは別のもう一つのカテゴリーの可能性提示であると同時に、階層性の破壊でもあるのだ。すると、我々は次のように言語行為を司る大脳機能も考えることが出来る。
 我々の身体が付随意的に転写ミスや翻訳ミスをしながら、その都度小さいレヴェルではかなりの偶然性を構築しながら突然変異性を個体に、その発生ごとに与えているわけだが、それを癌細胞の増殖といった謀反にまで至らせることも、一方で常に用意している生理学的選択システムのようなものがあり、だがそれは基本的にはホメオスタシスに貢献した階層性といった生理学的秩序をも与えながら、最悪の選択肢さえも可能性としては保有している。しかし一端その細胞の謀反に翻弄されるとなすがままになり、最悪にはその個体の維持は別個体の維持によって補完され、全体としては種は維持されるような自然選択を維持し続ける。そしてそのような自然選択の原理は語彙を選択せしめる大脳の言語制御機能においても存在し、それが語性錯誤や失語症を時として選択肢としてある個体のコミュニケーションシステムに入り込ませるわけである。それはやはり社会機能維持に関与する秩序においては個体の階層性の破壊である。しかしその常に潜在的に可能性として用意されたもう一つのカテゴリーは個体に試練を与えもするが、それを克服させる再構築の可能性も与える。というのもそもそも語性錯誤や失語症さえも一つの選択肢として用意しているところの可能性の場は真に自由の名に値するものであり、おそらく自然選択のオリジナルな場であろう。つまりそれは障害がないということである。逆にある一つの常套的意志伝達可能性にのみ依拠することとは本質的には障害によって我々を我々にとって真に自由の可能性から遠ざけている、ということでもあるのである。
 ここで障害というものの正体を定義しておく必要性があるだろう。それは常套的制度への加担、盲目の信頼である。あるいは常套的価値、常套的倫理性への依拠である。
 しかし我々はそこに実際は拘泥しているのだ。そうしなければ生きてゆけないというオブセッションを持ち生活している生活人として我々を見据えることが出来る。