Thursday, December 10, 2009

A言語のメカニズム 17、理解、経済、発現

 前章の簡単な復習をしておこう。我々は言語行為というものを殆んど意識しないで意思伝達のために行うことが出来る。それは我々自身の本能的な言語思考のシステムが大脳内にあるのではないか、ということである。しかも記憶に関してとりわけ興味深いのは、デリダの言うように差異によって記憶をすることが考えられるのなら、記憶を呼び戻す、深層意識に沈殿していた記憶の格納庫から脇へ追いやられた幾つかの朦朧としていた記憶が呼び戻させるのは、楽しい気分でいたところへもってきて、突如何か不幸な知らせを得た時の我々の心的状態のような急激な変化が大脳自体を刺激し、忘れていたものが急遽思い起こされるということである。これはカタストロフィックな経験をした人が何かそれを連想(観念連合)させるものに出会うと、突如フラッシュバックして当時の記憶が鮮明に再現前化されることからも明白である。この場合楽しい気分の延長は、継続である。(持続とかとちょっと違う。持続は本来なら中断しても良いが敢えて続行することであるから。)継続している時には反省もないし、思惟も少ない。だが突如悲しい知らせを耳にすると、その気分は一気に吹き飛び、それまでの心理的状態は中断される。中断するということは何か新しい事態、局面の登場したことに対する理解をもつことである。その瞬時の理解と、心的状態を、今の今までの弛緩したくつろいだ気分から緊張した気分へと切り替えることは身体的、内的エネルギーが相当必要だ。するとその際に身体に残存するエネルギーのどのくらいを使用してどうような内的自己決定させるかを脳は判断し、その際の判断によって必要なものを過去の記憶から取り出し、有効に使用し、現在に払われる不必要なエネルギーを節約し、そういう生の経済に忠実に判断する。だから過去像の突如の出現は、無意識の内に過去のデータから現在の取るべきスタンス決定を決済する為にいかに節約されたエネルギーで、つまりエネルギー効率に忠実にエネルギーを消費するために過去実績を援用しているわけである。その際にいろいろの過去の余分な思い出までもが同時に思い出されるというわけである。記憶したものを引き出すという行為は常に現在に役立てるという無意識の選択が決定している場合が多いと思われる。
 要するに、自己を取り巻く状況的変化を理解し、そのために対応すべく現在の自己に残っているエネルギー(生理的、心理的双方の)をチェックし、それをバロメータに次の行動を生の経済に照会し、それに沿った形で行動を取るべく行為を具現化させるべく行動に向けられた予備エネルギーの消費準備に向けて遺伝子を発現し、そのついでに記憶の格納庫からも余分な事項も引き出される、それが一瞬になされる、ということであろう。
 さて前章の最後で西村を含め多くの固有名詞を挙げたが、これらは本論の論理的展開上必要不可欠なものであるが、必ずしもどの理論が一番正しく正当であるかということではなく、全て部分的に本論に応用可能である、ということである。例えばソシュールやヤコブソンは構造言語学と呼ばれる立場で、恣意性とかラングとパロールとかの概念を示したことで有名であるが、養老孟司の謂いを借りれば構造は視覚的見方で、機能は聴覚的見方であるそうだが、本論では構造は視覚的というよりも静的(名詞的)であり、機能は動的(動詞的)な見方であり、構造が普遍的法則へのア・プリオリの追究姿勢なら、機能(ジェームズ、ウィトゲンシュタイン、オースティン等はこの側面から論理的展開をした。)は法則に沿ってはいるものの、その都度異なった状態にある可変的な例を特に考慮した追究姿勢であることとなり、後者の方が微細となる。しかしどの道こういった二つに分離させた捉え方には必然的に偏りが生じよう。そこでこの二つは不可分の関係で前者は後者を、後者は前者をもって存在するような捉え方としながら、両者は相互に常時必要とする、という考え方で論を進めたい。
 前章で私は数学の話をし、とりわけ位相幾何学を無意識的に我々が有している能力をある障害(それは制度とか、慣用的秩序、とりわけ言語行為と社会常識とか言う者であろうと思われる。この考え方は実はウィトゲンシュタイン的な考えである。ソシュールも似たようなことを言っている。)の為に容易には認識出来なくなっていることをその覆いを除去したのだ、とポアンカレのことを述べたが、誰しもこのような常套的とは言えないような認識方法をもっているのにもかかわらず、それが隠蔽されているのだということは、我々が睡眠中にレム睡眠中にだが、見る夢における形態的な把握の仕方はまさに位相幾何学的だ、ということからも理解出来るように思われる。そればかりではない、しばしば日本人である私さえ夢の中では英語がペラペラで、英語でものを考えていることさえもある、ということである。確かに2歳前後の臨界期において文法やその他の言語秩序を身につける段階を通過すると、徐々に学習、習得本能は損なわれてゆき、仕舞いには大人になると、ある限定された、つまり過去に身に付けた習得要素だけで、いろいろ組み合わせ深く論理的に思考することは長けて(子供よりも)行くが、それは経験に応じて身に付く知恵であり、本能的な学習能力は減退してゆくのである。しかし一端身に付けたものは何らかの衝撃によってブローカ領野やウェルニッケ領野が傷つけられない限り我々は文法(ブローカ)も意味(ウェルニッケ)も損なわれることはない。つまり学習能力の減退はすなわち一端覚えたことを忘れないように固定化するということにいついての(固定化されない内は応用とか展開とかに結実しない。)能力に切り替えられる段階的秩序をも指し示している。
 マット・リドレーはブローカ領野とウェルニッケ領野についてうまい比喩を語っている。

ブローカ野は発話を生み出す場所で、ウェルニッケ野はどのような発話を生み出すかブローカ野へ指令を発する場所だとの見方ができる。

このことはフッサール哲学において後期とりわけ重要であった動機付け(コミュニケーション成立における最重要な伝達意欲を育むモティヴェーションのことである。)がウェルニッケであり、その動機付けによって履行されるためのア・プリオリな前提条件というカント的能力こそがブローカだということである。
 その意味ではカントは人間の基本的能力を権利問題としての理性論の機軸にした、という観点から初期言語生理学者であった、とも言えよう。カントが我々が生きる今日のような時代の哲学者ではないということが、彼のテクストを今日触れる全ての人々に対してある戸惑いを持たせるが、理性という彼の概念に限ってちょっと考えてみると、それは一方で良心を我々自身に保有させるものと、一方では我々自身の保身を司るものとが実際上は分離されたものではなしに、一つのものの表裏であることを示した概念である、と捉えると極めて理解し易い。
 我々が誰かそれ程親しくないの人間とコミュニケーションを取る場合のことを考えてみよう。その他者は知り合ってからまだあまり日がたっていない、かと言って全然知らない人間ではない、としよう。第一印象がそういいものではなかった、という場合を考えてみよう。すると我々はその人間に対して、ある程度の距離を持とうとする。まだそれ程信用できるわけではないのだから当然であろう。それでコミュニケーションの際にどういう話題で切り込むかという時に何らかのその人に対する、あるいは親しい人間に対してなら臆することなく表明しようような真意は、表明せずに済まそうという防衛本能が働く。そういったある種の演技、軽い偽装を通して会話し続けながら、次第にその人間がそれ程悪意ある人間でもなく、それ程猜疑心も強くなさそうだということが判明してゆくものとする。なぜなら自分の言うことを常に懐疑を持たずに素直にすべて信用してしまうようだからだ。つまりこの人間は別にそれほど自分が力を入れて真意を語っているわけではなく、寧ろ他者の反応を適当に伺いながら、その場しのぎのいい加減な対応に終止し、社交辞令的言辞に徹しているにもかかわらず、すっかり自分の物言いを信じきっているのである。その時先程まで自己防衛を構築していた懐疑心が徐々に良心に転換し、あまり偽装していてはこのような信じ易い人間には気の毒だ、と思うようになる。そういった振り子現象を構成するものは他者信頼が醸成されぬ内は自己防衛であるものが、一端それが解けると良心に早替わりするものである。良心とは自己の打算的な他者に対するアプローチをあまり続けていると他者からの信頼を失うことを恐れて懐疑的姿勢を解除しようと欲するフロイト的に言えば自己保存欲動にほかならない。勿論その過程では嘘をついたり、偽証することはよくないことだ、という倫理的な思いも存在する。
 しかしもし仮に我々がテロリストに拉致されたり、どこかに監禁されたり幽閉されたりした時に、テロリストに対して何か「気分はどうだ?」とか質問された時に、恐怖で身が引き攣っているのに、そのことを正直に告白する者などいようか?大抵こういう過激な行動を取る人間は他者から警戒されていることを極度に嫌う神経症である場合が多い。恐怖心を悟られまいとして、無理にも友好的真意を装うであろう。(こういった偽装は犯罪的意図はないし、良心の呵責も持ち様がない。なぜなら恐怖との戦いだからである。要するに正当防衛である。)つまり良心と自己防衛本能は表裏一体の心理であり、生理なのである。
 だからカントが理性と呼ぶものは、悟性や判断力をも司るア・プリオリな我々の言語能力であることは間違いない。カントは理性が正当な我々に付与された権利であると考える過程で、その理性が命じるいろいろの場合を想定し、そこに言語的思考(誰かを「愛する」とか「もてなす」という行為を概念が成立させることは一方で、誰かを「憎む」とか「すげなくあしらう」というような対になる行為を実際上は抱き合わせで存在していることを前提にして(承知で)我々は言語行為を行っているし、そういう可能性を持たない思考など存在しない。)を介在しているのだ、ということを当時の哲学的常識に乗っ取って自己哲学を展開しているのである。
 脳というものはまず最初に他者とコミュニケーションを取る際にその人間がどういう人間かということの判断を介在させてから臨む。話者の言辞に対する統辞的理解はその後である。{(創造と理解)をこの論文を終了後掲載更新いたしますので、その際に参照されたし}その際に取り払われる脳内の判断について考えてみよう。
 確たる証拠はまだないのであるが、恐らく言語活動を根底から制御しているものの正体とは一部は当然のことながら遺伝子であるが、また別の主要な一部は脳、とりわけ大脳であり、また大脳内の神経組織の相互連関システムであり(チョムスキーも述べている。)、かつそういった相互の(遺伝子→大脳)、(大脳→神経細胞)というような命令系統そのものであると同時に、そういった系統自体を制御する複数の遺伝子と脳といったアンフィンゼン・ドグマとクリックのセントラル・ドグマ(DNAとRNAが相互に指令<前者が後者に>と影響<後者が前者に>を与え合っていること)とが双方作用し合っている現実そのものである、とも言えよう。要するにたった一個の遺伝子による影響力は恐らく言語活動や言語行為を司るあるほんの一部である、つまりいろいろの遺伝子や神経組織がある部分では相互に連関し他と緊密に、ある部分では勝手に他と無関係にそれ独自に行っている、その総体を我々が勝手に言語活動とか言語行為と統合した作用として呼んでいるだけなのだ、という風にも解釈出来るというわけである。そもそも養老氏が指摘しているように、言語行為をパロールとエクリチュールとを統合したものとして捉えること自体が幾分勝手な統合論ではあるわけだから、例えば物を見るのは目であり、音を聴く(聞く)のは耳であるが、その二つの全く異なった知覚を統合して、全体的に一つのものとして認識しているのは、我々自身の勝手な都合と見做してもあながち間違いではないのだし、つまりその二つを全く切り離された二つの別種の体験としても間違いではない。(例えば手に怪我をしても足には特別の影響はないので、とりあえず無関係としても間違いではないように)ただ、目と耳は比較的近接した領域にある器官である、ということなのである。このことがこの二つを期っても切り離せない統合的な言語行為像を形作っているわけなのだ。
 カントが無意識の初期言語生理学者であるなら、フッサールは懐疑的な一面も除かせる言語生理学的側面を強く打ち出しているにもかかわらず、他者性とか動機付けとかに拘る真理探究者である。そしていろいろの規制概念を打ち破ってはいるものの、最終的にはイデーの絶対性を否定しない、その意味では徹底した合理論者でもあり、カントの後継者でもある。フッサールは初期大作「論理学研究」で、純粋論理学を彼自身の表現であるところの思惟経済学に先立っていると考え、思考が最短距離での理解を可能にするように概念、法則化させる不可避的人間の思考本能は、論理学的認識を出発点とする、という考えであった。このことは徐々に別種に論理に置き換わっていくことになるのだが、その移行過程そのものがフッサールを意識的に言語を論じながらも言語本体の正体に関しては結論を避けるような論者である、と言える。<本論終了後更新していく予定の「真意と偽装の心理学」中の(フッサールの言語論)を参照されたし。>
 また極めて重要なことに「イデーン」では拒否を述べるために対比的に賛同を持ち出している。このことは極めて重要であり、本論とも関係が深い。更に結論的に急げば、「経験と判断」では絶対的基体と絶対的規定とを区別して考えたり、二項対立的視点は、かの有名なノエマ、ノエシスと同様フッサール哲学の論理的展開を特徴付けている。
 現代心理学では人間は最長5秒しか奇異なものを奇異と感じることない、とされている。もしそれ以上何かを奇異と認識するなら、永遠にそういう驚異で全ての時間をやり過ごしてしまうという恐怖をア・プリオリに抱いているかのようにである。つまりここでもカントやフッサールがア・プリオリとかイデーと呼んだものが論理的な思考(フッサールのこの部分はカントでは悟性とされる。)としてそれこそア・プリオリに脳内に条件付けられており、だからこそ、我々はそういった先天的な能力として数量化したり、数学的思考を持ち、距離感や金銭的経済観念や大小を比較検討したり、計算したり、といった基本的能力を行使し日常において役立てているのである。数学はだから基本的能力の絶対的発現を目的とした常套的観念という障害の除去を前提している。だからこそ我々というものは、もし未知のものに遭遇しても何か必ず必然的なものに違いない、と断じながらその未知性を克服しようと努めるのである。
 ラッセルが「西洋哲学史」で指摘しているように哲学は大部分において言語行為である限り数学や論理学と相同であるが、「なんであれ、知りうることのすべては科学的知識によって知ることができるのだが、正当に感情的な問題に属するようなことは、科学的方法の領域外にある。」という謂いによって代表されると思われるが、ここに哲学の登場する機会がもたらされる。それ以外では宗教か、芸術が考えられよう。ともあれ哲学とか芸術は論理で割り切れない部分の我々の世界(そういうものもやはり厳然と「我々の」世界なのだ。)に切り込む処方箋である。本論では数学的アルゴリズムと言語の相同性の言及から出発したが、それは一層正しい。なぜなら哲学とか芸術とか宗教とかの論理で割り切れないものを我々自身が希求するにしても、それを我々に情報として伝えるのは言語であり、言語において「人殺し」とか「陵辱」とか「背信」とか「不倫」とか言ってもそれはその語彙の意味に我々自身が勝手に倫理的判断を付与し、そこに「してはならないこと」としているだけであって、言語自体が指し示す概念的様相や意味(本論におけ個別的必然性とは違う常套的意味で)とかはいいとか悪いとかの価値判断以前の世界像の写像であり、「いいこと」とか「悪いこと」とかの、そういった価値判断は我々が言語の指し示す内容に関して問うことから発生する問題であるに過ぎない。だからそういった意味で言語は構造的には公平であり存在仕方は(誰が使用してもよいし、そこに差別も、意味の違いもない。)論理的なものである。
 生物学の世界では「共進化」というものがある。これは重要な概念であって、例えば花と昆虫のものがつとに有名である。花は花が分泌する蜜を求めてやってくる昆虫によってその花粉を出来るだけ広範囲に散布して欲しい、そうすることが自己の種の保存戦略上有効であり、昆虫もそのために蜜にありつけこの上なく利がある、というものである。しかもある花はある特定の能力を備えた昆虫にのみ利を与えるように、例えばある種のランのように花冠(花の管)を伸ばし、それに対応する唯一の蛾にのみ利を与え、他種にはどうすることも出来ないように進化した。それはある意味では他のずるがしこい昆虫からの偏利共生を未然に防止する役割を果たしてはいるものの、それ以外の戦略を放棄すること、すなわち極論すればその共進化のペアたる唯一の昆虫に依存してしか生を全う出来ない(ということはもし仮にその昆虫が絶滅したら、自己の生存も危うくなる危険性を孕んでいる。)ということとなる。
 言語共同体(民族)とは、恐らく文化共同体(別言語で同一宗教ということはよくあり得るので)よりもそういったサヴァイヴァル戦略上の不動点を確定した、つまりこれ以上ないというほど、自民族の勝手な都合によって相互に結びつき合い、自民族の範囲内でのみ利便性を共有し、逆に他の民族からは孤立してゆく、という原理に忠実に、運命共同体、民族自決的共同体の性格を帯びている。(古代の日本もそうであった。いくつかの別アイデンティティーの民族同士が最初は争っていたけれど、後に相互の共進化の道を選んだ。)また言語自体も、その自民族に固有な文化コードとしての性格を有しているわけだから、必当然的に他民族、つまり他の言語共同体、社会に対しては排他的な要素を充分に併せ持っているのである。そういったシビアな現実認識において、例えば一個の独立した自己の中でさえ、そういった自決権、サヴァイヴァル上の唯一的事情が考えられて当然であろう。そういった認識に立つ時、フッサールの拒否という概念はいわく示唆的であろう。勿論フッサール自身は拒否という言葉を純粋知覚上のメカニズムを説明する為に採用したのであるが、それは一フッサールの事情を超えた普遍性を内包しているのである。

(前略)元のものに逆に関係づけられている一つの新しい変様があり、しかもその変様は、各種の信念諸様相に本質的に志向的に逆に関係づけられているために、場合によっては高次の段階の変様なのであるが、そのような変様がすなわち、拒否であり、かつまた拒否と類比的な賛同である。もっと特別の表現をすれば、否定と肯定が、それにほかならない。どんな否定もみな、或るものを否定するということであり、否定されるこの或るものは、結局のところわれわれを、何らかの或る信念様相へと戻るよう指示する。したがって、ノエシス的に見るならば、否定は、何らかの或る「設定立」の「変様」である。ということは、或る肯定の変様ということではなく、何らかの信念様相の拡大された意味における「定立」の変様だということである。
 否定の新しいノエシス的な働きは、それに対応する設定立的な性格に「棒を引いて消し去り・これを抹殺するということ」にある。否定に特有な相関者は、抹殺性格であり、「非ず」という性格である。その否定の棒線は、或る何らかの設定されたものを消し去る形で、もっと具体的に言えば、或る「命題」を消し去る形で、一本線直ぐに引かれる。しかしそれは、その命題の持つ特有な命題性格、すなわち、その命題の存在様相を抹殺するという仕方によって、である。まさしくこのことのゆえに、この抹殺という性格および否定の結果出てくる命題そのものは、ほかの或るものの「変様」として、そこに成り立ってくるわけである。これをやや別様に言い表すならば、こうなる。すなわち、素朴な存在意識がそれに対応する否定意識へと変転することによって、ノエマのうちには、「存在する」という素朴な性格に代わって、「存在するのでは非ず」ということが、出現してくるわけである。
 これと類比的に、「可能的」、「蓋然的」、「問題的」ということに代わって、「可能的で非ず」、「蓋然的で非ず」、「問題的で非ず」ということが、出現してくるわけである。そしてそのことによって、ノエマ全体、「命題」全体が、その具体的なノエマ的充実において見たとき、変様されることになる。

 このフッサールの論述において、我々は先に検証した受容と拒否のメカニズムを想起せざるを得ないであろう。我々は拒否を出来る限り回避するかたちで、実際上はそのものと完全に縁をきって進化してきているので、かつて進化論を創造説に謀反を起こすものとして我々の祖先が拒否したように、分岐したチンパンジーとの共通の祖先と現在の我々はかなり隔たっていよう。その唯一的不動点への移行過程では極めて熾烈な選択基準でもってあらゆる選択肢を排他してゆく歴史があったにちがいない。それは肯定的に何を選ぶかよりも何を拒否し、何を棄却するかという行為に近かったであろう。ちょっとでも生理的にそぐわないものを徹底的に排除することでしか、言語を通した共同体の秩序は形成せられ得なかったのであろう。
 交際したくはない他者に、向こうから接近された場合、拒否することなしに、一切の連絡をたつことが、実際上は徹底した拒否姿勢を他者に示すことになる。だから、ある言語共同体が形成される過程ではその共同体にそぐわない個人、というか個体を徹底的に排除する形での(それは恐らく戦うことすらない、徹底無視であったことだろう。真の意味での村八分である。)取捨選択であったことであろう。今どこの国に居住する市民もその行為によって恩恵を被った人々の末裔なのである。だから最後の部分でフッサールが変様と言っている部分こそ、実は特殊化し、自分たちだけの勝手な都合で閉鎖自己完結した状態の不動点を見出してきた、ということなのである。それは恐らく瞬時の知覚判断においても半ば法則的普遍のフラクタルとも言うべきものとして「5秒前の奇異に感じた感覚は消失している」日常の中では必当然的なのであろう。(だから逆にジャ・メ・ヴュを感覚出来る天才たちだけが、偉大な科学者や芸術家として後世に名を残してきたし、これからもそうなのだ。)
 纏めよう。つまり我々は瞬時の判断により知覚対象の合目的性やら、機能やらを完全に理解出来ぬままでも、とりあえず理解したものとして先へ進むしか生の時間の経済を有効に利用することは出来ない。だから何らかの行為を支える身体的運動能力は、明らかに慣用的、といっても人類が文明を有した200万年の間に身に付けた言語行為や都市文明などを遙かに凌ぐ時間的スケールで我々の祖先の種から引き継いだ遺伝子レヴェルの本能であり、言語を理解することが出来る(生まれてそういう言語共同体の一員としての生を保証されれば、必ず発現する先天的能力として)素地は、恐らく我々とチンパンジーとを遡る形で結びつける共通の祖先から引き継いだのであろうが、何らかの偶然からチンパンジーはそういう素地を有効に活かしきることなく今日まで生きながらえ、我々はそういう素地を見出し活用して今日までやってきたというわけなのである。その一つが数学の能力であり、複雑な言語能力なのである。

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