Monday, March 15, 2010

A言語のメカニズム 21インターミッション

 ちょっと息抜きに言語の問題をもっと別角度から俯瞰してみよう。
 物理学では生命が必然であるか、偶然であるか未だに決着を見ていないということを述べたが、そのことについて少し詳しく考えてみよう。
 仮に生命が必然であるとしよう。するとこの宇宙の中では我々の住む地球以外の多くの星で多くの生命体が存在することになる。それはそう容易く地球から発見されるような距離ではないかも知れないが、やがてもっと高度な科学技術が人類にもたらされたら、きっとそういう別の惑星の生命体に遭遇出来るようになるであろう、ということになる。地球によく似た環境や条件の別の惑星では地球のような生命体溢れるような状況がきっとあるに違いない、ということになる。
 ところで地球はよく知られているだけで、多くの生物種が絶滅の憂き目にあった生物種の自然選択、地球環境の何らかの激変によるものであろう出来事が3回起きている。この大量絶滅を極初期から辿ってゆくと、まず古生代前期のオルドビス期とシルル期を境にする時期、そして古生代後期のペルム期と中生代の三畳紀の境目、更に中生代の白亜期から第三紀の暁新世への境目(この時所謂恐竜が絶滅したとされる。)である。しかし興味深いのはその度に絶滅を逃れ生き延びた種があり、その名からやがて地球上に君臨することとなる種もいて、かつその種はその大量絶滅の度ごとに異なった種たちである。二度と同じような展開は示されていない。絶滅した方の種も同じだし、また一度絶滅した再び甦った種も今のところない。このような唯一一回性の展開様相の示すところは、極めて自然の大きな変転はその都度の偶然的要素が大きく介在している、ということではなかろうか?
 もし本当に地球環境に適応出来る真に有能な種があるとして、それが絶滅したとしても、何らかの機会が与えられればまた復活することがありそうにも思えるが実際はそういうことはなかったし、一度絶滅するとまたその種が辿った進化の道のりを最初からやり直さねばならないとすると、仮にその種の所期の様相においてスタートが同じ様な生命システムの条件(全く同じことはあり得ないので)でも、同じ変化の仕方を繰り返し、同じような種へと変化して収まるということもまずありそうにない。なぜならその種の辿った初期の展開と最も違うのは周りの種の種類やそれらが形成する環境的条件がまるで違うということである。すると極めてその都度の偶然に支配されながら殆んど奇跡の如く偶然の積み重ねによって現在までの地球における生命体の構成や環境が形作られているとすると、今度はそれを地球外の天体に適用すると、他の天体において仮に地球同様生命体を育むのに最適な条件の星があったとしても、そういったそこに固有な偶然的条件が積み重なれば、同じ高等生命体が存在したとしても我々のような様相をした生命体ではない可能性の方がずっと大きい。それは我々地球においてカンブリア紀において進化の実験場が存在したが、その時にとうに絶滅した筈の(地球においては)種に似たものであったとしたら、その後の展開は地球とは全く異なった様相であったであろうし、そもそも地球とは全く違った展開であるなら、個体中心の生物ではなく、珊瑚のような群生とか、植物のようなタイプの戦略の生命体の高等知性化ということも進化上の可能性としては十分考えられるし、また固体状の生命体であるという保障も何処にもなく、例えば液体とか気体状の生命体、しかも高等知性を持った生命体である可能性も考えられる。しかし長い時間的スケールで考えると、そういった偶然的な生命体(しかもそれが高等生命体にまで連鎖するような)の誕生と進化という二つの稀なケースが同じ時間において起こるという可能性は限りなく小さいと言わねばなるまい。
 しかしもし百歩譲ってそういう偶然的出会いが仮にあったとしても我々がその高等知的生命体の言語を我々の知性で把握出来るものか(それは向こうの方が数段進んでいるという意味でもない。)、つまり交信可能な他者として存在しているのか、ということも大いに可能性としては考慮に入れておく必要があるであろう。
 我々はただでさえ地球上の多くの生命体に固有の言語をようやくその存在に気付き始めた段階なのである。我々には想像もつかぬような言語手段、コミュニケーション上の戦略がまだまだ地球上にさえ沢山あるに違いない。すると我々は言語というものの真実の姿、本当の普遍的性格を知らずにきている、ということも大いに考えられるのである。
 近年植物遺伝子等は明らかにその遺伝情報を各パーツへと送り込んでいることが解明されつつあるが、こういった遺伝情報そのものはすでにコミュニケーションであり、我々の言語行為の代用品でもある。いや寧ろ我々の言語行為そのものがこういった遺伝情報的な交信、情報伝達をこそ基礎としている、とも言い得るわけであり、その意味では言語というものの正体を把握し得るのはまさにこれからなのである。

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