Friday, November 27, 2009

C翻弄論 7、脆弱な「個」への見つめ方

 脆弱な「個」は諸刃の剣である。そういう振幅は時代毎にいい面、悪い面において群集心理に寄掛って表面化してゆくであろう。
 しかし言語活動が風化することはない、と「個」がその頑なさから解放されたいと叫ぶもう一つの「個」の実像であるのだ。クリプキが言うプラス以外のクワスを選択しないで済む世間一般に通用する常識もまたクワス以外のあらゆるスラス、ツラス、ムラスといった仮想性を一方で可能性として保持しつつ我々は私の見た「赤い」と感じた「赤かった」という事実確認的陳述が共通の「赤いものであること」という幻想において、これからも意思疎通されてゆくであろう。強固に主体的な選択決定意志を持ちつつ同時に自己と他者の共通性にも常に配慮してゆかねばならない。我々は偶像を仕立て上げる誘惑を持ちながら自助努力しながら他者への労わりと励ましの心を忘れずに社会に投企し前進し続けねばならない。
 そうする中で脆弱な「個」でありながら、価値ある生の「かたち」を我々は個々に現出させ、それを再び社会へと還元すべく意思疎通を図ってゆくことであろう。そこにはありとあらゆる生の中での決心の多層性、選択可能性が待ち受けている。因果の認識も一つの糧であり、過去の目的行為の手段化、未来への素材化の過程で我々は現在生を生きつつあることが、実は常に最優先の課題であり、目的であり、この現在の行為それ自体が目的であるという認識を持ち続ければ尚、目的行為のクレオパトラの鼻となり、未来への眺望に思いを馳せる時、明るい慈愛の光に満たされるのではなかろうか?
 あらゆる否定的ニュアンスとして自虐的に語られてきた我々の民族的特質は実はいつの時代でも、どの民族でも持ち合わせていることは明白である。(文化人はスノビスティックに否定する傾向がある。)
 ドグマを取り除くことも、問い直し、そのドグマを抱いたこと自体を真摯に受けとめることも哲学の大切な行為である。我々は一見誘動されているように思われる時でも歴然と自ら主体的に選択していることに自覚的とならなければならないであろう。そうする時選択性認識というものは有効かつ強力な仕方である。

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