Sunday, December 13, 2009

C翻弄論 7 いい加減さの正体とは一時的な抑制解除ではないのか? 

 デズモンド・モリスの言う人間の女性の乳房が性的な信号であることを容認して考えると、人間は長い狩猟生活において つがい行動 が出来ないためにその間性欲を抑制する能力(それこそが理性の原初的な形態であったのではないか、と思われる。カントはそれを格律と呼ぶ。)を身に付けた。だが繁殖はそれを解除せねばならない。理性が極限に達するとメスの居住する場所へ帰巣してもオスは尚抑制状態を持続させたままであることが多かったであろうと思われる。そこで徐々に女性の乳房の巨大化が性的刺激誘引作用を喚起させつつ進化上発展していったということは充分考えられることであろう。やがて人間のオスはその巨大化した乳房を見て性的な欲情を恒常化させていったのだ。
 このことから察するとメディアに多く露出する政治家の人物を候補者の中から投票するように行為決心させる(無名な候補はその公約を知っていてさえ回避する傾向がありはすまいか?)ものとは、ある種のメディア独自の信号という刺激に対する反応であるような循環システム的な行為という風にも考えられ、思惟の介在しない最も巨大な乳房と化したテレビ等のものに、まさに初期人類のオスがメスの誘引に惑わされていったかのように現代でも未だに同じ生理的な過程を踏襲しているのだという風にも思われる。メディアの流す情報が氾濫した現代でさえ、実は我々の生物学的な生理構造は古代より何らの変化も被っていはしないという厳然とした現実がある。
 これは日本文化が政治を「まつりごと」と言うように祭り意識が強かった、という歴史的な継続性を物語っているが、アメリカ合衆国は近代以降に成立したネーションなので、祭事ででもある大統領選挙が日本の古代から続く文化的様相とは異なり、無意識的な祭り意識(日本)とは異なり意識的な祭り意識であるとも考えられる。
 ここで日本における選挙が集団的な無意識、つまり脆弱な「個」の集合である、つまり群集加担、群集依拠、群集委託的無責任の特権的行使であるような心理による決心の構造を持っているということは明確になってきた、と思われる。
 つまり日本人は個的な行為選択よりも集団追従的な行為選択を政治的には適用する傾向がある。つまり理念よりも当否の結果予測を重視する投票行動が多いと言えまいか?
 党派的行動においてもその集団依拠的な姿勢は透徹されている。
 だが買い物の時には個人の意志で商品を選択する。しかし何か大きな宣伝があれば途端に個を失う。(これはアメリカ人にも当て嵌まるように思われる。)大きな宣伝に対する反応は広義の祭り意識であるとするなら祭りにおいては個を集団に委ねるということが日本人のみならず多くの民族で散見される。要するに株の売買の歴史的な経験(とりわけ個人投資家レヴェルの)の希薄な日本人の行動は特異なものがあるのかも知れない。しかし資本主義の権化、アメリカでもこの種の幾つかの例はある。1929年のウオール街における株の大暴落やブラックマンデー事件といったものが挙げられる。これもまた一時的抑制解除ではないのか?いつでも理性的に判断することが嫌になり直感的な予想に身を委ねるという部分人間にはある。だから何も日本人だけが非理性的に狼狽売りしたりするとは言えまい。いい加減さの部分が民族によって異なるように、理性的な部分も民族によって異なるということはあるかも知れない。しかしそれは何か人間性の有無を分かつ決定的な要素ではないであろうと思われる。

No comments:

Post a Comment