Thursday, November 26, 2009

B名詞と動詞 10、「信じる」ことと「理解する」ことの狭間で<想定内、想定外>

 その答えはこうである。全てが想定内であるなら決心や行為は意味をなさない。棋士が対局相手の次の一手を想定して打つ時、その一手に対して自分の想定内の手で打ち返してきたら、その棋士は安堵と共に失望をも味わうであろう。全て自己の一手に対して想定内では対局相手が返しては来ないというところにこそ(勿論全て想定外であったら、それはそれで勝負にはならないであろうけれど)不安や恐れや緊張と共に勝負すること自体への期待感やスリルを味わいたいという願望が存在し得るのだ。
 未来予持は本質的に可能性への信頼が創出する。想定することは可能性を理解することであり、ある特定の可能性を信じることは他の可能性を理解することはあっても信じることに直結させることを断念することであり、その想定を判断材料としては除外することである。それが決心をさせ、行為へと赴かせるのだ。だから未来予持の時に我々は想起を喚起させるのだ。それは未来における我々の行為のもたらす結果を想定することから引き起される過去データ(記憶事項)の検索行為である。(成功体験に関する記憶が行為に対する自信を齎すと脳科学では考えられている。)そしてある行為に及んでも行為しながらでも我々は常に反省や想像をする。あのマラソンの高橋尚子がマラソン走行中に時々後ろを振り返って他の走者の位置と動きを察知しようとすることも又、未来の可能性の信頼に纏わる不安(追い抜かれるのではないか?)と、意外と他の走者を引き離したことにおいて持つ安堵感(もうここまで来れば大丈夫だ。)が交差するのだ。
 だから想起の本質とは未来予持の中で過去と現在を結び付けて過去データの解釈、分析を通して決心へと至る反芻行為である。
 するとこうなる。反省の中でなされる想起はそれを糧に未来の想像を得る為に必要な検索行為なのである。そして想起は未来へと開かれた地平の中で過去を役立てる行為以外の何物でもない。「あの時はこうだったな。では今度はこうしよう。」とか「あの時はあんなに巧く行った。今度もああいう風にやろう。」とかである。
 そしてそれは未来への理解に他ならない。すると「今際の際」の人間が想起することとはあくまで断念であり、自己の生全体の定義付けをも超えた最期の「信じる」こと、つまり自己の軌跡に対する証人としての確かな自覚である。「俺は生きた。」という実感である。だがそれ以外の「信じる」は「疑う」(そうではない可能性、つまり否定の可能性を信じることである。)ことの否定、消去という決心によって成立している。「理解する」ことが左脳的論理分析と溜飲を下げることの反復であるなら、「信じる」ことは右脳的な感嘆(「やった!」、「終わった!」とかの)である。それは過去に対する断念であるよりは現在のとりわけ行為や思念への断念、成就による安堵の溜息である。そしてここで又反省が生じる。
 反省は<未来を「信じる」こと>から為される。死を前にした人間の想起は反省ではない。それはあくまでも過去を「信じる」こと<自己の人生という事実の軌跡の証人としての感慨>以外の何物でもない。死を目前とした者の過去想起は恐らく「私は(俺は、僕は)間違いなくこの世に生まれ人生を生きた。」という事実認定とそれに付帯する感嘆の思念以外の何物でもないであろう。それは「信じる」ことをさえ超えた絶対的な意識である。
 生が未来を「信じる」可能性に満ちていれば、我々は想定内(ハレ)の中での想定外(ケ)の出来事(ポジティヴ、ネガティヴ両面の)の可能性への信頼が醸成する不安と期待の混成状態(それがまさに未来予持であるのだが)が、反省と想起と想像(未来における想定し得る可能性の理解)の綯い交ぜの状態である、と「理解する」ことが出来る。
我々は未来を、それが自らの生が存続する限り必ずやって来るものである、と「信じている」が、それがどのようなものであるかの細かい事項までは、それを想定すること(想像し、こうであろうと設定すること)しか出来ない。棋士は対局相手の次の一手を予想は出来るが、あらゆる選択肢の内のどれを対局相手が指して来るかは不確実である。だがそれが必ず的中するとしたら逆に将棋を辞めたくなるかも知れない。市場や株の動向が手に取るように解って未来が的中したとしても100%的中しないからこそ実業家たちは事業を行い、勝負師(博徒、スポーツマン、格闘家etc.)たちは自らの勝負へ臨む。それは未来の様相が想像する想定の範囲内で理解出来るが、それはあくまで想定であり、確定的な事態ではない。未来は現在において常に不安と期待を生む。

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