Sunday, December 6, 2009

C翻弄論 7、 いい意味でのいい加減さ

 人間は重大なことについて拒否し、賛同の意を表明するが、それ以外のことは打っちゃって置く(政治に対する一般民間人の意識が拒否するべき重大な事項以外のことでなら、マスメディアの垂れ流す膨大な情報量において最も頻繁に流布されたメッセージを疑うということの重要性を知りつつ、一応目に留めておき、かつそれを闇雲に拒否することは浪費的な意味合いしか見出せないから回避する)。そこでは贔屓感情から嫌いになれないというそれだけの理由で、絶対的に否定すべきものでない限り受容してしまい、他の人間よりも味方をしようと思うという意志決定というものは拒否回避からなされるのだ、ということは人間社会においてのみ固有の現象ではない、ということも示唆しておこう。(拒否すべき時以外は拒否をせぬよう心掛けるのは人間だけではないのだ。)
 日常における一回一回の些細な決断にあまりにも時間をかけ過ぎて、また必要以上に厳密さを求めることは間違いを回避させることには寧ろ繋がらず、逆にデメリットの方が大きい。
 地質学者のアンドルー・H・ノールは自著の「生命最初の30億年」において次のように語っている。
「RNA(およびのちに登場するDNA)の複製エラーが高すぎると、せっかく成功した変異体もその後の世代に長く残れない。反対に低すぎると、進化が続かない。このように現実のエラーが「ちょうどいい」のは驚くべき偶然に見えるかも知れないが、そうではない_分子レベルの自然選択の結果なのだ。中途半端ないい加減さが、進化には有利なのである。」(同著119ページより)
 この原則は人間社会にも全く適用し得る認識である。仮に今あるプロジェクトを任された人間がトップリーダーとして要求される人間的な資質とは鷹揚さであろう。勿論肝心要の時には潔い決断力が求められるが、そういった判断を成立させるものは日常的にはあまり些細な事項に対して神経質にならずに厳密さを求めない、つまり事の成り行きをある程度余裕をもって静観出来る、それでいて部下や事業そのものが苦境に陥った時には適切な判断やアドヴァイスや修正が出来る能力であり、些細な失敗や事業自体の滞りにその都度部下に対して厳しい処置を施したりするような神経質さは寧ろ回避すべき性向であろう。
 K泉J民党圧勝はK泉前首相の人間的な魅力が最大の要因であった、ということは間違いない。「J民党をこのK泉がぶっ壊す。」と言って演説したことが大衆を魅了したということである。これを「J民党を私が崩壊へと導く。」というような言辞で大衆に問い掛けたら、恐らくあの時のようには大衆を魅了しなかったであろう。首相本人は「マスメディアが<ワンフレーズ・ポリティックス>と勝手に決め付け、印象的な一言のみを繰り返し報道しているだけだ。」というようなことを国会で発言していたが、それは戦略的な言辞であり、首相本人は最大限にマスメディアが嬉しがるフレーズを多用して巧みにマスメディアを利用した(いい意味でも悪い意味でも)とは言えるだろう(それゆえ今回のM主党による政権交代はマスコミ主導型の振り子現象的な日本型性悪排除的民主政治理想によるものであるとも言える。その際にK泉時代に後退した勢力による巻き返しにしか過ぎない。しかしその問題は置いておこう)。だがこの選挙演説として魅力的な言辞あるいは語彙選択というものとは一体何なのだろうか?
 一般にスローガンを政治家や経営者が述べる時、その際にどうしても必要となってくる専門用語ははずせないとしても、それ以外では出来る限り簡素なイメージで主張する方が説得力がある。それにはまず皆が知っている単語、動詞であるなら熟語となった単語以外に発話においてメッセージを伝達し得るのに有効な訓読みに出来る和動詞があれば、それを使用するということが挙げられる。英語で言えばラテン語系列の動詞ではなく、英語独自の動詞(及び動詞句)を使用するというものである。あのケネディーの演説の時のように。Do not ask what your country can do for you. Ask what you can do for your country.
 そういう配慮においてK泉前首相の「ぶっ壊す」という響きはあの時には有効に機能したと言えよう。しかし一方で大衆的な週刊誌やスポーツ新聞等による四文字熟語や二文字複合名詞、動詞の多くの発明もまた非インテリ階級的なパワー主張において有効に民間の活力を漲らせている。例えば卑属な例で言えば「激撮」、「乱倫」、「爆乳」といったかつてはなかった単語が次々と使用され日常化してきた。こういった工夫とは一線を分かつように思われる政治家のスローガンは出来る限りあらゆる職業層、年齢層にアピールしなければならない。だから一方でサブカルチャーが隆盛を極める反面それを反面教師として認識する知識人や常識人もまた多数いる、しかし彼らとて決してそういう民間のパワー炸裂に対して歯止めをする力も権利もないという奇妙な同居性。これが日本を始めアメリカやヨーロッパの実像ではないだろうか?そこにはメディアのどうしようもなさ、歯止めの利かなさがある。
 辞書項目的な堅い熟語や動詞を回避させながら弁舌し得る力量はある一定量のカリスマ性が要求されるということもまた現実である。K泉前首相の巧みさは自分の名前をスローガンに極自然に挿入した、ということではなかったろうか?自分で自分を名指すことで達成される効果を熟知していたとしか言いようがない。それが効果的であったことは、名前の認知度を高めることとは言えまさにそれを語る語り口の軽妙さ(語り方その他のイメージの恰好よさ)にも起因している。
 我々が認知度の高い政治家に惹かれるということはマスメディアの流す情報を鵜呑みにするわけではないにせよ、一定量の信頼もまた絶対的に持っているということである。現代のような情報化社会では情報をシャットアウトすることだけは回避したいという現代人固有の状況性がある。よって必然的にマスメディアの露出度の大きい政治家を支持しやすいという構図が出来上がる。またマスメディア自体が一般的な有権者の贔屓心をくすぐるような予め大衆が喜ぶ、期待する内容の情報をのみクローズアップして、それを反復して映像を放映する傾向もある。これは劇場型社会特有の有権者と政治家が一体化してシナジーを作るという現象である。ある商品が何度となくCFで放映され、その商品に対する日常的な認知度というレヴェルで既成事実化され、関心を持つように仕向けられるし、その反復的な放映自体が我々自身のニーズをある程度反映するから、その商品に対する消費者一般の関心事であるかのようなイメージが作られてゆく。それはまさに我々自身が作り出す期待感が無意識に反映されているのである。それは意識的な関心の反映ではないのにもかかわらず、潜在的な欲望を正規のニーズの如く信じさせる効果を映像の反復が醸成するのである。
 我々がしかし経験的に政治が各種の利権性と無関係ではなかったということを知るように、ある商品が矢鱈と売れると、消費者が沢山特定の企業の商品を好んで買うことが特定の産業や特定の流行最前線のアイテムに付帯する利権を増大させ、莫大なる利益を導くのだ、ということを既に敏感に理解出来るような意味で、我々はある種の警戒感もまた常に介在させてもいるのだ。
 ここで言う政治が利権と結び付くということは仮に特定の法人組織に密着した属議員でなくても事情は同じである。例えば政治家個人の名声、彼を取り巻く権力構造といったものである。ある商品への関心が我々の需要によって形成されるような既成事実が同時に特定の産業や企業へと莫大な利益を齎すことを知っているように、特定の政治家への贔屓が、その政治家への権力を集中させることを我々は充分自覚すべきであろう。だからこそ時として贔屓心を鬼にして投票するべき候補を選択すべき時もあるということである。
 商品を買う場合はその商品が有用である限り買った商品を使用すれば一応願いは叶う。しかし投票した政治家が当選するが、したとしても選挙公約を順守するか、仮にそうしたとしても他の政敵との抗争に打ち勝ってゆけるかとか、公約を果たし得るかとかは丁度競馬や競輪の結果同様未知数である。そこで商品を買う場合よりも選挙で投票することはギャンブル性が濃いこととなる。にもかかわらずそれをギャンブルではない(真面目な事)と社会は触れ込むわけだ。
 実際上ビジネスに忙殺される一般人にとって政治は劇場であることが望ましくもあり、また我々自身によって運営されているものというよりは日本人の場合は議員に対して我々が国民全員の意思において代表者へと委託しているという意識の方が強い(これは民主主義の本場アメリカでも事情は変わらないであろう)。そういう意識において滞りなく運営されて欲しいと願う気持ちから一応現状において認知度の高くイメージだけでも公約を守れると思われる候補に一票を入れれば間違いはないというステレオタイプな判断をして、多くの有権者の投票によって選出されるであろうという目算から確かな支持を取り付ける能力のある政治家を当選させることが合理的に適ったこととなる。そこで当選した候補が活躍することを国会中継等を通して皆で見守ることが可能となる。事実そのような候補は何回かの当選で今まで国民の期待に答えてきてもいるのだ。だからそのような候補は必然的にマスメディアの注目を浴びるようになり、我々はそのマスメディアの作る情報をある程度信頼しているから、その候補を投票するようになるのだ。丁度映画館で大勢の観客の一人として鑑賞したり、また競馬場で馬券を買い自分の推す馬が勝利することを願って観戦するようなものなのである。自分の生活に直結し得る部分も大きい政治であるが、政治以上に生活に直結し得る要素を他に多く見出し得る我々にとって我々の国民性からは政治には生活必需性以外の祭り意識を託しがちであるとも言えよう。当選しそうな候補に投票することで当選した暁には公約の政策を実施してくれることから自分の買った馬券の当の馬が優勝してくれることと同一の心理で劇場を楽しむことが出来る。ここで人気のある政治家に投票することが行為目的論的に合理化される。それは全く心理的にはよく売れる商品を購入するケースと同一のものである。勿論事実としては政治と買う商品の生活レヴェルへの影響は異なっている。にもかかわらずその差を認識するくらいに切実に関心事として規定しようという意識が概して日本人は希薄である。政治が経済を動かすという側面よりも経済が政治を動かすという側面の方を信じているとも言える。これは実は両方言えることではあるのだが、そういう思考回路があるということである。護送船団方式の名残ということもあるかも知れないが、もっと根の深い心理形成プロセスの相違が西欧社会と日本の間には横たわっているとも言えよう(このことはこれ以上ここでは触れない)。
 しかし見かけ上は(実はこの見かけは本質規定的な部分よりも現代社会では重要であると思われるが)国会中継が頻繁に放映され、劇場を見るような感覚で我々は政治を観戦するのである。自分の買った馬券の馬を応援する心理と同一の贔屓感情を劇場で頻繁に登場する政治家に託す。だからこそ人気のある政治家に投票することは行為目的論的に合理化される理由となる。こういった行為選択は可能性論的に言えば積極的選択である。全体の政治力学的バランスを慮って批評的に投票するタイプは選択性に関しては消極的な選択基準であるから、当然のことながらこの種のタイプの人は政治自体に懐疑的であり、と言ってノンポリにもなり切れないときている。しかしこのタイプは政治参加意識においては、人気のある政治家を自動的に投票するタイプよりはアクティヴかつ積極的であるとも言える。要するに政治性成果予測主義であり、この場合の消極的な選択基準とは同時にモティヴェーション的には積極的であるとも言えるのである。
 だがそういう選択基準を持つ個人は稀ではなかったろうか、あの200X年夏の総選挙においては。あるいは今回の政権交代においても尚。あの時には明らかに脆弱な「個」による群集心理、同一の競馬場で競馬を観戦して、同一の劇場で芝居を鑑賞する観客の要素のある心理が感じられたのである。こういった場ではどの位大勢の人間が自分と同一の立場にあるか、その運命共同体性が重要となるのである。誰も見ない芝居や試合は見ていて興奮度は低い。そこで尚人気ある政治家(あるいは皆が今回では正当であると思われる議員に相応しい人)に投票しようというモティヴェーションは選択基準としては(政治参加主義的にではなく)アクティヴな意味合いを生じるのだ。ではこの群集心理はどういうケースにおいて発現され得るのであろうか?
 デイトレーダーの場合をちょっと考えてみよう。
 選挙の場合当選した候補が不適切な政治をする場合、その損失を被るのは社会全体である。それに対してデイトレーダーが経験する損失は自己にのみ限られており、勿論そういう自分と同様の立場の人間もいるであろうが、そういう他者の経験は取り敢えず大した問題ではないだろう。というのも全ては自己責任に帰せられるからである。そして彼の損失は社会の中では誰か彼本人とは何のかかわりもない一群の人々の利益となるからだ。選挙の場合、ある候補者が当選してその人物の行う政治は社会全体が当選した候補以外の候補を投票した有権者をも含めて連帯的に損失を被る。尤も既得権益者であり、特定の特殊法人に恩恵があり、そういう立場に有利なこととなる政治的展開を当選した候補者が為した場合以外はであるが。つまり選挙の場合は明らかに無名で全く人気のない候補に投票してその人が落選した場合を除いて、ある人気ある候補が当選してその候補のその後の活躍を期待する中で被る政治的展開による恩恵も損失も皆同じ候補を応援した人ばかりか(同じ候補を応援した人々とはその応援した時点からであるが)そうではない人も含めその候補の政治によって生活に影響が出る全ての人々にとって長期的な運命共同体の享受となり得るのである。そしてそれは皆が共通して知っている事実である。しかしデイトレーダーたちが仮に皆年に一回ある株主総会に出席するとしても尚日々移り変わる株価相場において売り買いだけで生活しているわけだから(それに加えて信用取引をしているなら尚更)、必然的に永続的に一社の株だけについて他の株主と運命を共有しているわけではない。いつでも自己裁量的に売り買いは自由であり、あらゆる判断は個人の裁量に委ねられている。一回の選挙があるだけで、選択はその時だけしかない政治とはそこが違う。その意味では純粋に馬券を買って観戦する競馬の観客と同様である。しかしそれでいて競馬のファンとも異なるところは一つの競争結果となるわけではないところである。勿論競馬の場合も大穴を当てる者とそうでない者の間での損得の差はあろう。しかしデイトレーダーは競馬の勝敗のように同一の結果において右往左往するようなものとも違う。何故ならある株をその時に売るか買うかというようなこととか何時にするかということ自体も自由なのだし、また一律にこうすれば儲かり、こうすれば損失となるというような図式は全くないからである。個人毎に異なった株の数(馬券でもそのことは同じであるが)、将来への展望があり、証券市場での株の変動とは損得においても決心においても一律の結果では決してない。一回の競馬で全てが決するギャンブルとはそこが違う。毎日がレースであるし、必ずしもレースに参加する日時は決まり事などなく個人毎に異なっているのだから。
 つまり要約すれば選挙の場合、自己の願望の実現可能性が選択においては自己以外の圧倒的他者の存在が必要であるのに対してデイトレーダーの場合は株保有が自己選択にのみ全てが委ねられ、他者による選択は自己の利益自体とは一切かかわりがない、勿論狼狽売りをして損失が自己保有株に出る場合はあるが、それとて最初から想定された展開のある一つの可能性であったに過ぎない。だから逆にその好例であるLDショックの際の狼狽売りに関しては想定されていたとは言え、一時的にでも証券市場に多大の影響を及ぼしたこと自体のLD側の責任如何を問わず、狼狽売りに走った多くの非関連株保有者の心理には驚くべきものがある。日本人のある種の主体性のなさ、圧倒的他者の選択に追従する群集心理を物語っている。それは200X年夏の総選挙のメンタリティーと何のかわりもない。恐らく米国では選挙においてさえ、自己信念にそぐわない候補に人気とメディア露出度からだけの判定で候補者を選ぶというようなことは極めて少ないのではなかろうか?あるいは米国でも同様の現象が見られるとしたら、それはそれで実に興味深いことではあるが。大統領選挙にはそのような祭り意識が濃厚である(オバマ旋風とその後の支持率下落にもそれは伺える)。
 政治投票行動とはある意味では祭り参加意識が濃厚である。この祭り意識とは一面では反省意識からの解放という心理状態の転換が考えられる。劇場鑑賞自体に反省意識は少ない。ある意味で人生自体は自己選択の連続であるから、逆にその自己選択意志は、「人生全体を左右する命題的態度による行動規範は合理的である」というような意味では必要であるものの、それとは別個に我々にはどこか合理的な説明が自分でつけられないような非合理的な自己欲求が横たわっていることにも直面しなければならない。つまり人生全体にかかわるようなそういう重大な決心の構造からの一時の憩いを政治に求める心理は我々にはあるのだ。これは重大なる自己選択に対する待機状態の保有であるとも捉えられるのだ。自己選択に対する待機であるなら、何もそれほど重大な決心は必要とされないが故にその場合はなしてもよい行動とは他者追従型の意志発現ということとなる。人間にとって重大な決心には一定量の反省意識を必要とし、そういった際の反省意識の持続は多大のストレスとエネルギー・ロスを来たすこととなる。デイトレーダーの日常的な意識はこの自己選択意志、極端なる自由意志オンリーの状態であるから、政治において祭りの憩い(それは関心集中型の憩いであるが)とは対極にある意識状態である。それで生活全てがかかっているし、大きな負債を一瞬で背負い込むことにもなりかねないからである。人間にはこういった極限の心理の持続をどのような安穏とした生活態度の人間でさえ経験せずに生き続けることは不可能であるから、逆に否定するに値するほど重大ではない、あるいはある程度懸念(ある候補を当選させたらこれこれこういう風になるかも知れないというような)があっても重大な展開にはならないだろうという場合には、「後に軌道修正し得るであろう」という思いも手伝ってそういうものに対する選択は一応受容しておいても構わないという行為選択を無意識に採るものなのだ。もしそういった無意識的な選択時の心理状態を全く排除して全ての行為選択に関して因果論的にこれをこうすればこうなるという風に想定しながらなすとすれば何の行為も選択することは出来なくなるであろう。それが極端になると、将来への不安(あのサルトルが「存在と無」で示したような意味での)だけが増大し、決心というものが一切つかなくなり行為選択が全く不可能となり生存さえ危うくなる。その意味では出来る限り損失を少なくしながら無意識に行為選択しつつ、時として重要な行為選択を持続的な未来予測と展望の下になすためのエネルギーを蓄えておこうという日常的なスタンスこそが最も標準の考え方であろうと思われる。というのも人生の瞬間はどの瞬間も大切であるが、重大な行為決断の瞬間のために日頃の全ての瞬間が捧げられるのであれば尚のこと、その重大な瞬間以外は無意識であるが有効に作用する選択を我々は知らず知らずの内に為している筈である。まさに「しても間違いはない、悪い結果を齎す心配はないからなす行為」であり、「仮に最大の成果があがらなくても、軌道修正が可能だろうから一か八か賭けてみる」選択である。これが一切なく意識的な自己自由意志による行為選択の長期的持続というような日常はデイトレーダーたちでさえ耐え切れまい。どんな緊張を持続的に強いる業務でさえ、その中では緊張から解放される瞬間を常に挿入している筈である。要するにノール(考古学者)の言うような意味で、中途半端ないい加減さが全体論的な充実を齎すということなのである。

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