Wednesday, January 20, 2010

B名詞と動詞 10、過去形という決断あるいは妥協

 ここで極めて重要なある局面に達する。というのも過去形はどのようなものとして捉えられるのか、ということである。現在形において捉えられる名詞、動詞や過去形において捉えられる名詞や動詞はどのような関係にあるのだろうか?まず基本的に名詞は現在形であろうと過去形であろうと不変であることを基本としている。しかし固有名詞の場合はいささか異なる。故人に対する言及においてはその人が生きていたことや死んでもその思い出や業績や思想、作品は残るとかといった観点からの言及となり、その他あの世界貿易センタービルとかもそうであろう。しかし一般名詞においてはその扱いは現在形と過去形ではほぼ同じで、不変的というよりも日常的な意味で一般的であろう。それに対して動詞は際めて異なってくる。動詞は現在形では殆ど決意表明、あのオースティン流に言えば行為遂行的な発言以外は殆ど使用されない。実況中継や感嘆的言辞においてのみ登場するくらいである。過去形はそういった意味では動詞という位置から俯瞰すると妥協的な意味合いを帯びている。というのも動詞が現在形において示す現前化作用、再現性が、動詞が過去形になると活用形が変化することで我々に示唆するところとは明らかに明示性において再現的事実陳述においてそれを過去の出来事に収斂させる意味合いがある。それは動的な模様を静的な事実認定へと封じ込める役割がある。「動く」から「動いた」は「(動く・こと)があった。」ということである。それは「かつては東京にも陸軍の基地があった」とかの叙述が示す固有名詞の特定状況という意味での過去形と現在形の相違とは本質的に異なる。それは個別的ではないのだ。あくまでどのような動きにおいても、名詞のように「かつてはあった」ものや「今現にある」ものや「今もあるかも知れない」ものといった不確実な存在志向性とは異なった確実な志向性である。つまり動的現実の過去への帰属志向性である。それは事実としての歴史的確定なのだ。
 過去形は動詞においては現在形が示す動的現実の現在進行形的な状況認識とは異なった再現前化と再生の意図を帰属させること(現在形においては帰属ではなく、今現在の状況的な推移、変化の事実に解放されている。)に重きが置かれている。つまりそれらはあくまで過去の叙述(「かつてそうであった。」)なのである。だからこそ逆に位置、存在を示す現在形及び現在進行形の叙述、陳述が感嘆的な二つのタイプ<独り言においてはどちらかと言うと「止めた。」や「終わった。」が多いと思われるが他者を目の前にした場合は現在形と過去形の両方が考えられる。あるいは他者を目の前にしても決断的言辞「俺は行く。」、「今行く。」、「今すぐ止めるよ。」とかの意志遂行的明示型言辞と「あっ、今そこにゴキブリがいる。」(「いた。」と直後的に過去形を使うことが多いけれど、これは「もう終わったよ。」という言辞と同様の事後報告的言辞であるが、他者に共有現在知覚体験事実確認の同意を求める場合はすぐにその現在形になる。)とか「ほら、あそこに人がいるよ。」というような共有体験確認同意請求型言辞との二通りが大半を占める、と思われる。>の言辞に概ね収斂されるのである。
 過去形を使用することで我々が為すこととは生の持続の確認であり、観察者としての生の惰性(非創造的創造)の相互容認である。「動いた」ということは「<動く>という・ことがかつてあったが今はない。それを私は見たかその事実の所在を聞いたかした。今はその特定の<動く>こと自体が記憶として(経験的、事実認定的いずれにせよ)想起可能な地点に来ている。」ということが心的様相として浮上した陳述なのである。そしてそれは自己が主体的な行為者として世界にかかわろうが、ただ単なる観察者としてその場に居合わせようが、共に生を生きてきていて、今もここにこうして生を営んでいるという言明なのである。それは主体的であるかどうかというよりも惰性的でもある静的行為をも動的(アクティヴ)行為と並置させようという生の権利問題に触れるものである。「何も動くばかりが行為ではない。」という主張が過去形の事実陳述には潜んでいるのだ。
 人間はこういった過去形を多用することで自らの記憶を活性化している。あるいは他者に意識の持続と記憶の確かさを証明してもいる。記憶収納機能(責任に通じる能力)を滞りなく機能させることを無意識に実践している。話者は過去事実陳述によって記憶を活性化するが、それは同時に聴者には想像力を活性化させることを強いる。つまり話者と聴者の立場の違いは自己と他者の壁も意識させるのだ。というのも対話において片や記憶を蘇らせ、片や指示された陳述の様相を想像することを強いられるという心的様相性の差異が自己と他者の記憶内容の相違と同時に経験内容の相違をも確認させることとなるからである(だが同時にある過去事実の認定を通して相互の意識的持続を共有することを欲する)。
 コミュニケーションにおいては自己が他者に言い分を聞いて貰う代わりにこちらもまた他者の言い分を聞いてあげる、という原則の下に成立している。だから一方の想起の下にそれが客観的な事実でなく、話者固有の経験的事実であり、しかもそれが他者にあまり関係ないことであるなら、その事実報告は多大の想像力を聴者に強いることとなり、ストレスを生じさせやすい。よって話者が聴者へと強いるストレス軽減の為に(こちらが一方の経験を聞きに行く講演会でもない限り)話者の想起による事後報告が客観的周知の事実であるか聴者をも含む関係のある事項であるかが随時求められる。そこで過去事実陳述が重要な話題の素材となるのだ。想起して想像して貰い、逆に想起させて想像してあげるという連鎖が円滑な意志伝達を促進するのだ。そうでなくて行為遂行的言辞ばかりであるなら、我々はそういう話者に対して「勝手にやれば。」と言うこととなろう。自己言及的である場合は現在時制となりやすい。「今こう考えているのだ。」と言う告白になる。しかしたとえ自己の経験的事実であってさえ過去は行為遂行的ではない。事後報告的(オースティン的に言えば事実確認的)である。そこで我々は自己言及の抑制効果をも兼ねて過去事実しかも客観的周知事実や自己と他者共有事実の過去経験叙述に終始するように必然的になるのである。過去を振り返り自己言及を控え、つまり我々は過去形を使用することで相互の告白を抑制し、回避し、客観的な事実確認という相貌の下で自我や欲求叙述を最初からコミュにケーションの俎板に乗せないように心掛けるのである。真意告白はある対話上の飽和点に達した時に限定すべきなのだ。よって日常の対話とはあくまで我々にとっては過去形を通した自我表出の抑制という相互の妥協的な措置によって一般的には成立しているのである。

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