Wednesday, May 19, 2010

A言語のメカニズム 23言語に関する疾病と大脳の機能 序説 有限性と無限性、思惟の自然と自然の自然

 前前章の(インターミッション)で生命存在の可能性と進化の様相の偶然性について、前章では言語行為の定着とそこで示された大脳による思考能力の進化過程について少し触れた。ある援用されることの多い言い回しや物言いは、固定化された価値を有する言辞となり、慣用句となる。その言辞を発明した人間が共同体のリーダーに納まる場合もあれば、それを巧みにそれ本来の意味以上に実在感あるものとして利用し、共同体成員間に同意させるような話術と内容を兼ね備えた人間がリーダーとなるということもあったであろう。しかし少なくともそれ以前の慣用句や誰かの物言いに対する援用という常套的利用に終始していた時点での共同体の概念規定に対して全く異なった捉え方の言語表現が一気にウィルスの如く駆け巡り、言語行為を通した思考性そのものを大幅に変更させることはある種の思考の革命である、と私は言った。それは革命をそう否定的に捉えていない物言いである。革命は政治的なものばかりではない。寧ろ言語の革命が実際上の政治的革命を誘引してきた歴史の事実の方が余程多い。テクストはその度に大きな指標となってきた。
 そのことと関係があるかどうかわからないが、物理学者のアイゲンとヴィンクラーは共著である「自然と遊戯_偶然を支配する自然法則_」において革命について触れている。

 安定性と不安定性の違いは議会に提案される不信任案をめぐるやりとりによって明瞭にできよう。投票の結果政府が政権を維持することに成功すれば、議会の構成は全然変化しないか、変わったとしてもほんのわずかしかないであろう。つまり状況は「安定化」されたことになる。あるいは逆に反対党が過半数を手に入れれば、議会は解散され議会の構成は新しくされる。議会が民主的な機関として果たす機能はその構造、すなわち構造が大きく変わったかどうかには無縁なのである。構造が崩壊するにもかかわらず機能は維持されるというのが進化過程の本質的特徴である。これに反し革命はまず系全体を破壊し去り、つぎに新しいものを作るということであり、しかもこの新しい系が後になって実際に機能を果たしうるものだという保障なしに行われるところに特徴がある。進化の過程にあって特定の系が崩壊するのは、新しくつくり出される構造がより高度の機能的効率をもつ場合だけである。言いかえると、現行のものが不安定になる前に、その進化過程が起こるとことの利点がまず「提示」されなければならない。(東京化学同人刊、寺本英・伊勢典夫ほか訳、164ページより)

 ここでアイゲン_ヴィンクラーは自然が如何に偶然的要因によって大きくその姿を変えようとも、その都度の環境において生命体が進化するとか、しないとかの決断を自然が下すものと捉えるなら、ギャンブル的な突然の変化をもたらしたりはしない、つまり一切の進化上の自然選択システムが必ずその変化ののちにその生命体の利するところへ落ち着くようにのみ作用する、と捉えている。しかしこの見方はその生物にとっての利だけからの視点である。その生物には偏利であろうとなかろうと多くの寄生した生命体との共生によって生を営んでいる。すると例えばその生命体に寄生している生物の方の利が優先し、宿主の利を凌ぐということはいろいろの要因(それこそハインリッヒの法則的秩序に従って)からあり得ることだからである。しかしではこのアイゲン_ヴィンクラーの論述が偽であるかと言えばそれも違う。恐らく進化と突然変異とを大きく峻別し、なお進化というものをその個別種にとって利するところにのみ落ち着く、とすれば確かにこの二人の意見は正しい。しかし種とはそもそも子孫という別個体を生殖行為という特殊な行為によって産出する際に常に突然変異をももたらしてきた、ということなのである。
 種とはどのようなものであれ、その種固有の出自を持ち、その固有の事情は書き記された過去の祖先から引き継いだ遺伝的形質とそれをもって生まれ、同時に自身の個体としてのアイデンティティーを持つ誕生の際に受ける特殊状況からの影響によって幾分の突然変異をも請け負って生を営む際に現実の自然環境に対応し、対峙する中で示される遺伝形質とそれを利用した外部環境からの発信(特殊なものである。)に対する受信としてそれを認知し、知覚し、そのこと自体からも促進される遺伝子による生成過程において外部への返信として発現されたり、内部環境(身体)において外部への返信という行為に対応すべく常に全体的ホメオスタシスによって統制されながらも個々の、例えば染色体、細胞、神経組織といったさまざまの段階的レヴェル相互の発信、受信、返信が反復されたりすることの双方向的なメカニズムによって、遺伝子だけではなくさまざまの症状がその都度発現されたり抑制されたりといったことの、基本的に共通なエキソンにおいて保障された同一種内での自己同一的生命の集合体における様相のことを言うのである。
 癌におかされるということは個体維持に関しては突然変異的事項であり、その寄生種の勝手な都合に振り回される人間の個体の様相である。言語行為もまた疾病によって大きく疎外される。コミュニケーションのモティヴェーションの如何を問わず、それは発話能力に支障をきたす。これは言語学者、大脳神経医学者たちによって多くの報告例がもたらされている。しかしその実例に入る前にまず言語行為において発信、受信、返信と言ったシステムとはどのようなものなのか、ということに就いて考察してみよう。なぜ言語行為にさえも疾病が起きるのか、という問いは言語行為というものの正体に対する認識なしには理解し得ない。
 物理学において生命的秩序は明らかに情報のやり取りの有無によって峻別される。シアノ・バクテリアが自己増殖する過程では、無性生殖の秩序として同一の遺伝子を無限に拡張してゆく。その際同一であるという一事が相互に情報のやり取りを保障するのである。植物がオーキシン等のホルモンによって成長その他の一切の機能を制御し、そのたびごとに各パーツに情報を送り込んでいる。そのように情報を送り込めるのは一重にその大元のオーキシンを生成する植物遺伝子が祖先種から引き継いだ形質を遺伝子上に書き込まれた情報に忠実に発現させているからである。つまり情報とは同一のものに対してしか受け渡すことは出来ないのである。仮に全く植物の生成にとって全く利のない遺伝子が人為的に注入されたとしても、免疫的拒否反応を示すだけで、その遺伝子は伝えるべく情報をその植物本体はその用途を考慮せずに排除しようとするであろう。それは人間の身体においても同様である。
 このことを数学の論理においてしばらく考えてみよう。ラッセルの「数理哲学入門」の中から今論じている情報ということに関係する事項を幾つか取り出して考察してみることにする。

 証明における数学的帰納法は、昔は何か神秘的なものであった。それが正当な証明法であることを疑う合理的根拠があるようにはみえなかったが、だれもそれがなぜ正当であるかをはっきりとは知らなかった。ある人は、帰納法という語が論理学で使われる意味における帰納法の実際例であると信じた。ポアンカレは数学的帰納法を、それによって無限数の三段論法が一つの論法に要約できるきわめて重要な原理であると思った。われわれはいまではこれらすべての見解が間違っており、数学的帰納法は定義であって原理ではないことを知っている。ある数には数学的帰納法が適用でき、他の数には適用できない。われわれは「自然数」を数学的帰納法による証明できるように、つまりあらゆる帰納的性質を有するように定義する。このことから、数学的帰納法による証明が自然数に適用されるのは、神秘的な直観や公理や原理によるのではなくて、純粋にことば上の約束として定義されれば、四本の足をもつ動物は四足獣であることがいえる。数学的帰納法にしたがう数のばあいもまったく同様である。
 「帰納的数」という語はいままで「自然数」とよんだものと全く同じ集合を意味するものとする。それは、この数集合の定義が数学的帰納法からえられるということを、暗示しているので具合がよい。
 数学的帰納法は他の何ものにもまして有限者を無限者から区別する本質的特徴をあたえる。数学的帰納法の原理は通俗的には「つぎのものからつぎのものへと推論できるものは、初めから終わりまで推論できる」というような形でのべられる。このいい方は、最初と最後のあいだの中間段階の数が有限であるばあいには真であるが、他のばあいには真ではない。
 
 ラッセルの言うある数から別のある数への集合を考えた時、有限であればこそ数集合となり得るということを言い表わしている。そもそも集合とは有限であればこそ論理的に解析し得る。なぜなら無限であることは理念的には可能だが、表示しきれないし、また限りのないものをどうやって一括りに出来るのか?それは概念的思考の限界を示してもいる。しかし同時に我々はあり得ないことも数秩序の上ではあり得ることとして考えることが出来る。(本論の最初章を参照されたし。)その意味で数論理は言語的思考の論理的カテゴリーにも近いところがある。無限への認識もその意味では数論理と言語的思考の、自分の能力を超えたものまで想像して考えるとが出来るという「思考の性質」を物語っている。そもそも全ての数を数えあげることは不可能であるが、そういう風に無限に「ある数からある数までの」限定された範囲にさえ無限に数を考えることが出来るという概念的思考はやはり論理上でも可能である。ラッセルの論述はまだ続く。

貨車が動き始めるのを見たことのある者は、衝撃がつぎの貨車からつぎの貨車へと伝えられて、最後には一番後の貨車までも動き出す様に気づいたことであろう。列車が無限に長ければ、無限数の衝撃の系列があることになり、全体の系列が動き出すときはこないであろう。しかしながら貨車の系列は帰納的数の系列(中略)よりも長くなくて、しかも機関がそれに耐えられるならば、それぞれの貨車は遅かれ早かれ動きはじめるであろう。まだ動きはじめていないもっと後の車両はいつも残っているだろうが。この事例は、つぎからつぎへと進む議論と、それの有限性との関係を明らかにするのに役立つ。数学的帰納法による議論が妥当しない無限数の諸性質を対照的に考察すると、有限数についておこなわれる数学的帰納法のほとんど無意識的な使用法が明らかになってくる。

 ここの部分は物理的には宇宙ででもない限り実現不可能な比喩であるが、論理的な秩序を考える上ではまさしく名論であろう。しかも遺伝子が発現する現実や、どこかでついぞ全体の遺伝子が同時に発現することのない我々の身体まで連想させる。物理学的考察においてアイゲン_ヴィンクラーの論理が個体に存する突然変異という現実(遺伝子の翻訳ミスとか発現ミスというものも十分あり得るから、極端に遺伝的形質を無視する個体などあり得ないが、少々の誤差は常に付き物である。)ということを考慮に入れていないことと相通じるものを、ラッセルの言辞には感じさせる。このような概念的理解を促進する論理にはイデー的な認識の近いところもあり、するとそういったイデー的思考を揶揄するかの如きフッサールの言辞を思い出させる。

 (前略)文法的相違と論理学的相違とは必ずしも一致しない、換言すれば、諸言語は、伝達のための広範な効用をもつ質量的な意味の相違をも、根本的な論理学的相違(すなわち、アプリオリに意味の普遍的本質に基づく相違)を表明する場合と同様の、厳格な諸形式によって表明する_という、このような一般的認識は<論理学的諸形式の領域を過度に限定し、論理学的に重要な多数の相違を単なる文法的相違と看做して廃棄し、その挙句かろうじて伝統的三段論法に何がしかの内容を温存しておくに足りる程度のものだけを残しておく、有害な過激論{ラディカリズム}>にために地ならしすることにもなろう。ともかく高く評価すべき、ブレンターノの形式論理学の改革の試みは、周知の通りこのような行き過ぎに陥ったのである。ここでは表現、意味、意味志向および意味充実の現象学的な本質的相互関係を完全に解明することのみが、われわれに安全な中道を与えうるのであり、そしてまた文法的分析と意味分析の相互関係をも必要な判明性にもたらしうるのである。

 フッサールの論述は文法的相違と論理学的相違を同一視することが論理学的視点を限定することである、と批判しているが、事実我々が論理学的と捉えるものに対して、文法的相違は明らかに慣用という事実から限定された、日常的な使用頻度と共同体機能において親しみの持てる公共的事物のみを特権的に優遇するような偏向を必ず携えていることからもよく理解出来る。その意味では公共的で最大公約数的規定価値的な言語における慣用的文法規定性は差別的であり、しかも生物学的にも人間の声帯その他の身体的事情によって、民族共同体的ラングにおいて、その言い回し自体が極めて発音し難い(もっともどの民族も英語を勉強してその発音のし難いと感じるものがあり、それは大抵英語圏の人々もまたそう感じていることも多いが。)という側面は往々にしてあり、偏向性そものは致し方ないものなのかも知れない。だからラッセルが言う数理哲学的論理の真理性への希求は、そういった物理的条件とは無縁のある意味では大脳レヴェルの思惟の問題であることが了解される。数学という学自体が思惟の自然をモットーとしているからである。だから数学において物理学的な数値の無限に精確な表示は概念的には可能であっても、実際上のナノテクノロジーの限界をも考慮に入れれば実現不可能なことでもあるわけである。またこの不可能性はカントにおいても彼を悩ませた問題でもあった。カントは「純粋理性批判」(中、94ページより)において次のように語っている。

 (略)空間において実在するもの即ち物質は条件付きのものである、そしてその内的条件は空間の部分であり、また部分のそのまた部分は更に遠い条件をなしている。それだからこの場合には背進的な綜合が成立し、理性はこの綜合の絶対的全体性を要求する。そしてこの絶対的全体性が成立し得るためには、物質の実在が消滅して無に帰するか、それとももはや物質でないところの、即ち部分をもたぬ単純なものになるか、二つのうちいずれかであるような究極の分割による以外にはあり得ない。従ってここにもまた条件の系列と、無条件なものにいたる遡行〔背進〕とがある。(後略)

 この論述はラッセルの論述の最初に示した部分の論理を物理的空間に置換したものだ。
 無限大と無限小は理性的レヴェルでは理解出来ても、その包括的認識そのものが、物理的な確認が、こと相手が無限であれば完遂不可能である。その意味では無限とは、有限であることで確証されるラッセルの言う論理を成立させながら、一方でそれを無効にするようなもう一つの現実に対する我々知的存在者にとっての論理的無矛盾性への回答である。論理的無矛盾性とは、思惟の自然、思惟の必然であるのである。だからこそこう言える。論理的無矛盾性の学、数学の思惟の自然と、自然の自然とはおのずからズレを来たすのだ、と。(フッサールの言う文法的相違とはこの場合自然の自然に該当するのである。)
 遺伝子の翻訳ミス、配列ミスといった自然の自然な在り方が示すものは、結局のところ我々が理解し得るものは法則性だのア・ポステリオリに確認し得るところの大まかな真実だけで、それに逆らう自然の誤差とかの極小的なレヴェルの偶然性を支配するような必然性(そのようなものがあっての話だが)というものは現時点での我々には解析不能なのである。そのことをよく物語っているのがデリダの発言「有限性は本質的であって、根本的に乗り越えられることはけっしてあり得ないのではないだろうか」(「『幾何学の起源』序説」117ページより)であろう。
 しかし有限であればこそある個体同士の生殖行為によって産出される遺伝形質を備えた子供、子孫の系譜が生物学的には可能ともなり得るわけであり、その片親から二分の一づつ継承される同一のDNAが同一であればこそ情報を伝えられるというもう一つの厳然たる普遍法則を指し示してもいる。我々自身とは完全なるコピーでもないけれど、完全なるオリジナルでも決してない、ということなのである。偶然性は大きいけれど、遺伝的形質は確固たる必然であるからである。
 我々は生物学や遺伝子工学においてショウジョウバエや線虫、あるいは植物に関してはシロイヌナズナ等といった特定の生物のみを集中的に探索してきた。それは普遍的法則性の発見のためにその時その時の研究者たちと、現代科学技術の限界的事情、倫理的事情(人間を実験材料に出来ないものも沢山ある。)によってもたらされた致し方のない現実であり、この場合それはフッサールの言う文法的相違であり、自然の自然に対する対処法だったのだ。(思惟の自然では人間を知るには人間に対する実験が最も有効であることは確かであるのにそう簡単にはいかない。)しかし我々が例えば長く外国暮らしをしていて、久しぶりに祖国の人と邂逅した時、極自然と母国語で話すような、同一のものに対しては情報が生まれるという物理法則は、もっと近しい関係で言えば別々に育った一卵性双生児が殆んど始めて会ったその瞬間にすぐに気心を通じ合うような真実からも証明されているし、実験することが憚られるような人間の本質も、実は潜在的には我々自身が最もよく知っていることなのかも知れない。しかし科学は証明されなければ、自然法則としては決して認知しはしない。言語学者や脳神経学者たちは常に障害をもったケースを取っ掛かりとして、自身の病理学的見地から言語行為の本質を探ってきた。中でも失語症とか言語障害とかの症例は既に何世紀も前から多く報告されているし、また研究も盛んである。そこから幾つかの重要なものを取り出し検証してみよう。

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