Wednesday, January 6, 2010

B動詞と名詞 10、<言語と思念>

 言語が思念上で重要な意味を持つのは、想起→想像→知覚といった転換的連鎖において、とりわけ知覚対象を意味づける、あるいは想起や想像において思念上で映像を心的に現出させる時に、その思念上の映像にナレーションを付けるような時であろう。「なあーんだ。猫だったのか!」とか「あああの時の人だった!」とかしばしばこのような時我々は独り言を言う。
 思念の全てが言語的であるとは言えまい。しかし思念をただ映像的に想起させている訳ではなく、その映像を記憶でファイルさせ、それを検索しているものは「昨日」、「夜」、「飲み屋」、「電話での会話」、「寝る時に読んだ本」とかであろう。これらは自己行為の記憶収納に纏わる概念的位置づけである。まず映像が想起され、その後後付け的に言語が持ち出される時でさえ、「飲み屋」からは<マスターとの会話>、<その時のマスターとの感情的な遣り取り>あるいは「昨日の散歩」からは<その時に考えたこと>とか<その時すれ違った女性>とか<その時目にした紅葉>とかであろう。つまり連想上では思念は言語化されている、というより言語が飛び交う。言語に結び付けて思念してしまいがちなのが我々なのだ。映像と言語の連関は想起、想像、反省、知覚の全てに付帯する。
 言語と映像を関連付ける時に、それをより有効かつ円滑に執り行うものとは、過去の自己行動、自己行為の記憶とその時の感情であり、全てこれらは事後的に名詞化されている。その時の目的、その時の感情etc。「鬱陶しい飲み会」、「楽しい旅行」、「惰性的な世間話」、「心躍るデート」etc。
 言語獲得以前にも明るいもの、暗いもの、白いもの、黒いものというような知覚上での対象及び現象の性格、性質に関する弁別的思念は存在したであろう。しかしそれらは言語獲得以前には他者と意志疎通することが出来なかった。それらは全て表情だけでなされていた。言語が音声で発せられるようになったことが表情での細かい弁別性を退化させた、とも言えるかも知れない。表情が語彙の数だけあれば何も言語が音声に頼ることはない。しかし歴史はそのようには人間を誘導しなかった。表情による弁別だけが言語活動であったなら偽装感情はし難かったであろう。楽しくないのに楽しい振りをすることは音声だけで意味を伝達することよりもより弁別性を頻繁に志向しなければならないので、ストレスが最大限に達するであろう。音声と表情の二元性において対話する言語活動が成立していたことが偽装的感情の襞を木目細かくしていったとは言えよう。
 ともあれ言語は意志疎通の渇望が生じさせたが、それが音声であったのは偶然的な出来事の集積であったであろう。(偶然をパースもモノーもクリプキもテーマとして論じている。)
ところで根本的なこととして意識というものは哲学では解明せられない。またその必要もない。何故ならそれは知覚行為と知覚内容の選択(そこに言語がかかわっていると思われるが)そして無意識の意志(生理的、不随意的)によるものが大半なのだから関心、集中、忘我といったもの以外の大半を総括して意識と問うこと自体が極めて対象把握認識において曖昧である。問題とすべきは関心、集中、忘我、知覚内容の選択、そしてそういった密度あるポテンシャルエネルギーのあるもの以外の潜在的な記憶事項(映像、音声共に)が何らかの拍子で蘇る際に閃く言語的思念である。
 思念には前言語的、生理的欲求(カント的に言えば他律的)に忠実なものも多く含まれる。よって意識的には動物的な感覚によるものが多く含まれる。しかし同時に言語獲得後の全ての存在者たちはこの欲求、意識をも言語的に即座に意味づける。これは殆ど条件反射的な心的メカニズムである、と言えよう。
 思念が現在に依拠した意識であるなら我々はそれを生理的な条件、無条件反射のメカニズムの範疇で捉えることが順当であろうが、例えば用を足して横断歩道を渡り、ベンチに腰掛けると過去の記憶映像が想起されよう。するとそこでは例えば通学路の山道の映像とその時に自己の身体が知覚した感覚(視聴覚的、触覚的<気候的のものだけではなくその時の成長過程における身体の変化や精神の変化に伴う心理的な感覚、感受性>)に対する記憶想起とその時の思念想起、その時の感情想起、その時の言語的な思考想起(これは思念想起に殆ど重なっていると思われる。)といったものが立ち現れる。感情想起においてはそれが印象的であればあるほどフラッシュバックする可能性があるが、それはネガティヴなものである場合に特に多いと考えられる。しかしそういったその時の意識記憶さえもが意識の在り方を想起する際に言語的に思念する。「辛かった。」とか「焦った。」とか「胸が一杯になった。」とかである。言語は想起し映像を心的に再生している最中に既に入り込む。
 茂木健一郎が指摘している(「脳と仮想」新潮社刊)ように我々は皆意識していないものもまた記憶している。例えば「あの時頭の中は受験の日だったので数学の問題ばかりだったが、実際あの時今から考えると凄く緊張していた。体中で硬直した神経組織が異様にコルチゾールを放出させていた。」とかある一定の時間がたつと認識出来る。しかしそれはその時にはあまり、というか大概殆ど意識されてはいない。つまりその時には意識されていないこともある一定の時間が経過すると手に取るように理解出来るということは無意識が意識に変わる瞬間が確かに存在する、ということである。というのもその試験会場へ向かう通学路での思念が事後的に出た数学の試験の結果となって、たまたま受験に合格すれば、通学路での思念と試験の時の思念とが因果的に結び付き、更にその日家に帰ったら急に強張った筋肉や神経組織が中々普段よりも寝つけなくて、次の日にやっと眠れた後に覚醒すると異様に虚脱感が実感されて、初めて緊張が解けたと実感され得るのと同じである。
 この一連のプロセスを考えて見よう。例えばこの受験する者は数学の試験の出来不出来で人生の進路が左右される、ということの認知(未来予測)によって極度に試験の日程、その時に出される問題の内容の予想に関心を集中させている。それはある意味では極度の意識状態へ無意識の内に滑り込むような必然的なプロセスがある。極度に意識的であることが無意識にある特定の未来へと「構え」を構成し、その「構え」が特定の緊張状態を形成する。その「緊張」とは何なのだろう。それは過剰なる未来の「ある特定の来るべき日程に関する不安と期待が入り混じる感情が顕在化し、日常の平静感を喪失させることから来る鎮静化の為にひたすら思念(試験会場へ向かうまで数学の問題として出題が予想される内容に意識を集中させることを通して)へ集中させることで対処しようと無意識に試みる」心的な様相を言うのであろう。
 だがこのプロセスもやがて新たなる局面に突入する。それは試験問題が提出されるのだ。試験問題に直面するに至ってそれまでの緊張は来るべき不安と期待から現に今提出された諸問題への対処という局面に突入するのだ。現に今かかわっている諸問題への対処は冷静さを必要とするような心的メカニズムが発生する。問題をどの様な順序で解き、どの様な時間でどのような内容で構成するか、という計画的な思念が集中的に繰り出される。そして順調に滑り出した回答もやがてクライマックスに突入するに至って最大限の努力でもって欠落した箇所の修正へと意識は向かう。そこには各々の瞬間毎に熟慮よりも即断を要求しなければならない為の捨象、つまり熟慮の断念が求められる。やがて試験は終了時刻が来て終了する。当分の間はその試験に書いた回答の様相を反芻する。しかしある時期に来ると最早取り返しはつかないのだから、反芻を断念する。そして一週間が過ぎた。後合格発表まで一ヶ月、そこから徐々に試験のことは忘れられ平静心を取り戻す。しかしやがて試験の合否通知が来る段になってその日程の近づくに連れて再び試験前のあの緊張が繰り返されるのだ。
 しかし重要なことは試験を受ける者にとってそれがどんな試験であろうとも、その試験の日程も試験で出される設問も皆偶然的なものでしかない、という事態である。偶然であることが世界の基本であることはそれぞれ別の角度からパース、モノー、クリプキ等が語ってきたことである。だがしばしば、というよりも丸ごと人生の全てはこの偶然によって成立しているということは自明である。何時生まれてくるか、何時死ぬかを含めて全ての出来事は偶然的な要素によって成立基盤そのものが構成されており、その偶然に支配される、ということ、ここで言えば試験の日程や設問内容といったものは全て偶然に支配された必然的に重大なことである。だから受験生にとって過去の試験受験事実は「信じる」べき厳然たる事実である。しかもその偶然が人生の幾分かの分岐的な角度を決定する。受かればどうなる、落ちればどうなる、という事態は固有のものとして待ち構えている。しかし一旦受験すれば試験設問内容や合否事実は必然的となる。厳然たる事実としていずれの場合にも人生を規定する。そして試験設問内容は試験を受け終わった時点で理解し得るものと化し、合否通知もまたその試験での出来栄えに即応して理解し得るものとなる。偶然の必然化こそが事実認定の事後的な認識を既成事実化する。だから日常的などのような認知もどのような知覚内容や様相もまた偶然的であるが、事後的に捉えれば全ての偶然は理解し得る対象として必然化する。未来は偶然な形でしかやって来ないが、どのような未来であれ、必然化され形成事実化される運命にある。それは必ずやって来るからその意味では信じられる(そうする当人にその未来において生がある限り)が、同時に事後的にはどのような悲惨な出来事、超幸運な出来事さえも事後的には必ず理解出来るような事実認定対象と化するわけである。以上のようなことから下図のような概念的相関性が得られる。

「信じる」こと→過去の厳然的事実認定、存在直観→全体把握→名詞的思念

「理解する」こと→過去の事実における内容把握、メカニズム追認→体験→動詞的思念

過去事実想起→直後は体験的に「理解する」が時間経過と共に「信じる」ことを通して「理解する」ことが通常となる。「そういうことがあった。」という全体的な認識が先行するようになるのだ。このプロセスこそ偶然の必然化である。

当然のことながら名詞的思念は記憶の合理化を旨とするので、他律的であるが、それは全体把握であるからどのように動的たろうと静的たろうとそれらは一切が非変化として捉えられる。非変化は不動対象把握的であるからそれらを現在においてさえ過去事実化する。それに対して動詞的思念は体験的であるので自律的である。そして過去事実に依拠する限り記憶の再現を旨とする。そこでこれらは静的なものでさえ動的に考える。変化の位相において全てを追認する。だからそれらは過去に言及していてさえ現在化されている。

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