Tuesday, November 17, 2009

B名詞と動詞 9、「信じる」ことと「理解する」こと

 他者の心は空気で読むしか方法はない。感じられるが観察することは出来ない。行動、振舞い(所作、表情を含む。)は観察することは出来るが感じることは出来ない。このことはストローソンが「個体と主語」でも語っている。(132ページより)
 他者信頼がある意志伝達であるなら、他者の表情を信じるべきであるが、逆に他者が偽装していると認知しているのなら信じてはならないが、他者を必要以上に不審に思うことはサルトルが<「他人」は、私が私自身を疑うのでないかぎり、疑われえないであろう。>(「存在と無」上、423ページより)と言っていることからも意志伝達の意図を無視していることとなる。意志伝達するということは少なくとも対話手として相互の意志伝達において表情による示唆を信じることを意味する。何故なら意志伝達しているのに他者の表情による示唆を信じていないと、他者への接し方において自己真意表明を拒否するよりも悪意に満ちており、そういう偽装をすることが社会的意思疎通の人格に関する信頼性を著しく傷つける(損なう)こととなるので、そういったリスクを冒してまで偽装することのメリットは、恐らく意志伝達拒否した方のデメリットよりも遥かに量的に得るものは少ないから我々は通常ビジネス以外では偽装を避けるものである。つまり偽装するくらいなら、意志伝達拒否、つまりその人と会わないことを選択する方が遥かにましなのである(尤もサルトルの謂いは他者存在自体を私が疑うということは私自身の知覚を疑うというデカルト的命題のことを言っているのだが、しかしそれもまた他者存在への基本的信頼に根差しているだろう)。
 「信じる」ことと「理解する」ことは齟齬がある。理解出来ないが信じるということはあり得るか?信じることは出来ないが理解するということはあり得るか?次のような四つのカテゴリーが考えられる。

① 信じて理解する。
② 信じて理解しない。
③ 信じないで理解する。
④ 信じないで理解しない。 

 ①と④、②と③がペアになる。

「信じる」こととは端的に言って「決心する」ことである。
<私が他人のうちにおける対象として、私にあらわれうるためには、私は他人を、主観としてのかぎりにおいてとらえるのでなければならないであろう。けれども他人が対象として私にあらわれるかぎりにおいて、他人にとっての私の対象性は、私にあらわれえないであろう。>(サルトル、「存在と無」上、430ページより)
 他者にとっての私を私が理解出来る、ということは私が他者を理解するということを前提している。よって私は他者を理解することが即ち他者を信じることを前提に成立することが証明される。しかし信じることが常に理解することではないことは上図によっても明らかである。寧ろ信じることは理解を鈍らせる。曇らせる。他者にとっての私を理解出来るということは他者が抱く私を私が許容し得るということを意味するから、当然私は他者を理解すると同時に信じることが必要となる。だが理解し得なくても信じることが出来る場合があり、それは経験に基づくことが多い。
 結論的に言って理解することを通して(積み重ねて)信じることは理性的行為である。そしてもし我々が切に教訓としてそれを必要とするとしたら、我々自身が信じることの意義を切実に認識し得た時と言えよう。論理を飛び越えて信じてしまうことは、それが好結果を得た時にのみ正しい。しかし理解することを通してにせよ結果的に信じることが出来、それが真理であるという自明性の下に認識し得たものを通底したある普遍的な傾向があることも確かである。あるものに対しては信じやすく、別のものに対してはそうでないということ、それは性格遺伝子によるものなのか?そしてそれは経験と共に変化してゆくものなのか?両方であろう。
 しかし理解を飛び越えて信じたものの中には、やがて信じることが不能になるものも多く含まれている。だからと言って理解を飛び越えて信じることの出来る全てをそのようなものとして懐疑の目を向けることが正しいとは言えない。その理解を飛び越して信じてしまうことによる成功例と失敗例の混在こそが、全体の組み換えをその都度我々が必要としていることの根拠である。行為の決断は心的メカニズムとしては「信じて理解する」か、「信じないで理解しない」かという判断が大半であろう。逆に反省、思索(思惟の連鎖)対象である心的作用とは「信じて理解しない」か、「信じないで理解するか」という判断が大半であろう。そしてこの両方の二元論を一元化するものとは、行為と反省を統一する意識である。しかし意識は行為、反省といったその時々での志向的様相によって異なっており、それを同一のもののその時々での変化であるとするものが自己意識、自我である。だから一元化する必要があるか、ないかということは西田的な一元論を求める立場を時代的、心情的に採るか否かに掛かっている。
 一元論であるか、二元論であるかどうかということは哲学そのものの本質そのものには抵触しない、というのが私の取る立場である。そして自我を意識せずに済ます最も有効な手立ては全ての他者、対象(サルトルは他者と対象を峻別したが、敢えて他者を対象の一つとして認識することも可能であろう。)という外部世界に対する観察である。(だから観察にはどこかしら独我論的な趣がある。)しかし自己を他者、対象と等価の対象として認識することは出来ない。よって対自は反省的地平のものとしてのみ有効である自己に対する背進<カント>であり、欺瞞<サルトル>である。即自こそが意志である。対自は自己をどこかしら記号化する。自我は対自によってしか観察され得ないが、哲学的領域としてはある限界がある。ここから先は精神分析の領域である。さもなくば神経学的な進化論生物物理学の領域である。ある意味で対象に意識が向かうことは自己主体の「独我の維持」以外の何物でもない。対象へと向かうということよりも対象を認めるということ、ヘーゲルやホネットが言った承認という形で他者をも含めた対象、そして自己もまたその中の一つであるということを知る為に生はなされるのだ、ということを理解する為ではなく信じる(それは容易に為され得ない)為に理性も経験も知識も総動員されるのだ。それは対象への愛に他ならない。それはまた経験的な理解であり、信仰である。
 理解を飛び越えて得られる「信じる」こととは別対象へと向けられているにもかかわらず等価であるような共通部分(それらは全体としては異なっているにもかかわらず)を同化され得るものとして、そこに真理の光を見ることは、前者と合一され得れば「信じる」ことも「理解する」ことも含有するようなものと根本的原理とも言えるような意味での「知る」、つまり個的意味と普遍的意味の合一した「知る」を認識として得るということであろう。
 人間は個的意味を遊離した普遍的意味(そんなものがあったしてだが)というものを「知る」ことは出来ない。それはあるかも知れないし、実際にはあるであろう。しかしそれはどのような存在者にとっても同様であり、その存在を理解出来るが信じることは出来ない。しかし理解出来ないが信じることが出来、かつそのことで報われることが出来るものは、恐らくどのような存在者にとっても真理であり、理解を積み重ねることによって「信じる」こと以外出来なくなったものと合一されて引き出される根源的(普遍的)真理への水先案内人である。それを人生観と呼んでもいいかも知れない。
 「信じる」こととは、それが瞬時の借り物の全体に対してであれ、長い経験的認識の末に得た真理に対してであれ、それらはおしなべて名詞的思念である。それは静止した構造理解による視覚的表象確認の事後的な意味づけ決定であり、それに対して「理解する」こととは、それがある変化の持続に対する物性的把握(やはり瞬時的たろうと経験的認識の反芻たろうと)であるから、動詞的思念である。それは動的物体機能と現象による視覚的体験会得である。
「信じる」ことは諦める(決心する)ことであり、「理解する」ことは諦めないこと、前者は考えることを辞めることであり、後者は辞めないことである。

 ところで未来志向(予持)は想起を喚起させる。
 想像とは想定される可能性への追認であり、同時に想定外のものが何かないか、ということの模索であり、想定外のものの積極的な排除である。これは待機というものの(待機は決心後にもたらされる。)本質である。短距離走者やマラソンランナーがスタート地点にスタンバイしている時の心理的な感情であり、その時の思念である。だから決心は行動の直前の想像、想起といったもの全てを断念することである。そして決心と連動して起こる行為は何の為になされる、と反省的に言い得るのか?




行為

反省
  未来の志向性 想起しながら想像する。<過去、現在、未来を繋ぐことが想起を契機として顕現される>想起に想  像も利用される
懐疑

決心<反省の断念>

行為

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