Thursday, May 17, 2012

A論文 言語のメカニズム 26、大脳、記憶の選択、制度

 我々はこの世界に生れ落ち、不可避的に社会の一員として、周囲の共同体の成員としての生活を維持する中で、低度の障害を全成員が持っており、その障害の克服の過程がビジネスであったり、生涯学習といったテーマであったりするわけである。しかしこの障害は、イントロンのように非不可欠物ではあるものの、どこかで我々自身の個性をも決定するような密やかな重要性を持っているのかも知れない。なぜなら非不可欠物とはそれ自体では、なくても個体の存続には支障をきたさないものかも知れないが、仮に全ての非不可欠物が存在しなければ、選択的スプライシングやその他の身体的な諸不随意運動自体の必要性を減じ、そのこと自体が別の障害を引き起こしはしないか、という疑念も生じさせる。だから、免疫機能と同様に、我々は抗体を産出するような抵抗力の醸成の中からも、身体の無意識の不随意運動を招聘しているのである。制度に加担する個体の成員秩序とその自覚は意識的なことであるが、言語障害とかの症例に見られる状態は明らかに無意識の言語形成過程の露出である。オリジナルな自然選択の場の公開である。普通それは秘められているのだし、無意識に隠蔽しているのだが、我々はそれを時としてやはり無意識に、無意識を露呈させるのだ。それは意識的に望んだわけではないが、やはり無意識には望んでいる、ということも一面ではあるのかも知れない。
 無意識というものを精神分析学者はある特有なものとして捉えがちであるから、実際不随意的な身体衝動、身体生理の要求するところさえも、我々にとって無意識の行為、無意識の欲求と捉えてもよいように思われる。さて無意識に何かを求めているから、別種と捉えられかねない行為を執行する、誤った語彙を選択し、発声を失うとかの症状が生じるのであるなら、それは一面ではもう一つの意志伝達行為であろう。常套的概念でのやり取りに対するコミュニケーションの不可能性の意思表示であるし、常套性への無意識の抵抗、逸脱欲求のサインである。しかしそれは同一言語共同体内での同一成員間でのやり取りであることが要求されよう。差異は同質性を有する成員間でのみ有効なのだから。
 コミュニケーションの非対称性の現出は、他者が自己とは異なった方法によるコミュニケーションを採用していることの自覚から認知され得るが、そのことをそういった当のコミュニケーションを成立させる他者が十分自覚的であるか、それとも自分では常套的なやり取りをしている積りが、泥酔者の如く実際は巧く意志伝達されていないようなものなのか、という差はある。気付いている場合は障害を除去されていることに困惑している状態と捉えられるし、気付いていない場合は障害を除去された状態に対して違和感を持っていない、ということである。故にこちらの方が明らかに無意識ではあるものの、痛烈なる常套性への無視がある。気付いている場合はその者は障害を持った他の全成員の秩序へと回帰したいわけだから、常套性そのものへの抵抗や破壊意欲はない、ということになる。
 17章、理解、経済、発現において筆者は人見知り的知り合って間もない他者への警戒心とその解除にまつわる自己防衛と良心の発現における心的転換のメカニズムについて触れたことを思い出して欲しい。記憶の選択とはどの道記憶したい、というよりも記憶するに値する印象的な出来事をもって顕在するわけであり、極自然な脳内への侵入である。しかし侵入が密やかに行われようと、直撃的に行われようとそれは決してグラデーション的変化ではない。勿論「この人間もそう悪い人でもなさそうだ。」と思っていてもそれは懐疑を完全に解いているわけではなく、自己防衛の度が過ぎたことの反省にしか過ぎず、自己防衛という行為自体はあくまで他者を警戒すべき者として取り扱っていることから、他者を自己よりもどこか上位に置いていることを意味し、逆に他者に対する自己防衛の解除はある瞬間、他者の誠実、無垢、悪意のなさを瞬間的に認知するわけだから、一瞬にして他者性格の認知が転換されるわけである。その瞬間から今度は自己防衛してきた自己の保身的能力を自己認知しもしたのだから、他者は自己よりも下位に位置しだす。つまりニーチェも批判材料としたところの憐憫とか慈悲心の誕生である。
 この心的メカニズムはだからこそ、「あの時の彼の屈託のない、円らな瞳は悪意のなさを象徴していた。」となかなか忘れられなくなり、逆にその時までの自己の疑り深さを羞恥するかも知れないし、だからこそ逆に「あんな純粋な人間とは逆に付き合い難い。」と別な意味での警戒心を持ち始めるかも知れない。最初の警戒心は悪者かも知れないという想定だが、後のは認知後の処し方であり、下位者に対する(前者は上位想定者に対するものであるが)処し方、よく言えば思いやり、悪く言えば「大人なのにあんな警戒心がないとは気の毒だが、産な人間は逆に逆上したら怖いものだから、あまり深入りはすまい。」という他者への信用出来なさが再度表立っている。つまりあの警戒心を持ち普通の狡い大人だと思っていたのに、意外とそうではなかったことへの認知の瞬間とは忘れ難いのである。それは認識そのものが切り替えられたからだ。価値観が転換されたからである。変化が記憶を促進すると言った。抑制系が活躍していたのは、警戒心を解除するまでで、その後抑制系はやや後退し、今度は受容心がどっと増加し、抑制系は恐らく下位者への丁重なる処し方という軽い憐憫と軽い慈悲心への加担に参画しているものと思われる。しかしこれは同時に警戒心の強かった自己への反省も多少含まれているから最低限の抑制であろう。それは自己防衛の度の強かった最初の頃と異なり制度的現実の受容である。最初他者が上位にいた頃は明らかに受容ではなく、拒否が支配していたから制度への奉仕という余裕ある側面は微弱であった。この段階では明らかに自己の都合が優先されていた。ところが他者が誠実に他者や社会に接していることを知ると途端に自己の制度、つまり他者と共有する公共的財産であるところの共同体への奉仕の責務感が醸成され自己反省が良心から派遣され、逆にそれでも未だ多少残存している自己防衛が軽い憐憫「あんなに誠実だと損してきたであろうな。」という見識をも共生させる。
 自己防衛も良心も同一基盤であるなら、当然の如くその両者を支える基盤そのものの正体を見極めねばならないだろう。それは自己と他者を結びつけるもの、共同体という制度が派生させる成員間同士の同質性への依拠というもう一つの制度に他ならない。自己防衛における他者上位においても、良心から他者の誠実、無垢、悪意のなさに対する認知後の他者下位においても、自己の保身と自己別格の意識にかわりはない。これは哲学者たちがコギタチオと呼んだものであるとも言えよう。自己防衛も良心(の呵責である場合も多い。)も共に自己優先であり、自己領域確保とその存続希求であるから他者への愛、隣人愛を説くキリスト教の教義もまた一面では自己保身と無縁ではない。寧ろ良心とか愛とかを叫ぶ内は全て同一の処世訓的性質は避けられ得まい。だが記憶は変化、ある状態から別種の状態への転換の度合いに応じて促進されるなら、他者を信頼出来ると真に確信し得た時それはピークに達しよう。記憶が促進される転換点はあまりにも悲惨で、あまりにも衝撃的である場合を除いて、一般に否定的な認知から肯定的な認知に移行して行った時こそピークであろう。肯定と否定は非対称である。肯定に関する記憶は残りやすいが、否定の記憶とは本来消去されやすい。心理学的にPTSDを引き起こし得るような異常な体験を除いて。
 自己防衛も良心も共に制度の生んだものであるし、記憶もまた制度を一方で要求している。例えば我々は一年くらい会っていない友人を懐かしく思うのは、始終は会っていないからなのであって、始終会っているような人は寧ろ慣用的現実に近いから懐かしいとか思う暇はない。これと同じで、言語習得というものは慣用化され日常的に使用頻度が最大限に達すると、途端にそれを習得した際の記憶というものは飛ぶものである。慣用されている語彙に対する習得時の記憶とは通常なく(極最近覚えたての概念、語彙を除いて。しかしこれすらも慣用され続けるといつのまにか忘れ去られる場合も多い。)、それを使用する度にその習得時の記憶を想起する人など殆んど皆無であろう。だから明らかに言語習得は海馬記憶でもなければ、我々がそれを慣用し続けられるのも、海馬によるものでは決してない。FOXP2遺伝子があればこそ、自己と他者の意識を共同体内制度的な不可避的現実において顕在させると同時に外部環境による要求に対する返答として我々は言語行為を成立させるべく、語彙とその慣用を通し文法による統辞を自然と行うようになるのである。そしてどのような成員(言語障害等の成員を除く。)にも直ぐ実践される最大公約数としての被慣用体として言語は定立している。だからこそ、我々は慣用的日常行為を使用頻度と自己‐他者相関性の成立基盤に据えながら、一方で慣用とは無縁の久方ぶりに会う友人との楽しい思い出が海馬記憶の一頁として重宝されるという寸法なのである。
 遺伝子の翻訳、転写ミスは一端そうされると、最早そのことに関しては修正しはしない。同様にその知覚の瞬間に「一体、あの正体とは何なのだろう?」と思い確認し判断し直しでもしない限り、そうだと思い込んだらそのまま修正した判断を持つことなく記憶されてしまう。何か不審物、挙動不審者がいたとしたら我々は目に留め注視しよう。しかしどうということのない日常的情景は一瞬目に留めるもすぐさまやり過ごす。知覚の段階で我々は見慣れた慣用的現実を切り捨て、注視するもの、長く凝視するものは余程選び抜かれたもののみに対してである。常に既知で日常的な慣用物はそこそこ視線を走らせるだけで、記憶にまでは留め置かない。記憶すべき事項は知覚体験の段階で選択される。余分なもの、見慣れたどうということのない慣用的事項は選択項目から末梢され、我々は少しでも未知の新奇なるもののみを記憶に留め置こうとする。勿論瞬時の判断において。だからその判断が仮に思い過ごし(今見える山のふもとに走っているのが自動車だと思えば、それが自動車ではなく何か他の物であっても、そうだと思い込みそれを記憶に放り込む。)でもそれはそのまま記憶される。(思い過ごしのままに)更にそれはそれ程重大な事項ではないのでやがて無意識の領域に放り込まれ大半の映像内容は夢か何かの映像で流れてそのまま消去されてゆく。残存する無意識領域での映像は何かのきっかけがなければ二度と浮上しない。
 生物学の世界ではある事項に関する形質やあるタイプの遺伝子がその中の特定のものにだけ偏ることなく(例えば腹痛を起こしやすいタイプばかりが全ての成員に行き渡るとかの)、万遍なくどのタイプも存在するように配分される自然選択のことを頻度依存選択と呼ぶ。その意味では、どのようなタイプの事項も世には存在するが、だからこそ逆に記憶はそういう万便なく存在する事項の中から個体差を超える普遍的なこととしてどのような記憶が印象に残り、逆にどのような記憶が忘れられやすいかということに関して、個人差も勿論あるが、それでも尚、ある種普遍的にどのような個人にとっても記憶に残りやすく、逆に残り難いかという最大公約数的真理はある筈であろう。捻くれ者なら、いやな思い出ばかりを思い出すかと思われるかも知れないがそれはただそういう傾向が他より強いというだけで、楽しかったり、いやであったりという人生の中からも誰しも、記憶に残りやすいものとは否定的なものから肯定的なものへの変換(肉親の死とか本質的に悲しい思い出以外は)、感情や状況の変化などであると思われる。大脳に関しては殆んど示唆的にだけで終わってしまったが、次章で詳しく大脳のメカニズムについて触れることとして、本章の纏めとして概念図を示しておこう。  
 自己防衛心と良心の概念図式 自己防衛 自己    →          他者信頼欠如(他者上位) (警戒心の発生)   偽装体制保持           良心の抑制 良心発動 自己    →         他者信頼発生(他者下位) (警戒心の解除)   真意表明            警戒心の抑制 感情の切り替えによる記憶の促進 他者の真意把握不可状態  →         他者に対して否定的 感情的認知の切り替え   → 他者真意に他意なしと認知          他者に対して肯定的に再認識 感情の切り替えは知覚的状況の切り替えや、何らかの様相的切り替えも含む。

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