Tuesday, May 29, 2012

B論文 名詞と動詞 言語の無限連鎖

 不可知領域を自然科学では解明し得ないものとして認識し、そこから先は哲学に委ねるというスタンスは自然科学の方法的限界を自然科学が自ら認めた形での自然科学に於ける決定事項であるが、それはヒュームによって示された不可知論が後にカントによっても推進された事実からも伺える自然科学の外延的な実像でもあると同時に、それらはでは哲学では解明され得るのか、というと哲学もまたただ単に不可知を不可知として認識してゆくより他はないと結論するしか仕様がないのである(自然哲学出自の自然科学はある部分では極度にストイックであるが、そのストイシズムは哲学のそれとは又違う)。カントが形式主義者であるのはあくまで彼が「純粋理性批判」によってその極序説に於いて示したカテゴリー認識とその認識表によってである。寧ろ彼は現象論者である要素の方がより強いし、その現象主義論者としての本質に於いてフッサールが後に現象学を推進することとなったのである。カントのどういう部分が現象主義論者であるかと言えば、それは端的に言って彼の示す「物自体」という認識からであることは言うまでもない。しかしそれはやはりヒュームから引き継いだ部分のカントの本質であり、彼の全体ではない。カントの「物自体」とは決して現象的に我々によって覚知されるものとは異なり断絶をきたしているということを示すことを通して不可知論に到達したのはヒュームへの恩返しであったとも受け取れる。
 カントがある意味では物自体によってその現象的な認知以外の何物も我々がなし得ないという虚無感を独自のカテゴリー認識と綜合作用によって抉ったとするなら、現象の背後に本質を認めないという意味での唯現象主義というなら、サルトルこそ最もここでその任に相応しい人物であった、と言うべきであろう。そのサルトルが最も顕著に思想的なバックボーンとしたのがフッサールであったことは言うまでもないが、当のフッサールはスペチエスという概念を自身の初期論文「論理学研究」に於いて多用していることの背後にはダーウィニズムという観念が自然科学と論理学の狭間で大きな位置を占めていることを時代論的に直感し得たからである。そしてそのダーウィン当人よりも遥かに早く、種という概念を披瀝し、その分類学的な見地から総合的視野と分析的視野を透徹した眼差しで見つめていたのがカントであった。カントは論理主義的な認識の持主であったが、同時に形式的な認識もあったし、「物自体」を概念規定する様な方法的な論理思考には明らかに直観主義的な認識も持ち合わせていた。フッサールとて、直観主義的な視野をジェームスなどから咀嚼していたことは確かでありプラグマティズムと現象学の接点も意外とここら辺にあるのではないか、と思われる。しかもフッサールが極初期には数学を自身の専門分野としていた事実は安易な直観主義ではない確固たる論証性に裏打ちされた姿勢であるに違いないし、ある思想が成立する場とは極めて多重的で矛盾に満ちていることを、それこそ直観せずにはおれない。この様な思考的、思想的な連鎖が相互による認識作用の展開に於いて為される直観力、記憶整理力によって促進されていることと、その際に払われる秩序立った整理の仕方の様相が論的な展開と論的な様相を決するということを少なくともジェームスから学んでいた筈である。だがジェームスその当人にその様に我々が抱く様な認識があって、彼の論理を構築したのかと言えばそれは違うかも知れない、とも言い得るのである。ここには事後的に言語によって為された論理的な思想プロセスが次代の俊英たちによって巧みにその本質を独自の解釈によって上塗りされた上で継承される一種の無限連鎖を感じさせずにはおれない。というのもあるテクストに対してなされた発言とは必要以上にテクストに対する主観という風に解釈されやすい、ということがあるからである。
 実際にその発言はその様な主観主義的にその発言をした人物によってなされたものではなかったかも知れないが(あるいはそうであったかも知れないが)、にもかかわらず一方的にその様に深読みされて伝達されれば、我々はその深読みを正当なる解釈としがちである。それはそれを述べた者の社会的信用度に比例してそうである。やがて最初に発せられた言語の独自の多義的な意味は一義的な意味へと意図的に収斂され、目的論的な発言として処理され始める。偶然的な発言がこの時点で必然化され、過去の目的論的な事実として認定され始めるのである。ここに歴史は作られる(歴史とは無意識的に恣意的なものだ)。
 この様に言語によって為された発言自体がその自体的な意味性から離脱し、その発せられた偶然性が必然性へと置換され、やがて一義的な意味性へと収斂してゆく様な多義性の形骸化が我々が目にする過去化の最も顕著な例である。言語活動はこの様な過去化の波によって常に侵食されながら偶然の必然化作用によって規定を受けながら次代へと受け渡されるのである。そこにはある発言を発した人物の主観が言語的な概念化作用へと置換され、個的意味から普遍的意味へと置換されるある種の欺瞞、背進といったものが介在していることもまた事実である、ということである。人は真意伝達の完遂を幾分誤魔化しながら真意を多少の齟齬と曲解を経て伝達されることをア・プリオリに承知して意思疎通を図っているとも言えるのである。完全に自己が得た認識と同様の認識を他者が持ち得る為には他者が自己のクローンででもない限り不可能であることを我々は知っている(クローンでさえ完璧に相同の理解が得られるとは限らない)。だからこそ自己以外の他者が自己の認識とは幾分別個の認識を持って自己を理解することを予め承知していながらも、同種の理解の範疇で了解しておこうと思い厳密さを一般化された共通性へと常に置換しているのである。この様なある種の自己欺瞞、背進は言語活動という概念化作用にはつき物のことなのである。 その様な考え方を基本に空間の有限性の中で生を全うしようとするのが人間であるという前章の考え方を基本に、なぜその様な形で我々が言語による無限の連鎖をなすのであろうか、ということを考えてみよう。
 まず言語活動は人間が絶滅でもしない限り人間社会では無限に連鎖されてゆくということである。ある社会を例にとれば、その社会は日々刻々と異なった成員組織となっている。赤ん坊が産まれ、老人が死ぬ。そうやって成員の顔ぶれは日々刻々と変化している。そしてそうやって育まれ続ける言語体系は物凄く緩やかにではあるが、徐々に変化し続けている。それはどの様な言語に於いても何の例外もない。ただその様な変化のどの瞬間にでも成員がある語彙を使用する際にその語彙が指示する概念とは各成員が使用する際に心的に描くその語彙が指示する対象物(事)についての最大公約数的な重なりである。勿論その重なりの形状は徐々に変化してゆく。例えば林檎はかつて赤いものが主流で、それが最近になって徐々に黄色いものが主流となっているということが生物学的な傾向であった、としよう。すると林檎はかつて子供であり今は大人となっている成員たちによって赤いものであるという心的様相が定着していたとしても今後成長してゆく若者たちの世代にとって黄色いものとして徐々に変化して定着されてゆくであろう。そういった意味で語彙を巡るその語彙習得に纏わる個的体験性は徐々に成員メンバーの交代と共に変化してゆくことは恒常的な出来事である。しかしその変化のどの瞬間をとっても最大公約数的な心的描出の重なりがその瞬間での語彙の基本的な概念、つまり公共的な意味である。だからどの様な個的な体験性によって個的意味を成員個人の心中で語彙習得の記憶があろうとも、一般的な意味こそが主流となってその瞬間に於ける林檎なら林檎の定義を形成しているのだ。クワインの流儀では、「意味は名指しと同一視されてはならない」のだし、「意味とは、指示の対象から切り離されて語と結び付けられた本質のことである。」(「論理的観点から」33~34ページより)とする時、ここでクワインが言う対象とはカント的な物自体である。物自体はそれ固有の事情から我々によって認識される様な性質のものである以外の不可知な性質を常に有しているが、それは我々にとってはブラックボックスである。仮にその様なブラックボックスの一部が更に解明されても依然不可知領域は残される。そこら辺はカントの「純粋理性批判」からも既に口を酸っぱくするほど問われている。だが、その不可知性に取り巻かれながらも、極一般的な理解というものは常に存在する。それがその瞬間に於ける最大公約数的な対象的な事物への一般的理解であり、心的様相に於ける個的記憶誘引性の重なりである。それがクワインの言う本質というものと考えて間違いはない。しかしそれは名指しとは異なっているという。それはどういう事態を指すのであろうか?
 それはこう考えればそれほど難しくはない。本質はそのものに対する認識が変化するに連れて変化する。林檎なら林檎の我々の身体に及ぼす成分の理解度が増すに連れて林檎自体の本質は徐々に書き換えられてゆく。しかし林檎を「林檎」と呼ぶ語彙選択的な発話、記述行為を誘引する約束事は変化しない。一旦林檎を「林檎」と呼ぶ習慣はそうおいそれとは変化しない。そこで我々は林檎を「林檎」と名指す規則遵守的な認識は意味(つまり対象という物自体とは常に齟齬をきたす我々の対象への認識の本質である)とはまた別個の慣用的なコードである、ということとなるのだ。
 つまりある語彙はそれが指示する対象への人間のかかわりがある限り無限に連鎖してゆくが、徐々にその対象への理解度が増したり、希薄化したりしてその対象への認識が変化してゆくが、変化しながらもその語彙自体は残存しながら成員間に連鎖してゆく。そして概念規定的な役割を有している、という事実自体は何の変化もなく、語られ、記述され続けてゆくのだ。だがその無限の連鎖の事実が本質として我々に語ることとは、語彙を成立させる条件は人間の身体にける音韻的な発声システム自体にある限界がある、つまり周波数的な意味で我々が可聴な性質の音であるとか、口や喉の形から発することの可能な音の性質とかによってある特徴(限界)があるから(人間の発声システムは蝙蝠とも鳥とも異なっている)、その様な制約の中で執り行われるものである、ということと、その制約こそが、つまり能力の有限性こそが語彙を常に入れ替わらせることを阻止し、一旦そう呼ばれたものをそうおいそれとは被使用語彙の定着を変更しない保守性へと導くということである。そしてここでも空間的な有限性が同一パターンで各成員が同一の概念を通して個的な意味記憶を超えて共有し得る場を提供している、と考えることも可能なのである。もし空間が無限であり、個体が死滅せずに永遠に存続し得るのなら、言語活動に於いて仮に林檎なら林檎が指示する対象は無限と化し、またその様な音韻的に「り・ん・ご」と発する規則性やら音韻的な組み合わせも、その組み合わせの選択も無限と化し、林檎を林檎以外のあらゆる語彙で置換し得る無限の可能性の全てが顕現されてゆくに違いないであろう。
 しかし逆にもしあらゆる個体が死滅しないで生存を永遠に維持し得るとしたら、そういった個体間には全く抗争というものがないということを意味する。殺人のない共同体である。それは共同体でもない、ただの茫漠たる無限空間、それも個体によって埋め尽くされたものである。すると死滅に関する何の問いも存在しなくなり、従って哲学的思惟も存在し得なくなり、恐らくそういった社会には言語さえ生じ得ないであろう。すると仮に林檎を「ら・ん・ご」とか「る・ん・ご」とさえ発話し、それが指示する対象を呼ぶ空間的な地域が存在し得る空間的余裕があっても何の意味もない。そもそも言語が必要ではないだろうからである。この様に問うことの無意味を生じさせる可能性に対する認識は数学と物理学の関係を思わせる。
 虚数であるとか、千京の千京乗という様な数は数学に於いては思惟可能性として認められる。だがそれらは総じて物理学に於いては、とりわけ古典物理学をはじめとする自然科学に於いては余り意味がない。自然科学に於いてはその都度必要とされる計測可能な数値のみを相手とするから、その時点での科学技術の水準に左右され科学に於いては数値的計測方法の不可知領域への設問を無視することを決め込む。だが数学に於いては、それらは設問可能領域である。しかも無限性さえ考えることは可能である。数学はだから思念的に無限に進行する可能性をア・プリオリに前提している。おそらく個体の死滅のない社会では高等知性というものも生じようがないであろう。しかしにもかかわらず「り・ん・ご」を「ら・ん・ご」と呼ぶ様な社会の可能性を考えることは数学的にも哲学的にも可能であるし、その可能性もまた無ではない。というのも林檎を「り・ん・ご」と呼ぶこととなった経緯自体が極めて偶然的であるからである。これらの可能性を考えることは少なくとも現代理論物理学では稀ではないようである。
 ここである結論が示されたと思う。それは言語がその様な「り・ん・ご」を「れ・ん・ご」の様に呼ぶ可能性を秘めたある規定的、規約的な特定条件指示の音韻的顕現行為があるとするなら、言語の語彙発音等が徐々に変化する事実から言語は無限に変化をし続ける(人間が絶滅しない限り)無限連鎖の可能性を秘めた恣意的な行為である、としてもよい、ということである。事実歴史的にはどの様な言語でも一気に変化することは稀であるとしても徐々に発音が推移してゆくことは日常のことである。また日本語の「夜<yo>」をフィンランド語でも「yo」と呼ぶ様な偶然性(果たして全くの偶然であるかはまだ判然としていないが)や、あるいは「yo 」が「ye」である様な、しかもその意が夜である様な言語があり得る可能性はある。だがそれとて偶然である可能性の方が大きく、何か別の大本からそれらへ分岐していった可能性もあるという様なことは同一の歴史的背景がない限り不可能であろうが。
 しかも我々は次の点に眼を向けなければならないのだ。つまり無限連鎖はあくまでも我々の種の存続が永遠であるという限りの可能条件の下でであって、我々が使用するあらゆる言語はそれ独自の文法秩序と語彙を有しているが、その制約的な条件の中から我々は過去の使用者間の秩序の幾分かを受け継ぎ、その幾分かは変更し、次代に引き渡すが、それは永遠に続く連鎖に於いてのみ極初期の文法や語彙の痕跡が全くなくなる可能性を示しはするものの、実際上それ程の気の遠くなる様な変化をきたすことなく、人類が絶滅するのであれば、その連鎖に於ける変化は多少の痕跡を人類最後の存在者さえもが、極初期のその言語の原初的形態を痕跡として保持しているであろう、ということである。しかも成員間に慣用される言語が人類種に於ける個体の身体と精神による生命の永遠の保持が不可能であるという事実にすら依拠している、ということが示される。というのも無限連鎖に於いて徐々に変化してゆく言語の様相が初期から考えればほぼ無限であるくらいに個体が永遠に生命を維持し得るのなら、我々は言語など使用することすら意味がない、あるいはこう考えてもよい、人類がそれを使用することで存続を図ろうとする、個体を維持しようとする言語の生存の武器説はあくまで言語とは個体がいつかは死滅し、次代の個体へと生命活動が引き渡されることを前提として生み出された装置であるという考えなのなら、死滅しないで無限連鎖を続ける様な、つまり原初的な形態を全く保持していない様にやがてなる様な言語を態々自然が人類に使用することを選択し得るであろうか、つまりそれだけのコストをかけて人類の進化を自然が与えたであろうか、と考えると甚だ疑問である、と言わねばなるまい。つまりもし言語が人類の個体の生命数と寿命が仮に無限であることが可能であっても尚存在し得るのなら、何故無限に変化してゆく様なヴァラエティーを言語が持つ様に自然は選択し得たのか、という設問に対して我々は答えに窮するのである。何故なら言語が複雑であるからこそ徐々に社会のニーズと共に言語は変化し続けるのであり、つまり人間のあらゆる非論理的な欲求とか欲望とかが言語に一方で感情表出とそれとは対照的な論理構築をさえをもたらす誘引作用となるのであるから、もし個体の生存が無限である様な地球の、宇宙の人類の社会があり得るのなら、我々には寧ろ極単純な言語使用しかあり得ないのである。何故ならその様な社会には個体が永遠に存続し得るのだから、殺人はもとより、あらゆる犯罪、そしてそれを誘引する様な人間の心的に複雑な様相、例えば競争心とか嫉妬なども一切ないのでなければならないし、そうなったら単純な言語、つまり人間の非論理的な部分を排除したものでなければ矛盾するからである。
 つまりこう言えよう。言語が複雑であることで言語は緩やかに人間の意識の変化に伴った社会の変化を来たすのであり、それは人間の心的なつまり脳内での活動は一方で感情的な非論理に支えられつつ、同時に感情のままに突進することを制御することと、思惟することの快楽の獲得という目的論に於いて論理構築すること、例えば数学的思考を働かせるとかの活動を絶えず反復しているという事実に依拠している、ということである。そしてその論理的思考を巡らすことは人間が非論理に陥ることを一方でその本性として理解しているからこそ、その二律背反的になされている、と捉えられるのだ。我々の社会でも社会的失格者たち、あらゆる犯罪者がいる。だから当然のことながら被害者<死者も含む>も出るので、結局実存論的には永遠の個体の維持ということは自然科学的に仮に可能であってさえ不可能ということとなる。つまり自然は個体をほどよいレヴェルで死滅させながら全体を調節している、ということである。言語の無限連鎖はその限りで永遠の個体維持という幻想の下にのみ成立する思惟の自然が生み出した可能条件なのである。

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