Monday, April 22, 2013

B論文 名詞と動詞 14、意味の相対性、恣意性

 言語活動において意味とは曰く相対的であること、恣意的でさえあることは、クワインの「論理的観点から」においても示されていた。例えば「(前略)辞書編纂者の問題を述べるために必要な同義性の概念が、同義的連関がきわめて明確であるために十分な長さをもつ記号列どうしだけについての同義性であるということは明らかである。(90ページより)」という箇所にもそのことは端的に示されている。この考え方は一面ではソシュールの考え方にも共通性があるし、パースから受け継がれた面もある。しかしこの意味というものを考えながら、カントが統一性と多様性という二元論を通して語る分析的判断と綜合的判断の概念規定可能性(「純粋理性批判」)において示した全体把握と部分着目の相互規定的なものとしての認識に関して、クワインはこのことを同書において「(前略)われわれは、反事実的条件法を黙認することには慣れている。同義性の場合には、成長する体系の専制的力、あるいは、はっきりとした客観的コントロールの僅少さは、より顕著である。(95ページより)」と示している。クワインは結果論的には分析的であることと総合的であることは確然的ではない、としている。
 クワインが言う反事実的条件法とは不可能性の指摘と考えてもよい。クワインが語るように実在物ではないものの概念否定すべきものは事実存在し得ているからこそ我々によって概念規定がなされている(ケンタウロスによって過去の多くの哲学者に示されたことをクワインはペガサスにおいて示している。<なにがあるかについて>)ということから不可能性を直観し得る。
 不可能性の認識とはある意味では直観力に頼ってなされている。一つの概念が実在物としては存在否定されても、概念規定をア・プリオリに我々が了解し得る限りで、我々はそれが実在物への認識として概念規定しているのではなく、カントも言っているような意味での想定可能性の範疇から想念的に生み出された仮構物であることが即座に了解される。茂木健一郎的に言えばクオリアとか仮想というようなものとも大いに関連がある。そして概念自体を否定することは無意味であると我々自身はすぐさま気付くのである。実在物としての否定は概念の否定とは重なり合わないのである。そしてその後でクワインが述べる同義性とは、ここで言う不可能性の認識同様カントの言う多様性と対比的に捉えられる統一性ではなく、異質性に着目する視点から捉えられた同質性に他ならない(ポール・リクールは「承認の行程」でレヴィナスが比較し得ないものの間の比較」を言及事例として扱っていると考えているが、この事とも関係があるものと思われる)。故にカントが言う多様性の方に近い。だからこそ統一的判断にある客観的コントロールが僅少になる、と彼は言うのである。異質性に着目する視点からの同質性とは言わば部分的な着目であり、それさえなければ異質と判断する視点からの瞬時の発見である。「似ている。」とか「同じだ。」と言うような。
 そして聴覚的な音韻判断システムであるところの言語活動において意味が前後関係や文自体の構成、脈絡といったものから仮に林檎なら林檎を語彙提示することで示される意味、あるいは林檎という概念自体の存在理由も変化し得る。この限りで言語活動において意味は相対的であり、意味を規定する文脈の存在自体が意味の恣意性を物語っているのである。
 カントが多様性の認識について触れていることについては「どんな人間にも、動いている物質の塊を、動いていない背景から切り離して、ひとつの単位として取り出し、それに特別の注意を払う傾向がある。(93ページより)」と述べ、また「理論的により重要な困難は、カッシーラーとウオーフが強調したように、言語とそれ以外の世界_少なくとも話者によってそう考えられた世界_とを原理的に切り離すことができないということである。言語における基本的な相違が、話者それ自体を、物と性質、時間と空間、元素、力、霊といったものに分節化する仕方における相違と一体となっている可能性は、十分にある。(92ページより)」とも述べている。前者の観点はゲシュタルト心理学からの流用であるし、ファイグルが「こころともの」で示した現象学派と論理実証主義派の共通性をも物語っている。後者に関してはクワインのこの論文をも引用素材として取り上げたストローソンが自著「個体と主語」においてクワイン流の、クワインの後輩の世代に当たるマッギンにも共通した神秘主義的なニュアンスを、彼独自の「特殊者」という固定指示性(その考え方はクリプキによって引き継がれ彼独自の解釈から可能性を開示された。)によって指摘している。ここには同一の観点における連綿とした意味づけ作用の連鎖が示されている。
 ゲシュタルト心理学からの引用と批判はサルトルと訣別してゆくこととなるメルロ・ポンティーにおいても捉えられている。ポンティーはクワインが自然科学的方法論と哲学的方法論の境界の曖昧さを指摘したような意味では、極めて類似した観点を持っていた。ポンティーの言う経験主義と主知主義の類似した難点の指摘は、ある意味では無意識のアリストテレス再考の可能性を示してもいる。クワインは自らを経験主義者と語るが、その歴史的な自己の位置づけから哲学者の特権であるとさえ考えられてきたデカルト的な心身二元論を打破するような意図によってポンティーが批判した経験主義とも一線を画す。
 カントは幾分アリストテレスを批判しながらも、カテゴリー認識というその原理的な内的メカニズムの措定には応用しているが、クワインやポンティーと大きく異なるのは、先述した形式主義的認識作用である。ここにおいてカントの(ある意味では無意識的に潜在していると言える)プラトニズム的な観点が仄見えてくる。つまりカントにあっては明らかに心的メカニズムが形式として認識されているのである。それはクワインが霊と呼んだもの(そう呼ぶしか仕様がなかった。)やマッギンが「意識の<神秘>は解明できるか」で示した不可知性を最高存在者から考えがちであることを指摘しながら(「純粋理性批判」)、一方ではそれをアポリアとか誤謬というよりは人間の本性として認識しながら、それでいて客観的に認識不能な対象として神を位置づける近代合理性も明示しているのである。つまりカントは後にクワインやマッギンが回避出来なかった不可知性への神秘的な捉え方を論理の上で可能な限り回避したかったのである。だがそのこととカントがそういった最高存在者とか無条件者という認識が不可避であることの認識とは全く切り離されている。その意味ではカントは実は極めて矛盾した論理を持ち、極めて資質的には懐疑主義(彼は伝統的な方法としては随時それを、ことのほか否定しているが)的でもあり皮肉屋である。この点においてはあくまで論理的整合性から攻めてゆくクワインの方が「受肉」という概念を使用したポンティー同様不可知性において最後まで取り残される非総括可能性を神秘主義的に吐露せざるを得なかったという風にも考えられる。意味は相対的に捉えれば論理的になるが、絶対的に捉えると非論理的になる。相対的な捉え方は「理解する」ことから引き出され、絶対的な捉え方は「信じる」ことから引き出されるのである。そういったことはカントの「経験的認識は、かかる理念なしに悟性の原則だけを使用する場合よりも、すぐれた成果を挙げ得るのである。」(「純粋理性批判」中、330ページより)という箇所にも言表されている。「かかる理念」こそ、「信じる」ことなのであり、現代哲学では久しく使用されなくなった「悟性」こそ、「理解する」ことへと直結し得るものである。
 カントのこういった心的メカニズムの形式的認識は言語学における自然言語と人工言語とか心理学が心的なメカニズムを理解する為にロボット工学を利用して入力と出力による判断マシーンを考えたりする(チューリングマシーンなどに代表される)ということに引き継がれる先駆的な資質である。この意味では一見論理的に攻め立てるかの如き様相のクワインの方に寧ろ心理学主義的な側面は感じられず、もっと記述主義的である。にもかかわらず現代心理学には批判的である。これは彼自身同書では決して否定しなかった行動主義の方法論にも共通したものがある。(行動主義に関してはサルトルも「存在と無」で指摘している。彼も一概にそれを否定してはいない。)カントは心的メカニズムを形式として認識するくらいには合理主義者であったものの、心的様相を記述することに関しては内観法心理学主義者であった、ということである。彼の論点が「~であるか~でないかのいずれかである。」という叙述に多くを依拠させていることからも一見真偽評定的であるかに見えるも、内観法的、ある意味では逡巡を積極的に肯定するような消極的な方法による「信じる」ことの無条件の獲得を出来る限り回避した、非論理性の積極的排除姿勢が見受けられる。(しかこのことは又極めて難しい問題を提起する。というのも内観心理と思弁的な思考能力との境界はどこに設定すべきであるか、ということに関しては極めて難しいからである。このことはまた別の機会に論じたい。)
 それは論理的な構築性を方法的に採用したクワインやマッギンのような総括主義ともまた一線を画すある種の矛盾性指摘主義とも呼ぶべき哲学的スタンスである。これはサルトルにも引き継がれている資質である。だからこそストローソンがカント解釈によって幾分カントの綜合作用に対して疑念を持ったことが、ストローソン自身の反プラトニズム的姿勢(これはフッサールにおいても顕著である。)において示されていることと関連性がある。というのもカントのこの非論理性の積極的排除、それは不可能性の指摘と異質性に着目する視点から捉えられた同質性によって可能となっているのだが、それはクワインやマッギンのような総括的論理構築性とは相反するある種の具体的指摘を好む現象主義を見出さざるを得ないのだが、そうかと言ってクリプキ的な真偽二値論理に収斂させるような意味での論理構築とも一線を画す一面では極めて濃厚な内観法的な矛盾を孕んだそれである。
 つまり逐一不可能性を指摘することは全体論的には矛盾も多くなり硬直した形式主義的になりはするものの、最後に残される最高存在者や無条件者を神秘的に捉えることだけは回避出来る。それに対して論理的構築を総括的に執り行うことは一面では無矛盾的に論理を纏め上げられるが、最後に残された不可知の砦に対しては神秘主義的な想念を払拭し得ないということである。
 纏めとして、今ここに列挙した幾人かの哲学者たちのことを考えてみよう。例えばカントとストローソンとマッギンを取り上げてみようか。彼らは時代を超えて共通の考え方を幾つか示している。カントにとってヒュームが「人間本性論」で示した考え方は大きなものであったし、ストローソンにとってウィトゲンシュタインやクワインたちの存在は大きな問題であった。それはクワインやクリプキにとってカルナップの存在が大きかったように、またマッギンにとっても今列挙した人たちは大きな存在であったことであろう。しかしそのような自らの拠って立つ論理的な出発点の違いがありながらも、哲学は中才敏郎の指摘する(「心と知識」)ようにある意味で哲学は進歩しないけれど科学と宗教との接点としての役割を持ちえるのなら(私はここに芸術も入れてみたいと思う。科学と芸術との接点、科学と宗教との接点という風に)、哲学者たちは時代を超え、異なった名詞によって表現された概念規定性に依拠しながらも同一の観点を模索してきている。カントの言う綜合作用という概念はフッサールの言う基体という概念に近かったり、ストローソンが言う特殊者はクワインの言う単称の同義性に近かったり、クリプキの言う固定指示子に近いと思われる。しかしそれらは同一の概念ではないということは実はそれらが使用される前後関係や文脈、あるいは哲学体系において存在し得る位置関係において相同ではないのなら、同一の事実関係を語っていてもその名辞が示す意味合いは微妙に異なってくるのである。だからこそ意味とはその意味が使用される手段や状況に応じて異なってくる、つまり相対的なものでしかない、とも言い得るのである。そしてその意味がある作用を及ぼすことを承知で哲学者という名の記述者がテクストに示した概念を使用することは哲学者当人にとっては恣意的な行為でしかないのである。カントが今日の哲学者であればエポケーとしたような神の存在に対するにも等しいような好むと好まざるとにかかわらず合理論的、目的論的な考え方から察することの出来る無意識の内に脳裏に抱く想念自体が客観的な哲学命題となっていることは、時代を超えて我々の脳裏にある新鮮さを抱かせるのであるなら、そのようなカントの哲学スタンスを否定しようと躍起になった後代の哲学者は寧ろその観点においてはカントが示したことを曖昧にした(だからと言って、彼らの示した全ての命題がカントよりも後退しているとは決して言えないが)とも言い得るのである。
 このような観点から考える時哲学には進歩がないという説を引き出しながら哲学の意味を探った中才敏郎的な認識においてある時代を遡った哲学者の考えの方が結果であり、その原因を彼にとっては後代の哲学者が探ったというような通常の進歩とは逆のパターンが(これは実は自然科学でもあることと思われるのだが)存在し得るということもここで指摘しておいてよかろう。そして哲学で問われたある命題の意味は概念規定性という呪縛を離れても次代の哲学者によって異なった概念規定の下に不死鳥のように蘇るということがあり得ることから、意味の相対性にはそれなりの時代を超えた普遍的な意義があると考えられるのである。

Tuesday, April 16, 2013

A論文 言語のメカニズム 28、自己防衛→攻撃→良心<理性>とオキシトシン、バソプレシン

 前章では記憶には二通りあることと、その記憶を促進すべく言語行為が活動されているのではないか、という仮説を採用しつつ、それを具体的に描出しながら、遺伝子、脳、身体という三位一体(リドレー)と不可分にそういった一切が執り行われているという事実に重ね合わせて論じた。言語行為が記憶(ことに意味に関して)を促進するのではないか?我々は言語行為が一方で他者<コミュニケーションの相手>に対する感情(信頼出来るか否かという)によって言語行為の持つ意味合いや語彙選択や表現様相をも変質させ、そのコミュニケーションの体勢の差異が、構え方の差異が、真意表出と偽装真意表出の相違を生み出し、我々はコミュニケーションを通した意思伝達後の他者観を自己観と同時に認識することが、そういった言語行為に常に付帯していることを日頃から承知であり、そういったことを前提に日々コミュニケーションを営み、またそうすることが人間的な行為であり、ひょっとしたら人間だけがそれを遂行出来るのではないか、と考えている。世界は広く(考えようによっては)我々の生活圏以外にも、地球の裏側でも我々と同じような同種の人間たちが我々と同じように生活し、悩み、喜び、日々自己と他者とのことで苦闘し、思惟し、反省し、行動していることを知っている。地球が丸かろうが、そうではなかろうが、何処か今我々がいるこことは全く別の離れた場所でも同じような状況や人間関係が育まれているのではなかろうか、という思念は人類の発症の時点から我々の祖先の脳裏に巣食っていたのではなかったろうか?
 他者を訝る。当然のことながら信頼性を獲得するには時間を要し、始めは構えを強固にし、自己防衛的偽装、つまり婉曲にものを言ったり、真意をいきなり表出することを憚り、社交儀礼的言辞を形式的に取り交わしたりしながら、他者の真意を探る。しかしその探りを入れた結果、その他者がそれ程の他意がなさそうだと察すると、他者認知にける感情的数値はマイナスからプラスへと転換され出す。その時、疑惑と懐疑、他者不信のスタンスがコミュニケーション上で度が過ぎたらその自己の防衛心が攻撃性へと行く様になるが、そういう風に完全転化しない内に良心が、社交辞令的形式性に依拠しない、もっと誠実な紳士的スタンスを招聘する。するとその感情的切り替えが他者認知における自己の日々のスタンスを反省させる。人というものは、もっと信用してもいいのではないか、と。だがそういった一切の感情的切り替えを執行するのは意外と、我々の身体生理学的なホルモンバランスとか神経経路的な発火、伝達物質上の事情によるのかも知れない。にもかかわらず我々はそういった生理的バランス、言わば、生の経済に準じた切り替えである事実を理性的レヴェルに転化し、それを哲学的に、人間学的な意義において解釈しようとする。意味付けである。つまり本能的行為をさえ意味ある行為として人間学的な合目的性に依拠させながら、理由とか意義とか、本来の生理学的事情とは一見相反する意味合いを付与するのである。
 しかし勿論それは言語を習得したのちのことである。一定量の自己感情を表現出来る能力は小学校に入学するまでに通常の先進国ではなされ得るが、その時期までにそういった習得をなすことによって自己と他者を区別し、共同体の存在を知る。今日の言語論は生得説と適応説に分極化して相互に批判しあっている観があるが、実際上この二つはそう容易には分離され得ない。というのも言語はどの国に、どの言語共同体に生まれて学習されるかという運命論的個別性を持ちながらも、どの国、どの地域共同体、宗教共同体、言語共同体においても、固有の文化コードを持ち、それを子孫へと伝えてゆくという一事においては普遍的である。ということは言語行為を身につけるという習得行為とは共同体において自己の生存に必要な最低限のルールとマナーを身につけて自己の社会的な位置を確定するという本能的な事柄であり、文法的な理解能力というような生得的な論理思考を除けば慣用的、慣習遵守的な行為である。だがその遵守が同一共同体の成員であることの証明となり、他者とコミュニケート出来ることを知るに至って習得力の手早さと習得内容の豊富さがじきに成員間の価値観であることを教えられるでもなく、誰からというわけでもなく教わる(自発的にルールの従うということである。自発的に受身になって教えて貰うことで身につけてゆこうというスタンスである。)ことから習得される。それはその家族、地域、国という単位において慣用されているという現在進行形的な現実に適応しているということである。自己という意識とは自己の成員としての当然の権利としてその家族、地域、国に一定の自己の位置を持っているということである。それは亡命者も祖国を失った者においても同様である。同胞、失われた祖国は文化コードであると同時に自己アイデンティティーにおける慣用的コードである。だからコミュニケーションの意義とか意味合いとかの認識は最初は半ば機械的に習得された事項の定着と慣用的ルールの実践の履行ののちのことである。しかし最初は家族構成とか兄弟とかの存在が自己の最低限の位置確認の素材となり、それが徐々に隣近所とかという風に拡張されてゆくわけである。恐らく飼い犬や飼い猫も最低限の家族認識は持つ、しかし隣近所という意識はその近所の猫同士ではあっても、恐らくその近所の更に隣、その向こうという風には理解出来ないのではないか?
 人間は小学校に上がる頃までには隣にもその隣にも共同体があることを誰に教えられるまでもなく想定し得る。本論において実際に目にしていないもの、あるかも知れないものを想像し、想定し、仮定すること(未来の不確定な事項の予測とかの)がある意味では生得的といってよい能力であるからである。向こうに山が見える、その向こうに行ったことがないにもかかわらず、その向こうの情景、風景を想像することが我々には出来る。それは教えられて身につけたわけでもない。この想像力は最低限のものは動物にも備わっている。が、かなり詳しくイメージ出来るか否かとなると、現在までのところ、人間が特殊であると言えそうである。しかしその詳しくイメージ出来るということが、何処かで言語習得能力及び、言語習得という事実にも依拠してはいないだろうか?
 実際にはあり得そうもないことさえも想像出来るという能力は記憶像と関係あるように思われる。記憶にある何らかのイメージが鮮明であればあるほど、実際上にはあり得ないいことさえもイメージすることが可能で、かつそういったイメージは実際にあったことを記憶したイメージの鮮明さと、記憶されたものの鮮明なる引き出し方、保存し方、再現前化し方と大いに関係がある。
 我々の祖先は類人猿から分岐したのは500~600万年前であるという定説は、しかしもっと遡って2000~3000万年前へと更に遡って考えられてきてもいる。これは実際上今まで考えられた以上に原生人類の祖を考える上でその基本的な進化論上の段階において何回かの進化的ステップを持ちながらも極めて長時間かけて現在のかたちへ落ち着いたという風に見なければかえって不自然である、という考えに基づいているのかも知れない。だが考えるにその段階における人類(2000~3000年前)は意外と、分岐したもう片方の類人猿とかけ離れてはいなかっただろう。しかもこれは私見だが、意外と直立二足歩行自体はかなり早く実現されていたのに、脳の容積自体の巨大化はかなり時間がかかったのではないか、とも思われる。今西錦司等も指摘していたように重力の問題によって脳収容の容積巨大化が実現されたとしたら、それまでに費やされた直立二足歩行オンリーの獲得状態から大脳思考能力までの目を見張る進化過程は、しかし実際上かなりの時間を要したとも思われる。だから本論の初頭で示した言語行為の進化プロセスは、あくまで500~600万年前に分岐したという見解においてのみ有効であり、それを更に遡って考えるとなると、その段階での人類の言語行為は、まず「敵が来たぞ。」というサインを他者(同一種としての意識を持った共同体成員間の)に送るという行為自体等は、かなり成員間秩序が形成されていてこその行為であるとも考えられるので、それ以前の共同体意識さえもが不分明であった段階も考慮に入れなければなるまい。となるとその段階での発話行為は発声行為に近く、もっと原始的なサイン、それはあのコンラート・ローレンツが「攻撃」で示した同一種内の縄張り意識と不可分な空間的、時間的縄張り意識(空間で既得権益者以外の侵入者を防ぐ方法と、時間的に摂食を配分し縄張りを一定の時間配分秩序のもとに同一種内で他者と自己の闘争を避けること)という同一種内での地域空間生活領域確保の段階がまずあって、そののちに共同体という組織だった共有性が生じたと考えた方が自然であろう。しかもその言語行為がただの縄張り意識誇示のサインであったことから、極めて偶然的にその発声行為自体をもっと別の目的に有用し得ないかという何らかの知恵ある成員による工夫が試され、徐々に他の成員においても引き継がれ、発声行為自体の意味付けがなされ、「自己と他者において情報を共有する為の方策として利用する」という行為が徐々に定着していったということが考えられる。
 よって最初から目的意識を持って情報交換の為に語彙が発達した、考えることには多少無理がある気がする。それほど初期人類は哲学者ではなかった、と捉えた方がより自然な歴史的認識ではなかろうか?やがてエクリチュールも発達しだす。それは記録という意味合いであったことだろう。あるいはパロール自体が自己と他者を識別したり、基本的な共同体内での行為性の認識において、事実を報告したり、他者を巻き込む自己の欲求を請願したり、依頼したりという行為が「事実や行為自体の記憶」と共同体内での秩序だった出来事の整理、つまり認識(社会的な)と化した時に我々の祖先は始めてコミュニケーションというものを発声を通してまがりなりにも獲得し得たのではないだろうか?その時には極自然に語彙は幾つか形成され、同時にエクリチュールによる銘記、記録という概念も定着し出す。勿論エクリチュールはパロールだけでは忘却されてしまう事項の記録、忘却から追憶への希求が生じさせたものであろうと思われる。
 逆にかなりの程度で同一種内での成員間の集団が成立しているのに、全く言語行為が発達していない状況を考えてみると、まず自己と他者の識別を何らかの識別表現なしに共同体自体を維持することはかなり困難であったであろう。名前がないということは一人称と二人称は可能であっても客観的な情報交換は不可能である。勿論当人を目の前にしてその他者を呼ぶ時と、三人称において呼ぶ呼び方が異なっていたということは極自然に考えられる。それが統一されてゆくにはもっと後の段階であったかも知れない。しかしまず他者とその場に居合わせない別の人間について語るという自己と他者による共通の話題の獲得はかなりコミュニケーションの歴史においては重要なステップだったのではなかろうか?ひょっとすると、そういった共通の話題の獲得という事の後初めて同一共同体内での生存をかけた<他者を危険から救うことで他者からも救って貰う>という観念が生じたと言っても過言でないかも知れない。というのもそういった段階では他者に偽の情報を送って他者を欺いたり、他者を陥れたりといった行為もそうしょっちゅうではなかったろうが、既に常套的行為となっていた可能性が充分に考えられるからだ。そういう性悪的行為の除去という必要性こそが我々の祖先にコミュニケーションの秩序と法意識つまり共同体の必要性を生じさせ、然る後に共同体内での同一共通語彙の決定等がなされていったにちがいない。(それ以前はもっと個的な交際によるその場その場での任意の語彙使用があったであろう。)
 纏めよう。言語というものは、最初は偶然的な発声行為であったことだろう。しかしそれが同一種間の意思伝達の自然発生から、必然的に事実記録(記憶的な定着の必要性)と、その為の目的意識の発生を促し、行為がある目的達成の為の手段として初めて定着する。しかもそれは自己と他者とを切り結ぶ<自己に関して他者に自己の存在を認識させ、その代償に他者を自己にとっての認識とする>自然発生的社会意識の発生と同時的な定着事実であったというわけである。言語という手段なしにコミュニケートすることは徐々に成員メンバーの増加をきたした社会機能維持にとっては不都合になっていったであろう。そういう必要性において発声が発話へと転化され、やがてそれを追うように発話内容の選択とそれに伴う語彙発達がもたらされる。語彙の発達はコミュニケーションの様相の複雑化、次いでコミュニケーション自体の意義を認識することとその多様化によってもたらされる。語彙がある程度定着すると今度は語彙選択がコミュニケーションの内容、様相、目的、意味の峻別を可能にしたであろう。語彙選択が即内容や目的、意味を決定し出すのである。偶然の必然化という作用とそれに伴う意識的作業が共に人類にとって言語行為の定着とそれに伴う文化コードの構築にとっての「偶然が生み出した必然的展開」であったと思われる。
 その発展過程にはきっと自己を他者に認識させたいという欲望が介在し、直立二足歩行が定着した頃から徐々にではあるが、漠然とした自己意識、他者認識はあって、それは言語行為定着過程ではまだ曖昧でカオスの純粋さを保持していたが、語彙定着の進行過程において徐々に原石が宝石にされてゆくように明確化していったと考えられる。自己を他者に認識させる、記憶させるという必要性(心理学における自我の定着とも考えられる。)が他者を知りたいという好奇と同時的であったと思われるが、自己意識と他者関心が記憶しておきたいという欲求を増幅させ、やがて記憶保存する能力と可能性を偶然的に獲得した発声行為に結びつけたというのが現時点での綜合した筆者の考える言語発生の真実である。語彙発明とそれに伴って必然的に加速させられていったであろう語彙発達がコミュニケーションの様相を一対一、一対多、多対一とかへと拡張させ、定着させ文法や意思伝達の際に於けるエチケットのようなものを形成させ、それこそブーバーやら吉本隆明のような論客たちが追求した論理の必然性も巣食わせていったにちがいない。兎に角いったんそういった便利な手法を手に入れたらあとは早かったであろう。どんどんと語彙は膨らみコミュニケーションの在り方は多様化を極めるのである。しかしその根底には自己意識というものが共同体成員間(まずは家族内での)での社会的自己認識と自己と他者を基本とするコミュニケーションの在り方に対する認識から不可避的に生じる内的メカニズムによって醸成されるという一事があった、と考えられる。
 自己意識というものはしかし、自己防衛→攻撃→良心といったプロセスにおいて他者を認識するその仕方の中に見出されていくものでもある。よってそういったプロセスのない、全くさらの自己意識というものが先験的にあるとも言い切れない。よって記憶もまた確固たる目的性を有しているとは言い切れない。それどころか我々は知覚というある種の体験を常時行ってはいるものの、その体験は現在体験として知覚されている知覚像を事後的に認識するかたちでしか認識し得ず、それを知覚している最中は体験であると認識することは出来ない。同時に時間的なそういった体験の移り変わりが事後的なものとしてではなく、現在の意識の持続、というよりも知覚意思の持続、それを意思と捉えるにはあまりにも自然な集中力と判断作用の噴出が現在を構成するわけだが、それらは他者認識とか、事物に対しては対象認識とかの、勿論事後的にそう呼ばれる態の知覚、判断作用の持続によって成立しているし、それらは時間の流れの中で記憶行為そのものをある意味では忘却を前提するような体勢で判断処理と概念的理解、情景印象を通した記憶像の形成を行っている。だから現体験的な知覚像と事後的な想起は一致しないし、それを矛盾と思う必要もない。事後的な想起という追憶的思念はあくまで記憶像の構成であると同時に記憶事項の必要性の確認である。その際に実際には知覚体験した筈なのに決して記憶像を構成出来ない、非印象的過去体験があったとしても、それは現在の自己の脳内で記憶想起、追憶を自然には促し得ない何かが顕在する証拠なのである。それは障害とも言い切れない。障害と言うと、それを追憶し得ないことが損失となり得るが、実際上追憶しない方が得策と脳内で判断する事項もまた数限りなくある、とも言えるのであるから。
 記憶とはだから、記憶すべきものとそうでないものとの瞬時における峻別判断のことでもあり、記憶すべきものを記憶するのに相応しい衣装で飾り立て、そうでないものを、それが仮に重要なものであってさえ、その重要性を無視することを厭わない瞬時の判断のことなのである。しかも記憶というものは時間の経過と共に徐々に変質したり、歪曲されたり(極端な場合には)兎に角何らかの形で変形してゆくことを前提に、つまりそのままの形では格納されず、正確な像として記憶することなど出来はしないという前提で、正確な像と言うものの記憶は忘却というある種の致し方ない、時間論的な欲求の中で雲散霧消する運命にあるのであるし、また我々は好むと好まざるとにかかわらずそういった運命を引き受け、それを承知で全ての瞬間を体験しているのである。
 記憶が時間的に映像内容や情景詳細を完全保存することの不可能性を承知で、現前するあらゆる事物や他者へと我々は対峙しているわけであるが、あらゆる言辞もまた、すべて克明に伝達することは不可能であるし、またその必要性もないということから、一見無限に思われる伝達事項の表現形態もまた状況と他者認識(この他者にとってこういう表現が望まれるという推測に忠実な)によって限定されたものとなり、やがて言辞は思念の不動点を迎え発せられる。その際言辞とはあらゆる表現可能性を一点に収斂させるわけだから、あらゆる可能性の捨象でもあり、つまり可能性の多様な展開の断念であり、可能性の展開の閉鎖である。
 フッサールの「経験と判断」(長谷川宏訳、中央公論社刊、188ページより)の言うように、「行為の意思があり、それとならんで知覚があるというのではなく、知覚される対象はそのまま意思的に生産されたものという性格をもつのである。」なら我々は無限に思われる現前したあらゆる知覚体験そのものも一切無限であるようでいて、見方や見たい仕方を変えれば今網膜映像に映じているものさえ、あらゆる角度<実際上の角度ではなく、視点の性格、例えば色、材質感、匂い、その事物に対する知識、好き嫌いといった主観的感情とかのあらゆる面からの洞察を可能とするという意味で>から見ることは可能だが、今は刻々と過ぎ去り、今と思ったその瞬間に見れる見方は限られているという有限性(生の経済の有限性)において我々は日々実は我々自身の知覚体験を持っているし、それはどういう風に見たいかによって刻々その体験性そのものの性格さえも随意、不随意にかかわらず自己の裁量で決定することによってあらゆる瞬間を乗り切っているのである。
 するとこう言えよう。我々は現前する事物や他者、それらと対峙し、我々自身の意思によって構成する現前化された知覚を通した現在体験は、事後的に誰かに語ることは可能だが、その際、あらゆる表現(その仕方そのものは無限であるところの)を言い尽くすことそのものが、生の経済の論理では不可能なので、それを他者性格に応じて臨機応変に何らかの表現形態と内容を選択し、他のあらゆる可能性を断念し、突き進んでいるというわけである。
 するとここでこう言えよう。表現も、伝達内容や伝達事項の選択同様選択されたもののみを残し、後は切り捨てるという多様なる可能性の発現の断念、つまり一つの事項に焦点化することで他を全て諦める決断である、ということが。
 だからこそ、他者の性格や真意を理解するという一つの判断とはあらゆる推測可能性において推測必要性の消滅を意味する。他者が善良であるとか、悪辣であるとかの判断はだから、そののちも交際を続けられるか否かという判断をさえ招聘する性格判断であり、それは他の可能性を並存させること自体の放棄であり、推測したり、他者性格の判断を持つことを憚らせる判断の躊躇と逡巡(まだその人間と交際して時間あまり経過していないので、その他者の正体が掴めないので致し方なく判断を保留している状態)が、やがてその必要性を除去され、判断という不動点に落着することを意味するのだ。
 他者信頼が醸成されていない内は、自己防衛→攻撃といった他者警戒心がテストステロンを多量に放出させるが、他者の真意に悪辣さのなさを認知し得た瞬間我々はその他者の善良さ(もっともただ善良であるだけでは信頼出来ないケースもあるし、そういった全体的な信頼獲得には、善良であることだけでは推し量れない様々の事項が複雑に絡まり合っているが、トータルに判断して交際することがメリットとなり得るという判断において善良とここでは言っている。)を認知するに吝かではないということで自己防衛の砦と警戒心のバリアを解いている。セロトニンが多量に放出され、脳内に爽快さを求める全的生理学的判断が我々を他者理解と他者信頼へと赴かせる。その際には他者性格判断による善良という認知がオキシトシン・レヴェルを押し上げる。記憶したくて、記憶する場合でも、そうでなくて自然と記憶されてゆく場合にも、オキシトシンは記憶を促進する。しかし他者を信頼出来るか否かを判断しようと判断留保と他者へ真意を伝達することを押し留める前段階のものとは、自己防衛の本能的な欲求であると同時に、不随意的に身体生理が招聘するところの自己に還元される利益を目安に、マット・リドレーの言葉(「やわらかな遺伝子」紀伊国屋書店刊、64ページより)を借りれば「報酬の意識を高める」バソプレシン(バソプレッシンとも言う。)の作用であろう。だから他者の善意という真意を読み取れた場合、他者信頼に値するという判断とそれを通した他者性格の認知が、記憶を促進し(その逆で、良い人だと思ったら、そうではなかった場合は徐々に記憶から除去されていくものである。もっとも悪辣さの度が過ぎると逆に印象的となり、拭い去ろうとしても記憶に残る場合もあるが)オキシトシンを招来するわけなのだ。ただオキシトシンがあまりにも放出されない状況、警戒心の持続が身体的にシグナルを発し、自我的領域に警戒心を解き、少しは他者を信頼せよと命じ、それで初めてセロトニンを脳内が受け入れ、オキシトシンをもたらすということもあり得るが。セロトニンに関してはリドレーの記述が詳しい。(「ゲノムが語る23の物語」紀伊国屋書店刊、215ページより)
 (前略)「冬」と「おやつがほしくなること」と「眠気」とのあいだには奇妙な結びつきがある。冬になって夕刻が早まると、午後遅くに無性に炭水化物のおやつが食べたくなる人がいる(きっとこれも遺伝的なマイノリティーなのだろうが、今のところこうした体質と相関ある遺伝子はみつかっていない)。そうした人は、冬になると眠たがるが、寝ても気分がすっきりしない。その原因は、冬の日の早い夕暮れに合わせて、脳がメラトニンという眠気を誘発するホルモンを作りはじめることにあるらしい。メラトニンはセロトニンから作られるので、セロトニンがメラトニンの生成に消費されると、セロトニンの濃度が低下する。セロトニン濃度をふたたび上昇させるための最も手っ取り早い手段は、脳に送り込むトリプトファンの量を増やすことだ。セロトニンはトリプトファンから作られるからである。脳に送り込むトリプトファンの量を増やすには、膵臓にインスリンを分泌させるのが手っ取り早い。というのも、インスリンのおかげでトリプトファンに似た化学物質が身体に吸収され、トリプトファンを脳まで運ぶ経路からそうした邪魔者が排除できるからだ。そして、インスリンを分泌させる最も手っ取り早い方法が、炭水化物のおやつを食べることなのである。
 おやつが食べたいとか、水を飲みたいという生理的な現象に理屈はない。ただ肉体がそう欲しているし、それ自体を倫理的にどうだこうだとは言えない。しかしそういったことは、必然的にあらゆる心理的決断を遂行させているのに、哲学者たちは総じてそれを認めたがらないできた、と言えよう。意思を、意志を生理的な事情と切り離して考えたがるのである。しかし実際現象学の哲学者たちがそう言うまで哲学界では真理とか理性をあまりにも身体現象と別個のものとして考え過ぎてきた。デカルトの心身二元論がいい意味でもあるいは悪い意味でも大きくのしかかっている(だからといってデカルトの全てを疑問である、とは思わないが)と言えよう。
 つまり言語でもそれは同じであろう。言語は言語活動という行為を抜きに論じるわけにはゆかないし、言語行為とは意志伝達行為である。それが偽装性によって真意をカモフラージュしていてさえ、そういう偽装的な真意の伝達という機能によって成立している。(もし仮に身体的には拒否したいのに、拒否出来ず、受容してい、かつそれを悟られないようにするとしたら、完璧な偽装であるが、生理的な事情からは悪条件であり、心身に悪い影響を及ぼすであろうから、あまり長くは続けられないだろう。よってこの種の偽装は巧くいったとしても必ず破綻する。)そして忘れてはならないのは、そういった言語行為も身体的行為であるのだから、生理的事情によっても言辞内容や表現性のスタンスも大きく左右される、ということである。脳は遺伝子を発現させ、遺伝子は脳を身体を通して形成させるべくプログラムされているし、身体は遺伝子の指令と脳の指令とを円滑に執り行わせ、自身でもその双方に働きかけている。身体はそれ自身の生理学的システムと行動とによって脳を活性化させ、そこで脳は遺伝子を活性化させながらも、基本的な枠組みは遺伝子の傾向に沿って指令する。その身体と行動の指令に対して脳も遺伝子も身体も選択し、脳や遺伝子の指令に対して身体や行動は選択する。指令と選択は二極分離の概念ではない。
 言語はコミュニケーションの相手に通じなければならず、必然的にextrovertな代物であり、introvertな代物ではない。顔が、それが作る表情が全くそうである。そこに言語行為が、意志伝達が語彙を選択し、あらゆる表現可能性を遮断し、一つ以外の全てを断念することで成立するのなら、それは完璧さをもって、あらゆる他者にあまねく理解されるような表現の不可能性の自覚をもって成立する、諦観的な行為である。語るべき他者はア・プリオリに選択されたコミュニケーション・パートナーなのだし、その選択された他者へ固有なものとしてのみあらゆる言辞は成立し、全ての他者にとって理解されるような言辞は存在しない。しかし意味とは生起するあらゆる事象や存在する事物や他者に対する感情であるなら、それを言い伝えるには非常に込み入った、いつまでたっても終了しないあらゆる表現を駆使してもし切れないものである。そこで意味は豊穣さを表現不可能として、一旦放棄し、概念的説明性と概念的理解への誘引に仮託される。概念的理解の外延的理解という自己責任においてその他者は彼の自己の中で自己からの言辞による概念を意味に置き換える。内部的には自己も他者も双方introvertな純粋な思念がカオスとして顕在し、だがコミュニケーションの際にはそれをextrovertなものに置換している。それが意味の完璧な説明とその伝達の不可能性の自覚であり、意味の側からの降参の意図を仮託として概念を通した意思疎通に委ねるスタンスの表明となり、それが発話というコミュニケーションの本質なのである。理解は一部されれば成功である、とした諦観がないところでは発話行為は成立しない。寧ろ全てを理解できる相手なら発話行為など更々必要ない。理解を醸成することが齟齬を徐々に埋めてゆくことが発話行為の連鎖の目的性と認識することも可能である。
 セロトニン、オキシトシン、バソプレシン、テストステロン、メラトニン等が織り成すホルモン生理学的身体の側の事情は我々の意思や意志が醸成してもいるが、意思そのものがそういったホルモン事情に依拠してもいるし、丁度脳、遺伝子、身体(的行動)の三者が決してヒエラルキー的な階層性で成立してはいない(部分的には相互に階層的であるが、全的に三者が階層性の枠組みに嵌め込まれているわけではない。)ように、意思もホルモンも細胞も神経(細胞)も相互に作用しあってどちらがどちらかの上に君臨するなどということはなく、相互に部分的に階層的であり、全的には階層性よりも相互依存性の枠組みにあると言ってよい。だがその部分的な階層性に対しては注視してゆく必要があろう。次章ではそこの部分にスポットライトを当ててみよう。

Friday, June 1, 2012

C論文 自信論 結論 自信とは何か?

 私は基本的に人生とは束の間の幻ではないかとさえ考えている。確固たる目的を持ってしても、そういうことというのは殆ど実現出来ないということをあまり若くはなくなっていったある日誰しも抱くことだろう。また仮に自分で最初立てた目標自体がかなりの度合いで実現したとしても、本当に自分の求めてきたものとはこういうことであったのかという風にも思うようになることが多いのではないか?
 私自身はクリスチャンではないので、ある意味では必ずしも自殺さえ絶対にしてはいけないことであるとまでは考えない。ある意味ではそういう選択肢さえ最後に残しておくことを悪いことであるとも思っていない。瀬戸内寂聴氏は「あの世この世」(玄侑宗久氏との対談、新潮文庫)において書けなくなった作家が自殺することを許してあげてもいいとさえ述べておられる。
 しかしそれでも尚、もしかしたら、もうこれ以上生きていくことに意味を見出せないとしても、その見出せなさとは一体何なのだろうか、と問うことを残しておくべきではないだろうか?それは何故こうも自分の人生が最後まで巧くいかなかったのかということをじっくりと考えてみること、それは勿論後悔をすることでさえいい。つまり人生というものをもう一度考え直してみるのだ、どういう風に自分の人生は無意味であったのか、と。
 人間はある意味では他者を撃墜したり、批判したり、バカにしたりすることだけが生き甲斐であるということそれ自体はあまり幸福であるとは私は思えないものの、何もする気も起きないだけならまだしも、生きていたくはない、とそう思うことよりはずっとましだと考えるのだ。
 しかし他者存在が自分を規定しているような生き方は、たとえ他人からよく思われることばかりを意識して生活するのであれ、今述べたように他人をこき下ろすことだけを生き甲斐にして生きるのであれ、そう変わりないとは言えると思う。
 つまり大成功をした人というのはそういう人なりに苦悩はあるだろうが、取り敢えずそういう人は他者全般から羨まれることであるから、除外したとしても、自殺したいと考えている人にはそういう風に成功者全般に対して羨ましいという気持ちにさえなれないだろうと思う。つまり生きることの価値自体があまりにも希薄で、しかも実際に生活すること自体が苦しいということだからだ。
 そういう意味ではやはり社会的成功とかそういうことというのは、一部の強い人にとって以外は、人生の苦悩とか幸福感情全般に渡る命題とは関係がないように少なくとも私には思えるのだ。
 人生が果たしてこれからずっと生きるのに値するのかという問いに意味が出てくるのは、ある意味ではこれまでずっと何をしても報われなかったとか、何をしても巧くいかなかったとか、寧ろこちらからはかなりの努力をしてきたのにもかかわらず、一向に外部からは反応がなかったとか、厭なのにずっと我慢してきた、もう我慢をすることには耐えられないとか、そういう気持ちでいること、つまり耐えられない状況から抜けきれないどころか益々そういう状況に閉じ込められているということを実感している時ではないだろうか?
 もし私たちが生きることに対して自信を完全に喪失しているのであるなら、いっそ一切の自信を取り戻すことを諦めた方がいいかも知れない。
 つまり元々自信などというものを持とうと思ったこと自体にとんでもない誤りがあったのかも知れないからである。
 だから逆に自信がないよりはあった方がいいということは誰しも当たり前のこととして分かっていたとしても、尚それがままならないのであれば、いっそ自信を持つことにしようなどと思わないことである。つまり何に対してであれ、一切に対して私たちはある程度まで実現し得たのであれば、それだけで満足である、と自信ではなく少しでも巧く行ったこと自体を満足することだけを覚えればいいのである。
 これが私は自信というものを実用的に考えるということにしたいと最初に言ったことなのである。大体において私たちの苦悩とか自信喪失とは、あまりにも多くを求め過ぎているというところから発生していることが多い。しかも羨む他者そのものの実の姿を知らずに、つまり嫉妬感情とか羨望感情だけで自分で作り上げた理想にその他者を当て嵌めて、その型に自分自身が嵌らな過ぎることに絶望しているだけのことなのである。自分の方が、自分が羨む人よりもずっと恵まれていることの方が多いということを少しでも発見し得た時案外我々は心を平静にすることが出来る、あるいは心はそうなれる。そして自信を取り戻すまで行かなくても、少なくとも他者に対して嫉妬したり、羨望を抱いたりすること自体を意味のあることではない、と思えるようになるのではないか?
 つまり意外と多くのこの世界における偉大な人と呼ばれる人による偉大な仕事とは、もうこれ以上生きている価値があるのか、とか、もう何もかも自分の思うようには行かないという風に諦めきってしまった時に生み出されたとも言えるからである。
 自信とは自信など持ってことに当たろうと思っても、所詮何もいいことはないのだ、だから一切自信を持つことが前提だなどと望まないようにしよう、という決意の下で初めてそれでも少しくらいなら自信とはあったらいいだろうな、と思えることである。
 だから自信過剰であるくらいなら最初から自信などない方がずっといい。慎重さとか謙虚さとかいったものは所詮自信過剰からは生れない。勿論慎重であり謙虚であること自体を誇ってもそれは駄目だろう。しかしやはり自信があった方がいい時というのはある。苦境に陥った時などがそうである。しかしその自信はどんなことがあっても、たとえ生きる価値を見失った時でさえ、その無意味について最後に考えてから自殺しても遅くはないのではないかと思える余裕のことなのである。だから逆にそれさえあれば、自殺しようとふと思った時にも思いとどまることが可能かも知れない。少なくともその問いの答えの片鱗だけでも見出せない内は自殺すまいと思うからである。
 この自信とは、こっぴどくとっちめられた時とか、ボロッ糞に貶された時などにさえ我々は何故そういう風に他者からされたのか、ということを考える余裕と言ってもいい。つまり或る意味ではそういう心の余裕さえあれば、一切が所詮一致などしないのだ、つまり自分の内部でこれこれこうである筈だ、ということと他者が思うこと自体が既にちぐはぐなのであるから、そういう一致自体を下手に期待しないように心がけるようになるからだ。
 私が最初から述べていた一致とは一致させようと求めることでもあるのだが、それは宗教家でさえ終ぞ確認出来はしない。しかし人は確かに他者からあなたと一致した、とそう言われたい気持ちの時もある。つまりそういう時には宗教家は職務として手助けしてくれるだろう。しかし所詮一人で生れてきて一人で死ぬ我々は一致を求めたくても一切一致しているかどうかを確かめることさえ出来ないし、またそれを諦めても尚また求めてしまうこと自体からも抜け出せないのである。だがそれさえ「そういうものだ」と思っていれば案外自分がどうして今自殺してみたいという気持ちになったのか、ということに対して何らかの返答であるようなものを見出せるかも知れないのだ。
 何故彼は私にあんな酷いことを言ったのだろうか、そういうことをもう一度よく考えてみる余裕さえあれば、自信などなくても何とか切り抜けていくことが出来るかも知れない。
 つまり相手もまた神様ではなくて只の人間である、ということを相手の立場になって考えてみると、意外と「そうか、あいつも只の人間だったのだ」と思って心は軽くなるものだ。相手の下す判断、相手が取る言動を絶対視しなければ、相手の立場になれる。尤も何かきついことを言われると私たちは一瞬固まってしまうから、なかなかそういう風には見られないし、すぐそういう気持ちになることは無理かも知れない。
 だから少し時間を置いてそう考えてみるのである。そうしたら、自信を持つのではなく、自信などなくても、冷静に全てをもう一度ゆっくりと考え直してみることさえ出来るのであれば、取り敢えず明日までは何とかなるだろう、という風になれるのではないだろうか?
 つまり自信とは「あった方がいいことは分かっているが、なくてもそれ自体、それだからと言って絶望的であるわけではないもの」と考えることによって、あるいはあまり脅迫観念的に持たなければ、とそう思えば少しくらいなら持てるものではないだろうか?
 つまり絶対的自信自体さえ持つことを心がけなければいいということである。極めつけの自信など大半の人が持っていない。だからそういうものを持とうと目指すこと自体は自分を追い詰める。絶対的自信、それは確かに理想ではあるだろう。
 しかし翻って考えると現実には先ほども言ったように自信過剰であることから来る奢りとか、堕落ということは往々にして社会には蔓延しているではないか!
 だからいっそ自信などなくてもいいのだ。これをこうしてああやればいいのではないかという判断だけを失わないようにすればそれいいのだ。そういう風に全てを対処していくのであれば、今現在自分が一切泊まる場所さえない場合、誰に相談することが一番いいかということを冷静に考えることが出来る。一円も財布にないので、交番とか警察署とかに駆け込むことさえ出来ないのであれば、叫ぶしかない、そして誰かに助けてくれないかと縋ったっていい。それだけやってみて、それでも駄目な時に自殺することを考えたっていい。要するに追い詰められた時に考える余裕を持つこと自体は、はっきり言って自信を持つことより重要である。それさえ出来れば自信を持つことの余裕も出て来るというものだ。
 つまり自信などというものは、それが全くなくてさえ別段困るものではないのだ。だから寧ろ自信がないことを「それがどうした」という気構えでいさえすれば、あるいは少しくらいならあった方がいいかも知れない、少しだけ持ってみようかという気持ちになれるようなものなのだ。だから却って最初から確固としたものしてならない方がいいのだ。
 そもそも最初の節でも述べたが、人間などというものは所詮他者と百パーセント理解などし合えるものではないのだ。だからこそ言葉を必要としたのだ。つまり元々理解など出来はしないということさえ理解しておれば、その中ででも少なくとも何かを言葉で伝え合う中で一言でも通じ合うことがあるということがどこか限りなく価値に見えては来ないだろうか?
 つまりそれが掃き溜めの鶴のように思えないだろうか?それが一つの価値ある実用なのである。そうである。確かに我々は他者と絶対的と言っていいほど百パーセント伝え合うことなど出来はしないし、また理解など夢のまた夢である。でもだからこそその中でも一言でも何か意志が相手に通じればそれはある意味では儲け物であるとは言えないだろうか?
 またこうも考えられる。どんなに理解し合えないとは言え、逆に人間とはどんなに違っても、例えば電車の中で隣に座っている人と自分を見比べてみても極端に違った生き物ではないだろう。つまりどんなに背が高くったって、せいぜい二メートルくらいであるし、どんなに背が低くても大人であれば一メートルくらいである。三十センチしかない大人など世界中探しても恐らくいないだろうし、三メートルを超える巨人もそうは恐らくいないだろう。つまりそれだけ与えられた条件はそう違わないのである。従って仮に自分の考えることを百パーセント理解し得ない人間がいて、しかもあなたと決して意思疎通し合えないようなタイプの人がいたとしても、その人は恐らくきちんと食事するだろうし、便もするだろうし、夜は寝るだろう。つまり私が言いたいのは、それくらい個々の差異などちっぽけなものである、ということである。にもかかわらず私たちはそのちっぽけなことに年がら年中関わってしまって、そこからなかなか抜け出すことが出来ないのである。
 恐らく私はあなたと実際にお会いして話してもあなたの苦悩をやはり百パーセントなど理解し得ない、いや三十パーセントさえ理解し得ないかも知れない。しかし少なくともあなたが日本語を話すのであれば私はその意味くらいなら把握出来るだろう。つまりそのように言葉が通じるということだけでもある意味では私とあなたは救われているとは言えないだろうか?
 つまり私たちとは、一方ではみみっちいことに関わり遭ってしまって、それも私たちの頭の中だけでのことなのに、それをかなり大きなことにしてしまって、自分勝手に悩んでしまっているそういう生き物なのである。勿論悩むことそれ自体は決して悪いことではない。しかし悩みを増幅させてもそれが決して自分だけが追い詰められているわけではないのだ、ということをけろっと忘れてしまうからいけないのであって、それさえ忘れなければ案外そのちっぽけな頭でちっぽけなことだけを悩むそういう存在者の集まりこそが社会であると知れば、そして一言だけでも通じ合えるということを神の助けだと思えば、今自殺しようとしているあなたにとっても何かの気持ちの救いにならないであろうか?
 つまり最初から自信もそうだし、他人から得られることそのものを一切過大に期待しないこと、それだけが我々が自信を持つことの出来る心の余裕を見出せる方法なのである。そうである。自信などなくてもいい。最初から相手に、他人に、社会に求め過ぎなければ案外この世界とは生きやすい場所なのである。しかしにもかかわらず、そのこと、つまり極めて当たり前であるそのことを案外私たちは忘れやすいのである。私たちはそういう当たり前のことをついけろりと忘れてしまうそういう生き物なのである。
 私自身はキャビアとかフォアグラを毎日食べることなど出来はしない、そういう貧乏人である。しかしキャビアが食べられなくてもフォアグラが食べられなくても、大根を食べることは出来るし、人参やほうれん草や茄子やジャガイモであるなら、毎日でも食べようと思えば食べられる。そのこと自体はかなり幸福なことではないだろうか?
 私自身はそういったものが食べられれば、仮に少しくらい贅沢なものが生涯口に入らないような人生でもそんなに不足はない。いや積極的に高級食材とかが一切食べられなくなることよりは生涯今私が挙げた野菜が食べられなくなることの方がずっと辛いし、どちらかを選べと言われれば、野菜を選ぶ。生涯キャビアやフォアグラが食べられないよりは、生涯日頃当たり前に食べられるものが食べられなくなる方がずっと辛い。
 つまり日頃当たり前に手に入るものをこそ本当は一番感謝しなければいけないものなのだ。しかし我々は案外そういう風にはいつも思わない。もっと高級なものとか、滅多に手に入らないものの方に常に首っ丈である。夢中である。しかしそれは間違っている。
 私はまず住む場所がある。だからそれだけでも神に感謝したい気持ちでいようと思う。つまり当たり前のこと自体が滞りなく運んでいる生活であるなら、それだけでかなり幸福であるとは言えないだろうか?しかし我々はそれをいつの間かころっと忘れてしまうのである。だから自信などというものは、なくても困らないけれど、あわよくばあるのだとしたら何か役に立つこともあるものだ、くらいに割り切って腹を括って、俺は一切の自信などない、だけれどその自信のなさを別に卑屈に思う必要などないと思って生きていく、ということが案外重要なのである。
 少し観点を変えて考えてみよう。私は常々テレビなどでつい最近起きた猟奇的殺人事件とか、最近ではそれこそ車で練炭とかで自殺したようになっていた人を実は結婚詐欺の女性が殺したのではないかというような、要するにワイドショーネタ的な話題を騒々しく報道しているのだが、何故そんなに自分とは関係のない事柄に皆熱中しているのだろうか、と思い続けてきた。
 例えば自分の生活に直接関わることと、そういう人物が何か困った事件に巻き込まれでもしたのなら、我々は確かに真剣になるだろう。しかし大半がそうではない殆どは一切自分の生活には直接関わりのないニュース内容に私たちは意外と多くの時間を掛かりきりになる、釘付けになっている。しかしこれはよく考えてみると、かなり珍妙な事態ではないだろうか?
 そんなにしてまでも我々は自分とは関わりのない多くの情報を摂取する必要があるのだろうか?しかしそうしているということには何らかの理由があるのだろう、そう私は思うのである。そこで考えてみる。
 私たちは本当は、四六時中一番自分のことが気がかりなのである。しかし繰り返し述べてきたが、自分のことというのは大半誰に告げても百パーセントは理解され得ない。そこで私たちは最低限度だけでも相互に通じ合えるためのものとして言語を利用している。勿論言語の発祥とかそういうことはそういう風な目的意識から成立していったのではないだろう。しかし恐らく言語活動が盛んになっていったという人類史的な意味での根拠自体は、私が考えているように、一切他者とは何を考えているのか分からないということ自体が、恐らく誰しもそうなのではないか、という目測を私たちが持ったということが言語活動をするように私たちに仕向けた、そしてその分からないなりに少しでも通じ合うものを求めて言語活動をしてきたのだというところにあると思う。
 それはある意味では自分自身に直接関わることを一旦棚上げにすることに他ならない。そこで私たちにとって本当は自分自身にしか分からないことが一番大切であるにもかかわらず、それは誰にとってもそうなのだから、いっそ二番目に重要な、分からないなりに分かろうとするための言語活動自体を盛り上げるために言語活動自体を活性化させるようなものをいつも探すようになった。そこでテレビが発明されると、そういった好奇心を搔き立てるような内容の事件を多くテレビで放映するようになっていったのだ。
 つまりある意味ではそれは自分にとって一番重要なことばかりを考えているとやはり落ち込むこともあるから、それを未然に抑止するために、付け焼刃的に、一瞬でも自分にとって最大級に切実なことを忘れるために設けた忘却方法だったのではないか、とそう考えたのだ。それは要するに一致することに対する渇望と、完全一致ということの幻想の前でたじろがざるを得ない我々の見出した気休めだったのである。
 何故テレビとか新聞で大半が自分自身と関わりのないことをも含めて確認したり、会社などで相互に話題にしたり、昼食に訪れた定食店のテレビに映っているニュースやヴァラエティーの報道内容に関心を注ぐのか?それは、端的に自分自身の本当に切実なことを思いあぐねるということの内に必ず出て来る自分自身の死ということがあるのだが、それらに対して思いを馳せるということは率直に言って不安をより掻き立てる、だからこそその不安を常に一時的にでも除去するために私たちは自分自身とは一切関わりのない事柄に関心を注ぐことを無意識に選んでいるのである。勿論皆今私がこのように述べているように言葉では説明出来ないかも知れないが、このことは漠然とした形としては全ての人が心底では感じ取っていることではないだろうか?つまりだからこそ私たちは映画を観に行ったり、新聞で海外のニュースを読んだり、ワイドショーで自分とは一切関わりのない話題に釘付けになって熱中するのである。
 勿論全てのニュースにおいて報道されることは、世界経済であれ、何らかの殺傷事件であれ、間接的には私たちの生活に影響を与えている。しかし大半のニュースとは、それが報じられない限りそれほど影響を与えないことである。しかしたとえ自分自身にとっては百あるニュースの内の一つだけ自分と大いに関わりがあるニュースがあったとしたなら、それは私以外の全ての人にとってそうなのだから、必然的に全ての人にとって少しずつ関わりのあるニュースを報じるとしたなら、今のようにあらゆることを報道しなくてはならなくなるのである。そしてそれはあくまでテレビに放映されることとか新聞で報じられることであるが、社会そのものがそういう場所であるわけである。
 社会とはそういう風に自分とは直接関わりのないもので溢れている。全ての社会に整備されたものとか、完備されたものと関わる人員など一人もいない。と言うことはある意味では私たちは色々ある中から自分にとって関係があることだけをチョイスして、後は全部自分以外の誰かにとって関係のあることを見過ごし、遣り過ごして生活している、ということになる。つまりそれが社会生活ということなのだ。
 しかし最初は全く自分に無関係な事物とか事柄にしても、いつ何時自分と深く関わることにならないとも限らない。そこで人間とは常に自分と直接関わりのないことへと関心を積極的に注ぎ、勉強をしたり、本を読んだりして知識を得たりするわけである。
 つまりいざと言う時に何か役に立つことがあった時にこそ、備えあれば憂いなしの謂いの通り私たちは意外と大きな自信を得るものである。つまりそのような自信とは何かこれからしようとしている時に持つ自信ではない。つまり新しいことをもしするのであれば、誰しも不安はつき物である。しかしそれをしても、やはり新しいことであるから、失敗することもあるだろう。そういう時に対処することがてきぱきと出来るのであれば、そういう対処能力を持っていたということ自体はかなり自信がつくことに繋がるのではないだろうか?
 それがないにしても格別困らないけれども、有れば非常に役に立つこととして自信というものを定義する上で極めて格好の例ではないだろうか?そういう失敗してしまった時にも、特に普段から仮に勉強したりしていない人でも何とか対処出来るかも知れない。しかしもし普段から何かしていてそれがそういう時にもし役に立った場合、かなり自信がつくという意味では瓢箪から駒であろう。またこうも言える。もし一切普段から何もしていなかったのに巧く失敗自体に対処し得たとしたなら、我々はもっと自信を得ることになるのではないだろうか? つまりそういういざという時に如何に冷静に対処し得るかというところに案外自信というものの本質が潜んでいるのではないだろうか?  
 例えば私が昼食を自分で作るのが面倒臭くて、コンビニでおにぎりとかサンドウィッチを買ったり、夕飯時には何か野菜を使って食事しようとして、色々な野菜を買ってきたりしたら、あるいは魚でも肉でもついでに買ったのなら、それだけで恐らく数カ国の産業と関わりがあることになるだろう。つまり食材からパックされたビニールやそれに商品を包むことまで考えるとかなり色々な日本以外の国とも関わりがあることになるだろうから。しかしそれらは端的にそういうものだ、という私たちの認識があるからであり、直接私自身がそれらの国と関わっているわけではない。
 それは言ってみれば、以前私の住む町にかなり酷い砂嵐があったのだが、それは確かに中国から吹いてきた黄砂によるものである、とそう知識的に理解出来るからだが、だからと言って私自身がその砂嵐に見舞われたことによって中国と関わっているという風には言えない。つまり私たちは全て情報によってあらゆる自分とはあまり関係のないものとの関わりの中から理解しようとしている、それだけのことなのである。
 つまりそういった現代生活の実態に対する理解自体を既にマスコミとかマスメディアによる情報的知識において私たちは成り立たせている。だから知らなくてもいいことを実はかなり一杯知っていて、逆に本当は理解していなければいけないことを案外何も知らないというのが現代人なのである。しかしその知らなくていいことの方を多くの人たちが関心を注ぎ、それを話題にしているそういう生活の仕方自体に我々は慣れっこになってしまっているのだ。だから自信というものをもし価値的に捉えるべきであるとするなら、それは知っていても仕方がないことを積極的に知らないままでいるように心がけ、自分にとって知るべきことだけに関心を注ぐということを他者に対しても意思表示し得るということかも知れない。つまりそういう態度で生活出来れば、新しいことをする際に自己を奮い立たせるために必要だと思っていて実は不必要な自己内のブラッフィングである自信を持つ必要がないということに気づくのではないだろうか?
 もし今私が言ったようなタイプの心がけを多くの人が取っていれば、自信を持つことが出来ないで悩んだり、それを失うと自殺しようかなどと思ったりするような短絡した選択は今よりは少なくなるかも知れない。
 いざと言う時にうろたえないで済む方法とは、いざという時のことをいつも考えていることから生み出されるわけではない。違うのである。寧ろ一切そういうことを考えないでいるということなのだ。ドイツ人は18歳になったら全員が保険に入ると言うが、実は私はそれが一見日本人に向いているように一般では思われるが本当は一番合っていないのではないか、と考えている。スペイン人のように今日は今日のことだけを考えるのでいいのではないか?
 勿論今言ったことは私にとっての主観であるに過ぎない。
 只私なりの見解を示すと、要するに何かに備えるという心的作用には意外とそれをしていさえすれば後は大丈夫だという安心量を得るということがあるので、逆にいざという時その遭遇した事態を新鮮に捉えられなくなるのである。しかしそういうことを一切考えずに何もかも進めていると逆に、何か不測の事態に見舞われた時に「そうか、こういうこともあるのか」と開き直って考えることが出来るのだ。つまりいざという時に備えている、あるいは備え過ぎているのに案外それが役に立たなかった時というのは失望感が大きい。従って寧ろ何が来てもドンと来いという気持ちでいた方が逆に「何も備えていないでいたのに、そこまで対処出来た」という自信が持てるのである。つまり全てがジャズ演奏家のようにアドリブであり、インプロヴィゼーションで事に当たるということである。
 しかしそういう風に一切予定とか備えとは別のその時なりの適切な判断をするということは、ある意味では極めて小さな日頃の努力を怠らない、そうでなければ閃いたりすること(脳科学ではそういう閃き作用は アハ!体験 以外にもセレンディピティーなどと言う)などないと思うかも知れないが、意外や意外、つまり何が起きても悠然と構えているということが大事だ、と私は思うのである。これこそが本当の自信、空元気とか対他者的な虚勢ではない自信なのである。そしてそういった自信はあまり多くを虚栄において望まないということに尽きる。
 だからこそ私はなくても困らないけれども、あったらもっと便利であるという実用的な意味で自信というものを設定しておれば、意外と役に立つし、その自信とは何か不測の事態が発生した時に只うろたえるのではなくて、悠然としている心の余裕ということである。
 因みに私自身は全くそういうタイプではない。いつも何か追い立てられているようだし、正直こういう本当の自信を得たことがない。だからこそ私にはそれが価値に思えるのである。そして私は本当に死んだ方がいい時のために、それまでは兎に角自殺することだけはとっておきたいのである。そして死にたいと思っても、そうかこういう不測の事態はあり得る、そして自分はこういう切羽詰った状況を何らかの形で招き寄せてしまったのだ、とそう自覚すれば、どうすればもっといい状況を招き寄せることが出来たのか、と自己に問い掛けられる。するとそうだ、こういう方法もあったかも知れない、とそう思う。すると次はもう一度だけこういう方法でしてみよう、と思い立つのである。
 しかしそれでもやはり今回のように駄目かも知れない。しかし次のトライアルをするまで取り敢えず絶望して生きるのをやめないでいることくらいなら出来る。そして次の結果が出されるまで私はどうしたらもっと巧くいくのだろう、と少なくとも考えることだけは出来るのである。それが出来るということに感謝さえすれば、私は生きていることの意味を束の間だけでも実感することが出来る気がするのである。
 つまりとどのつまり人生などというものは、何をしても巧くいかない、元々そういうものなのである。巧く行き過ぎているということ自体が逆に不幸を招き寄せることも多いのが人生である。だから他人を羨むこと自体が実は極めて無意味な心理なのである。でもそうなってしまう、私もそうだ。ならいっそ、一切が巧く円滑に進まない酷い状況をいつもそういうことが起きても大丈夫なように備えるのではなく、要するにそういう事態自体を想像して楽しむのである。そうすれば案外退屈な日常に考えることという習慣を根付かせることが可能となる。
 これは自信がなくてもいいが、あった方がもっといいという気持ちでいることを正当化するのではないだろうか?何故なら自信とはそういう風に悠然と最悪な状況でさえ楽しむ心の余裕から自然と沸き起こってくるものだからである。それは求め過ぎないことによって逆に得る諦めの境地を楽しむということに他ならない。
 自信とはそういう境地が習慣化されることを見せかけではない本当の理想であると知るために有効で実用的な概念である。
 私自身は殆ど確固とした自信などない。しかし自信などなくてもいいのだ、とか自信がないことを誇りにもしていないが、少なくとも何故あまり自信が持てないのか、何故ある時には自信が持てるような気がするのかということ自体を問うことにおいてなら生きていく自信を持てるような気がする。  自信論 <自殺しようかと考えているあなたへ> は今回で終わりです。又C論文を別のもので補充致します。(Michael Kawaguchi)

Tuesday, May 29, 2012

B論文 名詞と動詞 言語の無限連鎖

 不可知領域を自然科学では解明し得ないものとして認識し、そこから先は哲学に委ねるというスタンスは自然科学の方法的限界を自然科学が自ら認めた形での自然科学に於ける決定事項であるが、それはヒュームによって示された不可知論が後にカントによっても推進された事実からも伺える自然科学の外延的な実像でもあると同時に、それらはでは哲学では解明され得るのか、というと哲学もまたただ単に不可知を不可知として認識してゆくより他はないと結論するしか仕様がないのである(自然哲学出自の自然科学はある部分では極度にストイックであるが、そのストイシズムは哲学のそれとは又違う)。カントが形式主義者であるのはあくまで彼が「純粋理性批判」によってその極序説に於いて示したカテゴリー認識とその認識表によってである。寧ろ彼は現象論者である要素の方がより強いし、その現象主義論者としての本質に於いてフッサールが後に現象学を推進することとなったのである。カントのどういう部分が現象主義論者であるかと言えば、それは端的に言って彼の示す「物自体」という認識からであることは言うまでもない。しかしそれはやはりヒュームから引き継いだ部分のカントの本質であり、彼の全体ではない。カントの「物自体」とは決して現象的に我々によって覚知されるものとは異なり断絶をきたしているということを示すことを通して不可知論に到達したのはヒュームへの恩返しであったとも受け取れる。
 カントがある意味では物自体によってその現象的な認知以外の何物も我々がなし得ないという虚無感を独自のカテゴリー認識と綜合作用によって抉ったとするなら、現象の背後に本質を認めないという意味での唯現象主義というなら、サルトルこそ最もここでその任に相応しい人物であった、と言うべきであろう。そのサルトルが最も顕著に思想的なバックボーンとしたのがフッサールであったことは言うまでもないが、当のフッサールはスペチエスという概念を自身の初期論文「論理学研究」に於いて多用していることの背後にはダーウィニズムという観念が自然科学と論理学の狭間で大きな位置を占めていることを時代論的に直感し得たからである。そしてそのダーウィン当人よりも遥かに早く、種という概念を披瀝し、その分類学的な見地から総合的視野と分析的視野を透徹した眼差しで見つめていたのがカントであった。カントは論理主義的な認識の持主であったが、同時に形式的な認識もあったし、「物自体」を概念規定する様な方法的な論理思考には明らかに直観主義的な認識も持ち合わせていた。フッサールとて、直観主義的な視野をジェームスなどから咀嚼していたことは確かでありプラグマティズムと現象学の接点も意外とここら辺にあるのではないか、と思われる。しかもフッサールが極初期には数学を自身の専門分野としていた事実は安易な直観主義ではない確固たる論証性に裏打ちされた姿勢であるに違いないし、ある思想が成立する場とは極めて多重的で矛盾に満ちていることを、それこそ直観せずにはおれない。この様な思考的、思想的な連鎖が相互による認識作用の展開に於いて為される直観力、記憶整理力によって促進されていることと、その際に払われる秩序立った整理の仕方の様相が論的な展開と論的な様相を決するということを少なくともジェームスから学んでいた筈である。だがジェームスその当人にその様に我々が抱く様な認識があって、彼の論理を構築したのかと言えばそれは違うかも知れない、とも言い得るのである。ここには事後的に言語によって為された論理的な思想プロセスが次代の俊英たちによって巧みにその本質を独自の解釈によって上塗りされた上で継承される一種の無限連鎖を感じさせずにはおれない。というのもあるテクストに対してなされた発言とは必要以上にテクストに対する主観という風に解釈されやすい、ということがあるからである。
 実際にその発言はその様な主観主義的にその発言をした人物によってなされたものではなかったかも知れないが(あるいはそうであったかも知れないが)、にもかかわらず一方的にその様に深読みされて伝達されれば、我々はその深読みを正当なる解釈としがちである。それはそれを述べた者の社会的信用度に比例してそうである。やがて最初に発せられた言語の独自の多義的な意味は一義的な意味へと意図的に収斂され、目的論的な発言として処理され始める。偶然的な発言がこの時点で必然化され、過去の目的論的な事実として認定され始めるのである。ここに歴史は作られる(歴史とは無意識的に恣意的なものだ)。
 この様に言語によって為された発言自体がその自体的な意味性から離脱し、その発せられた偶然性が必然性へと置換され、やがて一義的な意味性へと収斂してゆく様な多義性の形骸化が我々が目にする過去化の最も顕著な例である。言語活動はこの様な過去化の波によって常に侵食されながら偶然の必然化作用によって規定を受けながら次代へと受け渡されるのである。そこにはある発言を発した人物の主観が言語的な概念化作用へと置換され、個的意味から普遍的意味へと置換されるある種の欺瞞、背進といったものが介在していることもまた事実である、ということである。人は真意伝達の完遂を幾分誤魔化しながら真意を多少の齟齬と曲解を経て伝達されることをア・プリオリに承知して意思疎通を図っているとも言えるのである。完全に自己が得た認識と同様の認識を他者が持ち得る為には他者が自己のクローンででもない限り不可能であることを我々は知っている(クローンでさえ完璧に相同の理解が得られるとは限らない)。だからこそ自己以外の他者が自己の認識とは幾分別個の認識を持って自己を理解することを予め承知していながらも、同種の理解の範疇で了解しておこうと思い厳密さを一般化された共通性へと常に置換しているのである。この様なある種の自己欺瞞、背進は言語活動という概念化作用にはつき物のことなのである。 その様な考え方を基本に空間の有限性の中で生を全うしようとするのが人間であるという前章の考え方を基本に、なぜその様な形で我々が言語による無限の連鎖をなすのであろうか、ということを考えてみよう。
 まず言語活動は人間が絶滅でもしない限り人間社会では無限に連鎖されてゆくということである。ある社会を例にとれば、その社会は日々刻々と異なった成員組織となっている。赤ん坊が産まれ、老人が死ぬ。そうやって成員の顔ぶれは日々刻々と変化している。そしてそうやって育まれ続ける言語体系は物凄く緩やかにではあるが、徐々に変化し続けている。それはどの様な言語に於いても何の例外もない。ただその様な変化のどの瞬間にでも成員がある語彙を使用する際にその語彙が指示する概念とは各成員が使用する際に心的に描くその語彙が指示する対象物(事)についての最大公約数的な重なりである。勿論その重なりの形状は徐々に変化してゆく。例えば林檎はかつて赤いものが主流で、それが最近になって徐々に黄色いものが主流となっているということが生物学的な傾向であった、としよう。すると林檎はかつて子供であり今は大人となっている成員たちによって赤いものであるという心的様相が定着していたとしても今後成長してゆく若者たちの世代にとって黄色いものとして徐々に変化して定着されてゆくであろう。そういった意味で語彙を巡るその語彙習得に纏わる個的体験性は徐々に成員メンバーの交代と共に変化してゆくことは恒常的な出来事である。しかしその変化のどの瞬間をとっても最大公約数的な心的描出の重なりがその瞬間での語彙の基本的な概念、つまり公共的な意味である。だからどの様な個的な体験性によって個的意味を成員個人の心中で語彙習得の記憶があろうとも、一般的な意味こそが主流となってその瞬間に於ける林檎なら林檎の定義を形成しているのだ。クワインの流儀では、「意味は名指しと同一視されてはならない」のだし、「意味とは、指示の対象から切り離されて語と結び付けられた本質のことである。」(「論理的観点から」33~34ページより)とする時、ここでクワインが言う対象とはカント的な物自体である。物自体はそれ固有の事情から我々によって認識される様な性質のものである以外の不可知な性質を常に有しているが、それは我々にとってはブラックボックスである。仮にその様なブラックボックスの一部が更に解明されても依然不可知領域は残される。そこら辺はカントの「純粋理性批判」からも既に口を酸っぱくするほど問われている。だが、その不可知性に取り巻かれながらも、極一般的な理解というものは常に存在する。それがその瞬間に於ける最大公約数的な対象的な事物への一般的理解であり、心的様相に於ける個的記憶誘引性の重なりである。それがクワインの言う本質というものと考えて間違いはない。しかしそれは名指しとは異なっているという。それはどういう事態を指すのであろうか?
 それはこう考えればそれほど難しくはない。本質はそのものに対する認識が変化するに連れて変化する。林檎なら林檎の我々の身体に及ぼす成分の理解度が増すに連れて林檎自体の本質は徐々に書き換えられてゆく。しかし林檎を「林檎」と呼ぶ語彙選択的な発話、記述行為を誘引する約束事は変化しない。一旦林檎を「林檎」と呼ぶ習慣はそうおいそれとは変化しない。そこで我々は林檎を「林檎」と名指す規則遵守的な認識は意味(つまり対象という物自体とは常に齟齬をきたす我々の対象への認識の本質である)とはまた別個の慣用的なコードである、ということとなるのだ。
 つまりある語彙はそれが指示する対象への人間のかかわりがある限り無限に連鎖してゆくが、徐々にその対象への理解度が増したり、希薄化したりしてその対象への認識が変化してゆくが、変化しながらもその語彙自体は残存しながら成員間に連鎖してゆく。そして概念規定的な役割を有している、という事実自体は何の変化もなく、語られ、記述され続けてゆくのだ。だがその無限の連鎖の事実が本質として我々に語ることとは、語彙を成立させる条件は人間の身体にける音韻的な発声システム自体にある限界がある、つまり周波数的な意味で我々が可聴な性質の音であるとか、口や喉の形から発することの可能な音の性質とかによってある特徴(限界)があるから(人間の発声システムは蝙蝠とも鳥とも異なっている)、その様な制約の中で執り行われるものである、ということと、その制約こそが、つまり能力の有限性こそが語彙を常に入れ替わらせることを阻止し、一旦そう呼ばれたものをそうおいそれとは被使用語彙の定着を変更しない保守性へと導くということである。そしてここでも空間的な有限性が同一パターンで各成員が同一の概念を通して個的な意味記憶を超えて共有し得る場を提供している、と考えることも可能なのである。もし空間が無限であり、個体が死滅せずに永遠に存続し得るのなら、言語活動に於いて仮に林檎なら林檎が指示する対象は無限と化し、またその様な音韻的に「り・ん・ご」と発する規則性やら音韻的な組み合わせも、その組み合わせの選択も無限と化し、林檎を林檎以外のあらゆる語彙で置換し得る無限の可能性の全てが顕現されてゆくに違いないであろう。
 しかし逆にもしあらゆる個体が死滅しないで生存を永遠に維持し得るとしたら、そういった個体間には全く抗争というものがないということを意味する。殺人のない共同体である。それは共同体でもない、ただの茫漠たる無限空間、それも個体によって埋め尽くされたものである。すると死滅に関する何の問いも存在しなくなり、従って哲学的思惟も存在し得なくなり、恐らくそういった社会には言語さえ生じ得ないであろう。すると仮に林檎を「ら・ん・ご」とか「る・ん・ご」とさえ発話し、それが指示する対象を呼ぶ空間的な地域が存在し得る空間的余裕があっても何の意味もない。そもそも言語が必要ではないだろうからである。この様に問うことの無意味を生じさせる可能性に対する認識は数学と物理学の関係を思わせる。
 虚数であるとか、千京の千京乗という様な数は数学に於いては思惟可能性として認められる。だがそれらは総じて物理学に於いては、とりわけ古典物理学をはじめとする自然科学に於いては余り意味がない。自然科学に於いてはその都度必要とされる計測可能な数値のみを相手とするから、その時点での科学技術の水準に左右され科学に於いては数値的計測方法の不可知領域への設問を無視することを決め込む。だが数学に於いては、それらは設問可能領域である。しかも無限性さえ考えることは可能である。数学はだから思念的に無限に進行する可能性をア・プリオリに前提している。おそらく個体の死滅のない社会では高等知性というものも生じようがないであろう。しかしにもかかわらず「り・ん・ご」を「ら・ん・ご」と呼ぶ様な社会の可能性を考えることは数学的にも哲学的にも可能であるし、その可能性もまた無ではない。というのも林檎を「り・ん・ご」と呼ぶこととなった経緯自体が極めて偶然的であるからである。これらの可能性を考えることは少なくとも現代理論物理学では稀ではないようである。
 ここである結論が示されたと思う。それは言語がその様な「り・ん・ご」を「れ・ん・ご」の様に呼ぶ可能性を秘めたある規定的、規約的な特定条件指示の音韻的顕現行為があるとするなら、言語の語彙発音等が徐々に変化する事実から言語は無限に変化をし続ける(人間が絶滅しない限り)無限連鎖の可能性を秘めた恣意的な行為である、としてもよい、ということである。事実歴史的にはどの様な言語でも一気に変化することは稀であるとしても徐々に発音が推移してゆくことは日常のことである。また日本語の「夜<yo>」をフィンランド語でも「yo」と呼ぶ様な偶然性(果たして全くの偶然であるかはまだ判然としていないが)や、あるいは「yo 」が「ye」である様な、しかもその意が夜である様な言語があり得る可能性はある。だがそれとて偶然である可能性の方が大きく、何か別の大本からそれらへ分岐していった可能性もあるという様なことは同一の歴史的背景がない限り不可能であろうが。
 しかも我々は次の点に眼を向けなければならないのだ。つまり無限連鎖はあくまでも我々の種の存続が永遠であるという限りの可能条件の下でであって、我々が使用するあらゆる言語はそれ独自の文法秩序と語彙を有しているが、その制約的な条件の中から我々は過去の使用者間の秩序の幾分かを受け継ぎ、その幾分かは変更し、次代に引き渡すが、それは永遠に続く連鎖に於いてのみ極初期の文法や語彙の痕跡が全くなくなる可能性を示しはするものの、実際上それ程の気の遠くなる様な変化をきたすことなく、人類が絶滅するのであれば、その連鎖に於ける変化は多少の痕跡を人類最後の存在者さえもが、極初期のその言語の原初的形態を痕跡として保持しているであろう、ということである。しかも成員間に慣用される言語が人類種に於ける個体の身体と精神による生命の永遠の保持が不可能であるという事実にすら依拠している、ということが示される。というのも無限連鎖に於いて徐々に変化してゆく言語の様相が初期から考えればほぼ無限であるくらいに個体が永遠に生命を維持し得るのなら、我々は言語など使用することすら意味がない、あるいはこう考えてもよい、人類がそれを使用することで存続を図ろうとする、個体を維持しようとする言語の生存の武器説はあくまで言語とは個体がいつかは死滅し、次代の個体へと生命活動が引き渡されることを前提として生み出された装置であるという考えなのなら、死滅しないで無限連鎖を続ける様な、つまり原初的な形態を全く保持していない様にやがてなる様な言語を態々自然が人類に使用することを選択し得るであろうか、つまりそれだけのコストをかけて人類の進化を自然が与えたであろうか、と考えると甚だ疑問である、と言わねばなるまい。つまりもし言語が人類の個体の生命数と寿命が仮に無限であることが可能であっても尚存在し得るのなら、何故無限に変化してゆく様なヴァラエティーを言語が持つ様に自然は選択し得たのか、という設問に対して我々は答えに窮するのである。何故なら言語が複雑であるからこそ徐々に社会のニーズと共に言語は変化し続けるのであり、つまり人間のあらゆる非論理的な欲求とか欲望とかが言語に一方で感情表出とそれとは対照的な論理構築をさえをもたらす誘引作用となるのであるから、もし個体の生存が無限である様な地球の、宇宙の人類の社会があり得るのなら、我々には寧ろ極単純な言語使用しかあり得ないのである。何故ならその様な社会には個体が永遠に存続し得るのだから、殺人はもとより、あらゆる犯罪、そしてそれを誘引する様な人間の心的に複雑な様相、例えば競争心とか嫉妬なども一切ないのでなければならないし、そうなったら単純な言語、つまり人間の非論理的な部分を排除したものでなければ矛盾するからである。
 つまりこう言えよう。言語が複雑であることで言語は緩やかに人間の意識の変化に伴った社会の変化を来たすのであり、それは人間の心的なつまり脳内での活動は一方で感情的な非論理に支えられつつ、同時に感情のままに突進することを制御することと、思惟することの快楽の獲得という目的論に於いて論理構築すること、例えば数学的思考を働かせるとかの活動を絶えず反復しているという事実に依拠している、ということである。そしてその論理的思考を巡らすことは人間が非論理に陥ることを一方でその本性として理解しているからこそ、その二律背反的になされている、と捉えられるのだ。我々の社会でも社会的失格者たち、あらゆる犯罪者がいる。だから当然のことながら被害者<死者も含む>も出るので、結局実存論的には永遠の個体の維持ということは自然科学的に仮に可能であってさえ不可能ということとなる。つまり自然は個体をほどよいレヴェルで死滅させながら全体を調節している、ということである。言語の無限連鎖はその限りで永遠の個体維持という幻想の下にのみ成立する思惟の自然が生み出した可能条件なのである。

Saturday, May 26, 2012

A論文 言語のメカニズム 27 中枢神経、物体、相関性

 受容と拒否のことを思い出して欲しい。(第6章、受容と拒否を参照されたし。)我々は受容と拒否を行うが、なるべく拒否を回避する方向で生を全うしようとする。拒否エネルギーが個体の維持に多大のロスをもたらすことは明白であり、故に我々は肯定的な事柄から否定的な事柄への転換や事項の変化、切り替えを何かの拍子に思い出したりはするものの、否定的から肯定的な方を寧ろなるべく選択し記憶しようとする。自己防衛心が極度に肯定的な事項への変化さえも、「あいつは用心した方がよい。いくら善人ぶったあいつの表情もどこかでしらじらしい。よってああいう手合いは一皮剥けば善良ぶった偽善的な表情や物言いに決まっている。信じてはいけない。」という事情から拒否し続けるように命令しでもしない限りなるべく肯定的に他者像に関しても捉えようとし、また仮にそう命じたとしてもその人物のことをそう深くは考えないようになるものである(無視とも違う。無視はエネルギーが要る。この場合自然と思考の範囲から除去されていく、ということであろう)。
 さて本章では少し別の観点から記憶とかのシステムを考察してみよう。例えば我々の生命が現象であるか、事実であるか、とか身体が物質であるかとかの議論は昔から多くの哲学者、科学者たちの論争の的となってきた。だからもし我々の身体をも物体として捉えるなら、全事物は物体となろう。しかし心的事象のみは取り敢えずここでは保留にしておくとして、身体を現象(生命現象)と捉えるなら、他の多くの物体も現象として捉えることも可能であろう。ここに今転がっている小石は物体であると、誰しも思う。だがこれが川とか海となるとちょっと事情が異なってくる。山脈は物体であるとも言えるが、大きな自然現象を育む自然環境(構成要素)だし、地球はやはり宇宙の大きなシステムの中の運動体としての現象でもある。物体と捉えられなくもないが、ただの物体(ただの物体と言っても、これとて何処から何処までと言うと、難しいのであるが)とも異なっている。例えば地球はああいうかたちをして何の不可思議もなく太陽の周囲に軌道を描いているわけだが、ああいう形でなくてもよさそうなのに、ああいう形をしているということは、ああいう形である何か、それ以外の形ではあり得なかった理由があるということである。すると形状、運動の仕方、引いては存在の仕方そのものが全ての事物の現象的側面となる。その現象とはどこかでその現象を成立させる必然性が更に求められ(少なくとも我々の思考に於いては)その必然性を科学では合目的性とか呼んだりするわけである。我々の身体をも一個の独立した宇宙(太陽系のように)とすると、我々の身体を一個の独立したシステムとして成立させているものとは細胞、血液、蛋白質、そして神経組織とかからとなる。それらは常に身体全体を一個の独立したシステムとして存在させるべくホメオスタシスを成立させる為に奉仕しているわけである。その身体の生理学的な機能維持と、物質としての身体を外部環境のシステムと、環境の一部として代謝、呼吸とかの機能維持において交換させながらも個体毎に別個の事情を抱えた独自のシステムとして成立させながら、内と外を明確に認識することの出来る能力を発現させる構造を内包した、言わば運動体という現象的側面と構造体という存在論的側面の両義性の名において顕現しているのである。しかも運動を司っているのが神経であるし、神経を束ねて指令を出したり、感覚を伝えたりするのも、脳、とりわけ大脳の役割である。その物体でもあるこの身体を支えるシステムは生命独自のそれであると同時に、非生命体をも含む全ての事物に共通する物理学的システムの一部でもある。それらは一見相反するようでいて、どこかで矛盾することなく共存している。
 多くの哲学者たちを困惑させてきた意識の問題は、では意識とは現象であるのかどうかという問いに対しては一応それも現象だと答えておこう。しかし我々はどこかで現象というと移ろいやすいもの、取り留めのない不確実なものという観念を持っている。それに較べ実在は確固たるものという観念もまた併せ持つ。しかし実在とは物体を固定化した、つまり不動のもの、構造的な解釈で捉えた観念であり、観念もまたイデアと言うのに相応しく何処かで永遠のものという考えを抱いている。しかし実際上我々の身体を機軸とする生命は流動的なものでもあるし、一瞬たりとも変化を免れ得ない。しかしそれでいて同時に全く異なった物体へと変化することは少なくとも生きている内にはあり得ない。雌雄が交換されるような種の生命体でさえ、そういう変化は予定調和的遺伝子のシステムに忠実な不随意的生理学(或いは発生学)的普遍性の範疇の出来事に過ぎない。物体という観念からは固体のイメージが強く、事実我々の身体は液体や気体を多く含み取り入れてはいるけれど、やはり固体状で移動し、代謝し、食物を吸収、消化する。それはしかし変化をきたし、常に内部から自発的に変化する(外部からの影響とか刺激に対する反応だけではなく)ものであり、その限りで生命現象であることもまた免れ得ない。それは生殖による自己増殖的連鎖と同時に自己内完結的にも絶えず中枢神経と末梢神経における交換システムにおいて連綿と行為と中断と、動と静を反復する変化希求型物体である。  
 しかし遺伝子や細胞さえそういった一個の自立したシステムとして壮絶な葛藤と死闘を体内で繰り広げているところを見ると我々の意識はそういった葛藤を一方でやはりそういう活動の一環として参加しながらも同時にそれら一切を高みから見物するような二面性も持っている。また、意識はそれを通してしか客観的洞察さえ不可能なので、現象であると同時に全ての生の時間の出来事を凝視する観察者でもあるのだ。だからこそフッサールやサルトル等が「意識は常に何者かの意識である」としたような、意識を持つということが、すなわち具体的な生の瞬間における知覚や体験(状況的、状況や身体生理と不可分な具体的な感情、生理的要求を通した)を一時たりとも不随させずには済まさない同時性を介在させた、つまり意識「内容」を切り離すことの出来ぬ現象でもあるのである。観察者と言ったが、それはそういう内容がまず先験的に立ち現れるこの世界の有り様を一挙に表現しやすい一つの比喩として我々が利用してきた、という側面も大きい。
 結論的に言おう。意識とはそれがある一定の目的に向けられている場合、つまり行為自体(それが自己のためのものか、他者や共同体に向けられたものであるかにかかわらず)を除いて、思惟とか反省へと赴くか(非行為的時間において)、そうでなければ観察(見るという行為の時間)へと赴く。観察は漠然として言えば視聴覚的な、本質的には視覚中心の知覚体験を重点的に採用した行為である。だからそれは関接的には目的性を持っていないとも言えない。しかし意外と反省や思惟はそれ自体、何かの目的性へと向けられてはおらず、生の実感を持つ時間での出来事であると言えよう。するとこれは明らかに非目的的であるから、自己の存在(や生活)を中心としたものの見方になる。昨日のこと、子供の頃のこと、妻のこと、子供のこと、友人のこと、同僚のこと……..etc。  それは必然的に他者への奉仕とか社会への奉仕という観念とは無縁のものであり、先に挙げた自己防衛や良心といった自己保身へと直結する傾向を常に持っている保守的な思念である。誰か溺れそうな人を助けようとしているときは、平静時のそのような思念は皆無である筈だ(そうでなければ目的は達せられない)。だからこういった場合の意識を他の意識と同列に論じるわけにはゆかない。この場合の意識は判断というのに近いと思われる。拠って本論ではこういう意識を以後全て判断とする。
 そして意識を中心にすれば神経システムは手段となるが、知覚、思考、判断といった多くのものが実際は常に意識的であるかどうかとなると甚だ疑問であり、無意識(これもフロイト的無意識だけではない)こそ実は知覚、思考、判断に直結し得ると思われるし、それを俎板に乗せると途端に神経及びその制御が生の目的となる。また神経システムにおいて我々は無意識の果たす役割と、イントロン等に見られる非不可欠物、あらゆる可能性を想定して複雑に組織された活型、不活型の蛋白質の発動、抑制の反復された制御システムが我々にとって生とは何か、そしてそれがコミュニケーションに於いて果たす役割を見据えることで、言語の意味を洞察する上で重要である、と思われる。そしてとりわけ本論では感情、行為、様相的概念理解の切り替えが記憶を促進し、そういった記憶を促進させながら受容機会を多くすることそのものを分析することが、行動生理学的にも認知言語学的にも極めて「変化することを常とし、そうしながら生を実践する生き物としての我々」というある種、時間論的哲学とも無縁ではない本論の中心的テーマへと向けられてゆくと思われる。言語とは言ってみれば変化を体現させながら、変化事実を事後的に確認すると同時に、未来予持的に変化を予告し、期待表明するものなのである。
 拠って本章ではまず神経というものが言語を誘発するのではないか、そしてそれは言語行為として実践されることで、神経機能をより活性化し、遺伝子の発現も促すのではないか、という考えを中心に論を進めてゆこうと思う。その為には神経とは何かということをざっと捉えておこう。
 神経組織自体はそれが人間の生を司る主要な位置付けを持った機関であると同時に、ある生命体の進化過程を体現した一つの別格的な生物学的事例でもあることが伺える。それは他の霊長類と比しても類例なき脳の大きさ、その指令システムの複雑さが例えば指一つとっても細かい動きを即指令出来るような各身体部位の機能の発達具合といった相乗性(シナジー)からも伺える。それにしても興味深いのは、我々の遺伝子における1000ものゲノムが、微妙な翻訳、転写ミスによって個体間の差異を形作ってはいるものの、それは人間学的には非常に大きな差異ではあるものの、殆どの個体は目は二つ、鼻や口は一つ、耳は二つということにおいては変わりない。勿論乳首や乳房が三つある人や、性器が二つ以上ある人もほんの僅かなパーセントではいる。しかしそのような特殊例を除いて、概ね人間はその身体構造上の仕組みや機能は殆んど変わらない。胃が腎臓の役割を担っているとかの特例は未だ耳にしていない。そういう意味では神経組織をも含めた全ての身体機能が何の差異もなく全ての成員に共通しているということは、自然界に何らかの合法則性のようなものが具わっていて、たとえ個体間の差異が微妙なる突然変異によって形成されたとしても、その変異の範囲は特別に逸脱することはない様になっている、としか思えない。まさにドゥ・ルーズが「差異と反復」で試みたようなその素晴らしい生命の両義性は秩序だったシステムの合法則性には決して逆らってはいない、ということである。その意味では神経組織もまた、複雑なシステム上での個体間差異はあるものの、グリア細胞やシナプス間隙といったシステムそのものにおいてどの個体も、特殊な遺伝子発現による変異表現型を含みながらも、やはり一定の秩序に則っている。
 さて中枢神経による、指令性においては中央集権的神経系ネットワークともいい得るものは、予め我々の身体全体をくまなく張り巡らされており、それゆえ殆どインターネットのネットワークに等しく、だからこそ脳から最も離れた爪先にさえ脳に近い部位と全く同じように瞬時に感覚をもたらす。それにもかかわらず脳自体は外部刺激からの感覚を持たない。(頭を打って痛いのは頭蓋骨に通る神経の知覚である。内部的には頭痛もするが、外部から、仮に触れられても<脳を開いて>も痛みは感じない。ここら辺は養老猛司著「唯脳論」青土社刊に詳しい)末梢神経に対してそこから得られる感覚を感覚させるものは脳からの指令である。勿論その痛みや痒みを感じる部位そのものの記憶もあるだろうが、その記憶を収納する部位もまた脳であることは確かなのである。
 しかし記憶には幾つかのパターンがあり、それは主に二つに分類出来る。例えば海馬記憶はエピソード記憶として理解することも可能である。また言語の記憶は明らかにこのエピソード記憶とは異なる。エピソード記憶が具体的な思い出として捉えられる情景的、心理的記憶であるのに対し、言語記憶は慣用的に常時引き出すことが出来る学習習得記憶であり、一々我々はその語彙を覚えた時の記憶を持ち合わせはいないし、ごく最近覚えた語彙さえも覚えた時の記憶は徐々に忘れ去られる運命にある。フッサールは「経験と判断」においてこのエピソード記憶と意味記憶の二つを次のように解釈している。(147ページより)
 一、それぞれの(たえずながれゆく)記憶の場の統一。これはせまい意味での直感的統一である。記憶のなかでひとつのながくつづくできごとが進行する場合、それがひとつの記憶だといえるのは、先行する局面で直観されたもの、以前にとおりすぎたものが「なお」直観され、把持されるかぎりでのことである。そこにあらたにあらわれるものは、まさにそのときはじめて「第一次的に」直観されるけれども。<エピソード記憶、管理人注>
 二、全体的な、ひろい意味で直観的な記憶の場。そこにさしあたりぞくするものは、意識の統一のなかを連続的に「進行していく」、いくつかの本来直観的な記憶の場であり、それらはもはや本来の直観的な生気はもたないが、過去把持的な生気はもっていて、したがってけっして過去のうちに「しずみこんで」はいないものである。さらにまた、あらたに想起されたものではなく、以前からある過去の地平にふくまれる一切が、このひろい意味での記憶の場にぞくする。_それらは想起という形式で志向を充実させる潜在力をもつものとしてふくまれるにすぎないが、この想起は最初は直観的なものとしてあらわれ、ついで、過去把持的に沈下して、いまだ生気はあるが非直観的な過去把持に、過去に沈み込んではいないが沈下したものに、なってしまう。<意味記憶、管理人注>
 意味記憶は明らかに最初は何らかの個人的体験性やら個人的意味合いを帯びていたわけだが、次第に慣用されることで、その意味性は記憶像からさして重要なものではなくなり、やがて概念的理解として定着され、いつも直観的に引き出され得る辞書的項目と化す。それに対し、エピソード記憶は好きなときにだけ思い出すことが出来る憩いである場合も多く、常に慣用する文字に近い意味記憶と違い、絵画的、映像的である。
 前前章において、数学の試験のことについての筆者の思い出と共に理解が概念性へと移行されることから、理解出来ない図形(好奇の対象)の方が実在感を払拭出来ず、かえって映像記憶となって残るのではないか、という仮説を思い出して欲しい。これは明らかに映像記憶であり、その試験会場の緊張した臨場感と理解出来なさが相まってなかなか忘れられるものではないだろう。しかし英語の得意であった筆者にとって解けた問いを一々覚えてはいない。そういうものである。使用頻度の大きい語彙を習得した時の記憶とは大抵幼少期である。難しい専門用語等を覚えた時の記憶と同じでは決してない。だがかなり前のことでも、エピソード的記憶像はそうは忘れられない。勿論日常的などうということのない記憶は段々明確ではなくなることはあり得る。しかし何かの拍子に突然嘘のように綺麗に思い出すこともそう珍しいことではない。ある人に久し振りに会うと突然その人間との思い出が、蘇ってくる。しかし基本的な英単語(日本人にとっての)を中学生時代に覚えた時の様に我々の生活上表現するための不可欠な「橋」や「川」等といった語彙を覚えた時の記憶はそうたやすく思い出せはしないし、一生思い出せないことの方が多い。広い意味での意味記憶も同様である。意味は個的な情況において記憶されるも、一旦覚えてしまうと、今度は概念的理解に移行してしまい慣用的条件反射になってしまう。哲学者や数学者が「論理」とか「命題」という語彙を一々個的状況性に依拠した習得時の記憶を引き出せるなら、その学者はまだかなり若い学者であろう。さてこのような語彙習得と概念的理解といった意味記憶とエピソード記憶との間に神経的メカニズムにおいてどのような差異が横たわっているのであろうか?
 映像記憶において情景において存在した、例えば友人と飲みに行った飲み屋の店内とかの、友人の顔とか表情以外の物体に関する認識とその物体において抱いた印象の双方が微妙に絡み合って記憶には格納される。意味記憶というものは個的概念理解において付帯するものであるが、概念理解と共に沈殿し(フッサールの謂いに従えば沈下し)何か特別の契機がない限りそうはそこから意識へとは這い上がって来ない。だが友人と行った飲み屋の記憶は友人と会わずにも、その友人のことを考えればすぐさま思い出せる。この両者の記憶の仕方の差異は思い出し方にも多大の差異があるから、当然神経系のメカニズムには差異が生じる筈であろう。まず映像記憶から考えてみよう。
 映像記憶は、しかし映像とその時抱いた自己の思念(考えたこと)や、情景と重なり合っている。必ずしもそれらが統一されて格納されているというわけでもないのだろうが、統一して想起することに我々は慣れている。映像記憶は全体的情景の印象と、人と語ったのであれば、他者の表情、そして会話内容(部分的なもので、脈絡や順番よりも、個々の内容であろう)だけはなぜか、意味記憶の側へと格納されている。が映像は明らかに全体的な雰囲気、友人と飲んだ店の暗さや広さ、といった自己身体から察せられる空間感覚の覚知と、映像的フレームの視覚的記憶像である。
 しかし、こういったエピソード記憶と違って、意味理解の記憶は理解出来た瞬間は、その後何度かの理解概念の反芻によってその時点では記憶されているが、慣用頻度の大きさに比例して徐々に忘却される。だから頻繁に会う友人との間での会話内容における意味記憶は、たまにしか会わない友人と違っていつどこで交わしたものであるかの記憶は徐々に混同されてゆく。つまりその会話を交わした情況は、映像となって情況だけで独立して格納され、内容は場所や会話した際の情景の映像記憶とは別個の格納のされ方となる。しかし理解した瞬間がそれ以前の誤解による理解から転換した場合、割合印象に残りやすく、その場所も情景も(もっとも、場所が思い出されるのに情景は思い出されないということは希少であろうが)忘れないものである。つまりここでも意味理解という名の感情が切り替わるからこそ、記憶に格納されてゆくのである。しかしその切り替わりが印象的でない場合、慣用頻度の大きさに比例して、他の多くの既知の概念に混ざって慣用されてゆくに従い、新奇さは薄れ文字記憶や語彙選択の常套的概念理解と共に、日常的道具性に埋没し、反復と惰性的常套性依拠姿勢によって意味記憶の中でも最も思念性の薄い状態へと沈下してゆくのである。この映像的なものと、文字、概念、意味の格納のされ方、引き出し方を今度はシナプス、ホルモン、ニューロン発火、抑制、調節機能、脳波といった生理学的観点から考察してみよう。
 フロイトが「夢判断」において示したこととは、夢が無意識の願望充足であるということであるが、その無意識が極めて記憶と大きく関わりがあるということでもあった。何かが記憶の片隅に巣食っている事柄は、明らかに記憶が階層的秩序を構成しているということである。記憶が、一々思い出さずともすぐに思念や発話に浮上するものと、そうではなく、何かの拍子にふと思い出すような種類のものと二つあるということは、日常的な生活の中で必要不可欠な事項の記憶とそうではないものの記憶とを峻別して格納していることを意味する。しかしそういった峻別を決行させるものとは意識であるよりは、身体生理学的判断と常に密接に談話しているところの条件反射的判断とも手を取り合った総合的判断というものではなかろうか?
 他者に対する信頼感の欠如が、まずその他者と談話する際にあるとしよう。(何度も出てきた例であるが)その際に他者に対して身構えさせるものとは明らかにそれ以前の他者観というものであろう。他者観は明らかにそれ以前の全人生における自己と他者との遣り取りから学んだ共同体内における自己にとっての他者というものの在り方に対する認識である。しかもそこには外部環境的な常套的コミュニケーションに対する観念と同時に自己固有のコミュニケーションの方法と、それを採用せざるを得ない先験的条件とかも問題となってこよう。しかし取り敢えずある他者に対して身構えてしまうことは自己防衛的な観点からは至極当然のことでもある。他者に対して身構えるということは他者が自己よりも防衛本能的観点からは上位に位置するわけだから、それ程大きくはないが明らかに他者に対する恐怖が介在する。恐怖を引き起こす総合的判断とは不確定事項(この場合だったらその接する他者が信頼出来るかどうかということに関して)に対する処方箋である。
 欲求という受容性と恐怖という拒否性を峻別して生み出しているものは、生理学的には化学物質が働いている回路の差異であり、その差異を生じさせる脳の判断である。脳といっても扁桃体という部位における価値判断の決断によるものと考えられる。ここら辺に関してはジョセフ・ルドゥーの論説が詳しいし、適切と思われるので随所随所で引用しながら見てゆこう。「扁桃体にニューロンは感覚の世界からの入力をつねに受けているが、その大半を無視する。じつのところ扁桃体のニューロンはほとんどの時間静止状態にある。だが、反応すべき種類の刺激_危険を意味する出来事その他、生物学的に重要な出来事_が存在するときにはちゃんと活性化する。このことはヒト以外の動物でもヒトでも証明されている。」(「シナプスが人格をつくる脳細胞から自己の総体へ」森憲作監修、谷垣暁美訳、みすず書房刊92ページより)この危険を察知する判断は人間が生まれてからその瞬間に至るまでに培ってきた他者や外部環境的な対自己の事物、事象の経験事項のデータ保存された記憶格納事項検索からのデータ解析という瞬時の扁桃体による判定のことである。どういう風に神経伝達物質を行き渡らせるかを一瞬において判断(不随意なものである)させる総合的判断が他者に対する信頼感の欠如の表現系として緊張をもたらす。
 神経系システムでは、投射ニューロンと呼ばれる比較的長い軸策を持つタイプのニューロンが、シナプス前ニューロンからシナプス後ニューロンへと発火、活性化させてゆくわけだ(階層的回路では投射ニューロンの主な役割は階層の次のレヴェルの投射ニューロンへと活性化を伝達してゆくことである。)が、その際前ニューロンの終末に位置している神経伝達物質が、前と後の間に位置するシナプス間隙をくぐって後ニューロンの活性化を促進すべく常に待機しているわけである。その際、活動電位の発生を起こりやすくするために後ニューロンの電気的状態を変化させるべくそのスピードと興奮を促進するのが、グルタミン酸である。これはアミノ酸系神経伝達物質の一つである。(それは投射ニューロンを促進する。)一方抑制性のニューロンは軸策の終わり(終末という。この種のニューロンは介在ニューロンと呼ばれ、軸策は投射ニューロンのそれよりも短い)からGABA(γaminobutyric acid、γ_アミノ酪酸の略)を放出したりする。このグルタミン酸とGABAの双方が相互に微妙なバランスで他を牽制しあったりすることで、激しい痛みや免疫的な抵抗力や、攻撃性と抑制力とかの全ての身体生理的現象を顕現させる。
 前述の恐怖と、その克服つまり他者に対する自己防衛の解除による他者信頼感の発生といった切り替えもこのバランス制御システムであるところのグルタミン酸とGABAの放出バランスによって決定される。それに加えて脳波やホルモン(性ホルモン他の)の放出されるバランスが全て組み合わさって心的状態と随意、不随意を総括して指令する総合的判断を生じさせる。その際には扁桃体が判断するという一事が極めて大きいと思われる。
 ところで南アメリカのアマゾンにはマナティーというワシントン条約制定後、保護指定動物の対象となった、象と同じ祖先を有する水中哺乳類が生息する。この動物は水面に乱生する浮き草のウオーレタスを食べるのだが、その消費量は生半可なものではない。しかし、乱生するこの植物は一方でマナティーが脱糞した糞によって多数のバクテリアが生じ、それを堆肥として更なる生育に利用するという半ば共生関係にある、と言ってよい。(そうやっていつまでも生育し続けるからマナティーにとっても食料が絶えることはない)この場合自然が何らかの代償を払って自己種にとって都合のよい条件を獲得するという合目的性にもかなった種選択をしているということとなる。ところでこのようなことが、では身体生理学的に遺伝子や蛋白質、細胞、神経組織といったことにも存するのであろうか?
 人間がどこかを負傷し血が出た時に、トロンビンという蛋白質が血液凝固システムの機能を発揮して血液を凝固させる。しかし同時に一定のトロンビンの作用をなした後では、今度は抗トロンビンが登場してその血液凝固システムの作用自体を抑制する。この抑制システムがなければいつまでたっても抗トロンビンが作用し続け果ては全人体の血液を凝固させてしまうだろう(既に述べた)。つまり血液が凝固する仕組みは負傷を負った時点では有効に作用するが、一旦凝固が貫徹された後はいつまでも作用してもらっていては困るというわけである。この事実から、蛋白質そのものが個々の役割を担いながらも、統一的な一個の人体というレヴェルでは責任分担し合いながら相互に制御し合うという一面を持ちつつ共生しているとも言える。我々が他者に対してある種の不審を抱いた時には、適度の緊張がもたらされるが、それは扁桃体の判断によって投射ニューロンを発火させるべくグルタミン酸が活躍するが、そういう際にも必ず同時にGABAも発動される。その相互のバランスによってグルタミン酸がより強度を持てば神経系における感覚は刺激に対する過大の反応となって我々に身体知覚され、逆にGABAの方が強度を持てばその刺激に対する抵抗の方が勝り、要するに免疫的な身体知覚を生じさせることとなる。恐怖は明らかに痛みとかの感覚同様、グルタミン酸の過度の発現であると言えるし、その免疫性は明らかにGABAニューロンの発現度の大きさがもたらした抵抗力であると言える。すると他者を不審の目で見る感情(あるいは判断)が、それほど悪い人間でもなさそうだという感情へと切り替わることとは、瞬時にグルタミン酸放出よりもGABA放出へと出力的数値の大きさが移行したことを意味しよう。
 だがそれだけではない。他者に対する寛容さや、鷹揚さといったものはこの二つだけが作用しているわけではない。モノアミンと呼ばれる調節物質も多大の貢献をする。ことにこの中の一種セロトニンは、それが脳内に不足すると鬱状態になり、不安状態がいつまでも続くのだ、という。するとセロトニンが脳内から不足しだすと、他者に対する不審と懐疑が一向に収まることもなくなり、偽装解除もなかなか出来なくなりストレスがたまる。ストレスがたまった状態での人体では副腎皮質ステロイドと呼ばれる(多くはホルモンである)ものの中でもとりわけコルチゾールという伝達物質が放出される。しかしこのコルチゾールとは記憶や情動といったさまざまの神経機能におけるプロセスにかかわる回路に情報を伝達するものであり(植物におけるオーキシンのようなものとも言える)これなくしては記憶とか思念とか思惟とかの作用もままならないわけだから、不安(現代に至るまで多くの哲学者や心理学者を悩まし続けてきた)とか緊張とかが一概に良くない状態であるとも言い切れないこととなる。更にこれに脳波レヴェルの発動も加わる。ベータ波はことに緊張状態の時には(だから他者信頼の欠如がもたらす偽装心理の時にも)最大限に達する。しかしその他者が意外と他意のない人物であると認知すると、今度は偽装や攻撃的なスタンスを解除するわけだから、真意表出を吝かでなしとし、発話には予防線が取り払われ、アルファー波が発動され、GABAが行過ぎた偽装的態度を是正すると鬱状態でのコルチゾールは再び沈下され、今度は話に夢中になるとドーパミンが発動やがてそれがノル・アドレナリン、アドレナリンを放出して躁状態に近くなる。この段階でのグルタミン酸とGABAとは日常的平均値に落ち着いているのであろう。精神特効薬はだから、躁状態の人間には鬱状態へと転換させるべく物質が、逆に鬱状態(恐怖や不安に苛まれる)の人間には躁状態へと転換させるべく物質が必要となる、ということである。
 しかし他者信頼感の欠如による偽装状態では明らかに他者を上位に見ている(不信)が、その攻撃性は他者の威圧感がピークに達した時であり(拒否)、その攻撃には正当防衛性があるから自己と他者の階級はタイである。しかし他者が下位に感じられると、性悪的な情動が発動され、「意外と無垢な奴だ。からかってやろう」という気になり、今度は攻撃性を生じサディスティックになるから、これはやや躁状態である。だからこの場合鬱~平均値~躁という移行過程が考えられよう。しかしこの攻撃が度を過ぎると、今度は良心が理性的レヴェルで発動されだし、やがて攻撃を中止し、平均値へと落ち着く。「最初ちょっとやな奴だと思ったけど、とはいえもう十分からかってやった。これからは少し奴の身になって紳士的に振舞おう」ということとなる。ここから真意表明が少しずつ執り行われる(受容)。鬱~平均値~躁~平均値となるわけである。
 しかしこの移行過程も個々において少しずつ異なり、その攻撃性や鬱状態も個々で諸相あり千差万別であろう。その段になると今度は性格遺伝子のレヴェルとなるが、その性格遺伝子もマゾヒスティックな性格とサディスティックな性格とは一律に二極分離なのではなく、双方がバランスを取り合っていて、こういうところには寛容だが、こういうところに関しては狭量であるとかの個人的差異もあり、双方の遺伝子が発現機会を相互に規制しあい、調整し合っているわけだから、逆に全く同じ遺伝子を持つ一卵性双生児であっても、生後すぐに引き離されて全く異なった環境で育った場合は、それでも全く似た性格となる(年齢を追ってそうなるケースが多いが)ケース同様、同一遺伝子なのに発現される機会に差が出て(成長過程での環境の極端な差によって引き起こされることが多い)表現型としては別個の発現ケースとなる、というケースも充分考えられる(Aという遺伝子もBという遺伝子も双方が共有しているのに、一方がAを特に発現させ、他方がBを発現させることを多く持つという違いが生じる)。
 ともあれその性格遺伝子の配列は発現される段では、性ホルモンに依拠している場合も多い。性ホルモンには幾つかの典型的なものがある。第20染色体上にある二種の鎖を構成するアミノ酸が二つだけ異なるオキシトシンとバソプレシンであり、男性の方により強固と言われるテストステロンである。テストストロンはコルチゾールが増加すると同時に増加する傾向があるし、オキシトシンはセロトニンと同様に平滑筋(内臓諸器官や血管などの壁を構成する筋肉。横紋筋がなく、普通その運動は不随意的で横紋筋よりも収縮の速度が遅い<広辞苑より>)を収縮する作用がある。
 テストストロンのことを詳しく述べるとそれだけでゆうに一冊の本を書かねばならなくなるので、本論では概略的なものに留めるが、その前に我々の身体が、いかに人体としての階層性によって不随意的にそのシステムが機能していることを少し考えてみたい(哲学用語としては身体を、医学用語としては人体を通常使うが、医学的説明においては人体を、哲学的考察においては身体を本論では使用する)。先述の介在ニューロンの軸策が投射ニューロンの軸策よりも短いということを思い出して欲しい。これは進化論的な合目的性においては、いかなる意味があるのであろうか?
 もし我々の諸刺激に対する感覚反応として神経システムが作用する時、それを抑制することは確かに多大の投射ニューロンの発火による人体を燃焼させることを未然に防止している(血液凝固を抑制する抗トロンビンの役割にも似ている)という意味では多大の貢献をしている。しかしそれが行き過ぎると身体感覚はあらゆる刺激に対して鈍磨された、抵抗力だけが矢鱈と主張するとんでもない不感症性を生じさえすることとなろう。それではやはりまずい。人体を損傷させてしまうにちがいない。そこで自然選択は未然にそういう抑制システムを構築しながらも、行き過ぎない形に留めおく、というまるで生物物理学的真理に添っているかの如く振舞うわけである。それはある種の階層性を自然と構築することであったかも知れないが、そのこと自体は自然選択において進化してきた生物の歴史における本来は偶然的である筈の生命の生存という意味においての最低限の必然性であったのかも知れない。さてもう一つそのような意味での階層性を想起させる一事をここで紹介しておこう。
 既に人間は聴覚システムよりも視覚システムの方が優位にある種であると言ったが、これも指摘しているし、また「コンパスの二本の尖端が触れている二つの場所を、なお明確に識別できる距離は、舌の先端の方が背中の中央部よりも50~50倍も小さい」とも述べているのはエルンスト・マッハである。マッハは物理学者であり、哲学者でもあるがこの種の生理学的事実を淡々と述べている(「空間と時間」野家啓一編訳、みすず書房刊9ページより)。
 身体的な部位における我々の知覚感覚能力は確かに顔の中心部を頂点として、その周囲、首あるいは乳首や性器といった敏感な部位を除けば足でも爪先や手でも指の先端に神経は集中し、その頂点から遠ざかれば遠ざかるほど鈍感になる。爪先よりも踵の方が明らかに大雑把な知覚能力しかないし、掌よりも手の甲の部分の方が大雑把であることも明らかである(腕も手首は掌側の方が敏感である)。これはある種の生活レヴェルでの知覚能力の被感覚頻度と重要性に基づいているように思われる。階層性は必要性に応じて徐々に進化過程において形成されていったのであろう。だから逆に全然今まで必要のなかった部位を頻繁に動作において利用するようになるとそこに神経がア・ポステリオリに集中し、徐々に階層性の上位へとその部位を押し上げてゆくことにもなり得るというわけである(勿論そうなるには一個体の習慣とかいうレヴェルではなく、多大の時間を要することとなるが)。
 最後にテストストロンがコルチゾール同様動員されることを先に述べたがテストストロンが免疫抑制をすることを述べておこう。これはどうしてなのか未だに解明されてはいない。マット・リドレーの言うように(「ゲノムが語る23の物語」中村桂子、斉藤隆央訳、紀伊国屋書店刊第10染色体ストレスより)マイケル・デーヴィスが示唆した<かつてはストレスの一般的な形態だった「半飢餓」の際にエネルギーを節約するためのシステム>であるか、<より健康な_つまり病気に対する耐性が高い_雄を選び出すのに有利なシステム>かのどちらかが有利な仮説であるそうだが、実際両方ともリドレー自身は納得してはいない。後者の理論によると免疫抑制というハンディーキャップさえもものともしないそれをはねのける強い遺伝子の持ち主が自然選択されてゆくのなら、そういう個体ばかりになってきた筈であるが、実際はそうではないから多少矛盾を感じさせる。また前者は飢餓状態における抵抗力を失う免疫抑制を敢えて自然選択したことの合目的性は立証され得ない。エネルギーの喪失を未然に防止する必要性において、免疫機能の不全を選択するしかなかったという致し方なさ(事情)が自然の側に何かあるのかも知れない。しかしこの問題は難しすぎるので今はそう示唆するに留めおこう。
 ここでちょっと纏めておこう。リドレーの表現を借りれば「脳と身体とゲノムは、三位一体となってダンスを踊っているのだ」(「ゲノムが語る23の物語」191ページより)。脳には遺伝子やゲノムを発現させる能力がある(全遺伝子の50~70%が脳で働いている、と言われる)し、遺伝子もまた脳を中枢神経として身体機能全般に渡る司令塔としての役割を顕現させ構成している。身体は、この場合神経回路、経路、あるいは細胞システム、免疫システム、ホルモン調節機能といった全体的レヴェルの身体機能を差していると思われるが、これらはそれ自体で脳や遺伝子を発動、発現させている。つまりこれらは全て相互に自己が他を検閲し合い、抑制し合い、制御し合い、影響を与え合っている相互依存、相互干渉、相互育成の関係にある、というわけである。勿論リドレー他の論者の言を待たずして我々は身体機能をその多くを我々自身の行動に負っている。行動のない身体機能などあり得ない。
 この事実を敷衍して捉えると、言語行為という身体行為は我々の脳を活性化し、記憶を促進し、遺伝子を発現させる。遺伝子によって性格的な傾向性を規定される側面もあるが、その同一条件下でも我々自身の行為選択によって大きくその発動される状況や様相を変えてゆくということである。また言語行為を含む全ての行為は身体的行動として、あるいは社会的行動(自己と他者、共同体内での自己の意識の所有を通した)として脳自体を新たな指令や選択(指令と選択に関しては神経経路がそのどちらであるかが論争の的となっているらしい。そのことは本章の大きな参考資料としたジョセフ・ルドゥー著「シナプスが人格をつくる 脳細胞から自己の総体へ」みすず書房刊に詳しい)を発動させる基本的な生の条件となっている。
 我々は身体を我々自身の自己固有の財産でありながら、自己の思うように、丁度我々自身が自動車やコンピューターを作り上げてきたようには操作することは出来ない。我々は好むと好まざるとにかかわらず、こういう身体を「生の条件」として受け入れて生きてきている。そういった現実を前に我々は一生物、一生命体としての我々自身の姿を見て他の全生命体をも含めて一括りの生命体的秩序として他の物質と区分して見てきた。あらゆる生物学、進化論の認識はそこに端を発する。そういった認識を呼び起こしてきたのも中枢神経であるところの脳であり、だが同時に地球上で他の全ての物体と同様我々自身もまた地球の、宇宙の物理学的法則性に逆らっては生きていけない。重力の法則に従って、他の物体同様、物理学的法則性の真理に忠実に存在している。だがその他一切の物体同様、物理的制約の中からも、我々自身固有の、多くの過去の哲学者たちは意識をその固有性に準えてきたわけであるが、そういう本性を主軸に他の生命体との相関性を把握しようとし、ある時は動物たちにも人間同様の固有性を譲歩して与えたり、ある時はやはり人間だけが固有であると思い直したりの連続がまるで全人類自体の総意であるかのように、生物学と哲学の歴史的振り子現象が果てしなく反復されてきたわけだし、これからもそうであろう。
 しかしこれだけは言えよう。生命体は自ら不随意的にではあるが、代謝し、常に細胞を入れ替えて変化することを恒常的なこととして生活している。そういう意味では生命体という秩序は明らかに主体性を持って外部的環境に拮抗して存在している。だから我々の生活上不可欠の言語行為とは、生命体が代謝して外部に拮抗することを余儀なくされているような意味で我々自身が我々固有の外部環境であるところの社会に対してその一部に収まりながらも、自己固有の幸福感や自由という当然の権利を巡って外部(他者が犇き合う)と常に拮抗して生を営んでいるその中での社会的な代謝機能として存在しているのだ、ということである。我々はそういう意味でいかに固有のコミュニケーション手段を持っていても、そういった個体と外部環境という相関性において生きている限り、自己と他者、あるいは共同体という呼び方をしてはいても、他の生命体と同様そういう規定性に中で生きている以上、殊更、固有の種であるということもなくなるということである。しかも広い意味では地球の重力の法則下で存在し続けている限り我々も一個の地球という環境における構成要素の一つに過ぎないとも言えるのである。だがその構成要素の一つにしか過ぎない、と認識出来るのは、ひょっとしたら人間だけなのかも知れない、と筆者も思うし、ジョセフ・ルドゥーはそれを明示性と呼んでいる(それに対し、動物も持っている意識をルドゥーは内示性と呼んでいる。しかし人間もまたこれも他の動物同様持っているのである。しかし植物に内示性があるのかとなると、これはまた別個の話であろう。「シナプスは人格をつくる」<先述>参照されたし)このことについては次章以下で、言語行為と絡めて詳しく論じてゆこうと思う。

Wednesday, May 23, 2012

C論文 自信論<自殺しようかと考えているあなたへ> 3、無とは何か?

 私たちは存在物の一切ない、つまり存在しない空間というものを一度として目撃したことがないし、それは状況的に私たちの知る世界ではあり得ない。  私は次のような仮説を立ててみたい。
 仮説 空間は存在物がなければ存在し得ないかも知れない
 この仮説は中島義道氏の「「死」を哲学する」における131ページによる二つの視点、つまり (1)「私は存在する」という仮象 (2)「私は無である」という仮象 においては、明らかに(2)の視点に該当する。要するに氏の表現を借りれば、科学という壮大なるフィクションによる視点である。しかしもしこの私による仮説と 存在するもの=変化するもの という図式双方がもし正しければ世界そのもの、宇宙そのものを神が創造したという仮説を正しいものにする余地を生む。つまり全てが予定調和的に創造された、ということになるからだ。
 つまり何も存在しない、つまり一切の存在物のない世界を神が創造するわけがない、という思念を私たちに誘うからである。
 これは真空状態という絶対状態を私たちは仮に作ることが出来ても、それは私たちという存在によって恣意的にそのような状態を一定範囲内で作っているだけのことである、つまりだから真実に一切の存在のない世界に空間が必要あるだろうか、ということから、もし存在物が一切ない世界であるなら空間など存在し得ないということに論理的にはなるからである。
 しかし勿論こういった問い自体は解明され得ないものであろう。
 だが私が空間に関して関心があることとは、端的にその空間に存在する全ての存在物が巧く棲み分けていることである。
 例えば現在も多くの人々が自殺したいと考えているし、この文章を読むあなたもそうかも知れない。しかし殆どの自殺の理由は借金で二進も三進も行かなくなってしまった状態以外では他者からの疎外感であるように思うのだが、そんなことを考えることが如何に無駄かということは空間の在り方を考えれば明白ではないだろうか?
 つまり私は旅行などでも大勢の観光客が殺到する場所を避けて、出来るだけ自分だけが鑑賞出来る風景とか場所を探して行くことにしている。つまり私しか知らないある時間帯のある観光名所ということにある種の優越意識を感じられるからである。
 200X年のX月X日の午後のある時間帯は私しかその観光名所にいなかったということを誇るのである。そして興味深いことには、どんな悪辣な独裁者でも支配者でも意外と彼が虐げる人民の住む全部の場所まで自分が我が物にしようとは思わないことである。
 つまり独裁者とか支配者とは端的に彼の行為に抵抗する人を自ら出現することを望んでおり、その抵抗を潰すことに快感を持っているのだ。だからもし彼らが独裁体制を敷こうとしていたとしても、そのことによって苦境に極度に陥らないのであれば、可能な限り無視を決め込むこと、相手にしないことが最良の措置である。つまり独裁者とは端的に彼が住む場所とか持つ権力を自分に対して劣等意識を持つ人民を積極的に必要なのである。勿論東南アジアにある特殊な国家のような例もあるが、総じて羨ましがらないということだけが独裁者や支配者を孤独へと追い込む最良の策なのである。
 少なくとも私はある空間においてある時間帯に自分しかいないということの優越感を得られるのなら、いっそ皆が殺到するような場所には生涯訪れないでいても一向に悔しくなどない。つまり多くの自殺者の自殺理由が実はこの大勢の人たちと同じ行動が出来ないとか、優越していることを誇示している人と同じように行動出来ないことから来る劣等意識が極度に飽和状態に達して決行するように私には思えるのである。
 つまり自信とは端的につまらぬ虚栄心とか他者への羨望といった心の状態が生む一切のピアプレッシャーを克服し得た時、意外と容易に出会える心的状態である。つまり一切の他者追随を諦めることからしか自信など得られないのである。
 それは私の殆ど成功という二文字に縁遠かった人生が証明している気がする。それでも私は結構人生全体が楽しいものであったからだ。
 つまり私たちは空間を何らかの形で与えられている。しかし制度とか他者追随の心的様相が、ある特定の場所を特権化して、他の多くを大したことない場所と決め込んでいるだけなのである。私自身はひょっとしたら、一切の存在物が世界に、宇宙にないようなことでもあり得るのなら、空間など必要ないし、そんな世界や宇宙自体を想像することすら不可能であるが、そういった世界とか宇宙には時間もなかったのではないかとそう考えているのだ。
 つまりそれくらい個々の存在物、勿論その中に私たち自身も含まれるのだが、それらは世界にとって宇宙にとって必要だったのだ。それを考えると支配とか権力といったものは所詮幻想であるし、そういうレヴェルからしか世界を見られなくなった時その者を真に老化したと言い得るのではないだろうか?
 だから自分が立っている位置、世界の中での私自身の中心に対する特権を感じられる内はその人間には自信を回復する余地が残されていると言えるだろう。
 何故そういうことを考えたかと言うと、私自身は殆ど他者から羨まれるようなことは少なくとも大人になってからは経験してこなかった。人生の大半の時間を無職とか失業者として、あるいは結婚とか家庭そのものも持つことが出来ずに五十歳まで生きてしまったからである。仕事の成功とまで行かなくても、少なくとも安定した収入だけでも求めてきたが、それも殆ど実現しなかった。まあ唯一それでも必死に常に何かに取り組んできたという充実感くらいが今記憶の上で残されていると言っていいかも知れない。しかしそれはある意味では人生全体を一定の価値として見ることをしなでいると、いつ何時自分もまた世間一般の自殺者と似たような運命を辿りかねないという私自身の懸念と予感から出た感慨なのである。そして私はそれを私と似たようなあまりぱっとしない仕事での評価と、対人関係的にここぞという時に適切な人材と出会えなかったということをさえ、ある意味では人生の指針にして生きていくための知恵を得る価値とすべしということを、私のようなタイプのあまり恵まれないけれど、自殺する勇気もなければ、それほど自意識が過剰ではないタイプの中年に言いたいのである。
 私自身はあまりいいことの少ない人生であったが、これからも残された全ての時間を精一杯何故私自身がこうして生れてきたのかという不可思議な事実に対する問いを問い続けていこうと思っている。

Tuesday, May 22, 2012

B論文 名詞と動詞 12、空間の有限性の可能性と自然選択

 自然が生命を地球上に発生させたのは偶然的出来事であったとしよう。事実そのように多くの科学者たちが考えている。だのに自然を恰も人格的な選択をなすかの如く、自然選択という行為を行うかのように考えることの基礎をダーウィンが設定して後我々は皆この自然選択という概念を認識論上で採用してきた。そこで本章ではダーウィンの自然選択が空間自体の事情から生命の少なくとも動物を主体としたレヴェルでは一個の個体が死滅するということ、しかも植物でさえ個体の死滅ではないにしろ、枯れ死し、そこから再生する分化全能性のような永遠の同一形状を示さない無常性を付与している自然選択の側からの事情と絡めて考えてみたい。言語自体の問題は次章から本章の考えを考慮に入れ再び取り掛かることとしよう。
 空間自体の事情とはでは一体何なのであろう。それはとりもなおさず異なった事物、対象は同一空間内には存在し得ないというカントを始め多くの論者が語ってきたことである。空間には空間の事情があるからこそ、生物の多くは偏利共生したりしながらも、基本的には同一空間内では異なった種同士は存在し難いような必当然的な棲み分けをしていると考えられる。しかもその棲み分けで生物はある意味ではある特定の環境ごとの異なった自然システムに各種の生物が適応して進化していった、その結果益々同一環境内では異種が生息し難い、少なくとも競争者に関してはどちらかが移住して別個の場所で、しかも同一の自然性格を持った地点に本拠を構えることが戦略的に有利である、という事情からも無駄な競争からも逃れられるということも考えられよう。しかも移住する側の方が移住させる側よりも多少異なった環境にも適応しやすいということが移住の有無を両種に決定させ得る要因にもなっているのではないか、と考えられる。だがそれよりももっと重要な自然選択の問題とは生物が繁殖子を通して子孫を後代へと繋いでゆくようなシステム自体をなぜ自然が選択しなければならなかったのか、ということである。
 ここでこういう問題が浮上する。もし空間自体が無限であるなら、生命体の無限増殖、個体の不死ということもあり得たのではないか、ということである。確かに地球にはある限界がある。同一種が別個の環境に適応して生活し得るようになるまでには多大の時間を要する。そこで自然はある種が適応し得る環境をある程度限定する代わりに、その種が生存可能領域で激しい競争を回避して長く生存し得る為には個体をある時期ごとに死滅させ入れ替わらせるような交代して永続してゆけるシステムを採用したのではないか?そこで自然は個体に寿命というものを付与したのだ。それは地球が有限であるということだけに起因しているように一見思われる。しかし実際それが唯一根拠なのであろうか?
 我々を含めて全ての生命は繁殖子を持ち、それを通して子孫を残す代わりに個体はある一定期間を通過すると自然と死滅する。これはただ地球環境に限度があると言うことだけで説明し得るであろうか?例えば全ての生命が地球にのみ依存してしか生息し得ないと立証される限りで、そのことは恐らく正しい。しかし宇宙時代へと突入した我々には可能性としては人工的な措置によってではあるものの、宇宙空間でも生命は生息し得ることを立証しつつある。
 さてそういったことが可能となったのはとりもなおさず人間の高等知性によってである。しかしこの人間の高等知性をもってしても人間が不老不死であることはまだ実現してはいない。しかし少なくともシロアリ、ハキリアリなどは建築や農業をすることは知られているし、ハチもまた建築家である。そしてビーバーに至っては建築家であると同時に環境自体をも変容させる都市計画者たちである。すると我々はこういった知性をただ単に生活能力としてだけに限定して考えることは難しくなる。それは応用範囲の拡張し得る可能性を秘めている。例えばビーバーが異なった環境へと何らかの事情によって移住を余儀なくされ得るならその異なった環境において生活すべく適応する中で以前にダム等を築いていた知性を別個の環境に応用させ、ダム以外のものを生活上の創造物として拵える可能性は充分にある。そこで我々人類が現在のような宇宙文明の萌芽を導くことを自然が可能性として全く考慮に入れなかったとは考え難くなる。というのもそれら一切はある程度の知性以上の進化はあくまで偶然的であるからそれ以上考える時自然選択的な発想だけでは充分ではない、とそうも考えられる。しかし我々は我々自身の限定された知性でさえ、そのように考えることが出来るのなら、我々をも自然が創造したとするなら、その自然が我々の生命のいくばくかの種が地球を越えて存在し得るようになる可能性を考慮に入れずに済ますことが出来得たかというと甚だ疑問である。それならなぜ我々をある一定の例えば言語的思考能力という知性を自然が付与したのか、という疑問には答えられなくなるからである。ここら辺はある意味ではカント的な思考であるし、事実私は本章では敢えてカント的な必然的存在者と実在的存在者の概念を起用し、論を進めてゆこうと決意している。そうすることで空間の有限性を論的に立証し得れば(物理的には不可能であるから)弁証法的には空間の有限性による生命の無限増殖と不死の不可能性を立証し得ると思われたからである。この際全てが偶然の連鎖であるということが実際上は必然化し得るのではないかという観点から一定以上の知性をあらゆる偶然性に依拠しては説明が出来ない(それについては後述する。)ということを前提してこの論を進めることをお断りしておこう。
 まず仮定としてあらゆる生命個体が死滅せず無限に増殖し得た場合、どのような事態が発生するかという観点から考えてみよう。
 空間はそれが地球内であれ(それが有限であることは既知の事項である)宇宙に関してであれ、それは人間が未来永劫その最果てへと到達出来ない程度に無限であるが、かと言って際限のないものでもない、と思われる。というのももし際限なく無限であるなら、生命の全ては個体的な意味で、死滅し、世代が交代せずとも、つまり個体が永遠に生存し得ても何の差支えもないということとなる。それは空間的な事情から鑑みればそういうことになる。だが個体という単位で存続させることに纏わるコストを軽減する為に個体ではなく、群体によって生存を維持し得るのならその方が遥かに低コストで生存を保障し得るということは充分考えられるから、逆にそれでも尚個体によって多くの高等生命が存在しているという事実はそういった生命が全て死滅し各世代毎に生の期間を交代することを前提していることになるし、また死滅せずに仮に空間内にいつまでたっても増殖し続け、それらが一旦手中にした所有空間を他の個体あるいは群体によって維持され続けるということが常識的な事実であるのなら、そうしたとしても何ら空間的経済において支障がないような状況、つまり宇宙空間は無限に広がっているということとなる。だが実際上はそうではなく、個体も群体さえも、交代しながら生をある一定期間の間だけに限定しているのだから、我々は空間にはある有限性が前提されて存在している、と論理的に思弁的に認識することが出来る。それは勿論物理的には立証不可能であり、永遠に不可知領域に属するとも言い得る。自然科学は不可知な領域には立ち入らないという前提から出発しており、その時点でこのような設問は無意味とする。しかし自然科学で無意味とされた全てが問うこと自体の意味を剥奪されたわけではない。空間が宇宙レヴェルから考察されれば、必然的に空間的な有限性が可能であるかという問いが生じる。しかし空間は時間的に移動し得る可能性に対する設問からその広大さが了解されるものである。そしてその時点で哲学的に問い掛けてみても、それは不可知的な広大さであり、無限性に限りなく近い。その無限性とは人間がその最果てには到達し得ないということの了解から生じる。しかしそれでも人間も、他のあらゆる生命個体が栄枯盛衰することから無限増殖を回避している自然のシステムの中でその有限的な可能性を認知し得ることから我々は空間と時間の相関性を見極めねばならないかも知れないのである。
 付記 しかしこの章の設問は、即座にとどのつまり一つの種が永遠不滅ではなく絶滅するというもう一つの生物学的真実へと意識を向かわせる。実はその部分からの問いを意識した時、初めて生物学や地球環境学、天文学、物理学と哲学が接合する部分が見出せるとも言い得るのだ。しかし言語構造は統語であれ文法であれ時制的にもメッセージ構造としても我々(人類自身)があたかも永遠不滅であるという前提で営まれている。それはメッセージを成立させる意識構造自体が願望に支えられているという事を意味する様に思われる。(Michael Kawaguchi)