Monday, April 22, 2013

B論文 名詞と動詞 14、意味の相対性、恣意性

 言語活動において意味とは曰く相対的であること、恣意的でさえあることは、クワインの「論理的観点から」においても示されていた。例えば「(前略)辞書編纂者の問題を述べるために必要な同義性の概念が、同義的連関がきわめて明確であるために十分な長さをもつ記号列どうしだけについての同義性であるということは明らかである。(90ページより)」という箇所にもそのことは端的に示されている。この考え方は一面ではソシュールの考え方にも共通性があるし、パースから受け継がれた面もある。しかしこの意味というものを考えながら、カントが統一性と多様性という二元論を通して語る分析的判断と綜合的判断の概念規定可能性(「純粋理性批判」)において示した全体把握と部分着目の相互規定的なものとしての認識に関して、クワインはこのことを同書において「(前略)われわれは、反事実的条件法を黙認することには慣れている。同義性の場合には、成長する体系の専制的力、あるいは、はっきりとした客観的コントロールの僅少さは、より顕著である。(95ページより)」と示している。クワインは結果論的には分析的であることと総合的であることは確然的ではない、としている。
 クワインが言う反事実的条件法とは不可能性の指摘と考えてもよい。クワインが語るように実在物ではないものの概念否定すべきものは事実存在し得ているからこそ我々によって概念規定がなされている(ケンタウロスによって過去の多くの哲学者に示されたことをクワインはペガサスにおいて示している。<なにがあるかについて>)ということから不可能性を直観し得る。
 不可能性の認識とはある意味では直観力に頼ってなされている。一つの概念が実在物としては存在否定されても、概念規定をア・プリオリに我々が了解し得る限りで、我々はそれが実在物への認識として概念規定しているのではなく、カントも言っているような意味での想定可能性の範疇から想念的に生み出された仮構物であることが即座に了解される。茂木健一郎的に言えばクオリアとか仮想というようなものとも大いに関連がある。そして概念自体を否定することは無意味であると我々自身はすぐさま気付くのである。実在物としての否定は概念の否定とは重なり合わないのである。そしてその後でクワインが述べる同義性とは、ここで言う不可能性の認識同様カントの言う多様性と対比的に捉えられる統一性ではなく、異質性に着目する視点から捉えられた同質性に他ならない(ポール・リクールは「承認の行程」でレヴィナスが比較し得ないものの間の比較」を言及事例として扱っていると考えているが、この事とも関係があるものと思われる)。故にカントが言う多様性の方に近い。だからこそ統一的判断にある客観的コントロールが僅少になる、と彼は言うのである。異質性に着目する視点からの同質性とは言わば部分的な着目であり、それさえなければ異質と判断する視点からの瞬時の発見である。「似ている。」とか「同じだ。」と言うような。
 そして聴覚的な音韻判断システムであるところの言語活動において意味が前後関係や文自体の構成、脈絡といったものから仮に林檎なら林檎を語彙提示することで示される意味、あるいは林檎という概念自体の存在理由も変化し得る。この限りで言語活動において意味は相対的であり、意味を規定する文脈の存在自体が意味の恣意性を物語っているのである。
 カントが多様性の認識について触れていることについては「どんな人間にも、動いている物質の塊を、動いていない背景から切り離して、ひとつの単位として取り出し、それに特別の注意を払う傾向がある。(93ページより)」と述べ、また「理論的により重要な困難は、カッシーラーとウオーフが強調したように、言語とそれ以外の世界_少なくとも話者によってそう考えられた世界_とを原理的に切り離すことができないということである。言語における基本的な相違が、話者それ自体を、物と性質、時間と空間、元素、力、霊といったものに分節化する仕方における相違と一体となっている可能性は、十分にある。(92ページより)」とも述べている。前者の観点はゲシュタルト心理学からの流用であるし、ファイグルが「こころともの」で示した現象学派と論理実証主義派の共通性をも物語っている。後者に関してはクワインのこの論文をも引用素材として取り上げたストローソンが自著「個体と主語」においてクワイン流の、クワインの後輩の世代に当たるマッギンにも共通した神秘主義的なニュアンスを、彼独自の「特殊者」という固定指示性(その考え方はクリプキによって引き継がれ彼独自の解釈から可能性を開示された。)によって指摘している。ここには同一の観点における連綿とした意味づけ作用の連鎖が示されている。
 ゲシュタルト心理学からの引用と批判はサルトルと訣別してゆくこととなるメルロ・ポンティーにおいても捉えられている。ポンティーはクワインが自然科学的方法論と哲学的方法論の境界の曖昧さを指摘したような意味では、極めて類似した観点を持っていた。ポンティーの言う経験主義と主知主義の類似した難点の指摘は、ある意味では無意識のアリストテレス再考の可能性を示してもいる。クワインは自らを経験主義者と語るが、その歴史的な自己の位置づけから哲学者の特権であるとさえ考えられてきたデカルト的な心身二元論を打破するような意図によってポンティーが批判した経験主義とも一線を画す。
 カントは幾分アリストテレスを批判しながらも、カテゴリー認識というその原理的な内的メカニズムの措定には応用しているが、クワインやポンティーと大きく異なるのは、先述した形式主義的認識作用である。ここにおいてカントの(ある意味では無意識的に潜在していると言える)プラトニズム的な観点が仄見えてくる。つまりカントにあっては明らかに心的メカニズムが形式として認識されているのである。それはクワインが霊と呼んだもの(そう呼ぶしか仕様がなかった。)やマッギンが「意識の<神秘>は解明できるか」で示した不可知性を最高存在者から考えがちであることを指摘しながら(「純粋理性批判」)、一方ではそれをアポリアとか誤謬というよりは人間の本性として認識しながら、それでいて客観的に認識不能な対象として神を位置づける近代合理性も明示しているのである。つまりカントは後にクワインやマッギンが回避出来なかった不可知性への神秘的な捉え方を論理の上で可能な限り回避したかったのである。だがそのこととカントがそういった最高存在者とか無条件者という認識が不可避であることの認識とは全く切り離されている。その意味ではカントは実は極めて矛盾した論理を持ち、極めて資質的には懐疑主義(彼は伝統的な方法としては随時それを、ことのほか否定しているが)的でもあり皮肉屋である。この点においてはあくまで論理的整合性から攻めてゆくクワインの方が「受肉」という概念を使用したポンティー同様不可知性において最後まで取り残される非総括可能性を神秘主義的に吐露せざるを得なかったという風にも考えられる。意味は相対的に捉えれば論理的になるが、絶対的に捉えると非論理的になる。相対的な捉え方は「理解する」ことから引き出され、絶対的な捉え方は「信じる」ことから引き出されるのである。そういったことはカントの「経験的認識は、かかる理念なしに悟性の原則だけを使用する場合よりも、すぐれた成果を挙げ得るのである。」(「純粋理性批判」中、330ページより)という箇所にも言表されている。「かかる理念」こそ、「信じる」ことなのであり、現代哲学では久しく使用されなくなった「悟性」こそ、「理解する」ことへと直結し得るものである。
 カントのこういった心的メカニズムの形式的認識は言語学における自然言語と人工言語とか心理学が心的なメカニズムを理解する為にロボット工学を利用して入力と出力による判断マシーンを考えたりする(チューリングマシーンなどに代表される)ということに引き継がれる先駆的な資質である。この意味では一見論理的に攻め立てるかの如き様相のクワインの方に寧ろ心理学主義的な側面は感じられず、もっと記述主義的である。にもかかわらず現代心理学には批判的である。これは彼自身同書では決して否定しなかった行動主義の方法論にも共通したものがある。(行動主義に関してはサルトルも「存在と無」で指摘している。彼も一概にそれを否定してはいない。)カントは心的メカニズムを形式として認識するくらいには合理主義者であったものの、心的様相を記述することに関しては内観法心理学主義者であった、ということである。彼の論点が「~であるか~でないかのいずれかである。」という叙述に多くを依拠させていることからも一見真偽評定的であるかに見えるも、内観法的、ある意味では逡巡を積極的に肯定するような消極的な方法による「信じる」ことの無条件の獲得を出来る限り回避した、非論理性の積極的排除姿勢が見受けられる。(しかこのことは又極めて難しい問題を提起する。というのも内観心理と思弁的な思考能力との境界はどこに設定すべきであるか、ということに関しては極めて難しいからである。このことはまた別の機会に論じたい。)
 それは論理的な構築性を方法的に採用したクワインやマッギンのような総括主義ともまた一線を画すある種の矛盾性指摘主義とも呼ぶべき哲学的スタンスである。これはサルトルにも引き継がれている資質である。だからこそストローソンがカント解釈によって幾分カントの綜合作用に対して疑念を持ったことが、ストローソン自身の反プラトニズム的姿勢(これはフッサールにおいても顕著である。)において示されていることと関連性がある。というのもカントのこの非論理性の積極的排除、それは不可能性の指摘と異質性に着目する視点から捉えられた同質性によって可能となっているのだが、それはクワインやマッギンのような総括的論理構築性とは相反するある種の具体的指摘を好む現象主義を見出さざるを得ないのだが、そうかと言ってクリプキ的な真偽二値論理に収斂させるような意味での論理構築とも一線を画す一面では極めて濃厚な内観法的な矛盾を孕んだそれである。
 つまり逐一不可能性を指摘することは全体論的には矛盾も多くなり硬直した形式主義的になりはするものの、最後に残される最高存在者や無条件者を神秘的に捉えることだけは回避出来る。それに対して論理的構築を総括的に執り行うことは一面では無矛盾的に論理を纏め上げられるが、最後に残された不可知の砦に対しては神秘主義的な想念を払拭し得ないということである。
 纏めとして、今ここに列挙した幾人かの哲学者たちのことを考えてみよう。例えばカントとストローソンとマッギンを取り上げてみようか。彼らは時代を超えて共通の考え方を幾つか示している。カントにとってヒュームが「人間本性論」で示した考え方は大きなものであったし、ストローソンにとってウィトゲンシュタインやクワインたちの存在は大きな問題であった。それはクワインやクリプキにとってカルナップの存在が大きかったように、またマッギンにとっても今列挙した人たちは大きな存在であったことであろう。しかしそのような自らの拠って立つ論理的な出発点の違いがありながらも、哲学は中才敏郎の指摘する(「心と知識」)ようにある意味で哲学は進歩しないけれど科学と宗教との接点としての役割を持ちえるのなら(私はここに芸術も入れてみたいと思う。科学と芸術との接点、科学と宗教との接点という風に)、哲学者たちは時代を超え、異なった名詞によって表現された概念規定性に依拠しながらも同一の観点を模索してきている。カントの言う綜合作用という概念はフッサールの言う基体という概念に近かったり、ストローソンが言う特殊者はクワインの言う単称の同義性に近かったり、クリプキの言う固定指示子に近いと思われる。しかしそれらは同一の概念ではないということは実はそれらが使用される前後関係や文脈、あるいは哲学体系において存在し得る位置関係において相同ではないのなら、同一の事実関係を語っていてもその名辞が示す意味合いは微妙に異なってくるのである。だからこそ意味とはその意味が使用される手段や状況に応じて異なってくる、つまり相対的なものでしかない、とも言い得るのである。そしてその意味がある作用を及ぼすことを承知で哲学者という名の記述者がテクストに示した概念を使用することは哲学者当人にとっては恣意的な行為でしかないのである。カントが今日の哲学者であればエポケーとしたような神の存在に対するにも等しいような好むと好まざるとにかかわらず合理論的、目的論的な考え方から察することの出来る無意識の内に脳裏に抱く想念自体が客観的な哲学命題となっていることは、時代を超えて我々の脳裏にある新鮮さを抱かせるのであるなら、そのようなカントの哲学スタンスを否定しようと躍起になった後代の哲学者は寧ろその観点においてはカントが示したことを曖昧にした(だからと言って、彼らの示した全ての命題がカントよりも後退しているとは決して言えないが)とも言い得るのである。
 このような観点から考える時哲学には進歩がないという説を引き出しながら哲学の意味を探った中才敏郎的な認識においてある時代を遡った哲学者の考えの方が結果であり、その原因を彼にとっては後代の哲学者が探ったというような通常の進歩とは逆のパターンが(これは実は自然科学でもあることと思われるのだが)存在し得るということもここで指摘しておいてよかろう。そして哲学で問われたある命題の意味は概念規定性という呪縛を離れても次代の哲学者によって異なった概念規定の下に不死鳥のように蘇るということがあり得ることから、意味の相対性にはそれなりの時代を超えた普遍的な意義があると考えられるのである。

1 comment: