Sunday, January 3, 2010

A言語のメカニズム 18、学習

 生物学における重要な概念である選択圧という考え方は、一体物理学、少なくともシュレーディンガー、ウィルキンズ、ケンドルー等の尽力によって生物物理学が定着する以前の全ての物理学の基礎たる古典物理学の認識方法によって説明可能なのであろうか?個々の現象自体は確かに物理法則によって立証されるとしても、その元となる生命体の種、個体すべてがそれに従うところの主体的行動、発生学的選択とかを物理学で説明可能であるか否かは物理学本体の事情もさることながら、人類の科学の命運をも左右するかも知れない。すべての学問が必然的帰着するところの哲学的問いが物理学の分野で求められているであろう。生命が必然であるか、偶然であるか(私は繰り返すが偶然と見ている。そうでなければ、何度か起こった地球環境の激変でその度毎に全く異なった種が絶滅し、その後暫くして全く以前には見られなかったその時一回限りに出現しかもたらさない種の進化がもたらされた、そういう現実を説明不可能となってしまう。一度くらいある絶滅した同じ種がもう一回別の時期に出現して反復登場してもよさそうなものである。)という問いも必然的に重要となろう。
 確かに全ての生命体が何らかの形で選択圧に対応し、それをばねに進化を遂げるということ、その陰に多くの種の系統が絶滅の憂き目に会うこと自体は必然であろう。しかし、何らかの地球上でのカタストロフィックな事態の際にどのような戦略で生存を図る系統が生き残れるのかということは極めて統一された法則を見出すのが困難で、殆んどそういった事態と種との関係毎の偶然的要因が大きいのではあるまいか?(実際はそういう法則も存在しているのに我々が発見出来ずにいるだけかも知れないが。)すると何処から何処までが必然で、何処から何処までが偶然であるのか、ということの問いが重要になってくるかも知れない。人間の進化史上の問題、ここで取り扱っている言語行為発生、進化の謎も同様である。この章以下では言語を巡る疾患、そして地球に存在する言語のいろいろの形態、そのことが表わしている哲学的問いを考えてみたい。その際には学習理論とか発達心理学とかの概念も重要となってくるであろう。まず子供の学習と大人の判断について考えてみよう。

 他者信頼の欠如は確かに自己防衛を助長する。真意を隠蔽し偽装することで、最大限自己の損失を食い止めようとする自己防衛がしかし頂点に達すると、その行き過ぎに比して他者の無垢を認知するようになる。自己防衛の度合いに対して他者の自己に対する信頼の欠如は想像以下(思い過し)であるかも知れないという再認識が、自己防衛を解除する。その際、偽装性や攻撃準備性のために放出される脳波、ホルモン、蛋白質を抑制する作用が発動され、やがてその抑制系が自己防衛によって促進された躁状態を抑鬱状態へと転換させようとするし、事実そのように転換される。スイッチの入れ替えである。
 嬉しい気持ち、楽しい気持ちは突如のカタストロフィックな知らせで吹き飛ぶ。そういう感情の入れ替え、前状態の解除と心理状態の突然の変化は大脳を刺激する。この際の大脳への刺激が記憶をクリアにする。その変化の際の状況が忘れられずに記憶を常に現在進行形のように再生させ続けるばかりか、過去の記憶に関する追憶もより鮮明にする。しかも以前には忘れかけていたようなエピソード記憶さえもがありありと蘇る。それまで覚えていたことを忘れることと引き換えではない。それらも、そうでなかったものまでも対等に並置されるのである。
 このような鮮明なる記憶のシステムはカタストロフィックな局面では確かに上記のような例で成立するであろう。しかしそういう極度の心境の変化ばかりではない。認識の変化もが記憶を整理し直したり、引き出しから取り出したり、その変化の際の情景をありありと凍結させて、保存させたり(何時でもその時のことを思い出させるように)要するに、それらはカタストロフィックな感情の変化同様大脳を刺激する形で記憶をも刺激することを常とするのである。しかし言語認識においては情景は忘れても言語による構造つまり文章だけはいつまでも忘れないという風になる。勿論それは日々言語行為は反復されているから、余程の印象的な人物と事物に伴った言語行為ででもない限り、言語例、文章や物言いだけがエピソードと分離して記憶されるという事態も想定されるわけである。
 デリダは記憶を差異で認識したが、本論では寧ろ変化を機軸にしたい。なぜなら変化はある傾向の遺伝子の発現、ある傾向のホルモンや蛋白質の放出や流出の制御システムが知覚や意志的発動に伴って、明らかに転換させるように別種の行為の(その決断の)スイッチングを指令する。その指令者は大脳であり、それによって引き出される遺伝子である。スイッチングの切り替えは抑制系の援助なしにはなし得ない。抑制系の援助を更に抑制するものは前状態での主役の遺伝子、ホルモン、蛋白質であろう。それら一切が全く反転した状況というものも当然考えられる。嬉しい~悲しい、と悲しい~楽しい、とかの場合である。
 名詞と動詞が交互に登場する言語統辞ではこの可変性が大脳を刺激する。例えば本論で述べてきた例の文章例では前者の方が記憶に残り、後者は記憶しにくいとしたら、そこでは明らかに変化に富んだ構造(遠近感、立体感、現実感)とそうでない構造(平板さ、抽象性)との差異が歴然としていよう。変化が交互に進行するシステムでは進行するに従って引き込まれる追体験性が聴者の記憶の層を刺激する。(螺旋状のねじがよく食い込んでいくのと同じ原理である。)要するに理解し易さが聞くことによる利益を認識させ、話者に共感を獲得し、相互のコミュニケーションの意義を確認出来るのである。コミュニケーションはその際に進化し、深化する。
 この理解し易さは決して概念の多様とか、概念の示す多義性とかでもない。寧ろ単純でいて、聞き取り易く、明確であることが求められる。それは概念が意味に転化する段階の現実である。ある種の形式的な公務関係の文章の理解し難さは、明らかにこの側面が欠如している。子供が言語を理解し、習得する際のメカニズムを考えてみたい。子供は公的文書的な手続きをより一層好まない。理解し易さ、気取り易く、親しみが持てるそういうものだけを好奇の対象として選択する傾向がある。子供は概念性が極めて希薄で、個的意味の世界にのみ生きているという側面が強いからである。

 子供が人見知りする心的状況は良心の欠如が示される。人見知りするか、しないかは親しみのある対象であるか否かという観点が重要な基準となるように思われる。そしてそれはア・プリオリに決定されている。そもそも親しみの持てる対象にしか好奇を示さないし、またそういう人物としかコミュニケーションを取ろうとさえしないものである。
 これが大人であるとこうなる。先述の復習である。他者に対する信頼の欠如は、明らかにその他者に対する面識を持ってすぐに示される友好的態度に対する疑惑に依拠することが多い(調子のいい奴だ、と思う。)が、発話行為では真意を隠蔽してゆこうと決め込む偽装決意の履行可能性は他者信頼の欠如と懐疑に比例する。しかし偽装途中で他者への自己の偽装に対する無垢な信頼を発見した瞬間が、すなわち良心の呼び戻しの瞬間であり(こういう瞬間は偽装が滞りなく進行していることを認識し得た瞬間に訪れることが多い。)、ここから徐々に移行段階へと突入する。まず確認である。本当にこの人間はさっきの印象通りに他意はなく信用出来るのか、という問いはもう一度念には念を入れて無垢で信用し易い人間かどうかを査定する。(しかし必ずしも無垢であることだけが即信用出来るかどうかの判断にも結びつかないところに大人社会の難しいところがあるが、)この段階ではまだ真に偽装は解除されてはおらず続行されている。しかし畳み掛ける自己の側からの偽装による確認によって無垢が判明した段階をもって偽装解除の決意がなされる。だから遡ればこの人間(自己にとっての他者)が無垢であると感じた瞬間(ひょっとしたら、と思った瞬間)が一番記憶に残るであろう。「あいつもそんなに悪いやつでもなかったな。」と。
 この自己の言語行為において、他者を無垢かどうか確認する段階までは明らかに形式的言辞に終止する。しかしそれが解除されると今度は完全に真意を示し始める。具体的言辞の開始される瞬間である。その際には「さっきあんなことを言ったけど本当はこう思うんだよ。」とかの言辞もなされるかも知れない。
 子供は確認の段階、つまり偽装解除を躊躇し、逡巡する段階が省略される場合が多い。というより省略されないようなものにはいつまでたっても心を開かない。心を開けるものはア・プリオリに決定されており、その者に対しては省略も前提されている。故に良心というものも希薄である。(良心とは他者良心の発見から自己の他者への偽装解除への移行段階における思考秩序のことなのである。)ことに幼児の場合は。少なくとも小学校に入学するくらいになるまでは良心を醸成させるような躊躇や逡巡は両親の教育次第であり、両親の躾とは無縁に自己の判断でそういう意識を生じさせるには更に4~5年くらいを要すると思われる。
 言語を習得するメカニズムはだから親しみのあるものからそうでないものにおける距離感の習得ということが出来る。親しみの持てるものとは両親を機軸にした人間関係であり、近所であり、よく目にする事物である。そういった語彙はすぐに習得される。しかし自己にとって、よく目にしない事物や人物もまた社会にとっては重要である、ということの認識の醸成過程こそが言語習得のモティヴェーションの側からの、つまり好奇からの促進過程である。(そうやって少しづつ大人社会の仲間入りしてゆく。)その過程で、意味の領域から概念の領域へと語彙の習得選択基準が徐々に拡大されるてゆくのである。そこに個的なものと公共的なものとの区別や段階を習得する過程が重なってゆく。良心とはそういう認識獲得過程によって必然的に生じてゆくのである。
 しかし意外に無垢な人間であるという認知を得る瞬間の大人の心理は、実際は子供の頃を思い出している場合も多い。「あの頃はそんなに疑り深くなかった。」という反省が生じるのだ。しかも、それは自己演出の、演技の、偽装の滞りなさが自己嫌悪体として産むことが多いのである。
 この反省はなかなか子供には難しい、と思われる。子供はまだそれほど警戒心はない。よほどのトラウマになっているような幼児体験がない限り、信用出来るか出来ないかという理性的判断よりも、親しみが持てるか否かという条件反射的判断が機軸なのである
 ここで本章の論理を纏めておこう。
 我々はしかし大人の中にも極めて子供と共通する部分を、逆に子供の中にも大人と共通する部分をしばしば発見することが多いであろうし、嫉妬という感情は大人社会での子供にありがちな自己中心の狭い世界を機軸とした自己本位の意味の世界(自分勝手な世界認識)と無縁ではないし、子供の嫉妬は子供の中に見出される大人社会の縮図と捉えることも可能であろう。だから我我々はそういう現実を大いに踏まえて現実の社会に展開されるコミュニケーションの本質を見極めてゆかねばならない。





<子供の学習過程>

最も生活に密着した日常的人物事物の語彙習得
<親しみが持てるもの、自己中心の世界観>
個的意味の世界



自己の周囲のものから始め、徐々に自己領域を
拡大し、やがて自己と他者、自己固有の意味の
世界から他者の世界、非日常的人物、事物の
存在の認知をするようになる。




個的意味を凌駕した公共的意味、つまり概念の
世界の人物、事物の認識を得、それに伴って
そういう語彙を習得する。しかし語彙習得その
ものが逆に公共的意味、概念の存在の認識を獲
得させることも多い。

この二つの概念図式は必ずしも二項対立的な位置関係にあるわけではない。なぜなら上の子供のこの図式が大人社会でも人見知り的な懐疑と信頼欠如を呼び込み、偽装を成立させるからである。かつまた子供もまたこの下の大人の図式を模倣しようとしながら、徐々に自我的意識と社会的責務の双方を同時に獲得してゆくことになるからである。個的意味から公共的意味の概念獲得的拡張は他者理解と社会認識、及びプライヴァシーとパブリシティーの二面性の学習を示しているが、大人もまたややもすると、二面性を忘れがちで、自己の保身と権力志向性がプライヴァシーをパブリシティーに置換してしまう。社会を見回してみていかにその種の例が溢れかえっているか既に賢明なる読者諸氏の方が余程ご承知のことと思う。

<大人の他者理解に存する段階的移行過程>

他者への信頼性の欠如による自己偽装の決意
真意隠蔽の常套的判断



自己偽装の徹底化による他者による自己
への盲目の信頼が醸成する自己偽装の行き過
ぎに対する反省、やがて他者の人のよさ、無
垢の発見、しかしもう一度本当にそうか確認



確認後真に信用出来る他者という認識を得たのちに
偽装解除、真意表明、相互信頼のコミュニケーション
の成立

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