Sunday, November 1, 2009

A言語のメカニズム C、哲学者と言語 12、カントの哲学的推移と言辞に見られる恣意性の問題

 そういう現実は多くの哲学者たちによって論究されてきた。例えばカントはある意味では無意識の言語論者であったとも考えられるが、三大批判書における最初の大著「純粋理性批判」はある意味では意気込んで、相当の野心を持って臨んだ感があるが、後の「実践理性批判」や「判断力批判」は、勿論「純・批」による恩恵もさることながら、本当はこちらの方を書きたいが為に「純・批」を書いたのではないか、とさえ思われるほど、人間カントは表出されているように思われる。「実・批」は道徳啓蒙の書だし、「判・批」は殆んど社会学的認識論の書である。こういった順序がもし逆であったとしたら、実際はどうであったであろうか?先に示した三段階は極めてこのカントの歩みを考察する上でも示唆的である。目的論的言語行為としての文化コードが必当然的(フッサール的言語)であるとしたら、「純・批」こそ極めて明確に文化コードが前提されている。
 時間や空間、自由、物自体、理性、悟性その他諸々の概念は極めてそれ以前の、具体的に言えばホッブス、ベイコン、デカルト、ライプニッツ、ロック、バークリー、ヒュームといった先達に対しての受け答えという意識も充分にあるし、哲学の殿堂に寄与しようという気概のテーマ選択である。しかし「実・批」以降の著作では徐々に自己措定概念への無条件の信奉からも離脱し、自己の確立した理念への再考と修正と別の視点からのアプローチという意識が芽生え始め、そこには手段化されつつある現実の会話、対話の在り方に疑念を持ち、すなわち哲学することを我々自身が経験するように、自己哲学の常套的在り方そのものに懐疑を向け始めるのである。勿論「純・批」自体が「プロレゴゴメナ」執筆後、大きく修正されてゆくこともそのこと自体を物語っているが、もっと後のニ批判書では「純・批」にはなかった具体的概念、社会学的概念が多く登場し、認識方法もより具体性を帯び始める。しかも「純・批」では一作にすべてが凝縮されていて散漫な印象を拭い切れない部分も、例えば自由に関しては「実・批」がより具体的で深く追求されているし、知覚その他の日常的行為については「判・批」においてより具体的で、深い洞察となっており、修正というよりも個々の事例の豊富さから言っても格段の前進である。そこでは明らかに最初の大著に対する世間的注目に対する自己の不本意と自己自身の目的意識そのものの手段化に対する懸念を表面化させたスタンスが明確に読み取れる。
 具体的に示せば、「判・批」においては他者認識が極めて明確になっていることである。これは「純・批」には不明確であり、「実・批」ではかなり追求されている。しかし「実・批」は道徳的法則を盾にして倫理性自体の究明に大半のエネルギーが注がれていることから他者に対する哲学的洞察はどこか付随的な感も拭えない。その点「判・批」においては、他者への眼差しが俄然傾注の度を極め他者と共同体倫理における自己の在り方と自我の行方に焦点が当てられている。しかもこれが後の晩年の著作の基本ともなってゆくのである。
 前節で触れた初対面の人に対する防衛的偽装はカントの言う判断力の範疇の出来事である。このような視点は「純・批」には抽象的にしか語られない。あるいはその後で触れた売買の自由もカントの時代では今ほどではなかったにせよ、かなりな程度で実現されつつあったし、そのような自己責任は哲学的問いの中にも沸々と感じられる。
 再び前節の太った客が大量に一時に注文する例で見てみよう。もし仮にマスターがその本人に対して「あまり一時に食べ過ぎない方がいいですよ。」と言ったとする。その時そのマスターは人間学的には思いやりのある正しい行為をしたことになるかも知れないが、自由経済社会の原則に照らし合わせると必ずしも正しい行為をしたとは言えない。(自由経済、消費社会に一翼を担うビジネスマンとしては失格であろう。)カントの哲学では偽装すること、偽証することは全的に許されるものではないから、たとえ相手が犯罪者であっても嘘をつくことは許されない故に、前者の態度を潔しとしたことであろう。その意味ではカントは近代の哲学の転換点に位置してはいるものの、神に対する不敬を極端に戒めるような行為の奨励を施していることになる。(「実践理性批判」)(実際ニュートンも同様の立場にいたと言える。)それに対してカントよりも24年後に生を受けたベンサムは違っていた。彼なら後者の経済社会的行為の実践を功利主義的な観点から推進したことであろう。
 しかしカントに関して興味深いのは彼は自説を後に翻すようなことは極力慎んでいたものの、実際上は「純・批」で落ちこぼれた指摘に関して「実・批」で補修し、そこで取りこぼれたことに関しては「判・批」で考察していることである。しかもそこにおいては自説を撤回することこそないものの、やはり自分では行き過ぎていたと前作への反省を込めて「実・批」ではそれ程多くは語られなかった他者に対する視線とか他者と共有し得る共通価値とかの概念を前面に出していることである。それは自己の信念に忠実にあれ、と説くカント自身が他者の目だって無視するものではないよ、と別の角度から論点を再考していることの証拠である。「実・批」では自由の概念の拡張に性急のあまり、道徳的法則における定言命法的視点に依拠し過ぎた傾向を補正し、共同体理論とも言うべき後にソシュール等によって恣意性という概念がクローズアップされるが、そういったことまでも早くも予感させることすら述べているのである。
 この種の方向転換的論理秩序構成的戦略は後世への配慮であると同時に自己哲学の常套的理解において少なくとも曲解を恐れた曰く順当な判断であったと言えよう。バランス補正的修正主義は目的であったものの手段への転落(自己理論の曲解によって実現されてしまう)への回避という意識であったことであろう。
 実はここでも哲学者が自己の作品世界たる論文を通して、ある言辞が別のある言辞と抱き合わせであるか否かという事実一つで右にも左にも解釈し得るという事態を証明しているのである。カントが「実・批」以降「判・批」のような他者性、共同体性についての論究を持たなければ、彼の自由という概念、道徳法則という概念は必要以上に切迫した息の詰まるものと解釈されていたかも知れない。ここでもまたカントを通して我々は言辞一つの在り方さえもが恣意性によって大きく左右されていることを発見し得るのである。これはもう殆んど言語行為にまつわる真理と言ってもよい。
 しかしここで矛盾しているではないか、という声が聞こえてきそうである。どのような事態があろうともある言辞の持つ意味自体は、それはそれで変らないのではないか、という疑問である。それはそうである。しかし個別的意味は大きくその言辞をもたらした哲学者の全体像から言えば他の言辞がどういうものであったか、という「相対評価」によって大きく意味を変えてゆく。哲学者の「人生」におけるその言辞の意味は、それ自体にまつわる個別的な意味を彼の全人生においては概念に変える。そこで彼の個別的言辞の意味が全人生における全言辞の中の概念と化すという事態が我々に「言辞自体の相対性からの認識の必要性」をもたらす。
 
 今日哲学における積年の経験論と合理論の論争の様相に相同のものは他の多くの分野でも垣間見られる。例えば物理学がそうである。生命的起源とその発生を巡って、この分野では生命的秩序が偶然であるか、必然であるかという設問は未だ解決を見ていないと言う。
 地球の歴史を地質学、気象学、地球物理学的見地から俯瞰してみると、氷河時代があったとされる。するとその氷河が溶けて今度は熱帯時代へと突入する。しかしまた今度は氷河時代へと逆戻りそういった振り子現象を繰り返し、やがてそのどちらとも言えない地点に落ち着いていく。不動点として定着したのが現在の気候、気象状況であるとしよう。するとその振り子現象をもたらした何らかの原因が考えられる。そのような振り子現象は前にもあったかも知れない。しかしその振り子現象自体を誘引する原因は、恐らく周期的にやってくる同一の原因などではなく、その都度の全くの偶然的要素が大きいのではないか?すると我々は我々自身をも含めたすべての生命体の存在を引き起こした原因をも偶然と捉える方がより自然ではなかろうか?もし全てが必然であるとしたら、寧ろ我々は我々自身の過去も未来も全て見通せることとなりはしまいか?しかし我々は他者の心を見通せないし、次の行動を予測も出来ない。(ある時は自己の行為さえもが予測不能である。)すべての他者の行動は予測の範囲内であってもいざそれが起きてみると、予想外の偶然的要素は大きい。他者の死も同様である。勿論自己の死も。

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