Tuesday, November 10, 2009

B名詞と動詞 8-2、時間論としての名詞と動詞

 我々は名詞と動詞を使用する際の心的様相において明らかに異なった二つの、しかしそれは同時に一方が他方を必要としながら相互に連関し合いながら生を、自我を、あるいは認識を形成しているということを知ることが出来る。まず経験というものを考えてみよう。経験は記憶があり、その記憶によって過去像の全てを一括して捉える捉え方なしには成立し得ない。記憶という機能がもしなく、一つ一つの行為が全てその時初めて考えられるような行為であるなら学習ということはおろか自我ということさえも発生し得ないであろう。するとそのような状態での経験は経験としては成立し得ず、ただ本能的な反応であるか、一瞬の覚知でしかない。それがただ単に一瞬の所作ではなく、意味ある行為となるには記憶というものが必要である。記憶は過去に遡るに連れ取捨選択されて必要な事項以外は捨象されてゆくが、捨象されたもの以外の必要な事項とはとどのつまり経験事項として学習形成事項として詠嘆対象事項として記憶を自覚的に構成するものである。しかしそれらは自覚的ではない意味的には捨象された無意識的な記憶に包まれている。それをエピソード記憶と言ってもよいだろう。そしてその意味的には不明瞭な無意識記憶事項たちがファジーなりにも取捨選択され、その時あった事実の意味を構成する重要な要素として個的意味というものを記憶する各個人に固有のニュアンスを付与している。それをクオリアと呼んでもよいが、感覚質的なこと以外にものも当然その無意味なニュアンスには含まれる可能性がある。だから記憶事項は自覚的に語ることが出来る側面と言語化して語り得ない側面の両方から成立している。意味的に名指された記憶の一括的な認識は名詞的であり、それを引き出し想起し、再現前化する時、それらは動詞的である。
 カントは背進という言葉で、サルトルは欺瞞という言葉で言い表わしているが、全体というものはどのように広範囲であってもその時々に一括してこれまで蓄積してきたものという認識において全体を俯瞰する結果認識的な全体把握は名詞的(過去想起的)であり、その結果認識を無効にするような背進と欺瞞性への自覚は動詞的(未来意志的)である。前者が確定的であり、意味づけ作用的であるなら、後者は意味づけ不能性の自覚を持った意味規定性から漏れ出る、溢れ出る非確定的な試行錯誤作用的である。何らかの事実自体に付帯することとしては事実の存在感とか衝撃力とでも言ってもよいかも知れない。
 だから我々は記憶収納に際して名詞的な確定作業を行うとその次の瞬間は既に自覚的な試行錯誤という記憶事項選択(何か行動する時には過去の経験を下にああでもない、こうでもないという思念をする。その次に行動が得られる。)と学習事項発見(過去の経験から現在に引き出すべき何か一番大切なものを探り出そうとする。)を行い、試行錯誤的に知覚と行為の只中を事後的に「体験する」と言えるような生の時間を生きる。だが区切りとして睡眠したり、行為を中断したりして例えばここまで描いてきた絵の全体を俯瞰するように行為してきた軌跡を振り返る。(今現在までは過去の行為の結果はああである、こうである、と確定する、あるいは一番今現在において大切なものを認知、理解する。)この時反省がなされ、反省が終了すると、意識は名詞的、経験綜合的な心的な作用となる。こういった行為と生の時間、忘我、一如の終結は「ここまで歩んできた全体」という区切りの意識であるからどこで区切りを付けるかを設定することはその都度の主観的な思念でしかなされ得ない。集中力の持続も個人差がある。故に背進であり、欺瞞的な行為としてケとしても位置づけられるのだ。だからその結果論的な思念、つまり総括的な意識を打破するのは次の新しい行為であり、ハレである。ここで我々は思念を吹っ切り行為の只中に突入する。我々はこういった行為と中断の連鎖を小さな短い一秒、一分といった行為においても一日、一ヶ月、一年、数年・・・・・という風に長いスパンでも絶えず反復して執り行っているのである。小さなハレ、小さなケ、大きなハレ、大きなケというようなものを絶えず反復していかなければならないのは、生物学的にも常に代謝活動を行い、動的平衡を行う身体生理学的な側面からも自我論的な同一性維持においても人間存在の必然的な姿である。
 今まで述べてきたことを解かりやすくする為に陸上競技の走者を例に考えてみよう。短距離走者にとっての100メートル、200メートルとは、マラソン走者の持つ全ての距離と等価のものである。よって彼らはマラソン走者が20キロくらい走り進んだところでそれまでの20キロを振り返り、その時点での自己の保有する潜在的エネルギーや持久力、後残りの距離を走破する為に今から放出してゆくべきエネルギーを自覚するような意味での反省、未来への予持を同時に行う。それは1メートル走った時点で、20メートル走った時点で、50メートル走った時点で細かく無限分割し得るその時々で意識的に想起(今まで走ってきた)、想像(走り終える)、知覚(今走っている)といった転換が転換を施す思念(未来へと向けられた志向性、未来志向的意志)によって繰り返され、行為の只中において行為を意味づけ、激励する。
「走った」と考える時我々は過去映像的な心的様相を抱き、想起喚起的な心的様相となる。「走り」と考える時我々は事実総括的であり、結果論的、査定結果的、理解完了的である。何かを想起する時、その何かは記憶の層ではある名指しでファイルされている。それを引用しようとする時、書庫に並べた本の背表紙を見て選ぶわけだから、名詞的な思念、名詞的な認識である。しかしそれを取り出し開き中を読み出す時には動詞的な追認、覚知を行う。「動き」、「走り」は概念断言的であり、伝達内容選択済みである。伝達意志決定済みである。記憶事項検索における命名された名辞認知的である。これに対して「動いた」、「走った」は過去映像再生的であり、想起喚起的である。現在進行追従的である。短距離走者もマラソン走者も常に同時的にと言っていい位に交互にこの二つの思念を反復している。「今のこの走りをどうにかしよう、修正せねば」とか「今までここまで走った、後これくらいの距離だ、だから後残されたエネルギーのありったけを押し出そう。」とか考える。前者の例では「走り」は現在進行する行為を常に過去へと追い遣られる事実として事後的に認識している。それに対して「走った」は事後的に想起しているが、それを取り纏めて一括して「走り」全体を思念している。「走った」と動詞的に思念しながら同時にそれを一括した事実、つまり過去規定的に名詞化している。(名詞的認識)逆に前者は「走り」と名詞的に思念しながらも同時にそれを現在進行の行為を位置づけながらも今現在の走っているこの行為を考えている。(動詞的認識)この二つの思念上の総意は名詞化された動詞と動詞化された名詞という対極的な二つの事例が示すところの動詞的な思念と名詞的な思念というものが常に相互に干渉し合いながら同時的に顕在し、かつ共同しあって思念を構成している、と言うことが可能である。
 そして言うまでもないことであるが、動詞化された名詞は抽象名詞の本質的な性質である。(こういった思念が抽象名詞を産出したのであろう。)また名詞化された動詞は名詞節的な思念において名詞節に従属する構成要素なのである。

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