Thursday, November 19, 2009

D言語、行為、選択/14、意味と概念のメカニズム

 ただそのような選択はあくまでかなり積極的な大きな人生自体の意義を左右する決断であるが、我々は日々もっと些細な判断や決断も積み重ねている。それらは意味的(人生の転機というようなものは意味の領域である。)であるよりは概念的なものであり、意味の概念への<仮託>に依拠しており、これらは社会機能維持と共同体的慣習性に自己を委託すべく消極的なるがゆえに逆に自己の共同体内における安泰を保障しもするような行為である。この種の行為は惰性的なる側面も否めないが、かといって始終転機と言って暮らしてゆくわけにもゆかないので、我々は習慣とそこに安住したいと望む保守性も同時に持ち合わせている。<仮託>は自己保身の保守的知恵であり、我々はそこへの安住と逸脱の反復の中に、共同体、とりわけ言語共同体的行動の常套性に日常的には支配されつつも、時々そこから逸脱する自己主体的(それとて共同体機能の中から産出されたものに過ぎない。なぜなら我々は通常母国語でものを考えるのだから。)決心、自己投企的決断によって裏打ちされた行為へと赴いたりする。それは<仮託>の維持、解除、リセットということの反復であると言える。
 <仮託>に比重を置くことの多い日常は、極めて魅力的な概念を産出する。我々が食事する時、中高年なら糖分や塩分を控えめにしようとかの配慮から健康管理を意識した食習慣を持つことが多いが、それは我々が栄養学的な概念に対して、個人個人によって異なる健康食の意味を理解してこそ初めて可能となる。しかしその料理の元々の味とはその料理を生み出した民族の知恵と文化が染み付いた微妙な味加減と言うものがあって、それは文化的な概念である。それは健康管理や栄養価(そもそもの始めは寒い地方の料理はその寒さに耐えるために不可欠なある種の健康管理があったろうけど、それだけでは食習慣にまではならないのであって、やはり味加減が大切であったことだろう。)といった身体生理学的適合性とは矛盾する場合も多々あり得る。(それは生理学的配偶者としての精子と卵子の和合性と人間学的な相性が矛盾するのと同じである。)つまり概念は時として意味よりも一際我々を魅了しもするのであって、概念性にのみ依拠し、意味は後からついてくればいい、という開き直りこそが哲学であり、論理学であるわけである。だが一般的に最も我々の日常に誰でも目にするものたちには概念よりも意味が大きく作用する筈である。父親、母親、ミルク、窓、空、床、畳、膳、テーブル、コップといったものたちは概念よりも先に意味として迫ってくる。しか理想や概念といった語彙は確かにその概念から学習される場合も多い。それらをまず意味から把握する者は凄く早熟な人間である。日常的事物と違ってそれらは明らかに抽象的な概念であり、それらはまず概念把握からスタートすることも多い。それらは一方で社会的な機能や生の哲学を古来より我々が受け継いできた文化論的慣習の財産でもあるわけだから、学習の仕方も実家でより、学校で、教科書で、ということも多い。そもそも抽象的概念は社会機能の中で苦闘してきた先人による創造物であるから、<仮託>そのものの正体と取っ組み合う中で見出されたものだから、見出してゆく過程では個人的な体験性に彩られた意味の顕在も大いにあったろうが、実際上それが数多くの人類上の共有財産となると、本来の意味を失い、社会の共有制、公共性に依拠する部分が大きくなり、やがて<仮託>が幅を利かせ、権力に取り入れられ、常套的な使用され方に落ち着き、また新たな概念の出現を多くの人々によって待ち焦がれられることとなるのである。
 概念の使用、概念を通した政治的統制、権力は常に概念の多用をこととして、政治家,官僚、学者、詩人のいずれもが、それを武器として、概念間の秩序を編み出し、実際は自己の論理である筈なのに、あたかも概念そのものがその正統性を主張するかの如く我々は教育レヴェルからあらゆる概念、福祉、教育、財政とかの論理の大本には全てこの概念が横たわっているが、これを刷り込まれてきている。刷り込まれていることを自覚した時から概念から意味へ回帰する旅が始まる。概念の常套的使用頻度による普及はやがてそれを利用して宗教、革命、戦争(宗教的背景のものが多かったのは、明らかに我々が概念によって多くの宗教的秩序、それによってもたらされる生活スタイル、それを民族的な文化と呼ぶことも出来るが、寧ろ惰性的な創造性の欠如した伝統へと転落しつつある場合も多いと思われるような状態の保全性、保守本能が他者<異なった生活スタイル、つまり結婚、家族の在り方の違いを持った>との邂逅の末理解不能の地点に辿り着いた時我々や我々の祖先はそれを実施してきたのだ。)といった結果を多くもたらしてきているが、それは明らかに意味の多様性の着目を喪失した概念の共有性の虜になった人間の、概念の共有を果たし得ない他者(国家、民族共同体、宗教共同体、言語共同体)との軋轢が生んだ結果である。そもそも国家の存在は、民族の存在は、多種の言語の存在はそれらを引き起こす誘引を既に具えている。概念の使用の魅惑的なことは選挙の度に新しいスローガンや政治用語を流行らせ(あたかも新しい物のように、最近ではマニフェストという言葉がある国で流行ったが)、学者達は自分たちだけの狭い専門家集団という名のコミュニティーを作ってそういう人たちばかりではないが、概して狭い世界に閉じこもっているのである。国家やある共同体の戦争やテロといった行為の選択には明らかに言語活動における深化よりも言語活動によって概念の一律的な意味の共有化における踏み絵的な作用(他の意味には使用してはならないという)の末になされている、と言わねばならないだろう。それはある意味では概念の使用をめぐる悲劇的なる不動点に落着した、ということである。(ハインリッヒの法則を持ち出してもいいだろう。あらゆるカタストロフィーはこういうことである。)

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