Friday, June 1, 2012

C論文 自信論 結論 自信とは何か?

 私は基本的に人生とは束の間の幻ではないかとさえ考えている。確固たる目的を持ってしても、そういうことというのは殆ど実現出来ないということをあまり若くはなくなっていったある日誰しも抱くことだろう。また仮に自分で最初立てた目標自体がかなりの度合いで実現したとしても、本当に自分の求めてきたものとはこういうことであったのかという風にも思うようになることが多いのではないか?
 私自身はクリスチャンではないので、ある意味では必ずしも自殺さえ絶対にしてはいけないことであるとまでは考えない。ある意味ではそういう選択肢さえ最後に残しておくことを悪いことであるとも思っていない。瀬戸内寂聴氏は「あの世この世」(玄侑宗久氏との対談、新潮文庫)において書けなくなった作家が自殺することを許してあげてもいいとさえ述べておられる。
 しかしそれでも尚、もしかしたら、もうこれ以上生きていくことに意味を見出せないとしても、その見出せなさとは一体何なのだろうか、と問うことを残しておくべきではないだろうか?それは何故こうも自分の人生が最後まで巧くいかなかったのかということをじっくりと考えてみること、それは勿論後悔をすることでさえいい。つまり人生というものをもう一度考え直してみるのだ、どういう風に自分の人生は無意味であったのか、と。
 人間はある意味では他者を撃墜したり、批判したり、バカにしたりすることだけが生き甲斐であるということそれ自体はあまり幸福であるとは私は思えないものの、何もする気も起きないだけならまだしも、生きていたくはない、とそう思うことよりはずっとましだと考えるのだ。
 しかし他者存在が自分を規定しているような生き方は、たとえ他人からよく思われることばかりを意識して生活するのであれ、今述べたように他人をこき下ろすことだけを生き甲斐にして生きるのであれ、そう変わりないとは言えると思う。
 つまり大成功をした人というのはそういう人なりに苦悩はあるだろうが、取り敢えずそういう人は他者全般から羨まれることであるから、除外したとしても、自殺したいと考えている人にはそういう風に成功者全般に対して羨ましいという気持ちにさえなれないだろうと思う。つまり生きることの価値自体があまりにも希薄で、しかも実際に生活すること自体が苦しいということだからだ。
 そういう意味ではやはり社会的成功とかそういうことというのは、一部の強い人にとって以外は、人生の苦悩とか幸福感情全般に渡る命題とは関係がないように少なくとも私には思えるのだ。
 人生が果たしてこれからずっと生きるのに値するのかという問いに意味が出てくるのは、ある意味ではこれまでずっと何をしても報われなかったとか、何をしても巧くいかなかったとか、寧ろこちらからはかなりの努力をしてきたのにもかかわらず、一向に外部からは反応がなかったとか、厭なのにずっと我慢してきた、もう我慢をすることには耐えられないとか、そういう気持ちでいること、つまり耐えられない状況から抜けきれないどころか益々そういう状況に閉じ込められているということを実感している時ではないだろうか?
 もし私たちが生きることに対して自信を完全に喪失しているのであるなら、いっそ一切の自信を取り戻すことを諦めた方がいいかも知れない。
 つまり元々自信などというものを持とうと思ったこと自体にとんでもない誤りがあったのかも知れないからである。
 だから逆に自信がないよりはあった方がいいということは誰しも当たり前のこととして分かっていたとしても、尚それがままならないのであれば、いっそ自信を持つことにしようなどと思わないことである。つまり何に対してであれ、一切に対して私たちはある程度まで実現し得たのであれば、それだけで満足である、と自信ではなく少しでも巧く行ったこと自体を満足することだけを覚えればいいのである。
 これが私は自信というものを実用的に考えるということにしたいと最初に言ったことなのである。大体において私たちの苦悩とか自信喪失とは、あまりにも多くを求め過ぎているというところから発生していることが多い。しかも羨む他者そのものの実の姿を知らずに、つまり嫉妬感情とか羨望感情だけで自分で作り上げた理想にその他者を当て嵌めて、その型に自分自身が嵌らな過ぎることに絶望しているだけのことなのである。自分の方が、自分が羨む人よりもずっと恵まれていることの方が多いということを少しでも発見し得た時案外我々は心を平静にすることが出来る、あるいは心はそうなれる。そして自信を取り戻すまで行かなくても、少なくとも他者に対して嫉妬したり、羨望を抱いたりすること自体を意味のあることではない、と思えるようになるのではないか?
 つまり意外と多くのこの世界における偉大な人と呼ばれる人による偉大な仕事とは、もうこれ以上生きている価値があるのか、とか、もう何もかも自分の思うようには行かないという風に諦めきってしまった時に生み出されたとも言えるからである。
 自信とは自信など持ってことに当たろうと思っても、所詮何もいいことはないのだ、だから一切自信を持つことが前提だなどと望まないようにしよう、という決意の下で初めてそれでも少しくらいなら自信とはあったらいいだろうな、と思えることである。
 だから自信過剰であるくらいなら最初から自信などない方がずっといい。慎重さとか謙虚さとかいったものは所詮自信過剰からは生れない。勿論慎重であり謙虚であること自体を誇ってもそれは駄目だろう。しかしやはり自信があった方がいい時というのはある。苦境に陥った時などがそうである。しかしその自信はどんなことがあっても、たとえ生きる価値を見失った時でさえ、その無意味について最後に考えてから自殺しても遅くはないのではないかと思える余裕のことなのである。だから逆にそれさえあれば、自殺しようとふと思った時にも思いとどまることが可能かも知れない。少なくともその問いの答えの片鱗だけでも見出せない内は自殺すまいと思うからである。
 この自信とは、こっぴどくとっちめられた時とか、ボロッ糞に貶された時などにさえ我々は何故そういう風に他者からされたのか、ということを考える余裕と言ってもいい。つまり或る意味ではそういう心の余裕さえあれば、一切が所詮一致などしないのだ、つまり自分の内部でこれこれこうである筈だ、ということと他者が思うこと自体が既にちぐはぐなのであるから、そういう一致自体を下手に期待しないように心がけるようになるからだ。
 私が最初から述べていた一致とは一致させようと求めることでもあるのだが、それは宗教家でさえ終ぞ確認出来はしない。しかし人は確かに他者からあなたと一致した、とそう言われたい気持ちの時もある。つまりそういう時には宗教家は職務として手助けしてくれるだろう。しかし所詮一人で生れてきて一人で死ぬ我々は一致を求めたくても一切一致しているかどうかを確かめることさえ出来ないし、またそれを諦めても尚また求めてしまうこと自体からも抜け出せないのである。だがそれさえ「そういうものだ」と思っていれば案外自分がどうして今自殺してみたいという気持ちになったのか、ということに対して何らかの返答であるようなものを見出せるかも知れないのだ。
 何故彼は私にあんな酷いことを言ったのだろうか、そういうことをもう一度よく考えてみる余裕さえあれば、自信などなくても何とか切り抜けていくことが出来るかも知れない。
 つまり相手もまた神様ではなくて只の人間である、ということを相手の立場になって考えてみると、意外と「そうか、あいつも只の人間だったのだ」と思って心は軽くなるものだ。相手の下す判断、相手が取る言動を絶対視しなければ、相手の立場になれる。尤も何かきついことを言われると私たちは一瞬固まってしまうから、なかなかそういう風には見られないし、すぐそういう気持ちになることは無理かも知れない。
 だから少し時間を置いてそう考えてみるのである。そうしたら、自信を持つのではなく、自信などなくても、冷静に全てをもう一度ゆっくりと考え直してみることさえ出来るのであれば、取り敢えず明日までは何とかなるだろう、という風になれるのではないだろうか?
 つまり自信とは「あった方がいいことは分かっているが、なくてもそれ自体、それだからと言って絶望的であるわけではないもの」と考えることによって、あるいはあまり脅迫観念的に持たなければ、とそう思えば少しくらいなら持てるものではないだろうか?
 つまり絶対的自信自体さえ持つことを心がけなければいいということである。極めつけの自信など大半の人が持っていない。だからそういうものを持とうと目指すこと自体は自分を追い詰める。絶対的自信、それは確かに理想ではあるだろう。
 しかし翻って考えると現実には先ほども言ったように自信過剰であることから来る奢りとか、堕落ということは往々にして社会には蔓延しているではないか!
 だからいっそ自信などなくてもいいのだ。これをこうしてああやればいいのではないかという判断だけを失わないようにすればそれいいのだ。そういう風に全てを対処していくのであれば、今現在自分が一切泊まる場所さえない場合、誰に相談することが一番いいかということを冷静に考えることが出来る。一円も財布にないので、交番とか警察署とかに駆け込むことさえ出来ないのであれば、叫ぶしかない、そして誰かに助けてくれないかと縋ったっていい。それだけやってみて、それでも駄目な時に自殺することを考えたっていい。要するに追い詰められた時に考える余裕を持つこと自体は、はっきり言って自信を持つことより重要である。それさえ出来れば自信を持つことの余裕も出て来るというものだ。
 つまり自信などというものは、それが全くなくてさえ別段困るものではないのだ。だから寧ろ自信がないことを「それがどうした」という気構えでいさえすれば、あるいは少しくらいならあった方がいいかも知れない、少しだけ持ってみようかという気持ちになれるようなものなのだ。だから却って最初から確固としたものしてならない方がいいのだ。
 そもそも最初の節でも述べたが、人間などというものは所詮他者と百パーセント理解などし合えるものではないのだ。だからこそ言葉を必要としたのだ。つまり元々理解など出来はしないということさえ理解しておれば、その中ででも少なくとも何かを言葉で伝え合う中で一言でも通じ合うことがあるということがどこか限りなく価値に見えては来ないだろうか?
 つまりそれが掃き溜めの鶴のように思えないだろうか?それが一つの価値ある実用なのである。そうである。確かに我々は他者と絶対的と言っていいほど百パーセント伝え合うことなど出来はしないし、また理解など夢のまた夢である。でもだからこそその中でも一言でも何か意志が相手に通じればそれはある意味では儲け物であるとは言えないだろうか?
 またこうも考えられる。どんなに理解し合えないとは言え、逆に人間とはどんなに違っても、例えば電車の中で隣に座っている人と自分を見比べてみても極端に違った生き物ではないだろう。つまりどんなに背が高くったって、せいぜい二メートルくらいであるし、どんなに背が低くても大人であれば一メートルくらいである。三十センチしかない大人など世界中探しても恐らくいないだろうし、三メートルを超える巨人もそうは恐らくいないだろう。つまりそれだけ与えられた条件はそう違わないのである。従って仮に自分の考えることを百パーセント理解し得ない人間がいて、しかもあなたと決して意思疎通し合えないようなタイプの人がいたとしても、その人は恐らくきちんと食事するだろうし、便もするだろうし、夜は寝るだろう。つまり私が言いたいのは、それくらい個々の差異などちっぽけなものである、ということである。にもかかわらず私たちはそのちっぽけなことに年がら年中関わってしまって、そこからなかなか抜け出すことが出来ないのである。
 恐らく私はあなたと実際にお会いして話してもあなたの苦悩をやはり百パーセントなど理解し得ない、いや三十パーセントさえ理解し得ないかも知れない。しかし少なくともあなたが日本語を話すのであれば私はその意味くらいなら把握出来るだろう。つまりそのように言葉が通じるということだけでもある意味では私とあなたは救われているとは言えないだろうか?
 つまり私たちとは、一方ではみみっちいことに関わり遭ってしまって、それも私たちの頭の中だけでのことなのに、それをかなり大きなことにしてしまって、自分勝手に悩んでしまっているそういう生き物なのである。勿論悩むことそれ自体は決して悪いことではない。しかし悩みを増幅させてもそれが決して自分だけが追い詰められているわけではないのだ、ということをけろっと忘れてしまうからいけないのであって、それさえ忘れなければ案外そのちっぽけな頭でちっぽけなことだけを悩むそういう存在者の集まりこそが社会であると知れば、そして一言だけでも通じ合えるということを神の助けだと思えば、今自殺しようとしているあなたにとっても何かの気持ちの救いにならないであろうか?
 つまり最初から自信もそうだし、他人から得られることそのものを一切過大に期待しないこと、それだけが我々が自信を持つことの出来る心の余裕を見出せる方法なのである。そうである。自信などなくてもいい。最初から相手に、他人に、社会に求め過ぎなければ案外この世界とは生きやすい場所なのである。しかしにもかかわらず、そのこと、つまり極めて当たり前であるそのことを案外私たちは忘れやすいのである。私たちはそういう当たり前のことをついけろりと忘れてしまうそういう生き物なのである。
 私自身はキャビアとかフォアグラを毎日食べることなど出来はしない、そういう貧乏人である。しかしキャビアが食べられなくてもフォアグラが食べられなくても、大根を食べることは出来るし、人参やほうれん草や茄子やジャガイモであるなら、毎日でも食べようと思えば食べられる。そのこと自体はかなり幸福なことではないだろうか?
 私自身はそういったものが食べられれば、仮に少しくらい贅沢なものが生涯口に入らないような人生でもそんなに不足はない。いや積極的に高級食材とかが一切食べられなくなることよりは生涯今私が挙げた野菜が食べられなくなることの方がずっと辛いし、どちらかを選べと言われれば、野菜を選ぶ。生涯キャビアやフォアグラが食べられないよりは、生涯日頃当たり前に食べられるものが食べられなくなる方がずっと辛い。
 つまり日頃当たり前に手に入るものをこそ本当は一番感謝しなければいけないものなのだ。しかし我々は案外そういう風にはいつも思わない。もっと高級なものとか、滅多に手に入らないものの方に常に首っ丈である。夢中である。しかしそれは間違っている。
 私はまず住む場所がある。だからそれだけでも神に感謝したい気持ちでいようと思う。つまり当たり前のこと自体が滞りなく運んでいる生活であるなら、それだけでかなり幸福であるとは言えないだろうか?しかし我々はそれをいつの間かころっと忘れてしまうのである。だから自信などというものは、なくても困らないけれど、あわよくばあるのだとしたら何か役に立つこともあるものだ、くらいに割り切って腹を括って、俺は一切の自信などない、だけれどその自信のなさを別に卑屈に思う必要などないと思って生きていく、ということが案外重要なのである。
 少し観点を変えて考えてみよう。私は常々テレビなどでつい最近起きた猟奇的殺人事件とか、最近ではそれこそ車で練炭とかで自殺したようになっていた人を実は結婚詐欺の女性が殺したのではないかというような、要するにワイドショーネタ的な話題を騒々しく報道しているのだが、何故そんなに自分とは関係のない事柄に皆熱中しているのだろうか、と思い続けてきた。
 例えば自分の生活に直接関わることと、そういう人物が何か困った事件に巻き込まれでもしたのなら、我々は確かに真剣になるだろう。しかし大半がそうではない殆どは一切自分の生活には直接関わりのないニュース内容に私たちは意外と多くの時間を掛かりきりになる、釘付けになっている。しかしこれはよく考えてみると、かなり珍妙な事態ではないだろうか?
 そんなにしてまでも我々は自分とは関わりのない多くの情報を摂取する必要があるのだろうか?しかしそうしているということには何らかの理由があるのだろう、そう私は思うのである。そこで考えてみる。
 私たちは本当は、四六時中一番自分のことが気がかりなのである。しかし繰り返し述べてきたが、自分のことというのは大半誰に告げても百パーセントは理解され得ない。そこで私たちは最低限度だけでも相互に通じ合えるためのものとして言語を利用している。勿論言語の発祥とかそういうことはそういう風な目的意識から成立していったのではないだろう。しかし恐らく言語活動が盛んになっていったという人類史的な意味での根拠自体は、私が考えているように、一切他者とは何を考えているのか分からないということ自体が、恐らく誰しもそうなのではないか、という目測を私たちが持ったということが言語活動をするように私たちに仕向けた、そしてその分からないなりに少しでも通じ合うものを求めて言語活動をしてきたのだというところにあると思う。
 それはある意味では自分自身に直接関わることを一旦棚上げにすることに他ならない。そこで私たちにとって本当は自分自身にしか分からないことが一番大切であるにもかかわらず、それは誰にとってもそうなのだから、いっそ二番目に重要な、分からないなりに分かろうとするための言語活動自体を盛り上げるために言語活動自体を活性化させるようなものをいつも探すようになった。そこでテレビが発明されると、そういった好奇心を搔き立てるような内容の事件を多くテレビで放映するようになっていったのだ。
 つまりある意味ではそれは自分にとって一番重要なことばかりを考えているとやはり落ち込むこともあるから、それを未然に抑止するために、付け焼刃的に、一瞬でも自分にとって最大級に切実なことを忘れるために設けた忘却方法だったのではないか、とそう考えたのだ。それは要するに一致することに対する渇望と、完全一致ということの幻想の前でたじろがざるを得ない我々の見出した気休めだったのである。
 何故テレビとか新聞で大半が自分自身と関わりのないことをも含めて確認したり、会社などで相互に話題にしたり、昼食に訪れた定食店のテレビに映っているニュースやヴァラエティーの報道内容に関心を注ぐのか?それは、端的に自分自身の本当に切実なことを思いあぐねるということの内に必ず出て来る自分自身の死ということがあるのだが、それらに対して思いを馳せるということは率直に言って不安をより掻き立てる、だからこそその不安を常に一時的にでも除去するために私たちは自分自身とは一切関わりのない事柄に関心を注ぐことを無意識に選んでいるのである。勿論皆今私がこのように述べているように言葉では説明出来ないかも知れないが、このことは漠然とした形としては全ての人が心底では感じ取っていることではないだろうか?つまりだからこそ私たちは映画を観に行ったり、新聞で海外のニュースを読んだり、ワイドショーで自分とは一切関わりのない話題に釘付けになって熱中するのである。
 勿論全てのニュースにおいて報道されることは、世界経済であれ、何らかの殺傷事件であれ、間接的には私たちの生活に影響を与えている。しかし大半のニュースとは、それが報じられない限りそれほど影響を与えないことである。しかしたとえ自分自身にとっては百あるニュースの内の一つだけ自分と大いに関わりがあるニュースがあったとしたなら、それは私以外の全ての人にとってそうなのだから、必然的に全ての人にとって少しずつ関わりのあるニュースを報じるとしたなら、今のようにあらゆることを報道しなくてはならなくなるのである。そしてそれはあくまでテレビに放映されることとか新聞で報じられることであるが、社会そのものがそういう場所であるわけである。
 社会とはそういう風に自分とは直接関わりのないもので溢れている。全ての社会に整備されたものとか、完備されたものと関わる人員など一人もいない。と言うことはある意味では私たちは色々ある中から自分にとって関係があることだけをチョイスして、後は全部自分以外の誰かにとって関係のあることを見過ごし、遣り過ごして生活している、ということになる。つまりそれが社会生活ということなのだ。
 しかし最初は全く自分に無関係な事物とか事柄にしても、いつ何時自分と深く関わることにならないとも限らない。そこで人間とは常に自分と直接関わりのないことへと関心を積極的に注ぎ、勉強をしたり、本を読んだりして知識を得たりするわけである。
 つまりいざと言う時に何か役に立つことがあった時にこそ、備えあれば憂いなしの謂いの通り私たちは意外と大きな自信を得るものである。つまりそのような自信とは何かこれからしようとしている時に持つ自信ではない。つまり新しいことをもしするのであれば、誰しも不安はつき物である。しかしそれをしても、やはり新しいことであるから、失敗することもあるだろう。そういう時に対処することがてきぱきと出来るのであれば、そういう対処能力を持っていたということ自体はかなり自信がつくことに繋がるのではないだろうか?
 それがないにしても格別困らないけれども、有れば非常に役に立つこととして自信というものを定義する上で極めて格好の例ではないだろうか?そういう失敗してしまった時にも、特に普段から仮に勉強したりしていない人でも何とか対処出来るかも知れない。しかしもし普段から何かしていてそれがそういう時にもし役に立った場合、かなり自信がつくという意味では瓢箪から駒であろう。またこうも言える。もし一切普段から何もしていなかったのに巧く失敗自体に対処し得たとしたなら、我々はもっと自信を得ることになるのではないだろうか? つまりそういういざという時に如何に冷静に対処し得るかというところに案外自信というものの本質が潜んでいるのではないだろうか?  
 例えば私が昼食を自分で作るのが面倒臭くて、コンビニでおにぎりとかサンドウィッチを買ったり、夕飯時には何か野菜を使って食事しようとして、色々な野菜を買ってきたりしたら、あるいは魚でも肉でもついでに買ったのなら、それだけで恐らく数カ国の産業と関わりがあることになるだろう。つまり食材からパックされたビニールやそれに商品を包むことまで考えるとかなり色々な日本以外の国とも関わりがあることになるだろうから。しかしそれらは端的にそういうものだ、という私たちの認識があるからであり、直接私自身がそれらの国と関わっているわけではない。
 それは言ってみれば、以前私の住む町にかなり酷い砂嵐があったのだが、それは確かに中国から吹いてきた黄砂によるものである、とそう知識的に理解出来るからだが、だからと言って私自身がその砂嵐に見舞われたことによって中国と関わっているという風には言えない。つまり私たちは全て情報によってあらゆる自分とはあまり関係のないものとの関わりの中から理解しようとしている、それだけのことなのである。
 つまりそういった現代生活の実態に対する理解自体を既にマスコミとかマスメディアによる情報的知識において私たちは成り立たせている。だから知らなくてもいいことを実はかなり一杯知っていて、逆に本当は理解していなければいけないことを案外何も知らないというのが現代人なのである。しかしその知らなくていいことの方を多くの人たちが関心を注ぎ、それを話題にしているそういう生活の仕方自体に我々は慣れっこになってしまっているのだ。だから自信というものをもし価値的に捉えるべきであるとするなら、それは知っていても仕方がないことを積極的に知らないままでいるように心がけ、自分にとって知るべきことだけに関心を注ぐということを他者に対しても意思表示し得るということかも知れない。つまりそういう態度で生活出来れば、新しいことをする際に自己を奮い立たせるために必要だと思っていて実は不必要な自己内のブラッフィングである自信を持つ必要がないということに気づくのではないだろうか?
 もし今私が言ったようなタイプの心がけを多くの人が取っていれば、自信を持つことが出来ないで悩んだり、それを失うと自殺しようかなどと思ったりするような短絡した選択は今よりは少なくなるかも知れない。
 いざと言う時にうろたえないで済む方法とは、いざという時のことをいつも考えていることから生み出されるわけではない。違うのである。寧ろ一切そういうことを考えないでいるということなのだ。ドイツ人は18歳になったら全員が保険に入ると言うが、実は私はそれが一見日本人に向いているように一般では思われるが本当は一番合っていないのではないか、と考えている。スペイン人のように今日は今日のことだけを考えるのでいいのではないか?
 勿論今言ったことは私にとっての主観であるに過ぎない。
 只私なりの見解を示すと、要するに何かに備えるという心的作用には意外とそれをしていさえすれば後は大丈夫だという安心量を得るということがあるので、逆にいざという時その遭遇した事態を新鮮に捉えられなくなるのである。しかしそういうことを一切考えずに何もかも進めていると逆に、何か不測の事態に見舞われた時に「そうか、こういうこともあるのか」と開き直って考えることが出来るのだ。つまりいざという時に備えている、あるいは備え過ぎているのに案外それが役に立たなかった時というのは失望感が大きい。従って寧ろ何が来てもドンと来いという気持ちでいた方が逆に「何も備えていないでいたのに、そこまで対処出来た」という自信が持てるのである。つまり全てがジャズ演奏家のようにアドリブであり、インプロヴィゼーションで事に当たるということである。
 しかしそういう風に一切予定とか備えとは別のその時なりの適切な判断をするということは、ある意味では極めて小さな日頃の努力を怠らない、そうでなければ閃いたりすること(脳科学ではそういう閃き作用は アハ!体験 以外にもセレンディピティーなどと言う)などないと思うかも知れないが、意外や意外、つまり何が起きても悠然と構えているということが大事だ、と私は思うのである。これこそが本当の自信、空元気とか対他者的な虚勢ではない自信なのである。そしてそういった自信はあまり多くを虚栄において望まないということに尽きる。
 だからこそ私はなくても困らないけれども、あったらもっと便利であるという実用的な意味で自信というものを設定しておれば、意外と役に立つし、その自信とは何か不測の事態が発生した時に只うろたえるのではなくて、悠然としている心の余裕ということである。
 因みに私自身は全くそういうタイプではない。いつも何か追い立てられているようだし、正直こういう本当の自信を得たことがない。だからこそ私にはそれが価値に思えるのである。そして私は本当に死んだ方がいい時のために、それまでは兎に角自殺することだけはとっておきたいのである。そして死にたいと思っても、そうかこういう不測の事態はあり得る、そして自分はこういう切羽詰った状況を何らかの形で招き寄せてしまったのだ、とそう自覚すれば、どうすればもっといい状況を招き寄せることが出来たのか、と自己に問い掛けられる。するとそうだ、こういう方法もあったかも知れない、とそう思う。すると次はもう一度だけこういう方法でしてみよう、と思い立つのである。
 しかしそれでもやはり今回のように駄目かも知れない。しかし次のトライアルをするまで取り敢えず絶望して生きるのをやめないでいることくらいなら出来る。そして次の結果が出されるまで私はどうしたらもっと巧くいくのだろう、と少なくとも考えることだけは出来るのである。それが出来るということに感謝さえすれば、私は生きていることの意味を束の間だけでも実感することが出来る気がするのである。
 つまりとどのつまり人生などというものは、何をしても巧くいかない、元々そういうものなのである。巧く行き過ぎているということ自体が逆に不幸を招き寄せることも多いのが人生である。だから他人を羨むこと自体が実は極めて無意味な心理なのである。でもそうなってしまう、私もそうだ。ならいっそ、一切が巧く円滑に進まない酷い状況をいつもそういうことが起きても大丈夫なように備えるのではなく、要するにそういう事態自体を想像して楽しむのである。そうすれば案外退屈な日常に考えることという習慣を根付かせることが可能となる。
 これは自信がなくてもいいが、あった方がもっといいという気持ちでいることを正当化するのではないだろうか?何故なら自信とはそういう風に悠然と最悪な状況でさえ楽しむ心の余裕から自然と沸き起こってくるものだからである。それは求め過ぎないことによって逆に得る諦めの境地を楽しむということに他ならない。
 自信とはそういう境地が習慣化されることを見せかけではない本当の理想であると知るために有効で実用的な概念である。
 私自身は殆ど確固とした自信などない。しかし自信などなくてもいいのだ、とか自信がないことを誇りにもしていないが、少なくとも何故あまり自信が持てないのか、何故ある時には自信が持てるような気がするのかということ自体を問うことにおいてなら生きていく自信を持てるような気がする。  自信論 <自殺しようかと考えているあなたへ> は今回で終わりです。又C論文を別のもので補充致します。(Michael Kawaguchi)

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