Friday, March 19, 2010

B名詞と動詞、10<辟易との戦い、そして辟易の獲得>

 では我々は何故このように名詞において全体把握をして次の事項へと意識を転換させてゆきたいのであろうか?それは結論的に言えば我々が我々自身を飽きっぽい動物である、と心得ているからである。そのことを考えるに当たって避けて通れない事柄がある。
 現代社会はことビジネスマンにとっては戦場である。ビジネスマンにとって最もよく読まれる本はビジネス書であろう。ビジネスに関するノウハウや成功談は兎に角よく売れる。だからどのような大きな書店でもビジネス書は一番目につき、手に取りやすい場所や階(地下階にある書店以外は一階)に置いてある。その点では本書は最もそういった類のものとは隔絶されているであろう。(今までお付き合い下さり有難うございます。尤も最近<2010年3月現在>ではドラッカーのような経営学中でも人間主体のものが人気があるようであり、景気不景気なども読まれる人気あるものに影響を与えるようだ。)
 ビジネスマンにとっては業務をこなすことが本論であって、それは時間との勝負である。よって彼らには辟易としている暇はない。寧ろ辟易としていられるほど、それだけに関心を集中していられる余裕が欲しいというのが現代人の真意である。しかし古代はそうではなかった。恐らく哲学というものの発祥にはそういった精神的なゆとりというものがアカデミックなものとして尊ばれたのであろう。それは洋の東西を問わない。だからレトリックということが言われるがそれは詭弁というギリシャ哲学にまで遡る。東洋哲学にも似たような考え方は多く存在したであろう。そういった時代においては現代のようなスピードの時代ではなかったから一部の支配者階級の人々以外は辟易との戦いというものが顕在化していたであろう。尤も平均寿命は現代よりも極端に短かったからその限られた日数の中で何かを掴もうと思う個人にとっては短過ぎる時間の経済の使い道において辟易はなかったかも知れない。しかし今日のような意味での次から次へと業務をこなしていくことが求められるようなスピード感とはまた質が違ったであろう。辟易との戦いが意識を転換することを促すということは考えられることである。今日のビジネスにおいては辟易を感じる暇などなく競争が激化している。そこでは向こうから必然的に意識の転換が押し寄せてくる。次から次へと仕事の内容を転換しなくてならないのだ。
 アメリカのユダヤ人哲学者ソール・クリプキは戦後哲学界の風雲児として位置づけられる天才であるとされる。私もそう思う。その論点は可能世界論というものからスタートしている。「名指しと必然性」は初期の最も有名なテクストである。彼がその本質においては二値論理収斂型の真偽評定型の哲学者である。その先達としては「世界は5秒前に出現した。」という殆どジョークに近いような語り口のパラドックスで有名なラッセルなどがいる。
 クリプキの「名指しと必然性」での<ゲーデルとシュミットの部分>は誰しも笑いなしには読み進めないであろう。現象学の祖とも言われるフッサールがどこか生真面目でカント以上に笑いの要素が希薄である(カントは通常で考えられる以上にユーモラスな一面があると思われる。)のに対して極めてクリプキはユーモアが溢れている。それはフッサールが真理究明型だし、カントがアイロニーという面が強いのに対してどちらかと言うとクリプキは修辞的であるからである。
 しかしそのクリプキにも対抗馬が現れる。それがイギリス生まれでアメリカに渡ったコリン・マッギンである。クリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」に抗して「ウィトゲンシュタインの言語論」を発表した。その後も彼は独自の見解で哲学界を席捲しているが、一方のクリプキはプリンストン大学の名誉教授になって在籍している今日殆ど新作を発表していない。彼ら二人は対極的であるとされる。クリプキが一刀両断に切り込む戦法であるなら、マッギンはじわじわと攻め立てるやり方である。マッギンは二値論理的な真偽だけには拘らない。しかし思想的な基盤にはクリプキ同様の哲学の伝統が息衝いている。この二人は案外似ているのではないか、という思いで私は二人の論文を読み比べてきた。経験論哲学の伝統と論理実証主義の方法論を融合させたクリプキと生理学や物理学の知識と見識をも置いた知性の持主のマッギンはどこかで共鳴し合っていると感じられるのだ。
 そこで私はこの二人の論法自体を分析してから辟易との戦いと辟易の獲得(現代のビジネスマンにとってはそういう一面がある。)に関してその本質的な部分の問題点を炙り出そうと思う。

 本論の副タイトルは「確信、理解、決心」である。そして先に私は<「信じる」ことは理解を鈍らせる。曇らせる。>と言った。しかしここにはある巧妙に仕組まれた私のトリックがあったのだ。というのも私が友人と行き彼が足を悪くさせた旅行に関する事実は私とその友人以外の人々にとってはどうでもよいことであるが、私はその友人同様その事実を確信を持って「事実だ」と言い切れる。それは個的な経験だから他者にとっては何の意味もないが私にとっては足が悪くなった友人との友情の絆が深まったという意味において重要であった。友人にとっては足が悪化したのだから辛い旅であったであろうから気の毒だし、別の感情を抱いているかも知れないが。(ひょっとしたら私が楽しくなかったのではないか、と思って気にしているかも知れない。)しかしもう一つ我々は「信じる」ことの大きな現実を持つ。それは皆が信じていることだから信じようということである。例えば人類が1970年において月に行ったのは事実であるとされる。「カプリコン・ワン」という映画が昔あり、それによると実際は人類が月に行ったのは嘘で、我々一般民間人がそういう風に巧妙に仕組まれた戦略によって思わされているだけである、というような趣旨の映画であった。しかし実際極一般的に言えば確かに専門家でなければ宇宙航空力学とかロケット工学の知識はないから嘘というものも全くつけないとは言えない。しかしこれだけ長い間あの考古学の捏造や建築耐震基準の偽装のような形では決して世界の世間に偽装であった、と言うような見解が出ないところを見ると実際にどうも「人類は一度は月に行った」ようである、という見解から我々は一般に「人類は月に行った。」としているのである。それは他者にとってはどうでもよい、私と友人との一泊旅行のような意味での些細な事実ではないにもかかわらず、と言って全くの真実であるという確証が個人的には出来ない性質の確信である。
 それは恐らく信じないことが(仮に自己の裁量と能力において信じられないものは、それがどんなに確証あるものと世間で言われていても、それを直ちに信じるわけにはゆかないという風に言い切る人間がいたとしても、そのこと自体は個人の自由であるから私は攻め立てる気はないが、そういう風に意思表示した人間は得てして変人と見做され敬遠されがちなのが社会である。)世間的に聞こえが悪く、もっと言えば軽蔑されるから、たとえそのような意味の感情(「本当にそうだったのだろうか?」という)を持っていたとしても、表立って表明はすまいと殆ど条件反射的に決め込んでいるからである。それをも我々は<私が個人的に友人と飯能に一泊旅行に行った事実>同様同一の「信じる」と定義しているが、それは事実に対する確信であるよりは社会的に慣用的に定義されている事実を踏襲したに過ぎないのだ。だから、それらは確信ではなく、確信的宣言である。しかし我々はそのようなものの中にはかなりの程度に、それこそ何の根拠もないのに「信じる」ことが「理解する」ことを鈍らせ、曇らせることもある、と言いたいのである。
 さて私は悲劇の演劇や映画は基本的にあまり観にゆかなくなっている。どちらかと言うと健康には笑うことの方がいいらしいし、また興行的な形態の表現芸術を鑑賞する場合、本来金を払って観にきているのはこっちなのに、そのなすべき反応には暗黙の規制がある場合が多いからである。悲劇を喜劇的に解釈して観にいくのも個人の自由なのに、ああいう集団の鑑賞スタイルだと同じ所で笑い同じ所で泣かなければ(特に見せ場では)いけないかのような暗黙の強制力がある。それは演劇や舞踏において甚だしい。そういう所で自由がないのなら却って家でヴィデオを借りてきて観た方がよっぽど楽しい。パフォーミング・アーツの最大の欠点は集団的熱狂と集団的協調性の強制である。兎に角私は笑いたい所で笑えないようなものを鑑賞することはストレスフルなので真っ平である。
 しかしここで問題となっているのは建前上本来自由である筈の幾多の自由な発言が実はかなりの部分において我々の社会では制限されているということである。金を払って見る興行の世界ですら、そういう場所でのマナーが規定されている(拍手すべき所、笑うべき所、掛け声を掛ける所が決まっている。というより文化の定着に従って自ずと決まってゆく。)のだから、我々は一体どこでストレス発散をすべきなのであろうか?
 このような本音を言うことが憚られるような確信的宣言という踏み絵と建前論的には本来自由でいて自由ではない社会の常識というものはどこかで繋がりを持つのではあるまいか?そしてこのことはクリプキとマッギンという一見風変わりな哲学者を読む際に、それを「真剣に書かれており、れっきとした学問なのだから眉を顰めて読まなければいけない」、というような法律も常識もない(勿論そうしてもまた自由であるが)、という私の主張がまずあることを言明し、かつそのこととは相反するが、真理とはいつでも意外とそんなものである(大して面白くはない)場合が多いのではないか、つまり「なーんだ。」と思うようなことが多いということをも述べておきたいのだ。私はこの二人は対極と思われがちであるが意外と似ていると感じて実はかなりの部分で大笑いして読み進めたということを告白しておこう。そして何より私がこの二人の哲学者の主張するかなりの部分が論的な進行方法に関しては確かに異なるものの、同一のテーマに裏打ちされている、と感じるのである。そしてその同一のテーマこそ、今まで語ってきた建前上は自由でいて本当は規制されている自由、そういった自由の中で我々は「理解する」という機能を麻痺させるのだ、ということ、つまり本音では「信じていない」のに「信じる」と殆ど無意識の内に宣言する(何の迷いもなく)ことが実際はかなりの割合で我々の日常においてはあるのだ、ということ、そしてそれらはおしなべて言語的な認識力の弊害として立ち現れるのだ、という観点を別個の角度から考察している、ということを述べておきたい。

 言語は何かを認識する際に役立つものであるが、実際はかなりの割合でそれによって真実の理解や真の知覚が妨げられているとも言えるのだ。それは事物や対象を名詞という語彙によって、あるいは極一般的に言われる「林檎は赤い」というような形容語句、あるいは敬語などによって顕著なようにある行為や動作を言い表す時に常套的に使用される語彙(動詞)において既に考えるまでもなく決定されていて我々がそれを疑うことなく使用し生活上何の疑問も抱かないということである。寧ろそれさえなければ何の蟠りもなく理解出来る事項もこの世界ではかなりあるのではないか、と見受けられるのにえてしてそういう言語的呪縛に囚われること自体には何の疑問も抱かないということである。それは恐らくマッギンの言うような意味で我々は科学的常識に対しては疑問を抱かないでいることの方が多いということと繋がる。
 マッギンは自著「意識の<神秘>は解明できるか」において空間自体が抱える我々にとっては不可知な性質こそが意識の本質と繋がるもので、それはビッグバンというある意味では偶然的な宇宙創出に関して、意識が空間の中から偶然立ち現れたのではなく、意識と空間の不可知性質こそが宇宙誕生(つまり空間の誕生)以前に存在し、それがビッグバンによって空間自体が誕生し、それ以前の意識的な実体は、空間が優位に見えるようになって逆に不可知になった、ということを述べている。そのことの比喩として「盲視」の人の知覚能力を取り上げて、視覚に障害のない人にとっては却って目が不自由でないことが我々によって通常知覚と考えられる以外の潜在的な能力を見え難くさせ、それが通常の視力が不自由な人の方が、目が通常の人も不自由な人も共に携えている潜在的能力をフルに活かしているのだ、という見解を示している。
 その論点は一見荒唐無稽であるかのように考えられるが、よく考えて見ると発想の転換であることが了解されるし、思弁的に捉えても何ら問題はない。寧ろ彼の哲学的な論理を荒唐無稽と感じてしまうことの方がより確信的宣言に屈しているということとなる。
 そういった意味ではかつて「ウィトゲンシュタインのパラドックス」をマッギンによって批判されたクリプキの論理もまた「可能世界意味論」と、独自の様相論理においては発想の転換を示している。結果論的に言えばクリプキはカント的な意味での観念論哲学者ではない。寧ろイギリス経験論哲学の系譜、ことにヒューム流の様式を取り入れた哲学者である。そしてカント的な心情倫理とは真っ向から対立する責任倫理主義者である。その最たるものがゲーデルとシュミットの論点と生徒に最初に同一面積の四角と円を描いた男を名指して教える部分の論点である。その点観念論哲学や現象学的な視点も多く持ったマッギンにおいては生物物理学的な知識と生理学的な視点があるだけに自然科学的ではあるが寧ろ数学的な論理性とは程遠い。それだけにある意味ではカント的な部分を多く持つが、それでいてヒューム的な不可知論はしっかりと携えている。その二面性に我々は思わず釘付けになる。マッギン哲学においては意識と実在における不可知性に空間全体をも含む未知性への扉を開くような発想の転換がある。また行為の自由を巡ってカントばりの論点も持ち込む。(「物自体」的である。)
 カントもマッギンも指摘したように我々が先に本章で示した行為の自由を巡っての論議は確信と確信の宣言との差異にも繋がる。確信と確信の宣言との峻別とは言うはやすしだが、実際日常的には我々はこの二つを如何に混同して考えているか、ということは言えよう。その二つを意識的に明確に区別する術を我々は持ち合わせてなどいない。「信じる」ことの確定的な範囲を示せと言われれば大半の人が困惑するにちがいない。しかし「理解出来る」ことが信じることへと直結してゆくことがあるということはクリプキの指摘しているようにア・プリオリがア・ポステリオリな経験によって開示されることの可能性の示唆によって明白であろう。(「名指しと必然性」39~40ページより)
 ここで我々はカント、ヘーゲル、クリプキ、マッギンの論点における対応すると思われる概念措定的な配置関係を確認出来る。下図のようになろう。
  
カント<自由>―ヘーゲル<主人>
―クリプキ<固定指示子及び固有名詞>―マッギン<心、意識>

カント<自然>―ヘーゲル<奴隷>
―クリプキ<一般名辞>―マッギン<脳>

 
 偶然性を認めているという論点において「名指しと必然性」、「意識の神秘は解明できるか」は共に多くの共通性を持つところであるが、では問題は「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(クリプキ)と「ウィトゲンシュタインの言語論」(マッギン)における両者の対決(とは言っても既に名声のあったクリプキに挑んだのはマッギンの方であり、クリプキは別段何も反論してはいない。)である。端的に言ってこの両者を敢えて分け隔てるものを考えるとしたら、共同体の成員としての自己意識の有無が言語的な思念、認識を形成することに寄与するか否かという点であろう。結論的に言えば両方が正しいと言い得るというものだ。というのもクリプキの論点はあくまで語彙選択が慣用として考えられるというものであり、それは必然的に共同体の存在を前提する。そもそも共同体自体がそういう成員間の複数性と自己滅却性に依拠した形で成立しているものなのだし、かつ言語とはその中で育まれてきたのであるからである。しかし同時にそれらは個的な思念においても他者との交信性なしに我々は他者に知られないような秘密性を保持しながら育まれても来たのである。よってマッギンの視点(仮に孤島に一人で暮らす人間がしたとしても規則遵守は遂行し得るのであり、言語や語彙選択に纏わる共同体の成員複数性に依拠した規則遵守性とは無縁にでもそういう思念に基づいた行為は可能であると締め括る。)とクリプキの視点は同じ言語使用を巡ってその歴史的な発生基盤に見る(クリプキ)か、それとも慣用、実践されることにおける個人の心的なメカニズムに見る(マッギン)か、という論点の相違がある限り比較のしようもないのである。この二つの論点の違いは明らかに言語の発祥に関する歴史性に依拠した在り方(確信の宣言)と言語が個的に慣用される特殊な思念的現実という異なった位相において論じられており、その意味では仮にクリプキの側を優位に立たせるとすれば生物学的に動物行動学的に言えば孤島で暮らす人間でさえも狼少年のような生い立ちであるならきっとマッギンの言うような意味での規則遵守や行為選択も全く異なったものであっただろうし、またマッギンの側を優位に立たせるとすれば他者それも多数の他者による慣用に基礎を置く規則遵守的なほぼ無意識的な動機付けによる語彙使用が持つ非主体的な創造性のなさが自己行為の根拠であることの矛盾くらいであるが、どちらも二人の哲学者が考える意図とはずれている。
 クリプキの論点は明らかに言語が通用すること、つまり意志伝達がなされることがその意図とか心情とかその際に使用する語彙の歴史性に対する知識が関係するのか否か(勿論それはクリプキにおいては関係ないとされる。)という部分に対する着目であるのに対して、マッギンにおいては言語よりも大きくクローズアップされているものが意識であるわけだから自ずと異なったウィトゲンシュタイン解釈になるわけである。その意味ではマッギンはクリプキがウィトゲンシュタインの意図を拡大解釈している、と指摘する部分では事実論的には正しい。しかし同時に論理とは先人が試みたが果たし得なかった段階的な秩序を更新してゆくことこそが求められるのであるなら、クリプキの拡大解釈もまたマッギンの批判を受けとめるまでもなくウィトゲンシュタイン哲学の可能性を示唆した意味で正しいスタンスなのである。
 この二つの論文において示される端的な二人の相違とはクリプキが真偽二値論理性へと収斂させたい意図、つまり言語慣用秩序そのものへの考察であるのに対して、マッギンの方は存在論的な知覚行為を主体とした言語的な思念という全く焦点の異なった論点である、というだけのことである。その意味ではこの対決には勝敗は成立しない。そもそも全く異なった論点による対決であるのだから、マッギンにしてみればこのような形で伝説化された先輩に挑戦したことのメリットは大きかったと言えよう。今現在においてはマッギンの立場の哲学がやや時代を席捲している感があるが、それも長いスパンではどうなるかわかったものではない、というのが私の見解である(この論文を書いた五年前くらいはそうであった<2010年3月現在>)。
 マッギンの快作「意識の<神秘>は解明できるか」はある意味では知覚出来る脳(医学、生理学的な自然科学対象として)と意識(あるいは心)の乖離を描出しつつ今後の哲学の動向を占うような結末になっている。しかしもっと重要なこととは後半に出てくるコンピューターに意識が持ち得るかという問題(ティム・クレインも「心が機械に持てるか」というテクストを発表している。)に関する言及で感じられることとして、我々がもし意識自体を創造し得るのなら、まず自己の存在(それが生命であろうとなかろうと)を維持しようと躍起になり(躍起になるというところが重要である。人間が何かの不具合に対して自己において対処し得るような機械は既に考案されている。しかし焦ったり焦れたりはしないのだ。コンピューターが人間の心を持てるようにするためには、それを何とか必死に気を静めるような人間臭い態度と行動のニュアンスが要求されるであろう。)、必死にその為に思考を働かせ、何としてでも存続を図ろうとするような意図を持った機械を考案し、かつそのことで他の機械とライバル心を持ち、自己よりも優秀な機械に対しては嫉妬を持ち得るような機械を考案することであろう。そして最終段階としてそういった自我を理性で抑制出来るような機械が考案されれば、かなり人間に近づくであろう。だがまず自我を構築させることが先決である。
 その意味ではクリプキの哲学もまた語彙としては一切登場しないものの、自我というものの存在が濃厚に漂っている。何故なら規則遵守とか固定支持詞とか固有名詞の持つ社会的な慣用性に焦点化された論点からは意味理解というものが心的なモティヴェーション(あのフッサールが必死になって追究した)というものとは無縁に意味作用的に意志伝達される言語行為という慣用性機能自体が持つ社会機能維持の為の奉仕というメカニズムの視点が考えられる。その視点は明らかに我々の内的な自我がどのような成員にも存在していることを前提とした、ある意味では性悪的な存在であることを認めつつ全成員総意事項としてそれらが案出されていて、そこに我々自身一人一人もまた加担しているという現実を踏まえて提出されているように思われるからである。だからマッギンが語る意識のある機械が案出されるとしたらその加担というレヴェルまで突き進みある時にはその前段階で他者に対して嫉妬や自己主張するような人間臭い生物学と人間学の狭間にあるような行為を逸脱して行い、その後素直に謝るような機械の存在こそが求められると思われる。ここにおいてクリプキの社会学的な視点もマッギンの心理学的な視点も同一のフィールドにおける関心集中志向性を持っていることが了解されるのである。

 さて我々は今クリプキとマッギンという論客たちの論理を通した視点を検証してきた。そこで示されたのは慣用的な行為の連鎖が社会において社会機能維持として社会という公共的な機構、あるいは集団的な意志、総意として共同体における意図に合致したものとして「理解される」時、我々の内的な事情如何にはかかわらずその行為や発言は機能し、意味を伝えるということである。そのことは哲学的な心情倫理という視点からは矛盾を孕むが責任倫理的な視点によってほぼ総ての社会機構が成立している今日の社会においてはマッギンが機械に意識が持ち得るかどうかという論考を通して「意識の<神秘>は解明できるか」において示した現出によって示される意識が在るかのような振る舞い自体は意識の有無とは無縁であるという視点と、クリプキの慣用される語彙や意味作用がそれを使用し慣用的な行為として言語行為を行う能力は、話者の例えば内的な事情(語彙やそれを認知した経緯やそのことに対する知識)とは無縁であるという視点とはクロスする。
 私は先に「信じる」ことが確信である(内的にそれが客観的に絶対正しいと思い、そう信じる。)か、確信の宣言であるか(確信があるわけではないが、社会的に広く認知されていることから信じること以外の選択肢がないかのように自然と強制される。)の区別は実はかなり難しいと言った。数年前大型客船が沈没した歴史的な事実をモティーフとした映画がヒットした頃、その映画を何回も観に行く人が続出したことが記憶に新しいが、その大半の人々はその映画が実際に真に名画と思って観に行ったのではなく、大勢の観客が映画を見に行って同時にスクリーンに釘付けにされている特殊状況が自己の生理的な反応力を高め、皆が涙する場面では自己も自然と運命共同体的な生理的反応を喚起し涙腺を緩ませるという現実であったはないか、と思っている。私は母と共に正月にヴィデオになってから実家で観たが、正直言ってそれほどの名画とは思えなかった。このように「信じる」ことと「信じさせられる」こととの境界はその時点では、まるでマジックにかかった観客のように難しい。後から考えてみると「あの時はそう思ったけれど、よく考えてみるとあんなものはただの~だよねえ。」というようなことは日常的にはよくあることである。しかしその騙されたり、周囲の状況に踊らされたりしているその時点ではなかなかそのトリックには気付かないものなのだ。(政治においてもそのようなことは大いにあり得る。)だから特に他者から質問責めにされたり(突然テレビカメラの前で路上インタビューされたりといった)、早急に返答を求められたりした場合などは確信と確信の宣言とが混同しがちなものなのだ。事後的にゆっくり論理的に考えて見るとその区別はつくものなのである。
 そういった擬似確信が横行するような日常も実は現代社会というものが言語的陳述を通してその意味作用を通して、その人間がどのような感情を持ってどのような願望を抱いて発しているかという観点を無視してさえ、その字議通りに受け取り意味作用的にのみ陳述が流用されてしまう機構として成立している現実から起因しているのだ、ということを実は多くの哲学者たちが暗に告発してきたのではないか、と私は思っているのだ。その例としてここで挙げたクリプキやマッギンが、あるいはそれよりは先輩格のストローソンやオースティンが考えられるのではないか、と思っている。勿論その更に先輩格のウィトゲンシュタインやフッサールにまで我々はその起源を遡れると思う。言語哲学の起源自体を考察するとそれだけで一冊の本が出来上がるくらいであるが、言語哲学は発生学的に言えばその存立基盤として考えられることとして、実はこの「信じる」ことを巡る行為としての顕現と内的な確信との混同という社会的現実が明白に露呈しているという時代的な直観に依拠しているのではなかろうか?それは「理解する」ことを積み重ねて「信じる」に至るのではない、一見そのように見えるがその実半ば強制的に信じ込まされているような確信の宣言という行為性の持つ無意識レヴェルへの考察とそれを引き起こす大脳の言語中枢の生理的な反応システムが解明されれば我々は自己の確信を確信宣言とはっきりと区別して考えることが出来る気がするのである。そしてそれを解明するには脳自体が言語を通して思考する回路において共同体機構維持の道具として慣用している言語行為の発生学的メカニズム(音韻とそれを誘引する意志決定のシステム)を研究対象として射程に入れて考えてゆかねばならないであろう。

 本節における最初の疑問もこれで解けた。何故我々が全体的な把握として一瞬一瞬を名詞的な思念(確信の宣言)で決裁するかは、実際社会機能維持の一翼を担うような社会構成要員としての成員意識がそうさせる、という側面もあるということである。勿論そればかりではない。生理学的な身体システム自体の事情も考えられよう。しかしこれはこれだけで独立してあるのではなく、進化論的な認識さえ我々の人類が立たされている大きな意味での現代(過去数十年というスパンではない、直立二足歩行から社会性を獲得するに到る辺りから現代までを含めた)においての固有の事情に即応して考えねばならないであろう。そして名詞的思念においてなされる全体把握認識力が恒常的に日常的生において散見されるということが、今度は社会機能維持の一翼を担うという無意識の同化作用によって考えられねばならないのなら、その思念が社会の個人に与える順応スピードの加速に伴って即応性と即応能力を社会自体が求めているのではないか、という無意識に醸成される「構え」を無条件に意志決定性において放出させるシステムが我々の身体に、脳に、意識に備わっているのではあるまいか?それは大いに考えられることである。そしてその「構え」が、ある時は辟易しているのに、それを隠蔽するように心掛けさせたりするのだ。面接試験を受けている各種受験者にとって型通りの質問はうんざりするようなタイプのものなのにもかかわらず、我々はこういった局面においてはそういう辟易を極力隠蔽しようと躍起になる。辟易との戦いがここでも登場する。そしてその戦いは明らかに名詞的思念による全体判断をその都度促進し、質問に対して決心を語る知性を喚起させる。決心は全体把握とその信条の維持によってなされるのだから。「理解する」行為のプロセスは理解完了時以外、明らかに試行錯誤的であり、選択躊躇であり、逡巡である。しかしこういう面接とか非常の時には既に理解されたこと自体を提示し、決心を語ることを求められる。警察に逮捕されて尋問を受ける場合も同様であろう。だからこそ一瞬一瞬の辟易との戦いが必当然的に求められ、そういった心的様相がバソプレッシンという報酬への欲求を高める作用の内分泌ホルモンが自律神経系から放出されるのだ。辟易との戦いが名詞的思念である全体把握、既決定事項の確認を我々に促す。辟易との戦いは知覚自体に変化を齎すし、認識にも変化を与える。意識的レヴェルの価値転換を促すのである。全体的な物の見方の転換を決心という心的行為がその行為遂行的発言において実践するのである。
 ここで少し噛み砕いたことを述べよう。この世の中には自分の人生の使命を充分自覚して、その為に日々研鑽を積み、それを社会へと還元しようと真剣に考えて生きている人というものがある。歴史的な人物で言えばマザー・テレサがそうであったし、韓国ドラマ「チャングムの誓い」のモデルとなった宮中の実在人物の女官チャングムもそうであろう。そのような人生を送る人にとって日々は毎日出会いと経験の連続で無駄な時間というものはないのであろう。それはある意味では理想的な生き方であるが、それは求めてそのような人生が送れるというようなものでもない。天性の資質というものが必要である。しかしそういう日々を理想としながらも達成出来ないで悶々としている人というのが極一般的な人物像であろう。そして彼等を理想とするということが意味するところは、「日々教えられるという出会いの感動をどうしたら持てるのだろう」、という問いを持つことは意外と多くの人々の持つ一般的な考えである、ということである。
 そしてそのような生き方の片鱗でも実践し得るのは実は自己の立たされている状況、自己本来の意図や意志を熟知している、ということに他ならない。自己の欲求や意志の向かう先が理解されていれば次の目標は設定しやすい。「信じる」ことと「信じさせられている」ことの区別がつくということもまず自己の欲求や願望、意志の在り方をよく認識しているか否かが鍵となる。言語はそれが発せられるとそのことに対する反応が返ってきてはじめて自己の意志伝達意図が通じたことが了解される。しかしそれが時として滞ることもある。簡単に他者に理解して貰えると思ったことが意外と他者からは理解されなかったり、あるいは逆に他者にはきっと理解して貰えまいと思っていたら意外と直に理解されたりすることもある。自己の欲求や願望や理想、意志の向かう先が明確な場合、その人が他者に対して取る意志伝達は円滑に進行するであろう。しかしそうでない場合意図だけが空回りして何も他者には伝わらない。言語が意志伝達行為である限り、マザー・テレサやチャングムのような人生を送りたいという理想を抱いてそれを少しでも実現したいと願い目標を見出そうとしている場合の人間からは自然とその方向性は決まってゆくのではあるまいか?
 詩は志である、とはよく言われることであるが、意志伝達もまた志である。人生には実は辟易としているゆとりはない。だから変化をつけて生きてゆくことは必須の行為である。そしてその為に我々は次の目標を常に設定して生きている。語彙選択が意志伝達の基本的な日常的思惟であるように他者と対話する時間をどのようにして過ごすかを考えることもまた大きな他者交流を通した目標設定行為である。
 言語がそれを通して話者の意図や意志を表明したり、理解を請願したりする行為の為の道具である限り、我々はクリプキやマッギンが言うような他者と物自体(空間と言い換えても良い。)がブラックボックスであるという現実に対して自己の位置をどのように見据えるかが哲学自体の存在理由となっていることを私は知ったが、言語行為がそのような共同体の中で他者との交流を通して理解して貰えたり、そうでなかったりという反復自体が意味する行為としての言語活動、創造的な意味合いをこれから問いたいと思う。辟易との戦いは目的性に満ちた日常から産出されるが、辟易の獲得もまた忙し過ぎる日常から真の目的を探りたいという意図から産出されるのではないか?辟易とするくらい一つ事に没頭したいと願う心理は別に悪いことではない。

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