Friday, January 15, 2010

A言語のメカニズム 19、諸言語の事情

 本論でデリダの業績を認めつつも彼独自の差延作用が思い描くところの差異が、記憶のシステムにおいては甚だ不明瞭であり、というより差異という概念だけだと極めて多くの差異、言ってみれば無限に拡張される反復を連想させる。(ドゥ・ルーズ的差異と反復にもクロスする。)しかし変化というと諸々の差であるよりは一つの4拍子の楽曲において一箇所か二箇所ワルツが挿入されるようなニュアンスであるから、少なくとも二つから多くとも七つ以内の構成要素による弁別機能が大脳に記憶庫に収納出来る能力判断であるのではないか、と思われる(そのことは詳しく後述する。)ところから本論は変化という概念を採用するものである。動詞、形容詞と名詞、そして助詞、前置詞、副詞のこの統辞に関する構成要素が少なくとも二つか三つに分離出来るようなミニマルな分析から多くとも七つの構成要素以上の複雑さ、反復を避けるような統合性において、文章だけではなく、あらゆる事象の認識さえもが、この範疇でなされることが、記憶収納には不可欠な行為である、という認識で本論は進められる。
 さてここで一つ重要な認識を確保しておく必要性がある。法則については幾つかの言辞を持ったのであるが、法則性とはデリダが言うように(「幾何学の起源」序説より)科学が普遍的真理を有しているものとしての認識であることやカントの言う空間の非系列性としての性格、空間の同時的存在といったもの(「純粋理性批判」(中)より)を考慮に入れれば、我々は法則というものを空間の全領域に遍く偏在し、何処かで相互に連関し合いながら、それでいてヘーゲル(「精神現象学」より)や西田(「場所的論理と宗教的世界観」より)的に言えば一対他、他対一という二律背反的な真理を有しながら排他的、個別閉鎖的でもある矛盾体として我々は認識せざるを得ないわけである。そこで定義出来ることは、法則とは無時間的な存在であり、変化しない絶対真理であるということである。と言うよりそうであるべきであり、そうでなかったら法則ではなかっただけの話である。しかし法則の理解というものは我々自身の個別的な主体によって認識されたりすることによってなされるわけだから、各自個別的な意味を通して変化あるものとして記憶されることが履行される。法則的理解は時間を要し、そこから無時間化された真理を読み取るという仕組みである。
 しかし法則とは必ずしも理解に多大の時間を要するものばかりではなく、それらはミニマルな要素としてはいわく単純な論理の積み重ねに過ぎない。しかし大きな積み重ねは一個一個の真理ともまた別種のニュアンスと意味を生じる場合もある。そこに物理学的真理に近いある種の単純であることと複雑であることが背中合わせとなっており、それでいて離反し合うようなアンヴィヴァレンツが歴然と存在する。これらが所謂真理の非常套的な側面である。法則の一見「当然」の如く思われていて実際はその「当然」を裏切ることも多い相矛盾した姿である。
 そういう局面から言えば言語は法則でもない。その援用されること、慣用されることで示される実用主義的、現実機能的側面でのメカニズムにおいてのみ物理法則的秩序に従い、法則的であるに過ぎない。だから実践されるメカニズムとしては極めて法則的メカニズムに忠実で、数学的アルゴリズムとも相同であるのに、援用される辞書項目自体は諸々の言語間には恣意性以外のいかなる共通した法則性は見出されず、いわく気紛れであり、いわく個別閉鎖的であり、矛盾に満ちた形態である。それは一個の芸術作品に見られる主観的要素の濃厚なレゾン・デ・トルを持っている、という風にも言えよう。
 ただこれだけは法則的真実であるところのものは変化(あるいは非変化)によって言語行為に記憶されるべきものとそうではなく忘却されるべきものという差をつけている、ということ、それからそれらがミニマルな要素間における単純な組み合わせを基本としている(どんなに難解な論文であっても基本的には)ということであり、それは各言語間における個別具体的事情(語彙の音韻的性格とか語源とか)とは無縁に執り行なわれる。それは援用、慣用、機能の問題である。それでは中国語、フランス語、ロシア語、イヌイット諸語、ハングル等を例証しながらそういった真理を探求してゆこう。
 まず先述のどんなに少なくとも二つ以上の差異による区別から変化を構成し、更にどんなに多くても七つ以下にその多様性を抑えているという真理を証明すべく色々な言語の色々な要素に関する法則性を例証しよう。(これは心理学者ジョージ・ミラーが証明した有名な定理である。)まず中国語(プートンファ、全中国に通じる言わば公用語)において人称を表わす語彙、これは六つである。
 かつて筆者はプロの翻訳家や英語教師の集うサークルに在籍していたことがあるのだが、そこで英語教師の一人が友人のアメリカ在住の日本人が「我々が~」という物言いをした時に後で親しいアメリカ人から「我々という言葉は相手に対して、その人も含めて言うように取られる場合もあるから気をつけて使用した方がよい。」と諭されたという事実を語っていたが、確かに我々という言辞は難しい、ことに個人主義の徹底したアメリカでは使い方を考えねばならないものなのかも知れない。しかし中国語プートンファに関する限り大丈夫である。なぜなら中国語では我々がその状況次第で概念規定上二つに分類されているからである。私とあなたで構成される我々、聴者を含まない形での我々(私と彼)という二つの我々が、あなたと彼のあなた方と並置されている。

 一人の人間が慣用している言語の中では、地方による言語の違いの大きい中国語の恐らくどこの方言でさえもがほぼ、この六つの人称弁別しか存在すまい。言語活動において困らない程度に幾ら複雑でも七つ以上の弁別性を日常からは出来るだけ回避することは、かのフランス語でもまた大いに実践されている。フランス語の数の数え方は一見難しいように見えるが、要するに十進法を避けている無意識のやり方が独特なものだから、どこかの知事さんを問題発言へと導いたわけである。下図に列挙してみよう。
 左から右へゆくに連れて数は増える。更に上段から下段でと進む秩序は例えば、左端で言えば、1-11-10(上段は1-10)、中断は(11-20)、下段は(10-100)という具合である。ここで問題となるのは、下段の数え方である。さしもの知事さんもこの数え方に違和感を覚えたのであろう。しかしよく見ると、1~20までは18通りの数え方という多さであるが、これは日常最も使用頻度の高い数ゆえ致し方ないにしても、10~100の間の10の位の数え方は100を混ぜても7通りしかない。ゼロは別格としても仮に100を度外視すればやはり7通りしかないことになる。ここでも頻度の大きい慣用語には二つから七つの間の差異に留める、という法則性に従っている。

 結局のところ、10~100の間の数詞(10の位)は全て10、20、30、40、50、60(100を除く、100は10の位ではないから。)だけで表わされている。70以上が、60+10、4×20、4×20+10という構造となっているわけである。

 更に英語は名詞(代名詞を含む。)、動詞、形容詞、副詞、前置詞、冠詞(定、不定)、接続詞の七つ、日本語は名詞、動詞、形容詞、形容動詞、副詞、助詞、接続詞の七つ、これも全て二つから七つの間に収まるし、ロシア語の格は英語等と較べるとちょっと多い。英語では主格、目的格、補語である。しかしロシア語では主格、生格、与格、対格、造格、前置格とちょっと英語より多いが、それでも六つに収まっている。
 つまり重要なことは殆んどのケースにおいて、どの言語でも慣用頻度の大きいものは皆二つから七つの差異において収まる分類によって成立している、ということである。
 
 すると言語に詳しい向きが、ではあのエスキモー語はどうなるのか、雪に関する名詞は日本語の「何々雪」という形容表現でではなく、全て我々が「雨」、「雪」、「雹」、「霧」、「霞」、「霙」という分類に相当する概念弁別である為に、そう多いと問題が生じる筈なのに、ちゃんともっと多いではないか、という指摘が聞こえてきそうであるが、それは彼らの生活において、漁業に携わる漁師とかの職業の人々が魚の種類を沢山列挙出来るように、彼らもまた慣用的規則とは異なって、名詞では例外的に七つを超える分類を有するということであろう。しかし、ひょっとすると、最も慣用頻度の多いものはその多数の中でも七つ以下に納まるのではないか、すべての名詞が果たして頻度別重要性において、対等であるかどうか、となるとそうでなないのではないか?読者諸氏のご造詣にお縋りするしかないので、詳細なデータをお教え願いたい。

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