Wednesday, May 23, 2012

C論文 自信論<自殺しようかと考えているあなたへ> 3、無とは何か?

 私たちは存在物の一切ない、つまり存在しない空間というものを一度として目撃したことがないし、それは状況的に私たちの知る世界ではあり得ない。  私は次のような仮説を立ててみたい。
 仮説 空間は存在物がなければ存在し得ないかも知れない
 この仮説は中島義道氏の「「死」を哲学する」における131ページによる二つの視点、つまり (1)「私は存在する」という仮象 (2)「私は無である」という仮象 においては、明らかに(2)の視点に該当する。要するに氏の表現を借りれば、科学という壮大なるフィクションによる視点である。しかしもしこの私による仮説と 存在するもの=変化するもの という図式双方がもし正しければ世界そのもの、宇宙そのものを神が創造したという仮説を正しいものにする余地を生む。つまり全てが予定調和的に創造された、ということになるからだ。
 つまり何も存在しない、つまり一切の存在物のない世界を神が創造するわけがない、という思念を私たちに誘うからである。
 これは真空状態という絶対状態を私たちは仮に作ることが出来ても、それは私たちという存在によって恣意的にそのような状態を一定範囲内で作っているだけのことである、つまりだから真実に一切の存在のない世界に空間が必要あるだろうか、ということから、もし存在物が一切ない世界であるなら空間など存在し得ないということに論理的にはなるからである。
 しかし勿論こういった問い自体は解明され得ないものであろう。
 だが私が空間に関して関心があることとは、端的にその空間に存在する全ての存在物が巧く棲み分けていることである。
 例えば現在も多くの人々が自殺したいと考えているし、この文章を読むあなたもそうかも知れない。しかし殆どの自殺の理由は借金で二進も三進も行かなくなってしまった状態以外では他者からの疎外感であるように思うのだが、そんなことを考えることが如何に無駄かということは空間の在り方を考えれば明白ではないだろうか?
 つまり私は旅行などでも大勢の観光客が殺到する場所を避けて、出来るだけ自分だけが鑑賞出来る風景とか場所を探して行くことにしている。つまり私しか知らないある時間帯のある観光名所ということにある種の優越意識を感じられるからである。
 200X年のX月X日の午後のある時間帯は私しかその観光名所にいなかったということを誇るのである。そして興味深いことには、どんな悪辣な独裁者でも支配者でも意外と彼が虐げる人民の住む全部の場所まで自分が我が物にしようとは思わないことである。
 つまり独裁者とか支配者とは端的に彼の行為に抵抗する人を自ら出現することを望んでおり、その抵抗を潰すことに快感を持っているのだ。だからもし彼らが独裁体制を敷こうとしていたとしても、そのことによって苦境に極度に陥らないのであれば、可能な限り無視を決め込むこと、相手にしないことが最良の措置である。つまり独裁者とは端的に彼が住む場所とか持つ権力を自分に対して劣等意識を持つ人民を積極的に必要なのである。勿論東南アジアにある特殊な国家のような例もあるが、総じて羨ましがらないということだけが独裁者や支配者を孤独へと追い込む最良の策なのである。
 少なくとも私はある空間においてある時間帯に自分しかいないということの優越感を得られるのなら、いっそ皆が殺到するような場所には生涯訪れないでいても一向に悔しくなどない。つまり多くの自殺者の自殺理由が実はこの大勢の人たちと同じ行動が出来ないとか、優越していることを誇示している人と同じように行動出来ないことから来る劣等意識が極度に飽和状態に達して決行するように私には思えるのである。
 つまり自信とは端的につまらぬ虚栄心とか他者への羨望といった心の状態が生む一切のピアプレッシャーを克服し得た時、意外と容易に出会える心的状態である。つまり一切の他者追随を諦めることからしか自信など得られないのである。
 それは私の殆ど成功という二文字に縁遠かった人生が証明している気がする。それでも私は結構人生全体が楽しいものであったからだ。
 つまり私たちは空間を何らかの形で与えられている。しかし制度とか他者追随の心的様相が、ある特定の場所を特権化して、他の多くを大したことない場所と決め込んでいるだけなのである。私自身はひょっとしたら、一切の存在物が世界に、宇宙にないようなことでもあり得るのなら、空間など必要ないし、そんな世界や宇宙自体を想像することすら不可能であるが、そういった世界とか宇宙には時間もなかったのではないかとそう考えているのだ。
 つまりそれくらい個々の存在物、勿論その中に私たち自身も含まれるのだが、それらは世界にとって宇宙にとって必要だったのだ。それを考えると支配とか権力といったものは所詮幻想であるし、そういうレヴェルからしか世界を見られなくなった時その者を真に老化したと言い得るのではないだろうか?
 だから自分が立っている位置、世界の中での私自身の中心に対する特権を感じられる内はその人間には自信を回復する余地が残されていると言えるだろう。
 何故そういうことを考えたかと言うと、私自身は殆ど他者から羨まれるようなことは少なくとも大人になってからは経験してこなかった。人生の大半の時間を無職とか失業者として、あるいは結婚とか家庭そのものも持つことが出来ずに五十歳まで生きてしまったからである。仕事の成功とまで行かなくても、少なくとも安定した収入だけでも求めてきたが、それも殆ど実現しなかった。まあ唯一それでも必死に常に何かに取り組んできたという充実感くらいが今記憶の上で残されていると言っていいかも知れない。しかしそれはある意味では人生全体を一定の価値として見ることをしなでいると、いつ何時自分もまた世間一般の自殺者と似たような運命を辿りかねないという私自身の懸念と予感から出た感慨なのである。そして私はそれを私と似たようなあまりぱっとしない仕事での評価と、対人関係的にここぞという時に適切な人材と出会えなかったということをさえ、ある意味では人生の指針にして生きていくための知恵を得る価値とすべしということを、私のようなタイプのあまり恵まれないけれど、自殺する勇気もなければ、それほど自意識が過剰ではないタイプの中年に言いたいのである。
 私自身はあまりいいことの少ない人生であったが、これからも残された全ての時間を精一杯何故私自身がこうして生れてきたのかという不可思議な事実に対する問いを問い続けていこうと思っている。

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