Friday, November 6, 2009

D言語、行為、選択/12、弁証法

 しここで我々はある重要な考察的分岐点にさしかかった。というのも赤い林檎というものは物体であり、その描写をあなたがしても、それをあなたが食べる仕種をあなたをよく知っている人間なら尚更イメージが湧く。そうでなくてもあなたが昨日食べた林檎の話をしているのを聴く全ての人はあなたの話す表情から林檎を食べる姿をイメージできる。その際イメージは林檎そのものよりもあなたが林檎を食べる姿へと焦点を移す。しかしあなたが話す林檎のことが念頭にあるから我々は林檎のイメージもより明確に連想することは可能だ。では柳田國男が「遠野物語」で描出した民話世界はどうなるのだろう?民話は民間伝承的世界であり、我々の祖先が培ってきた事実やら事実を基にした創作の世界であり、親から子へ、子からその子へと語り伝えられてきた伝承なのだから、それを各地から拾い集めてきた当の柳田にとっても実際目にした光景ではないし、地方のお年寄りから聞いた話を自分なりのイメージ像をもって構成したものである。そこで連想されるものは、物語であり、登場する多くの道具立ても、実際東北の生活に密着した工芸品の研究家でもない限り、限りなくイメージできるものは常套的なものに限られる。例えば今村昇平の映画「楢山節考」のような映画のイメージとか、既成の創作物を手掛かりにするしか方策がなくなってくる。幕末の日本の情景を思い描くのに、司馬遼太郎の小説世界を連想するとかいったことである。名詞、つまり事物とそれらをあくまで一道具立てとして進行する物語的との連想の差は大きい。より常套性を多く含み得るのは物語の方であろう。事物なら具体的イメージはより限定された概念規定(伝達の際の形容の仕方、伝え方等)次第ではかなり具象性を帯びる。しかし民話世界となるとそのイメージ像はかなりの振幅が個人間に生じる。我々はその際個人的な経験(見聞きした)を頼りにするしかないこととなるからだ。その人間の知的文化的歴史的教養、知識の差も当然大きく作用する。このようなある種の知的な教養レヴェルの連想と修飾方法による連想とは自ずと異なった次元の問題であるし、動きのある連想(行為や事件の連想)と一事物に焦点を当てた連想も異なっている。前者は知識と想像力の問題、後者は名詞だから動詞の問題の差異が横たわっている。
 この二つの問題には明らかに弁証法的認識と知覚、及び知覚記憶の問題が含まれている。最初の方で論じた次のことを思い出してほしい。
<我々は言語的範疇における可能条件はただ単に言語の可能性であるのにもかかわらず、言語の可能性こそが現実に起こり得る可能性であり、逆に一見簡単に起こりそうなことであっても、言語によってそれが論理展開せず、立証できぬものは可能性のないものである、という論理と倫理を受け入れて、あるいは選択して生きてきているのだ、と(我々は錯視というものが多数あることを知っているが、これなども後者の典型である。)>
 言語はその表現を通して実相的イメージ像を創出することで概念から個々の抱く意味的世界へと橋渡しする。我々はある話者やある著者が、あるメール発信者が描写する概念規定行為(パロール、エクリチュール双方)、イメージ像伝達行為、において形容、修飾、話法、語調等(後者二つは話主のみ)を手掛かりにそのあらゆる描出された部分を綜合して世界像を自ら想像力を総動員し、駆使して作り出す。そこではじめて概念や伝達行為は意味になる。その際上の文章をもう一度考えてみると、我々はイメージ像を創出することを言語習得の臨界期を過ぎた時点で極自然に執り行なっていることとなる。しかし言語学習の然るべき時期さえ持てば我々は先験的に具わっているFOXP2遺伝子が発現してそこに文法(これが所謂論理的思考の発端となっていると思われる。)を通して不在の事物、事象を再現前化して(フッサール「イデーン」及び斎藤慶典「フッサール起源への哲学」参照されたし。)あらゆるシーンをそれが実際にあったことも、そうでない創作であってもあたかもそこに現前するかの如く描出しようとするのである。それは選択して生きているといっても殆んどイメージ像創出の本能的といっても良い作用である。言語の可能性が起こり得る可能性であるということは言語の持つ基本的論理構造<主語+述語>の修飾の中に潜むイメージ像限定S+V+O+OorCの文法の基本的構造(英語で例証する方が語順による混乱がなくわかりやすいのでそうする。)に沿った世界像描出の基本的方法によって我々をそれを語る人も聴く人も同じ状況下で再現前化のチャンス<場>を創出しているわけである。では意識的と無意識的(概念は集団の無意識的な同意であるとも思われる。ここからは社会心理学、言語社会学の領域である。)の差異はどこにあるのか、というと、つまり意志的伝達意欲に支えられた発話行為と本能的世界像描出との違いは意図的であるか、無意識の真意吐露の違いでしかないのではないか?というのがこれに関しては私の結論であるが、すると我々は今ここで選択が本能的であるということと、意図的であることの差異を見出すことにおいてさえ、非常なる困難を見出すこととなるのである。
 しかし捉えることは可能かも知れない。というのは付随意運動たる身体生理学的な変化、胸腺の在り方とか大脳と連結している軸策の在り方とかはDNAレヴェルの決定性、付随意な選択である。それは行動的な本能でもない。生きている限り(勿論健全なる発達を促進する行動がなければ発現しないが)、個体が当然の如くその生の過程において発する作用である。しかし意識にせよ無意識にせよ、フロイトの「夢判断」で語られているように、我々は無意識にでも言語的に思考しているのである。つまり歪曲や検閲、抑圧、翻訳、移動などにおいて明らかに言語的深層における思惟を施している。そこでは明らかに概念規定、判断を履行しているわけである。してみると我々は意識、無意識をFOXP2遺伝子の発現を気がつかぬ内に立て続けに執り行なっているわけである。それらは紛れもなく言語的選択である。つまりそれらは言語的である限り半随意運動である。ひょっとすると我々は前者の身体生理と後者の言語的概念規定と判断を何処かで連動させて生を成立させているのかも知れない。しかし少なくとも我々は意図的であることが無意識の内から選択している可能性と、無意識であるにもかかわらず意図的であるかのような選択をほどこしているわけだから、とどのつまりそれらは結果論的判断であるに過ぎまい、ということとなる。ある行為についての過去形による言辞は、例えば親友が家に泊まっていった、とかの場合明らかに泊まった事実が先行しており、親友が、の後に続く色々の選択肢はくしゃみをした、とかコーヒーを飲んだとか、色々の項目から選んで入るものの、意思的には泊まった事実をのみ示すことは予め決定されている。迷わずにスーパー入っていって切れたマヨネーズや砂糖を買うべくそれが置いてあるコーナーへ直行するようなものである。しかし表現に困っている、逡巡している場合我々は明らかに注意深く選択している。つまり泊まった事実をのみ最初から明示すべく発話する時我々は明らかに泊まる、という動詞を予め選択してから発話している。しかし親友である彼の性格を描写するように、彼について知りたい、と他者から要求された場合、その表現にとまどい、あまりにも日常的な存在である親友を他者へ紹介する為の形容行為に遂、臆するということは充分あり得ることである。この場合慎重にも慎重ならざるを得ず、我々は発話しながら語彙を選択しているのである。
 そこで本論においてことに重要と思われることは、その臆する、逡巡するということこそ何らかのエネルギーを要求される自覚的行為であるとは言えまいか、ということなのである。勿論一生そういう状態であるのは好ましくない。しかし一生ただ闇雲に思うがままに実践し得る人間など一人としていない。そもそも時として反省するということこそ、我々が実践している思惟レヴェルの最低限の逡巡であるとさえ言える。ヘーゲルは思うがままに実践する人を寧ろ他律的な人生であり、自由ではないと言っているが、それはカントも言っていることである。真の自由とはなかなかに自律たるための面倒くさい手続きが必要とされるのである。その意味では躊躇や逡巡こそ創造的行為へのシーニュとも言えるのである。我々の身体はその生理学的システムからして様々の抑制系の作用を有しており、それらが理性や様々の精神作用にも大きく影響していることはほぼ間違いあるまい、と思われる。大脳神経の抑制系タイプ2、メチル化、リーリン遺伝子、HLA抗原遺伝子(免疫系)、ソマトスタチン(成長抑制ホルモン抑制因子であるポリペプチド)血液蛋白質中の不活型他等が考えられる。柳田國男の編纂した民間伝承世界は我々自身の殆んど先験的とも言える弁証法によって見たこともない、聞いたこともないはずの民話物語を常に懐かしいものとして感じさせる。これなどはまさにユダヤ教的戒律のなかった我が国の唯一の人間の性悪的事実を子孫への語り継ぎという形で民俗戒律的作用を果たしてもいるのではないか、とも思われる。我々自身の民族的DNAが初めて聴いた話でもいつか聴いたことがあるようなデ・ジャ・ヴュを蘇らせる。それはとどのつまり我々自身が何処かで、抑制系の身体生理学的作用を発現させるべく、無意識の内に体内調節しているのではないだろうか?何かを決断する時、それはちょっとした日常の中のどんな非日常であってもよいが、我々はこれらの抑制系の力を借りて理性という名の防波堤を構築し、躊躇や逡巡を通して思惟や、もっと即断のシステムにおいても認識力や判断力を促進しているものと考えられる。
 決断は寧ろ放電であり、死である。しかし躊躇や戸惑い、逡巡や懊悩こそ、我々の生のエネルギーを充電させるべく体内秩序をたてなおすべく温存とエネルギー留保の建設的システムである。他者は「早く決めちまえよ。」というかも知れない。しかしそれは社会機能上の都合によってそう言っているに過ぎない。我々自身の都合から言えば、失敗することを恐れて逡巡するのは、棒高跳びの選手がなかなかスタートを切らずに助走の仕方をあれこれ考えるのと同じで当然の要求なのだ。だからいざと言う時、的確に即断の出来る人間とは寧ろ普段から躊躇しながら(石橋叩きながら)少しずつ歩んでゆこうとするような人間なのである。
 さて我々は柳田國男の「遠野物語」や宮本常一の「忘れられた日本人」等を読むと、前者のおどろおどろしい人間の情念やら、後者の性的放逸に対して、ある種のピューリタニストのように「非倫理的な!」、と排斥するより先に、まず「あり得そうなことだ。」と、そう考えもする。ということは荀子の性悪説を持ち出すまでもなく、我々自身を性悪的なものとして、孟子の性善説よりも幾分現実感をもって認識していることの良い証拠である。人間くさいという謂いの中には明らかに我々人間の中によくいるタイプの俗っぽい、世俗的モラルと非宗教的現世主義を実践している人間のことをさす。間違ってもカント的人間を指しはしない。しかも知覚描写、事物説明描写における対象明示性と違ったある種の物語を先験的に理解できる、それはその時代の風俗や日用工芸品等の知識がなくても容易に想像できるようなある種の弁証法があることを古来より我々の祖先は知っており、だから民話形式で事実や事実から引き出された逸話を語り継いできたのである。この性悪的常習性と弁証法的理解能力こそが神話世界の全てを支えてきた存在者の知の体系である、と言える。我々は民話世界、神話世界の描写において殆んどの個人の持つ地方的不文律の特殊性、慣習的常識の差異を考慮しても尚その総体からすれば大同小異の想像、イメージ像を描くことが出来る。「赤い林檎」はあくまで事物であり、そこからイメージされるものの差異は品種、自身の食習慣やら知覚体験が左右することが大きいから、事物に対する認識は知識(幼児体験が大きく絡んだ)が左右することが大きいということとなる。それに対して動詞や事件性が大部分の物語性は小さい道具立てでは仮にイメージ像に個人差があっても、総体的には大同小異であるという利便性があり、そこに無意識の内に目をつけていた我々の祖先が子孫に宗教的戒律の代わりに巧妙に与え刷り込んできた民族的モラルのDNAではなかろうか?このような言語共同体的行為の選択には明らかに抑制系の身体ホメオスタシスとそれと手を結んだ我々の精神作用がある。

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