Monday, January 25, 2010

C翻弄論 7 言語ゲームということ

 ここで一旦ゲーム性の考察から離れて言語について考えてみよう。
 つい先日オリンピックのある競技の試合の前にある番組のパネラーが外国の優秀な選手がエラーしてくれるといいのに、というようなことを言ったら、その返答で別のゲストの元選手が「彼も実力はあるものの、オリンピックでは一度もメダルを取ったことがないから、喉から手が出るほど欲しいんですよ。」と言っていた。もしこの時「~さん、巧いこと言いますね、喉から手が出るほどなんて。」というようなことを誰かが言ったとしたら、その人は日本語をよく知らない人であろう。それが日本語を学び初めてその面白さが理解し始めてきた外国人なら許せる発言であっても日本人であるなら、それは少々的外れな人間である。そういう返答以外にもこういうものも考えられよう。「喉から手が出るなんて実に日本語って面白い的確な表現を持った言語ですよね。」しかしこれは明らかに言語学や方言の研究テーマの番組でのコーナーででもない限り、少なくともスポーツ報道の番組での発言であるならかなり不適切な言辞である、と言えよう。言語とはその発言が時と場所を弁えたものであることが要求されるそういう性質のものである。
 というのも言語というものとは本論で脆弱な「個」性について触れているような意味では、全ての民族にとって、それ自体は強固なる「個」による創意工夫の創造ではない。総意としてのコードであるに過ぎない。いや、「過ぎない」か「そうであるべきか」と言えば「そうであるべき」ものである。サピアも指摘しているように言語活動はある言語において聴覚的なワーキング・メモリーが音韻規則に沿ってその語彙の付与する意味(指示内容、対象指示)と記述(哲学において言われる記述ではなく、言語を書き留めること)される際の文字の視覚的イメージ(視覚的ワーキング・メモリー)が相互に連合され、ジョイントされることで言語活動、あるいは構文論的に理解されることを基礎としているが、それはウィトゲンシュタインが名付けた「言語ゲーム」以外のもう一つのゲームでとも言える。
 ある出来事は言語的な認識、つまりある出来事を過去の出来事として陳述したり、報告したり、想起したりすることで出来事としての性格を持つに至る。例えばヴィデオ・カメラである行為や現象を写し、それをテレビで放映することでどんな些細な場面でもその時点でニュースとなる。だからニュースはニュースとしての価値があるからニュースとなるのではなく、寧ろそれが報道され映像が放映されるからこそニュースとなるのである。そのことを報道関係者は熟知している筈である。出来事は恣意的に作られるのだ。どんなに大きな出来事があったとしても、それが映像で映し出され放映されなければ大したニュースではなかったのである。つまり報道する側が何を放映し、何を放映しないかという恣意的な判断がなされ、それがどういう形での報道であれ(インターネットだけの報道であれ、会社内だけのネットを通した報道であれ)、それは報道の内容以上に報道される対象としてあるどんなに些細な出来事であれ、そういう風に選択された事実こそがニュースとなるのである。報道とはだから報道する側からの報道意志表明そのものであり、発語内行為として報道スタンスそのものの宣言によってニュースとなり得るのである。
 メディアの流す報道によって認知度が上がるのは何も政治家のような職業だけではない。出来事もまた報道されて茶の間の一般大衆に認知されることでニュースとなり、それはその放映され、報道された出来事の重大さとは無関係である。しかし我々は報道されるからそれが重要である、とついそのように思い勝ちである。
 ある認知度の高い政治家の発言をつい正しいと信頼してしまうように、ある画商が売れ筋の画家の絵がそうではない無名の新人の絵よりも商売上重視することとは、とりも直さず、絵をコレクションする人々がそういうコレクターの収集意欲をそそる有名な画家の絵を欲しがるという事実に根差している。画商という職業の人間はコレクターの画家に対する認知度を通した信頼性(クレディビリティー)に依拠しているのと同様、我々はそういう認知度の高い政治家を信頼する、という面はかなり明確に一般民間人の間では定着している。そして選挙があればそういう認知度に対する信頼性から誘引された動機でその候補に投票するのである。
 それは選挙で政治家に一票を入れる行為だけではなく普段何気なしに会話する時に使用する語彙の選択基準も、そういう語彙をある場面においてある文脈において使用することが社会的な容認度とそれに付帯する意思疎通の手段として有効であるという信頼性に依拠しているのだ。それはまさに言語行為における一番重要な行為選択である。(ハイデッガーの言う「適所性」もこれと関係がある。)
 ある慣用句は現在通用する共時的「ラング」に適うのなら、我々はそれを使用しても適切だと判断する。それは先述の「喉から手が出るなんて巧いこと言いますね。」という発言が不適切であるから、そう思っていたとしても言わないでおこう、今度言語学に関心のある人間にだけそっと告げようと思いその場では差し控えるという判断を下す根拠である。それが意思疎通の場を弁えるということ、つまりTPОなのだ。
 例えば慣用句を使用する時はその場に相応しいものを選択するものだし、仮に文学に通じた人間ばかりが出演する教育、教養番組において専門的な雅表現を使用することを常としている文学研究家がワイドショーにゲスト出演した時にはそういった雅表現を語ることを控えようと心掛けるであろう。なぜなら文学に通じている人ばかりが、その番組の視聴者ではない筈だからである。また矢鱈と時代に阿って今現在流行している慣用句を敢えて使用することもそれが有効であるか、寧ろ忌避すべきであるかというようなTPОも当然その慣用句を使用するということに関して考えられる。
 その意味ではある発言において語彙や慣用句を選択することとは、明らかに社会的な自己スタンス表明をも決する状況判断における慣習依拠的であると同時に迂闊に不適切であることは差し控えるべき社会的立場やそれに相応しい態度や存在感をアピールする自己表明性へと直結した社会信頼上、重要な行為選択である。
 だから当然のことながら昔のようにテレビで一々国会中継は放映されなかった時代には平気で専門用語だけで済ましていた政治家も今日ではかなり視聴者への理解を考慮に入れて語彙、慣用句選択を行っている。そういった配慮が自己政治的手腕を同党の仲間にも党の上役にも視聴者(有権者一般やその家族にも)にアピールすることとなる。それがテレビ時代の学者、政治家、作家あらゆる出演する職業の人々の時代的な慣習性への加担なのである。
 今度は言語が慣習とか常識とどのようにかかわりがあるかという観点から考察してみようと思う。いや慣習という言葉がやや形式的であるなら習慣としてもよい。その方が文化コード的通時的なニュアンスよりも共時的なニュアンスが明確になる気がするからである。慣習である場合と習慣である場合とでは恐らく知覚刺激の面からも身体生理学的な観点からも全く異なった反応と学習的な記憶性があるであろう。常識もまた民族文化的な観点からと(当然それは言語的文化ともかかわりが深い。)比較的近い過去からの習慣化した事項から得られた常識的な観点からとでは相違は生じよう。慣習性において我々は一般常識を重んじよう。それは限りなく共同体の歴史的な認識を考慮して限りなく普遍的であるだろうという常識目測的な思惟に依拠したものである。それに対して習慣的なそれは多少文化コード的な慣習性には背くものであっても現代社会が要求するニーズから自然とそういう行為を無意識の内に選択してしまう、つまり思惟とはあまり関係のない判断が主となる。「流行」というものは政治のような堅い分野でも基本的に侵食されるものである。
 我々の日常から考察してみても習慣から慣習へと転化されてゆくものと、逆に慣習から習慣へと定着するものとがあるように思われる。
 例えばコンビニエンス・ストアは夜勤者の存在が作り出したものでもあるが、逆にそれが出来てから夜に買い物をすることは何ら常識外れな行為ではなくなってきたし、また夜勤者は安全性から男性が多いことは多いが女性が全くいないということもなくなってきた。それは昼の方が安全であるとも言い切れない世情も手伝っているのかも知れない。コンビニの発明が夜勤者の生活を憩いのあるものにして、夜勤という現実に対して男女共に差別意識を撤廃させた。これなどは明らかに習慣が慣習へと格上げされたものである。
 慣習とは概して民族共同体内においては通時的である場合が多かったので、民族性に伴う常識的見解とも無縁ではない。しかしそれを多少破壊する動きもある。電車内で携帯電話をマナーモードにすることは公衆道徳上(かつてはエチケットと言ったが、現在ではマナーと言う。)の常識とされているが、実質上それを忘れることもまた急速に習慣化されてきている。だがこれとて緊急の場合においてどうしても携帯電話を切ることが出来ないという特殊事情を考慮してヴァイブレーターを使用した着信音制御型が定着すると、今度は電車内においても携帯電話コーナーとかが設置されてそこで携帯電話会話したり、あるいは電車の構造そのものが一人一人の乗客に対してゆとりあるスペースを確保出来るように改善されたり、そもそも習慣的に朝のラッシュアワーを避けるということが全成員によって心掛けられ、ゆとりあるダイヤ改正が行われ、それでも多少は混む朝のラッシュアワー時以外は電車がすいていることの方が多くなったら(出勤時間が一律でないことの方がもっと自然となっていったら)、自然と携帯電話をマナーモードに切り替えてくれというアナウンスも消滅し、電車内にて小声で携帯電話会話することが慣習化されるかも知れない。またそうなったらそうなったで、小声で話してもそれなりに大きく通話対象にも充分声が聞き取れる機能の電話が開発されるかも知れない。
 そのように習慣が定着すると慣習化しようという動きが社会全体から生じてきてやがてそのことを疑う者もいなくなる。
 政治家K泉前首相は派閥調停型政治を終焉に追い込んだ張本人であるが、これに対してもK泉独裁政治以外の何物でもない、という風に判断しいているタイプの人にとって大統領制ではない日本では自己決裁型のリーダーに懸念を抱くという心理がある。これは顕著な日本式政治構造に対する慣習的な受容性が生み出したものだろう。そういうタイプの人にとって慣習から習慣を生じさせるのが自然であるという考えがある。あのような形で首相が権力を十二分に行使すること自体に慣れていなかった国民も現首相もその次の首相も自己決裁型で権力(これまでの首相が官僚指導型で一切の決裁を自己に帰してこられなかった、ということに国民は慣れっこになっていた)を行使するようになって(勿論そのことで良い政治が実現しての話しであるが)初めて我々が首相とはそういうものである、という慣習的な認知を得るのであろう。尤もあの時代以降全く想像もつかない方向へと現実の政治は歩んできてしまった。それでも尚今みたいなタイプではない政治こそ理想という考えも存続し続けるであろう。最初拒否していた人がいったん受け入れると二度と意見を変えないということもあれば、最初賛成していた人が、その考えが定着すると今度は不満に思えてくるという現実もある。
 慣習性が逆に習慣を生み出すということの例としては、コンビニが便利であるから習慣的に夜中に買い物をすることが別に非常識ではなくなった、とか国会中継が面白いのでつい他局でやっているドラマよりもこちらの方を見ようという決心もまたK泉劇場以降の我々の習慣となったものの典型であるかも知れない。事実国会中継はドラマの視聴率よりも平均したらある時期から少しは上となったかも知れない。この二つの例は習慣化されたから慣習にして、慣習化されたからこそ習慣にしても構わないという常識の転換の顕著な例である。
 人間は合理的な判断をする時習慣も参考にするし、慣習も参考にする。また常識も参考にする。ごく瞬時になされる判断(行為選択)は一々因果論的に認識している暇がないから、あるいは考え過ぎていたらいつまでたっても何も出来ないということを我々が知っているから習慣的な行動のコードに身を委ねていることが多いように思われるが、これは限りなく思惟から遠い現実である。しかし少なくとも思惟にのみ依拠したような決心の構造は既に見てきたようにいざという時だけである。それ以外の時間をあまり思惟に感けていたら行為選択性自体に大半の時間を費やしてしまうこととなり、実行することが出来なくなる。こういった問題からは明らかに人生そのものさえもがある種のゲームであるかも知れないという考えを生じさせる。人生がゲームであるなら、言語行為はその中でもとりわけ他者に対して自己を確認することを相互に了解しているような意思疎通になり、発話行為自体はゲームの中での重要な局面であるかも知れない。
 統語的秩序そのものは一回一回の会話で当座の判断が使用されたり、一律でなかったなら、あるいは語彙をその都度机を「つくえ」と言ったり、別の時には「えくつ」と言ったり、またある時は「くつえ」と言ったり、あるいはもっとその時の気分であらゆる音素を全て恣意的に選択して発話していたら、我々は何も他者に意志を伝えることは出来ない。つまり統語的、語彙使用慣例、音素的な同定性などがア・プリオリに一つに収斂されているからこそ、我々はその都度の会話において無限な一回性の陳述が逆に可能となるのである。哲学者の信原幸弘の言葉を借りるなら、一回性の状況性と真理条件性こそが一個一個の芸術作品に宿っているような「全体論的性格を有する」のであり、一回一回の会話や陳述内容や真理条件はチェスや将棋や囲碁の勝負のように独自性を有していることとなるのだ。信原は心的出来事が非法則的であることを一回一回の行為選択に纏わる我々の命題的態度を支配する合理性が全体論的性格を持つことに起因させている。(簡単に言えば先述したが、人間は一生を通じて一瞬、一時たりとも同一の時間を過ごすことは出来ない。タイムマシーンでも使って何度も同じ瞬間を反復でもしない限り。人間の身体も日々成長し、変化し、老化するので、どんな似た状況であり、どんな同一の心的様相であってもそれは以前のそれとは異なった条件下である。また一生を通じて係わる人間<他者>の顔触れも常に変化する。それに応じて自己にとっての社会環境も変化するし、同一の状況下に一生の全時間は一瞬たりとも起きはしない。そのことを考えるだけでも人間の心的出来事はその人間の一回毎に異なった行為と経験の蓄積量と記憶内容(忘却内容)によって支えられている、ということが了解されよう。それを似た状況であるとか同一の真理条件であるとか関連付けるのが人間の思考する際の傾性とも言えるのだ。_ ところで人間は義務的なものには何とか合理的な理由を付与しがちである。そうやって義務として行為選択を正当化する。しかしそういう場合えてして真意が別のところにあることを直視することを避けているということが多いのではないか?その証拠に人間は自己真意に対しては合理的理由を見出そうとはしない。贔屓の政治家や好きなタイプの異性に対して何故そうであるのかということを説明出来る人間はいない。そこには理由は要らないからだ。そればかりか人生で最も大切であると思われることに対して我々は一々理由を見出そうとさえしない。またもし仮に行為選択において止むに止まれ決行しなければいけないような時に、そこに義務的な理由を見出し自己を説得させて遂行したら後悔する。最終的にはその行為が自己真意に沿うもでない限り我々は最後に決心をさせる事柄に合理的な理由などを無視して自由に選択する権利を残したいと思うのが自然である。拒否することは確かにストレスフルであるが、拒否する自由と権利もまた残したいというのが我々の真意である。だから我々は性格や決心のパターンを支えるものに遺伝子的な根拠を求めることを拒否したいと願うようになるのではなかろうか?そのことについては結論、魅力論で詳述する。)
 今友人と話す例えばK泉元首相についての世間話はこの前話したK泉元首相の話とはまた違う内容であるし、似たような内容であっても厳密には同じではない。グリーンバーグも指摘している(「人類言語学」より)この種の一回性の無限連鎖こそ、全ての状況性をカテゴライズしてゆこうとする人間の思考的な傾向性を生む。実はこの一回性からの逸脱欲求が認識の根拠であると思われるのだが、この一回性自体の認識こそウィトゲンシュタインの名付けた「言語ゲーム」というものの本質的な性格かも知れない。
 言語行為はこの心的出来事の非法則性にその都度拠っている。あるいはウリクトの言うように言語とは行為に似ている。というより言語は一個の行為以外の何物でもない。発語内行為というオースティン以来の概念がそのことを物語っている。それは信原流に言えば言語行為とは全体論的性格の故に一期一会的なゲームなのだ。
 だからこそそのゲームには規則が必要であるし、それに逆らう人間は一人もいない。どんな国家反逆者でも自国語を使用する。構文論的な規則、語彙と概念の同定規則、文法上の規則、それら一切は習慣論的なコードであると同時に文化慣習的なコードでもある。更に言語を話す時にはその発話者の感情的なスタンスを表明することが<手段的に>求められている。(いや本来はそちらの方が先行していたのだ。前言語状態なる赤ん坊はまず表情から意思疎通を図ろうとする。言語習得した後我々は表情を手段へと降格させるだけの話なのだ。我々は言語行為を意味論的な位相へと依拠させ過ぎているのだ。)
 挨拶が習慣であり、手段的行為であるのはそれが社会機能維持の基本的な人間関係円滑化へと差し向けられているからである。習慣論的な挨拶が文化コードであったり、もっと種固有の生存戦略であったりすることの基本的な様相は我々が言語行為の際に示さずにはおれない表情である。朝の挨拶が健康であり、今日も一日一緒に職場で過ごそうという意志表明であることは自宅勤務がパソコン使用で可能となった現代でも変わりはないであろう。デズモンド・モリスは女性の乳房が性的な信号の役割を果たしてきたという風に捉えたが、同じ章<育児>において赤ん坊が微笑むのは母親に対して援助を求める最低限の信号である、と捉えている。というのもチンパンジーの赤ん坊は母親の体毛に掴んで縋るという極自然に赤ん坊が採る行為が生存のために母親に縋る方法としてコード化されているが、人間にはそのような体毛はないので、その代わりに表情で意志を示すようにコード化されている、と捉えている。この考え方は極めて魅力的である。要するに微笑みの表情が母親の愛情を納得させる記号として機能しているということである。挨拶もまた社会機能維持のための記号である。挨拶の仕方を知らない赤ん坊がこのような表情自体を記号として機能させるのは前言語状態に彼らがあるからに他ならない。
 このような本能的なコードがまず我々にはある。表情を作り意思疎通の前提を示すという行為が人類の曙から現代まで持ち越されてきた普遍的な例である。そして民族文化的なコードがその次に我々が採用してきた社会機能維持のためのコードである。これは本能的なコードを理性論的に正当化するために我々が考案したものも当然含まれる。そして現今の現実に対応した習慣という名のコードがある。これら一切は脆弱な「個」と群集心理と密接ではなかろうか?ここでまた振り出しに戻った。これらは最早日本人固有の問題ではない。結論から言えば群集心理とは集団への帰属と一体化した意識であり、心理である。そして種としての人間の本能的なコードとか文化慣習的なコードとか、言語行為、そしてそれら一切をオブラートで包む付帯言語的行為(首を縦横に振ったりして正否を示したり、お辞儀したり、ウィンクしたり、命令の際に指や顎を使うような仕種の一切)における慣用性(これもまた構文論的、語彙選択的な決まり事のようなものが明確に存在する。)とはでは一体、群集心理とどのような関係にあるのであろうか?(群集心理は集団同化意識以前の無意識レヴェルでの「合わせる」行為である。)
 あらゆる付帯言語行為的慣用性とはごく原初的な群集心理の名残として現代にまで持ち越されたのではないだろうか?我々は今まで群集心理をどちらかと言うと否定的に扱って来た。しかし実際それは肯定するも否定するもないような種類の問題だったのではないか?

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