Monday, November 16, 2009

A言語のメカニズム C哲学者と言語 14レヴィナスとデリダ

 他者哲学において際立った内容を示したのはエマヌエル・レヴィナスである。レヴィナスの哲学においてフッサールとハイデッガーへの信奉と傾注は大きく立ちはだっているが、それ以上に彼自身の出自であるところのユダヤ性はフッサールやウィトゲンシュタインとはまた違ったかたちで表出している。恐らく彼の哲学を論じるうえで参考となる同種の典型はブーバーであり、ヤスパースであったろう。他者哲学という視点からはフッサール後期もさることながら(ウィトゲンシュタインは独我論的な視点<中期>以降の哲学は他者性そのものよりもコミュニケーション論として展開されており、その機能性に関する洞察となっている。そこが構造主義者等と相反する様相をもたらす要因となっている。)、ブーバー、ヤスパースはユダヤ的信仰の理念においてはレヴィナスの先達であった、と言えるだろう。レヴィナスは言語行為自体を動詞が持つ志向性から考察したオースティンの論理性ほどの細かい分析ではないものの、述語論理に関してはリッケルトにも劣らずに重要な概念として扱っている。またレヴィナス哲学においては「語ること」は他者性への言及と言語行為の持つ本質を理解する上で重要な事項となっている。暗喩、暗示、間接的言辞といった行為が持つ積極的側面は我々の日常において、とりわけ大人社会に属する成員にとっては明示とか拒否以上の明確な意思表示を伴っている。他者へ自発的な理解を促すこの種の意思表示は、それを受け取る側への判断力査定の側面も強く持っている。よって査定された側は査定で返すという応報を余儀なくされる場合も往々にしてあり得る。
 言語行為は身体知覚による刺激に対する反応という学習や記憶のシステムと密接な関係ともまた違う、もっと文化コード的な踏み絵とも言えるような側面も有している。他者理解が必要以上に他者領域に踏み込むことを相互に抑制し合う形でなされる時、他者配慮実践の是非が言語行為自体から体現されているかどうか、ということの踏み絵的性格を帯びている、とレヴィナス哲学は教えてくれる。この点ではレヴィナス哲学の傾注者であるデリダの歓待理論においても明確に示されているが、レヴィナス同様ユダヤとしてのアイデンティティーを持つデリダ、あるいはクリプキの共同体理論からも我々は同種の命題設定を読み取ることは可能である。
 デリダにとって記憶が差延作用と彼自身が呼ぶものによって同質性を前提しながらも、より明確に他者理解において自己との差異を認識することがキーとなっているという考え方は他者との断絶も辞さないという自己透徹のスタンスを一方では招聘する。従軍時代以降のウィトゲンシュタインがトルストイに傾注したり、その後の哲学的展開においてより独我論に接近せざるを得なかった必然性は、恐らくデリダにとっても極初期から意識に浮上していたであろうことは想像にかたくない。しかしそれにも増して印象的なのは、レヴィナスにおいて他者性が「他者、それは悲劇である。」といったアポリネール以上の切実さを持ちながらどこか信頼に満ちたものを感じさせる点では、オースティンほどの抑鬱状態にもなかったからなのかも知れない。レヴィナスにおいてはデリダ的な記憶の差異認識とかメルロ・ポンティーによる、「刺激に対する反応という単純図式(それもまた記憶によって説明可能であるが)への批判」に込められた間主観性ともまた異なった様相であるのは、信頼が醸成されるものであるよりも前提されるものである、という一事であろう。なぜならコミュニケーションを取るという事態はすでにそのこと自体で、他者信頼を呼び込んでもいるからである。その点ではレヴィナスはデリダほどのネガティヴを他者性に関しては持っていない。レヴィナス同様にハイデッガーを哲学的出発点にしているデリダが示したロゴス中心主義(ハイデッガーによる反・近代主義の理念の継承とも考えられる。)への批判の要ともなっている原エクリチュールという概念によって示されるもの(これは養老理論におけるヒトがエクリチュールを獲得した事実が遺伝子的進化をもたらしはしなかったという主張ともリンクする。)が今日的に言えば遺伝子のレシピ(マット・リドレー、リチャード・ドーキンス等はそう表現している。)に関しては、FOXP2遺伝子に相当するのに対して、ハイデッガーからの啓示を受けながらもレヴィナスは、アンチ意識によって自己哲学を展開させることよりも、受容の時間を前提した生を肯定的に捉えることで自己哲学を出発させていることから、母親が子供を可愛がる本能とも呼ぶべきものを発現させる遺伝子FOSβ等を想起させずにはおかない。

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