Sunday, January 10, 2010

C 翻弄論 7、ゲームの定義

 株の売買はある意味でギャンブル性の強いゲームであるとも言える。しかしそれは純粋なギャンブルでもないし、ゲームでもない。というのは競馬や競輪とは純粋に未知な勝負の結果予測に裏打ちされた可能性論的な確率のゲームであるのに対して、株の売買はそれによって利潤を追求する「スリルを味わうものではない、冷静に判断するもの」であるべきであるからである。尤も中には適度の観客スリルから極度に逸脱して最早遊びや紳士のたしなみではなく、それだけで飯を食っていこうというような人たちもいて彼らにとっては競馬でさえギャンブルではなくなるだろうけれど。
 ウィトゲンシュタインの「哲学探究」の中でゲームの定義を彼は、ゲームの多様性として捉えその多様性にもかかわらず一つの語彙「ゲーム」で言い表わされる現実から言語慣用性と共同体内における語彙使用の成員間の同意という現実を見据えているが、彼はその語彙の使用を裏付けるものを家族的類縁性と呼んだ。だが私は「ゲーム」という語彙の本質規定とは、ビジネスでもなく、ギャンブルでもない(ギャンブルの中にもゲーム性はあるが、ゲームそのものにはギャンブルは概念的には含まれまい。ただギャンブル的傾向のゲームもあるというだけである。)、と言って利潤追求のためのものでもない、純粋に楽しみのためのものである、と考える。
 実は言語活動にも目的行為論的な合理的判断として何か情報を得るため、何かを請願するための道具であるばかりか、純粋に対話を楽しむような日常的な言語行為(友人との会話とかによってなされる無目的なビジネス外の言語行為)にはそのようなゲーム性は十分にある。尤もウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」と呼んだことはそれとはまた異なった意味があったのであるが。
 ところが我々は日常においてゲーム、ギャンブル、ビジネスの三つをしばしば混同しがちである。そのどれにおいても熱中すると境がなくなる。
 安定した株保有をモットーとして綿密なプランで練る投資家と常に一発勝負に賭ける投機的なデイトレーダーとは自ずとギャンブル性には相違が生じ、当然後者の方がよりギャンブル性は勝っている。尤も彼らは通常その二極のどちらかではなく、両方の要素を兼ね備えている。どんなに慎重な投資家でもいざとなったら大博打を打つことは稀ではないし、逆にデイトレーダーたちでさえ慎重に市場の動向を見極めるという意味においては前者と相違ない。また競馬や競輪といったギャンブルは当初は紳士のたしなみとしての要素が強かったであろうが、いつの間にか真剣勝負となって綿密なデータ収集と予測、確率論を応用した生死を賭けたゼロサムゲームと化してゆく。例えば賭け麻雀もその種に入り得るし、カジノでのポーカーもその種のものである。たとえギャンブルに限らずチェスであれ何であれそれを賭けの対象としたら、それは純粋なゲームではなく、既に私見によるゲームの定義を逸脱しているから、それらはただ単にゲーム性を手段としているだけであり、目的はギャンブルであるから純粋なゲームではない、ということになる。利潤や見返りを求めてやるものはビジネスであり、ギャンブル(ビジネスと違って本来的にスリルが求められる。)である。故にプロ棋士等ゲーム・プレイヤーのゲームはビジネスである。
 例えばそれを言語に応用してみよう。ウィトゲンシュタインが言った「言語ゲーム」は先述にように私見によるゲームの定義とは異なり、ビジネスやギャンブルや字義通りのゲーム全ても含む行為における言語思考に纏わる彼独自の確定的定義不能な概念である。彼の言う家族的類縁性とは、その語彙を使用する共同体の成員全員の同意が必要である。それは寧ろソシュールの言う「ラング」に近い。
 例えば言語がビジネスで用いられればクライアントとの会話は利潤追求のための方策としてなされていることを対話において双方は認識している。それは相互の利益とサーヴィスの享受を目的とした手段である(食うために金を稼ぐという真意はビジネスの前提だ)。
 しかし短歌や俳句の歌会や句会や詩の朗読会、詩のボクシングといったものは芝居や狂言、能や歌舞伎がプロの役者たちによる舞台芸術の鑑賞であるのに対して、自己参加を目的としている。講演会、落語の高座、講談、漫才等もそれらは総じて自己参加ではない。あくまで観客として聴衆としての受容であるに過ぎない。しかし言語行為自体が目的であるという意味では文学作品に接するのと同じでそれらもまた言語は手段であるというわけでもない。ここで纏めると自己参加型の目的性の言語行為と受容認識型の目的性の言語行為とがあるということである。後で詳しく述べるが敬語使用とは既に論じた挨拶同様手段性の言語行為であり、ビジネス会話、それはプレゼン、株主総会、重役会議、営業活動における宣伝会話等の全ては手段的なビジネスという目的に奉仕する手段的な会話である(尤もこれとて目的性と手段性が重複した言語行為もかなりの頻度で存在しはするが)。ともあれ、目的性の言語行為においては何かの為にそれを聞いたり、参加したりするわけではない。文学を愛する人が何かのための目的で文字を愛することはない。そういう人は純粋に文学を愛する人間ではない。落語や漫才はそれ自体が面白いからこそ聴きに行く。それらは総じて言語を介在したゲームである、と捉えることも私見による定義からは可能である。我々は政治家の発言がテレビの国会中継で見聞くことが可能だが、これらは実際上、政治的行為(立法行為その他の)に奉仕するための手段であるが、しばしば政治家の発言自体が面白くてそれを見聞く。それは純粋な手段でも目的でもない両者複合型である。それを見ることが面白いということは劇場における鑑賞でもあり、しかもそれをなす演技者は我々によって選出されているのだ。そういう意味でスリルのレヴェルが迫真的である。切実である。我々の生活に直結したスリルである。生活に直結し得るのにもかかわらず見ていて面白いと来ている。
 もしどこの株も持たずに新聞で毎日、株価相場をチェックして楽しむだけなら純粋なゲームであると言えよう。しかしそこにはスリルがない。知的に面白いということとそれが実際上の利益に直結するかということとは別次元の楽しみであり、切実さである。小説家が今度こそ直木賞が受賞し得るかと候補に上がった人間が出版者からの電話を待つことと、趣味で発表した小説の感想を聞く日曜小説家との開きがここにはある。パソコンを駆使して実際にデイトレーディングするなら、そこで展開する株式様相は切実さと楽しみとスリルの度合いがまるっきり違う。それはビジネスにかかわる人間の心理である。
 要はビジネスにもギャンブルにもゲーム性は付帯するのであり、それは全体の中での一つの要素である、ということだ。政治を我々のように有権者として外側から参加することは、競馬を見る行為であり、内側から政治家として参加することは競馬の旗手として生活するということである。そこには程度の差こそあれ、切実性も娯楽性やゲーム性もスリル性もある、ということなのだ。
 敢えてゲームを定義するなら先述にように、それ自体が目的であること、それ自体が没頭する価値を持つもの、あるいは専念する価値のあるものであろう。そしてその結果は報酬的な意味がどうであれ、一旦その道に踏み入ったなら仮にそう容易に金銭に変わらないという厳しい現実があろうとも止めるわけにはゆかないものであり、その都度試行錯誤すべき価値のあるものなのだ。これが単に生活するためのサヴァイヴァル的な意味での手段なら成果が報酬に繋がらなくては意味がないということも言える。しかし人間はビジネスであれ生活の手段であれ、ただ単に生活するための生活費を捻出するためだけに全ての行為をなすほど機械的な存在ではないのである。その意味ではビジネスもまたゲームになり得るし、スポーツもそうであろう。要するにビジネスには手段的な側面と目的的な側面があるということである。スポーツもまた身体の健康の為、社会的な人間関係構築や社交性促進の為という手段性もあるが、これは一般人のための定義である。それ自体に人生を賭けているのなら、どのような分野でも目的となり得るし、ビジネスもまたその行為すること自体は飯を食う為だけではない。ビジネスの定義は仕事であるから、生活する為の手段であろう。しかし例えばビジネスにも付き物の本質的なゲーム性がそれで、例えば報酬を得る手段だけではないし、娯楽でもないからプロ棋士たちはゲームを楽しんでいないかと言えば、それは違う。勿論趣味でそれをやるような心のゆとりは彼らにはないだろう。その意味では日曜画家とプロの画家でも同様のことが言えよう。ではそれで食べているプロの棋士や画家は、その行為自体が生活的な報酬如何に直接響くから、全くゲームではない、と言えば決してそんなことはない。それは目的でもあり、ただの趣味でそれらをやる人間よりも数段高位のゲーム性とギャンブル性とスポーツ性とアート性と科学性等が要求されるし、それらは必要条件的に要求されずとも必然的に付帯し得るのである。
 だからプロのスポーツ選手はビジネスとしてスポーツをしているからそれは真剣に勝負で食っているので楽しんでいないかと言えばそれは違う。彼らはアマチュア以上に楽しい(ゲーム的な意味合いでも)のだ。要するにプロ並びにそれに類する選手たちはアマチュアの選手よりもゲーム性、スポーツ性におけるスリルや楽しさをより熟知しているが、同時にアマチュアよりもよりそのスリルを客観的に対処し得る能力、言ってみれば高等な技術を実践する時に味わう恐怖心や失敗した時に直に立ち直れる狼狽心の克服の仕方を熟知しているのである。同時に彼らにとってスポーツそれ自体が目的であり、どこからどこまでがゲームで、どこからどこまでがビジネスという風には類別し得ない。要するにそれらは異なったレヴェルの異なった位相の認識なのである。そういう意味ではビジネスにもゲームにもスポーツにもアートにもギャンブルにも科学性というものはあるし、科学にもビジネスにもアートにもギャンブルにもスポーツにもゲーム性はある。あるいはスポーツにもビジネスにもゲームにも科学にもギャンブルにもアート性はある。ビジネスにもアートにもスポーツにもゲームにも科学にもギャンブル性はあるし、このようにいくらでも挙げられよう。端的に言って例えばスポーツマン精神は何もスポーツにのみ固有のものではあるまい、そういう意味において全ては重複的な認識である。しかもそれぞれのジャンルで考えられる例えばスポーツ性やゲーム性やアート性や科学性やギャンブル性やビジネス性は重複する部分もあるが、異なった独自な面もある。そういうところでは哲学や心理学が必要とする数学や自然科学、論理学、倫理学はそれぞれの多様な分野と多様な認識方法によって少しずつ微妙にずれ込んでいる、ということと似たような状況であるとも言えるのだ。
 政治家の国会の質疑もまたその論戦自体で彼らの給与的な面での生活を直撃するし、そればかりか次の選挙で当選しないかも知れない。では彼らは楽しくないかと言えばただ政治の動向をメディアで追う一般人や政治評論家や政治学者以上に楽しい筈なのである。どんな苦境にあっても政治家は政治家以外にはなり得ない。だからこそ与党が危機的状況から脱して色々の面での自己政治信条に沿った動向が構築されて安定状態にあると、歌舞伎の十八番のような意味での見栄を切るような演出性を整えることの出来る心の余裕が出てくる。K泉前首相はそういう意味で名首相であった、と言えるであろう。これからのいかなる首相にもそのような演出は常に求められている。

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