Monday, November 30, 2009

D言語、行為、選択 15、生理学的観点から 

 ちょっと観点を変えて考えてみよう。遺伝子はあらゆる我々の生の時間での出来事を想定して、その場その場で対処出来るように判断すべく大脳に指令を与え、その大脳が遺伝子の指令を受けると今度は一人で自立し、自分自身で指令を出す。だから例えばある身体に外界から与えられる刺激に対する反応はほんの少しだけ刺激よりは遅れる。つまり外界からの刺激に対してそれを大脳に伝えその大脳が今度は我々の身体のどの部位、部分であってもそこに刺激に対する反応を感覚として与えるわけだからである。当然の如くそのようなシステム自体は遺伝子の予め作り出したものである。それは寒い、とか熱いとかあるいは痛いとかその都度色々考えられる。我々の神経細胞は充分に興奮すると、電気刺激(スパイク)を軸索に送り込み、更に神経細胞(ニューロン)に反応させる。軸索には通常何本かの側枝というものが枝のようにくっついて広がり、刺激は軸索から側枝に伝わり、更に側枝の側枝へと伝わり(毛細管現象のように)その先にある他のニューロンへと伝えられる。これはあくまで私の考えだが、そのようにある刺激が伝えられるのは、その刺激が与えらた局所に対する刺激を緩和するためかも知れない。しかし実際スパイクの速度が19世紀前半に判明した時意外にもそれまで人類が考えてきた光速よりも遥かに遅い秒速90メートル足らずであったのだ。これは空気中の音速のほぼ三分の一であり、1000分の1秒間に約3ミリ進むことを意味する。さてこの一見凄く早そうでいてそうでもないようなスピードも実際は遺伝子が、刺激に対する鈍磨的な部分を残しておかなければ我々はその感覚の凄まじい感度自体に耐えられなくなる、ということを未然に防止しているという風にも考えられる。我々の身体のこういった一見完璧のようでいて多少のルーズさをも残すような仕組みは感覚的鋭敏さ(外界からの刺激をすぐ認識出来るような戦略)と、それとは逆に感覚的な刺激自体に今度は負けないように巧妙に配慮された一種の予防装置である、とは言えまいか?つまりこういうことである。我々は言語において個人個人固有の歴史を持っている。それは言語習得の状況であるし、外的にそれぞれに異なった環境である。遺伝子はどのような環境下においてもその場その場で対応できるように想定してプログラムしてあるが、実際生という現場では何が起こるかわからない。そういう不確定性が環境のア・プリオリに対して働きかけるア・ポステリオリであり、その両者の相克こそが個体の性格やら個性を決定してゆく。だから必ずといっていいほど発現してゆくような決定的な性向と事後的に決定される性向とが重ね合わさったものが個体の性向、つまり性格とか個性とかである。それで、言語習得における各個人の特殊な状況性が生じさせる固有の意味は決定的ではあるが、やがて学校へ行き、純粋培養的な部分は少しずつ鈍磨して行き、全ての成員に共通する一般化された意味、つまり概念が日常を支配してゆくようになる。(従って芸術家の仕事はその失われた各個人の意味に対する呼び戻し作業、つまり原点とも言える価値の再発見、回帰と言える。)我々は固有の意味に浸っていてはコミュニケーションが成立しない。そこで他者と折り合いをつける形で概念を法的実効性のよすがとして利用する。ところがそれはあくまで会話とか対話とかのコミュニケーションの世界での話しである。実際の各個人の真意は各個人で異なった意味の領域に存する。そこでそれを職業としたり(小さい時から虫を追いかけるのが人一倍好きであった少年が昆虫生物学者になったりとかの)、仕事では実現しなかった場合、趣味となったりつまり生の時間において必ずと言ってよいほどどこかで発現するのである。だが知覚において我々が出会う対象をその都度、未知性におののいていては身が持たないから知覚対象を既知のものとして認識する為に概念的認識(「あっ、何だあれは?なーんだ。ただの赤い林檎じゃないか。」というように)を持つように、我々は概念を意味以外に持つというわけである。カント的に言えば概念とは悟性的なものなのである。あるいは彼の「純粋理性批判」からは弁証的推理の第三種の純粋理性の理想(Ideal)<398>に近いと思う。私は推理と言っているがこのカントの論述は明らかに知覚判断についてのものであると思う。(カントが言う第一種を「前庭」の空間と身体のバランス、同定性、第二種を未知性に関する驚きを鈍磨させる<要するに抑制作用である。>懐疑主義的な本能<「扁桃体」の作用ではなかろうか?>、そして第三種を「大脳基底核」、つまり安定化の作用における概念化と考える。しかし「おやっ、これは何だろう?」という部分は知覚させる「視床」から引き継がれた思考モデルの作用を施す「小脳」が作用と言えまいか?)
概念が魅惑的なのは、それほどの栄養価ではないかも知れないが、「兎に角あそこの店のラーメンは麺も使っている出汁もうまいし、癖になるんだよ。」というようなことと関係があるかも知れない。人類は意味などそっちのけで概念としてのテクストの魅力に取り付かれる動物であるらしい。なぜなら聖書世界やマルクス主義など我々の歴史は書かれた当初の意義などそっちのけで、聖書を始めすべてのテクストをバイブルとしながら、その概念化された安定性に依拠して、それを拠り所に権力を保持したり、人民の統制において利用したりしてきたわけだから。「宗教はアヘンである。」とキリスト教を特に批判したマルクスも彼自身のテクストが多くの理論家を夢中にさせたりした。(神を否定するメカニズムはヘーゲルが、更にマルクス以降ニーチェ、フロイト、ハイデッガー、サルトルらがそれぞれ違ったやり方で神に対する謀反を起こしたのは周知のことである。)
 話を元に戻そう。我々の身体生理上の鋭敏さと鈍感さの相克は、言わば積極的な部分と消極的な部分の組み合わせによって成立している、ということである。この絶妙なバランスこそが我々のコミュニケーションにおいて真意の表明と真意の偽装、隠蔽の双方を同時に表現させるわけである。レヴィナスは他者性の哲学者としてつとに有名だが、彼の一言(「存在の彼方に」116ページより)は秀逸である。「語りえない<語ること>さえ<語られたこと>に委ねられる。」

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