Tuesday, December 15, 2009

D言語、行為、選択 19、排除される暴力としての自然=ダーウィン、そしてオッカム、ベンサム、(ラッセル)、バタイユそしてフッサール、ドーキンス

 ダーウィンが鳥やその他の動植物について語る時、我々人類も含めて今ここにこうして存在する生命体であるからこそ、過去はどうであったかということを推測し得るのであって、また現在の自己(人類)の立たされた状況を一応納得し、満足しているからこそそういう研究に赴けるのであって、今存在する我々の知り得る動物が我々の生存を脅かさない限りで客観的考察が成され得るのである。仮定法が成立する、仮定法や条件節を通して過去の実像を歴史的に人類史、生命史、地球物理史、気象史的に認識し得るような場、状況は確かに必要なのである。我々が何らかのサヴァイヴァル的状況にたたされているのなら、寧ろもっと必要に迫られた事項に関する追求と言及のみが成されて然るべきである。(ダーウィンに関しては、画家セザンヌ同様、生活にために学問する必要はなかった。)
 無矛盾性の希求もまたそのようなある種のこころの余裕が要求されるものである。だから今日の哲学者の多くは心理学者等と同様殆んど解明不能と思われるものには取り掛かろうともしない。矛盾律や無矛盾性への希求、あるいは法則的秩序の発見は、たまたま我々が思考能力として言語に拘らざるを得ない生命体として生存してきたからこそ、引き起こされた命題であった。自然の持つ合法則的秩序(必然であると我々が思うような)とその複雑なる組み合わせを生じさせるある種偶然としか呼びようのない事象や出来事さえ、もし神というものが仮にいたとして、彼(女)の視点から見てみれば全くの必然であったかも知れない。宇宙でさえ我々の住む宇宙以外にも沢山あるようなのだし、こんなちっぽけな地球上での出来事など、神にとってはどうでも良いくらい全てが想定内の出来事なのかも知れない。しかし我々にとってはそうではない。
 神そのものは誰からも支配を受けることはないのだから、自由の筈である。しかも神は論理的には絶対なる存在であるから、その限りで無矛盾的な筈である。少なくとも我々はそのようなものを神と呼んできた。
 カントは「純粋理性批判」において神、自由、霊魂の不死を定言命法とした。彼にとって自由とは神のそれがそうであるように人間にとっても決して気侭なものではなかった。それはある種の責任と決心を必要とした確固とした、あるいは少なくとも自由と呼べるからには、そうであるべきものであった。そのように倫理的にも絶対美である、あるべきところの自由は、しかし一方ではそれが容易になし得ない、なされ得ないからこそそのように希求されるべき理想的実体となる。現実には自由であると穿き違えた多くの誤解やら、誤謬、殆んど醜悪とさえ言ってよいような事象が満ち溢れている。
 西田幾多郎は<神と世界>で、「罪は憎むべきものである。しかし悔い改められたる罪ほど美しいものはない」とか「放蕩息子が跪いて泣いた時、かれはその過去の罪悪および苦悩をば生涯において最も美しく神聖なる時となしたのであると基督が言われるであろうと言っている。」(「善の研究」241ページより)と言う。
 この西田の発言や引用を、罪の部分を過去、悔い改めることを未来へ向けた「行為遂行的発言(それ自体は美しいとされるところの)」と置き換えて考えてみることも可能である。
 西田理論はこの部分においては全くバタイユ理論を先取りしている。バタイユはこう言っている。

(前略)もし私の眼前で悪の現実的な力が私の友を殺すとすれば、激しい暴力性は内奥性をその活発な形で導入することになる。暴力を被ったという事実によって私がそうなる開かれた状態の中で、私は残酷な行為を非難し、断罪する善の神に同意しているのである。だから私は罪がもたらした神聖な無秩序のうちで、壊された秩序を修復するような暴力性に訴えかけようとする。しかしながら私に神々しい内奥性を開示したのは、実のところ復讐ではなく、罪のほうなのである。そして復讐は、罪がそうである非理性的な暴力性の延長になることはありえないが、まさにその範囲に応じて、罪が開いたものをすぐに閉じてしまうであろう。なぜなら神的な感情を与える復讐とは、暴力の奔騰への情熱や嗜好が命じるような復讐だけだからである。合法的な秩序を修復するということは、本質的に言えば俗なる現実に服従しているのである。(中略)つまりその善の神とは、暴力性によって暴力性を排除する神性なのである(そしてその神は、排除される暴力ほどには神々しくない。すなわちその神性が生じるために必須の媒介作用であり、そのように排除される暴力に較べると、神聖な度合は低いのである)。だからその神が神的であるのは、それが善と理性に対立する範囲や程度にまさしく応じて、その限りにおいてのみそうなのである。それでもしその神が純粋に理性的なモラル性を体現しているとするならば、その神に残っている神性とは、ただ神としての名称と、外部から破壊されるものではないものが持つ持続に適した傾向とに由来する神性だけに過ぎないのである。

 そして本論が述べる最も大きいテーマは、バタイユが言うようなその俗であるに留まるか、俗を脱するかという問い、例えば復讐で一時的に溜飲を下げることで満足するのか、あるいは無抵抗で家族や友人を失ったことの悲しみを今はひたすら表現するに留まるのか、というような苦悩の中にある決行を躊躇う抑制力の心的にも身体的にももたらされるエネルギーの正体とその末に決断される行為に内在する心身のエネルギー転換である。
 バタイユは逆説的な論客であるし、それがのちのフランス思想にもたらした影響は計り知れずに大きい。デリダなどもその一例であろう。<(フッサールの言語論)を後日掲載しますので参照されたし>しかしこの論述にある対極的な逆説的なエネルギーの法則を示したのはバタイユが最初ではない。ダーウィンもまたその先達の一人であり、彼が相手にした自然はただ単に創造説からの離脱であったのみならず、まさにバタイユが上の論述で示したような排除されるべき暴力としてのそれであったのである。彼にとって自然の苛酷さは恐らくその中で同胞愛的なものを育むのに最も相応しい場でもあったのだろう。我々はここでキリスト教における汝敵を愛せよ、とか右の頬を殴られたら左の頬を差し出せといった謂いが何処かで、こういったバタイユ的な逆説的解釈にリンクすることを感じるのは私だけであろうか?
 ところでカントは「純粋理性批判」で次のように言っている。

(前略)未規定の知覚は、ここでは与えられている_と言っても、思惟一般の対象としてのみ与えられているような何か或る実在的なものを意味するにすぎない、従ってそれは現象としてではなく、さりとてまた物自体(仮想的存在)としてでもなくて、実際に存在し、また『私は考える』という命題においてかかる実在として表示されるような『何か或るもの』として与えられているのである。(中、79ページより、篠田英雄訳、岩波文庫)

 現象は実際の知覚における聴覚映像のもたらす知覚内容を事後的に捉えた概念に過ぎず、物自体は我々の主体的存在以前に先験的に認められ、そのこと自体も我々によってア・プリオリに認識し得るような外部環境の物理的表現である。しかしそのどちらでもない、前知覚内容的『何か或るもの』もまたカント独自のものの考え方ではない。カントは明らかにここでは彼以前の哲学的思想を念頭に置いている。例えばオッカムである。オッカムそのものの参考資料が今手元にないので、度々引用してきた「西洋哲学史」からラッセル自身が度々引用しているオッカムに関する記述をここに引用しておこう。(オッカムは後で述べるがダーウィンとは因縁がある。そしてそれは同時にドーキンスの理論にもリンクする。)しかしラッセルに入る前にまずラッセルが「西洋哲学史」を著作することとなる背景について触れておかねばならない。ラッセルは所謂合理論者でも経験論者でもない。そういう部分はカントもそうであったし、本論で大きく取り上げた西田もそうである。ただしそういった合理論あるいは主知主義論者でも経験主義論者でもない思想家が皆一括りに出来る一群の人々かと言えば、そう単純でもないところが難しいのである。今はそこには敢えて触れずに合理論と経験論がどういうものであるのか、そしてその思想的立場が例えば今日迄大きく哲学の周辺に位置しかつ支え支えられてきた心理学と、どうリンクするのかという問題についても触れておかねばならない。階層理論(タイプ理論)を提唱したことで知られるラッセルは観察眼としてのスタンスに、明らかに経験論的なものの見方〔数学者である彼が他の多くの自然科学者同様経験論的に物事を捉えることは極自然な成り行きであるが、ラッセルが言う(「西洋哲学史」の中の<論理分析の哲学>から)ように実際数学は経験的学でもア・プリオリな学でもないのである。しかしこのことを論じだすと、それだけでゆうに一冊日本が出来上がってしまうので、我々はそれを後日の課題とすることで先ず先を行こう。〕をしているが、その理論である階層性には明らかに合理論者としての認識が息づいている。その多義性は後に行動主義者(心理学者)たちが極端に外面的に示される行動にのみ依拠してきたことの反省的視点において、フッサール同様再考に値するものと捉えられる。では合理論と経験論はどのような背景を持っているのだろうか?心理学は最近の歴史において大きくクローズアップされてきた発達心理学の登場以前は明らかに経験論の立場であった。しかしそれは内観観察優先主義の裏打ちされたものであり、その批判として登場してきた行動主義における極端な内観の否定に対する反省が生み出した認識方法こそが発達心理学なのだ。経験論にはその背景として唯名論がある。それに対して合理論には実念論が控えている。中世に発達したこの二つの考え方には大きな特色がある。唯名論は個別具体的な実在の性格は[普遍という、ただの名に過ぎないもの]だけでは推し量れない、という立場であり、実念論はプラトンのイデア論を基礎として、実在に先立つア・プリオリな普遍的法則及び真理の存在を確固として認めている。(数学はある意味ではこの考え方から発達してきた。)例えば大脳神経システムや遺伝子の発現とか、生まれてきたときに既に具わったものとしての生命財産を受け継いでいる我々の身体を考えると、明らかにこの考え方は正しい。しかしすべて具わっていて環境(生物学的、教育学的、親子や地域共同体内でのつまり家族、社会との係わり合い)との密接な触れ合いの中から醸成されるものが全く必要がないか、と言えばそれはノーである。寧ろ環境との相関性のないところでは発現しない遺伝子や、大脳の機能(言語習得及びそれ以降の言語活動を支える遺伝子とか愛情に関する遺伝子とかも含めて)も沢山あり、そういった意味では民族(言語共同体とも言える)、地域、家族環境は確かに大きい要素であり、それは人間形成にとって必要不可欠であるから、唯名論的流れも全く実念論同様、的を得た考え方であったと言わねばなるまい。しかしここでもう一つ大きな特色を挙げておくのなら、今日のように進化論がある程度普及して定着した時代(アメリカでは未だに多くの国民がキリスト教的創造説を信じる人々も多く、それは所謂科学者の中にも大勢いる。それはまた改めて本章において論じる。)では最新の進化論の中にも経験論的だけではない合理論的説明を要する幾多の事実が明らかにされてはいるものの、当時の合理論、その背景となる実念論には神学的解釈の常套性が支配的であった。というよりそもそもあらゆる科学的知識は殊に西欧では(遅れてイスラムにおいても)宗教的、神学的倫理と密接、不可分であり、そういう認識自体が合理的でもあり、そこになんの疑いも抱いていなかった。その意味ではコペルニクスもガリレイもニュートンもカントも全く同じ土俵にいた、といっても過言ではない。(そこら辺の論述は村上陽一郎氏の著述に詳しいので参照されたし。)すると唯名論、経験論的考え方にそれが全く無かったか、と言えばそれも違う。ただ経験論は方法上、確かに後にダーウィン(彼自身は死後キリスト教的教義にのっとった葬儀が執り行なわれているが)が創造説による生物学的説明(それは合理論的と当時は思われた。)を懐疑的に捉え否定してゆくように誘引するエネルギー源とはなっている。オッカムは所謂唯名論者であった。ではラッセルの「西洋哲学史」のオッカムに関する叙述を見てみよう。
 ラッセルはアーネスト・E・ムーディー(Earnest E. Moody)の「オッカムのウィリアムの論理」という著作を自己のオッカムに対する位置付けと相同のものを感じることを告白しながら、それが「やや通例ではない見地にたつ著作」とし、「これまでオッカムは、スコラ哲学の崩壊をもたらした人物として、またデカルトやカント、あるいは誰であれとにかく近代哲学者のうちの彼の「意見が一致しているムーディーの見るところによれば、すべてそういったことは誤りなのである。オッカムは主として、アリストテレスをアウグスティヌスやアラビア人たちの影響から解き放って、純粋な形に復元することに腐心しているのだ、とムーディーは主張する。」「少なからぬ程度にまで聖トマスの意図であったのだが、(中略)フランチェスコ団のひとびとは、オッカムよりもはるかに厳密に、聖アウグスティヌスに従いつづけていた。ムーディーによれば、近代の歴史家たちによるオッカムの解釈は、スコラ哲学から近代哲学への漸次的な移行を見出そうとする欲求によって、害われてきすぎない場合にも、彼の中に近代的な教説を読みとろうとしたのである。
 オッカムは、彼の著作には見出しえないところの、しかし「オッカムの剃刀」という名称を説得するにいたったところの、ある格率によってもっともよく知られている。それは「必要なしに実体を増やしてはならない」という格率である。彼はこのようにいわなかったけれども、ほとんど同じ効果をもつ次のようなことをいっている。すなわち、「より少しのものでなしうることを、より多くのものでなすのは空しいことだ」と。いい換えれば、ある科学におけるすべてのことが、これやあれやの仮説的実体を仮定することなしに解釈しうるならば、そのような実体を仮定する理由はないということである。わたし自身、これが論理分析におけるもっとも実りある原理であることを、見出してきているのだ。
 明らかに形而上学においてはそうでなかったが、論理学においてオッカムは唯名論者であった。15世紀の唯名論者たちは、彼を自分たちの学派の始祖と仰いだ。オッカムの考えによれば、アリストテレスは(中略)すなわちアリストテレスの「カテゴリー論」に関するポルフェリオスの論作に帰せられるべきものであった。ポルフェリオスはその論作の中で、次のような三つの問題を提起していた。(1)種や類は実体であろうか?(2)それらは物体的であるか、あるいは非物体的であろうか?(3)もし後者であれば、それらは感覚しうる事物に属するのか、あるいはそれとは別個のものであろうか?このような彼の問題提起は、アリストテレスのさまざまな「カテゴリー」(中略)に関連するものとしてなされたのであり、そのことから彼は、中世のひとびとをして、「オルガノン」をあまりにも形而上的に解釈せしめるにいたらしめた。アクィナスはこの誤りを解きほぐそうと試みたが、ドゥンス・スコストゥスは再びその謬見をもちこんだのである。その結果論理学と認識論とは、形而上学および神学に依存するものとなっていた。オッカムはこの両者を、再び分離する課題に没頭したのである。(中略)

 オッカムにとって論理学とは、形而上学から独立しうる自然哲学の、一つの道具なのであった。論理学は雄弁的(中略)科学の分析であり、科学は諸事物に関するものだが、論理学はそうではないという。諸事物は個別的なものだが、名辞の中には普遍名詞があるのであって、論理学はそれらの普遍名詞をとり扱うのである。もっとも科学もそれらの名辞や概念ではなしに、意味をもつものとしてのそれらをとり扱うという。「人間は一つの種である」、というのは論理学の命題ではない。なぜならそれは、人間に関する知識を必要としているからである。論理学は、精神がみずからのうちに構成した諸事物を扱うのであり、それらの諸事物は、理性の存在を通さなければ存在することはできない。概念とは一つの自然記号であり、語とは約束的な記号である。われわれは自分たちが、事物としての語を用いている場合とを、区別しなければならない。さもなければわれわれは、次のような謬論に陥ってしまうとオッカムはいう。「人間は一つの種であり、ソクラテスは一人の人間である故に、ソクラテスは一つの種である。」
 諸事物を指す名辞は「第一次的な指向の名辞」(terms of intention)と彼は呼び、名辞を表わす名辞は「第二次的指向の名辞」(terms of second intention)と呼んでいる。科学の諸名辞は、第一次的指向に属し、論理学のそれは第二次的指向に属している。形而上学的な名辞、第一次的指向の語によって意味される事物と、第二次的指向の語によって意味される事物とを、ともに意味する点において特異であるという。形而上的名辞はちょうど六個あり、存在(有)、事物、何物か<著者注、ここがまさにカントがオッカムから問題を引き継いだと思われる箇所である。カントは「何か或るもの」と言っている。>、一、真、善、であるとオッカムはいう。これらの名辞は、すべて相互に述語とすることができる、という特異性をもっているが、論理学はこれらとは独立に、追求しうるものだという。
 
悟性〔訳注:「理解」と同じ語〕は事物に関してもたれるもので、精神によってつくり出された形相に関するものではない。形相は理解される対象ではなく、それによって、事物が理解されるところのものである、と彼はいう。論理学においては、普遍は多くの諸名辞あるいは概念の述語としてうるところの、名辞あるいは概念であるにすぎず、「普遍」とか「類」、「種」というのは第二次的指向の名辞である故に、「事物」そのものを意味することはできない。しかし「一」と「存在」とは相互転化が可能であるから、もし普遍が存在するとすれば、それは一であって、一つの個物であるだろうという。普遍はただ単に、多くの事物の記号にすぎないというのである。この点でオッカムは(中略)アクィナスと意見を同じゅうしている。オッカムもアクィナスも、個物や個々の精神や個々の悟性作用があるにすぎない、と主張するのである。確かにこの両者ともに、「個物の前の普遍」(universal ante rem)というものを容認したが、それは世界の創造を説明するためにすぎなかった。すなわち神が世界を創造しうるためには、創造の前から普遍が神の心の中になければならないことになるのである。しかしこれは神学に属する事柄であって、人間の知識を説明する場合には必要ではない。人間の知識は、「個物の後の普遍」(univarsal post rem)に関するだけである。オッカムは人間の知識を説明する場合には、普遍が個別的事物であるなどという考えをけっして許さなかった。ソクラテスはプラトンに似ているが、これは類似性と呼ばれる第三の事物のためにそうなるのではない、と彼はいう。類似性というのは第二次的指向の名辞であり、精神の中にあるものだという(すべてこれらの主張は優れている。)
<著者注:類似は寧ろ差異にのみ依拠した関係において、意識的に類似性を希求している精神状態の中で求められる。だから確かに第二次指向だと言える。しかし先験的に似ていると思われるものとは第一次的指向であり、精神内での悟性とは無縁に我々にア・プリオリに知覚さえも条件付ける理性として用意されている。>
 オッカムによれば、将来の偶然に関する命題は、まだ真でも偽でもない。しかし彼は、この見解と神の全知とい考えを宥和させる試みを、ぜんぜんやってはいない。他の箇所におけると同じように、ここでも彼は論理学を形而上学や神学から解き放ったままにしているのである。
(前略)彼は次のように設問する。「発生の最初性というものに従ってまず最初に悟性によって知られるものは、個物であるだろうか。」
 反論:普遍こそ、悟性の最初にして適切なる対象である。
 弁護論:感覚の対象と悟性の対象とは同じであるが、個物が感覚の最初の対象である。
(中略)
 彼は次のようにコトバをつづける。「魂の外部にある記号でないような事物が、最初にそのような知識(すなわち個別的であるような知識)によって理解される。したがって魂の外部にあるすべてのものは、個物なのだから個物が最初に知られるのである。」
 さらに彼は次のようにいう。抽象的な知識はつねに「直観的」な(すなわち知覚に属する)知識を前提するが、そのような知覚は選別的な諸事物によって惹起されるのだ、と。
 次いで彼は、いだかれるかも知れない四つの疑問を列挙して、それらを解きにかかるのである。それから彼は、最初の設問に肯定的な答えを与えて結論とするのだが、次のようにつけ加えていう。
「発生の最初性によらず、充全的相応〔訳注:原語はadequationで、事物と思惟とが完全に相応することを指す〕の最初性からすれば、普遍が最初の対象である、」と。
 ここに含まれている問題は、知覚が知識の源泉であるかどうか、あるいはどの程度にまで源泉であるのか、ということである。(後略)
「霊魂的魂と知的魂とは、一人の人間において真に区別されるものであるか」、という問題に対して、彼はその証明は難しいが区別されると答える。彼の論拠の一つは、次のことにある。すなわちわれわれは、悟性をもってすれば拒否するような物事を、欲求から願望することがありうる。したがって欲求と悟性とは、異なれる主体に属しているという。いま一つの議論は、諸感覚は主観的に感覚的魂の中にあるが、知的魂の中にある時には主観的ではない、ということである。さらにオッカムは、次のようにもいう。感覚的魂はひろがりをもち質量的であるが、知的魂はそのいずれでもない、と。次いで四つの反論が考察され、それらは全て神学的な反論であるが、みな論駁されるのである。(中略)とにかく彼は、おのおのの人間の知性は各個人のものであって、非個人的な何物かではない、と考える点で聖トマスと同意見であり、アヴェロニスとは意見を異にしているのである。
 形而上学や神学に言及することなしに、論理学や人間の知識を研究することが可能である、ということをあくまで主張することによって、オッカムの著作は科学的研究を激励したのである。アウグスティヌス主義者たちは、まず事物を理解し得ぬものとみなし、また人間を知的でないものと想定し、その後で「無限なるもの」から発する光を、持ちだしてきて、それによって知識が可能になると主張したが、それは誤っているとオッカムはいった。この点で彼は、アクィナスと同じ意見に立っているが、その強調点は異なっていた。というのはアクィナスは、第一義的に神学者であったが、オッカムは論理に関する限り、第一義的に世俗哲学者であったからである。オッカムの態度は、個別的な諸問題を研究すするひとびとに自信を与えた。(中略)
 オッカムのウィリアム以降には、偉大なスコラ哲学者はもはやいない。偉大な哲学者が出現する次の時期は、ルネッサンス後期に始まったのである。(2、469~471ぺージより)
 
ラッセルはこの「西洋哲学史」において、色々な哲学者や思想家、科学者をただ年代順に並べて解説するのではなしに、「彼が生きた時代の現代」から考察してその都度の時代の論点が別の時代(前後の)との係わり合いや、共通性、真理的な相関性から述べられているところに大きな特色があり、かつ哲学者の主観も感じられてとても興味を引かれるが、それだけに我々が本論において考察してきた哲学者や思想家の論点を考察する上でも貴重な資料である。事実ダーウィンは、カントにも劣らずこのオッカムに負っている部分は大きい、と思われる。ダーウィンが創造説の種的唯一性による神からの恩寵という考えに対し大きい自然の選択システムによる単一的な生命起源からの分化過程である、という考えは当時の宗教家や熱心なキリスト教信者からは顰蹙を買ったものの、今日の科学的認識の重要な一歩となっていることは最早疑い得ようもない。そして最小単位のものから派生してゆく自然のシステムの考え方はオッカムによる認識方法からの伝統を踏襲していると言って間違いは無い。
 しかしダーウィンの唱えた自然選択は個々の具体的事実を見てみると決して悠長なバランスのとれたハーモニーとは言えない熾烈なものである。環境に適応して生きてゆく、ということは一面では、個々の生命体が仮に努力しようがしまいが、そういったことにはおかまいなしに、適応出来ない個体は必然的に脱落させられてゆく、ということも物語っており、そのことを巧く科学史家の小川真理子は次のように表現している。
「(前略)種を形成するそれぞれの個体はほとんど変化することなく、偶然に生じたわずかな個体差が微妙な生存の差となって長い年月集積され、結果として変化が生じたのである。「環境に適応」というと、個々の生物が自分を環境に合わせるかのごとくに聞こえるが、個々の生物は何らそのような自助努力(self-help)をしているわけではない。「種の起源」のもっとも重要でありながらもっとも理解されにくかったメッセージは、世界に一切目的が無いということである。(後略)」(「甦るダーウィン_進化論という物語り」岩波書店刊65~66ぺージより)
 しかし我々がダーウィンニズムのような熾烈な自然選択(かつては自然淘汰と言った)の途上に立たされているか弱き存在であるのなら、一方で「秩序ある世界」を自分たちの少なくとも最低限の生存にとって必要なだけは確保しておきたい、と願う。
 英国にジェレミー・ベンサムという法律家にして哲学者がいた。彼はそんな秩序を好んだ。彼は「功利主義」と呼ばれる考え方の先駆者であり、Jeremy Benthamの名から功利主義という言葉は一般にutilitarianismと言うが、Benthamiteという風にも言う。西田幾多郎もまたこのベンサムに関しては折につけ触れている。西田の「実在は矛盾衝突によりて発展する」という謂いは、どこかダーウィン的でもあるが、ベンサムへの意識も薄っすらと仄見える。 このダーウィンとベンサムの違いをラッセルは的確に述べている。再び「西洋哲学史」からの引用で見てみよう。

(前略)ダーウィン主義者は、マルサスの人工理論を動植物界の全体に適用したのであって、マルサスの人口論はベンサム一派の唱えた政治学や経済学の、統合的な一部分を成していたのである。いわばダーウィン主義は、成功した資本家にもっとも類似した動物が勝利するような、世界的な自由競争を説くものであった。ダーウィン自身がマルサスの感化を受けていたし、また彼は「哲学的急進主義者たち」の説に一般的に共鳴していたのである。しかしながら、正統的経済学者たちが賛美した競争と、ダーウィンが進化の起動力として宣明した生存競争との間には、一つの大きな相違があった。正統的経済学における「自由競争」なるものは、さまざまな法的制約によって囲いこまれた、非常に人為的な概念である。競争相手より安く売ることはかまわないが、相手を殺害してはならないのであり、また外国の製造業者より優位に立つ助けとするために、国家の武力を行使してはならないのであり、さらに不幸にも資本をもたないひとびとも、みずからの運命を革命によって改善しようとしてはならない、というのだった。ベンサム一派の理解したかぎりでの「自由競争」は、けっして本当に自由なものではなかったのである。
 ダーウィン的競争は、このような制約つきのものではなかった。ベルトより下を打ってはいけない、というような規則はぜんぜんなかったのである。法律という枠組は動物の間には存在せず、競争方法としての戦争も除外されてはいない。競争において勝利を確保するために国家というものを利用することは、ベンサム一派が考えた規則には違反していたのだが、ダーウィン的競争からは除外することはできなかった。事実ダーウィン自身は自由主義者の一人であり、またニーチェが軽べつを示さずにダーウィンに言及したことは一度もなかったのだが、ダーウィンの説いた「適者生存」ということは、徹底的に同化した場合には、ベンサムの哲学よりもはるかにニーチェの哲学に類似した何物かに通じていたのである。しかしそのような展開が見られるのは、もっと後代のことなのであり、ダーウィンの「種の起源」(Origin of Species)が出版されたのが、1859年であって、その政治的含蓄は初めのうちは気づかれなかったのである。(3、772~773ページより)

 ラッセル解釈に見られるように、ダーウィンの本質は明らかにベンサム的な制約ある自由とは対極に位置している、と捉えることは出来るが、野生はラッセルの言うほどの無秩序では決してない、とも言える。なぜならライオンのような肉食捕食者さえ近接してきても、そのライオンがすでに満腹状態であることを知っている場合は、被捕食者の動物たちさえ、何の恐怖も持たずに近隣空間を共有していることなども、自然界ではつとに知られているからである。にもかかわらずこのラッセルの主張が極めて示唆に富んでいると思われるのは、生命の誕生から38億年(37億年説もある)の間に、我々は既に数え切れないほどの生命体の種が絶滅して今日に至っていることを知っているからである。ダーウィンは大きな自然の歴史にオッカム流の「川の流れの自然さ」のような解釈を適用したが、しかし、それは同時に自然の中での取捨選択が苛酷であればあるほど、その中での的確な攻撃と防御の生存戦略が履行されなくてはならない、という全ての生命的存在者の側の自覚と知恵さえもが、選択圧という自然の勤務評定の前で冷厳なる結果発表がなされてきている、という事実をも彼自身の思惑如何に関わらず、示しているのである。だからこそ、といったら少々こじ付けがましく感じられるかも知れないが、各個体においては、ベンサム流の制約的な功利主義が自覚と知恵において幅を利かせる、とも言い得る。ドーキンスは師ティンバーゲンのみならず、コンラート・ローレンツの意図さえも念頭に入れて書いたと思われる「利己的遺伝子」(日高敏隆他訳、紀伊国屋書店刊)の中の(攻撃)において次のような叙述をしている。

(前略)コンラート・ローレンツは、『攻撃』の中で、動物の戦いが抑制のきいた紳士的なものであることを協調している。彼が注目しているのは、動物の戦いが、ボクシングヤフェンシングのルールのようなルールにしたがって戦われる、形式的な試合だという点である。動物たちはグローブをはめたこぶしや先を丸くした剣で戦う。威嚇やこけおどしが命をかけた真剣勝負にとってかわっているのだ。勝者は降伏のしぐさをみとめ、なぐり殺すとか咬み殺すとかいう、われわれの素朴な考えから予見されそうな行動を差し控える。
 動物の攻撃は抑制のきいた形式的なものだとするこの解釈には反論の余地がある。とくに、あわれなホモ・サピエンスだけが自種を殺す唯一の種であり、カインの刻印ないし同様のメロドラマ的な罪を背負った種だと非難するのは、あきらかにまちがいである。ナチュラリストが動物の攻撃の凶暴さを強調するか、抑制を強調するかは、一つにはその人が観察してきた動物の種類によって、一つにはその人の進化論上の先入観によってきまる。ローレンツは要するに「種にとっての善」主義者なのだ。動物の戦いはグローブをはめたこぶしによるものだとするみかたは、誇張されすぎたとはいえ、少なくともある程度の真実はあるように思われる。表面的には、これは一種の利他主義のようにみえる。遺伝子の利己性理論は、これを説明するというむずかしい仕事にたちむかわねばならない。動物たちがあらゆる機会をとらえて自種のライバルを殺すことに全力を尽くしたりしないのは、なぜなのだろう?
 この問いに対する一般的な答は、徹底したけんか好きには利益(利得)と同時に損失(コスト)もあり、しかもそれが、時間とエネルギーの損失ばかりではない、というものである。たとえば、BとCは二人とも私のライバルであって、私がたまたまBに出会ったとする。利己的な個体である私が彼を殺そうとするのは、あたりまえだと思われよう。だがちょっと待て。Cもまた私のライバルであり、同時にCはBのライバルでもある。私がBを殺せば、親切にもCのライバルを一人とりのぞいてやることになるではないか。Bを生かしておいたほうがいい。そうすれば、彼はCと争ったり戦ったりするだろうから、私には間接的には利益になるはずだ。この単純な仮定の例から導かれる教訓は、ただやたらにライバルを殺そうとすることははっきりした利点がない、ということである。大きく複雑な競争システムの中では、そのライバルの死によって、当人よりも他のライバルたちのほうが得をするかもしれないからである。これは害虫防除の関係者たちによって学ばれた苦い教訓でもある。農作物がひどい虫害をうけたとき、よい根絶法を発見し、喜び勇んでその方法を施す。その結果はただ、その害虫の絶滅によって作物よりも別の害虫が勢いを得、前よりいっそうひどい状態におちいるだけなのだ。
 いっぽう、ある特定のライバルがはっきり見きわめて殺すか、少なくともそれと戦うことは、よい方法であるように思われる。もしBが雌のたくさんいる大きなハーレムをもったゾウアザラシであり、別のゾウアザラシである私は彼を殺すことによってそのハーレムを手にいれることができるというのであれば、私はそうしてみたくなるにちがいない。しかし、たとえ相手を選んで戦いをいどんだところで、損失と危険はつきまとう。Bが反撃にでて価値ある財産をまもることは、彼の利益につながるのだ。もし戦いをはじめたら、私の死ぬ確率は彼のと同じである。いや、おそらく、私の死ぬ確率のほうが高いかもしれない。彼は価値ある資源をもっており、それが、私に戦いをいどませる原因だ。では、彼はなぜそれをもっているのか?おそらく彼は戦って勝ち取ったのだろう。きっと私より前に挑戦した他の個体を何頭も撃退してきたのだろう。彼はすぐれた戦士であるにちがいない。たとえ戦いに勝ってハーレムを手にいれたとしても、私はこの戦いで傷だらけになり、利益を楽しむどころではないかもしれない。しかも戦いは時間とエネルギーをつかいはたす。この時間とエネルギーは、当面は蓄えておいたほうがよいのではないだろうか。ある期間食べることに専念し、もめごとに加わらぬように気をつければ、やがて大きく強く成るはずだ。いずれはハーレムをめぐって彼と戦うことになろうが、今あわててやるよりすこし待ったほうが、けっきょく勝つ確率が高くなりそうだ。(113ページより)

 この叙述は明らかに行動心理学的分析によっている。ドーキンスの言う攻撃の留保はエネルギーの温存と選択そのものの持つ取り返しの効かなさに関する知である。選択し、行為を遂行する放電的エネルギーはエントロピーの拡張作業であり、それを平静に戻し、エントロピーを縮小しながら、より次回の攻撃に備えるために成される切り替え作業は極めて大きな負担を強いる。それを回避する事一点において行為を躊躇することは創造的行為の決断(あるいは選択)である。行為の意味は自己にとっての事情によって成立してはいるものの、それが成された時は、公共的な意味合いを帯び、行為の選択という既成事実はその時点で自己という一個の他者による何らかの利益の為の利己的行動という概念によって規定を受け始める。行為の意味の概念化が即執行される。概念とは社会学的な認識に立てばイデーの根拠でもあるのだ。イデーとは意味の独自性が他者と接することで、徐々にその意味が公共化されることによって概念化し、共同体の各成員による共通価値としての概念への<仮託>が、共同体成員としての各個人(各個体)の共同体運営への個人的選択、積極的加担によって成立しながらも、その集合体としての全選択、全加担が集団の総意となり、それが遂には規則とか社会的モラルという概念に取って代わるようになる、ということである。イデーはその時我々を規定するような法則性を帯びる。フッサールは「論理学研究」において、「純粋概念的命題は(中略)これに類似するあらゆる場合と同様、イデア的非両立性ないし可能性についての言表へと転換するのである。」(Ⅰ、205ページより)と述べている。フッサールが言うイデア的非両立性とは、イデア、つまり今ここで我々が言うイデーというもので、唯一的価値でなければならない、という不可避的認識によってフッサールをして言わしめた表現である、ということである。
 動物学者たちの見解では今のところ胎生の鳥類は発見されておらず、進化の過程において哺乳類は胎生を獲得し、鳥類は卵生によって繁殖生存してきた、という法則性を成り立たせていることになる。誠に動物学者諸氏には申し訳ないが、あくまで比喩として使わせて頂くなら、もし仮に胎生のある鳥類が発見されたとすると、今までの鳥類に対する概念、つまりイデーは大幅に変更、修正と言っても革命的変化を被ったそれを施す必要性に迫られよう。すると概念とは一律であり、唯一でなければならないが、寧ろそれ故にこそ、不安定なものであるに過ぎない、とも言い得るのである。これは合理論の立たされたある種のディレンマである、とも言えよう。カントの言葉を借りるなら「対象がもはや経験の対象でなくなって」(「純粋理性批判」(中)83ページより)所謂法則的既成事実と化した時、我々はただの一人として、経験主義者であろうとも法則的知識としてしか、あらゆる対象を認知し得なくなる。しかし一度ある法則の成立基盤を揺るがすような例外が一例でも発見されたり、示されたりすれば、我々は一挙に今の今まで真実と信じて疑わなかった概念や法則に対して懐疑の目を向ける(まだ覆されていないものまで、そういう懐疑の対象と化す。)こととなる。こういうことは歴史的にも枚挙に暇がない。
 ここで一つの結論が示された。経験的に、ア・ポステリオリに法則的事実と判明したことどもへの変更、修正の必要性は、逆にア・プリオリな法則性そのものの恒常的な必要性を不可避的に物語っている。
 経験論は合理論のようには恒常的な真理、絶対法則を前提しない。故に新しく現れた事実に対処する時オッカムからロック、ヒューム、バークレー、ベンサム、ミル、ダーウィンといった一連の系譜を考える時、神に対してもどこかエポケーの意識を貫きながら(必ずしも否定しはしないが)注視出来る現実優先の考え方である。もし赤い林檎、黄色い林檎、黄緑の林檎は殆んど自明的な存在であっても、黄金の林檎、紺碧の林檎、真緑の林檎等はまず殆んど林檎の概念にもイデーにも属さない。だがもし我々の品種改良という人工的な行為のないところで、このようなものたちが発見されても、経験論者の方が対処する姿勢に狼狽が少ないのではないか、と思われる。そもそも合理的説明が付く真理の絶対的存在を信用しないのだから、科学的観察姿勢はア・プリオリに具わっているからである。概念や真理はその都度その時なりの事情で変更してゆけばよいのだ。
 生物の、生命体における個体の生命維持は、哲学的に言えば主体の意志であるし、心理学的に言えば外部環境に対する個体反応であり、分子生物学的に言えばセントラル・ドグマ説に忠実に活型と不活型のスイッチングのオン、オフによって開放したり、抑制したり、という身体生理学的機能によるものである。進化がダーウィンの言うように、長時間による自然に対する適応によって徐々に変化を被り、適応者のみが生存してゆくのか、それともエルドリッジ、グールド説(ネオ・ダーウィニストたち)のようにウィルスによる断続的変化であろうと、本論が推測するように、何らかの外敵(捕食者他の)に対して、同一種であることを隠蔽する擬態としてさまざまの形態を持ちながらも中でも、とりわけそういった諸事情に対し適応していった個体群のみが定着した形態と化した、という考えであろうとも、個体は自然条件とそれに常に抗した内部の身体条件による制約に忠実にその都度の判断で不随意に変化したり(必要に応じて)、適応出来ずに生存レースから脱落したりするわけである。その意味では個体は常に種的概念の体現体でありながらも、自らの身体条件と個的な生命的事情によってその個別具体的な意味によって種の生存という概念に常に参画している成員、積極的加担者として生存している、ということが出来る。
 そもそも我々は生存に必要な行為の選択なしには生きてゆけないという限定された自由の存在として、生まれ落された時から、他のすべての地球上における生命的存在者としてア・プリオリに規定を受けている。
 我々の身体は、ミクロ・レヴェルでは遺伝子の発現においても発現されて機能的循環を果たしている血液でも、各種細胞でも予め用意された不活型を活型に転換したり、また逆に活型を不活型に転換したり、ゴー・サイン遺伝子や蛋白質を抑制遺伝子や蛋白質がその発現を留保させたり、逆に抑制因子自体の活動を留保させたりといった、ナノ・テクオンリーでの可視世界では極めて熾烈なる競争がまさにダーウィンの自然選択を身体内においても地で行っている。この不随意な身体生理学的適者生存のメカニズムは、ある時には身体機能全般にも被らせる大きな影響を持つこともあり、所謂病気になったりしながらも、そのように内部闘争に明け暮れながらも、概ね身体全体のホメオスタシスにおいては実に巧く統制され、やはり外部世界と直に接している外皮という身体の全表面は、外部からの攻勢を巧みにかわすために内部闘争を隠蔽しながら、環境メカニズムそのものとの結節点として外部と内部の折り合いを付けている。我々の身体のホメオスタシスとは実はこの外部の熾烈さに拮抗し得るために、内部闘争がありながらも、まるで他国と戦争状態へと突入してゆく際の国家のように、結束させることを常に強いられた、大脳による指令(まるで政治的決断ででもあるかのような)に忠実な施行者である。そしてとりわけ、その中で活躍する抑制系のシステムこそ、ベンサム的な制限付きの自由という概念を彷彿させるものでもあるのである。
 
           内部は、外部と同じ
           ダーウィン的世界

  ダーウィン     ↑
    的       〇
  外部世界


           ベンサム的制限された自由、
           と抑制作用<円周>

しかし我々の身体は時として、国を滅ぼすテロリストのような癌細胞その他の身体上の原理主義的生理テロに遭遇する。その事態に立ち向かうためには強靭なる意志を要する。そういった決断は随意的な身体上の意志と不随意な身体上の意志の鮮明なる闘争である。

 暫くその闘争を言語の場から考えてみよう。ウィリアム・ジェームスは明らかにプラグマティストとして経験論的立場の方法論を継承しているが、彼の思考に対する考え方は生存競争に依拠しており、それはすなわち言語によるコミュニケーションでの思考活動に直結した命題なのである。個々の個体としての言語共同体成員は、意志的存在者として共同体維持に(好むと好まざるとにかかわらず)参画しており、そこで共同体規則として通用する概念は、その「すべての意志的存在者の意味の多様」を暗黙のうちに制限を加えており、言語という一体系もまたその時々の自然選択を乗り越えてきているのである。
 英語の歴史から暫く考えてみよう。
 言語の形態はドーキンスも述べているように(「利己的遺伝子」中の<ミーム‐新登場の自己複製子‐>より)『言語は、非遺伝的な手段によって「進化」するように思われ、しかも、その速度は遺伝的進化よりも格段に速いのである。』それはなぜであろうか?
 実際はそのことを論じ出すと一冊の本をまた書かねばならない程の難問なのであるが、直裁に言って、言語が共辞的(共時的)な行為である共同体内の意思伝達機能であるということにつきる。どの言語においてもその言語共同体(民族共同体と一致することもあるが、そうではない場合もある。)独自の歴史があり、それは極めて変化の多い事例の集合である。例えば日本語なら日本語の歴史において極発生初期から現代にまで通じて変化しない部分や要素、本質的な特徴が、必然的に最初から備わっていたと考えるには、あまりにも多くの歴史的な変遷、つまりその言語を取り巻く民族共同体の内部での抗争と思想的変化(生活上の信条から宗教儀礼、生活上のその都度の科学的知識にも不可避的につきまとう常識とかの)があまりに多くあり過ぎて、もし現代にまで通じる日本語の要素とか普遍的に思われる部分があったとしても、それは言語構造自体に宿る部分も多少はあるだろうが、殆どそれは僅かなる痕跡にしか過ぎず、そういった痕跡さえもが殆ど予定調和的な必然性として現代まで持ち越されたというよりは、全て限りなく偶然に近い。だから何故英語であるかと言えば、英語が今世界の共通語としてのスタンスを持っていて、これもまたただ単に一個の民族言語であるにもかかわらず、今や国際的な常識にもなっているというここ一世紀位の激変を見るに付け極めて言語の歴史を辿る上で好例と思われたということである。そして言語はその時その時の「世界の事情」に即応して臨機応変に変化し続けてきた。「世界」とは現代のように交通網が発達していない時代のものであっても同じである。「世界」には交流が厳然とあったし、民族共同体も言語共同体も常に流転を強いられてきたのである。民族の大移動というものが言語構造として考えられる文法の痕跡を部分的には残し、別の部分では発音だけを残し、別の部分では語彙だけを残しというように語り語り継がれて来たという事実だけが不変である。
 言語が社会の中での意思伝達の手段である限り常に現在進行形の中でのその場その時の状況性に即応した臨機応変な変化が常に求められてきたのである。その好例がピジン語であり、クレオール語であったりする。英語にもその双方ともが関係している。米語も英語と位置付けることは寧ろ現代では当然過ぎる(所謂イギリス英語の方が今では米語を追いかけている。)のだから、まず米語というものの歴史を簡単に振り返りつつ、その米語が本国イギリスの英語から引き継いだ部分、捨て去った部分から初め、徐々にそれ以前のイギリス英語の成立史へと移行しよう。(つづく)

 付記 本ブログは暫く休暇を頂きます。またこのD論文「言語、行為、選択」は中間部の未完成論文作成のために休暇を頂きます。暫くAからCだけを順に更新します。来年(2010年)正月明けにお会い致しましょう。

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