Sunday, January 31, 2010

A言語のメカニズム 20、慣用、援用、使用頻度

 人間の知覚において、心理学の実験では最大限5秒しか驚異の感情は持続しないというデータも出されている。このデータを信頼あるものとするなら、人間はそれ以上の驚異の感情は持続出来ない、というより寧ろ既知のものとして全てを過去へ追いやるようなア・プリオリな能力をもって直に現実に接していることとなる。その既知事実認知性は言語的思考と密接であろうと思われる。もし本論の主張のように何らかの慣用的言辞における記憶的限界が七つ以上の事項を本能的に避けているのなら、我々はそうすることで、もっと複雑な別の事項に向けて全エネルギーを注ぎ込んでいる、という風にも捉えることが可能である。つまり日常的ルティン・ワークを簡略化することで、例えばその際に取り交わされる会話そのものの、意志伝達意欲を充足させるような内容をこそ綿密にする為に技と言語自体はやさしいものにしている、というわけである。もし言語自体の約束事が必要以上に援用し難いものであったなら、その言語を通したコミュニケーションを避けるようになり、そのような事実は本末転倒であるから、必然的に言語自体は援用、慣用しやすいものでなければならないのである。
 そのような慣用と援用のし易さ自体は言語自体の意味、それは多分にイデー的なものを許容するわけであるが、それとその言語がコミュニケーションという行為において機能する際の様相的意味合いとは齟齬を持つ、という真理を表わしもいる。事実イデーとはフッサールの言葉を借りれば<あるべしein Seinsollen>であり、それは対象においては<あるein Sein>と両立し得るものであり、リアルなおものでもあるがイデア的なものである(「論・研」1、252ページより)のにもかかわらず、それは多義性としての認識においてのみ、そういい得るのであって、必ずしもその二つが絡まりあっているというわけではないことは、次の一一節ではっきりする。

 われわれは更に次の相違に注意したい。説明的関連はすべて演繹的であるが、しかしすべての演繹的関連が説明的であるとは限らない。根拠はすべて前提<プレミッセン>であるが、しかしすべての前提が根拠であるとは限らない。確かにすべての演繹は必然的である、すなわち法則に従っている。しかし結論が諸法則(推論法則)に従って帰結するということは、それらが諸法則から帰結し、それら諸法則に精確な意味で《基づいている》ということではない。勿論通常は各前提までも、特に一般的前提は、そこから引き出される《帰結》に対する《根拠》と呼ばれている_しかしこれは十分注意すべき多義性である。

 この論述でフッサールが少なくとも結論が必ずしも諸法則に基づいているわけではないから、偶然性を認めており、偶然性が必然性と手を携えながらも我々が単にそこにどっちの真実を重視するかによってその都度変更されるような出来事の多義性をも指し示しており、このようなアンヴィヴァレンツは極めて興味深い。
 それと直接関係があるかどうかはわからないが、モロッコでは商品には値札をつけない、のが慣習である、という。というのもそれらは常に客との交渉次第で決まってゆくのだそうである。こういった経済は自由主義経済の市場原理に慣れっこになっている成員には違和感があるものの、ちょっと冷静になって考えれば、商品を巡って客と店主が双方の利益を追求してゆくのが経済である、という理念からすれば所謂相対主義的で、ある意味合理的でさえある。勿論そういうことが日本やアメリカでは成立し得ないということがわかっていたとしてもである。つまり経済がその意味を個人に帰するならモロッコ式は合理的であり、社会に帰すれば日本やアメリカでの通常のやり方が正しくなる。
 しかし意味は個人的なものでもあるのである。(我々自身の経済はすでに概念主義へと移行しているのである。)つまりフッサールの言うように個的結果、個的現象、実際的イデーとの齟齬が現実である、と認識する時我々はフッサールのいう説明的関連と演繹的関連の双方をある意味、言語の在り方(様相)として理解することも可能である。説明的関連がパロールなりコミュニケーションの際の顕現、シニフィアンである。それに対し、演繹的関連は言語自体の意味するところ、発話者や記述者の伝え方と独立して認知し得るシニフィエの世界である。<(フッサールの言語論_「真意と偽装の心理学」に掲載)を後日更新予定。その時参照されたし。)カントばかりではなく、フッサールもまた極めて有能な言語論者であった。しかも真理探究や間主観性といった自己対他者(他我)の論理に巧みに言語論的真意を偽装し、沈黙ならぬ隠蔽を実践し、寧ろそうすることで言語の本質を際立たせた張本人である。
 その意味でフッサールにはデジタル的な方法論はそぐわなかったのである。デジタル的伝達方法においてはフッサール的諧謔は伝わり難い。今でも運転手たちに運用される時刻表を作成しているプロフェッショナルたちは、コンピューターを使用せずに手書きで書いている、という。彼等のアナログのこだわりには基本的なところで、すべてを機械任せにすることがかえって誤りを導くという思想性に裏打ちされているのではあるまいか?
 だから先述の七つ以上の事項の記憶を差し控えることで運用される使用頻度の大きい行為性に直結した概念の定着は、どんなに複雑なシステムになっていっても、どこか基本的には原始的、という言葉は相応しくない、もっと理念的なものには手を入れずに済ますということ、複雑さ自体が単純な論理によって土台は構成されている、ということが時刻表のオリジナルの制作姿勢によく表れている。
 さて使用頻度の大きい語彙が慣用、援用の際に曰く二つから七つに必然的に限定されてゆく、ということは記憶のシステム自体の事情、すなわち一遍にいろいろのことを記憶することは出来ない、もし出来るとしたらそのぜいぜいが最大七つ位までの基本要素を組み合わせて記憶すること、が人間の生来の能力ということとなる。
 レヴィナスは生の経済と言った。(「実存と実存者」より)これは生の時間が限られていることを如実に言い表してもいるが、実際生のエネルギーもポテンシャルも限度はあり、だからこそその限定されたものの中で我々は有効にア・プリオリに付与された資源であるところの身体、とりわけ思考に関しては脳、大脳を中心に活用しているわけである。そこでフッサールが「論・研」でも言っている思惟経済転移という行為が必然的な日常的事項になってくるのである。カーナビを使って最短距離で最短時間で目的地に着けるようにすること、渋滞を避けスムーズに走行出来る道路の選択は、我々が日々思考する際に経験していることなのである。思惟はその中でも一層際立った思考の実験場である。どのような複雑の事象に遭遇してもそれを出来るだけ単純な論理で解析して理解しようと欲するその裏には我々自身が思惟する中で有限な自己の経済で無限さえも把握しようという生の本質を窺い知ることが出来る。最短距離での目的地への到着は、すべての現実、困難にも適用される。出来るだけロスを少なくしながら解決することは、生の至上命題であるのだ。
 言語の限界が世界の限界である、とウィトゲンシュタインが言うような意味では言語は資源であり、その言語の経済こそが慣用と援用の豊かさを保障する。ある人の言語的な能力は、すなわち言語の経済(ボキャブラリー)でもあるが、それだけではない。幾ら経済的に豊かな人間がいても財産の使い方を知らない人間が多いように、言語的資源も同様であろう。ボキャブラリー自体の言語的資源の稀少な人間でも知的存在者の名に相応しい慣用と援用の技術はあり得る。組み合わせ方である。使用頻度の大きい言語同士を組み合わせることで、少ないボキャブラリーを克服することは可能であろう。寧ろそれが出来る人間が早晩ボキャブラリー自体も増加させてゆけるのであり、組み合わせ方を知らない人間が幾らボキャブラリーを記憶してもその慣用、援用の秩序自体が支離滅裂であれば、ボキャブラリーの豊富さはかえってコミュニケーション自体を墓穴へといざなう。
 パソコンのデータ保存の容量にも限度があるように、ボキャブラリー自体にも限度がある。幾ら知性を誇る人間たりともその容量的能力には限度がある。だからこそ、慣用の際の状況的使用テクニック、予想外の状況においてある言辞を施すユーモアとアイロニーがその人間の文化コード的豊かさを立証するのである。あるいはフッサールの言う「学問の人間学的統一」の名において我々が実践するコミュニケーション自体のモティヴェーション(動機付けとフッサールが呼んでいるところの)の在り方の理念性、創造性を証明するのである。言語の伝達に払われる表情や全ての所作と言語自体が組み合わされて発するメッセージは無限のヴァリエーションがある。
 最小のエネルギー・ロスをもって最大の効果をあげることをコミュニケーションの至上命題にし、かつそれを実践し得る人間を人は有能な人間、知的な人間と呼ぶ。思考はそのために日夜脳内で繰り広げられる回路の機能芸術である。入力と出力で生理学的ホルモン・バランスを取る人間は知的ではあるが極めて生存戦略的哺乳類でもあるのである。
 かのデズモンド・モリスの言うように、仮に人間が果実食をする森林の住人であることから、広く居住環境を拡大する中で、捕食、肉食の習慣を身につける過程で共同体を構成してゆき、その必要性と共に大脳を巨大化させ、ということはその段階で言語行為を成立させるべく、というか遺伝子レヴェルでの大幅な進化が必然的に起こり、やがて言語的思考を常とする、それなしには基本的に同一種内では生存不可能な種となっていった、ということであろう。そこに捕食と食事がその目的において乖離してゆく(モリス説)<かつては果実食をそれが営める環境《すぐに採取出来てすぐに食べることが出来た生活》に即して森林内を放浪していた人間が次第に捕食、肉食を身につける過程で、定住、男女による捕食、子育てという分業が成立してゆく。>ことが、社会性、つまり分業のシステム(男女のだけでなく、男同士でも専門分業化、女の名でも男の不在時における地域コミュニティーはあったかも知れない。男の社会的位置に応じた階層性もあったかも知れない。)が生じていったということも極めて説得力がある。しかし本論でも主張するように次第に言語行為の目的化が発展し、共同体内での機能維持と目的性への従属から言語自体が開放されていった時、再び人間間にはある種の出世欲や内的攻撃性(嫉妬とかの)も生じ、やがてそれは他者に対する欲望となって、偽装や演技(おべっか、嘘)が常套化し、言語行為は別次元の手段と化してゆく。それを転落と捉えるか、必然的と捉えるかは分かれるところであろうが、そこから現代へと通じる言語行為にまつわる諸問題が厳然と存在していることだけは確かである。
 七つ以下であると仮定したその構造的シンプルさを規定概念としながらも、それを巧みに組み合わせることで、言い回し、諺とかも成立していったであろうけど、その過程で今度は段々そういった表現が使用頻度を増すに従って常套化してゆく。概念の定着が文化コードでも最下層に位置する日常的慣用の使用頻度最大という不動の地位を獲得する(一般化)と、今度はそれを打破する知性、言わば思考の革命がやがてもたらされる。その中で一際優れた個人は支配者にもなれたかも知れない。しかしそれとは別個に言語が共同体内での潤滑油としての会話、対話自体の目的性に従事するようになると、次第に伝達内容の濃さ、その伝達意義が問われるようになっていったであろう。そこでは常套的概念の組み合わせという社交辞令性から、徐々に離脱した個人の会話、対話を通した個性も確立していったであろう。だがそれだけではなく、創造的組み合わせを巧みに出来る個人の社会的成功とその利害にありつけない個人(仮に本当は創造性があったとしても、成功にはありつけないそちらの方が多数であったことは間違いない。)の中から抵抗の、反体制の天才も登場する。(まるでイエス・キリストのような)思考の革命は革命を起こした優れた個人の特権的概念による支配に対する従属からの解放というもう一つの思考の革命をも絶えず起こしたであろう。創造的常套概念の組み合わせとは、言ってみれば伝達様相重視主義である。伝達内容よりも如何に効果的に、説得力を持って伝達目的を達せられるかという局面が重視されるようになる。それは個人のレヴェルでも公共的レヴェルでも査定されていたことだろう。その査定がある時は革命へと繋がっていったとも言えよう。
 常套的概念の定着と、その使用の奨励は特権的常套概念使用による権力者による庶民への管理欲求によってもたらされる、言わば社会通念に対する懐疑の所有を一般庶民が持つことの極端な支配者による警戒である。しかし概念使用を強制しても、もっと説得力ある豊かな概念の組み合わせは、また庶民の中からもたらされる。最初は誰かによって作られた特権的常套概念、社会通念的お仕着せからの開放は政治的混乱をその都度招いたことであろう。しかしそれが人類の言語行為による思考革命の歴史であったのであろう。
 大脳は変化を弁別するから名詞から動詞へと切り替わるのではなく、切り替えるような行為を身体が要求し、実践するからこそ、その変化をすかさず見逃さないのである。その実践された変化を大脳が弁別するのである。パロールやエクリチュールはそれ自体が言辞表示行為として大脳機能を活性化する。大脳はただ身体的要求にその都度従ってそれを指令しながら、パロールやエクリチュールの行為によってもたらされる変化(その変化自体も半分は大脳が、他の機関からの要求に従って指令しているのだが)に自身でも手答えを認識するのだ。
 纏めよう。常套的概念使用は慣用化するが、時に新鮮さを求める成員たちは、共同体内での特権階級でない際立った個人の非常套的概念の援用をするようになり、やがてそれが特権階級を脅かしだし、その個人に同意する人間が多数いれば革命は履行されたであろう。しかし夢破れた個人も、それを指示する群衆も多かったであろうことも容易に察せられる。大脳はその都度新奇な概念の組み合わせに自己固有の意味(価値観)を重ね合わせる形で査定し、いいものは直ぐに取り入れ、余計なものは排除するという作用を延々やってきている、というわけなのである。

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