Monday, December 7, 2009

D言語、行為、選択 15、オースティン巡礼

 我々は言語が行為をすら誘発するような、あるいはそれ自体がオースティン流の行為遂行的な、もっと行為そのものであるような地点に我々自身の問題意識を見出す必要がある。そこで最初に触れた言語の無限的にさえ思われるある種の我々自身の不可知領域をさえ表現できるような能力を見てゆかねばならない。我々は我々自身の不可知性に対して、神という概念を古来より使用してきもした。そして神なるものの実体を知る者など誰もいはしないのに、それでも尚我々は神という概念に対してある種暗黙の前提を認め、古くから馴染みのものとして受け取りさえしている。それが言語能力の一部であることを気が付きもしないで。言語の能力は決して無限ではない。しかしその被表現領域の無限性に対する無頓着な信頼こそが我々を言語なしには生活できないレヴェルにまで、我々自身を連行して来た、と言える。  我々は全体を知る、と言うが、これなどはフッサールも指摘しているが、実際上は矛盾命題である。全体とはあくまで部分の全体であり、無限に全体は適用できない。にもかかわらず我々は我々自身の知る世界以外の未知の世界をも含めて世界の全体と言ってきた。もしその全体という謂いを適用すると、その全体を他から峻別する次元の問題へと我々の視点を移行させる。それは不可知であるし、しかも世界は全体であり、それ以外には何もありはしない筈なのにである。無限後退を余儀なくさせるこの捉え方はだから、そもそもが間違っている。世界の全体とは我々自身の言語に対する不可知、未知領域をさえ表現、定義、規定できるという盲目的な信頼が潜んでいる。
 私たちは言語を通して、何もかもが表現出来るのだ、とまるでありもしないものから、我々が知る由もないものまで(ということは存在し得るかどうかも怪しいということとなる。)表現可能な万能の思考手段として絶えずそれこそ、大脳レヴェルから切り離しては生きてゆけない者として望むと望まぬとに関らず、我々はそういう生を生きて来たのである。
 しかしありもしない物に対する言辞は我々自身の内的不安が捏造した可能条件の提示行為であり、論理展開上の必然性に対する盲目的信頼に過ぎない。また知り得ないものに対して、神や神以外の多くの言辞を与えてきもしたこういった性向は否定すべくもない殆んど核心的な事実であるが、世界とは本来我々自身の知り得る事柄の全体でしかないものなのであった。我々が知り得ないものは、恐らく我々自身の一番よく知っている筈だと思うものにさえ宿っている。(おやおやこの言い方こそ不可知性に対する先験的な認知であるではないか!)兎に角我々は我々自身が知っていると思っているものの中にさえ我々自身の知らないことを見出せるのではないか、という幻想とも確信ともつかないものの中で考えているのだし、また実際そういったことが未知を既知に変えても来た。だが無限の本質的な姿さえ我々には理解し得ないのであり、全体は部分の何物かに関する全体でしかない。世界の全体とは我々が知り得るものの全体でしかない。しかしこの我々の知り得るものの全体とは、単純に我々自身がここからここまで、という風に言い切れるものだろうか?我々は何かを知っている積りであって、実は何も知っていなかったり、何かを知らないと思っていても、ただほんの少しの間忘れていいただけなのかもしれない。それは個人に関しても、人類全体に関してもそうである。個人の中の無意識領域、集団や共同体、いやホモ。サピエンス自体の種の無意識が何かを厳然と認知しながら、表面上は忘れさせていたり、だから我々自身が得意満面と、知り得たと思い込んでいるものにもある日突然我々を未知の奈落にまっさかさまに突き落とす、ということが待っている。だから何かを選択した積りでいても、それは無意識の、あるいは外部環境に対する生理的反応でしかないものを、自分自身の選択、決断と錯覚しているだけなのかも知れないのである。
 すると我々はこうも言える。我々自身が語りえるものと我々自身が語りえぬものとの違いやそれぞれの範疇やら性格をそう安易に我々自身によって判断してよいものなのだろうか、と。自分でも知り得ない部分は自分が一番よく知っている積りになっているものにこそ宿っているかも知れないのなら、我々は我々自身の真の姿を自分では鏡でしか確認出来ないので、我々自身の他者の他者への接し方は、その当の他者から指摘してもらうのが一番よいように、我々の語りえることとは、実際はそうではなく、我々が語り得ないと思っているものも、そう思い込んでいる(決め込んでいる)だけで、実際は案外容易いものなのかも知れない。だが我々は個人の事項なら他者へ意見を求められるが、人類全体に関してはそれ以外の意見を聞きようがない。神とはだから人間が作り出した他者なのかも知れない。また他者が言うことが絶対ではないように、我々は他者の意見を拝聴すべき領域とそうではなく、自身の自身だけによる裁量で判断すべき領域の判断さえ実はよくは把握していないのである。だからもっと相談してくれればよかったのに、とか、そんなことは自分で判断しろ、とか言うのである。また人類全体の批評家やら人類全体の相談役の不在が我々を絶え間のない孤独へと突き落とす。猫ででもいい。我々の行く末に何か語りかけてくれさえさえしたならば、とそう思う。我々は動物の目を見て語りかけるものに何らかの感情を読み取ることを自己の能力として期待するのみである。しかし言語で返してくれる存在への希求が地球外生命物の存在への期待となっている。
 自己をその行為の正当性として理解して欲しい、ということは他者に対する我々皆が自己の偽わらざる心理として受け入れている。それが人類という一束になったとしても同じである。人類が未知の高等生命体を希求することは極自然のことである。そればかりではない。我々自身いつ何時自己の中での形容不能な出来事、体験に見舞われるか、それは誰にもわからない。そういった事柄に遭遇した時に我々は他者を、自己の立たされた立場を理解してもらう為にそういう異常体験を伝達する為の対象として選ぶ。なぜなら異常体験においては我々は皆意味の横溢に押し潰されそうになっていることが多く、概念の不毛を感じることの方が多い。するとその不安を少しでも紛らわせるための親愛なる他者の共感を欲するのである。
 伝達したいこと、表現したいこととは、伝達されたり、表現されたりする当の事柄の意味である。そいった意味の充満がさほどない時には我々は概念の持っている実効性やらその形式的秩序に感謝しこそすれ、不満に思ったりはしはしない。我々は円滑になされる日常的コミュニケーションにおいて伝達したいこと、表現したいことよりも概念の方がその数において勝っていると思えるからだ。我々はだからそういう日常的平常時には、概念提示的オースティンの言葉を借りればコンスタティヴな述定において、言語活動の効力に無限の可能性を感じるわけである。(伝達・表現したいこと=意味)÷(概念)の数値がプラスになれば、我々はさほど伝えたいことがない心的状態か、表現する際に武器となる語彙数の不足を自己に感じることのない、所謂教育レヴェルに関しても過不足のない環境において、概念に対する信頼に充たされた心的状態であろう。しかしその数値がマイナスになれば、その時我々は知り得る概念の数の少なさをある一定レヴェルの教養に達していない、と自己を捉えるか、さもなくば、あまりにも伝達したいことの意味が横溢し過ぎて、ある種の特殊体験において動揺を隠し切れずにいるものだから、きちんと伝えられない、適切な言葉を見つけることが出来ない、ということであろう。その心的状態は前者には羞恥が伴い、後者には狼狽が伴い、いずれにせよ我々はそこに一抹の不安を感じる。それはある種極端に言えば社会から疎外されたような心的状態とも言える。しかし極一般的には殆んどの日常的な取るに足らない経験ではどんなに強烈でも、ある興奮状態から覚めてゆくにつれ、徐々に冷静さを取り戻し、他者へその時のことを説明しながら伝えるべく適切な概念を引き出せるようになるわけであるが、それもその時は不在の現前化であるわけだから、体験の意味そのものは対象化される余裕があり、記憶像の整理もつくようになってきている、というわけである。
 我々が行為を選択する時、選択した、と意識してそうする場合と半ば無意識に殆んど条件反射的にそうするのとでは意味が違う。前者は随意でありながら不随意に近く、後者はそうしようという行為の選択そのものが意味なのだから。何かを伝えたいということで伝える場合もこれにあたる。例えば異常体験を語り伝えるということはそれを語ることが、経験した出来事の意味を伝えることであり(不在の現前化)、意識的な意味伝達的コミュニケーションである。だから逆に嘘をつくこと、偽装することもそれがどんなに手馴れた反射的行為であっても、真意を伝えることに比べれば明らかに作為的で、意識的(意識するということは、それがモラル上本当は背信的行為である、と承知なのだから、良心を保有している、ということに論理的にそうなるのである。)、自覚的な行為である。

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