Thursday, November 19, 2009

C翻弄論 7、敬語の発生、人類歴史学的思考実験、

 敬語というものについて考えてみよう。我々が常に強烈なる「個」にのみ依拠しなければ価値的生ではないならば、挨拶同様、敬語(あるいは敬称)の持つ権威、権力容認、追従型のスタンスのその全てをも排除しなければならなくなろう。権力を容認出来ないならば敬語も敬称も使用するということは野生論的な真意表明欺瞞性の排除を目指す観点から、廃止すべきものである。しかし明らかに我々は社会で生活する上で主体的にこの種の慎みある「個」を採用してきてもいる。真意における強烈なる「個」は控え目に内奥にしまい込めというわけである。実際それが改革的、革命的攻撃性の抑制力として作用しているのであるが、我々は内奥的真意を表立って表明しないように努める。
 敬語の使用とはある意味で話者として相対する者が上位者であれば、謙りその者に対する敬意を表明することであり、それ自体で行為遂行的発言である(オースティンの提唱した概念)。しかしそれは極めて慣習的、殆ど全ての人間が生活上の知恵とさえ呼んでよい行為である。これは原初的には(言語獲得の初期から敬語が形式的に存在したとは言えない気がする。敬語はある種原初的権力の確立とそれに対する忍従が恒常化した末の人間の共同体的決断であると思われるから)最初期の行為遂行的発言(発語内行為の名残である、とも言えよう。)であり、意思疎通を円滑にするために運用される潤滑油と捉えてゆくことは至極順当な判断であろう。
 「個」は脆弱であるのが本性である。故にそれは意志、主体的理性論的選択が価値論的に権利問題として、あるいは我々自身本来的に発現可能な能力として認識されるべきものであり、事実そうであろう。あるいはこの発現可能な認識能力の故に人類は言語活動を営んできた、と考えることも可能である。そういう認識において、この潤滑油を寧ろ強固で堅牢なる「個」確立の為の意思表明、躊躇、抑制志向型で、建前主義的な全共同体成員のプライヴァシー保有の権利問題として捉えてもよいのではないか?
 というのもここで全く敬語のない社会があったとしよう。敬語はないのに権力と権威が存在するという状態を考えよう。すると権力を持つ側の人間(政治的、資本力保有いずれのケースにおいても)から、そうではない非力な立場の人間への糾弾が続出するのではないか?所謂権力の側からの切捨て御免的行為が横行するものと思われる。そこで我々の敬語の使用はこういう事態を未然に防止する為にとりわけ権力非保有の成員のプライヴァシーを護り、トラブルなく人生、生活を送る権利の付与が生じさせた方便ではなかったろうか?
 ここにおいて共同体内の挨拶や敬語に纏わる群集の原初的欲求は権威から寧ろ自己のプライヴァシーを護る意味合いがある、と考えてもよいのではないか?群集心理は全て否定すべきものではなく、肯定的に弱者的立場の成員の自己防衛策としても有効に作用するものであった、と考えたいのである。
 そういう意味において謙譲や謙遜といったものは一面では群集が抱く自己防衛本能を前提とした成員間の脆弱な「個」に対する保護主義的な欲求の表出である、と考えられないであろうか?
 言語活動そのものが脆弱な「個」の集合体である群集に一定の秩序を付与し、そのことで不安感を解消させる意味合いもメッセージ論的にはあったとも考えられる。その際に情報伝達以外にも他者の身体上の健康や心理的な状態を確認し合う労わりや敬意の表明は、ついぞ権力や権威を手中に収めることなく終わる多くの民衆の権利を保護する目的を巡るある種の方便(手段)であったと捉えることが可能であるなら、それは一体誰が考案したのだろうか?ア・プリオリに庶民全体であったのであろうか?それとも賢者であった権力者の側の知恵者だったのだろうか?それとも庶民を代表した者であったのだろうか?
 それは人類学上の歴史的な問題であるが、恐らく庶民、民衆の側にある賢者がいて、そういう人間が実力者や権力者の横暴を防いで、あるいは温和な性格であるために権力者の労と重責を慮って庶民に指導した結果であったであろうと思われる。そしてそのような形で権力の運用が滞りなく進行することで、賢者は改めて権力者(初期人類においては実力者並びにそのОB)の側から抜擢され、官僚となる。初期官僚の誕生である。
<権力者に忠実で彼らから愛される腹心である官僚が敬語を庶民に指導(啓蒙)するという形が最も敬語定着過程で自然な成り行きではないだろうか?そしてもしその発案者が庶民の側からだとすれば、その者は巧い発案であると権力者から感心され、寧ろ即刻部下として重用されたと思われるからである。ただ愚かで非力な権力者に対する崇拝者集団が同時に考え出したとは考えられない。と言って権力者自身が庶民にそれを強いるという図式も、どこか庶民の自発性を削ぐように思われる。庶民が自発的に敬意を持つように促すことが最も敬語定着において考えられることであり、かつそういう発案指導者は権力者ではないが、一般庶民よりは権力者と接する機会の多い官僚的立場の人間であったと考えるのが自然であるように思われる。そういう中間層は最初から存在したというよりは発案指導において権力者に認可された特権階級化していったと考えても矛盾はないのではなかろうか?>

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