Saturday, May 26, 2012

A論文 言語のメカニズム 27 中枢神経、物体、相関性

 受容と拒否のことを思い出して欲しい。(第6章、受容と拒否を参照されたし。)我々は受容と拒否を行うが、なるべく拒否を回避する方向で生を全うしようとする。拒否エネルギーが個体の維持に多大のロスをもたらすことは明白であり、故に我々は肯定的な事柄から否定的な事柄への転換や事項の変化、切り替えを何かの拍子に思い出したりはするものの、否定的から肯定的な方を寧ろなるべく選択し記憶しようとする。自己防衛心が極度に肯定的な事項への変化さえも、「あいつは用心した方がよい。いくら善人ぶったあいつの表情もどこかでしらじらしい。よってああいう手合いは一皮剥けば善良ぶった偽善的な表情や物言いに決まっている。信じてはいけない。」という事情から拒否し続けるように命令しでもしない限りなるべく肯定的に他者像に関しても捉えようとし、また仮にそう命じたとしてもその人物のことをそう深くは考えないようになるものである(無視とも違う。無視はエネルギーが要る。この場合自然と思考の範囲から除去されていく、ということであろう)。
 さて本章では少し別の観点から記憶とかのシステムを考察してみよう。例えば我々の生命が現象であるか、事実であるか、とか身体が物質であるかとかの議論は昔から多くの哲学者、科学者たちの論争の的となってきた。だからもし我々の身体をも物体として捉えるなら、全事物は物体となろう。しかし心的事象のみは取り敢えずここでは保留にしておくとして、身体を現象(生命現象)と捉えるなら、他の多くの物体も現象として捉えることも可能であろう。ここに今転がっている小石は物体であると、誰しも思う。だがこれが川とか海となるとちょっと事情が異なってくる。山脈は物体であるとも言えるが、大きな自然現象を育む自然環境(構成要素)だし、地球はやはり宇宙の大きなシステムの中の運動体としての現象でもある。物体と捉えられなくもないが、ただの物体(ただの物体と言っても、これとて何処から何処までと言うと、難しいのであるが)とも異なっている。例えば地球はああいうかたちをして何の不可思議もなく太陽の周囲に軌道を描いているわけだが、ああいう形でなくてもよさそうなのに、ああいう形をしているということは、ああいう形である何か、それ以外の形ではあり得なかった理由があるということである。すると形状、運動の仕方、引いては存在の仕方そのものが全ての事物の現象的側面となる。その現象とはどこかでその現象を成立させる必然性が更に求められ(少なくとも我々の思考に於いては)その必然性を科学では合目的性とか呼んだりするわけである。我々の身体をも一個の独立した宇宙(太陽系のように)とすると、我々の身体を一個の独立したシステムとして成立させているものとは細胞、血液、蛋白質、そして神経組織とかからとなる。それらは常に身体全体を一個の独立したシステムとして存在させるべくホメオスタシスを成立させる為に奉仕しているわけである。その身体の生理学的な機能維持と、物質としての身体を外部環境のシステムと、環境の一部として代謝、呼吸とかの機能維持において交換させながらも個体毎に別個の事情を抱えた独自のシステムとして成立させながら、内と外を明確に認識することの出来る能力を発現させる構造を内包した、言わば運動体という現象的側面と構造体という存在論的側面の両義性の名において顕現しているのである。しかも運動を司っているのが神経であるし、神経を束ねて指令を出したり、感覚を伝えたりするのも、脳、とりわけ大脳の役割である。その物体でもあるこの身体を支えるシステムは生命独自のそれであると同時に、非生命体をも含む全ての事物に共通する物理学的システムの一部でもある。それらは一見相反するようでいて、どこかで矛盾することなく共存している。
 多くの哲学者たちを困惑させてきた意識の問題は、では意識とは現象であるのかどうかという問いに対しては一応それも現象だと答えておこう。しかし我々はどこかで現象というと移ろいやすいもの、取り留めのない不確実なものという観念を持っている。それに較べ実在は確固たるものという観念もまた併せ持つ。しかし実在とは物体を固定化した、つまり不動のもの、構造的な解釈で捉えた観念であり、観念もまたイデアと言うのに相応しく何処かで永遠のものという考えを抱いている。しかし実際上我々の身体を機軸とする生命は流動的なものでもあるし、一瞬たりとも変化を免れ得ない。しかしそれでいて同時に全く異なった物体へと変化することは少なくとも生きている内にはあり得ない。雌雄が交換されるような種の生命体でさえ、そういう変化は予定調和的遺伝子のシステムに忠実な不随意的生理学(或いは発生学)的普遍性の範疇の出来事に過ぎない。物体という観念からは固体のイメージが強く、事実我々の身体は液体や気体を多く含み取り入れてはいるけれど、やはり固体状で移動し、代謝し、食物を吸収、消化する。それはしかし変化をきたし、常に内部から自発的に変化する(外部からの影響とか刺激に対する反応だけではなく)ものであり、その限りで生命現象であることもまた免れ得ない。それは生殖による自己増殖的連鎖と同時に自己内完結的にも絶えず中枢神経と末梢神経における交換システムにおいて連綿と行為と中断と、動と静を反復する変化希求型物体である。  
 しかし遺伝子や細胞さえそういった一個の自立したシステムとして壮絶な葛藤と死闘を体内で繰り広げているところを見ると我々の意識はそういった葛藤を一方でやはりそういう活動の一環として参加しながらも同時にそれら一切を高みから見物するような二面性も持っている。また、意識はそれを通してしか客観的洞察さえ不可能なので、現象であると同時に全ての生の時間の出来事を凝視する観察者でもあるのだ。だからこそフッサールやサルトル等が「意識は常に何者かの意識である」としたような、意識を持つということが、すなわち具体的な生の瞬間における知覚や体験(状況的、状況や身体生理と不可分な具体的な感情、生理的要求を通した)を一時たりとも不随させずには済まさない同時性を介在させた、つまり意識「内容」を切り離すことの出来ぬ現象でもあるのである。観察者と言ったが、それはそういう内容がまず先験的に立ち現れるこの世界の有り様を一挙に表現しやすい一つの比喩として我々が利用してきた、という側面も大きい。
 結論的に言おう。意識とはそれがある一定の目的に向けられている場合、つまり行為自体(それが自己のためのものか、他者や共同体に向けられたものであるかにかかわらず)を除いて、思惟とか反省へと赴くか(非行為的時間において)、そうでなければ観察(見るという行為の時間)へと赴く。観察は漠然として言えば視聴覚的な、本質的には視覚中心の知覚体験を重点的に採用した行為である。だからそれは関接的には目的性を持っていないとも言えない。しかし意外と反省や思惟はそれ自体、何かの目的性へと向けられてはおらず、生の実感を持つ時間での出来事であると言えよう。するとこれは明らかに非目的的であるから、自己の存在(や生活)を中心としたものの見方になる。昨日のこと、子供の頃のこと、妻のこと、子供のこと、友人のこと、同僚のこと……..etc。  それは必然的に他者への奉仕とか社会への奉仕という観念とは無縁のものであり、先に挙げた自己防衛や良心といった自己保身へと直結する傾向を常に持っている保守的な思念である。誰か溺れそうな人を助けようとしているときは、平静時のそのような思念は皆無である筈だ(そうでなければ目的は達せられない)。だからこういった場合の意識を他の意識と同列に論じるわけにはゆかない。この場合の意識は判断というのに近いと思われる。拠って本論ではこういう意識を以後全て判断とする。
 そして意識を中心にすれば神経システムは手段となるが、知覚、思考、判断といった多くのものが実際は常に意識的であるかどうかとなると甚だ疑問であり、無意識(これもフロイト的無意識だけではない)こそ実は知覚、思考、判断に直結し得ると思われるし、それを俎板に乗せると途端に神経及びその制御が生の目的となる。また神経システムにおいて我々は無意識の果たす役割と、イントロン等に見られる非不可欠物、あらゆる可能性を想定して複雑に組織された活型、不活型の蛋白質の発動、抑制の反復された制御システムが我々にとって生とは何か、そしてそれがコミュニケーションに於いて果たす役割を見据えることで、言語の意味を洞察する上で重要である、と思われる。そしてとりわけ本論では感情、行為、様相的概念理解の切り替えが記憶を促進し、そういった記憶を促進させながら受容機会を多くすることそのものを分析することが、行動生理学的にも認知言語学的にも極めて「変化することを常とし、そうしながら生を実践する生き物としての我々」というある種、時間論的哲学とも無縁ではない本論の中心的テーマへと向けられてゆくと思われる。言語とは言ってみれば変化を体現させながら、変化事実を事後的に確認すると同時に、未来予持的に変化を予告し、期待表明するものなのである。
 拠って本章ではまず神経というものが言語を誘発するのではないか、そしてそれは言語行為として実践されることで、神経機能をより活性化し、遺伝子の発現も促すのではないか、という考えを中心に論を進めてゆこうと思う。その為には神経とは何かということをざっと捉えておこう。
 神経組織自体はそれが人間の生を司る主要な位置付けを持った機関であると同時に、ある生命体の進化過程を体現した一つの別格的な生物学的事例でもあることが伺える。それは他の霊長類と比しても類例なき脳の大きさ、その指令システムの複雑さが例えば指一つとっても細かい動きを即指令出来るような各身体部位の機能の発達具合といった相乗性(シナジー)からも伺える。それにしても興味深いのは、我々の遺伝子における1000ものゲノムが、微妙な翻訳、転写ミスによって個体間の差異を形作ってはいるものの、それは人間学的には非常に大きな差異ではあるものの、殆どの個体は目は二つ、鼻や口は一つ、耳は二つということにおいては変わりない。勿論乳首や乳房が三つある人や、性器が二つ以上ある人もほんの僅かなパーセントではいる。しかしそのような特殊例を除いて、概ね人間はその身体構造上の仕組みや機能は殆んど変わらない。胃が腎臓の役割を担っているとかの特例は未だ耳にしていない。そういう意味では神経組織をも含めた全ての身体機能が何の差異もなく全ての成員に共通しているということは、自然界に何らかの合法則性のようなものが具わっていて、たとえ個体間の差異が微妙なる突然変異によって形成されたとしても、その変異の範囲は特別に逸脱することはない様になっている、としか思えない。まさにドゥ・ルーズが「差異と反復」で試みたようなその素晴らしい生命の両義性は秩序だったシステムの合法則性には決して逆らってはいない、ということである。その意味では神経組織もまた、複雑なシステム上での個体間差異はあるものの、グリア細胞やシナプス間隙といったシステムそのものにおいてどの個体も、特殊な遺伝子発現による変異表現型を含みながらも、やはり一定の秩序に則っている。
 さて中枢神経による、指令性においては中央集権的神経系ネットワークともいい得るものは、予め我々の身体全体をくまなく張り巡らされており、それゆえ殆どインターネットのネットワークに等しく、だからこそ脳から最も離れた爪先にさえ脳に近い部位と全く同じように瞬時に感覚をもたらす。それにもかかわらず脳自体は外部刺激からの感覚を持たない。(頭を打って痛いのは頭蓋骨に通る神経の知覚である。内部的には頭痛もするが、外部から、仮に触れられても<脳を開いて>も痛みは感じない。ここら辺は養老猛司著「唯脳論」青土社刊に詳しい)末梢神経に対してそこから得られる感覚を感覚させるものは脳からの指令である。勿論その痛みや痒みを感じる部位そのものの記憶もあるだろうが、その記憶を収納する部位もまた脳であることは確かなのである。
 しかし記憶には幾つかのパターンがあり、それは主に二つに分類出来る。例えば海馬記憶はエピソード記憶として理解することも可能である。また言語の記憶は明らかにこのエピソード記憶とは異なる。エピソード記憶が具体的な思い出として捉えられる情景的、心理的記憶であるのに対し、言語記憶は慣用的に常時引き出すことが出来る学習習得記憶であり、一々我々はその語彙を覚えた時の記憶を持ち合わせはいないし、ごく最近覚えた語彙さえも覚えた時の記憶は徐々に忘れ去られる運命にある。フッサールは「経験と判断」においてこのエピソード記憶と意味記憶の二つを次のように解釈している。(147ページより)
 一、それぞれの(たえずながれゆく)記憶の場の統一。これはせまい意味での直感的統一である。記憶のなかでひとつのながくつづくできごとが進行する場合、それがひとつの記憶だといえるのは、先行する局面で直観されたもの、以前にとおりすぎたものが「なお」直観され、把持されるかぎりでのことである。そこにあらたにあらわれるものは、まさにそのときはじめて「第一次的に」直観されるけれども。<エピソード記憶、管理人注>
 二、全体的な、ひろい意味で直観的な記憶の場。そこにさしあたりぞくするものは、意識の統一のなかを連続的に「進行していく」、いくつかの本来直観的な記憶の場であり、それらはもはや本来の直観的な生気はもたないが、過去把持的な生気はもっていて、したがってけっして過去のうちに「しずみこんで」はいないものである。さらにまた、あらたに想起されたものではなく、以前からある過去の地平にふくまれる一切が、このひろい意味での記憶の場にぞくする。_それらは想起という形式で志向を充実させる潜在力をもつものとしてふくまれるにすぎないが、この想起は最初は直観的なものとしてあらわれ、ついで、過去把持的に沈下して、いまだ生気はあるが非直観的な過去把持に、過去に沈み込んではいないが沈下したものに、なってしまう。<意味記憶、管理人注>
 意味記憶は明らかに最初は何らかの個人的体験性やら個人的意味合いを帯びていたわけだが、次第に慣用されることで、その意味性は記憶像からさして重要なものではなくなり、やがて概念的理解として定着され、いつも直観的に引き出され得る辞書的項目と化す。それに対し、エピソード記憶は好きなときにだけ思い出すことが出来る憩いである場合も多く、常に慣用する文字に近い意味記憶と違い、絵画的、映像的である。
 前前章において、数学の試験のことについての筆者の思い出と共に理解が概念性へと移行されることから、理解出来ない図形(好奇の対象)の方が実在感を払拭出来ず、かえって映像記憶となって残るのではないか、という仮説を思い出して欲しい。これは明らかに映像記憶であり、その試験会場の緊張した臨場感と理解出来なさが相まってなかなか忘れられるものではないだろう。しかし英語の得意であった筆者にとって解けた問いを一々覚えてはいない。そういうものである。使用頻度の大きい語彙を習得した時の記憶とは大抵幼少期である。難しい専門用語等を覚えた時の記憶と同じでは決してない。だがかなり前のことでも、エピソード的記憶像はそうは忘れられない。勿論日常的などうということのない記憶は段々明確ではなくなることはあり得る。しかし何かの拍子に突然嘘のように綺麗に思い出すこともそう珍しいことではない。ある人に久し振りに会うと突然その人間との思い出が、蘇ってくる。しかし基本的な英単語(日本人にとっての)を中学生時代に覚えた時の様に我々の生活上表現するための不可欠な「橋」や「川」等といった語彙を覚えた時の記憶はそうたやすく思い出せはしないし、一生思い出せないことの方が多い。広い意味での意味記憶も同様である。意味は個的な情況において記憶されるも、一旦覚えてしまうと、今度は概念的理解に移行してしまい慣用的条件反射になってしまう。哲学者や数学者が「論理」とか「命題」という語彙を一々個的状況性に依拠した習得時の記憶を引き出せるなら、その学者はまだかなり若い学者であろう。さてこのような語彙習得と概念的理解といった意味記憶とエピソード記憶との間に神経的メカニズムにおいてどのような差異が横たわっているのであろうか?
 映像記憶において情景において存在した、例えば友人と飲みに行った飲み屋の店内とかの、友人の顔とか表情以外の物体に関する認識とその物体において抱いた印象の双方が微妙に絡み合って記憶には格納される。意味記憶というものは個的概念理解において付帯するものであるが、概念理解と共に沈殿し(フッサールの謂いに従えば沈下し)何か特別の契機がない限りそうはそこから意識へとは這い上がって来ない。だが友人と行った飲み屋の記憶は友人と会わずにも、その友人のことを考えればすぐさま思い出せる。この両者の記憶の仕方の差異は思い出し方にも多大の差異があるから、当然神経系のメカニズムには差異が生じる筈であろう。まず映像記憶から考えてみよう。
 映像記憶は、しかし映像とその時抱いた自己の思念(考えたこと)や、情景と重なり合っている。必ずしもそれらが統一されて格納されているというわけでもないのだろうが、統一して想起することに我々は慣れている。映像記憶は全体的情景の印象と、人と語ったのであれば、他者の表情、そして会話内容(部分的なもので、脈絡や順番よりも、個々の内容であろう)だけはなぜか、意味記憶の側へと格納されている。が映像は明らかに全体的な雰囲気、友人と飲んだ店の暗さや広さ、といった自己身体から察せられる空間感覚の覚知と、映像的フレームの視覚的記憶像である。
 しかし、こういったエピソード記憶と違って、意味理解の記憶は理解出来た瞬間は、その後何度かの理解概念の反芻によってその時点では記憶されているが、慣用頻度の大きさに比例して徐々に忘却される。だから頻繁に会う友人との間での会話内容における意味記憶は、たまにしか会わない友人と違っていつどこで交わしたものであるかの記憶は徐々に混同されてゆく。つまりその会話を交わした情況は、映像となって情況だけで独立して格納され、内容は場所や会話した際の情景の映像記憶とは別個の格納のされ方となる。しかし理解した瞬間がそれ以前の誤解による理解から転換した場合、割合印象に残りやすく、その場所も情景も(もっとも、場所が思い出されるのに情景は思い出されないということは希少であろうが)忘れないものである。つまりここでも意味理解という名の感情が切り替わるからこそ、記憶に格納されてゆくのである。しかしその切り替わりが印象的でない場合、慣用頻度の大きさに比例して、他の多くの既知の概念に混ざって慣用されてゆくに従い、新奇さは薄れ文字記憶や語彙選択の常套的概念理解と共に、日常的道具性に埋没し、反復と惰性的常套性依拠姿勢によって意味記憶の中でも最も思念性の薄い状態へと沈下してゆくのである。この映像的なものと、文字、概念、意味の格納のされ方、引き出し方を今度はシナプス、ホルモン、ニューロン発火、抑制、調節機能、脳波といった生理学的観点から考察してみよう。
 フロイトが「夢判断」において示したこととは、夢が無意識の願望充足であるということであるが、その無意識が極めて記憶と大きく関わりがあるということでもあった。何かが記憶の片隅に巣食っている事柄は、明らかに記憶が階層的秩序を構成しているということである。記憶が、一々思い出さずともすぐに思念や発話に浮上するものと、そうではなく、何かの拍子にふと思い出すような種類のものと二つあるということは、日常的な生活の中で必要不可欠な事項の記憶とそうではないものの記憶とを峻別して格納していることを意味する。しかしそういった峻別を決行させるものとは意識であるよりは、身体生理学的判断と常に密接に談話しているところの条件反射的判断とも手を取り合った総合的判断というものではなかろうか?
 他者に対する信頼感の欠如が、まずその他者と談話する際にあるとしよう。(何度も出てきた例であるが)その際に他者に対して身構えさせるものとは明らかにそれ以前の他者観というものであろう。他者観は明らかにそれ以前の全人生における自己と他者との遣り取りから学んだ共同体内における自己にとっての他者というものの在り方に対する認識である。しかもそこには外部環境的な常套的コミュニケーションに対する観念と同時に自己固有のコミュニケーションの方法と、それを採用せざるを得ない先験的条件とかも問題となってこよう。しかし取り敢えずある他者に対して身構えてしまうことは自己防衛的な観点からは至極当然のことでもある。他者に対して身構えるということは他者が自己よりも防衛本能的観点からは上位に位置するわけだから、それ程大きくはないが明らかに他者に対する恐怖が介在する。恐怖を引き起こす総合的判断とは不確定事項(この場合だったらその接する他者が信頼出来るかどうかということに関して)に対する処方箋である。
 欲求という受容性と恐怖という拒否性を峻別して生み出しているものは、生理学的には化学物質が働いている回路の差異であり、その差異を生じさせる脳の判断である。脳といっても扁桃体という部位における価値判断の決断によるものと考えられる。ここら辺に関してはジョセフ・ルドゥーの論説が詳しいし、適切と思われるので随所随所で引用しながら見てゆこう。「扁桃体にニューロンは感覚の世界からの入力をつねに受けているが、その大半を無視する。じつのところ扁桃体のニューロンはほとんどの時間静止状態にある。だが、反応すべき種類の刺激_危険を意味する出来事その他、生物学的に重要な出来事_が存在するときにはちゃんと活性化する。このことはヒト以外の動物でもヒトでも証明されている。」(「シナプスが人格をつくる脳細胞から自己の総体へ」森憲作監修、谷垣暁美訳、みすず書房刊92ページより)この危険を察知する判断は人間が生まれてからその瞬間に至るまでに培ってきた他者や外部環境的な対自己の事物、事象の経験事項のデータ保存された記憶格納事項検索からのデータ解析という瞬時の扁桃体による判定のことである。どういう風に神経伝達物質を行き渡らせるかを一瞬において判断(不随意なものである)させる総合的判断が他者に対する信頼感の欠如の表現系として緊張をもたらす。
 神経系システムでは、投射ニューロンと呼ばれる比較的長い軸策を持つタイプのニューロンが、シナプス前ニューロンからシナプス後ニューロンへと発火、活性化させてゆくわけだ(階層的回路では投射ニューロンの主な役割は階層の次のレヴェルの投射ニューロンへと活性化を伝達してゆくことである。)が、その際前ニューロンの終末に位置している神経伝達物質が、前と後の間に位置するシナプス間隙をくぐって後ニューロンの活性化を促進すべく常に待機しているわけである。その際、活動電位の発生を起こりやすくするために後ニューロンの電気的状態を変化させるべくそのスピードと興奮を促進するのが、グルタミン酸である。これはアミノ酸系神経伝達物質の一つである。(それは投射ニューロンを促進する。)一方抑制性のニューロンは軸策の終わり(終末という。この種のニューロンは介在ニューロンと呼ばれ、軸策は投射ニューロンのそれよりも短い)からGABA(γaminobutyric acid、γ_アミノ酪酸の略)を放出したりする。このグルタミン酸とGABAの双方が相互に微妙なバランスで他を牽制しあったりすることで、激しい痛みや免疫的な抵抗力や、攻撃性と抑制力とかの全ての身体生理的現象を顕現させる。
 前述の恐怖と、その克服つまり他者に対する自己防衛の解除による他者信頼感の発生といった切り替えもこのバランス制御システムであるところのグルタミン酸とGABAの放出バランスによって決定される。それに加えて脳波やホルモン(性ホルモン他の)の放出されるバランスが全て組み合わさって心的状態と随意、不随意を総括して指令する総合的判断を生じさせる。その際には扁桃体が判断するという一事が極めて大きいと思われる。
 ところで南アメリカのアマゾンにはマナティーというワシントン条約制定後、保護指定動物の対象となった、象と同じ祖先を有する水中哺乳類が生息する。この動物は水面に乱生する浮き草のウオーレタスを食べるのだが、その消費量は生半可なものではない。しかし、乱生するこの植物は一方でマナティーが脱糞した糞によって多数のバクテリアが生じ、それを堆肥として更なる生育に利用するという半ば共生関係にある、と言ってよい。(そうやっていつまでも生育し続けるからマナティーにとっても食料が絶えることはない)この場合自然が何らかの代償を払って自己種にとって都合のよい条件を獲得するという合目的性にもかなった種選択をしているということとなる。ところでこのようなことが、では身体生理学的に遺伝子や蛋白質、細胞、神経組織といったことにも存するのであろうか?
 人間がどこかを負傷し血が出た時に、トロンビンという蛋白質が血液凝固システムの機能を発揮して血液を凝固させる。しかし同時に一定のトロンビンの作用をなした後では、今度は抗トロンビンが登場してその血液凝固システムの作用自体を抑制する。この抑制システムがなければいつまでたっても抗トロンビンが作用し続け果ては全人体の血液を凝固させてしまうだろう(既に述べた)。つまり血液が凝固する仕組みは負傷を負った時点では有効に作用するが、一旦凝固が貫徹された後はいつまでも作用してもらっていては困るというわけである。この事実から、蛋白質そのものが個々の役割を担いながらも、統一的な一個の人体というレヴェルでは責任分担し合いながら相互に制御し合うという一面を持ちつつ共生しているとも言える。我々が他者に対してある種の不審を抱いた時には、適度の緊張がもたらされるが、それは扁桃体の判断によって投射ニューロンを発火させるべくグルタミン酸が活躍するが、そういう際にも必ず同時にGABAも発動される。その相互のバランスによってグルタミン酸がより強度を持てば神経系における感覚は刺激に対する過大の反応となって我々に身体知覚され、逆にGABAの方が強度を持てばその刺激に対する抵抗の方が勝り、要するに免疫的な身体知覚を生じさせることとなる。恐怖は明らかに痛みとかの感覚同様、グルタミン酸の過度の発現であると言えるし、その免疫性は明らかにGABAニューロンの発現度の大きさがもたらした抵抗力であると言える。すると他者を不審の目で見る感情(あるいは判断)が、それほど悪い人間でもなさそうだという感情へと切り替わることとは、瞬時にグルタミン酸放出よりもGABA放出へと出力的数値の大きさが移行したことを意味しよう。
 だがそれだけではない。他者に対する寛容さや、鷹揚さといったものはこの二つだけが作用しているわけではない。モノアミンと呼ばれる調節物質も多大の貢献をする。ことにこの中の一種セロトニンは、それが脳内に不足すると鬱状態になり、不安状態がいつまでも続くのだ、という。するとセロトニンが脳内から不足しだすと、他者に対する不審と懐疑が一向に収まることもなくなり、偽装解除もなかなか出来なくなりストレスがたまる。ストレスがたまった状態での人体では副腎皮質ステロイドと呼ばれる(多くはホルモンである)ものの中でもとりわけコルチゾールという伝達物質が放出される。しかしこのコルチゾールとは記憶や情動といったさまざまの神経機能におけるプロセスにかかわる回路に情報を伝達するものであり(植物におけるオーキシンのようなものとも言える)これなくしては記憶とか思念とか思惟とかの作用もままならないわけだから、不安(現代に至るまで多くの哲学者や心理学者を悩まし続けてきた)とか緊張とかが一概に良くない状態であるとも言い切れないこととなる。更にこれに脳波レヴェルの発動も加わる。ベータ波はことに緊張状態の時には(だから他者信頼の欠如がもたらす偽装心理の時にも)最大限に達する。しかしその他者が意外と他意のない人物であると認知すると、今度は偽装や攻撃的なスタンスを解除するわけだから、真意表出を吝かでなしとし、発話には予防線が取り払われ、アルファー波が発動され、GABAが行過ぎた偽装的態度を是正すると鬱状態でのコルチゾールは再び沈下され、今度は話に夢中になるとドーパミンが発動やがてそれがノル・アドレナリン、アドレナリンを放出して躁状態に近くなる。この段階でのグルタミン酸とGABAとは日常的平均値に落ち着いているのであろう。精神特効薬はだから、躁状態の人間には鬱状態へと転換させるべく物質が、逆に鬱状態(恐怖や不安に苛まれる)の人間には躁状態へと転換させるべく物質が必要となる、ということである。
 しかし他者信頼感の欠如による偽装状態では明らかに他者を上位に見ている(不信)が、その攻撃性は他者の威圧感がピークに達した時であり(拒否)、その攻撃には正当防衛性があるから自己と他者の階級はタイである。しかし他者が下位に感じられると、性悪的な情動が発動され、「意外と無垢な奴だ。からかってやろう」という気になり、今度は攻撃性を生じサディスティックになるから、これはやや躁状態である。だからこの場合鬱~平均値~躁という移行過程が考えられよう。しかしこの攻撃が度を過ぎると、今度は良心が理性的レヴェルで発動されだし、やがて攻撃を中止し、平均値へと落ち着く。「最初ちょっとやな奴だと思ったけど、とはいえもう十分からかってやった。これからは少し奴の身になって紳士的に振舞おう」ということとなる。ここから真意表明が少しずつ執り行われる(受容)。鬱~平均値~躁~平均値となるわけである。
 しかしこの移行過程も個々において少しずつ異なり、その攻撃性や鬱状態も個々で諸相あり千差万別であろう。その段になると今度は性格遺伝子のレヴェルとなるが、その性格遺伝子もマゾヒスティックな性格とサディスティックな性格とは一律に二極分離なのではなく、双方がバランスを取り合っていて、こういうところには寛容だが、こういうところに関しては狭量であるとかの個人的差異もあり、双方の遺伝子が発現機会を相互に規制しあい、調整し合っているわけだから、逆に全く同じ遺伝子を持つ一卵性双生児であっても、生後すぐに引き離されて全く異なった環境で育った場合は、それでも全く似た性格となる(年齢を追ってそうなるケースが多いが)ケース同様、同一遺伝子なのに発現される機会に差が出て(成長過程での環境の極端な差によって引き起こされることが多い)表現型としては別個の発現ケースとなる、というケースも充分考えられる(Aという遺伝子もBという遺伝子も双方が共有しているのに、一方がAを特に発現させ、他方がBを発現させることを多く持つという違いが生じる)。
 ともあれその性格遺伝子の配列は発現される段では、性ホルモンに依拠している場合も多い。性ホルモンには幾つかの典型的なものがある。第20染色体上にある二種の鎖を構成するアミノ酸が二つだけ異なるオキシトシンとバソプレシンであり、男性の方により強固と言われるテストステロンである。テストストロンはコルチゾールが増加すると同時に増加する傾向があるし、オキシトシンはセロトニンと同様に平滑筋(内臓諸器官や血管などの壁を構成する筋肉。横紋筋がなく、普通その運動は不随意的で横紋筋よりも収縮の速度が遅い<広辞苑より>)を収縮する作用がある。
 テストストロンのことを詳しく述べるとそれだけでゆうに一冊の本を書かねばならなくなるので、本論では概略的なものに留めるが、その前に我々の身体が、いかに人体としての階層性によって不随意的にそのシステムが機能していることを少し考えてみたい(哲学用語としては身体を、医学用語としては人体を通常使うが、医学的説明においては人体を、哲学的考察においては身体を本論では使用する)。先述の介在ニューロンの軸策が投射ニューロンの軸策よりも短いということを思い出して欲しい。これは進化論的な合目的性においては、いかなる意味があるのであろうか?
 もし我々の諸刺激に対する感覚反応として神経システムが作用する時、それを抑制することは確かに多大の投射ニューロンの発火による人体を燃焼させることを未然に防止している(血液凝固を抑制する抗トロンビンの役割にも似ている)という意味では多大の貢献をしている。しかしそれが行き過ぎると身体感覚はあらゆる刺激に対して鈍磨された、抵抗力だけが矢鱈と主張するとんでもない不感症性を生じさえすることとなろう。それではやはりまずい。人体を損傷させてしまうにちがいない。そこで自然選択は未然にそういう抑制システムを構築しながらも、行き過ぎない形に留めおく、というまるで生物物理学的真理に添っているかの如く振舞うわけである。それはある種の階層性を自然と構築することであったかも知れないが、そのこと自体は自然選択において進化してきた生物の歴史における本来は偶然的である筈の生命の生存という意味においての最低限の必然性であったのかも知れない。さてもう一つそのような意味での階層性を想起させる一事をここで紹介しておこう。
 既に人間は聴覚システムよりも視覚システムの方が優位にある種であると言ったが、これも指摘しているし、また「コンパスの二本の尖端が触れている二つの場所を、なお明確に識別できる距離は、舌の先端の方が背中の中央部よりも50~50倍も小さい」とも述べているのはエルンスト・マッハである。マッハは物理学者であり、哲学者でもあるがこの種の生理学的事実を淡々と述べている(「空間と時間」野家啓一編訳、みすず書房刊9ページより)。
 身体的な部位における我々の知覚感覚能力は確かに顔の中心部を頂点として、その周囲、首あるいは乳首や性器といった敏感な部位を除けば足でも爪先や手でも指の先端に神経は集中し、その頂点から遠ざかれば遠ざかるほど鈍感になる。爪先よりも踵の方が明らかに大雑把な知覚能力しかないし、掌よりも手の甲の部分の方が大雑把であることも明らかである(腕も手首は掌側の方が敏感である)。これはある種の生活レヴェルでの知覚能力の被感覚頻度と重要性に基づいているように思われる。階層性は必要性に応じて徐々に進化過程において形成されていったのであろう。だから逆に全然今まで必要のなかった部位を頻繁に動作において利用するようになるとそこに神経がア・ポステリオリに集中し、徐々に階層性の上位へとその部位を押し上げてゆくことにもなり得るというわけである(勿論そうなるには一個体の習慣とかいうレヴェルではなく、多大の時間を要することとなるが)。
 最後にテストストロンがコルチゾール同様動員されることを先に述べたがテストストロンが免疫抑制をすることを述べておこう。これはどうしてなのか未だに解明されてはいない。マット・リドレーの言うように(「ゲノムが語る23の物語」中村桂子、斉藤隆央訳、紀伊国屋書店刊第10染色体ストレスより)マイケル・デーヴィスが示唆した<かつてはストレスの一般的な形態だった「半飢餓」の際にエネルギーを節約するためのシステム>であるか、<より健康な_つまり病気に対する耐性が高い_雄を選び出すのに有利なシステム>かのどちらかが有利な仮説であるそうだが、実際両方ともリドレー自身は納得してはいない。後者の理論によると免疫抑制というハンディーキャップさえもものともしないそれをはねのける強い遺伝子の持ち主が自然選択されてゆくのなら、そういう個体ばかりになってきた筈であるが、実際はそうではないから多少矛盾を感じさせる。また前者は飢餓状態における抵抗力を失う免疫抑制を敢えて自然選択したことの合目的性は立証され得ない。エネルギーの喪失を未然に防止する必要性において、免疫機能の不全を選択するしかなかったという致し方なさ(事情)が自然の側に何かあるのかも知れない。しかしこの問題は難しすぎるので今はそう示唆するに留めおこう。
 ここでちょっと纏めておこう。リドレーの表現を借りれば「脳と身体とゲノムは、三位一体となってダンスを踊っているのだ」(「ゲノムが語る23の物語」191ページより)。脳には遺伝子やゲノムを発現させる能力がある(全遺伝子の50~70%が脳で働いている、と言われる)し、遺伝子もまた脳を中枢神経として身体機能全般に渡る司令塔としての役割を顕現させ構成している。身体は、この場合神経回路、経路、あるいは細胞システム、免疫システム、ホルモン調節機能といった全体的レヴェルの身体機能を差していると思われるが、これらはそれ自体で脳や遺伝子を発動、発現させている。つまりこれらは全て相互に自己が他を検閲し合い、抑制し合い、制御し合い、影響を与え合っている相互依存、相互干渉、相互育成の関係にある、というわけである。勿論リドレー他の論者の言を待たずして我々は身体機能をその多くを我々自身の行動に負っている。行動のない身体機能などあり得ない。
 この事実を敷衍して捉えると、言語行為という身体行為は我々の脳を活性化し、記憶を促進し、遺伝子を発現させる。遺伝子によって性格的な傾向性を規定される側面もあるが、その同一条件下でも我々自身の行為選択によって大きくその発動される状況や様相を変えてゆくということである。また言語行為を含む全ての行為は身体的行動として、あるいは社会的行動(自己と他者、共同体内での自己の意識の所有を通した)として脳自体を新たな指令や選択(指令と選択に関しては神経経路がそのどちらであるかが論争の的となっているらしい。そのことは本章の大きな参考資料としたジョセフ・ルドゥー著「シナプスが人格をつくる 脳細胞から自己の総体へ」みすず書房刊に詳しい)を発動させる基本的な生の条件となっている。
 我々は身体を我々自身の自己固有の財産でありながら、自己の思うように、丁度我々自身が自動車やコンピューターを作り上げてきたようには操作することは出来ない。我々は好むと好まざるとにかかわらず、こういう身体を「生の条件」として受け入れて生きてきている。そういった現実を前に我々は一生物、一生命体としての我々自身の姿を見て他の全生命体をも含めて一括りの生命体的秩序として他の物質と区分して見てきた。あらゆる生物学、進化論の認識はそこに端を発する。そういった認識を呼び起こしてきたのも中枢神経であるところの脳であり、だが同時に地球上で他の全ての物体と同様我々自身もまた地球の、宇宙の物理学的法則性に逆らっては生きていけない。重力の法則に従って、他の物体同様、物理学的法則性の真理に忠実に存在している。だがその他一切の物体同様、物理的制約の中からも、我々自身固有の、多くの過去の哲学者たちは意識をその固有性に準えてきたわけであるが、そういう本性を主軸に他の生命体との相関性を把握しようとし、ある時は動物たちにも人間同様の固有性を譲歩して与えたり、ある時はやはり人間だけが固有であると思い直したりの連続がまるで全人類自体の総意であるかのように、生物学と哲学の歴史的振り子現象が果てしなく反復されてきたわけだし、これからもそうであろう。
 しかしこれだけは言えよう。生命体は自ら不随意的にではあるが、代謝し、常に細胞を入れ替えて変化することを恒常的なこととして生活している。そういう意味では生命体という秩序は明らかに主体性を持って外部的環境に拮抗して存在している。だから我々の生活上不可欠の言語行為とは、生命体が代謝して外部に拮抗することを余儀なくされているような意味で我々自身が我々固有の外部環境であるところの社会に対してその一部に収まりながらも、自己固有の幸福感や自由という当然の権利を巡って外部(他者が犇き合う)と常に拮抗して生を営んでいるその中での社会的な代謝機能として存在しているのだ、ということである。我々はそういう意味でいかに固有のコミュニケーション手段を持っていても、そういった個体と外部環境という相関性において生きている限り、自己と他者、あるいは共同体という呼び方をしてはいても、他の生命体と同様そういう規定性に中で生きている以上、殊更、固有の種であるということもなくなるということである。しかも広い意味では地球の重力の法則下で存在し続けている限り我々も一個の地球という環境における構成要素の一つに過ぎないとも言えるのである。だがその構成要素の一つにしか過ぎない、と認識出来るのは、ひょっとしたら人間だけなのかも知れない、と筆者も思うし、ジョセフ・ルドゥーはそれを明示性と呼んでいる(それに対し、動物も持っている意識をルドゥーは内示性と呼んでいる。しかし人間もまたこれも他の動物同様持っているのである。しかし植物に内示性があるのかとなると、これはまた別個の話であろう。「シナプスは人格をつくる」<先述>参照されたし)このことについては次章以下で、言語行為と絡めて詳しく論じてゆこうと思う。

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