Wednesday, May 5, 2010

C翻弄論 7 中位者の自己犠牲的精神に纏わるマゾヒズム的傾向と権力志向的サディズム

 我々の社会を見回しても容易にその例が見られることというのは、中位者の下位者に対する優越意識の誇示である。巫女論において吉本が主張したこととは、この中位者の心理を抉り出すことにあったと私には思えてならないのである。というのも巫女はそれ自体では決して権力者ではないけれど、上位権力者に対してはある種の近寄り難さを心理的に抱く大衆が身近なアイドルとしてこの巫女を認識していたのではないか、ということと、もう一つはこの巫女の行状を巧みに利用した中位者たちがいて、彼等は決して上位者には未来永劫なれないことを自己内でも自覚的であり、その自覚が今現在の上位者にあっては、その地位を揺ぎ無いものにして、尚且つ下位者の中からあまり優秀な人材が出て、上位者並びに自己を中心とする中位者社会の脅威にならないように心がけることがモットーであった、と考えられるのである。巫女は言わばそういう思惑を実践するための大衆つまり下位者に対する恰好の緩和的な素材であり、上位者に対する尊崇を維持するために機能したし、それを積極的に下位者に対して啓蒙することが中位者の使命であった、と想像される。
 アリとかハチの社会では中位者というものはメスの働きアリと働きバチである。下位者はオスの働きアリ、ハチである。上位者は女王アリとハチである。この圧倒的多数の中位下位者社会であるミツバチの世界では、下位者働きバチ(この中から王は出現しないという意味では働きはメスと同じでも下位者と言ってもよいだろう。)にとって遺伝学的にも実際の親である女王よりも兄弟に当たる働きバチのクラスの成員の方が血縁は強い(W・D・ハミルトンが発見した。女王アリ・ハチはメスをオスとの交接で生むが、オスはそれなしに生む。)ので、他所から女王地位剥奪者が現れて女王が変更されることより、自分の子を作るより、親の女王がいつまでも居座っているよりも自分の遺伝子を一番受け継ぐ兄弟姉妹が女王になった方が得なので、同一クラスの成員のために只管働き、彼らの結束は決して揺るがない。今度はアリの話をしよう。(ドーキンス「利己的遺伝子」より)
 それはある意味では社会内自己犠牲率先主義である。そこに介在する固定化マゾヒズム(勿論彼にそういう認識はない。擬人化して私はこう呼んでいる。)は、実は社会システムを改変しようと試みる不届き者を警戒し、未然にそのような行為を防止することにあるが、いざ女王の座を狙う他所様の不届き者が出現すると、今度はその不届き者の発する独自のフェロモンによって、たちどころに洗脳されて、今現在の女王が偽者であるという暗示にかかり、女王の挿げ替えを実践することに協力する。(現在の女王の首をちょん切るのだ。)しかし不届き者自身は彼等の横の結束さえ崩壊させなければ安堵して女王の座に座る。その繰り返しである。このような共同的な結束による自己犠牲的な心理が人間社会にも多々見受けられる。つまり重要なこととは、女王がどんなに偉くても、ハタラキ・クラスの横の結束を壊滅することは不可能だ、ということである。このことは人間の歴史においても、中世における帝国とか王国でもしばしば見られたことである。
 先述の寂寥が過食に繋がるという事態は、ある意味ではまさしく性的欲求の非実現性がもう一つの快楽である食へと向かうということと、言語活動であるところの会話する対象つまり他者が身近に不在であることが、性的抑制という言語思考的快楽をさえ阻止されているために、致し方なく(勿論そのようには当人には意識されないが)食へと意識を向かわせ、やがて性的抑制が過食という事態へと転化する、という風に解釈出来る。
 しかしそのような過食という行為それ自体は対他的には迷惑を直接かけないで済む。しかし社会機能維持の観点からは中位者たちは、下位者に対して日頃から上位者に対しては自己欲求を抑圧してもいるので、実は潜在している上位者に従属すること自体に内在するマゾヒズム的ストレス(そういうものがあってとして)を下位者に対するサディズムに置換しているのだ。それが横の結束だけはたとえ王者でも干渉することは許されない中位者の不動の権限である。そのような心理で臨む下位者に対する中位者の態度というものは、上位者に対しての従順を下位者に対して「自分だってこれだけ我慢しているのだから、お前も従え。」という要求しているのと同じである。それはある意味では上位者に対し自分でも気付かぬストレスも抱いているということをも意味しないだろうか?
 言うまでもないことであるが、アリやハチはあくまで遺伝子的な判断によって結束するし、上位者になりかわろうとする不届き者に対して誘引され、再び作業遂行という事態(女王の首を落とす。)へと至る。しかし人間は遺伝子的な傾向性として上位に対しては諂い、下位に対しては尊大になるという事態はあり得るが、それは無意識に表出する誰しも経験する惰性的な意思決定性によるものである。人間の場合、実際信条としてそういう態度を採ることを忌避している場合、意識的に無意識の惰性的対下位者に向けられる尊大さを抑制しようと意思決定することはある。思いやりである。しかしにもかかわらず殆ど自動的と言っても構わないくらいの意志的な対下位者尊大性の誇示者というものはいつの世にもいる。そういう人間の心理はまさに信じること、つまり上位者に対する礼節死守に対する神からの恩恵が下位者に対する上位志向性秩序への服従強要のための抑圧以外の何物でもないという信条に支配されているのである。それは性的快楽を抑制する機能の一つとしての言語的な思考、あるいは言語使用快楽の極がまさに、信じることが至上命題である、信じて実行することが自由として至上価値である、と命令しているのである。そこでは最早対自己懐疑というものは存在する余地が与えられない。信じることというのは考え続けることの放棄であり、惰性的性格(只管続行を命じる)がある。(宗教的妄信にもそれが言える。)
 しかしこの種のマゾヒズム自体がサディズムへと転化されてバランスをとっている決心の構造というものとは、一面では惰性的な日常性への依拠と同時に対下位者の脅威論を論理的に正当化している、とも言えるのである。下位者による中位地位剥奪への恐怖が支配へと直結している。これはいじめの心理の基本的構造でもある。
 恐怖が支配へと直結しているものの典型の一つが宗教である。宗教心というものを仮に今神に対する畏敬の念、神を恐れる気持ちであるとしよう。するとそこから我々は、我々自身が長い時代不可知の領域を不可知のものとしてエポケーすること自体が、とてつもなく心配なことであり、耐え難い困難さを伴うものであることを知る。というのも人間存在が不完全だという認識があるから、実は無であるところの不可知領域全てを何か実体が在るかの如く「神」という存在を仮定し、仮想しそこに最大の信頼と依拠を決め込むことから宗教心としての神の存在の確証を人間は得るのである。実際不可知領域というものはミステリアスに見える。そこで神という概念に代表させ、自らの小ささを覚知するための方策として、不可知領域の広大さを実感し得ない者(それは実際知覚不能であるからそうであるのは当然なのであるが)に対して不遜である、神をも恐れない不届き者であるという烙印を押すのである。その行為もまたある種の中位者の下位者に対する愉悦として古代より人間において機能してきたのである。上位者というものが人間であることを重々承知であるのにもかかわらず、人間に対する恐怖を神への恐怖に置き換えることで急場を凌いだ歴史的経緯の中から我々の祖先は次第にその仮託存在を実在するか如き錯覚に陥らせたのである。再び神への認識に戻ってみよう。

 ユダヤ哲学者であるレヴィナスも多大な影響を受けたブーバーには神が論的に前提されている。ブーバーは「我と汝」において、次のような叙述において、神というものの在り方を明確に規定している。そして続けて語る。
「(前略)自己の態度をたんに<体験するだけにとどめ、心の中だけに終わらせてしまうひとは、どのような深い思索に耽ろうとも、世界は存在しないのである。_また、彼の中に生ずるどのような心の戯れ、芸術、陶酔、恍惚、神秘があろうとも、彼は世界のいぶきに触れることはない。自己の内部でのみ解決を求めているかぎり、ひとは世界を愛することも、悩むこともあり得ない。彼は世界へと出てゆかないからである。ただ世界を信ずるひとだけが、世界とともに自己がなすべきことが分る。このことを明らかに認めるひとは、神なしではあり得ないであろう。もしわれわれがけっして消え去ることなき真実の世界を愛するならば、あらゆる恐れの中にあっても、すすんで愛し、われわれの精神の腕で世界を抱擁するならば、われわれの手は、この手を支えている別の手に出会うであろう。
 神から人間を分離させる<世界>とか、<世界の生活>があるとはおもわない。そのような<世界>は、経験し利用する疎外された<それ>の世界の生活である。
 真に世界へ出てゆく者は、神に出会うべく出てゆくのである。内への集中と外への活動、この双方は、一にして他であり、また一つであることを真に必要としているのである。
 神は一切を包む。しかし、神は、いっさいではない。神はわたしの<自己>を包む。しかし、神は<自己>ではない。このいかなる言葉によってもいいつくし得ようもないもののゆえに、わたしの言葉で、他のものが自分の言葉で、<なんじ>というように、<なんじ>と語ることができる。このいいあらわしがたいもののゆえに、<われ>と<なんじ>があり、対話があり、言語があり、原行為である精神があり、言葉が永遠に存在するのである。
                      ❋
 現実に現存しているという人間の<宗教的>な状況は、根本的に解決できない二律背反を特質とする。二律背反が解決できないということは、まことに人間の本質にもとづいている。またそこから命題を認めて反命題を認めて反命題を認めぬ者は、人間の状況の意味を破壊してしまうであろう。さらにこの二律背反性の矛盾を生命をもって耐える以外の他の方法をとろうとする者は、人間の状況にたいして誤りを犯すことになる。人間の状況の意味は、すべての二律背反に生きること、なんの予想も、想像も、規則ももたず、ひたすら、たえず新たに生きることにある。(119~120ページより)」
 
 ブーバーは神を絶対視しない。寧ろ各自心の中にある神を大切に思う。(そういうところはスピノザ的である。)神は彼にとって全知全能ではない。太字の部分が最も神の規定性としては重要である。そして神とは言ってみれば、各自の中にあるDNAのようなものであるかも知れない。それは確かに自己ではない。自己である神は部分的なものだ。しかしそれは自分にとっても「なんじ」にとっても皆共通して持つ重要なものである。まさに「われ」は自己を離れて「なんじ」の神や他の「なんじ」の神とも出会うし、協力することが出来るのだ。「この手をささえている別の手」こそ、我々が皆持つ人間としての絆である。この主張は明らかに吉本の共同幻想とも出会う。共同幻想は自己幻想同士の出会いでもあるように思われるからだ。
 しかし問題なのは後半である。とりわけ最後の言葉である。「人間の状況の意味は、すべての二律背反に生きること、なんの予想も、想像も、規則ももたず、ひたすら、たえず新たに生きることにある。」という一説は極めて重要である。全て二律背反に生きることとは異質性同士の共存と捉えれば理解出来る。「われ」と「なんじ」は確かに違う。違うから他者であり、他者と自己が対幻想となり得る。これが意思疎通の始まりである。
 しかし意思疎通というものは常に巧くゆくとは限らない。サールは同じ哲学者でもブーバーのように暖かくは眼差しを向けはしない。寧ろアイロニックであるし、懐疑主義的である。しかしその方法が理解という道筋には重要なのだ、という主張がある。
「ちなみに私は、約束を守るという義務が道徳的義務との間に必然的関係をまったく持っていないと考えている。約束を守るという義務が道徳的義務の典型例であると主張されることはたしかに多い。そこで、非常に陳腐な例を考えてみよう。さて、私が誰かのパーティーに出席すると約束しながら、その晩になるとパーティーに行く意欲を失ったとしよう。もちろん私は、出席するべきではある。なぜならば、結局私はそのように約束し、かつ出席しなくてもよいとするための言い訳(excuse)は見出されないからである。にもかかわらず私はそのパーティーには行かない。はたしてこの場合、私は不道徳であろうか。この場合が約束不履行であることは疑いはない。そして、私がそのパーティーに行くことがなんらかの理由で重要なことであるとすれば、私が家から出ないでいるということは不道徳なことであろう。しかし、その場合には、不道徳かいなかということは私の出席がどれほど重要であるかによってきまることになり、約束の際に引き受けた義務からただちに導かれるものではなくなってしまうであろう。(「言語行為」333~334ページより)
 まさに昔観た映画シリーズの植木等の無責任サラリーマンの台詞である。「何?お呼びじゃない?こりゃまた失礼!」である。つまり敬遠された人間の心理は、敬遠される自己内の理由にある程度自覚的なのである。だからこういう場合、無理してまで向こうの建前的誘いに応じるような義務感など無い方が寧ろ喜ばれるのである。人間引き際が大事である。いつまでもある場所にはいないで、いち早く他者の暗黙のサインを察して退散する必要性も社会にはあるのだ。それを一々説明を受けずには気が付かないような疎さはあまり褒められたものではない。
 しかしこの見解は実はブーバーの上記の見解と全く一致するのである。二律背反的な他者との相関関係を理解出来ない人間、つまり彼が「この二律背反性の矛盾を生命をもって耐える以外の他の方法をとろうとする者」とする人間こそ、他者からの建前的に誘いを受けたことを承知せず、敢えて説明されなければ何も覚知しない鈍感な人間のことだ。全く異なった文脈のように思われる哲学者間にも多くの共通した考え方は存在するのに、ただ闇雲に彼らは次元を異にすると見做すのはただ安易な流派受け売り的ジャーナリズムである。実存主義も行動主義も論理実証主義も構造主義も日常言語学派も分析哲学もポスト構造主義もへったくれもない。それらの哲学者たちは別のそのような言葉で括られることを望んではいなかったし、今もそうだ。それを示すためにブーバーとサールを持ち出した。思想を一括りにすることこそ中位者の知恵である。人間の中位者の心理は上位者へのマゾヒズムを下位者に対してサディズムに転換することで、自己安定化を図ろうとする無意識の選択なのである。それは誰もが持つ心理である。
 生物の世界における熾烈な自己犠牲性について思い出して頂きたい。彼らのように自己の分際を心得ること、自分の立場を弁えることはどの社会でも重要なことだが、そのことに関しては疎い奴がいる人間よりも寧ろ動物界の方がより徹底している。ハタラキアリやハタラキバチらは自らの本分を逸脱しない。もっと徹底している。自己犠牲の精神にも近い。「自分は社会においてそれほど偉い存在、分際ではない。」という自覚を徹底させている(勿論比喩である)。だからこそ逆に恐ろしく義務遂行的であるのだ。何しろプログラムされた通りに生きている。人間は頭がいいので遺伝子プログラムに沿って生きているとは考えたくはない。仮にそうだとしても別の理由を探したい。そして自分だけ固有であると思いたい。そういう考えの人間同士は相性もいい。

 付記 養老孟司は脳を実在作用、遺伝子を情報作用と捉える(「人間科学」)しかし氏のドーキンス批判は当たっていないのではないだろうか?この事は別ブログ 「生きているもの」と「死んだもの」養老孟司と永井均 において近日中に示す積もりである(未だ調査すべき事項があるので、すぐというわけにはいかないが)http://d.hatena.ne.jp/olivlove/#edit_in_place
 養老の考えの基本である行動が脳によって実在的に決定される事が遺伝子に影響を受けないという事は確かに行動学的には正しいが、そもそもある職業を選択したり、親しい人とか尊敬する人が決定される事はやはり遺伝子の影響が大きいと私は考える。要するに養老は解剖医としての経験から自然と人口を二値論理的に分極化したいようだが、やや即物的に過ぎるというのが、哲学的考察(氏は哲学者ではないという自意識が肯定的に強い)としては、少なくとも私にとっては物足りない。私たちは社会生活上外面的体面を保つ事と、心理的内面を保持し続ける事の二面的同時性を生きるし、それは自己に於いてそうであるばかりか、ミラーニューロンの発見などからも明白な様に、他者も又そうであるという確信を生きる。従って結論的には脳も遺伝子もあらゆる行動と意志決定、その合理化に関わると私は考える。

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