Tuesday, February 23, 2010

C翻弄論 7、言語を巡る学問的環境の問題

 言語を巡る学問的環境というものを考えると、日本国内にも数多くいる国語学者は現代文専門家と古文専門家とに分かれるように、英語でも何語でもそのように考えればよいかも知れない。しかし現代においてはソシュールが記号学という概念を正式に提唱してから、サピアも含み、それ以後の殆どの言語学者たちは個々の言語(日本語、英語)というパラダイムからもっと広範囲な言語社会学的、言語人類学的視点から考えるようになった。依然として日本に国文学者たちがいるように、英語圏でも同様の立場の人もいるが、チョムスキーらに代表される普遍文法という概念派生以後の言語学は多様化してきている。カッツ、ポースタルといった存在もどちらかと言えば哲学畑からの移入者たちである。
ただ現代文に対する認識と古文に対する認識は多少違いがあり、例えばサピアはネイティヴ・アメリカンの言語の研究者としても有名であるが、彼が自分自身ネイティヴ・アメリカンではなかった、というところに客観的に諸言語を研究し得たということは考えられる。もし彼が特定のネイティヴ・アメリカンの部族出身者であったならまた事情が違っていたことであろう。そうであるならネイティヴ・アメリカン全体の文化人類学者となっていたかも知れない。古英語研究家は英語圏の人も当然のことながら多い。しかしこと英語圏の現在の言語を体系的に研究するとなると、それは反って英語圏外の国籍者、民族の学者の方が客観的に洞察し得るという可能性は大いにあり得る。それは日本語も同様である。日本人以外の言語学者の方が現代日本語を客観的に認識し得るということはあり得る。しかし哲学者が人間であるのに、人間の生についての学が出来るのと同じではないか、という意見が聞かれそうだが、哲学が問題とし得るのは生に対しての価値的なパラダイムであり、それは抽象的な事柄である。こと文化というものに関して人間は自国文化に対して客観的には洞察し得ない部分が残る。文法の方がまだしもである。勿論文法自体もなかなか普段自分で使用している言語を客観的に洞察するのは難しい。しかし言語構造ということとなると、意外と自国言語でも客観視出来る面もあるのだ。そういう面では今日英語圏の人々が日本純文学シーンにおいて活躍したりしているのは、文学や言語学全体にはいいことではなかろうか。もっと言語学自体にも多くの日本人以外の民族から現代日本語の方にも輩出されるとよいことではなかろうか。
 しかし同時に学問というものが常に客観的でなければならないということもない、とも言い得る。何故なら私が日本人であることから考えられる日本人に関することは他の民族の人が考えることよりも正しいことである場合も多いからである。だから文化人類学や言語学において日本人が日本の文化や言語を論じる場合、同じ日本人だからこそ知っていること(ラング)は正しいという面を重要視すればそれでよい、ということとなる。
 しかし同時に普遍文法という考え方が定着した今日において、日本人が英国人の祖先を研究してもよいだろうし(その場合日本人の祖先に対する研究でもそうであるが、日本人と外国人の共同作業が望ましいように、英国人の祖先の研究は英国人自身の協力の下に日本人がなすべきであろう。)今よりももっともっと多く専門家外の人々の参加が求められて然るべきであろう。我々はもっと裾野の広い視野にたって、言語というものを取り巻く学的環境を考えねばならないであろう。何故ならその普遍性とは人間に関する科学でもあるし、哲学でもあるからなのだ。
 しかしそういう学的な環境というものは、要するに狭い世界である。しかし各出版社が刊行する辞典(ビジネス用語辞典とかの)の編集に携わる人々、新聞社の記者やデスクたち、シナリオ・ライターや劇作家、小説家といった人々もまた言語にかかわる専門家と言えよう。そういう意味では数多くの人々が言語の専門家である。政治家や法律家、実業家もまたコンプライアンス、アカウンタビリティーという観点から言えば総じて言語専門家である。だからもし、やはり言語専門家である某国営放送局のアナウンサーに向かって俗語を言ってみるとよくわかる。彼らの中でも硬いタイプの人間であれば、必ず顔を顰めるだろうし、性格的に温厚な人物であれば戸惑う表情を示すであろう。しかし恐れるに足らぬ。そういう態度を採るという事態こそ、彼らはそういった言辞、語彙、語句を認知している、ということの証拠なのだから。
 専門家だから理解出来る、信頼出来る、という面と、専門的であるが故に狭い見識しかない、という肯定的、否定的な面の双方がある。俗語というものの歴史自体は実はかなり古いし、そういう学問も昔からあった。しかし俗なことは民俗学の専門ということとなっているが、概してそういう分野ではその分野のカリスマ的な存在の学者の偉人というものがあって(例えば柳田國男)、その人の世界観がどうしても主流化してしまう。例えば歴史作家の司馬遼太郎の歴史観が大勢となると、それ以外の考えは無視されてしまう、という面も、文化的な学問にはありがちなのである。いや文化系的な学問以外の実は全ての学問に関して同様の問題はあると思われる。しかしこのことはそれだけでやはり数冊の本を仕上げねばならないほどの力量を問われる問題であるので、これ以上は言及せずに、本節では人間の高尚な純粋な観念への志向性(正統派志向)と、生活レヴェル、世俗的レヴェルの知恵や知識(通俗性志向)の双方を貪欲に吸収し得る可塑性の部分、つまり本音と建前的な二重性というものに関してここではもう少し考察してみたい。

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