Tuesday, November 3, 2009

B名詞と動詞 8-1、抽象名詞の誕生 動詞、形容詞、複合動詞あるいは形容語句から抽象名詞へ

 抽象名詞は動詞と形容詞が、主体となる行為者(自己や他者、第三者、事物)とその他者たる客体、事物、人物が、ある関係の中で育む行為や変化といった現実様相を一言で要約したものである。恐らく最初自己だけであった主語はやがて「あなた」や第三者へと拡大され、最後には人間や動物だけではなく、自然とか宇宙とかの事物、環境、真理にいたるまでを主語にして人間は言語活動において意志伝達するようになって行ったものと思われる。最初にあった主語である自己は、「私」という形で、後に言語活動において、「あなた」や「彼<女>」と並置されることとなるが、そもそも心的には言語獲得する以前から人類には理解されていた認識なのだろう、と私は思う。しかし最初に発話されたものが「私」であるのか「あなた」であるのか、というようなことは最早確かめようがない。従ってただここでは心的には主語が「自分」であるという意識が、言語獲得という集団全体の行為として定着する以前に既に人類に生じたであろうということは、言語行為全体の欲求充足的側面から考えても説得力はある、と言うに留めよう。そして言語行為が全て、その言辞、伝達内容といった全てから自己と他者の社会関係を表しているということは確かである。
 例えば「更迭」は、社会的上位者(主体)が社会的下位者(客体)に対して、その職を解く(動作)こと(行為としての現実様相)である。
 その他にも我々はあらゆる心理的な事柄を一語で表現することが出来る。
 例えば「顔が強張ること」を「顔の硬直」と言えるし、あるいはそういう「顔の硬直」をきたすような心的状態を「緊張」とか「狼狽」とか言う。それらはどちらが先に登場したのかとはなかなか断定出来ない(尤も「強張る」という動詞によって顔を形容することの方が、「硬直した顔」と言うような表現よりは先に登場したのであろうとは推察出来はするが。)し、また問う必要もないだろう。ある意味では同時出現でありつつ、それらを相互に関連付けることを可能にする認識が我々に備わっていたと考えることの方が自然である。
 感情とは、事物や事象、他者に対して抱く快、不快をも含めた実に多様な心的様相がある。その多様性はでは何処から来るのかというと、言語というものの存在があるという事実、つまり語彙使用という現実が我々の社会に抜き差しが難く存在するから、脳神経を肥大化させて、そういった感情の襞を複雑にしていった、という考え方も極めて多く存在する。確かにそういう一面もあるであろう。しかし言語活動そのものが大脳を肥大化させたりした、という事実よりも恐らく言語とはそもそも人間が心的にどうしても、その感情の細やかな複雑さを表現したいというニーズによって必然的に人間の意志が形成させた、という事実の方が大きかったのではないか、と私は思っている。(尤も発端は偶然だったろうが。)
 何故なら、ある感情を何とか他者へ伝えたいという意志は、それ相応の感情の複雑さ抜きには生じ得ようもない。そしてその複雑な思いを顕在化させたという事実(生物学的な進化であったのであろうが)が自己に対して対話する対象としての他者を認識論的に発生させたのではなかろうか?
 我々は通常ある感情を抱く時、それを他者に伝えたいと思う。しかしそれはその他者にそれを伝えれば自己の感情を理解してくれるであろうという目算、あるいは信頼的な推測なしには成立しない。そしてそういった意志伝達の可能性を信じて我々は何かを他者へ伝えようとする。そして我々はその自己の胸中に心的に巣食った思い(感情)を他者に何とか理解して貰おうと、理解しやすいような語彙や表現を探し必死になる。自己の感情の形容語句を探りそれは一語では言い表せないなら、幾つかの単純な語彙を選択し、それを並べ一つの事実を言い表そうとする。そして「巧く言葉には置き換えられないのだけれど」とか言って前置きした後に「~のような気持ち」とか「の時のような気持ち」とか言って表現する。そういう時は大抵その感情があまりにも激烈であるからそう簡単には一言では表現出来ないということを誰よりも自分が一番心得ていて他者にそれを説明しようと試みているのである。
 しかしよく考えてみると、ひょっとしたら我々人類の祖先もまた何処かそれと似た遣り方で最初は少なかった語彙の組み合わせで何とかその時の感情を言い表し、例えば恐らく最初に誕生した名詞を考えると、ある特定のカテゴリー的な対象認識の道具として名指された名辞を主体と客体の位置に使用し、「心が辛い」とか「胸がしめつけられるようだ」とか「胸がときめく」とか「慌てふためく」とか「ほっとした」と表現していたのではなかったろうか?
 ある感情が高まるにせよ、静まるにせよ、まず先験的に我々の日常に存在し、やがてその感情を表現するに適切だと思われる語彙が作られ、そういう感情を抱いた時はその都度その語彙が対応してゆくようになる。というのも「顔が強張る」とか「顔の筋肉が硬くなる」とかいう言い方しかなければ一々手間がかかり過ぎる。「顔が熱くなるような思い」とか「この胸の熱い思い」という心的様相の形容を何とか一語で言い表せは出来ないものであろうか、と恐らく人類の曙の人々は考えたのであろう。
 そしてやがて我々の祖先は先程の思いを「懊悩」とか「苦悩」あるいは「恋」とか「嫉妬」、「期待」とか「狼狽」とか「安堵」と呼ぶようになる。そうする内にやがて人類は脳内にある程度のレキシコン(辞書項目)を持つようになる。それはある感情やそういった日常の思いやそれに纏わる行為とかを一語で言い表わすことの可能な語彙を瞬時に検索出来る対応表のようなものである。だから我々が日頃行っている感情や意志やそれに伴う行為を言い表す語彙の選択は我々人類の祖先がやってきたことの反復なのかも知れない。
 心的様相としての感情内容があり、それに対応する形で形容する語彙が形成される。やがて我々はそういった感情内容を心的様相として抱いた時に即座に(まさに条件反射的に)その内容に対応し、その内容を瞬時に表現するに相応しい語彙を選択するようになる。
 だから当然殆どの抽象名詞はある感情やある意志、ある行為が共同体内で常習的に誰の目から見ても顕在化した時初めて、そういった感情、意志、行為に対応するものとして誕生していったのであろう。それは語彙というものが本質的に何らかの普遍的、日常的な出現頻度に比例してその重要さが認識されていることからも明白である。
 しかし一方で例えば心的様相たる感情内容を直接語る(一々具体的に「胸が熱くなった。」とか言いながら)のではなく、概念間の組み合わせによって言語活動即意志伝達を行うようになって行くに連れ、我々は間接的な言辞に慣れていったのである。メタ認知の発生である。そしていつしか直接的な言辞を避けるようになり、やがて真意をオブラートで包み込むことを覚え、仄めかしを常用化してゆき、その隠喩や暗喩に気付かないような個人を蔑むようになっていったのではなかろうか?こうやってまず言語活動によって社会的な階層性が誕生して行った。それは人間が肉体的な技能だけが共同体のヒーローを作り上げる条件であったことから、そうではない、知恵によって、寧ろ肉体的技能を持つ特殊能力の成員を利用するという政治的な知恵を人間が後に明確に獲得していったことの最初の予兆的な出来事であったのではなかろうか?(現代のスポーツ選手はそういった歴史的経緯を踏まえて、同時に言葉的レヴェルでもヒーローであることが求められつつ、古代的な肉体的技能のヒーロー像をも兼ね備えている。)
 当然のことながら間接的な言辞に慣れている成員は、それについてゆけない成員を間接的な仄めかしで直接揶揄する。しかしあまりにも知的過ぎてその成員は自分が揶揄されたことに気が付かない。そればかりかまた追い討ちをかけるようにそういう非知性を軽蔑的に当人の前で間接的言辞によって嘲笑する。しかしそれもまた当然のことながらその成員は気付かない。そういったことは別の知的な成員の間でも直に評判となっていったであろう。そして暗黙の内にその間接的言辞に長けた成員は知的成員の間でのヒーローとなってゆき、次第に非知的な成員の上に君臨し出す。これが案外最初の官僚の姿、あるいは最初の文民統制の姿ではなかったろうか?
 そういった時代にどれ程の階級性があったかは定かではないが、少なくとも王族とか皇族とかの由緒ある血統すらもそういった言語を通した人心の尊敬心を惹くような知性がその発端であった可能性はゼロではないものと思われる。
 そしてそういった階級性が定着すると今度は感情の襞が複雑化するということがもしあったとしたら、それは知性の顕示が常習化してゆくわけだから、あるいはそういった慣例に対して反感もつのってゆくわけだから、ストレスを社会成員に強いたということは充分考えられる。また慣例化された支配階級の言語行為は実際上言語的な概念間の組み合わせや知的遊戯化してゆく。貴族文化化である。それは洗練された文化的な思考の誕生である。 
 人間はかなり初期から絵画を描いていたと言われる。ネアンデルタレンシスは絵画や彫刻といった装飾品を制作することをしなかった、と言う。すると我々の祖先はその時点で、知的、抽象的な行為を通して自己の内的な欲求を対象化することを知っていたのだ。少なくとも絵画制作を行うことは内的な自我との真摯な対話以外の何物でもない。テクストが高度に文化コードとしての地位を獲得する歴史において絵画的なイメージの追求が初期人類によって既に実践されていることから来る精神的な蓄積からの影響は見逃せない。ミルトンの「失楽園」もプルーストの「失われし時を求めて」とかの文学作品も、どこか宗教的な文化遺産から得られた感性の土壌を感じさせるものは西欧文学では多々散見せられるが、そこには明らかに教会建築と教会壁画やら、美術文化が幼い頃から彼等が目にする生活の一部であったヨーロッパの文明と無縁ではないだろう。そういった茂木健一郎の言葉を借りれば仮想とかクオリア(意識の中に立ち上がる、数量化できない微妙な質感)といったものが人類の曙から見出されていた事実が、言語間の相関的な仮想世界が我々の思考にもたらした影響を考える時、現代の官僚の「前例のないものは認められない」という特権的な裁量意識がどこか感情表現の初期原始的様相から脱却しながら、間接性を保証する形式に縋り出す初期人類のエリートから発しているということを想起させずにはおかない。

 名詞というものは、それを使用する側から心的様相を考えると、ある結論に達した状態の結晶物であることが解かる。動詞は動きを表現する。だから動いているものは、その結果どうなってゆくのかまだ不確実である。その不確実さの中で我々は動きや変化を追うこととなる。だからそういう状態を指示する言葉を使用する時我々はその動きや変化を心的に再生して使用している。これに対して名詞は仮にすさまじく変化をきたしどうなってゆくのか解からないような動きや状態であったとしても、それを過去の出来事(つまり既に過ぎ去った、終了し、結果を見せて完了したものとして)として一刀両断に、その出来事を定義し、命名している。政変、殺人事件、大地震、株の高騰、結婚、離婚。名詞は過去のものとしてある動きも変化も全て総括して語る品詞である。
 そもそも初期人類は言語を有してはいなかった時、他個体とどのように意志伝達を図っていたのかということを考えると、恐らく我々の表情筋というものが他の類人猿よりも発達しているところを見ると、表情による挨拶程度のものだったのであろう。そして品詞として最初に登場したのは名詞であったことであろう。何かが欲しい、何かをあげる、というような物々交換とか贈答品とか、あるいはネガティヴなこととしては他個体(他の成員)の私有物を窃盗したり、略奪したりというような様々な行為連鎖の中で事物、所有物に関してまず動詞も形容詞もない内から事物のカテゴリーの極日常的なもののみに限定された名詞が発達していったのではないだろうか?勿論私有物や時には共有物(共有物は共同体が発達してゆくに従って私有物を押し退け、肥大化して行ったかも知れないが、それ以前にはやはり私有物というものは、他個体に譲りたくないものとして、自己固有の発見物としてあったのではないだろうか?)としての生活必需品だけが名詞として名指される対象となる。言語はその名詞一語をもってあとはパントマイムである。仕種による表情と連動したコミュニケーションである。例えば最も顕著な生活必需品である共有物は自然である。太陽を見て夏のぎらぎら照り付けるそれを仰ぎ見て昔の我々の祖先は鬱陶しい表情を他者に見せて、その太陽を表わす何か語彙一言で「暑い、たまらん。」ということを伝え合っていたのではなかろうか?(だから「太陽」という名詞も自然への感情表明的な形容が基本にあったとも考えられる。)
 こうやって初期意志伝達が為されてゆくに従って、同じように繰り返される動作が命名されてゆく。それは人間のすること、狩猟対象たる動物のすること、あるいは太陽や月や雲が見えたり、隠れたり、既に名指されていた山や海や川の様子を一言で表わす動詞と形容詞が極簡単な日常的なものから発生してゆく。動詞は初めて今現在、名指された事物が変化したり動いたりしてゆくその様を表現することが出来たのである。しかしそれにも増して形容詞の誕生は心的様相を表情と仕種によってのみ表現していた人類にとっては革命であったことであろう。小さいとか大きいとかは最も基本的な形容詞である。しかしそこにすら実は相対的な考え方が潜んでいる。小さい人間にとって彼(女)よりある他者が大きくても、その他者よりも大きい人間にとってはその小さい人間にとっての大きい他者は小さい。このような物理的条件を形容してさえ、我々は主観的な尺度で事物を見ているのである。するとこのような物理的な形容そのものさえ主観的であるという事実はやがて、もっと主観的なこと、心の中のこと、目には見えないけれど厳然と我々の日常に巣食っていることを表現する可能性への発見へと繋がってゆく。その時初めて人は自己の内面を他者に伝えたい、他者の内面を知りたい、という欲求を目覚めさせたと言っても良いかも知れない。動詞だけではなく形容詞が出現しなければ、きっと抽象名詞は出現しなかったであろう。動きや変化を表わす抽象名詞は勿論便利である。しかし固有名詞と動詞さえあれば何とか今日我々が使用しているような形での抽象名詞は、それほど必要はない。「変化」とか「動勢」とか「推移」とかは、形容詞や複合動詞が発展した後でゆっくり進化しても遅くはない。それらは寧ろ何らかの専門家集団の社会的な出現の後であったと思う。しかし、暑苦しいとかの形容詞は日常的な天候に左右される初期人類にとっては死活問題であったろうし、また避暑、防寒という現実にはなくてはならない伝達事項であった筈である。また体調不良を伝える必要性や、次第に社会化してゆく原始共同体にあって、我々のその社会へと対応してゆく際の、他者と交流する際の心的なストレスや異性間の感情的な様相は他者へと伝達すべきであるか否かを問わず人類にとっては重大なことであった筈である。そこでもうその時期には精神病も哲学者も人類には誕生していたと思われるが、まず内面を表わす初期の単純な動きや変化を表わすものではない複雑な様相の動詞も形容詞と共に発展し、やがてそれらを一語で表わす「恋」、「嫉妬」、「憎しみ」、「愛着」、「敬遠」といった語彙はそれなりに皆の心中に宿るものとして他者、と言っても相互の心中を語り合えるほどの親しい間柄においては使用されていたであろう。真意を伝え合う仲と、あるいはそういったことは差し控えるが公的には重要な仕事仲間(そういう他者には体調のことなら伝え合ったであろう。あるいはビジネスに関して天候のこととか同業他者のこととかも語り合ったであろう。)との間で取り交わされる両方の会話の質的な相違、使用される抽象名詞の相違は出来てきたであろう。恐らく仕事仲間との間では専門用語(名詞、動詞、形容詞)が発達し、親しい間柄、血族を機軸に近隣の住民との間では私的な語彙が発達したであろう。勿論そこで名詞、動詞、形容詞は全部同時に発達したであろう。
 抽象名詞の発展は恐らく詩人や文学者、哲学者の出現を大いに促進したであろう。官僚たちの使用する専門用語(抽象名詞を駆使する)と彼等の使用する専門用語は当然共通するものも多かったであろうが、本質的に体制的であろうとする成員と、そうではなく反体制であろうとする成員の差はかなり初期の共同体から存在していたのではないだろうか?勿論最初は反体制から出発しても後に体制へと移行した成員は多かったであろうけれど、少なくとも詩人や文学者たちは反体制から出発する者が多かったのではないだろうか?その中でもとりわけ才能のある者が官僚たちから推挙された支配階級へと上り詰める。その中には官僚をさえも凌ぐ勢いの者も大勢出現したであろう。また全ての語彙が、それは名詞であろうと動詞であろうと形容詞であろうとだが、同じ階級や限定された支配階級からのみ伝播されたとは考え難い。というのも「断念」、「怨念」、「辛抱」といった概念は、勿論知的階級が産出したという部分も中にはある(支配階級内での軋轢というものはあったであろうから)であろうが、勝者の側からよりも敗者の側から捻出された語彙である可能性の方が大きいと思われるものも多いからである。(精神的な語彙、「卑屈」、「苦悩」や「懊悩」等は支配階級の中でのストレスから発生した可能性があるけれど。あるいは「挫折」、「隷従」とかは支配階級でも隷属階級でもない中間層の発明であった可能性もある。というのも他者の敗北を客観的に見据えている感じを受けるからである。)
 勝者の側、支配者の側にはそれなりの、彼等に相応しい語彙というものは発達する可能性がある。雅な語彙「美しい」、「尊い」、「清廉」といった語彙である。しかし敗者の側から発生したのではないかと推察される語彙は「陰口」、「冷厳」、「揶揄」(これは官僚階級から生み出された可能性もあるが)、「冷酷」といった受身的な発想からの語彙が多かったのではないか?
 兎に角我々の祖先は抽象名詞の出現を持って自己の内面の吐露と他者の心を推し量るという新たなフェイズを経験したのであり、それは「この胸のはりさけそうな思い」とか「後味の悪い思い」とかの心情を一言で表わせる(例えば前者は「懊悩」、後者は「後悔」と言うように)ようになってから、人々の意志伝達が生活生存に必須のミニマルな語彙のみの会話であり、それが生活手段だけであった段階から、会話すること自体の目的性の発見という段階を持って我々は形而上的な思惟に赴くことさえ出来るようになった。というのも支配階級の悩みやストレスなどは、もっと初期段階ではあり得なかったであろうが、敗者の中にも幸福者はいたであろうし(清廉な者、高貴な者もいたであろう。)、その逆に支配者の中にも自殺者は出たであろう(中間層から見て挫折した上位層、辛抱している上位層はいたであろうから)から、そういった形而上的な存在と化した人間は初めて自己と他者という連関の中から、社会的な思考者になったのである。
 言語は自己が他者とかかわり自己の立場を他者に理解して貰いたいという欲求や、他者の真意を知りたいと願う心理のない状態からは誕生し得ない。ある感情に対してある語彙が対応するということは太陽とか川とか空といった極基本的な名詞でさえ充分過ぎるほどある。それらが初期人類にとって最も重要(今日においてさえ実はそうである。)であったから公共的云々以前の問題としてそれらが最も初期に語彙出現した可能性は絶大であろう。しかし人間はその太陽、川、空の下に思考し、早く晴れにならないか、雨が降り続けて「憂鬱」だとかの心的様相を自覚していたであろうから、その自然条件の中で右往左往する人間の心理をまず形容して、その形容を一言で言い表せる語彙が形成されたとしても不自然な考え方とは言えまい。抽象名詞の誕生は運命共同体として初期人類が同一環境に立たされた成員間の協調が生まれた頃同時にその協調が他者と自己との関係でなされているという自覚が発生することで、自己の内面の孤独を他者もまた同じように所有しているということの自覚も芽生え、その時初めて言語を持つことが社会意識を持つことであることに鮮明に重ね合わせられるようになる高次の意識や自覚を人類は持ったのではないだろうか?
 
 しかし抽象名詞の誕生はかなり人類において自我が目覚めてきてからの歴史であるであろうから、それ以前のもっと原始的な段階から考えなかればならないであろう。その意味では動名詞が出現したことが一つのエポックであったろうことは容易に想像される。というもの動名詞が単純な抽象名詞とどちらが早いかは推測の域を出ないから差し控えるとしても、勿論基本的な動詞自体よりは後であったであろうし、また動名詞以外の日常生活において必需的対象以外の複雑な固有名詞に比べればもっと前であろうし、勿論「山」や「川」(とは言っても海を見たことがない社会においては海という語彙は発達しなかったとかのことは極初期にはあったかも知れないが)よりは後であろう。あるいは海や川それ自体に固有名詞がつけられるのは世界そのものがずっと拡張された後のことであろう。
 そこで抽象名詞が出現することの基礎段階として動名詞が誕生した経緯について考察してみよう。
 動名詞は一々何かを他者へ報告することが共同体内で常習化された時に誕生したと思われる。なぜならそれは叙述において節を作ることなく動作を伝えることが出来る。勿論過去事実としての動作をである。次のような文章を考えてみよう。
 
彼が動いた。その時私は隣にいた。そしてそれを私は見た。①

これを短縮すると、
 
彼の動きを隣にいた私は見た。②

となる。この短縮はこのような単純な文章ではなくもっとそれが複雑になればなるほど便利となろう。事後報告的言辞が常習化する過程には共同体機能の進化過程が関わっているであろうが、報告は社会的上位者が下位者に命じ、それに答えて下位者が上位者へと滞りなく伝えるものである。しかしこの動名詞が与える印象は短縮されたということばかりではない。もっと本質的な相違がある。それは特に①と②の差で明らかであるが、②は①の過去事実報告が持つ叙述の再現前化作用を剥ぎ取り、最も必要な事実内容だけを伝えているということである。①の文章の方が遥かに臨場感はある。一つ一つを区切って言い表すと、一つ一つの行動が手に取るような了解される。その時間系列も明確だ。しかし上の文章は次のようにも言い換えられる。

彼が私の隣にいた。その時彼が動いたので、私はそれを見た。③

この文章では彼と私の位置関係に関しては最初ものよりも明確である。そして行為の因果関係もはっきりしているし、時間的前後関係と行為の連関的な秩序もはっきりしている。しかし①の方が彼の動きに関しては(彼が動いた事実)強調されている。逆に③では明らかに私が彼の動きに対して採った行動、見るという行為に関しては強調されている。あるいはそのような彼が動き始めるまでは彼の隣にいてもそれほど彼の挙動に関心を示してはいなかったのに、突如彼が動いたのでその動きに注目し隣に振り返った感じがよく表わされている。
 恐らく抽象名詞は基本的なものに関しては割合早くから必要に迫られて捻出されたであろうが、複雑なものになるほど叙述の際、時間短縮の意味合いから作られていったのであろう。それは端的に報告義務に付帯する必要性からのものである。
 しかもそのようにしてその複雑な行為や感情を表わす抽象名詞の存在に対する知識の有無がやがて社会階層的な差異を創出するのに一役買っていったであろうことも容易に推察される。そして単純な抽象名詞と恐らくほぼ同時的に動名詞が発達され、形而上的な内容の対話を発展させながら、その形而上性にとっては取るに足らない事項を短縮する為に用いられたのがまず動名詞であった、ということではないだろうか?つまり本当に言いたいことを強調する為に些細なことは短縮して伝えようという意識が生じだしたのである。
 「動く」があって初めて「動き」が意識される。動名詞はその文章の節が増えれば増えるほど簡略化が要求される。「動く」は動詞だから叙述の動的様相示唆的であるが、それを「動き」にすると途端に事実確認的、報告意志表明性が顕著となる。事実として叙述された例えば「彼の動き」等。その叙述においては、話者がそこにいたこととして語られていても客観的な様相を帯びる。第三者的な視点が導入される。それに対して「彼が動いた」とすればより臨場感、その彼の動きを直に目撃してその場で第三者に伝えているような様相となる。それは事後報告の再現前化作用である。恐らく動名詞は報告という行為が定着してから使用されだしたのであろう。報告には臨場感とか再現前化とかよりも事実確認的であり、また客観的明示性の方が尊ばれたということではなかろうか?あるいは動名詞はエクリチュールが発達するに従って必然的に使用頻度が増したという風にも考えられる。というのも事後報告的である場合それがある下位者が上位者へ伝達する場合は臨場感よりも客観的で明示的である方が都合がよい。また法律その他の公式文章でもその方が都合がよいということもあり得る。
 少なくとも「動き」は「動いた事実」申告のための言い方である。そのような事実描写において我々は、それを伝える者がそこにいようがいまいが、その「動いた事実」だけが重要なのである。しかし「動いた事実」は「動いた」だけだと、臨場感はあるが、「動き」のように対象化されることよりもそれを「目撃した事実」に対する表明性に、あるいは再現前化による描写に力点が置かれるから具体的ではあるが主観的、映像再生的である。その「動いた事実」に対してどのような主観を交えるかという観点から言えば、行為者(目撃者)の主観の有無に力点が置かれている。「動き」ではその事実が真理として結晶化されているから事実対象として我々はその例えば「彼の動き」の意味するところだけを考えればよい。そこにはその「彼の動き」を、目撃していたかも知れない話者(伝達者)の主観がどうであるかというようなことは敢えて話者の側から回避されている。だからもし話者がそこにいたかどうか予め伝えていたとしたら、「じゃあ、その時どんな感じがした?」とか「どんな印象だった?」というような質問が聴者から出されても不自然ではない。だが得てして会話では「彼が死んだ。」という叙述がまずあって、その後でそのことに関する話題が続行されてゆく時に初めて「彼の死は無駄ではなかったよ。」とかの言辞が登場するのであり、そうではなくていきなり「彼の死は」と言うような場合は、その話題の中心である「彼」は大分前に死んでいるか、最近であるとしてもその話題に触れる話者、聴者双方にとっても自明な現実である場合のみである。しかしエクリチュールにおいてはいきなり「彼の死は周囲の人間には大きなショックを与えた。」というような陳述が差し出されても全然不自然ではない。(特に小説の書き出し等においてなどはそうだ。)
 動名詞が登場してから報告に関する客観性は獲得された上、短縮される意味合いでもより複雑な陳述が可能となったであろう。勿論短縮されたのは日本語の場合だけではない。何故なら英語では必ずしも動作名詞がその動作を表わす動詞と同じ語彙とも限らないが、仮にそのような場合でも動名詞はmoveに対してmovingという風に言い換えが可能であるし、一々それに対して時制を調整する必要もない。move に対しての動作名詞はmovement、あるいはremoveに対しての動作名詞はremovalで、それらは皆慣用規則的であるが、そのような対応のない場合でも動名詞や不定詞としてそれを叙述することは可能である。つまり動名詞使用に纏わる利便性は言語使用者にとっては極めて大きかったのである。そういった動名詞の使用頻度は恐らく抽象名詞をも同時的に発達させたであろう。それもまた時間的な短縮であると共に動作の連動、複合動作、複合名詞(抽象名詞同士の複合)の誕生は内容的な描写において具体的形容や具体的説明を省くことが出来る。それはやはり客観性導入という視点からは欠かせない用途であろう。
 私は本章において何気なしに動名詞と呼んできたものは日本語では動詞活用形の一つである。動名詞という言い方は英語の品詞等に特有のものである。しかし通常我々は「動き」を動詞としてよりは名詞として使う。普遍文法的な視点からはこれは明らかに名詞の心的様相において使用されている。普遍文法という考え方はチョムスキー等によって彼の生成文法同様今や常識となっているが、英語においても抽象名詞の歴史はあるし、動作を表わす名詞と動名詞とがあるが、今本章で論じてきたものは英語では動名詞とも重なるが、moveの名詞化をmovementと言うようなものも含めてのことである。もっとも英語にはこのようなもの以外に動詞と名詞が同一の意味で対応しているものと、そうでないものとが動詞、名詞どちらかにあるものもあるし(change、openなどこれが最も多い。)、また全然違うものもある。また微妙に異なった意味を生じるもの(move)もある。しかし動名詞は日本語で「動く」を「動き」とするような意味でならmoveをmovingとすることは全く日本語と対応しているとしてもよいであろう。

 柳田國男が編纂した民話世界は古代から綿々と語り継がれてきた民間伝承の底力を我々に気付かせてくれた。それは今でも多くの読者を持っているが、今日のように誰でもが容易に自己の意見を発言するというようなことのなかった時代には自己という観念は民間という観念に埋没していたのではないだろうか?それは自己がなかったということではなく、自己を埋没させることが常套的な生活上の知恵であったということであろう。すると我々はこの民話世界において今日から見ると没自我的な民間性は寧ろ最大限の民間同意事項に思えてくる。支配者やそれへ阿る追随者の下すあらゆる制裁措置はやがて民間では、その犠牲となっていった犠牲者の鎮魂の情を語り伝えてゆくこと、勿論そこには支配者の愚行や支配者でありながら脱落していった人間たちも同等にモティーフとして扱いながら、それら一切を人間の原罪として語り留めるという意識があったのではないか?それが誰もが自由に投稿し、ブログを作り参加して自己の意見を発表出来る立場にはなかった時代の声だったのではないか、と余り民俗学に精通していない私は考えた。しかし民間伝承は、それ自体は書の形で残されていたわけではなかったから、一人一人語り継ぐ人の個性によって異なった様相で語り継がれたに違いない。しかしどこか一点でその内容の焦点となる教訓や物語的な見せ場を持ってそれさえ守れば各々が自由に語り継いでゆく。そのような語りの中には色々な、それこそ本論で例証してきたような言辞、陳述が盛り溢れていたことは容易に察せられる。しかし民話の成立前提たる意味が損なわれない限り、全体的な構成が極端に変更されない限り、それらは皆どのように解釈されても自由であったことを考えると、それらの民間伝承はパロールで語り継がれたものでありながら、完全には発話上の自由であるのではなく、寧ろエクリチュールの、発話される記述として捉えられねばならないであろう。語り部とはそのことを最もよく承知した専門家であった筈だ。
 それは意味論の世界での変数である。定立、前提条件さえ同一であれば、その中での変数は如何様にも振幅が持てる。だから当然柳田の解釈は彼独自の民話である。他の民俗学者によるものはまたその人のものである。そういう変数的な振幅を許す意味とは一体何なのであろうか?本論で挙げた多くの例証された文章もとどのつまりは、東京へ仕事で行った「私」の過去事実報告でしかない。それが楽しかろうと、そうではなくてもやはり厳然と同じ事実の記述である。ということは、我々は生きている瞬間にはそれがどのように事実報告自体が受け取られるか判然としない、つまり他者が自己の報告から何を読み取るのかは解からない(未来のことは不確実であるし、他者の心は超越的に不確実である。)という不安を持って各瞬間を生きている。ある陳述がある言辞によってもたらされるということは言い換えれば、同じ東京に仕事で行った事実を語る語り方やそれを言い表す文章をその都度限りない変換可能性の中から選び取っているということを一方では物語っている。それらは民間伝承のプロセスにおいて幾多の無名の個人がそれ以前の時代から語り継がれてきた物語を更に自己の子孫の世代へと語り継ごうとする時の言葉の選び方、言辞の選び方、発話される記述様式、記述機会、記述方法の選択行為が無数になされていったということに他ならないであろう。試験官(面接官)と相対して面接官の質問に答えるその仕方に内在するあるゆる選択肢から一言辞、一陳述を選び取る瞬間的な判断に人生の全ては集約されるし、充実、不充実、後悔、非後悔もそこに掛かっている。
 言語というものがそのようにして語り継がれてきたのであるなら、我々は抽象名詞を創出してきたそのプロセスで幾多の無名な語り口の妙、今のように録音、録画装置や設備があればきっと素晴らしい物語りが聞けたであろう、と想像されるそのような語り口において自由に飛翔される個々の物語の断片は幾つかの点では抹消され、幾つか点では生き残り、時代的な推移の内に選択されていったであろう。抽象名詞の成立は、だからある意味では抽象性への埋没と共に個々の語り口の妙を抹消してきたプロセスという風にも捉えられる。それは概念の成立に伴ってなされる個的意味の喪失である。
 柳田國男が示した民話編纂は故にそういう無名の声の、無名の語り口の一点に概念化された民話の意味(個々の意味の総意)の現出作用であり、個々の声の凝縮である。そして抽象名詞はそれほど登場しないけれど、その民話編纂意図において抽象名詞の存在と酷似している。抽象名詞は意味の凝縮である。それは柳田が示した民話世界の個々の物語に脈打つ構造である。抽象名詞がそのようなものであるなら、それが民間の総意で語り継がれる一貫した物語であったように成立へと至る名詞成立の旅があった筈である。そこには例えば「憎悪」という観念が成立する為に必要なあるゆる道具立てがあった、ということである。姦淫や窃盗、裏切り、放火、殺人といったことが行われたということである。しかしそれらは自分の目や耳で見聞きしたその現実感から各々の成員が総意として築き上げたものであろう。その過程では「憎悪」の余りない状態もあったであろう。しかしある時その沈黙は破られる。そしてそのことへの驚愕がそれを一言で表わす語彙を求める。そして「憎悪」はいつの間にか定着する。「愛」もまたそれがそう簡単には見出せないからこそ、それが見出された時の喜びから命名されたのであろう。古代には恐らく「倦怠」というような概念は今日のように多くは感じられなかったのかも知れない。しかし語彙として定着する以前からそういう感情は恐らくあっただろう。しかしそれを語彙化する余裕は支配階級にさえあったかどうかは定かではないが、私はそれを言語化する以上の外的な脅威や驚異が大きかったと想像する。(あるいはほんの一握りの支配者だけが感じた感情であったかも知れない。しかしそれは支配者から被支配者へは言い伝えてはいけなかったのであろう。)今日では寧ろ権力者以外の一般民間人が最も倦怠を多く経験している。それはそれほどの社会的地位がなくても死活問題ではないほど生活的なレヴェルが向上したからである。

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