Thursday, November 12, 2009

C翻弄論 7、贔屓の基準におけるさまざまなレヴェルと私

 贔屓の政治家と尊敬出来る政治家とは自ずと異なった位相からの選択基準である。というのも贔屓の政治家は、「理解出来ない」ということも時としてあり得るのだ。「理解出来る」ことが贔屓であることと重なれば最もその政治家を支持するための基準としては文句ないわけであるが、時として理念的、信念的には「理解出来ない」部分があったとしても尚その政治家を贔屓にしたいという心情はある意味では論理を超えた心的様相である。それは好きな映画や好きな音楽が理屈で好きであることの理由を見出すことが不可能であることと同様である。それに対して尊敬出来る政治家とは贔屓な政治家ともまた異なっている。「理解出来る」心情とは信念的な理念性や理性論的な判断で正しいことと思われることを遂行する政治家であろう。しかしそうであるからと言ってその政治家が好きであるとは言えない。贔屓ではなくても「理解出来る」政治家はただ単に尊敬に値するに過ぎないのであって、そういう政治家に対して我々はただ尊敬するものの、支持をしようという意識には直結しないことも大いにあり得る。またそういう風に「理解し得る」対象とはそれが同時に贔屓にし得る要素を見出した時にこそ支持したいという意志を抱くようになるものである。名優であったと「理解出来ても」好きではない俳優の主演映画を観たくはないと思うのと同様である。この「理解出来る」ものの好きではないというものの対象としては学者、論文といった左脳的な判断において顕著な場合も多いと思われる。
 しかし我々はここで贔屓であることの心的様相が共同体とか組織において構成される部分から考察してみなければならない時を迎えたようである。
 贔屓感情が構成される私的な心的様相には次のようなパターンが考えられ、どのような感情もそのいずれかに属することとなるのではなかろうか?

1、共同体成員としての「私」にとっての「私」
2、「私」以外の全ての同一共同体成員間で通用する「私」(他成員にとっての「私」)<自己の性格的傾向性による判断>
3、共同体成員を意識上離れた時の「私」にとっての「私」
4、同一の組織の中の「私」
5、同一の職業、業界の中の「私」

1における心的様相において我々はオリンピックで自国選手を応援し、地域共同体において同一地域居住者同士、同郷出身者同士における共感を抱く。特にオリンピックで誰かを応援する時自国選手以外の選手を応援する場合とは大概、自国選手が敗退し、その自国選手を負かした選手(外国人の)を応援する場合と、自国選手が出場していない場合に自国選手以外の外国人選手、あるいは外国チームを贔屓感情で応援する場合のみであろう。そういう贔屓感情とは前者の場合は1における敗北ケースにおける代理感情であり、後者は個人を応援する場合のみ3の心的様相であり、外国チームの場合は自国にとって贔屓出来るという意味において1における心的様相を主軸としたものである。
 2は贔屓の政治家(同一国内のおける)、タレントへの共感感情である。客観的に他者から見た私の性格が判断する傾向性である。しかしそれは私自身から見れば他者から見たそれとも異なった実像として立ち現れているものである。その違いの部分から鑑みた判断は3に属する。2の判断の中には映画や音楽に対する嗜好も入る。また3と5は共通するものがある。3は尊敬する学者、政治的信条、道徳的信条といったものが含まれるが、5においてはそれが同一職業における「理解出来る」こと(能力)である。3は宗教的な感情や共感のようなものも含むから、そこでは同一共同体以外の人間関係が基本となっている。しかもそれはただ単なる帰属意識ではなく、同一思想における共感とか(例えば時代が異なる偉人に対する共感とかも含む。)同一意識の共有性が基本となっている。同一職業においては理解し得る部分があるが、それは理念的なものであり、贔屓的であることは少ない。4は同一共同体以外の法人、会社、同好の会等の帰属意識である。
 「好きであること」と「理解出来ること」とは違う。前者は2の判断であり、後者は3の判断である。しかしこの二つは同時に「信じること」に絡んでくる。これは信念へと直結するものである。「好きであること」を通して「信じること」へ至る場合もあるし、「理解出来ること」を通して「信じること」へ至る場合もある。しかしこの両者に明確な境界はない。両者は多分に重なっているので、その配合の加減には「好きであること」という贔屓感情が大半を占めている場合もあれば、そうではなく「理解出来ること」という判断、つまり「正しいと思うこと」が大半を占めている場合は、理性論的に<分析的に>真理と捉えられること以外の何物でもなく、これは信念であることの内でも、信条とか理念といったものとしても捉えられるものである。
 概して「好きであること」に理由を見出すことは難しい。というのもこの判断は分析的であるというような左脳的な判断ではなく、あくまで右脳的な判断であり、<先天的に>受け入れられるか、そうではない相性の問題であるからだ。 chemistry という単語で表わされる理屈とか論理ではない判断を人間は往々にして正しいものであると思いたがる。それが正しい場合もあるが、そうではない、とんでもない勘違いである場合もある。
 この両者の鬩ぎ合いに今度は経験という事項が加わって再び複雑化の様相を呈する。「好きであること」で判断して正しかった場合の多かった人間は贔屓感情で物事を判断することが間違いないと考えるし、逆に「理解出来ること」で判断して正しかった場合は贔屓感情を抑えることによって正しい判断がなされ得ると考える。しかし実際問題として、贔屓感情というものさえも、「理解出来る」ことの蓄積、つまり理性論的判断の経験的な積み重ねから構成される場合も多い。つまり綜合的判断が分析的であるような判断を恒常化させるということである。あるいは「好きであること」の絶え間のない連続がやがて「理解出来ること」を確固たるものにしてゆく場合も多い。するとこの二つの判断は常に相補的であるとも言えるわけだ。そして両方によって「信じること」へ至るものたちが、再び「好きであること」とか「理解出来ること」とかへとフィードバックするということもある。ここでは脆弱な「個」である私という存在が、理性論的に言えば「理解出来ること」を優先すべきであると判断したいのだし、逆に感性論的に言えば、それを現実離れした観念論であると言いたいのだ。だから何を基準に「信じること」を認識するかによってこの二つの判断分析概念はその配分を変数的な役割として可変性を生じさせるのである。
 だから我々は贔屓の政治家をその欠点をも含めて熱烈に支持するという行為において何の不思議さも見出すことは出来ないであろうし、逆に理性論的に判断して個人的な贔屓感情を排するべく必要性に覚醒することだって大いにあり得るわけである。そしてこの二つの感情、判断には境界はない。
 しかしギャンブルやゲーム(オリンピックやワールドカップ、日本シリーズ、大リーグ、大相撲とかのスポーツ<プロ、アマをと問わず>も含む。)、各種勝負事で敗退し、そのことについて反省する(何故敗れたのかと)ことにおいては、結果の出たことについてその結果やプロセスを再生させて、反省対象を見出すことは、<行為=目的の手段化=過去化>としての、<現在における過去目的手段化=現在の行為の遂行>という不断の連鎖が日常であるなら、未来への教訓として必要不可欠な現在における反省という思惟は<行為=未来へ向けられつつ現在自体が目的>という位相へと我々を差し向けるのである。

 ここに来て日本国民が、一人の強力なる政治的指導者に惹かれていったこと、そして200X年夏の総選挙において、その総決算的な勝利を手中に収めたK泉前首相を巡る選挙への問い、そういう風に惹かれてゆくことである政治家を支持することは決して否定すべきことではないし、それは理性論的な集積による贔屓感情であるとも言えようが、警戒しなければいけない場合もある、と結論出来るように思われる。そのように反省し、有権者の心的様相を考察し、過去の行為を現在の目的性探査のために考察し、過去反省、再認、過去に対する歴史認識的言及行為の目的性維持の為の手段として従属させることは意味あることである、ということは証明されたのではなかろうか?
 そして何か強力な魅力を発散するものについ追従してしまうということには、まるで托卵するカッコウに利用される別種の親鳥がカッコウの雛独自の誘引作用に自ら進んで欺かれているかの如きケース同様何らかの我々の中にある共時的社会における運命共同体意識とも相通じる(まさに外国人投資家さえもが、日本金融市場への不信感からLDショックで、日本企業株を売りに走る意識を構成するところの)原初的群集心理を惹起するどうしようもない我々自身の本能があるのではなかろうか?(このことは後で詳述する。)
 その狼狽を構成するもの、恋は盲目状態を構成するものは個人差もある。理性論的判断をこういう際には決まって適用しようと心掛ける判断もまた個人の性格遺伝子的な傾向性にも依拠していると言えよう。そしてそれとは逆に惹かれるものに対しては多少心許してもよいのではないか、と考える(つまり格律の中でも他律的な傾向性を発現させる)場合も同様である。そしてこのどちらを主体的選択であるかどうかを判断することは難しい。というのも政治的理念理性論的、自由意志的判断というものもあるであろうし、どんなに名優であると思われるアクターが主演の映画でもその主演アクターが好きではなかったならその映画を態々見にゆかないという判断にも通じる相性直観的判断の方こそ正しい判断であり、かつ自由意志であると言い得る場合も多々あるからである。
 結論的に言えば、私は「個」とは本来脆弱なものではないか、と思っている。例えば市場での狼狽売り等に見られる非主体的なる「個」は市場全体が脆弱な「個」を前提しているとも言い得るではないか?そしてそれは今回の外国人の日本株売りにも端的に示されているように、日本人にのみ見られるものでは決してなく、ほぼ全ての民族に見られるものである、と思う。昨今ではイスラム教徒たちがムハンマドを風刺したデンマーク人に対して怒りの矛先を大使館等に向けたものもある種の集団ヒステリーとも受け取れる。しかし我々は本来脆弱な「個」の保有者なるが故に、理性とか自由意志とかいうものを価値論的規範上のものとして見出してゆこうと常に試みるのではなかろうか?(この論文は三年前くらいに書いたが、現在でも同じ状況は多々見られるのではないか?)

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